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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡線・名も無き霧の街 MIST>


至宝の行方

------<オープニング>--------------------------------------

 神に祈る気持ちとはまさにこのことか。
 敬虔な信者であるヒルベルト・カーライルは、机に両手を置きぴくりとも動かない。深く眉を寄せ美貌を歪めている。その様子は荒行に耐える修験者のようでもあった。
 国の至宝とも謳われる微笑を持つ法王。アスラン・イヅスの姿が消えたのである。
 血相を変えた教会のシスターが、ミスト・ガーディアン−−−MGの本部に駆け込んで来たのが午後の三時。
 ヒルベルトは朝の祈り会でアスランの姿を見た。
 普段通りさざやかな声で聖言を唱え、人々の祈りを天井へと送り届けていた。あのアスランが……。
「猊下……どうかご無事で……」
 胸に秘めていた思いが、唇からあふれ出す。
 祈り会は早朝、午前五時に行われる。
 その空白の時間。まだ幼い法王猊下はどうしていたのだろうか。
「ヒルベルト様、申し分けにくいことが……」
 ぴしりと白を基調に、金のアクセントの利いた軍服を着こなした、MGの隊員が部屋に入ってくる。短く整えられた黒い髪をぴしりと撫でつけた男だ。
「アスラン様の寝室から怪盗紳士の予告状が発見されました」
「内容は」
「至上の輝き頂戴致します。以上です」
 近隣を騒がせている怪盗紳士。そのスマートな手口から一般人にファンまで持つという。一般人とは始末に終えない。規律による平和に満足せず、カオスの中にあっては規律を望む。
「奴は犯行前に必ず予告状を出す。なぜ今になって発見される……」
「失礼します!」
 隊長室に青年が走り込んできた。肩が荒い呼吸で上下している。
「教会側が捜索を開始したようです」
 ゆっくりとヒルベルトは立ち上がった。
「法王猊下は我々の手で必ずお助けする。遅れを取るな!」
 どうかご無事で。
 ヒルベルトは何度目かの祈りを捧げた。
 神と人との間におわす法王の不在。この祈りは空まで届くのだろうか?



「それでお終いかな、ユミラ」
 リヒト・サルカは静かに手を挙げ、ユミラの言葉を終わらせた。
 法王アスランが消えたことに気づいてから、一時間が経過しようとしている。その間に教会内はおろか、法王庁全体からリヒトの私室、侍女の宿舎のシーツまで剥がして捜索させたが、アスランは見つからなかった。
 アスラン付きの女官であるユミラから子細な報告を受け、リヒトは椅子から立ち上がった。
「リヒト様?」
 真っ青な顔でユミラも立ち上がる。
「ユミラ、上着を」
 リヒトは短く命じた。
 ユミラは部屋の隅にすっ飛んでいき、リヒトの丈の長い上着を抱えてくる。
 袖を通させた。
「ミスト・ガーディアンに通達を。アスラン猊下をお探しする」
「外へ、出られるんですか……? リヒト様」
「ああ。もう内部に隠れてらっしゃるとは思えないからね」
 リヒトは目を瞑る。
 至宝と呼ばれるアスランの微笑みを……取り返さなくてはならない。


×


「……何よ」
 風見璃音は上目遣いに相手を睨んだ。目の前には身長二メートルを超える大柄な女性が立っている。女性は白の金のアクセントが利いた制服を纏っていた。
 MG隊員。
 何度か耳にする言葉だ。確かこの街の警備隊のようなものだったはず。
「失礼、お嬢チャン」
 女性はにっこりと微笑み、璃音の首筋に手を当てる。驚くほど大きな掌だ。
「獣臭いな」
 ぽつりとした一言に、璃音は身構える。この身に隠した狼の血を言い当てられたのだ。
「貴方、『外』の人よね。観光かしら?」
「そんなところよ」
 上から下まで女性は璃音を見る。肌から肉、骨の奥まで見定めるような視線だ。
「今取り締まり強化中なの。悪いけど、話を聞かせてもらえるかしら?」
「残念だけど」
 歩き始めた璃音の四方を、MGの隊員が取り囲む。女性と会話をしている間に側に着ていたらしい。
「何?」
 苛立ちに言葉を吐く。
「投獄して頂戴」
「?!」
 理由を問おうとした時は遅く、後頭部に鋭い一撃を食らった。


