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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


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●オープニング

「そろそろ時間ね……」
 少女の言葉に合わせ、蝋燭の炎がゆらりとなびく。
 その度に、薄暗い部屋を照らす光も震えるように蠢き、少女の艶やかな長い黒髪に反射する。
 厚いカーテンを閉め切った窓の外からは、規則正しく打ち続ける雨音が聞こえてくる。
「いくわよ、紫亞(シア)……」
 陰湿な雨音を掻き消すかのように、再び少女の声が響く。
 すると眼前の蝋燭の向こうに人形のように座る人影が、緊張した面持ちで顔を上げた。
「ねぇ、やっぱり止めようよ亞萌里(アモリ)ちゃん……」
「何を今更……。それに最初にお爺ちゃんのこと確かめようって言ったの紫亞だよ?」
「でも……」
 紫亞と呼ばれた少女は、黒髪の少女の言い分にそのまま押し黙ってしまった。
 その時、柱時計が深夜零時を告げる低い音を発てた。
「時間よ……。いいわね紫亞。はじめるわよ?」
 有無を言わせぬ亞茂莉の強い語調に、紫亞は頼りなさそうに頷いてみせた。
「じゃあ、いくわよ?」
 黒髪の少女は脇に置かれた桐の小箱から、直径15cm程の金属製の小さな鏡を取り出した。見れば、向かい側に座る少女も同じように鏡を手にしていた。
 お互いの準備が済んだことを確認すると、黒髪の少女はおもむろに上着の胸ポケットから古びた手帳を取り出し、茶黄色に変色した紙をめくり目的のページを探し出す。
 一度だけ、お互いに目を合わせると、亞萌里は手帳に記してある祝詞(ノリト)を読み上げた。

「――八百万ノ神々二、カシコミ、カシコミ、申ス……」
 最後の一節を朗読し終わると同時に、黒髪の少女はその場で深々とお辞儀をしてみせた。
『もう良いか?』少女がそう思って顔を上げようとした時だった。
 薄氷が割れるような乾いた音が部屋中に響き渡り、続いて重たい物が床に落ちる鈍い音が耳に聞こえた。
 ハッとして亞萌里が顔を上げると、目の前に座る少女の姿がどこにもなかった。
 驚いて思わず下を見ると、少女の腰から下が消えていくところだった……。
 数瞬の後、その場には黒髪の少女1人が取り残されていた。
 すべが終わったとき、時計の針は零時五分を指していた。
 そして目の前の少女が座っていた場所には、主を失った丸い鏡が虚しく横たわっていた……。

 
「はぁ〜。今日でもう3日連続で雨だよ?イヤになっちゃう!」
 雫は頬を一杯に膨らませて、元はファースト・フード店だったインターネット・カフェの大きな窓の外を睨みつけた。
 厚く体積した雨雲は、恨みがましく空を見上げる雫のことなど気にも留めず、次から次へと大粒の雨を滴らせる。
 さすがの雫も、こう何日もどんよりとした天気が続くと、どうしようもなく気持ちが萎えてしまう。
「はぁ〜」
 雫は再び大きな溜息を漏らし、顎をパソコンの置かれたテーブルに乗せると店内を見回した。平日の夕方ということで、制服姿の学生が何人も目につく。
 ぼんやりと同世代の少年少女たちを眺めていたとき、雫はある女子高生の異変に気が付いた。
 視線の先の女子高生は、腰まである艶やか黒髪を震わせながらテーブルの上のディスプレイを凝視していた。
「だいじょうぶかな? あの人?」
 雫がそう思った矢先、黒髪の少女は『ヒッ!』と短く声を発してその場に崩れるように倒れてしまった。
「うわぁぁ〜! どうしたの? 大丈夫!?」
 驚いて雫が駆け寄ったときには、少女は完全に意識を失っていた。
 黒髪の少女が凝視していたディスプレイには、ゴーストネットOFFの掲示板が映し出されていた……。

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[124]無題 
 投稿者 紫亞  投稿日 8月××日 / 0:05
 
 お願い、誰か助けて……。誰か気付いて……。
 お母さん、お父さん、お姉ちゃん……。
 誰か、私をここから出して!!
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 誰か? 
 
 お願い、誰か? オ…ネイ…チャン……。
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●SCEN.1

「うわぁぁ〜! どうしたの? 大丈夫!?」
 インターネットカフェの店内に、雫の叫び声が響く。
「ねぇ、ねぇ、大丈夫」
 雫は意識を失っている少女の肩を掴むと何度も揺すってみせた。
「気を失った人を、手荒に扱っちゃダメ」
 慌てふためく雫の行動を、背後から現れた人影が制止する。
 突然現れた相手に、驚いて振り向く雫の眼に、ふわりと金糸のような柔らかい髪が映る。
「雫。原因が分からないのに、むやみに気を失った人を動かすのはよくないよ。
 もし、脳障害だったりしたら、今みたいに激しく動かすとかえって状態が悪くなることだってあるんだから」
 雫の視線の先には、白い肌に美しい金色の髪をした白人女性が座っていた。
「レイレイ!!」
 たまたまその場言い合わせたレイレイことレイベル・ラブは、驚く雫をよそに片膝を付いてかがみこむと患者の容態を確かめる。
 レイベルは、その緑色の瞳を目一杯に見開いて、意識のない少女を診断する。
「どうやら大丈夫みたいだね」
 そう言うと、白衣代わりの白いコートのポケットから小さな小瓶を取り出し、少女の鼻の下にそっと差し出す。
 とたんに少女の体がビクンと跳ね上がり、続いて悩ましい吐息と共にゆっくりと少女が目を開いた。
「やった! さすがレイレイ。お医者様は違うね」
 少女の意識が戻って喜ぶ雫に、レイベルは「ありがと」と囁いて黒髪の少女に向き直る。
「あなた大丈夫……?」
「あの? 私……?」
 何が起こったのか理解していない少女は、片手で頭を抑えながら立ち上がろうとするが、すぐによろけてしまう。
「あれあれ、あなた大丈夫?」
 黒髪の少女がよろけて再び倒れそうになったところを、脇から赤毛の女性が抱え込むように支えてきた。
「あらら、今度はスーちゃん」
 何度目かの驚きを示し、雫が知り合いの名を呼んだ。
「久しぶりね、雫」
  紅・蘇蘭(ホン・スーラン)は、伏目がちな赤い瞳を雫に向けると、ゆっくりと微笑んでみせる。その艶やかで懐古的な笑みは、紅の着る体にフィットするチャイナドレスを模した黒いノースリーブシャツの魅惑的な姿とあいまって男達の視線を惹いていた。
 この、レイベル・ラブと紅・蘇蘭の二人は、見た目はそれぞれ20代の妙齢な女性だったが、実際にはその数十倍の生を享受していた。
 特に、紅・蘇蘭は千年に渡って浮世を渡り歩く“天仙”であり、その正体は紅瞳公主(コウルイコウシュ)という“鬼”であった。
 対するレイベルは16世紀の欧州生まれであり、紅・蘇蘭ほど長命ではく、また、れっきとした人間であったが、その人生は紅・蘇蘭に勝るとも劣らない波乱に満ちたものだった。
 彼女が生を受けた16世紀のヨーロッパは宗教戦争と魔女狩りの過酷な時代だったからだ。
 そこでは、昨日まで共に笑い、共に過ごした家族が、友が、隣人が、翌日には異端の徒として焼き殺される――そんな時代の中で、レイベルはある存在と契約を結ぶことになる。
“サリイサ”――その存在は自らをそう称した。
 彼女あるいは彼は、何を思ってレイベルの前に現れたのかは定かではない。ただ“サリイサ”は、レイベルと血のイニシエーションを結び、彼女に“若さ”と“力”を与えた。
 あれから、400年が経とうとしているが、その契約は未だレイベルの体を蝕んでいる。
「スーちゃんはいつ来たの?」
 男の舐めるような視線などまだわからない女子中学生の雫は、デート相手(?)の紅・蘇蘭にあっけらかんとした口調で話しかける。
「ついさっきよ。あなたが大声で叫んでたあたりにね。
 しかし、雫はどうも落ち着きがない娘でいろいろ騒ぎを起こすタイプだと思ってたけど、いきなり暴れてるとはね……」
 紅・蘇蘭は、あきれた様子で肩をすくめてみせる。もともとこの二人は、ゴーストネットOFF主催の『肝試し大会』のため、この店で待ち合わせをしていたのだ。
「だって、突然そこのお姉さんが倒れるんだもん」
 紅のからかうような言葉に、ぷくっとほほを膨らませながら、雫は黒髪の少女を指差した。
「あ、あの……。私いったい?」
 状況が飲み込めていない少女は、三人の顔を見比べるようにして見つめていた。
「あなた、突然倒れたんだよ? 覚えてないの?」
 事情を説明するように、レイベルが少女に語りだす。
「そういえば、私、お店に入って注文をしてインターネットを立ち上げて、それから……!?」
 そこまで言って、少女はハッとなって彼女がさっきまで座っていた席に備え付けられているディスプレイを覗き込んだ。
「あっ! ここ、私のHPだ……」
 雫の何気ない一言に、黒髪の少女は驚いて彼女をみる。
「あらホント。雫のページじゃない?」
 今度は、紅・蘇蘭が驚いて声を上げた。
 そこには、確かに瀬名・雫が運営する、ゴーストネットOFFの掲示板が映し出されていた。
「あっ! この書き込み知ってる。イブイブが調べてるやつだよ?」
 画面に映し出されている書き込みを見て発した雫の言葉に、紅が反応する。
「イブイブって、もしかして黒木・イブのこと?」
「うん、そうだよ……て、スーちゃんとはあまり仲良くなかったんだっけ?」
「いや、別に。勝手に向こうが避けてるだけで、私は楽しい(悪戯がいのある)娘だと思ってるんだけどねぇ。
 そういえば、この書き込みって、前にも似たようなやつあったわよね。えぇっと、どこだったかしら……」
 紅はすばやくマウスを操作すると、画面に二日前の書き込みを表示した。
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[104]無題 
 投稿者 紫亞  投稿日 8月××日 / 0:05
 
 お願い、誰か助けて……。
 亞萌里ちゃん……。
 誰か、気づいて!!
 私は、ここ、ここにいるの。 
 私は……。
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「ほら、これ……」
 その書き込みを見たとたん、黒髪の少女が両手で口を覆い隠すようにして驚きの声を上げた。
「こ、これ……」
「あれれ、お姉さんは、この書き込み知ってるの? 
 私のHPって結構変な悪戯みたいな書き込みが多いけど、この書き込みは二日連続でまったく同じ時間に書き込まれてるから、私もへんだなぁ〜って思ってたんだけど……」
 雫が最後まで語る前に、レイベルが会話を遮るように彼女の肩を叩いた。
「ちょっと、あなた達、どうやら込み入った話は別な所でした方が良いみたいだよ」
 レイベルは顎をすこし動かすと、他の三人に周りの様子を伺わせた。
 そこには、突然の騒ぎに驚く客たちの輪が出来上がっていた。


