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夢か現か幻か〜追われる者〜
Opening 忍び寄る手
「…依頼?」
麗香は片眉を僅かに顰めた。
フレッシュルーム――向かい側にのソファに座るのは久しぶりにやって来た白コートの男。
「ウチは取材はしても個人からの依頼は受けないわ」
肩を竦めてオーバーに両手を広げて見せると女は湯気の立つインスタントコーヒーを手にとって足を組替えた。
「それにアンタなら別に人の手を借りなくたっていいじゃない?」
赤いルージュが引かれた口元から呆れた風に溜息が漏れる。ここんとこ面白い…部数が伸びそうな記事やネタがなく麗香は苛立ちを隠せないでいた。…と云うのも、月刊アトラスのライバル誌、月刊シネマルとの売上高の差が格段に開き始めているからだ。
「まぁ…そうイライラするな。皺が増えるぞ」
掃除屋は云いしな、背をソファへボスンと勢いよく預ける。些か疲れた風に大きく溜息を落した。
「何よ…追い出すわよ。それより、依頼の中身は何? それによってはウチのを何人か出してもいいけど」
『皺』の一言にピクリと眉を動かした女だったが、そこはヤリ手の編集長。押さえるトコはキチッと押さえる。
「…嫌な予感がする。今週末は1人でいるのは何だか危険な気がする」
ポツリ、と男は天井を見つめながら…まるで明日の天気を占うかのような口調で云った。
「は? 何かヤバいことにでも巻き込まれてるわけ?」
「そうでもないが…勘だ、勘」
更に眉間に皺を寄せた麗香の問いに掃除屋は何処か遠い目で天井を見据えたまま応える。
そこへ。
「あー…編集長、今週末、男運が最悪みたいですよ」
相変わらずの能天気さで手にした雑誌に視線を落としながら入ってきたのは三下忠雄だ。
「『出会い系サイトにはご用心』とか書いてあります」
先に云っておくが、この青年には何の悪意もない。ただ、あまりに単純で純粋すぎるだけなのだ。
「…三下クン、それなぁに…?」
麗香はプルプルと拳を震わせながら目も合わさずに三下に声を掛ける…。
「え? 今、噂の『ガーネット占い』…月刊シネマルの」
「タワケッ! 何処にライバル誌の、しかも売上に一役買った占いを読み上げるボケがいるの!!」
イチチチチと暴れる三下の耳を引っ張って麗香は編集部全体に響くような大声で怒鳴る。そしてその拍子で三下の手から噂の月刊シネマルは掃除屋の目の前にバサリと落ちた。
「――『ガーネット占い』?」
「あれ? そーじやさん知らないんですかぁ?」
まだ耳を引っ張られたままの三下は、訝しげに雑誌を手に取る掃除屋に、
「よく当たるって有名なんですよ、その『ガーネット占い』。占い師はガーネット・フォン・ツェルプストさん。そのおかげで月刊シネマルは部数が2倍に膨れ上がったんですから〜」
「…ガーネット…」
掃除屋は徐にその占いのページを捲った。
「掃除屋…アンタ、占いとか迷信は信じないんじゃなかったっけ?」
「まぁな。だが、当たると云われると…」
そう云いながら視線を左右に巡らせた掃除屋が固まった。
**2/27生まれの魚座な貴方
紅い紅い狂った月の下 再び宴に誘われる
それは偶然によるものではなく必然
逃げることなかれ 目の前の人物から目を外すな
時として苦しいこともあるだろう
だが故郷に戻ることは許されぬ
ザクロの木の下で淡い夢を抱くのもいいではないか
草の間の狸達に身を委ねる? それとも猫友達に身を委ねる?
それは貴方次第…貴方の過去を握る『紅』はいつまでも貴方を追いかける
「どうしたの?」
突如、表情を険しくさせた掃除屋に麗香は目の前で手を振って、大丈夫?と尋ねる。
「…すまないが、やはり手を貸してくれ…今週はどうやら鬼ごっこのようだ…」
掃除屋は視線をその記事に釘つけたまま口を開いた。
――逃げ切るか…迎え撃つか…どうする?
