コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


調査コードネーム: “妖(あやかし)”
執筆ライター  : 綾瀬 孝
調査組織名   : ゴーストネットOFF
募集予定人数  : 1人

--------------------------------------------------------------------

<< 妖 ayakasi >>



●オープニング

 窓を打ち付ける雨音が、間接照明だけの薄暗い部屋の中に響く。
 水槽越しのブルーバック・ライトが、女の腰まである黒髪に反射して艶やかに波打つ。
 室内を飾るスタイリッシュで先鋭的なデザインの家具は、見る者が見れば一目で輸入物の高級品だと分かるに違いない。中には、有名ファッション誌に何度も紹介されるような物も目につく。
 しかし、今この部屋にいる二人には、一脚何十万円もする椅子やcm単位で値段の跳ね上がるデザイン・テーブルのことなどどうでも良かった。
「う、うぅん……」
 雨音に混じって、くぐもったような熱い吐息が室内に広がる。
 薄暗い室内のコンクリートの壁に、二人の男女が重なるように寄りかかっている。
 そこで二人は濃厚な口づけを交わしていた。
 ただ、その光景は一般の男女のものとは少し違っていた。なぜなら、色白で幼い顔つきの男を、エナメル製のボンテージ・ファッションに身を包んだ妖艶な女が、壁に押し付けるようにしてその唇を奪っていたからだ。
 黒髪の女は、その長身を生かして呆然と立ち尽くす男の唇を何度も何度も吸い上げる……。
 時に優しく、時に激しく――。
 どれだけそうしていたのだろうか? 不意に女が唇を離すと、男の口から熱のこもった
息が吐き出された。
「黒木さ…ん……」
 長い口づけの余韻から覚めやらぬように、男が女の名前を呼んだ。頬を桜色に上気させ切れ長の瞳を潤ませる男は、その幼い顔つきとあいまって少年とも少女とも見紛うほど美しく、そして艶(なめま)かしかった。
「あら“黒木さん”なんて他人行儀な呼び方は、こういった時には無粋なだけ。さっきも言ったように、あたしのことは“イブ”て呼びなさい」
 そういうと黒木イブは、再び“少年”の唇に軽く口づけした。
「解った?」
「はい……。イブ…さん……」
 イブの問いに、“少年”は消え入りそうな声で答えると、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「うふふ……いい子ね。おりこうさんには、女王様からご褒美をあげないといけないわね……」
 線の細い“少年”の白い顎を指先で軽く持ち上げるようにしながら、イブは三度、口づけを交す。
 唇が重なる瞬間に“少年”が、身体をピクリと震わせるのがわかった。
 緊張したように身体をこわばらせる“少年”の両手は、上着の裾を引っ張るように握り締めていた。
 その行為は、決してイブの行為を拒むものではい。現に“少年”は今もイブの口づけを受け入れていたから。
 むしろ彼の行為は、こういった経験の無い“無垢”な人間にありがちなものだといえた。
 そう、彼はイブの口づけを受け入れながらも、どうして良いか解らず、ただ、ただ、突然のことに自分を見失わないため必死になっているだけだった。
(無駄なことを……)
 濃厚な口づけを交わしながらも、イブは“少年”の行為を冷静な頭の中で嘲笑した。
 ここ新宿のSMクラブで働く彼女にとって、目の前の人間の行為は何とも愚かしく、そして偽善に満ちて映った。
 そう、人間特有の偽善に満ちた行為そのものだった。
 低俗で粗野な人間が“理性”という名の砂上の楼閣で自分を保っていられるのは、ほんの一瞬こと。所詮は下等な生き物。すぐにその本性を現すことを、イブは豊富な経験から知り尽くしていたのだ。
 そして同様に、この下等な生き物がもっとも美しく、もっとも甘美な“贄(ニエ)”になる瞬間も、彼女は知っていた。
(まぁ、いい。ただの食事ならすぐに済ませるけれど、久しぶりの“贄(ニエ)”。時間をかけてゆっくりと無垢な魂を少しづつ染め上げてやろう。
 ふふふ……そうと決まれば、まずは、その若い身体をたっぷりと味あわせてもらうとしよう) 
 そう考えると、イブは張りのある豊満な胸を“少年”の薄い胸板に密着させ、これまでとは比べ物にならないほど妖艶にその唇を奪った。
「う、うぅん……」
 時折もれる“少年”の吐息にも、これまでとは違った艶が感じられた。
 先ほどまでこわばっていた身体も、今は力を失い両の腕をだらりと床に向けて垂れ下げていた。
 “堕ちる”――そう思った瞬間だった。
「痛っ!」
 突然の苦痛に“少年”はイブの体を押し退けると、右手で自分の唇をおさえた。
 ぬるりとした生暖かい感触が伝わり、紅い血が白い指先を染め上げる。
 最後の一瞬“少年”が口づけに酔いしれる瞬間、イブがその唇に思いっきり噛み付いたのだ。
「イブさん、何を!?」
 突然のことに“少年”は問い質すような、抗議の声をあげた。
「うふふ、ごめんなさい。痛かった?」
(そう簡単に“堕ち”られたら楽しみが減るからね)
 “少年”の言葉にも、イブはまったく動じた様子もなくさらりと答え、つづけて頭の中でそう呟いた。
「痛かったでしょう。大丈夫?」
 言葉とは裏腹に、イブは少し厚めの妖艶な唇口に手をあてながら、薄ら笑いを浮かべていた。
 そして、そのまま“少年”に歩み寄ると、唇と同じ紅い舌先で彼の口元を染める血をすくい上げるように舐め摂り、そのまま舌を“少年”の唇の中へと差し込んだ。
「うっうううん……」
 あまりのことに、“少年”は驚いて身を引こうとしたが、すぐ背後の壁に身体を打ち付けただけで、イブのスレンダーで豊満な体に押さえ込まれてしまう。
「うぅん!」
 それでも“少年”は抵抗するように、手をバタバタと震わせてる。
 しかし、イブはそんな“少年”の行為を白々しく受け止めながら、一身に唇を重ね合わせた。
 一秒過ぎるごとに“少年”の抵抗は薄れ、同時に身体が上気していく。
(じゃあ、そろそろ味見をさせてもらおうかしら?)
 自分の考えを実行するため、イブが“少年”の生気を吸い上げようとした刹那、力なく抵抗をつづけていた“少年”の左手が、手近にあったデザイン・テーブルに立てかけてあった“モノ”に触れ、そのまま勢いよくそいつを床に倒した。
 甲高い音が響き渡り、イブは不覚にも驚いて“少年”の唇を離してしまった。
 今まさに“贄”の味を確かめようとしたその瞬間に隙が出来てしまっていたのだ。
 そして“少年”の方も、イブの拘束が緩んだ瞬間にその身体から逃れ、完全にことに及ぶタイミングを逃してしまっていた。
(ちっ!!)
 イブは頭の中で舌打ちをすると、絶妙のタイミングで邪魔をした“モノ”を憎悪の目で睨みつけた。
 そこには、紫色に染め上げられた布袋に包まれた、長い棒のようなものが横たわっていた。
「これは……」
 それが目に入った瞬間、イブは自分の身の内から憎悪の念が消え行くのを感じた。
「イブさん……。それは……?」
 すぐ横で“少年”が怪訝そうに声をあげた。
「預かり物さ……。古い友人のね……」
 たっぷり一呼吸相手から、イブは“少年”の言葉に答えた。
(そう、古い、古い、友人の……)
 “古い友人”という単語と共に、イブの中であの時の記憶が甦った。そして気が付けば、イブはその“モノ”を手に握り締めていた。
「あの……、イブさん。僕…、今日はこれで失礼します」
 どれくらい時が経ったであろう。相手の突然の変貌に“少年”は訳も解らずたたずんでいたが、やがて口早にそう告げると薄暗い部屋を出て行ってしまった。
 “少年”の手によって外へと続く扉が開かれた瞬間、コンクリートの壁に打ち付ける低い雨音がイブの耳に流れ込んできた。
「そういえば、あの時も今日みたいな陰湿な雨だったわね……亞祁仁(アキヒト)……」
 一人になった部屋に、イブの声が響く。
 降り続ける雨は、漆黒の闇が深まるのと合せるかのように、いよいよその激しさを増してきていた。


