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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


バケバケさまにお願い!
●親友からの誘い
「珪さん、今ごろ何してるのかなぁ……」
 篁雛(たかむら・ひな)は宿題の手を休めて、ホウッとため息をついた。
 机の引き出しを開け、そっと一枚の写真を取り出す。写真の中では栗色の髪の少年が明るい笑顔を見せている。
 少年の名は九夏珪(くが・けい)。雛と同じ高校三年生にして駆け出しの陰陽師。祈祷師の家系に生まれて拝み屋としての修行を続ける雛にとっては、いわば同じ道を目指す同志だ。
 無邪気で子供みたいで。それでいてまっすぐ前に向けられた瞳は驚くほど大人びて、まぶしいくらいに澄んでいる。些細なことでもついつい悩みがちな雛は、珪のそんな姿にどれだけ励まされ、勇気づけられてきたことだろう。
 そしていつの日からか。雛は珪に友情以上の感情を抱くようになり始めていた。
「なんだよ、またあの男のことかよ」
 雛の淡い想いに水を差すように、不満げな声が響く。
「い、いいでしょ、夜刀には関係ないじゃない」
 雛は頬を赤く染め、机の上の小さな鏡を軽くにらみつけた。
 夜刀。雛の家に代々仕え、現在は雛を陰に日向に守り続ける鬼。本来は現代風の美しい青年の姿をしているのだが、普段はこうして鏡の中に封じ込められている。もっとも本人の意思で自由に出入りできるので、正確には住処と言った方が正しいかもしれないけれど。
「へいへい、悪かったな」
 そう答える夜刀の声にはどこか投げやりな響きがあった。ひそかに雛に好意を感じている彼にとって、雛が他の男性に熱をあげる姿を見せられるのは正直おもしろくなかったのだ。
 でも悲しいかな、そんな夜刀の想いは雛にはまるで伝わらない。雛はあくまで夜刀のことをお節介な兄代わりとしか意識していないのだ。
 雛はいつものごとく夜刀の気持ちを露とも知らぬまま、再び珪のことを思い浮かべた。
 そういえば珪さん、吉野でバナナケーキ、おいしそうに食べてくれたっけ。また作ってあげたいけど、でも理由もなくそんなことしたら、ヘンに思われるかもしれないし……。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、夜刀がまた横から口を挟んでくる。
「雛、雛」
「ちょっと黙ってて、夜刀」
 雛の言葉に夜刀もいったんは静かになる。でもしばらくするとまた「雛、雛」とちょっかいを出し始める。それを何回か繰り返してから、雛はさすがにちょっとムッとして聞き返した。
「もう、さっきからなんなの? お願いだから静かにして」
「まあ別に俺は構わないんだけどな。でもずーっと鳴ってるみたいだぜ、電話」
「ほぇ!?」
 夜刀の言葉に雛はハッと我に返った。たしかに机のすみに置いた携帯電話がカタカタと振動している。そういえば学校でマナーモードにして、そのままにしていたような――。
「きゃあああ、なんで早く教えてくれないのよっ、夜刀!?」
「けど黙ってろって言ったの雛だろ?」
 夜刀がしれっと答える。きっと鏡の中でペロリと舌を出しているにちがいない。
 雛は一番の親友からの着信を確認すると、涙目で通話ボタンを押した。
「咲ちゃん!? ご、ゴメンね、えと、あの、携帯がマナーモードになってて、夜刀も意地悪さんで――」
「ねえ雛ちゃん。今週の土曜日、いっしょにバケバケさまに会いに行かない?」
 受話器を片手にペコペコと頭を下げる雛をなだめるように、耳慣れた明るい声が不意にそう切り出した。
「バケバケ……さま?」
「うーん、口で言うより見てもらった方が早いか。雛ちゃん、今ゴーストネット開ける?」
 聞き覚えのない言葉に首をかしげる雛に、電話のむこうの少女がテキパキと指示を出す。
 雛はその言葉に従って慌ててパソコンを立ち上げた。ゴーストネットは雛も学校帰りなどによく遊びに行くインターネットカフェ『ゴーストネットOFF』の掲示板だ。管理人の瀬名雫の趣味もあって、毎日さまざまな種類の怪奇情報が寄せられてきている。
 ゴーストネットを開くと、そこには少女の言葉どおりこんな書き込みが投稿されていた。

