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●見えない≪もの≫
資料を探して街を歩いていたシュライン・エマは、その光景に思わず足を止めてしまった。
しいて言うならば、不思議の国に押し入ったマフィア。
あまりにそのまんまな連想に、シュラインは突っ立ったまま、目は一点を見詰めたままで唇を動かした。
「‥‥遊園地で闇取引してい‥‥‥‥‥ううん、夢から覚めた大人ね」
彼女の視線の先にあるのは、ビルとビルの合間にちょこんと建つ一軒の喫茶店。何度も来た事のある、よく見知ったこの通りで、在る事さえ気付かなかった小さな店。どことはなく南欧の、自然の優しさを感じさせる建物だ。
ある意味、統一された雰囲気を持つ雑居ピルが建ち並び、無愛想に客を待つ店が多いこの通りに、全く合っていない。
まるで、ひしめき合うビル達を掻き分けて、無理矢理そこに入り込んだかのように、その店は唐突で奇妙だった。
「‥‥一体、何者なのかしら」
メルヘンチックな店から顔を隠すように去って行った黒服の集団を目で追って、シュラインは呟く。
「映画やドラマじゃあるまいし、全身黒ずくめのサングラス‥‥なんて、よっぽど目立つんだけど‥‥」
けれども奇妙な事に、見るからに怪しげな黒い男達など存在しないかのように、すれ違う人々は無反応だ。自分だけにしか見えていないのかと、シュライン嫌そうに顔を顰めた。
彼女の目の前、気付いてしまえば無視し難い建物。だが、幻影などではない、現実味のあるその店にさえも、足を止める者も気付く者もいない。
時折、歩道に立つシュラインを邪魔そうに避けていくカップルがいる程度だ。
「‥‥変、よね」
喜んでいいのか悪いのか、草間探偵事務所に出入りするうちに、シュラインには奇怪な現象への耐性がついてしまっていた。
恐怖心や嫌悪感はない。
本能が発する危険信号がないならば、まずは自分の目で確認する。決して短くはない草間や月刊アトラス編集部との付き合いの間に、身についてしまった未確認物体、怪奇現象への対処法。その数ある経験則に則って、シュラインはその店の扉を押した。
●引っ張り出した≪もの≫
何とも少女趣味だ。
外見も可愛い系のイメージだったけれど、内装はそれの上を行く。
噎せ返るような数種類のポプリとドライフラワー。レースのカーテンが小さな出窓を飾る。外から見た感じでは狭い、小さな店だった。だが、照度を落とされた灯りに感覚が狂わされているのだろうか。郊外のファミレス‥‥いや、そんなものとは比べものにならない程に広く感じる。自分がいる場所が分からない、荒野の真っ只中に放り出された‥‥そんな足下の不確かさに、体の奥にざらりとした不安が芽生える。
立ちこめる花の濃厚な薫りに、頭の芯が麻痺してくる。惑わされてはいけないと思いながらも逆らい切れない‥‥。
シュラインはこめかみに手を当て、小さく頭を振った。じわじわと彼女の心にかかる薄い霧の幕を払うように。
「‥‥何をしていらっしゃいますの?」
すぐ近くから、舌ったらずな声が響いた。
「え?」
我に返ったシュラインは、ゆっくりと視点をずらした先に小さなメイド服の少女を見出して、数度、瞬きを繰り返す。スイッチが切り替わったかの突然さで、彼女を取り巻いていた世界が一転した。
辺りを見渡せば、そこは小さな小さな喫茶店へと様変わりしている。
振り返った扉の向こうには、何の変哲もない人の流れが通り過ぎて行く。
変わらないのは、店内を満たす濃ゆい芳香だけ。
「だから、何をしていらっしゃいますの? わたくしの質問にお答えなさいな」
癇癪を起こしたように、少女は地団駄を踏んだ。
「え‥‥え、ああ、こんにちは‥‥」
幼い少女に愛想笑いを向けたシュラインを、少女は上から下までじっくりと眺めた。無言の気まずい時間が流れる。
「‥‥‥お嬢ちゃん?」
「お嬢ちゃんではありませんの。わたくしにはルチア・クレアと言う名前がちゃんとございますのよ」
「あ、そう‥‥」
僅かに口元が引きつったものの、幼い子供の言う事と受け流す大人の余裕がシュラインにはあった。
「何をぐずぐすしていらっしゃいますの? 早くわたくしをテーブルまで連れて行って下さいましの」
自分より遥かに高い位置にあるシュラインの顔を睨みつけて、ルチアと名乗った少女は腰に手を当てるとふんぞり返る。
「えーと‥‥連れて行くって、抱き上げて? それとも手を繋いで?」
「抱っこがよいですの」
手を伸ばし、ぴとりとしがみついて来るルチアに、シュラインは苦笑を禁じ得ない。見た目よりも軽い‥‥体重を感じない少女を抱き上げて、手近なテーブルの前に下ろすと、シュラインはショルダーバッグの金具に絡んだ金色の髪を解きながら尋ねた。
「それで、聞きたいんだけど、ここのお店の人は? 誰もいないの?」
「お店の人を聞いてどうするおつもりですの?」
どうするもこうするもなかろう。
シュラインの笑顔が数秒だけ固まる。
「一応、喫茶店よね? ここ‥‥。何か飲み物とか頼‥‥」