   ○     ●     ○




●遠い記憶

 夕方から降り始めた雨は、東の空から西の空へと夜の帳が広がるのにつれて、激しさを増し夜半に差し掛かる頃にはピークに達していた。
 打ち付ける雨は、それこそ並々と水を湛えたバケツをひっくり返したかのようなありさまで、傘を差していてもまったく意味がないほどだった。
 街中では、時折車が鳴らすクラクションやら、緊急車両の発するサイレンの音以外は、皆、雨音にかき消されてしまっていた。
 だが、こういった“視界”と“音”が雨によって遮られる日は、イブにとって格好の“狩”日和だった。
 コンクリートの街並みを、雨が激しく打ち付ける中“狩”にでかけたイブは、すぐに獲物をみつけた。大きなスポルティング・バックを抱えた16、17歳ぐらいの家出少年だった。
 大手証券会社の店舗ビルで雨宿りをしていた少年を、その美貌で誘惑するとそのまま裏路地の一角に引き込み、その日のディナーを楽しもうとしていた。
 最初こそ抵抗を示していた少年も、数分もしないうちに完全にイブの虜と成り果てていた。
 何も知らない無垢で純粋な人間を自分色に染め上げ、苦痛と快楽のうちにその生命を吸い取る……。それが、“黒木イブ”という名の“妖(あやかし)”の正体だった。
「さぁ、これでお仕舞いよ。君の身体――もらうわ」
 情交に酔いしれる少年は、その言葉の意味を理解することはおろか、言葉を発することすら出来ずに、ただ熱い吐息を漏らすばかりだった。
「さようなら、坊や。今度生まれ変わるときは、家出なんてしなくて済むような家族にめぐり合いなさい」
 イブは、別れの言葉を口にすると、それまで妖艶な仕草をぴたりと止め、その本性を現した。
 少年の身体を背後からコンクリートの壁に押し付けるように羽交い絞めにすると、その肩口に噛み付き、血管の中に“妖(あやかし)”の毒を流し込もうとした。
 耳のすぐ側で、少年の断末魔にも似た悲鳴が響き渡ったが、イブは気にしなかった。
 この土砂降りの雨では、裏路地の外へ声が漏れることはないと確信していたからだ。
 少年の肩から紅い血が滲み出て、イブの口の中に血液の鉄くさい味が広がる。激しい痛みの中で苦痛に悶える少年の血は、美酒にも似た甘美な味に変貌していった。
 その一瞬が来るのを感じたイブが、自身の食欲を満たそうとした時だった。
「その辺にしておけ……」
 雨音に混じって、イブと少年の耳にハッキリとその声が聞こえた。
(こんな、雨の中でどこから?)
 イブが驚いて顔を上げると、いつの間にか路地の陰に隠れるようにして、一人の男が立っていた。
 男は、この真夏の夜に踝まである厚手のコートを着ていた。いくら大雨とはいえ、それは明らかに異常な格好だった。
「イタイケナ少年を喰らっても、君の為にはならんぞ……」
 再び発せられた男の言葉に、こんどは正気を取り戻した少年が短く悲鳴を発しながら路地の反対側へと走りだした。
「なっ!!」
 イブは、突然の出来事に驚いて少年を追いかけるタイミングを逃した。それでも、我慢できず少年を追いかけようとするイブに、男が制止の声をかける。
「止めとけ、今更追いかけても間に合わんさ」 
「てめぇ!! あたしの食事を邪魔するとは、いい度胸じゃないか!! 生きてこの路地から出られると思うんじゃないよ!!」
 “狩”の邪魔をされて、イブは怒りの矛先を男に向けた。怒気もあらわに底冷えのする鋭い眼光を男に投げかける。
 しかし、男は動じるどころか、逆に自らイブに近づいてきた。
「下等な人間にしては、いい度胸じゃないか!
 てめぇみたいな肝の据わった奴は嫌いじゃないよ。
 でも、運が無かったね……。
 あたしは食事を邪魔されるのが、ものすごく嫌いなんだよ!!」
 その怒号が終わらぬうちに、イブはその場から一気に十数メートルを跳躍すると、右手を鋭利な刃物に変質させコートの男めがけて突き放った。
 その刹那、金属同士がぶつかるような甲高い音が響き、イブの刃が男の顔に届く寸前でその動きを止めた。
 みればコートの男が、手にした紫色の布袋に包まれた棒のようなもので、イブの攻撃を遮っていた。
 なまじ腕全体を刃物のように硬質化していたため、自身の身体の特性を生かした攻撃が出来なかったのだ。
「くそ!!」
 一撃目を防がれ、続けて二撃目を繰り出そうとしたときだった。
 裏路地に一瞬、車のヘッドライトが差し込み、男の顔が暗闇に浮かび上がった。
 そこには、精悍な初老の紳士の顔が写し出されていた。
「その顔――。あ、あんた……亞祁仁(アキヒト)かい?」
 男の顔を見た瞬間、イブは驚いたようにその動きを止めた。
 イブはこの初老の紳士の顔を知っていた。いや、正確に言えば、この老人の若い頃の顔を知っていたのだ。
「相変わらずだな、イブ……」
「まさか、ほんとに“あの”亞祁仁(アキヒト)……」
「そうだ、亞祁仁(アキヒト)だよ、イブ……」
 その言葉に、イブの中で古い記憶が呼び覚まされた。
 イブは自分がいつから“妖(あやかし)”としての生を得てきたかは覚えていない。いや、知らないといったほうが正しいかもしれない。
 ただ、“黒木イブ”という名の“妖(あやかし)”として自我が目覚めたのは、今から三十年ほど前のことだった。
 その当時、まだ誕生したばかりのイブは、夜な夜な浮世を徘徊し美女の裸体を模した擬態で獲物を捕らえては、その生気を吸い取っていた。その無秩序な行為がどんなに危険でどれほど愚かなことか考えずに……。
 結果、当然のことながら夜になると現れる美女の話はすぐに噂になり、そして一人の男がその調査にやってきた。
 それが“石上亞祁仁(イソノカミ・アキヒト)”だった。
「三十年ぶりだな、イブ……。しかし、君みたいな美女に覚えていてもらえるってのは、あんがい嬉しいものだな。
 たとえそれが“人”でなくても……」 
 最後の言葉が、イブの心を現実へと引き戻した。そう、今は過去を振り返っているときではない。
「どうしたのさ、今更? まさか三十年前の決着をつけようって言うんじゃないだろうね?」
 イブは、相手を警戒をして、いつでも戦えるように身構える。
「ふっ……。変わらんな、その性格……」
 亞祁仁はイブの問いに答えず、懐かしむような感じで口を開いた。
 土砂降りの雨は、勢いを衰えさせることなく、二人の頭上に降り注いでいる。
「この雨の中、立ち話もなんだ、三十年前のあの店で酒でも飲みながら話さないか?」
 そう言いながら亞祁仁は、くるりとイブに背を向け路地の出口へと向かって歩き出した。
 その様子は、どこか“人”としての気配が欠けたような印象をイブに与えた。