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[8040]バケバケさま
投稿者:MIKEKO

ねえねえみんな、「バケバケさま」って知ってる?
なんでも神様の一種で、一日だけ好きな姿に変身させてくれるらしいんだ。
モデルや芸能人、自分の知り合いはもちろん、動物でも鳥でも虫でもなんでもOK!
ねね、ちょっとおもしろそうじゃない?
となり街の学校の子なんて、実際にアイドルに変身させてもらったそうだし。
……え、あたし?
その、やっぱちょっと怪しげだし、誰かが試してからにしたいなー、なんて(^^;)

ねえ、誰かウワサが本当かどうかたしかめてきてくれない?
あたしが聞いた話では、バケバケさまは妙珍寺っていう古いお寺の裏にある、不気味〜な沼の中に住んでるらしいよ。
あ、そうそう、お供え物は忘れないでね。バケバケさま、お酒が大好きだそうだから。

それじゃ、みんながんばってね!
ステキなリポート、楽しみに待ってるよ!!

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「どう、雛ちゃんも興味あるでしょ?」
「はいっ、私も一緒に行きます!」
 雛は笑顔でなずいた。慌てていたのも夜刀の意地悪も頭の中からぜんぶ吹き飛んでしまうくらい、一目でその書き込みに夢中になってしまったのだ。
 バケバケさま。名前の響きがなんだか可愛い。それに好きな姿に変身させてくれるなんて、なんて優しい神様なんだろう!
「……わざわざ変身なんかしなくても、雛はそのままが一番可愛いのに」
 すっかり存在を忘れられてしまった夜刀が、バケバケさまの話題で盛り上がる雛を横目に、ポツリとつまらなそうにつぶやいた。

●到着!妙珍寺
 丈の高い草に覆い隠された長い長い石段を登ったその先に、問題の妙珍寺はあった。
「へえー。このお寺、もうずっと昔に捨てられちゃったみたいね」
 荒れ放題の境内をグルリと見回してそう言ったのは、久喜坂咲(くきざか・さき)だ。
 小柄でまだ幼さを残した雛とは対照的に、整った顔立ちとスラリと細身のスタイルが大人の雰囲気を漂わせている。大きなリボンと豊かな表情が少女の面影を感じさせるものの、パッと見とても雛と同じ年齢だとは信じられない。
 性格的にも咲は、恥ずかしがり屋でちょっと内気な雛とは全然ちがう。活発で面倒見がよくて気がつけばいつもみんなの中心にいる。演劇部の舞台で見せる自信と輝きに満ちた姿は特に雛の憧れだ。
 でもそんなにちがうのに、あるいはそんなにちがうからこそ、雛と咲は欠けたピースのように惹かれ合い、お互いを一番の親友だと認め合っていた。バケバケさまの件で雛に電話をくれたのも、もちろん咲その人だ。
「えーと、たしかバケちゃんは裏の沼に――」
「あ、待って下さい咲ちゃんっ!」
 さっそく裏沼に向かおうとする咲を雛は呼び止めた。
「ゴメンね、ちょっとだけ」
 そう言って雛がパタパタ小走りに向かった先は墓地だった。管理する人が誰もいないせいかひどい荒れようだ。雑草が伸び放題で墓石が倒れている墓も多い。霊に関わる仕事を志す雛はどうしてもそのままにしておくことができなかったのだ。
「もう、仕方ないんだから」
 そう言いつつ咲の口調はどこかうれしそうだ。腕まくりをしてすぐに雛を手伝い始める。
「おいおいおい、雛がそんなことする必要ないだろ。だいたいこのへんの墓からは霊気なんて感じないし。もうみんなとっくにここを離れちまってるよ」
「うん。でも戻ってきて自分のお墓が荒れてたら、やっぱり寂しいと思うから」
 愛しの雛が自ら手を汚して重労働を始めてしまったので、夜刀は気が気ではない。でも当の雛はまるで取り合わずに雑草の頑丈な根っことウンウン綱引きをしている。
「わかったよ、俺もやればいいんだろ」
 夜刀は小さくため息をついて実体化すると、雛がさんざん苦労していた雑草を横から片手で引っこ抜いた。さらに倒れた墓石を軽々と元の場所に戻し始める。どうやら雛に危ない力仕事をさせるくらいならと開き直ったようだ。
 そして1時間ほど後。三人の前には見違えるほど綺麗になった墓地が広がっていた。
「咲ちゃん、夜刀、ゴメンね、本当にありがとう」
「気にしない気にしない、これはこれで意外に楽しかったしね。それより行きましょう。バケちゃん、きっと待ちくたびれてるわ」
 咲はそう言ってクスリと笑うと、雛を促すように先に立って歩き始めた。
 慌てて咲の後に続こうとしたそのとき、雛はふと誰かの視線を感じて振り向いた。
 そこにいたのは一匹の三毛猫だった。本堂の縁側にちょこんと座った三毛猫が、背筋をピンと伸ばして雛たちの方をじっと見つめていたのだ。
「雛ちゃん、どうかしたの?」
 咲が立ち止まって不思議そうに声をかける。
「あ、はいっ。あそこに猫ちゃんが」
 雛はそう答えて縁側を指差した。
 でも。雛が目を離した一瞬の間に三毛猫は煙のように消えてしまっていた。雛はまるで夢でも見たような気分で、空っぽの縁側を眺めながらパチパチと何度もまばたきしたのだった。

