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金魚姫
<オープニング>
彼が草間興信所の扉を叩いたのは、丁度秋と夏の境目の日だった。
「この子を探してください。」
写真に写ったその姿は、背中に赤い金魚帯を締めた子供。髪は黒髪、ばっさりおかっぱ。
目は黒々と丸く、肌は抜けるように白く、綿飴を握った手は可愛らしく小さく。
「僕の大事な子なんです。とても大切な子なんです。」
まだ26.7だろうか、若かったがどこか空気の中にたゆたう水藻のような雰囲気の不思議な青年。彼は名を名乗らず、草間に向かってただにこりと微笑んだ。
「でも悲しいかな、あの子は僕の顔を見ると捕まえられると分って逃げてしまうので。だから草間さんにお頼みします。」
「まぁ…俺は依頼料さえ貰えれば、出来る事はこなしますが。」
言った草間の前に、封筒がすっと差し出された。草間はそれを取り上げちらりと覗くとその中に入った大金に、いぶかしげに相手を見た。すると相手はもう一度にっこりと微笑んだ。
「夏祭りに連れて行ったら逃げられてしまいました。遊びつかれて満足したら戻ってくるかと思ったのですが。」
「アテはありますか?」
草間が封筒を置いて尋ねると、相手はやんわりと首を傾げて言った。
「お祭りが好きな子なのでね。僕は今度の秋祭り、あれに姿を現すだろうと思ってますが。」
「では、そこに焦点を絞って探しましょう。」
手に持ったペンの先で頭をぽり…と軽く掻いてから、草間はちらりと相手を覗き見た。興味深そうに荒れた興信所の中をゆっくりと見回している。
こっそりと、溜息をついて彼は依頼書を書き、いつものメンバーに電話をかけた。
「…ああ。そうだ。今度の日曜、秋祭りで人探しだ。そうだな。そんなにハードじゃなかろうが。…コツは要りそうだから頑張ってくれ。ま、『遊びがてらに』頼む。」
そしてちらりと封筒に目をやる。
── まさか紙の金じゃあるまいな…。
***
祭太鼓の音が少し冷えた空気を伝って響いてくる夏の終わり。この神社で行われる秋祭りでは、豊作を願って鳥居下に作られた藁作りの小さな門を、大人も子供も背を屈めて潜り境内に入る。 すると目の前に見えるのは参堂の両脇に並ぶ夜店、鼻をくすぐるのは香ばしい香り、耳に聞こえるのは落ち着いたざわめき。そして、参堂の入り口に立つ素朴な顔立ちをした狛犬の前には4人の男女…言わずと知れた草間興信所のメンバーが集まっていた。
「みんな、写真の子は見た?」
言いながら一枚の写真を取り出した20代半ばの女性は、シュライン・エマ。蘇芳に白桔梗の浴衣姿はすっとして、結い上げた黒髪の後れ毛を指先で上げる仕種は無意識だろうが色っぽい。
彼女の言葉にどれどれ、と寄り添った4人の中から、軽い笑い声が上がる。
「そう全員で一遍に近づいては、陰になってしまって見えないよ」
言って一歩引いたのは大角御影(オオツノ・ミカゲ)である。シュラインと同じ年頃なのにどこか落ち着いた雰囲気の彼が言うとおり、木から木へ吊り渡された淡い提灯の光の下で、4人が集まってしまっては影になるばかりで確かに見るに見られない。「と言っても、僕も覗き込んだ口だけれど」
「あっ、すんません」
悪い事はしていないのについ謝ってしまった彼は今野篤旗(イマノ・アツキ)。まだ年若かったが渋い茶縞の浴衣に下駄を履き、帯は貝の口にきゅっと結び上げでなかなかきりりとしている。やはり一歩引いたその拍子に、傍に居た同世代の女の子と肘をぶつけて、ぽうっと頬を染めた。
それを目に留めた大角は、おやおやと言わんばかりにシュラインにちらりと目をやり、それを受けたシュラインは僅かに肩を竦めて大角に微笑み返す。
だが涼しげな紺地に白菖蒲の浴衣を着た相手の少女…砂山優姫はそんな事には全く気付かない様子で、小さく首をかしげ、差し出された写真を見詰めてシュラインに尋ねた。
「この写真はいつ頃撮られたものなんですか?」
シュラインはちょっと驚いたように聞き返す。
「そこまでは聞かなかったわね。どうして?」