Scene-1 迷走する宴
――The End of Beginning......
そんな声がどこからか聞こえて来るような気がして、女は顔を上げた。紫色の艶を帯びた漆黒の髪を優雅に垂らし、しなやかな足取りで真っ赤に焼ける夕暮れを歩く。
今日は……否、あの名前を聞いた瞬間から女――巳主神冴那は妙な苛立ちを隠せないでいた。目を閉じると鮮明に蘇るあの光景。躯全身から滲み出す余裕の中に確実に含まれる残酷な遊び心。沸沸と血が沸き返るような怒りを覚えたことも、そして虚無感に囚われて動けなくなったこともあれが初めての経験だった。脳裏に浮かぶあの笑みと科白が未だに忘れられないでいる。
「仇も…とらないとね」
女は呟くように云った。
林立したビルの隙間から差し込む狂ったような紅い夕焼けは街全体を染め上げる。それに向かうように歩を進める冴那は漆黒の瞳と……金色の瞳で前を見据えた。熱冷めたコンクリートの匂いが風に乗って女の鼻をくすぐる。
「宴が再演されると云うなら……何処まででも付き合って差し上げるわ」
女は妖艶な笑みを口元に称えた。引く気など更々ない。
「ねぇ、お前達もそうでしょう?」
冴那の肩に巻き従う白大蛇はまるで呼応したかのように血のように赤く滴る舌を覗かせた。それに女はクスクスと微笑むと軽く口付けを落として、歩く速度を速めた。
――宴の開始……ね。
Scene-2 『時の間』にて
日が落ちた閑静な町に穏やかな灯火がつく喫茶店『時の間』。冴那はその前までやって来ると、右手の人差し指で小さな円を描いた。すると、女の後を付き従っていた蛇達が溝から壁から顔を覗かし赤い舌を見せて反応する。
「いいわね、お前達。半径100m以内に怪しい人物が入ったらシグナルで私に知らせなさい」
女が低く命令すると蛇達は揃ってその身をくねらせ薄闇へと消えていく。冴那はその後ろ姿を見送ると、視線を『時の間』のドアに戻した。
『Closed』の札が掛かってはいたものの、中から聞こえる陽気な声に、冴那は知らず知らずのうちに口元を緩めるとレトロなそのドアを押しやる。カランカランと乾いた音が冷えた空気に木霊した。
「思ったより賑やかね」
冴那が姿を見せるとカウンター裏にいたこの店のマスター、綾小路・蘭丸<あやのこうじ・らんまる>は、
「遅かったな。どする? アイスコーヒーでいい?」
手早く後ろの棚からグラスを取り出して冷蔵庫を開ける。女は浅く頷くとカウンターに座っていた掃除屋ことクラインの横に腰掛けた。
「一応、外に見張り用の蛇達を置いてきたわ。追い続け…とはいえこちらの駒もしっかり考えねばならないのだけれど……」
そう云うと冴那はギラリと金色の右目を剥いた。容赦をする気は毛頭ない。
「まぁ落ち着けよ。俺も結界張っておくし」
青年はカウンター裏から外へ出ると、人差し指と中指を口元に当てて瞳を閉じた。そして、徐にその手を大きな円を描くようにゆっくりと動かすと、キィィンと耳鳴りのような空気の凍てつく音が『時の間』を包む。
「ぐわぁ! 耳が痛ってぇッ」
桐谷・虎助<きりたに・こすけ>は思わず両手で耳を塞いだ。猫又である彼は人より数倍の聴力を持っている。人間であるクラインでさえも些か頭に響く音であるのだから、虎助にしたら大変な音なのだろう。思わず、ぽん、と尻尾と耳が猫に戻ってしまい、躯を丸めてしまった。
「もうちっとだから、ガマンしろよ、虎助」