×


 最初からおかしいと思っていたのだ。妙に街全体がそわそわして物々しい。空気全体がぴりぴりと肌に刺さる感じだ。噂に聞いていた印象とは随分違う、何かあったのだ。
 璃音は地下牢で目を覚ました。まだ頭が脈打つように痛む。問答無用で力いっぱい殴られたようだ。一度だけ獣のように喉の奥で唸る。
「これがこの街の礼儀なの?!」
 自分を閉じ込めている鉄格子を蹴り上げ、毒づく。
「落ち着けよ、ねーちゃん」
 先客が居たらしい。牢屋の奥、闇が固まっている場所に中年男性が一人あぐらをかいていた。布切れだか洋服だかわからないものを体に結んでいる。見るからに不潔で異臭を放っていた。虫がついているようで、ひっきりなしに体を掻いている。
「取り締まりが強化されてんだよ……俺っちみたいな乞食でもお構いなしさ」
「事件でもあったの?」
 人間より敏感な璃音の鼻に、乞食の体臭が突き刺さる。埃と汗が混じり合った、すえた腐臭だ。
「法王様がさらわれたらしいぜ」
「ずさんな警備ね」
 やっと攻撃すべき部分を見つけた。璃音は薄い嘲笑を唇に浮かべる。
「何でも怪盗紳士に盗まれたとか。いやぁー天晴れじゃねぇか。爽快だよなぁ、貴族とかの手をすっと逃れて盗んじまう。俺もあと十年わかけりゃよぉ」
 体を引きずるように近づいてくる。そっと璃音の細い肩に手を置いた。
「それより今を楽しもうぜ……地獄に花とはこのこ」
「触らないで」
 璃音は裏拳で男性の顔をひっぱたいた。軽い動作に見えたが思い拳だったらしく、男性はうーんと唸って後ろに倒れた。
 この身も心も、唯一の人のもの。
 どうやら牢屋がいくつもならんだ部屋らしい。石の壁を通して隣の罪人の会話も聞こえた。
 こつこつと廊下を誰かが歩いてくる。一つ一つの牢の前で足を止め、なにや会話を。足音は璃音の前でも止まった。あの大柄な女性と細身の男性だ。立ち振る舞いから、男性のほうが上司だとわかる。
「これは?」
 これとはなんだ。璃音はまたむっとする。睨み返すと、男性は目元を押さえる。呆れ半分苛立ち半分に呟いた。
「どいつもこいつも……手当たり次第に捕まえてきおって……」
「ヒルベルト様?」
「我々の目的はただ一つ。法王猊下の保護だ。雑魚に構うな!」
 怒鳴られ、女性はびくっと体を震わせる。女性の方が身長も高く体格も良いのだが、ヒルベルトと呼ばれた男性は発する気迫が違う。璃音も一瞬心臓を殴られたようなショックを受ける。そして、隠してある尾が太くなるのを覚えた。
「釈放だ!!」
 ヒルベルトは片手に鞭を取り、女性に檄を飛ばした。