   ○     ●     ○


 その店は、三十年前と変わらずにその場所にあった。
 新宿の外れにある半地下のバーは、名前やオーナーこそ変わっていたが、それ以外はすべてが三十年前のままだった。
 その光景は、まるであの時のまま時間が止まってしまったかのようだった。
 カウンターの一番奥に並んで座った二人の前には、氷と共にブランデーが注がれた背の低いグラスが置かれていた。
 強い酒に浸されて氷が溶け落ち、グラスの中で小気味よい音を奏でる。
 そのグラスの中身を体内に流し込みながら、イブは隣に座る老人の姿を見た。
 亞祁仁は室内に入っても分厚いコートを脱ごうとはせず、雨にぬれた白髪交じりの頭髪からは、時折雫が落ちてはカウンターや床に小さな水溜りを形作っていた。
「で、亞祁仁……。あんたこの三十年何してたんだい? やっぱり、あいかわらず化物退治やら、怪談調査なんてのをやってたのかい?」
 自分から誘っておきながら、店内に入ってから一言もしゃべらない亞祁仁に、痺れを切らせてイブが口を開いた。
「そういう君はどうなんだ?」
「あたしかい? あたしは見てのとおりさ。生きるために必要な餌を狩って食べる。三十年前と何も変わっちゃいないよ。
 まぁ、昔みたいにおおっぴらにはやってないけどね。あんたらみたいな連中に追い掛け回されたんじゃ、こっちも商売あがったりだしね」
「そうか……」
 イブの言葉に、亞祁仁は短くそう答えると、ゆっくりと語りだした。
「十五年前に息子夫婦が死んでから、あの仕事からは足を洗ったよ。
 今は郊外に移り住んで、一日中好きな読書をしながら過ごしている。
 この十数年間、本当に平和で充実した日々だった……」
 亞祁仁は、深いしわの刻まれた手でグラスをあおり、ブランデーを一気に飲み干す。
 と、とたんにむせ返るように激しく咳き込んだ。
 その様子を見て、イブはあわてて老人の背をさする。そこには、三十年前、当代随一と謳われた退魔師の姿はどこにもなかった。
 ただ、年老いた小さな老人が存在するだけだった。
「昔は、このぐらい何とも無かったんだがな」
 しばらくして、ようやく落ち着いた老人は、恨みがましくグラスを見据えると自嘲気味にそう吐き棄てた。
 この時ほどイブは、人の世の時間の流れの残酷さを感じたことはなかった。
「亞祁仁……あんた耄碌したね。今のあんたなら、あたしでも簡単に殺せそうだよ」
「あぁ、耄碌もするさ。六十も半ばを過ぎ70近い歳になって、息子の忘れ形見の孫娘が二人もいる。
 化物相手に命の削りあいをすることも無ければ、死に物狂いで生き延びる必要もない。
 今住んでいる近所じゃ、どこそこの家の旦那やら奥さんやらが不倫しているって話が大事件になるようなところだ。
 耄碌もすれば、老いもする。当然の結果だ……」
 そこまで一気にまくし立てると、亞祁仁はそのまま押し黙ってしまった。
 そして再び沈黙が二人の間を支配する。
 すでに時計はあと15分ほどで日付が変わることを知らせていたが、店内は相変わらず時が止まったかのような錯覚を覚えるほど、時間の流れが希薄にしか感じられなかった。
「で、亞祁仁。あんた昔話をするために、わざわざあたしをここに誘ったわけじゃないんだろう? 話があるんならさっさと本題にはいっておくれ」
 再び沈黙を破ったのはイブだった。
 しかし、亞祁仁は空になったグラスを見つめたまま、動こうとはない。
「話が無いんだったら、あたしは帰るよ。耄碌爺さんに何時間も付き合ってやるほど暇じゃないんでね」
 実際、イブは自分が亞祁仁という存在に興味を無くしてきていることを自覚していた。
 もし、目の前にいる老人が少しでも、イブの知る亞祁仁としての片鱗を見せていたなら、彼女の興味が薄れることは無かったかもしれない。しかし、現実に目の前にいるのは弱々しい老人でしかなかった。
 イブが興味を惹かれる者の多くは、苦痛をあたえてもそこから抜け出ようとする肉体と意志をもった者達だった。獲物に苦痛を与え、その肉体と精神を徐々に侵食していく……そのためには一定の苦痛に耐える者で無ければならなかった。与えられた苦痛に耐えながらも、本人の意思とは裏腹に徐々に壊れていく“贄(ニエ)”こそ、イブの求める上等な獲物の姿だった。ほんの少し苦痛をあたえただけで壊れてしまうような獲物など必要ないのだ。
 そういった意味で、今の亞祁仁はただの老人であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「わかったよ。話が無いんなら、ここまでだね。
 さようなら、亞祁仁。
 もう、逢う事も無いだろうけど残り少ない余生を大事な“孫娘”達と、せいぜい平和に暮らしておくれ」
 別れの言葉を残して、イブがその場を去ろうと席を立ったときだった。
 それまで、沈黙していた老人の重い口が不意に開いた。
「イブ……。実は君に頼みがある。
 君の言葉にもあった私の“孫娘”達のことだ……。
 もし君が、私の二人の孫娘“亞萌里”と“紫亞”に遇うことがあったら、君からこいつを渡してほしい」
 そして老人は、カウンターの上に先ほどの紫色をした布袋を差し出した。
 亞祁仁の促すような態度に、イブはいぶかしみながらも布袋を手に取ると、その結び目を解いた。
「こ、これは……」
 布袋の中か出てきた代物を見て、イブは驚きを隠せなかった。
 そこには、またしても三十年前のイブが知る一本の太刀があった。
「そうだ、三十年前、私が使っていた太刀だ。銘を“八握剣(ヤツカノツルギ)”という、我家に代々伝わる宝剣だ。こいつを君に預かってほしい」
 驚くイブとは反対に、亞祁仁はこれまでとは違い真剣な顔つきで相手の瞳を見据えていた。
 自分を見つめる老人の瞳には、鋭い意思の光が宿っていた。
それは、三十年前、鬼神のごとき強さを秘めていた、亞祁仁そのものの姿に違いなかった。
「わかったよ。あんたがそこまで言うんだからよっぽどの事なんだろう。
 どうせ理由を聞いても答えてくれないだろうしね。
 あんたの孫娘とやらに渡すかどうかは分からないけど、この太刀はひとまずあたしが預かっとくよ」
 数瞬思案した後にそう答えると、イブは太刀を布袋に戻し右手にしっかりと持ち直した。
「迷惑ついでにすまないが、もし君が孫娘達に出会った時、二人が何か事件に巻きこなれているようだったら助けてやってくれないか?」
 亞祁仁の新たな頼みに、イブは「約束は出来ないよ」と前置きしてから頷いて見せた。
「イブ……。突然の事なのにすまない」
「はん! あんたとは昔、色々あったからね。腐れ縁ってことで許してやるよ」
 イブは、すまなそうに礼を言う亞祁仁に“たいしたことじゃない”と言わんばかりに言葉を返す。
「ふっ……。やっぱり君は三十年前のままだな。この店と同じ、何も変わってない。その性格も美貌も……。
 ……二人の孫娘と平和に暮らす今でも、時々思うときがある。三十年前のあの時、違った選択をしいたら、たぶん後悔していたとね……」
「三十年目の告白かい? ダサい男のすることだね。
 それに忘れたのかい? あたしは“人”じゃない。
 あたしにとって“人”は、生きるために必要な“獲物”であって、それ以上でも以下でもない。
 所詮あたし等は、あんたらとは違う生き物なのさ……」
(そう、所詮あたしは化物で、人間は“獲物”でしかない。そう、ただ、それだけさ……)
 心の中でそう呟きながらも、イブは胸のうちに軽い痛みを覚えた。
「そうだったな……」
 亞祁仁はイブから視線を外すと、溶けきった氷の残滓が残るグラスを口にした。
 目の前の老人の言葉は、イブの心を再び締め付けた。
 そして、幾度目かの沈黙が二人の間を流れ始める。

