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王子様へ
岩場に人魚がやってくるらしい−−−。
雫や碇が一発で食いつきそうな、メルヘンチックな噂だった。
「きっと綺麗なんだろうなぁ」
「女性読者に受けそうよねぇ」
ホテルのラウンジで語らう二人を横目に、シュライン・エマは引きつった笑顔を見せた。
三人は島と本土を繋ぐ定期便を待っていた。それに乗って東京へ戻るのである。それぞれは楽しかったバカンスの内容を話し合っていた。
「そうね……」
シュラインの脳裏に、先日の出来事が色鮮やかに甦った。思い出したくもない記憶だった。
×
夕日。海岸。砂浜。潮騒。足跡。貝殻。波音。
それぞれを楽しみながら、シュラインは海岸沿いを歩いていた。一歩前には草間の背中が見える。半そでのシャツから伸びる腕が、心なしか日焼けをしていた。都会で事務所に引きこもっている時とは違い、健康的だ。日焼けをした草間を見、そろそろこの島ともお別れなのか、と共にした時間の長さを思う。
「……武彦さん」
「ん?」
振り向かず答える。
「結構楽しめたわよね、この島も」
「新婚旅行はここにするか?」
シュラインは軍服姿の幽霊や、この島にまつわる血なまぐさい歴史を考えた。そして頭を左右に振る。
「残念だ」
振り向かないので、草間の表情はわからない。が、きっと苦笑しているに違いない。それぐらいはわかる。
「きゃあああっ!!!」
「何!?」
鋭敏な聴覚を小さな悲鳴が貫いた。少女の物なのに音量はとても小さい。波音にかき消されるほどだ。
「あ?」
やっと草間が振り向く。シュラインは草間を通りすぎ、前方にある岩場へ走った。悲鳴の音源へ向かう。
「バカバカバカっ!!! 私は美味しくないよぉぉっ!!」
砂浜の奥に黒々とした岩が連なる場所があった。岩は苔や小さな魚の宿代わりになるらしい。岩と岩の間に、海水が水溜りのように溜まっていた。
「誰? どうしたの?」
ひときわ大きな水溜りで、シュラインは問う。岩が滑りやすく、走ることが出来ない。と、巨大なカモメが岩場に止まっていた。
「助けて!!」
カモメが−−−いや、カモメの足に押さえ込まれた人魚が叫ぶ。シュラインに気づき、カモメは白い翼を広げて夕日で染まった空へ消えた。
「……人……魚?」
岩場にぐったりと倒れ、胸を上下させている。長い闇色の髪が小さな上半身を隠していた。銀色に輝く鱗に覆われた下半身が、ぴくっと動いた。
やっと人魚が起き上がる。
人魚は小さかった。
シュラインの手に乗りそうなサイズだ。
「ああ。びっくりした」
ほっとため息を漏らす。
「シュライン? どうした」
追いかけてきた草間。その草間を見た瞬間、人魚の瞳が輝いた。
「王子様! 私を助けてくださったんですね!!!」
人間より鋭角的な耳が嬉しそうに動く。立派な尾びれをバネにして、人魚は草間に飛びついた。
「これぞ運命、これこそ宿命! いいえ、何もおっしゃらないで。確かに異種族間の恋愛は困難。けれど私達には、何よりも強い武器がございます。そう、愛と言うなの矢が、深く深く私の心に……」
掌サイズの人魚は、うっとりとあさっての方向を見つめる。完璧に自分に酔っている。
「なんだ、これ」
「私が聞きたいぐらいよ」
「……あら」
意地悪っぽく命の恩人のシュラインを見つめる。
「なんだ、唾付きかよ」
悔しそうに指を鳴らした。上品そうな美貌に似合わない仕草である。
「前に会った人魚と随分違うわね」
胸元に輝く泪石を摘んだ。
「ねー貴方達人間って種族でしょ?」
「ああ」
「いい男紹介してくれない?」
単刀直入な願いに、二人は閉口した。
「人魚の憧れは人間と熱い恋をすることなの。人魚姫とか聞くでしょ」
「ここは女同士、仲良くやれよ」
草間がシュラインの肩を叩く。
「え……いい男ねぇ……」
アルバイト先では様々な男性と顔を合わせる。悪くない外見の者もいるが、性格に難がある変人も多い。変な男性を紹介し、責任を取らされるのも困る。