×


「なんなのよ、もう!!!」
 放り出されるように璃音は建物から出された。謝罪の言葉もなく、無理矢理追い出される。璃音は今まで自分を納めていた白い建物を力一杯睨んだ。
 雑魚扱いも無理矢理な投獄も、その後の対応も。すべてが気に入らない。東京だったら人権問題で速攻起訴出来そうだ。
「誰が雑魚ですって……?」
 ぷりぷりしながら歩き出す。目的である黒狼様探しを始めなければならない。こんなことで怒っていても……と自分に言い聞かせる。
 数メートル歩いた地点で、はたと足を止めた。
「法王猊下の保護って言ってたわね……あいつらより先に見つけたら、どんな顔するかしら?」
 振り向き、白い建物に微笑む。無邪気でありながらもサディスティックな、残酷で美しい笑み。
 人の多いところに情報は集まる。まずは街の中心部、バザールにでも行ってみようか。
 幾分軽くなった足取りで石畳の小道を進む。街は見慣れない造形の建物で溢れ、璃音の目を楽しませた。童話の中に紛れこんだような町並み、と誰かが言っていたが正しくその通りだ。瀟洒な建物はそれぞれに凝っていて飽きないし、生えている植物、売っている品物、街をゆく人々の服装まで東京とは違っている。
 木々が多いので空気が肌に優しい。昔訪れた森を思い起こさせる。
「おねーさんそとのひと?」
 歩道を歩いていると、舌っ足らずな発音で少女が話しかけてきた。薄汚れているが可愛らしい猫のぬいぐるみを抱いている。
「そうだけど、何か?」
「えっとねー……うんとねー……」
 喋ることと考えることの速度が合わないらしい。文節に区切り、間にからなずね、と確認をするように付け足す。
「まなね、おしごとするのー」
「どんな?」
 璃音は膝を折り、少女と同じ目線の高さになる。
「おねーさんとね、おはなしをね、するの」
 辛抱強く少女が喋ろうとしていることに耳を傾ける。短気であったり子供嫌いであったりすると、聞き役は務まらない。
「おっと!」
 璃音は自分のショルダーバッグに伸びてきた手を掴んだ。
 少女にほ微笑みかけながら、後ろの気配を探るのも忘れない。先刻後頭部を殴られた経験から、平和そうな街の外見にだまされないよう、周囲に気を配っていたのだ。
「いてててっ!!!」
 右手を捻りあげられ、少年が叫ぶ。璃音は人差し指を唇の前に当て、ちっちっちと舌を鳴らした。
「私から財布をすろうなんて10年早いわよ? ボウヤ」
「おにいちゃんをはなせー!!」
 少女は一生懸命に璃音の体をぬいぐるみで叩く。やはりグルだったようだ。
「畜生離せったら離せー!!」
「駄目駄目」
 握力を上げると、少年の顔が苦痛にゆがむ。
「いててててー!!! 悪かった、俺が悪かったよぉ!」
 さてどういうお仕置きをしてやろうか、と璃音が考えを巡らせると。
「はーい、ストップストップ」
 ぱんぱん、と誰かが手を鳴らした。
「リーダー!」
 半べそをかいていた少年が、手を鳴らした少年をみて、瞳を輝かせる。突然璃音に対する視線も挑戦的な物に変わった。
「そいつが盗ろうとしたことは謝るよ。だから離してやってくれないか? お姉さんの手伝いをしてやるからさ」
「どうして人捜しをしていると……知っているの?」
 リーダーと呼ばれた少年は両肩を上げた。褐色の肌に明るい銀髪の映える、目立つ少年だ。璃音の手から逃れた兄妹は、即座にリーダーの後ろに隠れてしまう。
「人捜ししてるんだ?」
 やられた。
 璃音はあきれて苦笑してしまった。
 簡単な誘導尋問だったようだ。大抵の人は答えてしまうだろう。人間、特にこの街にとってのよそ者は界鏡線に乗ってやってくる。あの電車は、訳ありであったり常人ではなかったりする種の存在でなければ、乗ることが出来ないのだ。