●SCEN.2

 雨の中を走りぬけたバイクを降りると、黒木・イブは腰まである黒髪を揺らしながら、ファミリーレストランの扉を開き店内に入った。
 制服がかわいいと有名な店だけに、夕方のこの時刻は殆ど満席状態だ。
 スラリとした長身に、豊満な胸をもつ妖艶な女性の登場に、順番待ちの客たちの視線が集まる。申し訳程度に前を隠した黒いロングコートからは、豊満な胸の谷間がこれでもかといわんばかりに自己主張していた。
 この、30歳前後に見える女性は、実は人間ではない。
 その正体は、人の生気を吸って生きる“妖(アヤカシ)”である。普段はその美しい容姿を生かして新宿にある高級SMクラブの女王様として、夜な夜な被虐趣味の男女を相手に鞭を振るっている。しかし、それはあくまで人間社会で生きていくための仮の姿であり、ひとたび夜闇にまぎれれば、人を襲ってその生を貪る“妖”であった。
 そのためイブは、普段から仕事着であるトップレスのエナメル製ボンテージに身を包み、出歩くとき意外はコートすら着けず、その張りのあるバストを衆目にさらしていた。
 さすがに今は、夕方とはいえ昼間。仕事着の上には愛用の黒いロングコートを羽織っている。
 イブがそのコートの裾をなびかせレジカウンターの前まで進むと、愛想の良い笑顔を浮かべた女性店員がメニュー片手に話しかけてきた。
「いらっしゃいませ! お客様はお一人ですか?」
「いや、連れが先に来ているはずだ」
 偽善的な笑みを浮かべる女性店員に不機嫌そうに答えるイブ。
「やっほぉ〜! イブイブこっちこっち!!」
 そんな二人のやり取りを打ち消すように客席からみょーに緊張感の無い声がかけられる。
 客席の一番奥から乗り出すようにして、瀬名雫がブンブンと手を振ってしきりに存在をアピールしていた。
 雫達は、注目を集めるインターネットカフェから脱出すると、イブに連絡を取りこのファミレスに避難していたのだった。
「雫……、あんたその呼び方どうにかならないのかい?」
「なんでぇ? イブイブの方が親しみやすいじゃん?」
「あんたねぇ……」
 雫達が陣取るボックス席までやってきて、イブは場違いなほど間延びした声を立てる相手に半ばあきれ返る。
 珍しいことに、イブはこの14歳の少女に敵意を感じなかった。
 常のイブならば、こんな年端もいかない少女にタメ口を聞かすようなまねはしない。
 しかし、どういうわけか雫に対しては、何をされてもまったく腹が立たないのだ。
 それどころか、彼女の頼みだと多少の無理をしてでも聞いてやろうという気さえ起こる。
 これは雫という少女のもって生まれた天性なのかもしれない。
 あるいは、彼女の、まるで日の光のような天真爛漫な姿に、闇の住人であるイブが強く惹かれているのかもしれなかった。
 どちらにしろ、あのイブでさえこうなのだから、雫を嫌う相手は皆無と言ってよかった。
「じゃぁ、皆紹介するね!! こちらイブイブこと黒木・イブっち。よろしく〜!!」
 他人を紹介するのになぜか自分で挨拶する雫。
 やれやれといった調子で、イブはようやくボックス席に視線を移す。
「うっ? あんた骨董屋のババァ! なんでてめぇが!!」
 ボックス席に座る残り3人を見て、イブは驚きのあまり声を上げてしまった。
「あら、私には紅・蘇蘭(ホン・スーラン)ってちゃんとした名前があるのよ、お嬢ちゃん?
 それにその言い方。まるで私がここにいちゃ悪いみたいね」 
 そこにはイブの宿敵である紅・蘇蘭が鎮座していた。それまでボックス席の影に隠れて見えなかったとはいえ、宿敵の存在に気が付かないイブもイブである。
 しばらく睨み合っていた二人だったが、
「悪いけど雫、あたしは帰らせてもらうよ」
 と言葉を発し、イブはくるりと背をみせる。
「あら?逃げるの?」
「ふん、その手には引っかからないよ」
 紅の挑発を、イブはさらりと返す。この見た目だけは若い相手がどういった存在なのか、イブは経験上よく知っている。彼女の軽い挑発に乗って何度痛い目にあったか、その数は両手の指だけでは足りないほどだった。
「だめだよ、イブイブ。そんなんじゃお友達増えないよ? それにスーちゃんもスーちゃんだよう?」
 二人のやり取りを見て、すかさず雫が二人の間に入る。
「雫、あたしは別に仲間が欲しいわけじゃないんだよ。
 だいたいあんたの方こそ、あの婆さんとあたしがどういう関係かは知っているだろう」
 雫の訴えに、言葉で返すイブ。一方、紅は軽く肩をすくめて見るだけで、あとは二人のやり取りを面白そうに眺めているだけだった。
「でも、何でも良いからあの書き込みの情報欲しいって言ったのイブイブだよ」
「何だって?」
 雫の言葉を聞いて、再びイブがボックス席を見る。
「紹介するね。こちら石上・亞萌里(イソノカミ・アモリ)さん。イブイブが探していた書き込みの人……」
 雫か手で指し示した相手は、イブと同じ長い黒髪をした15・6歳ぐらいの女子高生だった。
「あ、あのぅ……。石上・亞萌里です……。その……よろしくお願いします」
 黒髪の少女は、鋭いイブの視線に白い夏用のセーラー服に包んだ身体を強張らせる。
「あんた、ほんとに“あの”石上・亞萌里かい?」
 イブの問いに、少女は首を縦に振って答える。その姿は、品定めするかのようなイブの視線に怯えているようだった。
「その辺にしてあげなよ。この娘、あなたが睨みつけるから怖がっちゃてるじゃない」
 その時、ちょうど少女の隣、紅の向かいに座っていた金髪の女性が口を開いた。
「あんた、誰だい?」
 突然割って入ってきた女に、イブは怪訝そうに尋ねる。
「あっごめん、紹介途中だったね。えっと、こちらはレイレイことレイベル・ラブさん。気を失った亞萌里ちゃんを助けてくれたの」
「どうも」
 レイベルは、雫の紹介に短く答えると軽く手を上げてみせた。
「いつまでも突っ立てないで、座ったらどう?
 さっきから、ウェイターの子が注文取れなくて困ってるわよ」
 いっこうに席に着く気配の無いイブに、紅が目線で後ろを指し示す。
 そこには、どうしたら良いのか分からずにおたおたする少年ウェイターが立っていた。
 手にしたトレンチには、一人分のグラスとおしぼりが乗せられている。
 グレイのベストに、19世紀の貴族を思わせるようなレースの付いた白いシャツ。
 実はこのファミレスが男女を問わず人気なのは、女性ウェイターの制服だけでなく男性ウェイターの制服も凝っていて、しかもウェイター自身のレベルも高いからだった。
「ちっ!」
 イブは軽く舌打ちすると、開いている場所に音を立てて座った。イブの隣では、紅・蘇蘭が楽しそうに笑みを浮かべている。
「はい、はぁ〜い! おねがいしまぁ〜す!!」
 やっと全員が席に着き、雫が間の抜けた声を発してウェイターを呼ぶ。
 その声に、立ち尽くしていた少年ウェイターが、さらさらのショートヘアを元気よく揺らしながら、雫達の席までやってくる。
「大変お待たせしました」
 お決まりのセリフを吐きながら、イブの前にグラスとおしぼりを置きメニューを手渡す。
「あのぅ……、ご注文はお決まりでしょうか?」
 ちょっと大きめな目をすまなそうに見開いて、ウェイターがポケットからハンディーを取り出す。
(ふぅん、中々おいしそうな子じゃないか?)
 ウェイターを見て、瞬間的にイブは妖艶な笑みを浮かべる。それを見たウェイターは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「ねぇ、あたし達はもう決まってるけど、イブイブはどうする?」
「あたしはいいよ。人間の食べ物を食ってもどうしようもないしね……」
 さらりと言い放ったイブの言葉に、雫と亞萌里そしてウェイターが一瞬首をかしげる。この三人はイブや紅の正体を知らないのだ。あとの一人、初めて会ったレイベルも当然しらないはずだったが、さっきの言葉にまったく反応しないところを見ると、どうやらうすうす感づいているのだろう。
「じゃぁ、あなたは何もいらないってこと?」
 すかさず、紅・蘇蘭がさりげなく話をずらす。
「まぁ、そう言う訳にもいかないだろうから、珈琲を頂くとするよ。
 それより、雫。あんたは何を食うんだい」
 突然話を振られた雫は、驚いて右手のすぐ側に置いてあったグラスを倒しそうになった。
「うぃ〜! 危なかったよう!!」
「何やってんだい、あんたは?」
「う〜ん、だって……」
「それより、何を頼むんだい?さっきから、この子が困ってるよ?」
 イブが、ウェイターの少年を指差してみせる。
「あぁ、あたしはこのあとHPのみんなと肝試し大会があるから、ドリンクとデザートだけ頼むの」
 そう、雫はもともとゴーストネットの仲間とのオフ会待ち合わせのため、あのインターネットカフェに居合わせていたのだ。そしてイブの隣に座る紅・蘇蘭も、本来は雫に誘われてオフ会に参加するところだったのだ。
「ふぅん、で、結局何頼むんだい?」
「えっとね、アップルパイのホールとフルーツパフェと、あとあとマンゴープリンでしょう……そうそう、ドリンクはねぇ――」
 その後、しばらく雫の注文が続いた。その光景は、ウェイターも含め周りの者をあきれさせるのには十分すぎるほどだった。


●SCEN.3

「つまり、あなたはそれ以来、寮に帰ってないんだね」
 レイベルの言葉に頷く亞萌里。
「じゃぁ、その後、妹さんがどうなったかまったく分からないってことだね」
 軽い食事(約一名を除いて)を終えたあと、四人は亞萌里からあの書き込みについて話を聞いていた。
 話を要約すると、二日前、亞萌里と紫亞(シア)の双子の姉妹は、学校の寮である儀式を行った。その儀式の結果、妹の紫亞が突如として消えてしまったというものだった。
 そして、その事に恐怖した亞萌里は、そのまま深夜の寮を飛び出して、ずっと新宿の街を彷徨っていたのだという。そう言われてみれば、少女の艶やかな黒髪も清純そうな白い制服も、どことなく薄汚れて見えた。
「で、たまたま立ち寄ったインターネットカフェで、あの書き込みを見つけたと?」
「はい、あの怪奇HP……いえ、雫さんのHPは妹が好きで、よく見ていたので……」
 レイベルの問いかけに、亞萌里はうつむきながら答える。
「ふぅ、ダメね。それじゃぁ、何も分からないと一緒。
 だいたい、どうして二人はそんな呪術めいたことしようなんて思ったの?」
 これじゃぁ、話にならないといわんばかりに、紅・蘇蘭がため息混じりに聞きかえしてきた。
「そ、それは……、おじいちゃんの……祖父の死について知りたかったからです」
「おじいさんの?」
 亞萌里の言葉に、向かいで珈琲を口にしていたイブの手が一瞬動きを止める。
「はい、私達姉妹は生まれてすぐに両親としに分かれて、ずっと祖父と三人で暮らしてきました。両親の顔さえ知らない私達にとって祖父は父であり母であり、そして唯一の肉親でした。
 そんな祖父が一年前に、この新宿で暴力団同士の抗争に巻き込まれて死んでしまったんです……」
 祖父の死について口にすると、少女はそのまま下唇を噛み締めて黙ってしまった。祖父の死については、未だこの少女の心に深い傷を残していることがうかがえる。
「で、大好きなおじいちゃんと会って、もう一度話がしたかったということ?
 だから、訳の分からない呪術を使ったと……」
 押し黙ってしまった亞萌里に対して、紅は冷ややかな態度で付け加える。
「訳の分からない呪術じゃありません! あれはおじいちゃんの手帳に書いてあった、ちゃんとしたものです!!
 それに、私達はただおじいちゃんに会いだけであんなことしたんじゃありません!!
 私達は、おじいちゃんの死について本当のことを知りたかったから、あの術を行ったんです!!」
 紅の言葉に、それまで大人しかった亞萌里が突然席を立って叫びだした。
 一瞬にして客席の注目が雫達のボックス席に集まる。
「まぁ、まぁ、亞萌里ちゃん。落ち着いて……」
「つ、つい……。すいません……」
 雫の制止に、我に返った亞萌里が申し訳なさそうに座りなおした。
「なら、そのおじいさんの死ってどういったものだったんだい?」
「実は、それがよく分からないんです。
 突然行方不明になったと思ったら、一週間ほどして警察の方から、おじいちゃんは暴力団同士の抗争に巻き込まれて亡くなったと言われたんです。
 でも、遺体とかは無くて、ただおじいちゃんの身に着けていた衣服だけが戻ってきて……一年経った今でも、警察は何も教えてくれないんです。
 だから、妹と相談しておじいちゃんの手帳にあった“道反術(ミチカエシノジュツ)”を試してみようってことになったんです」
 一気にそこまで喋ると、亞萌里は再び押し黙ってしまった。
「で、その結果が妹の行方不明というわけかい?」
 それまで黙って事の成り行きを伺っていたイブが、話をまとめるように発言する。
「はい……」
 力なく頷く亞萌里の表情は、疲れきってやつれてみえた。
「そうなると、そのおじいちゃんの手帳ってやつを見てみないことには、どうしようもないみたいね」
「そういうことだね」
 紅・蘇蘭の言葉に、レイベルも同意する。
「なら、善は急げだ。亞萌里、その手帳を見せてくれないかい?」
 レイベルは、即すように手の平を亞萌里に差し出した。
「手帳はここにはありません。その、全部、寮の部屋に置いてきてしまって……」
「ということは、亞萌里ちゃんの部屋まで行かなきゃダメってことね」
 亞萌里の説明を聞いて、紅が再びため息混じりに口を開く。
 その様子を見て、亞萌里も申し訳なさそうに体を小さく折り曲げて萎縮する。
「よし、ならその寮ってとこに皆で行こう!!」
 暗くなりかけた場を引き戻すように、雫が元気一杯に手を振り上げてみせる。
「て、あんたは肝試し大会があるでしょう? いくらなんでも主催者不在って訳にはいかないよ」
 紅の指摘に、コブシを振り上げたままのポーズで固まる女子中学生。
「雫はちゃんとオフ会に行ってきなよ。大丈夫、あとでどうなったか詳しい話をしてやるから安心しな」
「うぅぅ〜。絶対だよ。約束だよ、スーちゃん」
 やれやれといった感じで紅が約束すると、ようやく雫は納得して落ち着いた。
「ということだけど、亞萌里ちゃんはそれで良いかしら?」
「はい、わかりました」
 亞萌里の同意に、皆が納得して席を立とうとした時だった。
「ちょっと待ちな」
 突然、イブが皆を止めた。
「ちょっと待ちな。
 これまでの話で、今のところの状況は大体分かったけど、亞萌里、あんた結局どうしたいんだい?」
「えっ?」
 あまりに唐突に聞かれ、少女は戸惑って動きを止める。
「亞萌里、あんた、その何とかっていう術を使って、爺さんにあいたいのか? それとも紫亞を助けたいのか? いったいどっちなんだい?」
 イブの言葉を聞いたとき、その場にいた誰もが一瞬息を呑んだ。
 確かにこれまでの話で、ことが起こった大体の状況はわかって、まず何をするかも決まった。
 しかし、イブがその本質を突くまで、誰も少女に彼女がいったい何をしたいのかを聞いていなかったのだ。
「私は……」
「どうなんだい?」
 イブの追及に、一瞬とまどう亞萌里。だが、次の瞬間にはハッキリとした口調で答える。
「私は、妹を助けたいです」
「なら、爺さんのことはあきらめるんだね?」
「それは……わかりません。確かに、おじいちゃんの事は知りたいです。でも、もし紫亞を助けられるなら、私は何より先に紫亞を、妹を助けたいです」
 両手でギュッとスカートの裾を握り締めながら、亞萌里は周りを見返す。
「OK、あなたがそのつもりなら私は手を貸すよ」
 その姿に、すぐ隣に座るレイベルが逸早く手助けを申し出る。
「良いわ、私も手を貸しましょう。なんたって肝試し大会よりは、こっちのほうが断然面白そうだしね」
 つづいて、紅・蘇蘭も楽しそうな笑みを浮かべて答えた。
「皆さん、ありがとうございます」
 そんな二人の申し出に、亞萌里は感謝の気持ちで一杯になって、何度も頭を下げる。
 しかし、最後の一人はそう簡単にはいかなかった。
「あたしはそいつ等と違ってタダで手を貸すようなお人好しじゃないよ。あたしの力が借りたいんなら、報酬としてあんたの体をもらう。
 どうだい、あんたが本当に妹を助けたいんなら、安いもんだろう」
「私の体を?」
 相手の言っている意味を計りかね、首をかしげる少女。
「そうさ……あんた自身の体さ」
「ちょっと、イブイブってそっちの趣味あったの?」
 雫はちゃかすようにイブに話しかけた。
「黙ってな、雫。これは子供の出る幕じゃないんだよ。
 もし、亞萌里がこの条件を飲むなら、あたしはこいつの妹ってのを助けるのに命をかける。あとは亞萌里、あんたの覚悟しだいさ。本当に妹を助けたいなら、覚悟を決めな」
 雫のちょっかいにも動じず、イブは真剣な眼差しで亞萌里をみつめる。先ほどまでの和やかな雰囲気とは打って変わって、緊迫した空気が五人の間を流れる。
「ちょっと、イブ。あなたこんな時に何言ってるのよ。いい加減にしなさい。
 ほら、あんたがそんなこと言うから、亞萌里ちゃん困ってるじゃない」
「引っ込んでな、婆さん。これはあたしと、亞萌里とのサシの勝負なんだからね。
 で、どうするんだい? 亞萌里?」
 たまりかねて、紅が少女に助け舟を出そうとする。しかし、それすらピシャリと跳ね除け、イブはじっと少女の答えを待った。 
「わたしは…私は……」
 外では大粒の涙を流す灰色の空が、どこまでも続いていた。


