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草間探偵の優雅な一日
●何て清々しい!
ある日の草間興信所――入口の扉のノブが途中までゆっくりと回り、鍵がかかっていないことが分かると一気にノブが回された。
そして静かに扉が開かれたかと思うと、朝の光が窓から差し込む事務所に、背丈の高い細身の女性が姿を見せた。中では、黒髪に大きな白いリボンをつけた少女が、事務所の窓を拭き掃除している最中であった。
「おはよ……零ちゃん」
女性――シュライン・エマは小さく右手を上げ、熱心に掃除をしている少女に声をかけた。少女がくるりとシュラインの方を振り返り挨拶をする。
「おはようございます、シュラインさん」
少女は笑顔を浮かべたまま、ぺこんと頭を下げた。少女の名は草間零、草間の妹……ということになっている、一応は。
(ん……少しずつ笑顔が自然になってきたかな)
シュラインは零の笑顔を見て、そんなことを考えていた。当初の零の笑顔には作られた物を感じたけれど、ここで暮らし出してから少しずつ笑顔に変化が起きているように思ったのだ。
(環境が違えば、変わってゆくものね)
シュラインの脳裏に、今はもう姿を消した南の島での出来事が蘇る。そしてそこで零と初めて顔を合わせた時のことも。
零は本当は草間の妹ではないことはシュラインもよく知っている。また、零の正体についても。だが、今はそんなこと問題でもなんでもない。目の前に居る零は、今は『草間零』なのだから……それでいいのだ。
「どうかしましたか?」
きょとんとした様子の零に声をかけられ、シュラインは我へと返った。どうやら物思いに耽ってしまっていたらしい。
「ううん、何でもないわ」
苦笑いを浮かべ、シュラインは事務所の中を見回した。零が来る前の事務所は、依頼人が1日来ないだけで惨憺たる有様になっていた。が、零が来てからというもの、事務所は毎日零によって綺麗に掃除され、依頼人が来ない日が続いても塵一つ落ちていないという環境に変化していた。
(何て清々しい朝……)
満足そうに頷くシュライン。綺麗すぎて落ち着かないなんていうのは些細なこと。シュラインにとっては、零の徹底した清掃によって黒い『アレ』が事務所内から撲滅されたことが何よりも嬉しいことであった。
「……と、感動してる場合じゃないわね。さ、仕事、仕事」
シュラインは棚からファイルを取り出すと、ソファに腰掛けてさっそく仕事を始めた。心地よい環境だと、仕事も進むというものだ。
と、書類を数枚片付けた所で、はたとシュラインの手が止まった。
「何か忘れているような……」
首を傾げるシュライン。特に何も忘れていないとは思うのだが、何かが頭の中で引っかかる。それが何か分からないから、すっきりしない。
「何だったかしら」
シュラインは何かヒントになる物がないか、ゆっくりと周囲を見回した。ちょうど零が、椅子の背もたれにかけられたままの汚れた上着を取ろうとしている所であった。それを見て、シュラインがポンと大きく手を叩いた。
「……主が居ない」
何を忘れていたのか、ようやく思い出せたシュライン。すぐに零に草間の居場所を尋ねてみた。
「草間さんでしたら……」
零は天井を指差した。どうやらまだ眠っているようだ。
「またアケミちゃんの夢でも見てるのかしら」
笑みを浮かべ――やや眉をひそめていたが――言い放つシュライン。すくっとソファから立ち上がり、奥の階段へと向かった。その後を、零が追った。
●起きなさいってば!