蘭丸は苦笑い交じりの表情で肩越しに振り返ると、人差し指で空に『青龍』の文字を書き記す。するとその文字が青白く発光し、徐々に膨れ上がったかと思うと一陣の風を担って巨大な龍が出現する。
「おし、青龍。この喫茶店全体をその躯で守れ。何かあったら攻撃してもヨシ」
ビシィと指差して「行け」と蘭丸が短く命令すると、青龍は牙を剥き出してそれに応える。そして再びその身を透かして天井と云わず壁と云わず吸い込まれていくと辺りは奇妙な静寂を取り戻した。
「完了♪」
青龍を呼び出しているときの真剣な表情とは打って変わって、蘭丸はウキウキと再びカウンター裏へと身を滑らす。
「これでヤツが来たとしても時間ぐらいは稼げっだろ」
ふぃ〜と右手の甲でで額をこすると、拭きかけていたグラスを手に取った。
「で、どーすんだよ。モーホーの変質者」
何故か青年と同じくカウンター裏に入って蘭丸の手伝いをしている虎助は、つんと口を尖らせた。
「ってか、そもそもクライン、アイツとどーゆー関係なワケ? 何で鬼ごっこなんか……」
蘭丸も手はグラス拭きに取られながらも、口は達者だ。
「私も少し興味があるわね。あの占いといい……何か込み入った意図が見えるような気がするのだけれど」
冴那はグラスを傾けながら、髪を掻き上げる。
「……別に、単なる商売敵」
呟くようにクラインは零すと、内ポケットを探ってシガーケースを取り出す。しかし、一本咥えた所でスイ、とそれは奪われてしまった。
「禁煙しろって云っただろ。それに嘘、吐くなよ。単なる商売敵がワザワザこんな手の込んだ潰し方するかよ」
眉間に皺を寄せながら青年は奪ったそれを自分の下にあるゴミ箱に捨てた。
「あの男は……何をするにでも楽しんでいるようには見えるけど……」
言葉を紡いだ女はそこでハタと止まった。指先に一定のリズムを刻んだシグナルが送られてくる。
「どうした」
「人の気配がする。1人……2人? 正確な数は分からないわ…」
問いただしたクラインに冴那はカウンターの隅を見つめながら口を開いた。
「じゃあこうすっか。俺と冴那で外を見てくる。こっちは結界が張ってあるから少々のことでは人は入ってこれないからな。虎助はクラインの傍に付いてて何かあったら2人で逃げる」
「そうね…それが一番いい方法ね」
冴那は頷くとカタン、と音をさせて席を立った。
Scene-3 白い月の夜に
外に出ると白く大きな月がちょうど『時の間』と向かい合わせに上っていた。逆光が眩しいぐらいのその大きな月を冴那は仰ぐと、スイ、と人差し指を動かして見張りをさせていた蛇達に合図を送る。そして、
「ぎりぎりまで姿は現さぬ様……蛇だもの、お手の物よね…?」
静かに唱えた。蛇達はギョロリと眼を動かし、また再び闇へと身を滑らせていく。
「冴那、蛇はどれくらい放ったんだ?」
蘭丸は『Closed』の吊り札を右手でコツンと叩くと、施錠を確認して女の方を振り返った。
「そうね……結構な数だとは思うんだけど」
云いながら冴那は視線を左右に配らせ、辺りの様子を慎重に伺う。
「店は青龍が守っててくれるし…幾らモーホーの変質者が乗り込んで来たって平気だろ? それよりこっちから攻めてやろっか。クラインの偽者とか作ってさ、相手を出し抜こうゼ!」
女に半歩遅れて、歩き始めた蘭丸はカラカラと陽気に笑った。それを冴那はしたたかに嗜める。
「馬鹿ね。カーマインを甘く見ないほうが良くってよ。とにかく攻め辛い男だから……」