● SCEN.4

『私立清涼学園』
 全国でも珍しい神道系の名門私立高校として知られる学園。
 この全寮制高校の女子寮に、亞萌里と妹の紫亞の部屋がある。
 結局、あの後、亞萌里の答えは出なかった。
 正確には、彼女が答えを出す前に、あきれた紅・蘇蘭やレイベルによって、亞萌里は外へ連れ出されてしまったのだ。
 そして、雫は肝試し大会へと向かい、他のメンバーは雨の降る中、この学園までやってきたのだが、驚きだったのはイブの行動だ。
 亞萌里の答えが出なかった以上、誰もがファミレスを出た後、イブはその場を立ち去るだろうと考えていた。だが、現実にはイブは今現在も他の三人と行動を共にしていた。
そのためか、学園までの道程は皆無口で、殆ど会話らしい会話はなかった。
 清涼学園の女子寮は、学園に隣接する『統和学院大学』の敷地内にある。元々、亞萌里の通う清涼学園は、統和学院大学の付属高校なのだ。
 瓦屋根の校門をくぐって大学の敷地内に入ると、夏休みの、しかも夕刻とあってか人の姿は疎らだった。
「また、えらく古風な造りの学校だねぇ」
 学内に入った紅の口から感嘆の声が漏れる。
 まず、門構えからそうだったが、統和学院大学のキャンパスは古風というか、懐古主義というか、古い石段や石畳、苔の生した土に樹齢数百年はあろうかという大木の生い茂る、日本庭園を思わせる造りだった。それでいて、建物自体は日本庭園風のキャンパスの雰囲気に合わせながらも、最新の設備が備え付けられたデザインマンションのような真新しい造りとなっていた。
 その光景は建物こそ違うが、どことなく寺社仏閣の造りを髣髴させる。
「はい、元々は大きな神宮が建っていたそうですが、戦後まもなく移転したのにあわせて、跡地に大学が建てられたみたいです。
 ちょうど一年前に五年もかけた大改修が終わったばかりで、建物自体は新しいですけど」
 キャンパス内を女子寮に向かって歩きながら、亞萌里は学校について色々説明する。そうでもしないと間が持たないのだろう。
「あれ、イブ? どうしたの?」
 そんな時、長い石段を登り二つ目の楼門を潜ったところで、レイベルは後ろを歩くイブの異変に気が付いた。
 見れば、イブは疲れきったような表情で、門の外に立っていた。
「どうしたんだい? まさかあの程度の石段で疲れたなんていわないよね?」
「はん! あんた、冗談きついよ。何、ちょっと学内の景色に見とれてただけさ」
 レイベルの科白に、意を決したようにイブは門を潜る。その表情には嫌な汗が滲んでいた。
「本当に大丈夫?」
 イブの余裕のない表情に、レイベルは不信に思い再び声をかける。しかし、その返事は予想に反して別方向からもたらされた。
「大丈夫よ、レイベルちゃん。この娘は仕事がら心が腐ってるからね。こういった、古式床しいところにくるとね、気分が悪くなるのよ。
 まぁ、そうね、ここは彼女的には“ヘドが出る”ってとこなのよ。
 だいたい、昼真っからそんな格好で出歩く輩だからね。場違いなところに来て、ガラにもなく緊張してるってわけ」
 レイベルが振り向くと、いつの間にかすぐ脇に嫌味っぽくニヤケながら、紅・蘇蘭が立っていた。
 紅は、そのままさりげなくイブに歩み寄ると、レイベルに見えないように懐から一枚の呪符を差し出した。
「あなた、これをもってなさい。“術通符(ジュツトオシノフ)”よ。あなたみたいな純粋な“妖”じゃぁ、ここの結界はきついでしょう?
 この符を持っていれば、多少は結界の力を誤魔化せるはずよ」
 紅は、周りに聞こえないように小声で囁いた。
 結界――。
 そう、この大学には幾重にも渡って“妖”封じの結界が張られていた。
 イブも、すでに最初の校門を過ぎたときからその影響下にあったのだが、当初はそれほど強力ではなかったので何食わぬ顔で校内を歩いていた。
 しかし、亞萌里に随って奥に進むほど、その影響力は増していき、先ほど越えた二番目の楼門には最初の校門を遥かに凌ぐ強力な結界が施してあったのだ。
「てめぇ、あたしを馬鹿にしてるのかい?
 この程度の結界で、あたしが怯むと思ってんじゃないだろうね」
 言葉とは裏腹に、イブの顔色は悪い。
「やせ我慢はよしなさい。ここの結界は“天仙”である私ですら、能力に影響を受けるほど強力よ。
 まして、呪術の鍛錬を積んだことの無い、純粋な“妖”であるあなたに耐え切れるものじゃないわ。
 それに、いざと言う時に足手まといになられると、こっちとしても困るのよ」
 この強力な結界は、鬼の身でありながら高徳を積んで“天仙”となった紅・蘇蘭――紅瞳公主でもかなりの影響をうけていた。
 まして、呪術の呪の字も知らないイブには、その影響力の凄まじさは計り知れない。
 それに今回はイブの“妖”としての能力の高さがさらに悪影響を及ぼした。
 並みの“妖”であれば、これほど強い影響を受けなかったかもしれない。しかし、幸か不幸かイブは並みの“妖”ではなかった。自我を確立して三〇年程度の若い“妖”としては驚異的な能力を持っている。
 しかし、今回はその能力が仇となって、彼女を苦しめる結果となった。
「ちっ!」
 イブは、短く口の中で舌打ちすると、紅・蘇欄の手から呪符を奪い取り、自らの体に直に貼り付けた。イブとしても足手まといなんてことになるのは真っ平ごめんだった。
 呪符は、すぐに淡い輝きを発するとイブの身体に刺すような苦痛を与えていた結界の影響力を中和し始めた。
 しばらくするとイブの体から冷や汗が退き、顔色も元の状態に戻ってきた。
「ふん、今回は借りにしとくよ」
 先ほどまでの苦痛が嘘のように退く。
「それにしてもここの結界、かなり巧妙に出来上がっているわ。
 しかも、対“妖”用に特化されてる。
 人間には影響しないようだけど、あのレイベルって娘がまったく気が付かないほどとは恐れ入るわ。
 普通、彼女ほどの能力者ならすぐに気が付いてもいいはずなんだけどね……」
 つまり、この大学に結界を施した相手は、それほどの実力者ということになる。
 紅はそのことを考えると、一瞬背筋に冷たいものが走った。これほどの結界術を施すとなると、その実力は自分と同じ“天仙”クラスになるはずだったからだ。
「あのう、大丈夫ですか?」
 突然声をかけられ、紅の思考は現実世界に引き戻される。
 気が付けば、目の前に黒髪の少女が心配そうに立っていた。
「あぁ、亞萌里ちゃん。大丈夫、大丈夫。ちょっと考え事してただけ……。
 それより、さっさと亞萌里の女子寮へ行きましょう」
 そういって、紅は颯爽と歩き出す。しかし、その歩みはすぐに亞萌里の手によって引きとめられる。
「あのう、女子寮はここです」
 済まなそうの顔をしながら少女が指差す先には、重厚な造りのホテルを思わせる10階建てのビルがそびえたっていた。
「こりゃぁ、すごいね。ここ、ホントに学生寮なの?」
 驚いてレイベルが尋ねる。
「はい、ここでは授業期間中は、清涼学園の女子生徒400人以上が生活してます。
 ただ、今は夏休みですから殆どの生徒は実家に帰っていませんけど……」
 亞萌里は、そう説明すると他の3人を先導するように進みでる。
 しかし、寮の入り口まで来ると、急に立ち止まってしまった。
「怖いのかい?」
 いつまでたっても動こうとしない亞萌里に、イブが告げる。
「は、はい……」
 素直に答える亞萌里の顔は、緊張したように強張っていた。
「でも、大丈夫です。二日前は一人だったけど、今は皆さんが付いてくれていますから」
 そして、緊張した顔に引きつった笑みを浮かべて見せると、意を決して寮内に足を踏み入れた。
 自動ドアを抜けた先には、ホテルのロビーのような空間が広がっていた。
 そのロビーをまっすぐ進むと、亞萌里は目の前に設置された受付に向かった。しかし、しばらくしてそのまま引き返してきてしまった。
「寮母(管理人)さん、外出していないみたいですから、このまま部屋に案内しますね」
 そう言って、今度はエレベーターに向かった。
 実際のところ、寮母が不在だったのは亞萌里達には幸運だった。もし寮母がいれば、まずまちがいなくレイベル・紅・イブの三人について咎められただろう。特にイブは格好が格好なだけに、本来なら寮内に入ってすぐに追い返されていたに違いなかった。
 三階で止まったエレベーターを降り、三人は亞萌里に先導されて一番南側にある部屋の前までやってきた。
 しばらく躊躇したあと、亞萌里は財布の中からカードキーを取り出し、鍵穴代わりのスロットに差し込む。
 短い電子音がなって、鍵が外れる音が響きスロット脇のライトが赤から緑へと変わる。
 震える手でドアノブを握りゆっくりと時計回りに回転させると、亞萌里は二日ぶりに我家の扉を開けた。
 その時だった――。
「亞萌里? 亞萌里じゃない?」
 通路の反対側の角、ちょうどエレベーター・ルームへと続くその場所から、一人の少女が声をかけてきた。
「玲子?」
 玲子と呼ばれた少女は、その場から駆け出すと驚く亞萌里に抱きついてきた。
「よかった亞萌里。無事だったんだね。あなた達二人して突然居なくなるから、寮長と皆で探し回ったんだよ?
 あぁ、大丈夫、安心して。あなた達のことは、まだ寮母さんには言ってないから。
 それにしてもよかった、紫亞が“あんなこと”になってたから、クラスの皆は二人して自殺したんじゃないかって話してたほどなんだから……」
 一気にまくし立てるように話し終えると、玲子は亞萌里の無事を確認するように、彼女の手を強く握り締めた。
「ちょっと? 紫亞が、妹が“あんなこと”になってたってどういうこと?」
 玲子の為すがままにされていた亞萌里は、しかし友人の最後の言葉を聞き逃さなかった。
「え!? 亞萌里、知らないの? ヤバ、まずっちゃった?」
 亞萌里の指摘に、玲子は激しく動揺する。
「ねぇ、玲子? “あんなこと”っていったい何?」
 友人の動揺を知りながらも、亞萌里はさらに詰め寄る。今度は先刻とは逆に亞萌里が開放された両手で、友人の両肩を激しく揺する。
「ねぇ、どういうこと?」
「私が、言ったって誰にも言わないでね。じゃないと、今度は私が何されるかわからないから。お願いだよ?」
 鬼気迫る亞萌里の姿に、玲子は震えながらも答える。
「ええ、分ったわ。約束する」
「ホントに、ホント、約束してくれる?」
「大丈夫、あなたのことは絶対秘密にするから」
 何度も“約束”を交わし、ようやく落ち着いた玲子は、背後の廊下に誰も居ないことを確認すると、ようやく重い口を開いた。
「“いじめ”――よ。
 紫亞は、入学してからずっと“いじめ”を受けてたの――」