彼女は今日になって写真を受け取りに行った。わざとそうしたその理由は今日の姿を草間に見て欲しかったからに他ならないのだが、さて、彼の反応は全くもって気の利かないものだった。
「この写真の縁、今のものと違うようです。そう思いませんか、大角さん」
尋ねられて大角は今一度身を乗り出した。胸元に一眼レフを抱え、少し肌寒くなるのを予想して来たのか羽織ったシャツのポケットには、フィルムを幾つか入れているらしく膨らみがある。
先程狛犬の傍に集まって、お互い自己紹介をした所、彼は自分をフリーのカメラマンと名乗り、何でも撮るが、神社や仏閣なんかは特に好きなんだよ、と控え目に微笑んだ。
「そうだなぁ」
そんな訳で写真やカメラには詳しい大角は、受け取った少女の写真を改めて見直し、一つ頷いた。「確かに余白がかなりあるね。けど古びてない。おかしいな。これを撮るには20年前くらいのカメラじゃないと…」
「もう骨董品に近いやないですか」
柔らかな京都弁で言いながら、今野は腕を組み首をかしげる。
「そういえば草間さん、なんだか訳の分からない事を言ってたけど」
シュラインも首をかしげた。「『これからは人間以外からの依頼も受けるべきだと思うか?』とか何とか」
「………」
その言葉を聞いた瞬間、草間興信所に対するある程度の知識を持っていた4人の脳裏には、それぞれある考えが浮かんだが、皆とりあえずは口には出さない事にしたようだった。
「ま、兎に角この子を探そうか」
「でもどうしましょう」
大角の言葉に優姫は背を伸ばして辺りを見回した。夜店の明かりがオレンジに淡く、人々の顔に影が掛かってしまっている。「こんなに人が居たら写真だけで見つけるのは大変そうですね」
「それにこの子は僕等の事、知らんのでしょ?」
「悪くすれば僕達が誘拐犯だ」
大角は愉快そうに笑い、真面目な今野の手に写真を受け渡した。
今野は改めて写真の少女をじっと見る。
「年も名前も分からへん。この写真だけが頼りやなぁ」
「まぁそれは探し出してから考えようよ。だがさて…探し物というのは、いざその時には見つからないんだよね。だからここは一つ、その子の気持ちになって子供の様にこのお祭りを楽しむのが一番じゃないかな」
「それはいいわね」
シュラインは朱に塗った唇を柔らかに微笑ませた。「綿菓子、林檎飴、それに輪投げ…甘いものとか、遊べるお店…子供が好きそうじゃない?」
「それにお面を買って、射的もやって…なかなか楽しい宵になりそうな予感だよ」
何年ぶりの祭りだろう。大人になると、すぐ近所であってさえなかなか足を伸ばさなくなるものだ。二人の男女はにっこり笑って灯りの中に歩き出してゆく。
「あの2人…仕事する気あるんやろか?」
その後姿を見送って、今野は髪をクシャリとかき上げた。だがそんな彼も今日は浴衣姿。あまり本気の台詞ではない。それを感じて彼の後ろに佇んだ優姫は微かに微笑んだ。
「今野さん、草間さんは遊びがてらで良いと仰っていましたから…今日はそんなに気負わなくてもよさそうですよ。私たちも子供が好きそうな屋台を回ってみませんか?」
「………」
「今野さん?」
優姫は押し黙ってしまった今野の背中を不審気に見やった。
「あの…優姫ちゃん…?」
ぽそり、と今野が後ろを向いたまま呟く。
「はい。」
「『今野さん』やなくて…僕の事『篤旗』って呼んでくれる気、あらへん?」
「は…?」
ぽかんと、優姫は思わず口を開けた。珍しい事である。
「あっあのな! 別に深い意味はあらへんのやけど、ほら、僕はキミのこと優姫ちゃんって名前で呼んどるやろ? でも優姫ちゃんは僕の事苗字やんか? このままじゃ寂しいてゆうか、遠い感じがするゆうか!」
殆ど叫ぶように一気に言って、くるりと振り返った今野の頬は朱に染まっていた。「…僕はもっと優姫ちゃんと親しくなりたいんや」
そんな今野の前で、優姫はというと流石に吃驚している様子。口を噤んで何かを考えている。
一方今野は言ってから気付いた。
── はっ…! もしかして僕今告白せぇへんかった!?