 そして、そうした人間の大部分は目的があって動いている。
「『外』の人間は狙うなって言ってあるよな?」
「……ごめん、リーダー……」
 リーダーは兄より二歳ほど年上らしい。リーダーらしく軽く注意を促す。
「どーせ財布の中身は使えない金なんだし……まぁいいや。先ねぐら戻ってろ」
「りーだーは?」
「俺はこのお姉さんのお手伝い」
「こんな女の手伝いすることない!」
「こんな女?」
 璃音が聞き返すと、少年はあははっ笑う。
「お前が捕まったのが悪いんだろ、ほら戻った戻った。今日は取り締まりがきついからな、大人しくしてよーぜ」
 二人は背中を叩かれ、小走りに去っていった。すっとリーダーが璃音に手を伸ばす。
「俺はカズン・ハッシュ。あいつらの保護者ってとこかな」
「璃音よ」
 握手をしてくれなかった璃音に、カズンは微笑む。
 保護者といっても年は離れていない。これがストリートキッズか。捨てられた街を根城に、肩を寄せ合って生きている子供たちがいると聞いていた。
 そして彼らが、MGと対立していることも。
 治安を維持する組織と、法を犯してでも生きていこうとする集団。対立するのは当然だろう。
「MG出しぬいて貴人探しといかない?」
 サディスティックに瞳を細める璃音。
「法王探しか? 楽しそうだな……俺たちもあいつには色々やられているし」
 差し出されていたままのカズンの手を、璃音は叩いた。ゴールを納めたスポーツ選手のようにだ。
「ヴィヴィ!」
「はいはーい!」
 カズンが叫ぶと、突然、璃音の目の前に掌サイズの少女が現れた。長い髪の毛の先や洋服の裾などが炎と同化している。背中には大きな炎翼が生えている。少々つり目できつそうな顔立ちだ。
「仲間に連絡、タイプはDだ」
 ヴィヴィの掌に、大きな炎の珠が溢れる。それを妖精は思い切り高く青空へ投げ放った。炎は深紅から高温の青に色を変え、太陽よりもまばゆく輝き、やがて消えた。
「何?」
 璃音は目を押さえる。
「信号弾ってやつ。あとは情報が入ってくるのを……」
「そこにいるのはカズンか?!」
 二人の間に鋭い声が混ざる。璃音とカズンが視線を向けると、葦毛の馬に跨ったMGの姿があった。
 見たことがある、と思ったら、璃音を牢に入れた体格の良い女性だ。何かと縁があるらしい。
「確保!」
 女性が右手を挙げて叫ぶと、後ろに控えていた隊員たちが馬の腹を蹴る。騎馬隊のようだ。厳しい訓練を積んでいるらしく、迅速に動く。鮮やかな手綱裁きだ。
「あー……」
「あなたの知り合い?」
「マブダチってとこかな」
 くるっと踵を返し、カズンは脱兎の如く逃げ出した。璃音もそれを追う。
「性懲りもなく出歩きおって! 逃げるな卑怯者!!」
 後ろ髪を引くように女性が繰り返し叫ぶ。逆にカズンは楽しそうにあははっと声を上げて笑った。
「璃音、あとで合流しよう。アディオース!!」
「合流?! どこにっ!!」
 カズンの肩に座っていた炎の妖精が、道の脇にあった井戸に炎弾をいくつもぶつける。井戸水が瞬時に水蒸気に変わり、狭い井戸の中に収まり切らなくなる。内側からの膨張に絶えきれず、井戸が爆発した。辺りに破片や水がばらまかれる。
「もうっ!」
 肌の表面に漣が走る。その波を追いかけるように、やわらかな獣毛がはえ揃う。銀色の狼は大地を蹴った。
 爆音に恐れ嘶いている馬の足の間を、すり抜ける。獣の姿に変わった彼女を捕まえることは何人にも出来ない。馬の足の長さが逆に短所となり、璃音はカズンと逆方向に逃げることができた。
 こんな街に、絶対に黒狼様はいない!
 というか居てほしくない。
 願いというか望みというかを胸に、リオンは街を駆け抜けた。