 シャワーを浴び体を洗い、真新しい部屋着に袖を通すころには、外は完全に日が落ち、どこまでも続く闇の世界が広がっていた。
 夕方に弱まった雨は、その後しばらく小康状態を保ったものの、今は再び大粒の涙を流していた。
『紫亞は、入学してからずっと“いじめ”を受けてたの――』
 あれからずっと、亞萌里の頭のなかで友人の言葉が反響していた。
 玲子の話によれば、紫亞は入学当初からクラスの中で陰湿な“いじめ”を受けてきていたとのことだった。
 もともと、明るく歯切れのよい性格の亞萌里に比べ、大人しくあまり自分から話をしない紫亞は、だんだんとクラスの中で孤立し、ある事件をきっかけに陰湿な“いじめ”を受けるようになる。
 その事件とは、姉の亞萌里が春に行われた全国高校生剣道大会で個人優勝を果たし、つづいて清涼高校の学年代表に選出されたことだった。
 姉・亞萌里へのクラスメイトからの羨望は、やがて嫉妬へと変わり、その矛先はより弱い相手――妹・紫亞へと向けられた。
 最初は姉の所属する剣道部のクラスメイトが悪戯半分に始めたらしい。しかし、その行為はだんだんとエスカレートし、始まってから一ヶ月が経つ頃には、クラス内で紫亞に対するいじめに加わらなかったのは姉の亞萌里だけになっていた。
 驚愕の事実を知らされ呆然とする少女に、友人は半泣き状態で、
『だって、やらなかったら、次は私が狙われるかもしれなかったんだもん。だからしょうがなかったんだよ……。
 お願い、亞萌里、許して、お願い、許して、お願い……』
 と、まるで呪文のように何度も何度も贖罪の言葉を述べた。
 しかし、当の亞萌里には友人の懺悔など聞こえていなかった。
 ただ、『なぜ、なぜ、紫亞は、妹は私に打ち明けてくれなかったの、なぜ?』という思いが反芻していた。
「亞萌里、“いじめ”の件は辛いだろうが、今はそんなことを考えている余裕はないよ。
 今は、何より妹を助けるのが先だろう?」
 亞萌里は、イブの言葉に頷いてみせるが、やはり心ここにあらずといった感じだった。
「しかし、亞萌里のおじいさんってのは、そうとうな馬鹿だったみたいだね。いや、あるいは天才か?
 この手帳には、神道と陰陽道を中心に古今東西あらゆる呪術が記載されてるよ。
 それに、そうとう研究熱心だった見たいだしね」
 レイベルは黄色く変色した紙を捲りながら、その内容に驚嘆する。祈祷術を筆頭に古の
ルーン、カバラ、ドルイドなどの西洋呪術、さらには錬金術にまでおよぶ豊富な知識をもつレイベルでも、よく分らないような呪術が何箇所も書き記されていたからだ。
 中には、西洋魔術の秘奥儀といわれるものまで、事細かに記されていた。
 それは、さながら現代に甦った“黒の書”といえた。
「で、亞萌里達がやったっていう術、“道反術(ミチかエシノジュツ)”だっけ?
 これを見ると、もともとは“道反玉(ミチかエシノタマ)”ってのを使ってやる呪術のようだね。
 なになに、“道反術”は過去のあらゆる時、あらゆる場所を見通し、あらゆることを実現する術だそうだよ? なるほどね過去に起こった出来事、つまり過去の道程を辿る術ってことで“道反術”てことか……。
 しかし、ホントに亞萌里達のおじいさんには頭が下がるよ。この人、その“道反玉”を使って行う“道反術”を、他の物で代用して行えないか? と考えて、その術を研究したらしいね」
「じゃあ、その代用品ってのが、この二枚の鏡ってわけ?」
「ああ、そうらしいね」
 紅・蘇蘭の問いかけに頷きながら、レイベルは手帳の持ち主のことを考える。
 亞萌里の話では、この手帳の著者、石上・亞祁仁(イソノカミ・アキヒト)は、もともと天理(奈良県北部)の方で宮司をやってたとのことだったが、レイベルにしてみればそれだけでこの老人が西洋魔術の秘奥儀まで知り尽くしていることを納得することは、とうていできなかった。
 何しろ、手帳の中には、もはやレイベルぐらいしか知らないであろう“ヒプノトゲリア”や“サリイサ”といった単語すら見て取れたほどだ。
「しかし、この鏡、珍しい形をしていわね。
 一方は、中心がへこんでて、もう一方は中心が盛り上がっている。いわゆる凹面鏡と凸面鏡ってやつだけど、非常に珍しいわ」
 新宿で骨董店『伽藍堂』を営む紅・蘇蘭でも初めて見る代物だった。
「青銅鏡なのは間違いないけど、まったく腐食してないところを見ると、これまでしっかりと手入れされていたってことになる。
 形状については凸面鏡自体は二世紀〜四世紀にかけて私の故郷(中国)で作られた三角縁神獣鏡に多く見られる形状だけど……この鏡はどうも、それより古い年代ものっぽいわね」
 紅は、手にした銅鏡をくるりと一回転させると裏面を皆にみせる。
 そこには、小山のように盛り上がった部分を中心に三角と四角によって構成される帯状の線が、三本あるだけだった。
「これを見て、この鏡の裏面には銘もなければ神仙や四聖獣の浮き彫りすらない。本来銅鏡は呪術的要素が強いからその裏面には何らかの呪術世界が刻まれるのが普通。
 たとえば初期の銅鏡には四方を守る聖獣(青龍、白虎、朱雀、玄武)が刻まれることが多いし、さらに時代が進んで神仙思想が民衆の間で定着すると、人型をした神仙達が描かれるようになる。これは、つまり神が獣に宿るとするシャーマニズム的な呪術思想から、人間こそが神の継子であるとする社会思想の変化が背景にある。
 なのに、この鏡にはそういったものが一切印されていない。
 申し訳程度に三角縁と四角縁があるだけで、あとは世界の中心=神の世界(人物画像鏡では須弥山を表す)を表す浮きがあるだけ……。
 つまり、これはシャーマニズム的呪術思想の形成される以前に作られたことを意味していると取れる。
 でも、そうなるとこの鏡は先史時代(後期旧石器時代)以前、旧人、いわゆるネアンデルタール人の時代に作成されたことになるけど、書いて字のごとく旧石器時代は石を使った利器の時代で、青銅器を作る技術なんて当然のことながら存在するわけがない。
 それに、鏡の大きさも気になる。
 古来から呪術に用いる鏡の大きさは九寸(27p)以上でないといけないとされてるわ。
 そうじゃないと、鏡が邪気をはらう気を留め置くことができないとされている。ただ、現実には八寸(24cm)の鏡も、よく邪気を払ったといわれている。
 でも、この鏡は五寸(15cm)程度しかない……。
 はっきりって、めちゃくちゃだわ、この鏡は……」
 紅・蘇蘭の長々とした講義を聴いていた他の三人は、その内容をどれほど理解できただろうか?
 しかもだ、最終的に紅・蘇蘭が出した結論は“めちゃくちゃ”、つまり“何も分らない”と言うことだったから、どうしようもない状態だった。
「しかし、亞萌里ちゃん? いったいこんな鏡は何なの?」
 紅は、半ばあきれながら、鏡の現在の所有者に説明を求めた。
「私もよく知らないんです。この高校に入学が決まって、母屋を引き払う時におじいちゃんの遺品を整理していて手帳と一緒に見つけたんです。
 それぞれ、真新しい桐の箱に入っていて、その箱の裏書に『亞萌里』『紫亞』て書いてあったんです。
 だから、名前の書かれた鏡を二人で分けて、おじいちゃんの大切な形見として寮にも持ってきたんです」
 亞萌里の話を聞いて、こりゃダメだと言わんばかりに、紅は天を仰いで見せた。
「レイベルちゃん? あとはあなたが頼りね。その手帳に何か重要なこと書いてない?」
「書いてあることは術の手順と方式、そして呪術施す者の心構えってとこかしら?」
「心構え?」
 レイベルの返答に、紅が首をかしげる。
「ええ、何でもこの二枚の鏡を使った代価術を行うには、鏡を手にする術者同士の共感性が重要らしいよ。
 つまり、鏡を持つ二人とも、同じことを強く念じて術を施行する必要があるってことかな?」
 そこで、三人の視線が一斉に亞萌里に集まった。
「亞萌里? あんた達が術を施したとき、二人はちゃんと同じことを念じていたのかい?」
 皆を代表するように、イブが厳しい表情で少女に告げた。
「当然です。二人ともおじいちゃんの死の真相を知りたいと……」
 そこまで口にしたところで、亞萌里はハッとなって黙ってしまった。
「亞萌里ちゃん。何か思い当たる節があるの?」
「は、はい。そういえば術を施す直前、紫亞が急に“道反術”を行うのを止めようって言い出したんです。それに……」
「“いじめ”のことかい?」
 口ごもる亞萌里に、イブはさらりとした口調で言い放った。
 亞萌里も、それに同意するかのように首を縦に振った。
「なるほど、もし紫亞が“いじめ”に苦しんで、精神的にまいっていたとすると、共感どころじゃないからね。
 どうやら、事の原因はここにありそうだね」
 レイベルは、そう結論付けると、手にした手帳を音を発てて閉じた。
「そうと決まれば、その“道反術”てやつをもう一回やって、みようじゃないか?
 その鏡を持つやつ二人で、紫亞の無事を強く念じてやれば、案外、簡単に妹を助けることができるかもしれないな」
 わが意を得たりといわんばかりに、イブは椅子代わりに使っていたベットから腰を起こすと、亞萌里の側までやってきた。
「さて、亞萌里。最後の問題はあんただよ。
 どうだい、決心は着いたかい?」
 イブは、まだ不安の拭い去れていない少女に視線を落とす。
「は、はい。イブさん、お願いします。力を貸してください」
 イブの鋭い視線に慄きながらも、亞萌里はしっかりとした口調で契約の言葉を述べた。
「OK。ならこの一軒が片付いたら、あんたはあたしのもんだ」
「は、はい」
 亞萌里は自分に言い聞かせるように同意してみせた。


●SCEN.5

 深夜0時……。
 雨音が激しさを増す中、その部屋でついに儀式が始まった。
 事前に術の手順を紅と亞萌里との間でチェックし、誤った作法がない事を確認する。
 これは、手帳に記載された手順が正しかったこともあるが、それ以上に亞萌里個人が儀式に対して正しい知識を持っていたことに着得するところが大きい。
 何でも、基本は祖父から教えてもらい、この学園に入ってからは剣道の試合の前には、必ず自分で祝詞をあげているとのことだった。
 これには、当初、術の手順に過ちがあったのでは? と考えていた紅も自らの過ちを認めるしかなかった。
 また、掲示板にあった0:05分という時間については、祖父の死亡時刻だということを亞萌里が教えてくれた。ただ、これは警察側の一方的な説明によるもので、本当かどうかは遺族である亞萌里ですら分らないそうだった。
「よし、時間だね。始めようじゃないか?」
 イブは自分の脇に置いてあった凸面鏡を手にして、向かいに座る亞萌里と目線を合わせる。
 結局、紫亞の代りはイブが行うことになった。
 これは、もし何かあったときのために、呪術に詳しいレイベルと紅が消えててしまうと、イブや亞萌里だけの力ではお手上げ状態になることと、イブ本人の強い要望によるものだった。
 結果、亞萌里とイブが鏡を持って術を施し、紅とレイベルが外で呪力の流れを観察することになった。
「高天原ニ神留リ坐ス 皇親神漏岐 神漏美ノ命以チテ 八百万神等ヲ神集ヘニ集へ賜ヒ 神議リニ……」
 亞萌里の柔らかだが凛とした声が室内に響く。
 祝詞が読み上げられるにつれて、向き合って座る二人の周りに強力な呪力が渦を巻き始めた。
(これはいける!!)
 側で観察していたレイベルと紅が、そう感じたときだった。
 祝詞がクライマックスに近づき、呪力が強力な場を形成するかに見えたその時、突然室内から呪力が霧散するかのように、その力を格段に弱めた――否、正確にはイブとイブの持つ凸面鏡に集まっていた力のみが消えてしまったのだ。
 亞萌里の凹面鏡には、未だに煌々とした呪力が満ち溢れているのに、対するイブの方はまったく反応を示さなくなっている。
「ダメ、失敗だわ! このままじゃ、亞萌里ちゃんだけが呪場に取り込まれる!!