●咲のお願い
 バケバケさまが住むという沼は本堂のすぐ裏手にあった。
 それほど大きな沼ではないが、水は意外なほどに澄んでいる。沼から漂うひんやりした冷気が汗ばんだ肌に心地よい。
「はい、お土産。けっこういいお酒なんだから」
 咲はひざまずいて沼のふちに日本酒のビンを置いた。祖父の秘蔵の品をナイショで持ち出してきたのだそうだ。
「どうぞよかったら飲んで下さいねっ」
 雛も咲を真似てとなりにビンを並べる。こちらは祖母おススメの地酒だ。
「でも咲ちゃん、結局バケバケさまに何をお願いするつもりなんです?」
 雛は不思議そうにたずねた。咲には何か考えがあるらしいのだが、「あとのお楽しみ」とはぐらかしてばかりで今まで教えてくれなかったのだ。
 でもここまでくればさすがにもう隠しておくつもりはないようだ。咲は意味ありげな笑みを浮かべると、雛の耳に口を近づけてそっと何かをささやいた。
 一瞬の思考停止。次の瞬間、雛は胸の前で激しく両手を振った。
「ええっ!? だだだ、ダメですっ、そんなの絶対バレちゃいますようっ! わ、私咲ちゃんみたいに美人さんでもっ、かっこよくもないですしっ!!」
 そうだ、そんなの絶対絶対無理に決まってる!
 こともあろうに咲はこう言ったのだ。「私と雛ちゃんの姿を入れ替えてもらおうよ」と。
 咲が雛になるということは、雛も咲になるということだ。雛にとって咲は親友であると同時に憧れの対象だった。大人っぽくて聡明でいつも明るく積極的で。そんな咲と姿を入れ替えるだなんて、想像しただけでも目が廻りそうになる。
「平気平気。明日は学校もないし、どうしても心配だったら二人で私の家に泊まればいいんだから。それに――」
 咲は不意に遠い目をしてポツリとつぶやいた。
「結果がわからなかったら、雫ちゃんガッカリするだろうな」
「そ、それはっ……」
 雛は痛いところを突かれてグッと詰まった。
 二人は妙珍寺に来る前にゴーストネットOFFに顔を出していた。雛の脳裏に「期待してるからねっ!」とキラキラ瞳を輝かせていた雫の顔がよみがえる。もしこのまま手ぶらで戻ったら雫はどんな顔をするだろう、そう考えると雛の小さな胸はチクリと痛んだ。
「わ、わかりましたっ! 雛がんばりますっ!」
 たっぷり3分間迷った後、雛はついに決意して宣言した。
「さすが雛ちゃん、そうこなくちゃ!」
 咲が小さく拍手してうなずく。
 雛と咲はあらためて沼のふちに並んで立つと、お互いの手を握ってそっと目を閉じた。
「バケバケさま、バケバケさま」
「バケバケさま、バケバケさま」
 声をそろえて沼に向かって呼びかける。
「どうか私を咲ちゃんにして下さい」
「どうか私を雛ちゃんにして下さい」
 そして二人同時にそう言い終えた瞬間、雛はかすかな水音と共に世界がブレるような感覚に襲われた。おそるおそる目を開けてとなりを見ると――。
「どうやらうまくいったみたいね、雛ちゃん」
 雛の目の前で、もうひとりの雛がニッコリと微笑んでみせた。