月明かりに照らされて出来た影が細く長く後ろに伸びる。蘭丸は両手を頭の後ろで組んで、ちぇーと口を尖らせた。
「!」
僅かに先を行く冴那は、いち早く『時の間』に向けられる異変に気づき身を低く伏せた。
「貴方も伏せなさい……ッ」
乱暴に青年の肩を掴んでしゃがませると、上を――先ほど己達が立っていたその辺りをかまいたちのような風が円状に抜けていく。続いて、撓るような音が耳を劈き、思わず蘭丸は耳を塞いだ。先ほど自分が結界を張ったあのときの音とは比べ物にならないほどの代物だった。
「冴那ッ、これは……?!」
「来たわ、ヤツが!」
『時の間』の前では青龍が奇妙な声を上げている。恐らくカーマインの『テリトリー』に喰われたことに己の気が乱れたのであろう。具現化した躯が徐々に薄くなり、断末魔を喉から搾り出す。
「迂闊に近寄るなッ」
風が抜けた所で立ちあがり、走り始めた2人の前に1人の男が塀からスタンッと綺麗に飛び降り、行く手を阻んだ。スラリと身長が高く、銀色の瞳がさめざめと光る――沙倉・唯為<さくら・ゆい>。
「唯為ッ! 貴方、どうしてここに?」
立ちはだかった男に冴那はやや息を弾ませながらも静かに云った。
「話は後だ。今、カーマインに近寄ればこの前の二の舞になるぞ」
男は低く……そして銀色の眼を光らせた。その様子に前方の闇――否、『時の間』を中心に何かが起こり始めていることを蘭丸は察知した。舌打ちを漏らす。
「だけど、クラインを潰しに来るのと分かってて黙って見てられっかよッ!」
吐き捨てるように青年は怒鳴ると、唯為の傍をすり抜けて走り出す。
「待てッ」
振り返る男を余所に、
「そういうことね。私もカーマインに借りは返さないと気が済まなくってよ」
反対側を冴那がすり抜けて、駆けて行く。
「イケメンのおにーさん、そんなに俺達のこと心配してくれっなら、『時の間』にいるクラインを連れて逃げてくれよッ。頼んだゼ!」
蘭丸は遠ざかりながら片手を上げて叫ぶ。駆け抜ける生暖かい風に妙な胸騒ぎを覚えながら、冴那は無心で闇を突っ切った。
Scene-4 対峙
「Guten Abend」
闇を走りぬけた先に佇んでいた男は白い月を背負い、背筋も凍るような冷笑を浮かべていた。
「アンタがカーマイン?」
息を弾ませながら蘭丸は赤毛の男を見据えた。その問いに男は答えることなく、クッと嗤うと、
「綾小路蘭丸。古めかしい外観をした、あまり繁盛しているとはお世辞にも言えない、喫茶店『時の間』のマスター」
辞書のような厚手の本を開き、ペラリと音をさせて1枚捲った。
「家柄は由緒ある旧家だが、紅目のせいで忌み嫌われ追い出されてしまっている、か……」
蘭丸は男の科白に眉根を寄せた。
「アンタ、何? ストーカー?」
ジリジリとスニーカーが砂利を噛む。代わりに男はクスクス、と笑みを貼り付けた。
「クラインは何処ですか?」
「質問してんのはこっちだろ……!」
この歪んだ空間の中で青年は知らず知らずの内に男のペースへと引き込まれていた。隠せない苛立ちでもって身を翻し、余裕をカマす男に向かって回し蹴りを食らわそうとアスファルトを蹴った。
「ほぅ。意外と短気だ」
赤毛の男は何ら慌てることなく軽くそれを避けると、空いた青年の脇にシルバーの杖で一発入れる。
「クッ」
退こうとする蘭丸に間髪入れず男は肩を掴み、ブロック塀へと押し付けた。鈍い音が辺りに響く。