「さぁ、これで仕舞いかい? だったら、悪いけど先に帰らせてもらうよ」
 その場にいたたまれなくなって、イブが再び席を立った。
「イブ……。もう少し、話が出来ないか?」
「わるいね。あたしはこれ以上、無口な爺さん相手に昔話をするつもりは無いんだよ」
 イブの本心は、もう少しこの老人と話していたい――そう思ったが、彼女の理性がこれ以上この場に残ることを拒んでいた。
(これ以上この場にいたら、戻れなくなる……)
 そんな考えが、頭の中を駆け巡った。
「そうか……。いや、引き止めて悪かったな。
 久しぶりに君と話せてよかったよ。もう、思い残すことはない……」
「まったく何言ってるんだい。
 それじゃあね。あんた、その孫娘ってのを大切にしなよ」
 別れの挨拶の代わりに亞祁仁は軽く手を上げてみせた。
 それを確認すると、イブは老人に背を向け外へと続く扉へと歩きだす。
 重厚な作りの扉を開けると、コンクリートの街並みを激しく打ち付ける低い雨音が、イブの耳に流れ込んできた……。

 金属製のベルが鳴る音がして、雨音と共に背後の扉が閉じられた。
 老人は、ゆっくりと首を巡らせると扉を見つめ囁いた。
「何も知らずに、ただ大切にできたなら、どれだけよかったか……」


   ○     ●     ○


●戦慄と別れ
 
 イブが“それ”に気づいたのは、店を出てすぐだった。
 この大雨で、しかも、もう直ぐ夜半を回ろうかという時間にもかかわらず、新宿の街は眠ることを忘れたかのように、享楽に明け暮れる人間達で溢れかえっていた。
 その人ごみを掻き分けるように進みながら、自分を尾行している男の姿を伺った。
 といっても、後ろを振り向くような馬鹿な真似はしない。
 イブは長い黒髪で隠れたうなじの部分を変質させ義眼を創り上げると、髪の隙間から10mほど離れて歩く、そいつの動きを観察した。
 男は、黒スーツにサングラスといった、この業界じゃ一番有名で、且つお決まりの姿だった。
(はん! オカルト雑誌やら異性人映画の見すぎじゃないのか? いくらなんでもあんな格好じゃあ尾行も何もないだろうに)
 思考をめぐらしながらも、イブは人気の少ない路地を選んで進んでいく。
 黒スーツの男も、それに合わせて徐々に距離を詰めてくる。背後で男が懐に右腕を差し込み、何かをしきりに気にしている様子が伺えた。
(なるほど、あたしをまともに尾行する必要気はないってことか……。
 ふん、面白いじゃないか。そっちがその気ならさっさとケリつけてやるよ)
 イブは決心すると、不意に裏路地へと続く細い道へ足を踏み入れた。
 案の定、黒スーツの男は驚きながらも、好機とばかりに急ぎ足で裏路地へと侵入してきた。
 裏路地に入って1分もしないうちに、人気が無くなり、まともな光さえ差し込まない場所にでた。
 ここは、よくイブ自身が狩に使う場所で、表通りまで数回角を曲がらなくてはならないため、獲物をじっくり味わうのに適していた。また、ここにはいざという時に獲物が逃げられないように、ちょっとした仕掛けも施されていた。
 “狩場”に到着したイブは、今は何のテナントも入っていない廃ビルの壁に寄りかかると、曲がったばかりの角を見据えた。
 程なくして“獲物”も“狩場”へとやってきた。その右腕には、酷く暴力的でそれでいてセクシャルに黒光りする拳銃が握られている。
 男の黒ずくめの服装は、闇の中に溶け込んで視認するのが難しかった。
 なるほど、表の世界ではB級映画バリの服装も、闇の世界ではそれなりに効力があるということか……。
 相手の男もすぐにこちらの存在に気づき、軽く口笛を吹いて驚きを表現してきた。
「狙われてるって知ってて、誘ってくるとはいい度胸だ……。
 だがな、所詮は女。相手がどういった類の人間かわからねぇ馬鹿な生き物だ」
 黒塗りの銃を構えながら、男は一歩、二歩と近づいてくる。
「はん!
声をかける勇気もなく、ただ女の尻おっかけてるだけの根暗野郎が吠えるんじゃないよ。
 てめぇみたいなタイプが、女の家まで引っ付いてきてストーカーって奴になるんだよ。
 この、黒ずくめの、もじもじ君が!!」
 最後の言葉が終わらないうちに、一瞬暗闇を昼間のように閃光が照らし、続いて炸裂音が鳴り響いた。
 スライド式のハンマーが火薬の反動で後方にずり下がり、空になった薬莢を宙高く排出する。その瞬間には、銃身に新しい弾丸を飲み込み、ハンマーが元の位置に戻る。