●鏡よ鏡
「ほわぁ……」
 雛は目の前の光景にただただ言葉を失った。
 白のカットソーにタイトな黒のパンツ。シンプルゆえに身体のラインが強調されるアイテムを完璧に着こなした咲が、頬を上気させて自分を見つめている。しかもそれは他でもない、鏡に映った雛自身の姿なのだ。
「私ってこんな感じに見えるのね。これはこれで魅力的だとは思うけど」
 雛の姿をした咲が、咲の姿をした雛を興味津々に上から下までじっくり眺める。
「あ、あの、でも咲ちゃんは本当によかったんですかっ? 私なんかの姿になって」
「もう。謙虚さは美徳だけど、行き過ぎると嫌味に思われちゃうわよ」
 咲はそう言って雛のおでこを指先でピンと弾いた。
 それから鏡の前でクルリと一回転してみせる。
「こんなに可愛いのに不満なんてあるわけないじゃない! 白のレース、前からすっごく憧れてたの。でも私の顔には合わないのよね……黒なら合うんだけど、それも可愛いってイメージとはちょっとちがうし」
 ゴスロリ系の白いワンピースに身を包んだ咲は、本当にうれしそうだった。
 そんな咲を見ているうちに、雛は心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
 咲の姿になった自分を鏡で見たときもドキドキした。でも自分の姿になった咲を見ているとそれ以上にドキドキしてくる。初めて外から見た自分の姿は……咲の言葉どおり信じられないほど可愛く見えたのだ。
 それが雛本来の魅力なのか、それとも咲の内面の輝きのおかげなのか、本当のところはよくわからない。でも自分の幼い外見にコンプレックスを感じていた雛にとって、理由はどうあれ自分自身を素直に可愛いと思えたことは、決して小さくない驚きだった。
「可愛いのはお前じゃなくて雛だからな」
 浮かれる咲に、夜刀がふてくされたように横槍を入れる。
 ワンピースはものすごく似合っているし、雛の可愛い姿が見られるのもうれしい。でも肝心の中身が雛ではなく咲だということが気に入らなかった。自分が大切にしてきた宝物を誰かに横取りされたような、複雑な心境だったのだ。
「はいはい、わかってます。でも夜刀、乙女の夢にツッコミ入れてるとモテないわよ」
 咲は夜刀を軽く返り討ちにすると、雛にニッコリと笑顔を向けた。
「それじゃ雛ちゃん、そろそろ行きましょうか」
「へっ?」
 いきなり話を振られて雛が目を丸くする。
「行くって、どこにですか?」
「折角ですもの。ここは知合いに見せて見抜けるかどうか試してみないとね」
「え、えええっ!?」
 予想外の言葉に雛は思わず飛び上がった。
 今の状況だけでもドキドキなのに、この姿で知り合いに会うなんて冗談じゃない!
 でも雛の戸惑いを他所に、咲はもうすっかりその気だ。
「さっ! 行くわよ」
 言うが早いか雛の腕を取って歩き出す。
「ちょ、ちょっと助けて、夜刀〜!」
 でもさっきの一件で咲にはかなわないと悟ったのか、夜刀はただ肩をすくめるだけ。
 結局雛は抵抗もむなしく、咲に引きずられるように街に連れ出されてしまったのだった。