×


 法王を捜しているのかカズンを探しているのか、わからなくなってきた。
 璃音はカズンが根を張っているというダウンタウンを歩いていた。どこで合流するのかもわからない。が、少なくともダウンタウンではMGと鉢合わせをすることはないようだ。MGの警備範囲外らしい。
 市街地と違って雑多で薄汚れている町並み。墓標のように団地が規則正しく並んでいる場所もあったが、部屋のほとんどは人が住めるような状態のものではなかった。屋根は落ち壁は腐り、階段には錆びが浮いていた。廃マンション群の捜索を諦め、歩いていると−−−。
 教会が現れた。
 神の家にしては傾いているが、それなりに手入れはされているようだ。出入り口近くにはささやかな花壇もある。その花壇に、しゃがんでいる青年の後姿。
 ダウンタウンに入ってから、様々な植物を見た。どれも伸び放題で手入れなどされていないが、生き生きと花を開かせ自由を謳歌していた。その花々に目をやる人々はいなかった。どんなに美しくとも苦しい生活の役には立たない。誰もがそう思っているようだった。
 璃音は花を眺めている青年に近づく。派手な身なりではないが、ダウンタウンにしては小奇麗で上等な布を使っている。
「法王猊下?」
 勘で呼んでみると。
「なにか」
 青年はそう答えた。
「……今日は当たり日かしら」
 MGといい法王といい、スリといい。良い物悪い物とにかく当たる。
「あの、僕になにか……」
 青年は花壇から立ち上がり、璃音に首を傾げる。小動物のようなおどおどした仕草だ。
 足下に咲いている小さな花よりも、可憐な顔立ちの青年。青年というには幼さが残っており、大人しそうだ。空気に溶けてしまいそうなほど繊細な線で描かれた、一個の花びら。そんな印象だ。
 形のよい瞳には、恐怖の色が浮かんでいる。
「あなたを探していたのよ」
 法王は頭を左右に振った。
「そんなに警戒しないで。敵じゃないわ」
「はい」
 すると、今まであった不安そうな表情が消える。震えていた花が、風に誘われてゆっくりとほころぶように、笑顔を見せる。
 素直というか、馬鹿というか。たったこの一言だけで、敵ではないと信じたらしい。究極の温室育ちというのはこういうものか。
「お名前を聞かせてください」
「璃音」
「……璃音。不思議な響きですね。璃音、あなたとの出会いに、感謝いたします」
 両手を胸の前で合わせ、法王は瞳を閉じた。
「教会から逃げ出したのに教会の側にいるなんて、変わってるわね」
「少しでも神の側に居たいと思いませんか?」
 聞き返され、璃音は小さく笑った。自分は無宗教であり、信じられるものとしたら自分自身と信念だけだ。何かに祈ったり頼ったりしたことはない。
 ……本当にそうだろうか。
 胸に小さな疑問が湧く。
「立ち話もなんだから、入りましょう」
 頷いた法王は、足下に咲き乱れる花を踏まないように、璃音の後ろにつく。と、すてんと転けた。花をよけるのに集中して、教会の敷居につま先を取られたのだ。
「……痛い……」
 転んだままの法王に、手を貸す。そうしなければ一生倒れていそうだ。
「ありがとうございます」
 愛くるしく微笑まれ、胸が高鳴った。恋愛感情ではなく、子猫や子犬がすり寄ってきたきたときのような、説明できないただ純粋な好意。璃音は体の奥底から喜びが溢れ出しそうになった。
 さすが、国の宝とも言われる法王。
 これほど美しく可憐に微笑む人間が、この世に存在したなんて。愛という字が人の形になったような、奇跡の法王。
 転んだとき受け身も取らなかったらしい。床に打ち付けて赤くなった鼻を、法王は押さえている。璃音はふっと笑ってしまった。
「自分の鼻にも気をつけて」
「法王様! アスラン猊下っ!」
 教会にはいると、少女が走ってきた。長いスカートに長いローブと、いっさい肌を見せない禁欲的な服装だ。
「よくぞご無事で……」
 少女はアスランに跪き、手の甲に唇を寄せた。
「ユミラ? どうしてここに……」
 璃音は少女の後から歩いてきた、筋骨隆々の肉食獣のような女性と、アスランの間に立った。
「あんたも『外』の人間かい」
 見た目どおり女性は大きな口で喋った。快活である。
 女性と、教会の奥の長椅子に座っている少年へ視線を滑らす。二人ともこの街の人間ではないようだ。ダウンタウンの教会になぜ集まっている。
「法王様の知り合いかい。それとも……」
「璃音は私を助けてくれた方です。敵ではありません」
 アスランの言葉に、ユミラと呼ばれた少女が立ち上がる。そして何度も璃音に礼を述べた。
 助けてくれたというのは、ころんだ時に手を貸したことだろう。アスランが言うと命の恩人のように聞こえるだろう。璃音は一寸居心地の悪さを感じた。だが、もう敵になるつもりはない。何があろうとも、法王側の人間に居ようと決めていた。
 彼の地位が持つ力を借りたら情報も得やすいだろう。この街での行動もやりやすくなる。黒狼に少しでも近づく道ならば、力は惜しまない。
 そして−−−この人の力になりたかった。
「無事でよかった、アスラン。襲われたりしなかったか? 枢機卿は?」
「僕もよくわからない……。ごめんね、月斗」
 どうやらアスランは僕と私を無意識に使い分けるようだ。年下である『外』の少年、月斗の前では僕と言っている。月斗とアスランは外見年齢の差こそあれ、月斗が保護者のように感じられる。
「襲われた? 枢機卿?」
「あんた、何も知らないのかい」
 『外』の女性−−−龍堂玲於奈と言うらしい−−−は意外そうに瞳を大きくした。
「わたくしからご説明いたします……申し遅れました、法王庁で猊下様にお仕えしております、ユミラです」
「……そうしてくれるとありがたいわ」
「きゃっ!」
 全員の視線が、教会の奥へ流れる。ティーセットを盆に乗せた、シスターが立っていた。
「……大変、ティーカップの数が足りないわ……」
「それだけで悲鳴を上げるんじゃないよ。何かと思うじゃないか」
「ごっごめんなさい!」
 玲於奈の注意に、シスターは頭を下げる。もちろん、盆からはティーセットが滑り落ちた。盛大にカップが割れる。
「あーあ……」
 呆れたように、月斗は漏らす。
 完璧にお茶は飲めないようだ。