しかし、親しくなりたいというのは言葉通りその通り、言葉通りでなくてもその通り。慌てても叫んでも、後から沸いて来る気恥ずかしさに地面を転げまわったとしてももう遅い。優姫はしっかり聞いてしまっているのだから。心の中でじたばたしつつ、今野は目を上げて優姫を見た。
「そう…ですね」
優姫は考えた。そう言われて見れば確かに名前の方が親しげに聞こえる。そして彼女は人と付き合うのが苦手ではあったけれど、しかし人から求められて拒むほど嫌世的な人間でもなかった。
「分りました」
篤旗さん、と言いかけて、優姫はなぜか口篭もった。どうしてか今は少し気恥ずかしいような気がして。「…そうします。ごめんなさい、今まで気がつかなくて」
「へ?」
身構えていた今野は拍子抜けして肩を落とした。「ちょ…まって。僕が言いたいのはそぉや無くて、いや、そうなんやけど」
「行きましょう。もうお2人とも行ってしまわれました。私たちがはぐれてしまったら、お2人を困らせてしまいます」
優姫は灯りの中に埋もれ消えそうになるシュラインと大角の背中を指差し、今野に向かって常と変わりなく小首をかしげた。
「そ…そやね…行こか…」
今野はなんだか泣きそうに項垂れて歩き出す。そんなプチラブストーリーが一応の幕を閉じた、その時であった。後ろの茂みがガサゴソッと動き、若い女性の声がその中から聞こえてきた。
「あ〜…もうっ、なんて鈍いの優姫ったら!!」
それは、砂山優姫の従姉妹、加賀美由姫の呟きであった。「あっちゃんもあっちゃんよ。何であそこではっきり言わないの」
そして寄ってきた蚊をパチン! と仕留める。
実は彼女、優姫が今野と一緒に祭りに行くと聞いて、家からこっそり後を付けてきたのであった。それが草間興信所の依頼と知ってはいたが、好奇心が疼いてならなかったのである。勿論それだけでは勿体無いので、しっかり草間にも『ちゃーんと依頼もこなすよ』と言い、更に『私が行く事は絶対、内緒だからね!』と念をおしてもあった。
草間は呆れたような顔をしていたが、そんな事はお構いなしの彼女なのである。
従姉妹とは言え、優姫と美由姫は随分と性格が違う様子。
「ま。…もうちょっと見守ろう。それに女の子も捜さないと」
そして、うふふ、と笑う。
── 皆より先に探し当てて、とぼけた振りして一緒にいるって言うのはどうかな。
きっと驚くだろうし、ちょっと楽しそうだ。今野と優姫からも目が離せないし難しそうではあったが、がんばってみよう。と美由姫は一人深く頷いて、蚊の多い藪の中を、膝を泥で汚しながらもこっそり移動し始めた。
「あら。お面屋さんだわ」
一方大角とシュラインは今野と優姫がついてきているものと思い込んだままで歩いていた。
「早速一軒目ということで」
大角がにこりと笑って店屋に歩み寄る。裸電球に照らされてずらりと並んだ面は近頃にしてはなかなか良い品揃えだった。オカメに天狗に火男、それに…。
「私はこれにしようかしら」
シュラインが手に取った面を見て、大角はちょっと驚いたように聞いた。
「それでいいんですか?」
「勿論よ。一泡吹かせてやるんだから」
なぜかちょっと怒った調子でシュラインは言って尋ねた。「大角さんはどれにするの?」
「じゃあ僕はこれを」
小銭を渡して受け取ったのは狐の面。
「あら、なかなか似合うわね。…細目が面とそっくりね」
シュラインは笑って自分の目元を指で吊り上げて見せ、大角は困ったような照れたような顔をして、地毛なのか染め抜いているのか、一房白い右の前髪をかき上げた。
そして再びそぞろに歩き始めた2人。もう今野と優姫がついてきていない事には気付いていたが、無粋なことは言わなかった。シュラインは林檎飴を買い、大角は飴屋の細工の様子を見てみたり、それから気が向けばカメラを構えて写真を撮る。だがそんな風に祭りを楽しんではいても、2人とも勿論少女を探す事をすっかり忘れて居た訳ではなかった。
── あれ…?