 そう判断するか早いか、紅は行動に入った。
 懐から手持ちの符を取り出すと四方の壁に投げつけ反術を行う。
「くっ!」
 紅が苦悶の声を上げる。
 明らかに自分の呪力が落ちており、鏡の集めた呪力に押しつぶされそうになる。
 そう、この大学に張られた結界の影響だ。
「くそう!!」
 紅の瞳がルビーのように紅い輝きを放つ。強力な呪場の力を片手で抑えつつ、渾身のちからで懐から八角形をした魔鏡を取り出すと、漢詩の一説を読む。
「(魂よ来たりて修門にはいれ!!)
(工祝君を招いて背行して先だつ!)
 (秦の箒、斉の絹、鄭の錦絡へり!)
 (招具該ね備はりて永く唱呼す!)
 (魂よ帰り来たりて故居に反れ!!)」
 歌といえども馬鹿にしていけない。古来より万人に謡われてきた歌は、それ自体が強力な巫力を持つようになる。
 それを熟知している紅は、有名な『楚辞』の一説を利用し、亞萌里の周りに荒れ狂う呪力を退かせようというのである。
 詩を読み終わるやいなや、紅の手にした八掛魔鏡が光を放ち、その場に留まっていた呪力を一気に吸い込み始める。
 そして、魔鏡が呪力に耐え切れずもろくも砕け散直前、亞萌里を取り巻く呪場が消失した。
 魔境の破片が砕け散った室内は、何事もなかったかのように元に戻っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 肩で息をしながら紅は、その場に崩れ落ちそうになる。
 しかし、紅は最後の力を振り絞って足に力を入れると、その場で半ばまで招されていた神々に儀礼に則り丁重に慰撫の祝詞をあげた。
 その後、その場に倒れこむように床に腰を落とすと、呼吸を整えるように深く長い息(調息)をして体内の気のバランスを整える。
 そのすぐ脇では、亞萌里が気を失って倒れていた。イブの方もだいぶ荒い息をしていたが、それでも紅よりはましな様子だった。
 イブがどうにか呼吸を整え、亞萌里の体を抱き起こそうとした時だった。
「ねえ! 見て!!」
 レイベルの指し示した方向に皆がすばやく視線を動かす。
 三人の視線の先で、紫亞の机の上に置かれたパソコンに突然電源が入るとものすごいスピードでキーボードが叩かれる音が鳴り、そして次の瞬間、フッと消え入るように電源が落ちた。
 その様を、三人は呆然として眺めていたが、互いに目線を合わせると、パソコンの周りに駆け寄った。
 すばやく電源を入れ、あせる気持ちを抑えながらインターネットに接続すると、例の場所へと向かった。
 そして、そこ――瀬名・雫のHP、ゴーストネットOFFの掲示板にアクセスした三人は、そこに書き込まれた新しい文章に目を見張った。
 他の二人が驚くなか、レイベルは書き込みの時間を確かめる。
「0:05分……」
 そして、驚きのと沈黙が、一瞬にして室内を支配した。
 
 
● SCEN.6

 夜が明け、太陽が天中に指しかかろうというときになって、ようやく亞萌里は瞼を開いた。
 最初、亞萌里は自分がどうしてベットで寝ているのか分らなかった。
 しかし、すぐに自分が儀式の途中で気を失ったことを悟ると、掛け布団を投げ捨てるようにしてベットから半身を起こした。
「止めときな。もう少し休んだ方がいい」
 跳ね起きようとする亞萌里を、すばやくイブが静止する。
「イブさん! 儀式は? 紫亞は? 妹は!?」
 亞萌里は混乱する頭の中を必死で整理して、ベットの脇に腰掛けている妖艶な女性に向き直る。
「失敗したよ。どうやらあの鏡は持ち主じゃないと使えないらしい」
 イブは今にも起き上がろうとする亞萌里を強引にベットの中に押し戻しながら、亞萌里の問いに答える。
「あの、それじゃぁ……」
「あぁ、紫亞はまだ消えたままさ……」
 イブの言葉に、亞萌里は落ち着いたように、深く息を吐いてみせた。
「それから、例によって昨晩も雫のHPに書き込みがされたよ……」
 妹の救出失敗に、落胆するだろうと予測していたイブは、意外に落ち着いている亞萌里の姿に心の中で首を傾げた。
「そうですか……。なら、まだ紫亞は無事なんですね……」
 亞萌里はゆっくりと目を閉じながら再び深く息を吐いた。
「あの状態を無事というならね。少なくとも今のところはまだ生きてるらしい」
「そうですから、なら、まだ助け出すこともできますね」
 亞萌里は心配そうに自分を見つめるイブに、ニッコリと笑ってみせた。
 その微笑に、イブは儚さの中にも、強い意志を感じ取った。
「ふっ……。あぁ、そうだな。まだ、チャンスはあるさ」
(こんな小娘に、諭されるとはね)
いつもの妖艶な笑みを浮かべながら、イブは心の中で自分の体たらくを毒づいた。
「それに、昨晩はやられっぱなしって訳でもないしな。なかなか貴重な情報が手に入ったよ」
「え!? それは本当ですか?」
 お返しとばかりにイブがシニカルな笑みを浮かべつつ、ベットに横たわる少女に告げる。
 案の定、亞萌里は驚いて再びベットから飛び起きようとする。
「おいおい、まだ休んでろって言ったばかりじゃないか」
「でも……」
「まぁ、あせる気持ちは分るけどね。どうせ夜中にならなきゃ儀式は行えない。
 時間は十分あるからね、今はまず休んどきな。
 何しろその体は、いずれあたしがもらうんだからね、無理してボロ雑巾みたいになった体をもらっても困るからね」
 そして、再び笑みをこぼすと、イブは豪快に笑った。
「イブさん。実はそのことなんですが、ずっと気になってたことですけど、私の体をもらうっていったいどういうことなんでしょうか? 
 私がイブさんの代わりに、その、イブさんのお店で働くってことでしょうか……?」
 亞萌里は頬を紅く染めながら、イブに昨日からの疑問を投げかける。高校一年、16歳の亞萌里にしては、相当の覚悟で口にしたに違いない言葉を聞いて、イブは噴出してしまった。
「はっははははははは!! なに考えてんだかね、この娘は?
 あんたみたいな小娘が働けるほど、あたしのこの商売は楽じゃないんだよ!」
 あっさりと否定されて、亞萌里は自分の顔が真っ赤に染まるのが分った。
「そういえば、あんたにはまだ話してなかったね。
 ちょうど良い機会だ、あたし等のことを話そうか」
 イブは一通り笑い終わると真剣な表情に戻って、亞萌里の目の前に右手を差し出した。
 その腕は、亞萌里の目の前で見る見るうちに形を失い、ほんの数秒で蛸の足のような触手へと変貌した。
「これが、あたしの正体さ。
 見てのとおりあたしは人間じゃない。あんたら人が呼ぶところの“妖(アヤカシ)”ってやつさ。
 あたしだけじゃない、あの紅・蘇蘭の婆さんは中国の天仙で、元は人食い“鬼”さ。確か今年で晴れて一千歳の大台に乗る怪物婆さんだよ。
 今は殆ど人間を襲わなくなったようだけど、昔はあたしなんか足元にも及ばないぐらい人間を食い殺してきたらしいよ。
 あぁ、でも安心しな、あのレイベルって娘は人間らしいからね。ただ、見た目の年齢どおりの娘だと思ったら痛い目みるだろうけどね。
 すくなくとも、あたしよりもあの娘の方が10倍は年上だろうね」
 話を終えると、イブはすぐに腕を人の手の形に戻して、二、三度、開いたり握ったりしてみせる。
「どうした? あたし達が恐ろしいかい? あたしはこの件がかた着いたら、あんたを食い殺そうって思ってるんだよ」
 目の前で固まったように動かない亞萌里に気づき、イブが凄みを利かせた声を発した。
「ええ、確かに怖いです。
 でも、話してくださってありがとうございます。
 これで、ようやく色々謎が解けました。
 どうして皆さんがこんな異能の持ち主なのかとか、イブさんが私をどうしようと言うのとか……。
 そうそう、あとは、イブさんがミス・紅を、どうして婆さんなんて呼ぶのとかもね」
 そして亞萌里は、イブにむかって先ほど見せたのと同じ微笑を顔一杯に作って笑いかけてきた。
「おいおい、なんのつもりだい?」
「イブさん、私を食べるときは痛くない方法でお願いしますね。
 私は痛いの、あまり強い方じゃないですから。昔は良く、怪我をして泣きわめいてましたし……」
 イブは、この少女の考えが分らなくなった。自分を喰らおうという相手に、どうして笑いかけることができるのだろうか? どうしてこんなに普通に話しかけることができるのだろうか?
 その疑問に答えるように亞萌里が口を開く。
「でも、その前に。絶対に紫亞を助けます。それまではイブさん――あなたの体、私がもらいます。あなたは私に言いました。私があなたに体を差し出せば、あなたは妹を助けるのに命をかけると……。
 もし、私が志半ばで倒れたら、あなたは私の血肉を喰らってくださって結構です。ですが、妹を助けるまで、あなたの体は私のものです。百年かかろうが、千年かかろうが、絶対に紫亞を救ってください。
 それが、昨日、私とあなたが交わした誓いなのだから――」
 亞萌里は語り終えると、じっとイブの瞳を見つめた。
(どうやら、あたしも覚悟決めなきゃならんようだね)
「あぁ、わかったよ。紫亞を助けるまであたしはの体は亞萌里に預ける。たとえ一億年かかって人類が滅びようとも、絶対に紫亞は助ける」
 そして、イブはこれまでにないほど鋭い目つきで、相棒(パートナー)となった少女を睨み返した。


 外出していた紅が女子寮まで戻ってくるころには、すでに亞萌里、レイベル、イブの三人の間で作戦会議が開かれていた。
 結局、昨晩の儀式は失敗に終わった。
 しかし、その結果、多くの新事実を手に入れることができた。
 まず、突然、イブの手にしていた紫亞の凸面鏡が力を失った原因は、この銅鏡が『亞萌里』と『紫亞』専用にカスタマイズされていたからということがわかった。
 これは最初から最後までその場を一歩も動かずに観察を続けたレイベルの功績によるものだ。
 そして、その結果、紫亞の鏡にそれを使う相手が、紫亞本人であると錯覚させれば良いということになった。
 これには亞萌里が、紫亞が入学してすぐに清涼学園内の社に奉納したペンダントのことを思い出し、レイベルを伴ってこのペンダントを手に入れてきていた。
 そして、掲示板の書き込みについても、レイベルが大胆な仮説を立てて皆の度肝を抜いた。
 つまり、インターネットの電子世界も鏡の鏡面世界も結局は同じ現実には存在しない虚構の世界である。この二つの虚構世界が呪術的結びつきによって一定の範囲・時間で一つにつながったのではないか? そして特に鏡面世界が鏡の中に存在する世界なら、現実世界と左右逆転した世界である可能性が高いと言うのだ。
 また、単純に左右逆転した世界なら、こちらにパソコンがあるように鏡面世界にもパソコンがあるはず。
 たぶん紫亞は鏡面世界の自分のパソコンから、インターネットの電子世界に向けて書き込みをしているのではないだろうか? 
 という仮説だった。
 それを聞いた他の三人は、最初あまりにも突拍子もない内容と、何の根拠もないそれを馬鹿げていると感じた。 
 しかし、レイベルはそれを裏付けるものとして、昨晩の書き込みの出来事をあげ、あの時自分は確かに紫亞の鏡から一瞬光の筋が発して、机の上のパソコンの中に消えていったことを伝えた。
 そして、最初に亞萌里と紫亞が呪術を施した際の影響で、電子世界と鏡面世界との間に呪術的結びつきが生じているに違いないとして、この結びつきを外部から人為的により強いものへと変貌させれば、電子世界を解して鏡面世界と接触することができるに違いないというのである。
 俄には信じがたいものだったが、レイベルがどういった部類の人間が感づいている紅とイブは、レイベルの仮説に賭けてみることにした。
 しかし、ここで紅が驚いたのは、何も知らないはずの亞萌里もレイベルの意見に同意したことだった。
 どうも、紅が組織の構成員と接触している間に、亞萌里の心境に変化があったようだったが、紅はそのことを追求することはしなかった。
 それよりも、今は紫亞を助けることが大事だったからだ。
 