×


 ユミラはアスランの隣に座り、ゆっくりと語り出した。
 法王庁では、以前からアスランを廃して新しい法王を掲げようとする動きがある。理由はアスランが自分の意見を持つようになったこと、人気がありすぎることだ。傀儡ではない法王は必要ないと、数人の枢機卿が暗躍するようになった。教会への人気の集中を苦々しく思っていた、王族側の貴族と結びつき、力を強めている。
 それらの手から離れさせ、アスランに休息を取らせる、というのが今回の目的だったらしい。命の危機を日々感じる生活は、重いストレスとなる。毎日薄い氷しか張っていない海を渡っていたような気分だったのだろう。
「怪盗紳士の予告状は?」
「リヒト様が怪盗紳士に依頼をしていたのです。法王のご休息に同行し、身を守るとことを。世間的に法王が脱走するわけにはいきません。不在が私たち、一部の人間以外に知られた場合、あの予告状を発見するという手はずになっていたんです」
「で、見つかってしまったわけだ」
 玲於奈に、ユミラは頷く。
「予告状がある手前、MGに捜索依頼を出さなければなりません」
「脱走を知った枢機卿がここぞをばかりにアスラン暗殺を考えたんだ。ダウンタウンあたりで盗賊に襲われたとか、そういう死に方を用意した」
 年に似合わず、月斗ははきはきと説明する。利発そうな少年だ、生意気なのがたまに傷だろう。言い方に棘がある。
「肝心の怪盗紳士は?」
「はぐれちまったんだとさ」
 座っていたアスランは、申し訳なさそうに縮こまった。
「何はともあれ、法王庁へ戻るべきだ。そうだね?」
 玲於奈にこっくりと頷く。
「戻ったら殺されるかもしれないのに? 行かせられない」
「彼は法王なんだよ」
「俺の友達だ」
 璃音は交わらなさそうな月斗と玲於奈の会話を聞く。お互い立っている場所が違うので、答えは出ないだろう。玲於奈は法王としての立場と義務、責任を重んじている。そして、アスラン自身がそれられに立ち向かうことを望んでいる。逆に月斗はアスランの身を案じ、危機へ近づけさせたくない。
 では、自分はどうか。
「猊下、あなたはどうしたいの」
 黙りこくったままのアスランに、璃音はそっと声をかける。
「……僕は……」
 長い睫毛を伏せ、足下を見つめる。
「………」
 突然、玲於奈が椅子から立ち上がった。そしてうんと両手を上へ伸ばす。固まっていた背中の筋肉をほぐす動作だ。
「そう急がなくてもいいよ。どうせ霧の時間が近い。戻りたくても朝まで無理さ」
「霧の時間?」
「あんたら知らないのかい。この街には霧の出る時間がある。その間は魔物の時間、とてもじゃないけど出ない方がいい。わかったかい、月斗、璃音」
 子供に説明するような口調だ。
「そろそろ腹が減ったね……夕食はどうするんだい、サーニャ」
「手伝っていただけませんか? 今日は人が多いので」
 ティーカップを全滅させたシスターはサーニャというらしい。全員は快くその申し出を受け入れた。


×


「で、なんであんたがここにいるの」
 璃音はじゃがいもの籠を持って、台所の隅に移動した。台所と地下貯蔵庫をつなぐ階段に、カズンが座っていたのだ。
「や」
 人なつっこくカズンは微笑む。
「法王の情報いるかと思ってさ」
「もう見つかったわよ」
 カズンの隣に腰を下ろし、璃音はじゃがいもの皮むきを始める。小さなナイフで七人分も剥かなくてはならない。このままだと八人分になりそうだが。
「狡兎死して走狗煮らるってやつかね。法王も大変だ」
「楽しそうに聞こえるけど?」
「法王嫌いだから」
 ジーンズのポケットから手紙を出した。それをじゃがいもの上に乗せる。皮むきの手を止め、璃音は手紙を開いた。
「親愛なる怪盗紳士へ。本日0時、中央広場にてお持ちしています。……装甲淑女」
「昼間そのビラが街中に配られてたのは知ってる?」
「いいえ」
 もう一度文面を繰り返す。文字に指を当てるように、視線でなぞる。
「『外』の人間だろうな。この街に暮らしているやつだったら、霧の時間なんて指定しない」
「怪盗紳士は来るかしら」
「女の誘いを断るは紳士じゃねーって。約束もな」
「紳士って感じじゃないわね」
 約束を守った、と暗にカズンは言っている。皮肉っぽく返した。
「配られていたということは、MGや枢機卿、それからリヒトって人も知っているのね」
「そうじゃないの?」
 言葉半分にカズンは立ち上がる。
「あとはお花ちゃんがどうするか……見させてもらうよ」
「お花ちゃん?」
「飾られるだけのきれいな猊下」
「やめて」
 自分が好意を寄せる人間を真っ向から侮辱された。怒りを覚える。
 対照的に、にっこりとカズンは微笑んだ。そのまま軽い足取りで台所を去っていく。
 いつ傷つけたのかわからない。ナイフで切ったのだろう、指先に血が滲んでいた。


×


 チキンスープの中に様々な野菜が泳いでいる。食事の主役だ。それにパンと、カズンが持ってきてくれたという香草で焼いた肉。
 この教会の主である老婆、シスター・マリィが食前の祈りを捧げ、その後食事となった。
「ふーむ……」
 玲於奈は装甲淑女と名乗る招待状を読み、グラスを傾けた。グラスが揺れるたびに中の水がゆらぐ。
「行ってみる価値はありそうだね」
「私と玲於奈で行きましょう。法王はここに残っていたほうがいいわ」
「あの……僕……行きたい……」
 消え入りそうな声でアスランが言う。硬いパンを口の中でもごもごと噛み、やっと飲む。
「危険な時間なのに、ヒルベルトやリヒトは来るでしょう? 私がその場にいなかったら、彼らを裏切ることになる」
「アスラン」
 月斗に頷く。
「私は法王庁へ戻ります。枢機卿とは別の戦い方をすればいい。血を流す必要はありません」
 怯えながらもはっきり言った。
「そいつらはあんたの安全が第一だろう? 危険な場所に赴いて喜ぶかね」
「御身を惜しんでくださいませ」
「大丈夫だって! 俺が守るから」
 な、と月斗は子供らしい友情で笑った。
「あたし達が先行する、あんたらは後からついてきな」
 子供のわがままに負けた母親のように、玲於奈は苦笑する。
「きついお灸を据えてやったら……法王も今後動きやすいかね?」
「そうね」
「お二人とも怖いことを平気で言うんですねー……」
 サーニャも食べ終わり、食器の上にスプーンとフォークを合わせた。それを見、アスランが食後の祈り文句を神に捧げる。
 食前に彼は祈らなかった。この祈りには、法王としての自分と向き合うという意識が滲み出ていた。