大角の覗き込むファインダーの向こうに、ちらりと白い影が映って彼は目を凝らした。カメラを構えたままその影を追いかけ、素早くピントを合わせる。
「シュラインさん、あの子…じゃないですかね」
先を歩くシュラインの背中を呼び止めて、大角は言ったが、それより早く彼女も人込みに消えかける金魚帯の影を捉えていた。
「ビンゴよ大角さん。さあ、追いかけましょ!」
刺繍鼻緒の下駄を思い切り振り上げ…という訳には行かなかったが、シュラインは出来る限り素早くその影を追いかけ始める。
── 祭りの中とは言え子供の独り歩きは目立つものよ。
「もう足音も覚えたし…逃がさないわよ」
「とと…失礼」
大角はといえばその後ろから、カメラを守るため両手を上に上げたまま人込みを抜けていく。
と、その時。
「大角はん! シュラインはん!」
横から呼ばれて二人は振りか向いた。そこには慌てたようにこちらにかけてくる今野と、優姫。
「お、デートはもういいのかな?」
「デ、デート!?」
走りながら横に並んだ今野は目を白黒させる。
「こら、そんな事言ってる場合じゃないでしょう?」
シュラインの叱咤が飛んで、同じく裾を押さえて走る優姫は無言で同意を示す。小さな影は右へ左へちらちらと見え隠れしながら、まるで追いかけられているのを分っているかのようにどんどん先を行ってしまう。しかし、一行がどうにか追いつきかけた、その時だった。
一行の目の前で金魚帯の小さな子供は、綿飴屋の角から飛び出てきた少女の腕の中にすぽんとものの見事に飛び込んだ。
「つーかまーえた!!」
少女は子供を勢い良く抱き上げる。と、身を起こしたその拍子に、陰になっていた顔立ちが屋台の明かりに露になった。
「あっ、美由姫ちゃんやんか!」
「どうしてここに…」
その顔を見た今野と優姫から、驚いたような声が上がる。
「へへ…来ちゃった。吃驚した?」
子供を胸に抱いたまま、優姫と今野の後を付けていたなどという事は勿論すっかり内緒にして、その少女は大角とシュラインに向かって思い切り良く頭を下げた。「宜しく! 加賀美由姫です。優姫とあっくんがお世話になっております」
優姫とは従姉妹なんですよ。と言った彼女はポニーテールに髪を結い上げ、サブリナパンツにフレンチシャツと活動的なスタイルをしていた。優姫と比べると表情は大分違うが、顔立ちは従姉妹だと言うだけあってそっくりだった。だが大角はその膝小僧にも土が付いていることに素早く気付き、その意味を一瞬で悟って、何も言わなかったが思わず苦笑した。
「僕は大角御影です」
「私はシュライン・エマよ」
そんな風ににわかに自己紹介の始まった一同を、きょとんと見回している金魚帯の少女。こうして抱いていると写真で見るよりもずっと小さく、顔立ちこそもう整っていたが、せいぜい4.5歳ではなかろうか。だが、こうなって漸く自分の置かれている状況に気付いたようだった。
「う…うぇ…」
一瞬の間をおいて、顔をゆがめて泣き出してしまう。「あぁーん…あーん…」
「あっ…ど、どうしよっ。えっと、えっと…イナイナイばぁっ」
突然の事に美由姫は少女を片腕に抱いてあやすが、その溌剌とした声に相手は余計吃驚したのか泣き止んではくれない。「優姫、交代交代!」
「えっ…」
殆ど押し付けられるように渡されて、おろおろとしてしまう優姫。だがそれでも、そっと抱くと子供はやや大人しくなった。
「かわえぇなぁ…」
呟いた今野の台詞は、果たして子供に向けられたものか、優姫に向けられたものか。そこにシュラインが背を屈めて子供の小さくふにふにとした手を取った。
「お名前は? 年は幾つ?」
「………。…やーん!」
けれど子供はシュラインを見ると怖がって、美由姫の肩にしがみついた。
「ま、失礼ね!」
シュラインが憤慨したように言うと、大角が笑いながら自分の頭を指し示して見せた。
「シュラインさん、これこれ」
「あら。そうだったわね」
彼女は額につけた面を外して手に持った。…赤鬼の。今の彼女は手に林檎飴、着物は朱。随分と似合ってしまっていたようだ。そして改めて子供に手を伸ばす。「これで大丈夫かしら?」
「ん…」
まだべそをかきながらも、シュラインの細い指に興味を惹かれて、女の子は涙を止めた。「名前はね…姫。年はね…んと…もうちょっとで百さい」
少女はあどけない物言いに、一同は思わず微笑んでしまう。
「そう。私も名前は優姫というの。優しい、に姫と書くのよ。美由姫ちゃんも姫が付くわ」
優しく言われて、姫は少し落ち着いた様子だった。
「なるほど、お姫様が揃ったね」