シュラインは慣れた足取りで3階に上がると、すぐに草間の寝室へと向かった。すぐ後ろには零の姿もある。
勢いよく、寝室の扉を開くシュライン。本来なら起こさぬよう静かに開けるべきなのかもしれないが、そろそろ起きてもらわねば困る。こちらにだって、色々と予定はあるのだから。
「やっぱり……」
呆れたようにシュラインがつぶやいた。勢いよく扉を開けて2人が寝室に入ってきても、草間は全く目を覚まさなかった。軽い寝息が聞こえてきている。
「とっとと、このねぼすけさん起こしてしまいましょ」
腕まくりするシュライン。すると零は、草間のベッドへと近付いて片膝をベッドへと乗せた。ベッドが軽く軋む。
「あ、ちょっと……!」
シュラインが慌てて零を止めようとする。どうやら零は耳元で声をかけて起こそうというのだろうが、それはまずかった。この後どうなるか、だいたい予想はつくのだから。
案の定――草間は突然零の身体をつかみ、ぐいと抱き寄せた。
「きゃっ!」
零が短い叫び声を上げた。それはそうだろう、零の顔は草間の顔のすぐ真ん前、間近にきていたのだから。……いや、単に急に抱き寄せられたことに驚いただけかもしれないのだが。
「武彦さん!」
げし。
シュラインの蹴りがもろに入り、草間はそのままベッドから転げ落ちた。幸運にも、零はその巻き添えを喰らわなかった。
「大丈夫?」
シュラインがすぐに気遣いの言葉を発した。けれどもその相手は草間ではない、零だ。
「はい、大丈夫です」
こくんと頷き答える零。シュラインは一瞬安堵した表情を見せ、それから床へと転げ落ちた草間に視線を向けた。さすがにこれには草間も目を覚まし、寝ぼけ眼で上体を起こしていた。
「空から落っこちる夢を見た……」
そんなことをつぶやく草間に対し、シュラインが無言ですっと手を差し出した。
「……分かってる、着替えだな」
シャツのボタンに手をかける草間。毎度のことなので、何も言われなくとも分かるようになったらしい。
「脱ぐ物脱いだら、そのまま風呂に入ってらっしゃいな。ほら、その無精髭も剃って!」
両手を腰に当て、草間に言い放つシュライン。草間が首を竦める。
「シュラインさんって、凄いんですね」
零が感心したようにつぶやいた。何がどう凄いのか、シュラインはあえてそれは聞かないことにした……。
●山のような……
草間が風呂に入っている間に、シュラインたちは洗濯を行うことにした。
「いい、お水の水量に合わせて洗剤を掬って……」
洗濯機の目の前で、零にレクチャーを行うシュライン。零はまだよく洗濯機の使い方を理解していないようなので、シュラインがそれを教えているのだ。
「あの」
シュラインが洗濯機の使い方を教えている最中に、零が口を挟んだ。
「どうしたの?」
「この洗濯機の中、私の物しか入ってないんですけど……いいんですか?」
零はちらりとシュラインの後ろにある洗濯物の山を見た。それは草間の衣服ばかりであった。
「いいの、いいの。自分の分だけでいいわよぅ」
笑って答えるシュライン。
(洗わせるの可哀想だもの、こんなのを)
……酷い言い様である。
ともあれ無事に洗濯機も動き出し、2人は事務所へと戻った。まだやることは残っているのだ。
シュラインは草間の机のそばへ近付くと、机の上をぐるっと手で示した。
「いい? デスク上のゴミはまとめて武彦さんに渡し、重要書類が入ってないかを確認させてから捨てること。分かった?」
零に念を押すシュライン。何しろ草間の机の上は散らかっている。一見しただけでは、ゴミか大切な物か判別出来ないのだ。だからすぐに捨ててしまわないよう、シュラインが零に念の押すのも当然のことであった。
「分かりました」
こくんと頷く零。1度言えば分かるようだから、これで安心だろう。
それからシュラインは再び仕事に、零は掃除へと戻った。
しばらくして、草間が奥の階段から姿を現した。湯上がり後の草間は無精髭も綺麗に剃っており、すっかり目も覚めたようだった。
「一風呂浴びるとさっぱりするな」
などとのんきなことをつぶやく草間に、シュラインが声をかけた。
「もう目は覚めたのかしら?」
「ああ、すっかりな。それに、誰かさんには蹴落とされたことだし」
ニヤッと笑みを浮かべる草間。そんな草間の皮肉はすっと聞き流し、シュラインは1枚のメモを草間に手渡した。
「だったら武彦さん、これお願いね」
「何だ? 何々、キャベツ2玉、豚肉ロース用3枚……って、おい。これ……」
唖然とした様子の草間。シュラインの手渡したメモには、買い出しする品物が細かい字でびっしりと記されていたのだ。
「買い出しよろしくね、武彦さん」
シュラインがにっこりと微笑んだ。そして掃除中の零にも声をかける。
「さ、買出し等はねぼすけさんに任せ、私たちは一休みしましょ」
それを聞いた草間は何か言いたそうにしていたが、諦めてすごすごと事務所を出ていった。
「……たまにはいいわよね」
ぼそっとつぶやくシュライン。今日も今日とて草間興信所、依頼人の来ない日には極めて穏やかな時間が流れていた――。
【了】
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