 
 ●SCEN.7
 
 そして再び時刻は儀式の始まりを告げる鐘の音を鳴らそうとしていた。
 紅は、深く長い息を吐き、身の内の気の流れを整える。
 今回の紅の役割は、レイベルの仮説に基づいて電子世界と鏡面世界の儚い結びつきを、自身の呪術で強固なものへと変え、鏡面世界の入り口を一定時間保持することだった。
 そのために、紅は、昼間受け取った物の中から貴重な呪符を、すでに室内の四方に貼り付けてあった。
 紙の代わりに、特別な製法で栽培された桃の板を使って作られた呪符は、普段の数倍の能力を発揮するに違いなかった。
 古来より桃の木は特殊な霊力が宿っているとされ、特に記紀(古事記・日本書紀)には黄泉の国の追っ手から逃れようとする、イザナギノミコトが桃の実を投げて、黄泉の化物共を追い払うという伝承が記述されているほどだ。
 また、紅は自分の能力を阻害している結界の効力を相殺するため、非常に貴重な仙薬を飲み、一時的に結界の効力を無効化していた。
「さぁ、はじめようか?」
 昨晩同様、イブの声が開始の合図となった。
 今、イブの首には紫亞が奉納していたペンダントがかけられている。
 まずはじめに、これも昨晩同様、亞萌里が祝詞を読み上げる。
 ここまでは昨日とまったく同じ光景だった。
 亞萌里とイブが手にした銅鏡を中心に強力な呪場が形成されていく。
 しかし、昨晩のようにその場が突然崩壊することはなかった。
 二人の間を渦巻くように流れる呪力は亞萌里とイブ、正確には亞萌里の体とイブが首から下げるペンダントを通して、幾重にも強力な呪場を形成していく。
「――天ツ神 国ツ神 八百万神等共ニ聞コシ食セト白ス!!」
 亞萌里が声を張り上げて最後の一節を読み上げ、深々と礼をする。その瞬間、薄氷が割れるような乾いた音が部屋中に響き渡った。
 
 
 その瞬間、視界が真っ白になったかと思うと、イブは、一人薄暗い裏路地に佇んでいた。
 天を見上げれば、漆黒の闇に紅く色付いた満月が浮かんでいる。
 ここはどこだったか? イブは頭の中でこの風景を思い出そうとしていた。この腐ったような空気と、薄汚れたコンクリートの壁……どれもが見覚えのあるパーツだった。
 しかし、どうしてか、一つ一つのパーツを覚えているのに、パズル全体の映像は霞のかかったように思い出せなかった。
 ここはどこだ? 再びイブが頭の中で、その呪文を唱えた時、暗闇の奥から人が近づいてくるのがわかった。
 革靴が発する乾いた音が、裏路地にこだまする。
 コツ、コツ、コツ、コツ……。
 闇の向こうに、うっすらと人影が浮かび上がったところで、靴音がピタリと止む。
「お前か? 最近このあたりをうろついていると言う“妖”は?」
 凛とした、男の声があたりに響き渡る。
「あんたこそ何者だい?」
「先に質問したのは私だが……?」
「うるさいよ! 女相手に自分の姿も見せられないようなチキン野郎が、なめた口聞いてんじゃないよ!!」
 イブの啖呵に、薄闇の向こうで男が笑ったような気がした。そして、再び靴音が響き、ゆっくりと男が近づいてくる。
 目の前に現れたのは、イブと同じ黒いロングコートを身に着けた30代半ばの若い男だった。
 するどい眼光を湛えた瞳が印象的な堀の深い顔。手には紅い月光に照らされて、妖しく光る剣が握られていた。
「亞祁仁!!」
 イブは、その男の顔と剣を目にした瞬間、全てを思い出した。
 そう、ここは30年前、彼女が彼と始めてであった、“あの”場所だったのだ。


 亞萌里は、闇の中をひたすら前へ前へと走っていた。
 最初に彼女が目覚めたとき、目の前には二十代の若い男女が、自分に微笑みかけている姿が映った。
 亞萌里はこの二人の顔を知らなかった。知らなかったのだが、二人の笑顔を見ているうちに、頬を熱い涙が次々と流れてきた。
 何も知らない、見たこともない、会ったこともない人達なのに、亞萌里はこの二人が自分にとって、ものすごく大切な決して忘れてはいけない人達だと解った。
 そして、次々と彼女の身に、かつて自分が見、体験した事柄が次々と浮かんでは消えていった。それは、自分の人生の物語を見ているようだった。
 その中で、時折自分以外の事柄が流れることもあった。それは、妹・紫亞が“いじめ”と言う名の虐待を受ける姿だった。
 昨日まで信じていたクラスメイトが、突然自分に襲いかかる。その瞬間、紫亞が受けた衝撃は想像を絶するものだった。連日繰り返される陰湿な“いじめ”。時には直接肉体に木傷をつけられることもあった。
 そしてついに事件が起こる。あるとき、紫亞は大切にしていたスカーフが無くなっているのに気が付く。今は亡き祖父から両親の形見として渡されていた、彼女と顔も知らない両親とをつなぐ唯一の物。その大切なスカーフが無くなっていた。
 紫亞は、寮内を駆けずり回って探した。
 一日中探し回って、紫亞は三階のトイレで、ようやくそのスカーフを見つけた。
 『このバカ! よくその顔で人前に平気で出られよ、このブスが! 臭うんだよデブ、あんたの悪臭が!……』
 汚物まみれで便器の中に捨てられていたそれには、油性マジックで汚い言葉が書きなぐられていた。
 この日、紫亞の中で何かが音を発てて壊れたのだ。
 そして、次の日の深夜、彼女は姉とある儀式を行うことになる……。
「あぁ、紫亞、ごめんなさい。おじいちゃんが居なくなって、私が紫亞を守っていかなくっちゃて思って、ずっとずっと頑張ってきた。どんな時でも守って上げられるように強くなろうって、絶対誰にも負けないようになろうって……剣道の試合でも、学年代表選考のときでも絶対に負けないって思って……。なのに私、あなたの苦しみに気づいてあげれなかった。
 私、あなたのことも考えないで、見た目の強さにこだわって……。なんて馬鹿だったの……。あぁ、お願い、紫亞、許して。お願い……」
 全てを知ったとき、亞萌里の目には涙が浮かび、心は妹への懺悔の言葉で一杯になった。
 そして、虚空の広がる闇の中、紫亞を妹を探し出すため亞萌里は立ち上がった。
 時間の流れすらも分からない闇の世界で、ただひたすら妹を探し回った。
 ――どれくらい走っただろう、ふと気が付くと視界の果てにうっすらと何かが見えた。
 それは、淡い光を発して虚空の世界に浮かび上がる一枚の“扉”だった。
 
 
「亞祁仁!!」
 イブが驚きの声を上げた瞬間、目の前の映像が消失した。
 何が起こったのか分からぬうちに、新しい映像が現れる。
 今度は、イブにも一目でその場所がわかった。
 そこは、一年前、彼女が彼と最後の言葉を交わしたBARだった。
 気が付けば、イブは、そのBARの一番隅に立っていた。
 嵐が過ぎ去った後のように、ぐちゃぐちゃに破壊された店内には、鼻を突く血の臭いと無数の肉片があたり一面に飛びちっていた。
 その中で、二人の人間が対峙していた。一人は“あの” 亞祁仁、もう一人は全身黒ずくめの見知らぬ若い女だった。
 そして、黒尽くめの女は、手にした日本刀を深々と亞祁仁の胸に突き刺していた。
「ぐっ!!」
 女が刀を引き抜くと、亞祁仁がくぐもったうめきをあた。
『亞祁仁!!』
 イブは大声を張り上げて亞祁仁の側に駆け寄ろうとした。しかし、足が床に張り付いたように動かない、それどころか唇は動いているのに声が出ない。
 そして目の前の二人は、イブの存在にまったく気が付いていなかった。
 イブが店の隅でもがいている間にも、事態は足早に進んでいく。
 亞祁仁の胸から刀が引き抜かれると同時に、床に青翠色をしたネックレスのような数珠繋ぎの玉(ギョク)が流れ落ち、老人の体がゆっくりと仰向けに倒れる。
 黒ずくめの女は、ニヤリと奇妙な笑みを浮かべると、床に落ちた一繋ぎの玉を拾い上げた。
「さて爺さん。悪いがこれはもらってくよ」
「ぐぬ!」
「で、他の神器……剣と鏡はどこにやった?」
「ふっ! だれが貴様等ごときに渡すものか! あれらは、もう貴様等の手に届かないところに送った……そう、わたしの最も信頼する仲間に……」
 老人は、そのまま眠るように目を閉じた。
「この、死にぞこないが!!」
 ふたたび女が刀を構え、老人の体を切り刻もうとした時だった。外へと続く階段を踏み鳴らす音が響いてきた。
「くそっ!」
 その只ならぬ靴音に、女はすぐ脇のカウンターを飛び越えると、裏口へと流れるように消え去り、そのまま外へと音もなく飛び出す。
 その刹那、店の入り口の扉が蹴破られる音が鳴り響いた。