大角が感心したように言い、シュラインが姫の手を取りながら、尋ねた。
「あのね、姫ちゃん。貴女の事を探している人が居るんだけれど。私たちと一緒に帰る気はなぁい? それとも…帰りたくない理由があるかしら?」
何気なく言われたその言葉に、一同は一瞬静まった。草間からの依頼には分からない事が多すぎたから。
「ン…分かんない」
少し寝ぼけた口調で姫は言った。そしてじっとまたあたりを見回すと、すぅっと手を上げ大角の後ろを指差した。「姫は、あれ食べたいの」
「綿飴? …よし。僕が買ってあげようか」
大角の甘い言葉に、シュラインは少し咎めるような顔をしたが、嬉しそうににっこりと笑った姫の顔を見て、つい相好を崩してしまう。と、そこで美由姫が手を上げた。
「あ、お兄さん。私も食べたいなぁ、綿飴。ね、優姫も食べたいよね?」
「えっ? ええ?」
「お兄さん、僕はたこ焼きなんか好きやなぁ、なんて思います」
20歳以上の定職に付いた男性がその場に居た場合、オゴリは基本というものである。
「じゃあお兄さん…私にも綿飴、買ってくれる?」
くすくすと笑いながらのシュラインの台詞に大角はとうとう諦め顔になった。だが一言付け加えるのは忘れない。
「シュラインさんはひょっとして僕より年上なのでは?」
「女性に年は聞かないものよ」
つんと澄ましてシュラインはそっぽを向き、そして姫の手を取って立ち上がった。「さあ、じゃ、買ってもらったら行きましょう」
「やーん。」
綿飴を持たされ姫は身を捩るが、シュラインは微笑んで言葉を付け足した。
「大丈夫よ。帰るのはもっと遊んでからだから。…ね、それならいいでしょう?」
── 遊びながらなら、色々話が聞けるかもしれないし。
シュラインはそう思ったが…物事はそう簡単には進まなかった。
「あれも食べるの」
「あれも?(汗)幾つ目だったかな…お腹壊すんじゃないかい?」
「あっちも見るの」
「ちょ…待ってや〜! 姫ちゃん、裾引っ張って走らんといて〜転んでまうわ」
「優姫ー! どこぉ!? 迷子になっちゃいそうだよ〜!」
「こっちです、美由姫」
「はぁ…もう、やれやれだわ。話を聞く暇なんてありゃしないじゃないの」
何かに夢中になっている時の子供のパワーというものは計り知れない。他のどんな物音も耳に入らないし、何かが目の前にあっても避けずに転ぶ。そんな訳で皆は姫に引っ張りまわされ、たこ焼きも焼きそばもカキ氷も、輪投げも玉入れも金平糖の夜店もぐるりと巡って…。
「これはもう、一緒に思い切り祭りを楽しむしかないかな」
途中、大角は姫にしがみつかれて身体に登られながら苦笑した。「子供はしたいことをしたい時に沢山した方がいいし、見たいものは見せてあげた方がいいものだしね」
カメラに興味を示した姫を腕に抱き上げて、大角は最後の一言を優しく囁いたが、果たして姫に通じていたかどうか。
「姫は、あれもやりたいの。あれ欲しい」
案の定お姫様は大角の腕の中で身を捩ってその先を指差した。
傍に居た優姫が釣られてそちらを見ると、裸電球に照らされた朱色の布階段の上にズラリと景品が並んでいた。射的場である。
「なんだか懐かしいですね…ほら、姫ちゃん。ぬいぐるみもありますよ」
彼女が目を奪われた可愛らしいぬいぐるみの他にも、そこには定番の小さなお菓子やライターなどがあった。密かにシュラインの目が光る。そしてその時、同じく手に綿飴を持っていた美由姫の肘が今野の脇腹を強打した。
「ぐふぅ!」
「ちょっとちょっと、あっくん! チャンスよチャンス!!」
「…な…なんやもぅ」
「ぬいぐるみ。取って優姫にあげなさい」
美由姫は優姫に気付かれぬよう、今野の耳元に囁く。
「へ?」
「喜ぶわよ〜! 絶対。ね、シュラインさん」
「そうね。今野君の気持ちが篭もっていれば、なんでも喜んでもらえるんじゃないかしら?」
「よ、よっしゃ! 優姫ちゃん、僕があれ…」
今野は優姫の後を追って走っていく。
「じゃ、私も一つ、やりましょうか。狙いは…中央、あのライター!」
「きゃ、シュラインさんってば頼もしい」
浴衣の袖をたくし上げたシュラインに、美由姫が付いていく。
そして残された二人組みは…。
「さてお姫様。行きましょうか」
大角と彼に抱かれた金魚帯の女の子。
<シュライン・エマと加賀美由姫>
「袖が邪魔だわ」
木製の射的銃をビシリと構え、本気で狙いを定めつつシュラインは呟く。
「私抑えてましょうか?」
「うーん、有難う。でもいいわ。これをこうして…」
彼女は美由姫の申し出を断り、帯の羽下で結んでいたプチヘコ…赤い金魚帯を解いた。
「あっ、成る程。たすきの代わりですね! でも可愛い〜今年風の着こなしって感じ」