彼女の言葉を最後まで聞く事なく、ルチアは手を打った。
「なんだ、そうでしたの!」
「え‥‥‥ええ‥‥(他に何があるって言うのかしら‥‥)」
再び浮かべた愛想笑いは、ルチアの次の言葉に、またしても凍りつく事となる。
「では、ぼやぼやしている暇はございませんの。さっさと洗い物をなさいまし」
「はい?」
ばんばんとテーブルを叩いて、ルチアはぷんぷんと頬を膨らませた。
「洗い物をしなければ、飲み物は出来ませんのよ? こんな当たり前の事もご存じありませんの?」
−当たり前って言われても‥‥ねぇ。
途方に暮れたシュラインは、店内を見渡して溜息をつく。
「‥‥‥なるほどね。納得したわ」
壁に作りつけられた棚には、グラスもカップもない。それらのものは、全てシンクの中の洗い桶に放り込まれている模様だ。
「でも、何故、私が洗わなくちゃいけないの?」
「わたくしが洗ったら、わたくしのお洋服が汚れてしまうではありませんか!」
本日、3度目の笑顔の硬直。
シュラインの額に青い筋が浮かんだ。
−‥‥だ、駄目よ。声を荒だてちゃ。相手はまだ子供じゃない。‥‥そう、きっと、お店の経営者の子供か何かなのよ。ええ、きっとそう‥‥。
後で、経営者にバイト代を請求しよう。そう心に決めて、シュラインはカウンターの中へと足を踏み入れた。思った以上に、カウンターの中は広い。
「‥‥‥‥‥‥‥」
そして、シンクの中には団体様でも来たとしか思えない量の洗い物が、溜まっていた。
「ねぇ、ルチ‥‥‥・・・・」
不自然に、シュラインの言葉が途切れた。
食器の陰、細く黒い触角が蠢いたのだ。それも、1つや2つでなく‥‥‥‥。
「早く早く〜ですの〜!」
その時、冷静に情報を見極め、判断を下す事が出来るシュラインの思考力や判断力は、七代前からの天敵であると信じて疑わない黒い物体を前にして完全にその機能を停止していた。
ただ、洗い物をしなければならない、天敵をどうにかしなければならない‥‥その2点だけが、彼女の中でぐるぐると回っていたのだ。
シュラインは、洗い桶へと向かってシングルレバーの水栓を押し下げた。勢いよく流れ出す水。洗い桶の中にいる天敵を追い出すには、確かに効果はあったのだが。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっっっですのぉぉぉぉぉっっっ」
脱兎の如く逃げ出すルチア。
淀んだ桶の中へと与えられた衝撃で、天敵が一斉に動き出し‥‥。
ホラー映画にも勝るとも劣らない光景に、シュラインの目の前が‥‥暗転した。
●待っていた≪もの≫、あるいは‥‥
熱湯を何度もかけた後、真新しいスポンジに大量の洗剤をかけて洗い上げ、さらには耐熱性と思しき食器類を煮沸消毒までして、シュラインはシンクの縁に手をついた。
「‥‥こんな‥‥こんな惨状は、あの! 草間さんの所でもお目にかかった事がないわよ」
「そうですの?」
惨劇の際には、いち早くどこかへと避難していたルチアが、シュラインの作ったミックスジュースのストローから口を離して首を傾げる。
「すぐに溜まってしまいますのよ」
溜まる前に洗え‥‥。
そんな言葉と脱力感が同時にシュラインへと襲い掛かる。
「でも、これからは大丈夫ですわ」
「‥‥何故、そう言い切れるのよ」
「ままが戻って来て下さいましたの。ずっと、ずっと待っておりましたのよ‥‥」
くすんと、ルチアは鼻を啜り上げた。
「本当に長い間、わたくしは待っておりましたの‥‥びぇ‥‥」
母を待っていたと言う少女の言葉に、シュラインもその心を慮って表情を僅かに和らげた。バッグの中に飴がある事を思い出して、今にも泣き出しそうなルチアの口の中に放り込む。
「泣いちゃ駄目よ? お母さんが帰って来てくれたんだから、嬉しい事でしょ? 泣いてると、いい事も逃げていくわよ」
「ぐし‥‥はいですの」
ごしごしと目を擦って、少女はシュラインを見上げた。
「お母さん、きっと美味しいものを一杯作ってくれるわよ? あなたはまず、何が食べたい?」
「んと、んと‥‥ぐらたんが食べたいですの。あっついあっついの!」
「そう」
微笑んで手を伸ばすと、シュラインは少女の金の髪を撫でた。
「早く作って下さいましの〜」
「え?」
天使の微笑みを浮かべて、ルチアはぴょんと椅子から飛び降りる。てててと軽い足音を立てて、カウンターへと回り込むと、シュラインへと抱きつく。
「お帰りなさいましの、まま★」
かっきり1分間、シュラインの時間が止まった‥‥‥‥‥。
「ちょ‥‥ちょっと待ちなさいよ? 私は子供なんて(しかも、こんなに大きい子‥‥)産んだ覚えは‥‥」
「ままですの★」
ぺたりと張り付くルチアに、シュラインの脳裏を何通りもの起こり得る事態と修羅場と未来とがシュミレーションされては消えて行く。
すりすりと懐くルチアは、彼女を離してくれそうにはない。
そして、シュラインは‥‥。
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