×

 夜闇に紛れ、一団は足早に街を進んでいた。アスランを中心に守るように、そして霧に乗じる魔物の目から逃れるように。長い時間外を出歩きたくはないので予告時間ぎりぎりまで教会に隠れていた、時間がない。幾度か魔物と小競り合いをしたものの、三人とも離れしている。雑魚は問題にならない。
 問題と言えばアスランだ。恐怖になれていない貴人は、魔物の足音だけでも叫びそうになる。敵に自分の存在をアピールするのと同じ。アスランは姿が隠せるように、ユミラの長いローブを羽織りフードで顔を隠している。
「……霧が?」
 初めに気づいたのは璃音。潮が引いていくように、霧が消えていく。先刻まで霧の深さに感じなかった月光が、さぁっと夜を照らす。一枚皮が剥けたように視界がクリアになった。
「霧凪ぎです……。霧が、なくなる時間。一時間か二時間ですけど……」
「好都合だ」
 子羊のように怯えているアスランの背中を、玲於奈が叩く。力強く陽気に、優しく。
 中央公園は、微かにわだかまる霧の中に静かに存在した。
 霧が吹き飛ばされ、白いもやを微かに残している。恐ろしいほど静まりかえった空間。
 残滓の中に、人影があった。月斗たちは身構える。
 ぱっとアスランが走り出した。公園の中心には移動サーカスのテントが設置されている、その近くまで行く。
「アスラン!」
 人影が声を上げる。声質がアスランに似ていた。
「リヒト」
 アスランはリヒトにしがみつく。殆ど身長差のない二人は、しっかりと抱き合う。
「助けてもらったんだ、この方達に」
 しっかりとリヒトのマントを掴んだまま、アスランは三人を示す。リヒトは玲於奈に頭を下げる。リーダーだと思ったのだろう。
「猊下を守って頂いたようだ。このリヒト・サルカ、心から礼を言います。ありがとう」
「おかえり、猊下」
 近寄ってきた青年が、明るい調子でアスランに言う。アスランはほっとして笑顔を見せた。会わない時間が永遠かと思うほど、不安だったのだ。
「はぐれちゃって」
「いやいや、構いませんとも。その美貌がもう一度拝見出来たのですから」
「反省して」
 リヒトがきつい声を出す。クロードはリヒトには見えないように肩を竦めた。
「あれが怪盗紳士?」
 璃音はそっと玲於奈に耳打ちをする。多分ね、といった感じの視線が返ってきた。
「ちゃんと守ってやれよ、こいつ危なっかしくて……」
 軽くアスランを叩く月斗。
「ごめん、月……」
「霧の時間に外に出るとはなっ」
 甲高い声が響く。
 一同はそちらの方を向いた。
 サーカスのテントの脇に、太り気味の男性が立っている。緋色の衣装を着ていた。
「まだ、何か? ウィルズ卿」
 顔見知りらしい。リヒトが疲れたように言う。
「お前達には、ここで死んで貰う」
 太った腹を揺らし、ウィルズ卿は笑った。
「霧の時間に外に出ていては、法王猊下も死ぬしかあるまい!」
 ウィルズがさっと手を挙げる。
 耳をつんざくような吼え声が、中央公園に響いた。
「召還獣か」
 リヒトがアスランを抱きしめて言う。
 二体の魔物が、一同を睨みつけていた。
「一度、痛い目を見なければわからないみたいね?」
 璃音が可愛らしく微笑む。ここで反省させれば、アスランへの攻撃も緩まる可能性が高い。璃音はアスランが教会で襲われたこと、そのときに傍にいなかったことを悔やんでいる。
 今が、力を見せるとき。
「正当防衛だよねぇ、もちろん」
 守ると決めた。
 玲於奈が一歩踏み出す。
「後悔するなよ!」
 月斗の宣誓が合図のように、三人は闇夜に散った。