「あら、そうかしら? やっぱり?」
祭りに来てからここまで、その小さなお洒落に気付くような気の利いた人間が居なかったもので、シュラインはまんざらでもなさそうに微笑んだ。
そしてたくし上げた袖の中から余り腕が見えすぎないように気をつけながら、もう一度台座の上に肘を付いた。
「うふふ…見てらっしゃい。私こういうのは案外得意なのよ」
そして口の中でジッポーのライター、ジッポーのライター、と唱えながらレバーを引いて準備万端。
「頑張れシュラインさん!」
応援する美由姫の声をバックに、引き金を引く。だが…コルクのつめ方がまずかったのか、支える腕に力が無かったのか、弾は見当違いの方向へ飛んで、ポンカン飴を倒した。
「ありゃりゃ」
肩を落とす美由姫。
「おかしいわねぇ」
腰を屈めてもう一度。だが今度はプラスチックのキュービーちゃん。次は小さな万華鏡。「もう、絶対落とすまでやめないんだから!」
そしてムキになり始めたシュラインの後ろ姿をじっと見守っていた美由姫は。
「やっぱり私もやろっと。ホントはもう今月お小遣いピンチなんだけど…」
肩から掛けていた小さなポーチからピンクの財布を取り出して、店の主人に声を掛ける。「おじさん、弾くださーい!」
実は彼女こそ射的の女王。小さな頃から優姫を連れまわし、あらゆるギャンブル系屋台を荒らしまわった経歴を持つのである。
故に射撃銃をその手にした瞬間、彼女の瞳は光り、眠っていた血がうずき、騒ぎ出す…。
「さ〜行きますよっ、覚悟してね!」
その結果、目出度くシュラインがライターを獲得するまでの間に、彼女たち2人の取った景品は、他のお客が目を見張るほど山と積まれる事になったのであった。
***
そして一同が各々目的を果たしてもう一度集まったとき、シュラインと美由姫の両手にはビニール袋に一杯の景品が、今野の傍に立つ優姫の手にはクマのぬいぐるみが、大角の足にしがみついた姫の手には風車が一本、大事そうに握られていた。
「あら、買ってもらったの? 素敵ね」
シュラインが声を掛けると自慢げに見せて、それからひょいと後ろに隠してしまう。
「けど、これでもう殆どの夜店回り切っちゃったよ。これからどうします?」
美由姫が尋ねる。一同の目は自然と姫の方に向き、彼女は皆をじっと見返した。
「ん? なんや? 姫ちゃん」
裾を引かれて今野が少女の前に屈みこむ。
「あのね、今日楽しかったよ。だからね…」
姫は今野の耳に手を添えて、なにやら囁いた。
「なになに…『捕まえられたら…帰ってあげる』…て、え?」
尋ねかけた今野の言葉が終わるか終わらぬか。姫は皆の足元をすり抜けて、駆け出した。
「しまった!」
言ったのは誰の声だったか。兎も角少女が逃げだしてしまったのは明らか。
そして追いかけっこが始まった。最初に出会ったときと違い、少女は明らかに皆をからかう様に追いつかれるか否か、たった腕一つ分向こうを笑いながら素早く逃げる。
そして…皆の目の前で、『金魚すくゐ』と書かれた夜店の明かりの中に飛び込んだ。
そこに居た客や店の主人には、その時一体何が起こったのかわからなかっただろう。
だが少女を追いかけていた一同には、はっきりと見て取れた。
金魚すくいの四角い水槽を飛び越えるのかと思ったその瞬間、少女の姿が一瞬掻き消えたかと思うと…ぽちゃん…と軽い水音を残して、水の中に一匹の金魚が身を投じたのが。
「嘘やろ…」
唖然として覗き込んだ水槽の中には、明らかに他の金魚たちとは違う、見事な赤い尾びれを持った朱文金が一匹、泳いでいた。
「『人間以外からの依頼』って…こういう意味だったわけね」
シュラインはだが、めげなかった。「みんな、やるわよ。…これは、経費で落ちるわ」
力強く発せられた彼女の一言をきっかけに、子供とカップルを押しのけて、草間興信所の5人は水槽の周りに陣取った。
「あっ、大角さん、そっちへ行った!」
「と、言われても随分ばらくぶりだからね…っとと、あれ、もう破れてしまったよ」
「優姫ちゃん、見ててや。コツは水面近くを狙って紙を破らんように水平に動かす事。あと、なるべく枠のところを使って紙に負担をかけへんこと…。とやっ」
「篤旗さん、それは違う金魚です」
姫金魚は浅いところをこれ見よがしに泳ぎ、見事な吹流しの尾っぽを振ってあと少しのところで逃げてしまう。まるで先程の鬼ごっこを、今度は水槽の中でやっているかのようだった。
けれども、皆の手元に破れたポイが何枚か重なる頃、姫金魚の動きは流石に鈍ってきた。
「楽しい時間だったけれど。そろそろ終わりの時間かな」