●シンデレラの憂鬱
「ままま、待って下さい! 知り合いって珪さんなんですかっ!?」
「雛ちゃん声が大きい、気づかれちゃうわよ」
 咲が小声でささやいて口の前にひとさし指を立てる。
 雛はハッと両手で自分の口を押さえた。
 雛と咲は何の因果か電柱の陰に隠れて尾行中の身なのだ。しかも尾行の相手はよりによって雛の憧れの人、九夏珪。今の状態で見つかったらストーカー疑惑は避けられそうもない。
「でもどうして珪さんなんですか?」
 雛は今度はちゃんと声をひそめてたずねた。チラリと盗み見ると、珪は何も知らずに本屋の店先で雑誌をパラパラめくっている。
「だって気持ちを確認するいいチャンスじゃない」
「気持ちを……確認?」
「そう。よく言うでしょ、好きな人ならどんな格好していてもわかるって。今の姿で雛ちゃんだって見抜けたら、彼の方もかなり脈アリだと思わない?」
「むむ、無理ですよ、そんなのっ! それに私っ、珪さんのことそんなふうには――」
 雛はしどろもどろになって言い訳した。でも悲しいかな、体は雛よりさらに正直だ。トマトみたいに真っ赤になった顔を見れば、咲じゃなくても雛の正直な気持ちは一目瞭然だろう。
「ほら今よ!」
 珪が店を離れるタイミングに合わせて、まだモニュモニュ言っている雛の背中を、咲がポンと押し出す。
 心の準備をするヒマもなく珪の前に突き出され、雛は大パニックだ。
 ただ幸いというか、咲は雛から何度も話を聞かされて一方的に珪を知っていたが、珪の方はまだ咲の顔を知らないのでヘンに警戒される心配はなかった。あとは純粋に珪が雛に気がつくか、気がつかないか……。
「雛ちゃん、がんばって!」
 咲が電柱の陰から雛だけに聞こえるようにエールを送る。
 雛はゴクリと唾を飲むと、勇気を振り絞って珪に向かって歩き出した。
 5m、4m、3m。珪との距離が近くなるにつれて心臓の鼓動が加速していく。
 2m、1m、そして……。雛は思わずギュッと目を閉じた。
「あの」
「は、はいっ!」
 珪が突然、雛に声をかけてくる。
 雛はガチガチに硬直し、直立不動の姿勢で珪の次の言葉を待った。
 でも。それに続く珪の言葉は、ロマンの欠片もないごくごく平凡なものだった。
「ゴメン、今何時かわかる?」
「…………四時、五分前です」
「ありがと、助かったよ」
 珪は笑顔を残してそのまま立ち去っていった。
 雛は一気に全身の力が抜けるのを感じた。
 やっぱり現実は少女マンガとはちがうのかもしれない。いきなり別人の姿で押しかけて正体を見抜けだなんてムチャだったのだ。いや、それどころか珪にとっての自分は、仕事以外では思い出す価値もないほど軽い存在なのかも……。
 考えれば考えるほど気分が重くなってくる。
 雛はガックリと肩を落とし、よろめくように足を踏み出した。
 そして次の瞬間。雛の頭の中でお星さまが弾けた。
 ろくに前も見なかったせいで、看板に頭からモロにぶつかってしまったのだ。
「大丈夫か!?」
 ペタンと尻餅をつく雛に、誰かが駆け寄って手を差し出す。
「す、すみません……」
 雛はチカチカまばたきしながら反射的にその手を握り返した。
 そして握り返してしまってからハッと我に返る。この声は、もしかして……。
 おそるおそる相手の顔を見上げた瞬間、雛は顔からボッと火が吹き出すのを感じた。
 雛を助け起こそうとしているのは、他でもない珪その人だったのだ。
「……篁さん? もしかして篁さんか?」
 雛の反応に何かを感じたのか、珪が不意にそう問いかける。
「珪……さん……」
 雛は思わず自分も珪の名前を呼び返していた。
「さっきもなんか変な感じがしたんだけど……でもその姿は?」
「あ、あの、私、私っ……」
 珪が雛の顔を至近距離からまじまじと覗き込む。
 それと同時に、雛の思考回路がピーと音を立てて停止した。
「ご、ゴメンなさいっ! なんでもないです〜」
 雛はなんとかそれだけ言い残すと、猛ダッシュでその場から逃げ出した。
 身体が内側から沸騰したみたいに熱くて、ジッとしてるとおかしくなりそうだった。
「ふん、俺なら一目でわかるのに」
 夜刀のそんなぶーたれも、今の雛にはまったく通じない。
 雛は混乱してグチャグチャになった頭の中で、ただ咲のあの言葉だけを大音響でリフレインさせていた。
「今の姿で雛ちゃんだって見抜けたら、彼の方もかなり脈アリだと思わない?」と。