 
×


 体が鼓動で揺れる。月に与えられ、内側で育った力が満ちてくる。璃音は奥底から湧き出してくる恍惚にも似た感情を、ゆっくりと全身に行き渡らせた。骨や肌の一切が変化する。はらり、と石畳に璃音の服が落ちた。
「グルルッ……」
 唾液を落とし、喉の奥で唸る魔獣。同じ獣の匂いを嗅ぎつけ、璃音を睨んだ。
「波夷羅」
 そっと月斗が呟く。嵐のような強烈な風が巻き起こり、渦となる。一瞬にして巨大な竜巻は解けたが中に一匹の龍が残った。イズルドを焼き払った神将である。
 一匹が璃音へ走り、もう一方は月斗へ向かう。爪が足場を噛む獰猛な音が響く。
 −−−アナタハワタシニチカイノネ
 言葉を亡くした璃音は、そっと魔獣に呟く。ぐんぐんと近づいてくる。視線と視線が絡み合う。
 銀色狼の双眸が、すっと細くなった。
 走る。
 魔獣とすれ違った瞬間、璃音の牙が相手の喉に喰らいついた。血の匂いと肉を破る歯ざわり。
 −−−サヨナラ
 牙を抜いた瞬間、噴水のように血が湧き出した。赤い飛沫が薄い霧に混じる。遠くでアスランの悲鳴が聞こえた。血に驚いたのだろう。璃音は口元に舌を這わせ、敵の体温を知る。
「やるなぁ」
 狼対魔獣の戦いを横目で、月斗が口笛を鳴らす。波夷羅の口から血にも似た紅蓮の炎が立つ。炎が一直線に魔獣へ放たれた。
「早い!?」
 炎を放つよりも早く、獣が月斗との距離をつめる。獲物を仕留める瞬間を思い描いているのか、瞳孔が開ききっていた。
「気をつけな」
 玲於奈の拳が、開かれていた獣の口内に叩き込まれる。牙が飛び散る。やわらかい内臓をしたたかに殴られ、全身がびくりびくりと震えた。
「体は普通と変わらないんだろ?」
「あ……ありがと」
 指先をふるい、体液を払う玲於奈。月斗は素直に礼を言った。
「……まずいよ」
 クロードの声が響く。
 玲於奈は周囲を見回す。
 霧が、再び発生しようとしていた。
「走れ!」
 リヒトが叫んだ。
「教会までだ!」

 
×

 一同は教会の中に飛び込む。
 玲於奈が乱暴に教会のドアを閉めた。
 霧が、ほんの少しだけ内側に入り込んでくる。だが、それもすぐに消えた。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 今にも倒れ込みそうな様子で、アスランが荒い呼吸を繰り返している。
 リヒトがその肩をしっかりと抱いていた。
 ドンッ!
 扉が乱暴に叩かれる。
 一同が身構えた。
「た、助けてくれ! 助けて下さい猊下! 霧が……霧が!」
 ウィルズ卿の声だ。
「リヒト、入れてあげなくちゃ」
 荒い吐息の間に、アスランがそう言う。
 リヒトはしっかりとアスランを抱きしめ、その髪を撫でた。ふっと璃音は意地悪っぽく笑う。
「5」
 ドアをしっかりと押さえたまま、玲於奈が言う。
「4」
「あ、開けてくれッ! 死んでしまうッ! 猊下ー!」
「3」
 次は月斗だ。全員の考えが同じ方向へ向いている。
「リヒト……」
「2」
 クロード。
「1」
 リヒトが冷たく数える。
 璃音が高らかに吠えた。
 玲於奈は扉を開き、外側にへばりついていたウィルズ卿を内側へと引っ張り込んだ。
「0」
 扉を再び閉める。
 濃密な霧のカケラが、一瞬漂い、溶けた。
 引っ張り込まれたウィルズ卿が、ばたりと床に倒れる。
 同時に、アスランも目を瞑って脱力した。
 
「おかえり、猊下」
 リヒトが心底安心したというように呟く。
 しっかりと法王を抱えたまま、天井を見上げた。
 霧の合間から見えていた月が、天井のステンドグラスから見える。
 ゆっくりと、霧が月を押し隠す。
 リヒトは目を閉じた。
 


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 0778 / 御崎・月斗 / 男性 / 12 / 陰陽師
 0074 / 風見・璃音 / 女性 / 150 / フリーター
 0669 / 龍堂・玲於奈 / 女性 / 26 / 探偵

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■         ライター通信          ■
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「至宝の行方」をお届け致しました。

風見璃音様。
 
 リプレイ通り、ストリートキッズとの絡みを書かせていただきました。
 楽しんでいただけたら幸いです。ご参加ありがとうございました。