 そこで、映像は途切れ、イブは一人、何もない暗闇の世界に崩れ落ちるように座り込んでいた。
『わたしの最も信頼する仲間に……』
 あの時、映像の中の亞祁仁が発した言葉が、何度もイブの中を駆け巡る。
 そしてイブは、ゆっくりと立ち上がると、思い出したように一歩、二歩と歩き出す。
「あぁ、大丈夫だよ。ちゃんと覚えているさ……亞祁仁。
 今は過去に浸ってるときじゃない。あんたの孫娘達を助けるのが先だってね」
 イブは鋭い眼光を湛えて駆け出すと、相棒の少女を探した。
 方角さえわからない深い闇の中で、ただひたすら走り続けた。
 ほどなくして、闇の奥でぼんやりと光る扉と、その扉の前で佇む亞萌里の姿を見つけた。
「遅刻ですよ、イブさん」
「あんた、あたしを待ってたのかい?」
 亞萌里は、イブを見つけると場違いにもニッコリと微笑んでみせた。
「ええ。だってイブさんは、一緒に紫亞を助けるって約束してくれたでしょう? だから、絶対に来るって信じてましたから……」
 そして少女は再びあの微笑をみせる。
 亞萌里の姿を見て、イブは、これが昨日まで恐怖に怯えていた少女と同じ人間なのか?と思った。人間は弱い生き物だ。たった百年すら満足に生きられず老いていく脆い種族だ。
 しかし、その脆いはずの人間が、時として自分達“妖”をも恐れさすほど強い存在に変わる。紅・蘇蘭はそういう人間達を“天命が下ったのだ”と言っていたことがあったが、イブはそうは思わなかった。
 神だとか天命だとかが人間に“妖”を超える力をあたえるのではなく、その人間自身の意思の強さこそが、時として全てを超越した神にも等しい力を沸き起こさせるのだと。
 そして、今、目の前にいる少女は、まさにその典型とも言えた。
「ふっ……。あんた、ホントに馬鹿だよ。そんなことだからあたしみたいな“妖”に取り憑かれるのさ」
 イブは、呆れ顔でそう評して、相棒と視線を合わせる。 
「じゃあ、行こうか? 家出した妹を連れ戻しに――」
「はい!」
 亞萌里は元気よく答え、右手でドアノブを回し、ゆっくりと扉を開いた。
 扉の向こう側は、ただ一点を除くと少女のよく見慣れた家具が並べられた、女子寮の一室だった。
 その一点とは、部屋の全てが左右が反対になっていたことだった。
 亞萌里とイブは、互いに向き合って頷くと、ゆっくりと室内に足を踏み入れる。
 細い廊下のような玄関を抜け、リビング兼寝室となっている部屋へと進む。
「お帰り、亞萌里ちゃん……」
 そこには、ベットにちょこんと腰掛けるショートボブの少女が待っていた。
「紫亞……」
 イブの脇で、亞萌里は妹の名を呼んだ。
「お帰りなさい。お姉ちゃん。
 私、お姉ちゃんが来るのずっと待ってたんだよ?
 なのにお姉ちゃん、いつまでたっても来てくれないから、私待ちくたびてお姉ちゃんを呼んじゃった」
 そう言って、ショートボブの少女は机の上に置かれたパソコンを指差した。
「紫亞、帰りましょう。
 ここは、私たちのいるべき場所じゃないわ」
「何で? 何で、あんな世界に返らなきゃいけないの?
 あそこの連中は、みんなして私を虐めるのよ? 
 何で、あんな連中のいるところに帰らなきゃいけないの?
 それより、亞萌里ちゃん。ここで一緒に暮らそう? ここなら私を虐める連中もいないし、姉妹二人でずっとずっと仲良く暮らせるんだよ?」
 紫亞は、奇妙な笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がり姉の首に両手を回して抱きついてくる。
 そして、亞萌里の唇に自らの唇を合わせる。
「うっうん!」
 突然のことに驚く姉とは反対に、紫亞は味わうようにじっくりと唇を吸い上げる。
 その姿は、イブの目から見ても、とても16歳の少女には見えないほど妖艶だった。
「や、やめて、紫亞!!」
 妹が呼吸のため一瞬唇を話した瞬間、亞萌里は両手で思いっきり紫亞を突き放す。
 予期せぬ姉の行動に、紫亞は驚いた表情をしたが、次の瞬間には瞳に憎悪の炎をたぎらせた。
「そう。亞萌里ちゃんも私を拒絶するの? あのクラスの連中と同じなんだ!!」
「違う! 私は……」
「嘘!! だってお姉ちゃん、私が“いじめ”られてても、見向きもしてくれなかったじゃない!!」 
「違う! 私は、紫亞を守りたかったから、強くなりたかったから……。
 なのに……ごめんなさい、紫亞。ごめんなさい」
 泣き崩れる亞萌里に、妹は蔑んだ視線を投げかける。
「今更、謝ったってどうなるの? 私は何度も謝ったわ。何度も何度謝って、何度も何度も許しを請うったわ。時にはあいつ等の靴を舐めさせられもした。
 でも連中は許してくれなかった、何度謝っても、何度許しを請うっても……。
 だから許さない、私はお姉ちゃんを絶対に許さない!!」
 姉の懺悔の言葉も、憎悪の瞳を向ける妹にはとどかなかった。
「おい、紫亞。あんた何様のつもりだい?」
 それまで黙って見ていたイブが突然口を開いた。
「あんた、許すとか許さないとかごちゃごちゃ言ってるけど、てめぇはちゃんと亞萌里に自分のことを伝えたのかい?
 こんな、偽者の世界に逃げ込む前に、あんたはちゃんと亞萌里に、自分が“いじめ”れれてることをちゃんと伝えたのかって聞いてんだよ!!」
 イブの怒号に、口ごもる紫亞。
「私たちは双子だから、お母さんのお腹の中にいたときから、ずっといっしょだったから、そんなこと……」
「おい、いくら双子だって言っても、別々の人間だろうが! 自分の口でちゃんと言わなきゃ伝わらないことなんていくらでもあるだろうが。
 自分のこと棚に上げて、亞萌里を許さないだと!? てめぇ、世の中舐めんのもいい加減にしろ!!
 亞萌里はなぁ、てめぇみたいな奴を助けるために、自分の体を差し出すとまで言ったんだぞ!! そんな亞萌里の想いを、てめぇは考えたことあんのか?」
 ギラリとした目を向けるイブに、紫亞は完全に気おされてしまっていた。
「紫亞。お願い。いっしょに帰ろう。私が、私が絶対に紫亞を守るから。私がクラスの連中にどんな辱めを受けても、絶対に守るから。
 だから、お願い。いっしょに戻ろう!?
 このままじゃ、紫亞、死んじゃうよ。お父さんも、お母さんも、お爺ちゃんも、皆いなくなっちゃったのに、紫亞まで消えちゃったら、私も生きていけない。
 だって、そうでしょう? 紫亞と私は、たった二人の姉妹――家族なんだから」
『たった二人の姉妹』
 その言葉が、紫亞の胸を締め付ける。
「私は、私は……」
 紫亞は、動揺してその場に崩れこんだ。
「紫亞、帰ろう……」
 亞萌里がやさしい微笑みを妹に向けると、そっと右手を差し出す。
「お姉ちゃん……」
 差し出された手に、紫亞の右手が触れようとした瞬間だった。
 亞萌里の直ぐ背後にいたイブの目には、黒いマントが亞萌里に覆いかぶさったようにみえた。
「亞萌里!」
 イブは、突然のことに驚いて亞萌里に駆け寄ると、そこには黒い闇の裂け目から巨大な手が生え出てきて、少女の首を締め上げる姿があった。
「亞萌里!!」
 再びイブは絶叫すると、少女の首から腕を振り払おうとする。
 しかし、腕の腕力は強く、“妖”であるイブの力をもってしても一向に指が離れる気配すらなかった。
「くそう!! はなせ!!」
 イブは焦った。イブが必死に腕にを解き払おうとしている間にも、亞萌里の顔は見る見る色を失っていた。
 もがき苦しむ亞萌里の抵抗も、一秒経つごとに弱まり、ついには完全に手をたれ下げてしまった。
「亞萌里――!!」
「お姉ちゃん!!」
 二人の声が重なった、その時、紫亞の体から眩いまでの光が放たれ、部屋一面に広がった。
 その光を浴びた瞬間、闇の裂け目が収縮し腕の力が衰えた。 
 イブはその隙を逃さず、自らの腕を強靭な刃物へと変質させると、亞萌里の首を締め上げる腕を一刀のもとに切り伏せた。
 肉と骨を断つ手ごたえと共に、腕が床に落下して亞萌里の首から離れる。
 とたんに、咳と嗚咽を漏らしながら少女がその場に倒れこむ。
「亞萌里大丈夫か!?」
「イブ……さん。私は、だい…じょうぶ…です。 それよりも、妹を紫亞の方を……」
 亞萌里の無事を確認すると、イブは紫亞を見る。
 そこには固まるように立ち尽くし、一点を見つめる少女の姿があった。あまりの姿に、イブも恐る恐る少女の視線の先を追う。
 視線の先には、先ほど切り落とした腕が苦しみもがくように手の平を開いて紫亞のを睨みつけていた。
 そう、その腕はありえない場所――手の平にぎょろっとした巨大な目を開き、紫亞を睨みつけていたのである
「ひぃぃぃぃ!!」
 巨大な目が滑る様に赤く光った瞬間、紫亞は短い悲鳴を上げて気を失ってしまった。
「こいつめ!!」
 イブはすばやく右手を動かすと、その強大な眼球めがけて刃を突き刺した。
 刹那、どこから発したのか奇妙なうめき声を上げ、腕は跡形もなく消滅した。
「紫亞! 紫亞! 大丈夫!!」
 イブが腕に留めを刺した直後、亞萌里は気を失った妹に駆け寄る。
「大丈夫。気を失ってるだけだ」
 すかさずイブも紫亞の容態を見に来る。
 紫亞が無事なことを確認して二人が安堵の溜息を漏らす。
 と、イブは不思議なことに気が付いた。だんだんと部屋の色が薄れているのだ。
「こ、これは……」
「まずい、この部屋はもともと紫亞が作り出した虚構の空間。その紫亞が意識を失ったせいで、空間が崩壊を始めているんだ。
いけない、このままじゃ、あたしらも空間の崩壊に巻き込まれる」
 イブは、外へと続く扉に駆け寄って乱暴に蹴破ってみせる。しかし、外は一面真っ白な世界が広がっていた。
「くそ! 外はもうダメだ!!」
「イブさん、どうしよう?」
 亞萌里が妹の体を抱えながら近寄ってくる。
「どうすりゃいいんだ!」
 イブが頭を抱えて考え込んでいる間にも、室内は徐々に色を失って、外の白い世界と同化し始める。
「くそう! くそう! くそう!」
 イブが何度目か同じ言葉を発したときだった。
 イブの視界の中で、まったく色を失わずにいる物があった。
 そう、机に置かれたパソコンである。
「もしかして、こいつ……」
 イブは“まさか”と思いながらもパソコンの画面を覗き込む。
 そこには、こっちの部屋とは左右反対の“本来の” 亞萌里の部屋が映し出されていた。
「亞萌里! ここだ!!」
 そう叫ぶが早いか、イブは少女の腕を掴むと、すぐにメールソフトの送信ボタンをクリックした。
 その瞬間、世界が真っ白に染まり、イブと亞萌里は意識が遠くなるのを感じた……。
 
 
● エピローグ

 白い閃光から視力が回復すると、レイベルはゆっくりと瞼を開け、あたりを確認する。
 そこには、儀式を行う前の亞萌里の部屋に戻っていた。
 すぐ脇では、頭を抱えながら紅・蘇蘭が起き上がろうとしていた。
「そうだ!? 亞萌里達は!!」
 ハッとなってレイベルは部屋の中心、儀式を行った二人、亞萌里とイブの安否を確認する。
 そこには、艶やかな黒髪をした三人の女性、亞萌里とイブ、そしてこの二人に挟まれるようにして黒いショートボブの少女が横たわっていた。
 ふらつく足を引きずるようにして、三人の側まで来ると、レイベルは一人づつ入念に容態を確かめた。
 三人の状態を確かめ終わるころには、紅も心配そうにレイベルの傍らに立っていた。
「どう? 三人とも無事?」
「ええ、大丈夫そうだよ。脈もしっかりしてるし……」
「やっぱりこの娘が、紫亞ちゃんてことよね」
「だと思うよ。あの写真を見る限りはね」
 ショートボブの少女を指し示す紅に、レイベルは机の上にある写真立てをみせる。
 そこには亞萌里と並ぶように立っている、ショートボブの少女が写っていた。
「ふぅ。なら、これで無事解決ってことかしら?」
「そういう事ね」
 そして二人は、互いに背中合わせになってその場に座り込んだ。