 男にとっては、慣れ親しんだ愛銃のいつもの動きだった……。
 全ての動作が終わるころには、女の眉間に少し大きめのピアス用の穴と、ルージュより真っ赤な死に化粧が流れ落ちた。
 とたんに、何か柔らかいものが押しつぶされるようなくぐもった音が響き、イブの身体が仰け反るように後方に吹き飛んだ。
 水しぶきを上げて地面に倒れたイブは、二度、三度と痙攣していた。すると男は、確実に獲物をあの世へ送るため、イブの傍らまで歩み寄ってきた。
「馬鹿な商売女が、粋がってんじゃねぇよ」
 銃口が仰向けに倒れるイブに向けられる。
「アデュー!!(さようなら!!)」
 男が別れの言葉と共に、拳銃の引き金に指をかけた瞬間だった。
「馬鹿はどっちだい?」
 額に穴を開けた女の口元が歪な笑みを湛えつつ、そう口にしたのだ。
 そして次の瞬間に、男は拳銃を手にした右手を女の細腕に握りつぶされていた。
「ぐぎゃ、ひぃいぃぃぃぃぃ…………」
 人間が発したものとは思えない悲鳴をあげ、男は転がるように数メートル後方にあとづさった。
 イブは、千切り取った男の右手をすぐ横のゴミ捨て場に投げ入れつつ、ゆっくりとした動作で立ち上る。
「てめぇ、よくもあたしの大切な顔に醜い穴を開けてくれたなぁ! 
 たっぷりかわいがってやるから、覚悟しな!!」
 イブの額の穴から弾丸がゆっくりと押し出され、水音を発てて雨で出来た水溜りの中に転がった。
 その一部始終を、男は驚愕の眼差しで見つめていた。
「女……、お、お前、人間じゃねぇな……」
「今頃気づいても遅いよ! てめぇには女王様に対する礼儀ってもんをたっぷりとおしえてやるよ!
 もっとも、そいつを学習しても、使う機会は無いだろうがね……」
 唇の端を吊り上げ奇妙な笑みを浮かべると、イブは男に向かって歩き出す。
 男は、失った右手を抱えるようにしながら立ち上がると、今度は左手で懐から拳銃を取り出した。
 男の手には、先ほどの機能的な自動拳銃ではなく回転式リボルバーが握られていた。
 銃口が、近づくイブに向けられる。
 しかし、先ほど同様イブは避けようともしない。
「この化け物がぁぁぁぁぁぁ!!」
 絶叫と共に男が引き金を引く。
 再び火薬が爆発する炸裂音が響き、弾丸がイブに向かって秒速253mという猛スピードで放たれる。
 その刹那、男の顔にニヤリと笑みが浮かんだ。
 その表情をイブは見逃さなかった。インパクトの瞬間“妖”としての驚異的な身体能力で咄嗟に身を捻って射線から体を外そうとする。
 しかし、先ほど同様鈍い着弾音が響き、右肩を思いっきり後ろに引っ張られるような感覚と共に、イブの右腕が中ほどから千切れ飛んだ。
「くっ!!」
 殆ど間をおかず、地面に叩きつけられるように落下した右腕が、見る見るうちに真っ赤に燃え上がった。
「こりゃ驚いた。発火水銀弾とは、面白いもん持ってるじゃないか。
 あたしも、久しぶりにお目にかかったよ。
 どうやら、てめぇは、あたしらみたいなのを相手にすることもあるようだね」
 イブは、白い灰になって燃え尽きる右腕を視界に捕らえつつも、男の動きに細心の注意を払う。
 もし、先ほど男が見せた笑みに気が付かなかったら、イブは今頃、全身を炎で焼かれていたに違いない。
 その光景を見て、男もよろけながらも再び銃を構えた。
「消えな……バケモンが……」
 激しい閃光と共に、銃口から弾丸が回転しながら発射され目標に迫る。
 しかし、こんどは弾丸が相手を捕らえることはなかった。甲高い金属音と共に、高速で射出された弾丸が、コンクリートの壁に大穴を開けるころには、イブは跳躍して男の目前に着地していたのだ。
「確かに、あたしらみたいなのを相手にしているようだけど……。
 てめぇは、三流だよ。あんな見え透いた狙いと動作じゃ、あたしを仕留めるのは無理だね」
 イブの接近に男が蒼白となってリボルバーを構えるより早く、イブは口からゲル状の液体を吐き出した。
「ぐがぁ、はひぃぃぃぃぃぃぃ!!」 
 “ツン”とする臭いを発し、粘着質の液体が男の左腕にまとわりつく。すると次の瞬間には、ずるりと皮が剥け拳銃を握ったままの左手が地面に溶け落ちた。
 両手を失った男は、その場で転がり悶えながら泣き叫んだ。
 男の目の前で、イブは楽しそうにその姿を眺める。
 