「そういや、三下って魚好きだったな」
「でも、煮魚とか焼き魚が好きなのよ」
恋人を紹介するはずが、食事になっては仕方がない。別意味で美味しく頂かれれば本望だろうが。
「どんな人が好みなの?」
「顔がカッコ良くて、背が高くて、優しくて強い人! それで、ちょっとヤキモチ焼きでぇ、モテルんだけど私以外には目もくれない人かな」
抽象的かつ厳しい条件である。
「紹介してったらぁ!」
「ユノ!!」
突然、誰かの野太い声が響いた。
海全体を揺るがすような大音響だ。
シュラインと草間は耳を押さえる。
「大変、逃げなくちゃ」
草間の手の中で人魚が言う。つぶらな瞳で祈るように草間の顔を見上げた。
「とりあえず逃げましょう。声からして大きい生き物みたいだし、私と武彦さんじゃ戦えやしないわ」
人魚をそっと抱き、二人はホテルに戻った。
後ろ髪を引くような呼び声は何時までも何時までも続いた。
×
「なんだったの、あの声は?」
ホテルに戻り、シュラインはワイン用のバケットで一休みしている人魚に聞いた。人魚は草間が汲んできた海水を指先でぴっと飛ばす。
「敵」
海色の瞳を伏せ、人魚が呟く。か細い声だった。
シャワーを浴びたばかりのシュラインは、黒髪から滑る水滴をタオルで包む。バスローブの帯を結びながら、ベッドに座った。
夕食まではまだ時間がある。草間も自室に戻ってシャワーを浴びているはずだ。今日は一日島の散歩をしたから、体中汗でべとついていた。
張り詰めた人魚の横顔を見、ただならぬ雰囲気を読み取った。
「だから、私を守ってくれるような王子様が必要なの」
小さな肩を抱きしめ、それきり人魚は何も言わなかった。
「武彦さんは王子様って柄じゃないしねぇ」
あんなしみったれた守銭奴の王子はいやだ。しかもあの顔で白いタイツを履かれるのもいやだ。
……一応、好きなのよね、私。
自分に確認してしまう。
部屋に備え付けのドライヤーに手を伸ばし、電源を入れる。温度調節が出来ないタイプのものだった。家から持参しようかとも考えたのだが、荷物が重くなるのでやめたのだ。
ぴちゃん。
ドライヤーのモーター音にまぎれ、水滴が落ちる音がした。
バケットを見るが、人魚ではないようだ。
髪を乾かしながら、当たりに視線を投げる。
確実に水音が近づいてきていた。
ぬめったモノが体を引きずりながら、こちらに来る。廊下をゆっくりと歩み、シュラインの部屋の前で動きを止めた。
誰かがじっとドアを見ている。
ドアを通じて突き刺すような視線を感じた。
「……誰?」
怪訝そうに眉を寄せ、立ち上がる。
「ユノ……」
詰まった排水溝に水と空気が流れ込み、ごぼっと音がする。その音に似た声質だった。
バケットの中から人魚が身を乗り出す。
「そんな、ここまで追いかけてくるなんて……」
「敵?」
「うん!」
ここで襲われたらどうする。
シュラインは考える。自分は戦う術を持たないし、小さな人魚にも期待できない。隣の部屋の草間を呼びに行くことは出来ない。ホテルの内線専用電話の近くに置いた、携帯電話を掴む。
「……なんで出ないの!」
空しくコール音だけが繰り返される。草間が出ない。
草間も戦闘向きではないが、女二人(一人と一匹?)よりはずっとましだろう。
「いざって時に役に立たないんだから!」
その声と同時に部屋のドアが破られた。蝶番など無視して、真横に割れる。割れた隙間から水が大量に流れ込んできた。
「きゃっ……」
叫ぶ間もなく、空気の変わりに水が肺を満たす。水を吐き出そうと反射的に咳き込むが、いくら息をしても水−−−いや、海水しか入ってこない。
部屋に海水が溢れていた。
……息が……。
口元から細かい泡つぶが漏れる。海水は目を開けていられないほど激しい流れを作っていた。流れにさらわれ、体の自由が利かない。
「落ち着いて、大丈夫だから!」
りん、と頭に人魚の声が響いた。
酸素不足で目の前が真っ暗になる。その中で光のように鳴り響く。