 どんよりとした雨雲越しに朝日が差し込む時間になって、亞萌里とイブはようやく意識を取り戻した。
 四人は互いの身に起こった出来事を話し合うと、無事に紫亞を助け出すことができた喜びを味わっていた。
 亞萌里の部屋に一人の客が舞い込んできたのは、ちょうどそんな時だった。
 シンプルなデザインの清潔そうなスーツに身を包んだ三〇代半ばの男性は、正座をしてこの部屋の主と向き合っていた。
 その立ち居振る舞いは、堂々としていて、どっしりとした存在感が感じられるほどである。
 男が亞萌里に差し出した名刺には『統和学院大学史学科第三研究室 考古学教授 周防・武昭(スオウ・タケアキ)』と印刷されていた。
「つまり、この銅鏡を大学側に寄贈して欲しいということですか?」
「はい。この銅鏡は非常に珍しいもので、我が国の考古学資料として非常に貴重なものです。ぜひ、本学に寄贈いていただきたい。
 無理なら、せめて本学で研究をさせていただきたい。そして、その間だけでも私どもにこの銅鏡を預からせていただけないでしょうか?」
 周防教授の申し出に、亞萌里は当惑した表情で他の三人の顔を見つめていた。
 亞萌里に困った顔を向けられた紅とイブは、この大学教授がこの部屋に入ってきた瞬間的に、その正体を悟っていた。
(なるほど、この男が、ここ(大学)にこんな厄介な結界を張った張本人か……)
 紅とイブは、この一瞬、互いに同じことを考えていたという事実を知ったら、どんな態度をとっていただろうか? たぶん、イブは嫌な表情をして嫌悪感をあらわにしただろうし、紅は小娘にしては上出来じゃない?といった風に余裕の笑みをこぼしていたかもしれない。
 しかし、今の二人は厳しい表情で、大学教授としては若すぎる男を凝視していた。
 また、レイベルは男から発せられる強い力を感じながらも、自分の仕事は未だベットで寝ている紫亞の看病だとの考えから、特に気にした様子もなくせっせと少女の容態をチェックしていた。
「あのう、確かにお申し出は嬉しいのですけれど、この銅鏡は何と言うか普通の鏡ではないんです。
 たぶん、大学に寄贈しても逆にご迷惑をかけるだけじゃないかと……。
 だから、私、この鏡はどこかの神社に奉納しようと考えているんです」
 亞萌里は大学教授に自分の考えを伝えると、済まなさそうに頭を下げて見せた。
「奉納? ならぜひ本学の社に奉納してはいただけませんか? 一応、私はこう見えても神主の資格も持っているんですよ。
 それに、その鏡がどういったものかは、貴方達よりもよく知っています」
 周防教授は、デザインスーツの内ポケットから古びた手帳を差し出した。
 亞萌里はその手帳を受け取ると、中身をみて驚いた。
「こ、これは!?」
 そこには、亞萌里の祖父がしたためたあの手帳と、殆ど同じ内容が記されていた。
「亞萌里さん。あなたの御爺様、故石上氏は私の恩師でもあります。
 その鏡やさまざまな呪術について、私はあなたの御爺様と共に15年以上前から研究してきています。もっとも私の方はもっぱら考古学的考証がメインでしたが……。
 ですから、その二枚の鏡がどういったものかはよく熟知しています。
 どうでしょう、私にその鏡を預けていただけないでしょうか?」
 そして、今度は周防教授が亞萌里に深々と頭を下げた。
「あっ! そ、そんな……。教授、どうか頭を上げてください」
 亞萌里は再び困った表情を作ると、ついに仲間達に助けを求めた。
「ミス・紅? どう思います?」
「私は別問題ないと思うけどね。このお兄さん、結構なやり手みたいだし。預けておいても問題ないんじゃないかしら?」
「イブさんは?」
「あたし? どっちでもいいんじゃない? あんたの好きにすればいいさ。
 ただ、あたしから言えることは、まぁ、この兄ちゃんならきっちり管理してくれんじゃないか?」
「レイベルさんは?」
「私はパス。もともとその鏡には興味ないから」
 三人の意見を聞いて亞萌里はようやく決心がついたのか、周防教授に改めて頭を下げる。
「なら、この鏡のことお願いします。
 ただ、大学に寄贈したいところですが、やっぱり私達姉妹にとっては祖父の大事な形見の品ですから、教授個人を信じてお預けすることにします。
 どうか、それで許してもらえないでしょうか?」
「ありがとうございます。この鏡は私の名誉にかけて預からせていただきます」
 周防教授は、亞萌里に感謝の言葉を述べると二枚の鏡を受け取って、女子寮をあとにした。
「やれやれ、それにしてもこの二日間、大変だったよ。まさかこんな大変な仕事になるとはね、軽々しく命を懸けるもんじゃないね」
 イブは男が立ち去ったあとの扉を見つめながら、溜息交じりの息を吐いてその場から立ち上がった。
「さて、あたしは一旦、家に帰らせてもらうよ。ナンバー1女王様の私が三日も連続して店を休んだなんてことになると、店長泣いちゃうからね。
 とりあえず亞萌里、あの契約の件は紫亞の意識が戻ってから、実行させてもらうよ」
 別れの言葉もそこそこに、イブは玄関の扉を開いて立ち去っていった。
「じゃあ、私も失礼するわ。亞萌里ちゃん、何かあったらゴーストネット経由で連絡でもくれればすぐに助けに来るからね。それじゃあ」
 そして紅・蘇蘭も亞萌里の部屋を後にした。
 実際のところ、この二人はこれ以上この学校に張り巡らされた結界の中にいるのが厳しくなってきていたのだ。
 最後に残ったレイベルも、夕刻近くに患者の容態をチェックして「また、明日にでも様子を見に来るから」と言い残して、夜闇の中に消えていった。
 結果、室内には4日ぶりに本来の主、亞萌里と紫亞の二人だけが残された。

 そして、終幕の帳が下りる寸前で、それは起こった。
 早朝に叩き起された紅、イブ、レイベルは、携帯電話の向こう側で訳のわからんことをのたまっている雫の緊急招集で、亞萌里の部屋に集まっていた。
 そこには、呆然と床に座り込んで、壁の一点を見つめる亞萌里の姿があった。
 亞萌里の見つめる壁には、赤い文字で
 
『悠久の時を経て、我は復活せん!
 天神の継子たる我を貶めたる痴れ者共よ、死の恐怖に慄くがよい!
 我が復讐の時は、今始まれり!!』
 
 と記されてあった。
 後の警察側の現場検証で、その文字が人間の血、それも原因不明の失踪を遂げた同室内に居住する妹のものであることが判明した。
 
 そして翌朝の新聞各紙の一面には『昨晩、統和学院大学に強盗が入る! 貴重な文化遺産である銅鏡一点が盗まれる!!』という見出しが躍ることになる。
 
 
 イブは、ゆっくりと歩を進めながら清涼学園の校門を潜ると、教えられた場所に向かった。
 グラウンドでは、陸上部員と思われる少女達がトラックを飽きもせず走り続けている。
 すれ違いざまに、奇異の目でイブを見つめる少女達を無視して目的の場所へ急ぐ。
 イブはいつもの格好に紫色の布袋に包まれた棒のようなものを手にしていた。
 ふと足を止めると、イブはコートの内ポケットから紙片を取り出し現在地を確認する。
 そして目の前に鎮座する、その建物を見上げて溜息をついた。
 大学内の建物も豪華だったが、その道場は普通の学校の体育館はあろうかという巨大なものだった。
 イブは、道場の入り口から内部に入ると、剣道場へと足を進めた。
「いやぁぁぁぁ!!」
 剣道場の扉を開けると、聞きなれた少女の凛とした声が耳に入ってきた。
 そこには、襷をかけた巫女姿の石上・亞萌里が、一人で剣の稽古をしていた。
 演舞のように力強く華麗な型が次々と流れるように繰り出される。
 そしてひときわ大きな気合の声を発すると、亞萌里はそのまま木刀を左手に収め道場の床に正座して、深々と礼をした。
 紫亞が消えてからすでに一週間が過ぎたこの日、イブは亞萌里によって、この道場に呼び出されたのだ。
 ゆっくりと立ち上がろうとする亞萌里に、イブは背後から拍手を贈る。
「なかなかのもんじゃないか。さすがは全国大会優勝者だね」
「もういらしてたんですか? イブさん」
 亞萌里は流れる汗を肩口で拭うと、イブの側までやってきた。
「で、どうしたね。わざわざあたしをこんなところに呼び出して……?」
「実は私、学校を辞めることにしたんです」
「は?」
「さっき、学園長に退学届を出してきました。
 これから長い旅にでようとおもって」
「おい、亞萌里? さっきから何を言ってるんだ?」
 いっこうに話の見えないイブは、いぶかしんで少女に尋ねる。もしや、妹が行方不明になったショックから気でもおかしくなったのか?とも思えた。
「イブさん。私、妹を紫亞を探す旅に出ることにしたんです。どれだけかかるかわかりません。でも、私はあの時、鏡の世界で妹に誓いました……どんなことになっても紫亞を守るって……。
 だから、すいません。
 私、まだイブさんに食べられるわけにはいきません」
 少女の決意を聞いたとき、イブは自分の中でこの少女を今すぐにでも喰らいたい衝動に駆られた。
「おい、あんた、それ本気で言ってるのかい?」
「はい。イブさんには申し訳ありませんが、私は妹をみつけるまでは……」
 亞萌里の言葉が終わるか終わらないかというところで、イブは少女に襲い掛かった。
「!!」
 人のものではない形相を浮かべながら迫りくる“妖”の姿に、とっさに手にした木刀で応戦しようとする。
 しかし、木刀はイブの手刀の前に粉々に砕け散り、亞萌里はそのまま道場の床に押さえつけられてしまう。
「こんなもので!! 木刀程度しか振るったことのないあんたが何をするって!?」
 鋭い牙を生やした口を耳の側まで裂きながら、イブが亞萌里に詰め寄る。
「何不自由なく生きてきた、お嬢ちゃんになにができるって言うんだい!!
 あの娘、紫亞は、もう普通じゃない!! あの血文字を見ただろう? あいつはもう“人”じゃなくなっている。確かに器は人間かもしれないが、中身は別物だ!! そんな化物を探し出して、お前に何ができる!!
 こんな簡単に、組しだかれ、身動き一つできなくなっちまう、弱い生き物に何ができるんだ!!」
 この時、亞萌里は死を覚悟した。まさか“妖”の力がこれほどとは思っていなかったのだ。自分は剣道大会で優勝する程の腕前で、木刀や竹刀を持たせればちょっとやそっとのことでは負けないこと、そして先日の怪奇事件の解決という二つの事柄が、亞萌里の中にありもしない虚構の自信を植え付けしまったのかもしれない。
 しかし、それらは、ほんの一瞬で、あまりにも強大な“妖”の力の前に脆くも崩れ去った。
『私は間違っていた“妖”のイブさんや、ミス・紅とすこし接したからといって、彼女等に近づいた気でいた。でも、現時は違った、私は近づいてなんていない、ただ勝手にそう思っていただけだったんだ』
 そう悟ったとき、亞萌里は恐怖のあまり完全に固まってしまった。
 もうダメ、このまま殺される……そんな考えが頭の中で浮かび、体が震える。目をつぶりその瞬間が来るのを待った。
 しかし、どれだけまっても自分の肉体に突き立てられる牙の感触は、やってこなかった。
 亞萌里は、恐る恐る目を開ける。そこには、厳しい顔つきで自分を見つめる“いつもの”イブがいた。
「亞萌里。あんた弱すぎるよ。そんなんじゃ紫亞を助けることなんて無理だ!
 木刀ふって満足しているような、今のあんたじゃ絶対にだ!!」
 するとイブは、握っていた紫色の布袋から中身を取り出すと、訳もわからず倒れこむ亞萌里に投げて渡した。
「これを使いな。あんな貧弱な木刀じゃ、あたしらみたいな存在に傷ひとつつけることはできないからね」
 渡された物を見た亞萌里は驚いた。
「こ、これは……」
「そう、あんたの爺さん、石上・亞祁仁が使ってた剣だ。確か銘は“八握剣(ヤツカノツルギ)”とかいったけな。
 妹を探すんなら、そいつを持っていきな」
「これをどうしてイブさんが……?」
 剣を受け取りながら、亞萌里はもっともな疑問を口にした。
「あんたの爺さんに預かったんだよ。1年前のあの時。そう、亞祁仁が連中に殺される直前にね」
「え! じゃぁ、イブさんは、おじいちゃんのこと知ってるんですか? なら、おじいちゃんはどうして……」
「亞萌里。人には知らない方がいいことが山ほどある。
 あんたの爺さんの死は、そういったものだ。
今のあんたに説明しても分かってもらえない。
 だがね、あんたの爺さんは、最後の最後まであんたら姉妹は心配していた。そして、あんた達に何かあったら、あたしに助けてやって欲しいって頼んできたのさ」
 亞萌里は驚愕の事実を知って驚いた。
「亞萌里。あんた紫亞を助けたいんなら、強くなりな。
 その剣を使って、あんたの爺さんみたいに、あたしら“妖”からも恐れられるような存在になるんだ。そうじゃなきゃ、絶対に妹を唯一の家族を取り戻すことはできないよ」
 呆然と座り込む亞萌里に、イブはきっぱりと断言する。
「亞萌里、あんたを喰らうのは、しばらく待ってやる。あたしも紫亞が行方不明のままであんたを喰らったんじゃしっくりこないからね。
 もっともっと強くなって妹を助けてから、あんたを頂くとするよ」
 そういってイブは、亞萌里に背を向けると道場の出口へと向かった。
「イブさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう」
 イブが道場の敷居を跨いだとき、背後から泣き声と共に何度も何度も、その言葉が聞こえた。
(亞祁仁。あの剣は、ちゃんとあんたの大切な“形見の品”に渡したからね。
 大丈夫さ、あの娘なら、あたしみたいな“妖”にすら微笑みかけられるあの娘なら、ぜったいにあんたをやった連中なんかに負けない強い娘になる。
 あんたを殺ったやつの顔は鏡面世界でしっかりと覚えた。もし、出会うことがあった絶対に逃しはしない。骨の一片も残さずくらい尽くしてやるから、あんたはそっちで大人しく見てなよ……)

 イブは颯爽とした足取りで清涼学園をあとにすると、そのまま一度も振り返らずに人ごみの中に消えていった。

 かくして、物語は終幕することなく、第二幕の開始を告げるベルの音がけが、たたましく鳴り響くこととなった……。
 


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/ PC名 /性別/年齢/職業】

【0606/メイベル・ラブ/女/395/ストリート・ドクター】
【0898/黒木・イブ/女/30/高級SMクラブの女王様】
【0908/紅・蘇蘭/女/999/骨董店主(闇ブローカー)】

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■         ライター通信          ■
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 大変、お待たせしました。
 OMCライターの 綾瀬 孝 です。

 このたびは、私の依頼を受けていただき大変ありがとうございました。
 今回の文章は前半(導入部分)は共通、後半は個別という変則型になっています。
 他の方のお話を読んでいただければ、物語の全容を掴む事ができますので、お時間がありましたら、ぜひ読んでみてください。

 イブ様にはいつもファンレターありがとうございます。
 イブ様のイラストは全てチェックさせていただいています。雰囲気が出ててすごくいいですね。
 お返事は、後日改めてご返送させていただきますので、よろしくお願いします。
 亞萌里と紫亞の物語は、この後も続きますが、よろしかったらぜひご参加ください。
 それでは、今回は本当にお待たせして申し訳ありませんでした。