「さぁ“狩”の始まりだよ……」

 薄闇の中に“獲物”を狙う妖艶な女の声が響き渡った……。


   ○     ●     ○


 男は自分がどうしてこんな目にあっているのか理解できなかった。
 最初に受けた指令では、簡単な仕事だったはずだ。
 死に損ないの老人を一人掃除するだけの簡単な仕事だった。
 新宿に入ってから一瞬だけ見失った隙に、老人が年甲斐も無く商売女を店に連れ込んでからは、口封じのために両方とも消すことにした。
 相棒とコイン・トスをして、自分が女を殺ることになったときは、馬鹿な商売女を消すだけの、たいした手間もかからない退屈な仕事だと感じた。
 しかし、現実はどうか?
 今、自分は化物に追われて真夜中の新宿を駆けずり回っている。
 化物に対抗しようにも、3丁持っている拳銃のうち2丁まで失った。付け加えるなら両手を失った今となっては、右足首に仕込んだ最後の1丁は、引き金を引くことはおろかホルスターから抜き放つことさえ出来ないだろう。
 こうなっては逃げるしかない。何とか相棒のところまで逃げ延びなければ――。
 相棒のところまでたどり着ければ助かる可能性が高い。
 何たって、あいつはこの手の化物の専門家だ……。
 …………。…………。…………。
 しかし、それにしてもおかしい……。あれからずっと走り続けているのに、一向に表通りに出る気配すらない。
 なぜだ? 裏路地に入ったときは1分と経たずに女と出くわしたはずだ?
 なぜ出口が無い!! 
 それに、なぜ俺は逃げている?
 なぜだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ?
 なぜだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ?
 なぜだ? なぜだ? ナぜだ? ナゼだ? なゼダ?
 ナゼダ? ナゼダ? ナゼダ? ナゼダ? ナゼダ……?