あまり捕まえる気の無さそうだった大角が、いまだあちこちと動き回る朱文金に話しかける。
その時。シュライン、美由姫、今野の声が上がり、三人の持ったポイが水槽の中央辺りで交差した。その中央には勿論金魚の姫が居た。
「あれっ?」
「きゃっ」
「うわ!」
そして三人の勢いに、水の上に跳ね上げられた。空を飛んだ姫金魚は緩やかなカーブを描き。
破れたポイを途方に呉れた様子で見ていた優姫の、右手に持ったおわんの中へ着地した。
***
興信所へ帰る道すがら、一匹だけ別の袋に入れられた姫金魚は、まるで何事も無かったかのようなすまし顔で泳いでいた。
祭りの音はもう背中の後ろ。街灯の照らすアスファルトの道は、今は他に人影も無い。
皆は遊び疲れた満足と、振り回された疲れで黙って歩いていたが、どの顔も満足そうであった。
あの姫が、金魚であったことには確かに驚かされたが、皆密かにそうではないかと思っていた。 草間興信所に寄せられる依頼は大抵こんなものだったからだ。だが、まだいくつかの謎は残っている。
と、その時だった。
「…草間興信所の方ですか?」
街灯の下に一人の青年が立っていた。黒髪に白い肌。そしてどこか不思議な顔立ち。「僕が依頼人です。姫様を連れてきてくださって有難う御座いました」
深々と頭を下げるその手の中には、水を張ったガラスの金魚鉢があった。街灯の明かりに照らされて、不思議な色合いに光る。
「こんな所でなんですが、姫様をお連れしたいので、こちらにお渡しくださいませんか」
姫金魚を手に持った優姫が思わず一同を振り返る。ずい、と進み出たのはシュライン。
「あのね…そういわれても困るわ。草間さんには興信所までつれてくるように言われてるし、貴方が本当の依頼人とは分らないもの」
「そや。それにもし本当にあんさんが依頼人やとしても、この子は逃げ出して来たて聞いた」
すると青年は酷く困ったような顔をした。
「そう言われましても…」
「まあまあ。」
と、一歩進み出たのは大角だった。「ここで押し問答しても仕方が無いでしょう。本人に聞いてみたらどうですか」
「本人にって、姫ちゃんにってこと?」
美由姫が首をかしげて、優姫の顔を見た。優姫は少し考える様子を見せて、それから一つ頷くと、袋を手に取りそのビニール紐を緩めて口を開け、その中に向かって囁いた。
「姫ちゃん…帰りますか?」
朱文金の尾がふるると震えた。そして次の瞬間、袋の中からは金魚の姿が消え、皆の前にはまたあの少女が立っていた。ただし、とても眠そうな目をして。
「姫様」
青年が屈んで手を広げると、姫はちょこちょこと歩きすっぽりとその腕の中に納まった。「心配しましたよ」
安心したような姫の様子と青年の言葉。もう、何も言う事は無かった。青年はそれから金魚鉢を片手に、少女をもう片腕に抱えて立ち上がると、皆に向かってもう一度深々と頭を下げた。
「申し遅れましたが、僕はこの子の…姫様のお目付け役で御座います」
「お目付け役」
美由姫が呆気に取られたように言った。時代がかった内容からは程遠く、青年は極普通の格好をしていたからだ。「じゃあ姫ちゃんはもしかして」
「私どもの姫様でございます」
腕の中で眠り始めてしまった少女をいとおしげに見詰めて、青年は言った。「小さな頃から私が大事にお育てしておりました」
「そないな子をなんで長い事放っておいたんや? 草間はんが言うには夏祭りからずっとやそうやないか」
すると青年はまたしても困ったように首をかしげた。
「私どもの方では、僅かな時間でしたので…こちらでいう一昼夜とでも申しましょうか」
別世界の匂いを漂わせて青年は言った。「姫様、姫様お起きください。…皆さんにお別れを」
だがすっかり眠りに落ちてしまった姫は、揺すっても優しく叩いても、ピクリとも動かずただ規則的な寝息を立てているばかりであった。
「起こしちゃかわいそうだわ。こんなに良く眠って」
その愛らしい寝顔を見て、シュラインが言った。
「しかし、それでは皆さんに申し訳なく…」
「いいさ。良く遊んだから疲れたんだろう。このまま連れて帰ってください」
大角の言葉に、水藻は少し悩んだ様子だが、やがて一つ頷いた。
「そうですか…では、皆様」
彼はもう一度深々と一同に向かって頭を下げた。「姫様が大変お世話になりました。この日の事は姫様にとって良い思い出になることでしょう。本当に有難う御座いました」
そして皆に背を向け、ゆっくりと歩き出す。抱きかかえられた姫の手には青い風車がしっかりと握られ、そして街灯の明かりを一つ、二つ過ぎたあたりで、その姿はふいと掠れて闇に消えた。