「クラインは何処か、と訊いている」
しかし、青年はキツク顔を歪めながらも、
「ケッ、知るかよ。知ってても死んでも云わねぇ、アンタにはな」
ニッと笑った。
「…………」
「私が教えて差し上げましょうか?」
不意に闇から声が飛んだ。そして、それに惹かれたように男は顔をそちらに向ける。闇から浮かび上がるように現れたのは、蘭丸から僅かに遅れて到着した――冴那だった。
「バカッ! 何云ってるんだよ、お前ッ!」
押さえつけられたまま蘭丸は叫ぶが、首を男に取られている為、大声を出すことで咽込んでしまう。
「その手を外しなさい」
冴那は冷たく云い放った。
「お久しぶりですね。貴方が次のお相手を?」
不敵な笑みを称えながら男はスッと手を外し、蘭丸を開放すると、青年はずるずると壁を伝って座り込んだ。喉を押さえ、激しく咳き込む。それをわき目に見ながら、
「そうね…。私を倒せたらご褒美にクライン氏の行方を教えて差し上げるわ」
「Na gut.」
赤毛の男はそう云い捨てると、次の瞬間、冴那の視界から姿を消した。
「!」
冴那はすぐに辺りに視線を配らせるが、背筋に稲妻のような衝撃を覚えて、動けなくなる。
「貴方と遊ぶのは実に楽しい…貴方の記憶、声、全てに興味があります」
後ろ――女の真後ろから耳元で囁くように男は含み笑いを零す。
「ですが、今宵のターゲットは貴方ではない……」
両腕を前に回し女を抱きすくめると、男はその場を後にしようと躯を冴那から離した。
しかし――
冴那はギラリと右目……金色の蛇の目を剥くと、その身をくねらせ蝮の姿へと変貌を遂げる。
「!」
「貴方の首…美しい首筋だったわ…私に…古の…蛇としての牙を…衝動を…顕わにさせる程に…」
大蛇と化した冴那はしなやかに躯を動かして、男を追い詰め、牙を剥く。舌打ちを漏らして男が脇に退くと、溝の隙間から蛇が突如顔を出し、男の足首に噛み付いた!
「ッ」
男は僅かに顔を歪め、アスファルトを蹴ると、ブロック塀に飛び乗る。
「中々…腕を上げたようですね」
僅かに弾んだ息を男は楽しむかのように乱れた赤毛を掻き上げ、口元を歪めた。
「だが、ここで遊んでいる暇は余り無い」
男は低く云うと、左手を仰向けて瞳を閉じる。シュゥゥゥと質量がそこに集まり、空間が歪むような錯覚を起き上がった蘭丸は見た。黒く蠢く煙のようなものが現れたかと思えば……それは徐々に具現化し、形を成す。
「な…?!」
蘭丸と冴那は目を見張った。
現れたのは先程から無くなっていた――男の本だった。クスクスと笑みを零すと、男はそれを開く。
「ここで貴方方の『記憶』を全て頂きましょうか」
云いしな、先程のようにかまいたちのような風が男を中心に駆け抜け、避けた女の髪を僅かに切断する。蘭丸は身を低く屈めて、それをやり過ごすと視界に見なれた足が映りハッとした。視線をゆっくりと上に巡らせる…黒いブーツに黒いパンツ…今度は逆に白コートの裾が見えて……。
「クラインッ!」
コツン、と僅かに足音をさせて青年の前に現れた男は蘭丸と視線が合うと淋しそうに笑った。
「大丈夫か」
しゃがみ込んでいる青年にスッと手を差し出す。
「バカッ。逃げろって云っただろ!」
「色々と…すまなかった」
クラインは噛み付くように抗議をする青年を立たせると、ポン、と青年の肩に顔を埋めた。
「な……?」
「…今まで……ありがとう」
蘭丸が言葉を発するその前に、クラインは身を離すと、くるりと背を向ける。