●バケバケさま、笑う
「昨日は色々とお世話になりましたっ」
 次の日。雛は再びバケバケさまの沼を訪れていた。
 咲の姿ではなく、雛自身の姿で。
 昨日はあれから咲の部屋に二人でお泊り。そして朝になって目が覚めたときにはもう、雛も咲も元の姿に戻っていたのだ。
 もちろんここには咲もいっしょに来ている。今ごろはたぶん、本堂のあたりを散歩しているはずだ。どうしてもひとりでじっくりお礼を言いたくて、雛が咲にそうお願いしたのだ。
「楽しかったです。こうやって夢をわけて差し上げてるんですね、素敵です」
 雛は沼に向かってニッコリと微笑みかけた。
 水面は鏡のように静かで何の反応もない。
 でも雛はちっとも気にならなかった。最初から返事を期待していたわけじゃない。雛はただこうしてバケバケさまに感謝の気持ちを伝えられるだけで十分満足だった。
 昨日は単に楽しいだけじゃなくて、雛にとって本当に驚きと発見に満ちた一日だった。
 完璧で不満などないと信じていた咲の意外な願望を知ったこと。外から見た自分を可愛いと思えたこと。そしてもしかしたら少しだけ珪の気持ちを確認できたかもしれないこと……。
 自分が自分であるかぎり気づけなかった何かを、雛は昨日一日で本当にたくさん学んだような気がする。
 そしてそれもすべて、バケバケさまが雛と咲の身体を入れ替えてくれたおかげだ。たしかにそのときは不安でビクビクさせられることも多かったけど、でも雛は今はバケバケさまと咲に心から感謝していた。
「あ、そうでした!」
 雛はふと何かを思い出しように鞄の中を探った。
「えと、昨日のお礼ですっ。おつまみと、あとお酒ばかりだとよくないかなって……」
 雛がそう言って取り出したのは、たくさんの駄菓子と――それから二日酔いの薬だった。
 バケバケさまの件は、ここに来る途中にもう雫に報告してきている。雫のハリキリようから考えても、明日からここはバケバケさま目当ての人でいっぱいになるにちがいない。
 お供え物のお酒を飲みすぎてバケバケさまが体を壊してしまわないか、雛はそれだけが心配だった。……神様でも二日酔いになるのかどうか、それはよくわからなかったけど。
 そして次の瞬間。雛の目の前で不意に水中から大きな泡が浮かび上がった。
 ブク。ブクブクブク。泡は次々と浮かび上がり、静かだった水面がバシャバシャ波立つ。
 その水音にまぎれて誰かの声が響いた。
 それはとてもとても楽しそうな男の人の笑い声だった。
 最初はポカンと口を開けていた雛も、すぐにつられて笑い出してしまう。
 雛は満面の笑顔を浮かべて沼の底に呼びかけた。
「ありがとう。また遊びに来ますね、バケバケさまっ!」

Fin
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0436/篁・雛/女/18/高校生(拝み屋修行中)
0904/久喜坂・咲/女/18/女子高生陰陽師
0183/九夏・珪/男/18/高校生(陰陽師)


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、ライターの今宮和己です。
今回は『バケバケさまにお願い!』にご参加いただき本当にありがとうございました。

雛さん、とても可愛くて一生懸命なキャラですね。咲さんとの凸凹(?)コンビもすばらしくて、個人的にとても楽しんで描かせていただきました。
想い人の珪さん。できる範囲で調べてみたのですが……ちょっと自信がなかったり(汗)。もしキャラのイメージや呼称がちがっていたら本当に申し訳ありませんでした。
ほんの少しでも気に入ってもらえるシーンがあれば本当に幸いです。

ではまた。ではまた、どこかでお目にかかれることを祈りつつ。
本当にありがとうございました。