「……大丈夫。息をして。さぁ、目を開いて!」
「あ−−−」
海水のはずなのに、目を開いてもしみない。それどころかゴーグルを着けているようにクリアな視界だ。息苦しさも消えている。
シュラインの隣に、人魚が泳いできた。髪の毛が豊かに海水内に広がり、幻想的な光景だ。流れも弱まっているように感じる。
「ユノ……」
またあの声がする。
人魚はシュラインの後ろに隠れた。
半壊したドアから、ゆっくりと黒い影が入ってくる。影に見えたのは、全身が黒くぬめった鱗で覆われていたからだ。シュラインの倍はありそうな巨大なクラゲが泳いできた。クラゲの触手がこちらに伸びる。
「ユノ……」
「このクラゲ、どうして貴方を呼んでいるの?」
「……許婚だから」
「え?!」
予想外の一言に、シュラインは後ろを見た。人魚は虚空を睨んでいる。
「人魚は人間に恋をすると人間になることができるの。人間になれば、こいつと結婚しなくてすむでしょ」
「だから王子様を……」
人魚は答えない。
シュラインはひたむきに人魚を求める、醜いクラゲを見た。
「こんな所まで迎えに来てくれて。いいクラゲじゃない」
「いやったらいや!! 同じ女ならわかるでしょ、幼馴染と結ばれるのはいやだって」
「愛があれば……」
気づけば陳腐な台詞を口にしたものだ。
「こいつとは物心ついたときから一緒にいたの。そんな人とくっついちゃったら狭いとこでまとまるみたいでいや。狭い世界で生きるのはいや!」
「ユノ……」
クラゲが寂しそうに体をくねらせる。多分、寂しそうにだと思うが。
人魚の王子様条件を思い出す。
『顔がカッコ良くて、背が高くて、優しくて強い人! それで、ちょっとヤキモチ焼きでぇ、モテルんだけど私以外には目もくれない人かな』
クラゲの標準サイズから考えれば、この黒クラゲの背は高い。小高いホテルの屋上近くの部屋にまでやってきたのだから、強い。恋人を追い掛け回しているのだから、ほんのりとヤキモチ焼き。モテルかどうかはよくわからない、顔も微妙だ。というか、どこを顔と呼ぶべきかわからない。
「お似合いだと思うのだけど……」
「ユノ……オレ……嫌い?」
数本の触手をお互いに絡み合わせ、クラゲが泳ぐ。人魚の周りをくるくると。
「そんな情けない顔しないでよ! だからあんたって嫌いなの。男だったら女の意見なんて気にしないでよ!」
「ごめん……」
「落ち着いて、二人とも」
シュラインは二人の間で困ったように微笑んだ。
興信所のお母さんという名は伊達ではない。気に入らないネーミングなのだが。
「二人でもっとゆっくり話し合ったら? 一方的に拒絶したり、一方的に求めたりしないで」
クラゲと人魚が見詰め合う。
「……わかった」
こっくりと人魚が頷く。
「もし、やっぱり人間のほうが良かったら、王子様紹介してね」
優しく伸ばされた触手に抱かれ、人魚は消えていった。
「若いっていいわね」
ふっとシュラインも微笑み−−−。
部屋から海水が消えていった。
×
「シュライン、夕飯に行かないか?」
破れたドアを乗り越えて、草間が部屋には行って来た。
「ええ……そうしようかしら」
海水にぐっしょり濡れたベッド、わかめの張り付いたカーペット。小魚がユニットバスでぴちぴちと跳ねている。それらを呆然と眺めていたのだ。
「どうしたんだ、これ」
「色々あってね……」
部屋全体が潮臭い。
「俺の部屋で眠ればいいとして……高く付きそうだな」
ホテルの備え付け冷蔵庫、テレビ、ドライヤーにいたるまで壊れているだろう。
「……そうよねぇ……」
シュラインは答えることしか出来ない。
「仕事紹介してやるさ。帰ったらな」
「もっとまともな慰め方ってないの?」
「メシでも食いながら相談しようじゃないか。そろそろ美味い海の幸ともお別れだからな」
魚ではなく野菜や肉が食べたい。特に今日は。
そんなことを考えながら、バカンス最終日は暮れていった。
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