そして、
『カーマイン。もう……いいだろう?』
本を開き、術を唱える体制に入っている男に向かって、静かに云った。
「冴那、蘭丸を連れてここから引け」
クラインは視線を蛇から人に戻った冴那に向ける。
「何を云ってるの? ここまで来たら貴方を置いては行けないわ」
「いいから」
振り切るように冴那を遮ると、スッと足を進めた。
『やっと…会えましたね。会いたかった』
スタン、と綺麗に男は着地すると、笑みを浮かべて右手を差し出した。
『5年も貴方を追いかけた。帰りましょう、一緒に』
差し出された手に視線を落とす。吸い込まれるようにその手を取ろうと、己の右手を上げた瞬間。
「冗談はヨシ蔵さんだ」
クラインはその手を取ることなく――代わりに亜空間から刀を抜き出すと、男に向かって斬りかかる。紙一重でかわして退いた男は、何ら焦ることなく嘲笑の笑みを浮かべた。
『初めて出会った、あの時と一緒ですね』
冴那、蘭丸、クライン、そしてカーマイン。
辺りは奇妙な静寂に包まれていた……。
Scene-5 白い闇に消え行く声
誰が為に動く、とか。
何かを理由に行動を生む、とか。
生まれ出でて6世紀――『運命』と『偶然』と『必然』を見つめてきた。飢饉に人が人とも云えぬ姿で死んでいく様を腐るほど眺めてきた。激動の中を必死でもがく僅かな命を眺めてきた。
『生きる』とか。
『死ぬ』とか。
それは当たり前過ぎて自分には何ら感情を与えなかった。
『楽しい』は分かった。でも、『悲しい』や『嬉しい』は理解できなかった。
手にしたものがボロボロと零れていく瞬間を、目の当たりにしてもピクリとも動かない己の心。そんな自分に疑問を持って、何かを『形』にする為に……だからこうして人間の余興に身を投じているのかも知れない。
クラインとカーマインは対峙したまま一歩も動かなかった。僅か数分しか経っていない筈なのに、それが1時間にも2時間にも思える。蒸せ返るような底知れぬ熱気がこの『テリトリー』を包んでいた。冴那は息を潜める。
――クラインが劣勢になった時……初めてその中を割って入る。
そう決め、この息が詰まる空気に身を沈ませていた。
『大人しく私と帰りましょう。さすれば、この場にいる彼らには今後、危害を加えない』
『それは駆け引きか? それとも脅しか?』
先程から2人は何やら聞きなれない言葉で話していた。
「あれ、ドイツ語か?」
脇腹を押さえながら立ち上がった蘭丸は冴那の横に並ぶ。
「さぁ……どうかしら。相変わらず交渉決裂のような雰囲気だけは伝わってくるのだけれど」
カーマインの『テリトリー』内にいる以上、男の掌の上で遊ばれているも当然だった。それは冴那もよく理解している。
――どう動くつもり…?
『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス……ですね』
カーマインは喉の奥で嗤うと、左手を仰向けて何かを唱える。質量がグングンとそこに集まり、先程と同じくそれは形を成し、見慣れた――あの『本』が召喚される。
『記憶だけを全て奪って……骸だけの貴方を手にするのも、この際悪くない』
ペラリ、と男がそのページを1枚捲る。
「!」
冴那は目を見張った。動かねばッ!と咄嗟に躯が反応する。胸元に仕込んだドクハキコブラを放ち、カーマインの一の行動を阻止しようと足を踏み出したその時だった――!