「なぜ…、オレは生きている……」

 それが、男の最後の言葉だった……。
 イブは骨と皮だけになった男の残りカスをつまらなそうに見下ろして囁いた。
「まぁ、予想以上に楽しめたけどね。腕前同様、たいした生気じゃなかったよ。
 これじゃあ失った右腕を再生させたら帳消しだよ。
 まったく、せっかくの食事は邪魔されるし、訳の分からん奴に襲われるし、今日は厄日かね……」
 そして、太腿まであるエナメル製のロングブーツで、仕事でするのと同じように男の躯を蹴り転がした。
 体中の体液を奪われた躯は、いとも簡単に回転し水しぶきを上げながら裏路地の壁際まで転がった。
 イブは、やれやれと言った感じで、路地の壁に貼られた呪符に目をやった。
 何年か前に篭絡した呪術師に書かせた護符で、強力な闇の結界を創りだす。
 結界の中では外とは違った時間の流れがあり、その中では何をしようが決して外の住人に気がつかれることはない。また、一度結界の中に迷い込んでしまうと、使用者以外はその結界から出ることは出来なかった。
 強力な呪符で使い勝手がよかったが、問題もあった。それは、一度使用するとその効力が消えてしまうということだった。
 つまり、再利用できない一回きりの“仕掛け”だった。
 イブの視界の中で、その呪符は青白い炎を発して燃え尽きる。
「ちっ! つまんないことに大事な呪符を使っちまったよ!!」
 毒づきながら、もう一度、男の躯に目をやる。
 そのとき躯のすぐ側に、雨に洗われるように四角い紙辺が落ちていることに気がついた。
(写真?)
 そう思って何気なく拾い上げると、そこには見知った人物の姿があった。
「亞祁仁!?」
 

   ○     ●     ○


 土砂降りの雨の中、今来たばかりの道を全速力で駆け抜け、イブはあの店に戻ってきた。
 地下へと続く階段を一気に飛び越え、扉を蹴破るように開く。その瞬間、嗅ぎなれた血の臭いがイブの鼻にかかった。
 店内は、破壊されたテーブルやら椅子が乱舞しそれらを彩る大量の鮮血によって、まさに地獄絵図といった様相だった。
 幾体もの躯が折り重なる店内の奥で、イブは目的の相手を見つけだした。
「亞祁仁!!」
 カウンターの影に隠れるように仰向けになって倒れている老人は、とても生きているようには見えなかった。
 それでもイブは、その場に駆け寄ると老人の名を何度も呼んだ。
 イブの声が届いたのか、しばらくすると老人の目がうっすらと開いた。
「亞祁仁! 大丈夫かい!?」
「……イブか……? だめだ、もう目が見えん」
「何言ってるのさ。こんな傷ぐらいあたしが直してやるよ」
 そう言って、イブは老人の厚いコートのボタンを外した。
 ゲル状の“妖”であるイブなら、かなりの拒否反応があるだろうが、自分の分身を相手の傷口に塗りこみ直接生命力を分け与えることができた。そうすれば、一時的に相手の命を繋ぎ止めることも可能に違いなかった。
 イブは亞祁仁の退魔師としての肉体に、その僅かな可能性をかけて老人のコートを開いた。
「!!」
 しかし、亞祁仁の身体を見たとたんイブは絶句した。 
 そこには、あるはずのものが無かった。そう、亞祁仁の身体がどこにも存在していなかった……。亞祁仁のコートの中には、初めから何も無かったかのように虚空が広がっているだけだった。
 手を触れようとしても、どこまでも続く暗闇の中に飲み込まれて実態を掴むことすらできなかった。
「分かっただろう、イブ……。
 私は当の昔に死んでいる。最初に奴等に襲われたとき、すでに力尽きていた。
 不覚だったよ。いくら耄碌したとはいえ、あの程度の奴等に遅れをとるとはな。
 今の私は死の直前に施した“死反玉(マカルカエシノタマ)”の呪法で仮初の生を得てるに過ぎん。
 だが、それももう終わりだ。奴等に隠し持っていた“死反玉”を奪われてしまった……」
「冗談だろ? 亞祁仁……。冗談だと言っておくれ!!」
 そうしている間にも、亞祁仁の顔は見る見るうちに色を失っていった。
「イブ……。孫娘達を頼む。いずれ奴等も二人の力に気がつく。まだ二人は一門の力に  目覚めていない。奴等の前では、自らを守る術ことすらできないだろう。
 イブ……、もし、二人に出会って、二人が助けるに足る人物と君が判断したら、どうか二人を助けてやってほしい」
「馬鹿のこと言うんじゃないよ、ガキの子守なんてごめんだよ。
 だいたい大切な孫娘を守るのは、亞祁仁、あんたの勤めだろう?」
 しかし、すでに老人の耳はその機能を停止し、イブの言葉は彼の心に届くことはなかった。
「イブ……三十年前…君を消し去らなかったのは、今でも正しかったと信じている。
 確かに君は、多くの人の命を喰らう“妖”だ。人の天敵だ。
 だが、君はそれゆえに人の身の内に宿る心の本質に一番近い“妖”だ。
 だから…だから君なら、人と“妖”が…共存するような…世界を…実現することが……できるかもしれない。
 だから…イブ……、君は…どんなことになっても……生き続けてくれ……」
「亞祁仁! 亞祁仁! アキヒトォォォォォ!!」
 絶叫が狭い店内にこだまする中、老人の身体は虚空の中に吸い込まれるように消えていった。
 後に残ったのは、老人が着ていた厚手のコートと、女の泣き叫ぶ声だけだった。


   ○     ●     ○


 本日未明0:05分ごろ、新宿区歌舞伎町のバーで暴力団同士の抗争により死者8名をだす大惨事が起こりました。
 警察当局の発表によれば、以前から対立が懸念されていた広域指定暴力団「中川組」と、同じく特定暴力団「倉田会」の賭博事業をめぐる争いで、当時、現場に居合わせた「倉田会」最高幹部“倉田洋蔵”氏の殺害を狙った「中川組」の犯行と推定されています。