<シュライン・エマ>
興信所に戻ると、蛍光灯を付け放しにし、顔の上に報告書を開いたまま、所長の草間武彦がソファに寝転んでいた。
「ちょっと、こんな所で寝たら風邪を引くわよ草間さん」
シュラインが呆れたように声を掛けると彼は黒ぶち眼鏡の奥から眠そうな目を上げた。
「ん…うわっ!?」
だが目の前に居た彼女の姿を見た途端、彼は驚いた顔をして思い切り身体を起こし、危うく彼女と額を付き合わせかけた。
「ふふ、驚いた? 私よ、わたし」
シュラインは笑いながら着けていた鬼の面を外した。彼を驚かせる為にこれを選んだのだから、今の反応は予想通りで上々。
「寝起きの心臓に悪いような事をしてくれるなよ」
胸をなでおろし、報告書を手に取って身体を起こす草間の声を聞きながら彼女は言った。
「今回の依頼も無事解決よ。色々吃驚するような事があったけど、それはまた後でね」
── この人ったら、きっと依頼を受けた時点で予測をつけてた癖に、何も言わないんだから…。
「それからこれはお土産」
草間は目の前に差し出されたものを見て、ふざけた様子で手を上げた。
「これはどうも」
それは彼女が苦労して取ったジッポーのライターである。だがありがたく頂戴しようとした草間の目の前で、シュラインの手首がひらりと返された。
「ところで草間さん、あなた出掛けの私にとった自分の態度、覚えてるかしら?」
「…俺が何かしたか?」
「いいえ。しなかったわよ。な〜んにも!」
どうやらその時の怒りが思い出されて来た様子。「だから腹が立つんでしょ? 折角いつもと違う格好したのに、どうして『綺麗』とか『似合う』とか一言いえないの」
「そんな事を言われても」
スタンダードな銀の装丁はいかにも草間好みのものだった。シュラインの手が右へ左へ行く度に彼の目も羨ましげにそれを追う。
「これが欲しければ一言私を褒めるのね」
「綺麗だよ」
あっさり言われた言葉に、シュラインの頬がかっと染まる。だが。
「そ…それは今私が言ったでしょ? 他の言葉を考えて」
「無茶言うな」
「考え付くまであげないわよ」
そして延々と問答が繰り返され、ライターは結局草間の手にしぶしぶながら渡されたのだとか。この男がどんな台詞を言ったのか、是非とも知りたいところである。
<終わり>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0495/砂山・優姫(サヤマ・ユウキ)/女/17/高校生】
【0527/今野・篤旗(イマノ・アツキ)/男/18/大学生】
【0086/シュライン・エマ/女/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0028/大角・御影(オオツノ・ミカゲ)/男/24/フリーカメラマン】
【0515/加賀・美由姫(カガ・ミユキ)/女/17/高校生】
※申し込み順に並べさせていただきました。
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■ ライター通信 ■
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『金魚姫』これにておしまいです。いかがでしたでしょうか?
砂山さん、今野さん、シュラインさん。いつも依頼に参加してくださって、有難う御座います。
大角さん、加賀さん、初めまして。沢山の素敵なライターさん達中から選んで頂けて、光栄です。本当に有難う御座います。(PC名にて失礼致します)
今回の依頼ですが、皆さんに夜祭を楽しんでいただけたらと書いたものでした。私自身が少し昔のお祭りを好んでいるというのもありましたが、皆さんのプレイングにも色んな懐かしい夜店の名前が挙がっていたことで今のものより少し昔風になっております。こういうのはなんだか良いですね。
そしてプレイングからは、兎に角色々遊んでみよう、楽しもう!という雰囲気が伝わってきてなんだか嬉しく感じられました。今回の依頼では、依頼は本当に口実にして下さっても構わないと思っていましたので、犯人(?)を見つけたり事の真相を突き止めたり、その辺がオープニングからは予測が付きにくかったと思います。そこは、反省点ですね。
これからも、皆さんと一緒に文章を作っていく事、楽しんで頑張って行こうと思っています。もしまたご縁がありましたら、是非宜しくお願いいたします。
では、また!
蒼太より
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