「唯為ッ!」
クラインが叫ぶのと同時に、冴那と蘭丸の後方から駆けて来た男がカーマインに斬りかかった。術の体制に入っていたカーマインは云わば丸腰である。飛び道具は彼のコートに跳ね返されてしまうが、直で入れば文句はないだろう。
「阿呆。お前だけじゃ、役不足だ」
鋭い金属音を発して、日本刀・緋櫻はカーマイ自身を取り巻く球体の結界に阻まれていた。だが、グググ……と叩きつけるかのようにそれを押し切り、強引にブチ込む。
「クッ」
刃は触れなかったが、掛かった圧力が赤毛の男の躯にモロに入った。後ずさり……それと同時に本が煙となって消えてしまう。カーマインは舌打ちを洩らし、繊細な赤毛を僅かに乱すと手にしていたサーベルでもって間髪入れずに横凪にはらい、間合いを取った。
しかし、その間に冴那と蘭丸が行く手を阻む。閑静な町の一角である。路幅も然程無く、これ以上は些か不利と取ったのかカーマインは小さく舌打ちを打った。
「多勢に無勢ですか……仕方ありませんね」
小さな溜息を落とすと、落ちている杖――鞘を拾って洗練された動きでサーベルをしまった。
「逃げるの?」
つと冴那が口を開く。しかし男は息も乱さずに……嗤った。
「まさか」
男が言葉を紡いだ瞬間、ドライアイスのような煙ともつかぬ鈍色の白煙が辺りから立ち込めた。シュゥゥゥゥと音を立てて、 云う間にその場を白く染めていく。
「云ったでしょう? 今宵の目的は『貴方ではない』と」
唯為は男の愉悦を含んだその科白に弾かれたように後方を見た。そこに先程までいた掃除屋の姿がない。
「オイ、アイツは何処へ行った!?」
ゴホゴホと咳を洩らして、煙を掻く蘭丸はキョロキョロとクラインの存在を探すが、
「クライン? 何処だよッ!」
白い闇の中で蘭丸の声が無常に響く。まるで下手な手品のようにクラインは一瞬にしてその姿を消していた。
Epilogue 夢か現か幻か
カランカランと『時の間』に静かに音が響く。
蘭丸はその音にふと顔を上げ、入り口に視線を向けた。
「こんにちは」
冴那は沈んだ蘭丸に申し訳程度の僅かな笑みを向ける。
結局。
あの混沌とした煙に巻かれたまま――掃除屋もカーマインも真実さえも見つからなかった。まるで幻を見ていたかのように――この数ヶ月に出会った存在さえも嘘だったかのように……。一瞬にして消え去った夏の終わりに見る夢のように……目が覚めた今、何とも云えぬ虚無感が2人の心中に広がっていた。
「アイスコーヒーでいい?」
蘭丸は後ろの棚からグラスを取り出して冷蔵庫を開ける。浅く頷くと冴那はカウンターに……あの夜に腰掛けた同じ場所に座った。沈黙の中に沈黙を見つける、と云えば間違っているだろうか。冴那も蘭丸も言葉を紡ぐ気にはなれなかった。カラリ、と出されたアイスコーヒーの氷が溶けて崩れる音が『時の間』に響く。
『貴方と遊ぶのは実に楽しい…』
あの声が脳裏に今も焼きついている。別にあの男に負けたわけではない。そもそも勝ち負けで括ろうとするのは稚拙な人間がする行為だ。
冴那は汗をかいたアイスコーヒーのグラスを手に取ると、そんなことを考える自分に失笑する。
――自分もやけに人間臭くなったものだ、と。
そうして心配そうに舌を出す白大蛇に僅かに笑みを落とし、女は優雅にグラスを傾けた。
Fin or To be Continued...?
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0376 / 巳主神・冴那(みすがみ・さえな) / 女 / 600 / ペットショップオーナー】
【0640 / 綾小路・蘭丸(あやのこうじ・らんまる) / 男 / 27 / 喫茶店『時の間』のマスター】
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■ ライター通信 ■
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* こんにちは、本依頼担当ライターの相馬冬果です。
この度は、東京怪談・月刊アトラス編集部からの依頼を受けて頂きありがとうございました。
* 今回の依頼は同ライター名でUPされた、草間興信所『夢か現か幻か〜追う者〜』
との連動シナリオとなっております。
* 事件の全容も含めて、カーマインの思惑、行動、進展度などは、他の参加者の方は勿論、
草間興信所側の参加者の方のノベルにも目を通して頂くと、より一層楽しんで
頂けると思います。
* 注:ノベルに登場するカーマインの科白、「Guten Abend」は「こんばんは」、
「Na gut」は「まぁいいだろう」という意のドイツ語です。
≪巳主神 冴那 様≫
再びお会い出来て嬉しいです。ご参加、ありがとうございました。
今回はプレイングから更にパワーアップなさった巳主神さんと心理描写を上手く
絡ませれたら…と思って執筆致しましたが如何でしたでしょうか?
それでは、またの依頼でお会い出来ますことを願って……
相馬
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