 また、現場に近い路上で暴力団員と思われる男性一人の遺体が発見されており、今回の事件との関連性について捜査が進められています。


   ○     ●     ○



●始まりと出会い

「もう、あれから一年が経つんだね……」
 感慨深げに囁くと、イブは手にしたグラスからブランデーを喉に流し込んだ。
 外からは相変わらず、規則正しく打ちつける雨音が聞こえる。
 一年前のあの出来事を思い出すと、イブは今でも胸が押しつぶされるような感覚に襲われる。
「恋だとか、愛だとか、そう言うもんじゃない。
 だって、そうだろう? 亞祁仁?
 所詮、あたしは“妖”。あんたら人間とは、住む世界も違うなら生きる術も違う。互いに相容れない存在だ。
 それに、恋だの愛だって青臭いことは、あたしのガラじゃないよ。
 そうだね。あえていうなら、亞祁仁――あんたは“古い友人”てとこか……。 
 あたしの中で一番古く、そして一番大切な“古い友人”……」
 デザイン・テーブルの上では、薄暗い部屋の中でネオン街灯のように光を放つディスプレイと溶けかけた氷の入ったグラスだけが、イブの言葉を黙って聞いていた。
「そういや、あんたは“妖”と“人”が共存できる世界なんて馬鹿げたこと言ってたけど、あたしはそれが何なのか分からないし、分かろうとも思わない。
 ただ、あたしは、今も昔も同じ、ただ生きていくだけさ……。
 なにせ、あたしは“人”の命を喰らって生きる“妖(あやかし)”だからね……」
 自嘲気味の笑みを浮かべながら、イブはそう口にすると目の前のディスプレイに視線を移した。
 そこには、いつもの妖艶な女王様“黒木イブ”の顔が戻っていた。
 イブは、すばやくマウスを操作すると、彼女がここ一年ほど同類との連絡や情報収集に使っている、オカルト系ホームページ・ゴーストネットOFFを開いた。
 いくつかの専門掲示板を回り同類と暗号文を交わしたあと、イブは情報公開用の掲示板へとアクセスした。
 この掲示板は、大半はガセネタや、人騒がせな書き込みだったが、時として貴重な情報得ることもあり、イブ達のような存在には非常にありがたいものだった。
 特に、自分のテリトリーで起こっている怪奇事件などは、そのまま本人の行動に影響するため、イブとしてはこまめにチェックをして“狩場”の状況を把握しておくことが重要だった。
 いつもとおり、掲示板をチェックしていると、イブはそこに気になる書き込みを見つけた。
----------------------------------------------------------------------
[124]無題 
 投稿者 紫亞  投稿日 8月××日 / 0:05
 
 お願い、誰か助けて……。誰か気付いて……。
 お母さん、お父さん、お姉ちゃん……。
 誰か、私をここから出して!!
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 
 お願い、誰か? オ…ネイ…チャン……。
--------------------------------------------------------------------
[104]無題 
 投稿者 紫亞  投稿日 8月××日 / 0:05
 
 お願い、誰か助けて……。
 亞萌里ちゃん……。
 誰か、気づいて!!
 私は、ここ、ここにいるの。 
 私は……。
---------------------------------------------------------------------
 最初は単なるイタズラかと思った。しかし、二日連続で同じ時間に書き込まれていることと切迫した内容が、この書き込みの怪異性を際立たせていた。そしてこれら以上に、イブにとっては二人の人物の名前が気にかかった。
「亞萌里? 紫亞? まさかね……」
 そう思いながらも、イブの“妖”としての感が、この件が尋常ではないことを告げていた。
 イブは、不意にテーブルの端に立てかけてある紫色の布袋に目をやった。
「ふっ……。わかったよ、亞祁仁。どうしてもあんたはあたしに子守をさせたいんだね。
 いいよ、やってやろうじゃないか。
 ただし、二人がつまらない下等な人間共と同じだったら、そんときゃ遠慮なく喰らっちまうから、そのつもりでいなよ。
 なにしろ、あたしは“妖”だからね――」
 そして、イブは仕事着の上に愛用のロングコートを羽織り、颯爽と雨まだ降り止まぬ漆黒の世界へと飛びだした。
 その手には、紫色の布袋に包まれた“古い友人”からの預かり物が、しっかりと握り締められていた――。


 時は移り、流れ行く――。

 “人”の世界も、“妖”の世界も、
 等しく時代はめぐりゆく――。
 
 月に照らされ、闇に迷い、
 詠い騒ぐは、“人”の刻―― 
 踊り狂うは、“あやかし”の詩――――。


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号/ PC名 /性別/年齢/職業】

【0898/黒木 イブ/女/30/高級SMクラブの女王様】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 大変、お待たせしました。
 OMCライターの 綾瀬 孝 です。
 黒木イブさんご依頼のオリジナルノベル「“妖(あやかし)”」をお届けします。
 内容はお任せということで、現在依頼掲載中のゴーストネット・OFFのストーリーと絡めてみました。また、単純な活劇物よりも、キャラクターの内面を重視して書かせていただきました。
 しかし、イブ様のすばらしさのあまり、規定の4倍も書いちゃいました。(爆)
 今は、黒木さんのイメージしていらっしゃるイブ様の理想を、私が壊してしまっていないか、内心ヒヤヒヤしています。
 さて、話は変わりますが、先日は二通目のファンレターありがとうございます。
 二通とも、ものすごくうれしかったです。
 よろしければ、『こんなのはオレのイブ様じゃねぇ!!』等のお叱りでもかまいませんので、本物語の感想などいただけるとうれしく思います。

 現在、受注受付を行っています、ゴーストネットOFFの依頼ですが、規定人数に余裕があるため、もうしばらく受注を受け付けてから製作にかかろうと思っていますので、今しばらくお待ちください。
 また、本物語を受けて、イブ様の話し方や態度、戦闘方法など、修正点がございましたら、ぜひご指摘ください。

 最後になりますが、こんなつたない文章しかかけない私ですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。