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牛鬼の花嫁
Opening 牛鬼の花嫁
それは空も高くなった秋の始め。
今日も草間興信所は何やらワケの分からぬ駆け込み寺と化していた。
「牛鬼?」
そして興信所の主、草間武彦は訊き慣れないその科白に眉を顰めていた。目の前のソファに腰掛けるのは白無垢の着物に身を包んだうら若き女性。
名を――椿<つばき>と云った。
椿は膝の上にちょこん、と手を丸め、小さく首を縦に振る。細くしなやかな筈の手が、アカギレで見るにも痛そうだった。
「牛鬼様にお会いしとう存じます」
震えるような声だったが、そこには女の秘めがたい意思が含まれていたかのように思われる。
女の話はこうだった。
――全国各地に牛鬼伝説は存在するが、椿の云う牛鬼は三重県・父ヶ谷の淵に「いた」、牛鬼である。
顔は鬼の形相、体は牛といった……西洋で云うところのミノタウルスに相当するだろうか。
近くの村に伝わる牛鬼伝説は「牛鬼退治」として脈々と受け継がれている。
その昔。山の奥の奥に存在する淵の近くで山仕事をする為に小屋を作って働いていた衆が夜な夜な、恐ろしげな音を聞いた。地を這うような地鳴りのような……何処か淋しげな音だったと云う。
人間とは兎角臆病な生き物だ。得体の知れぬモノに対しては底知れぬ恐怖と醜さを露呈する。
そして椿はその牛鬼の花嫁だった。それは村の者から見れば、『囮』とも云われる存在だったのだ。
「牛鬼様は…村の者に怯え恐れられ……そして、喜五兵衛<きごべえ>殿の銃に撃たれて淵に消えもうした……」
女の手に大粒の涙が一つ落ちた。コチコチコチ……壁に掛けられている時計の針の音がやけに大きく響く。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
草間は人差し指と中指で眼鏡をスッと上げると奥で僅かに光を点す。
「牛鬼に……仮に会ったとして、貴方はどうなさるおつもりですか? 貴方、実体化してはいらっしゃいますが、元は霊魂ですよね。既に肉体は無いはず…」
流れるように美しい黒髪が草間の科白にピクリと揺れた。重ねていた手に僅かに力が込められる。
「よく…お分かりになりましたね…そうです、私の肉体はもうありません…。牛鬼様が撃たれたと訊いた後に、牛鬼様が落ちた淵に身を投げもうした…」
「村の人間に無理やり決められた婚約ではなかった、と?」
「初めは無理やりです。嫌でした…恐ろしいと思いました。…ですが、牛鬼様に会って、瞳を見た途端、恋に落ちました」
女は顔を上げた。その反動で頬をつーっと一筋涙が零れた。
「死ねば牛鬼様に会えると思いました。ですが、死して霊魂となり数百年。未だに牛鬼様に会えませぬ…」
光を受け入れぬ黒い瞳と整った顔立ち。椿は人を捨てていた。
このまま彷徨えば村人を祟る怨霊と化すか……それとも夜叉となり堕ちるかのどちらかだ。
――また厄介なのが来たもんだ……
草間は頭をポリポリと掻いて、煙草を1本咥え、ライターを弾く。
「おい、何かと面倒な一件だが…頼まれてくれないか? 三重県ってぇと遠いし、話に訊く牛鬼淵とやらも大層な場所らしいが、ちょっとした登山とでも考えれば……」
肩越しにこちらを振り返った草間の科白は真面目に頼んでいるのやらふざけているのやら……。兎にも角にも、この厄介ごとを自分の手から早く他人の手に委ねたいらしい。
「あー…それと。訊いての通りだから、牛鬼を探すヤツとこのお嬢さんの傍に付くヤツと二手に分かれろよ…と、まぁお前たちには蛇足だったかな」
ふぅ、と吐き出した紫煙がそのまま空気に吸い込まれていく。その様を視線で追うと、椿はぽつり、と零した。
「牛鬼様は何をしたわけでもない…そもそも、何故、外見が異形故に『悪』として裁かれる? 綺麗な顔をして鬼のような所業を繰り返す者はこの世に溢れかえっておるのに……」
――『何故』、と。
その声は何処となく淋しげで無常に満ちていた。
Scene-1 色なき風
シュルリ。
淑やかな音をさせて紺桔梗の帯を回すと、両手でキュッと結ぶ。帯の端を中に入れて整えると、俯いたことで流れた前髪が視線よりも下に伸びたことにふと気づく。男はそれを一房掴んで上目で見上げると、
「…………」
白く透き通るそれは掴んだ手からさえもサラサラと零れ落ち、まるで空蝉のようだと思った。空蝉とは、元々蝉の抜け殻の事を指すが、それが転じて『魂が抜けて虚脱状態』の様を云う。
そう…昨日見た、椿の瞳がまさにそれだった。光を灯さない、全てを拒絶する黒い瞳。彼女は霊魂ではあったが、何かこう…それ以上の存在感が発せられていた。牛鬼に対する愛情が彼女をそうさせているのだろうか?
藤色の羽織を肩にひっかけると、男はカラリ、と玄関の引き戸を開けた。水色の空に白練の雲が薄く引き、秋の到来を告げている。太陽はまだサンサンと熱を持っているのに、空と空気は霞みがかったようにそれらを閉じ込めている。
男は――十桐朔羅は右手を翳して光を遮ると、奥庭に植えてある古く大きな櫻に視線を転じた。今年は日照続きで葉が些か萎れてはいるが、シャンと立つ様は羨ましくもあり儚げでもある。
「行って…きます」
小さく呟くように云うと、スと視線を外し朔羅は歩む足を進めた。土に埋め込まれている庭石の上を僅かに音をさせて歩くと、表門の前までやって来る。重厚なそれに手を掛け、押しやると――
「遅いヤツだ。置いてくぞ」
正面に真っ赤な車――The BMW Z3 roadsterを従えて、フロントボディに腰を預ける男。サングラスを掛けている所為で表情は伺えないが、クッと嗤う口元が全てを雄弁に語っている。
朔羅はワザと視線を合わせずに、足元を見やる。
「定刻通りだ。サルじゃあるまいし、そう急くな」
カラリカラリと下駄を引き摺って、男の前を通る。相変わらず派手な車だ、と嫌々そうに吐き捨てると助手席のドアを引いて身を入れた。その様子に黒髪、黒いスーツに身を包んだ――沙倉・唯為<さくら・ゆい>はやれやれ、と肩を竦めて見せる。
「では、行くか」
自身も運転席に座ると、サイドブレーキを下ろしギアを入れ替える。アクセルを何度か踏み込むとスポーツカー特有の排気音が唸り、それと共に車は発進した。オープンカー故に風が非道く心地いい。
朔羅は頬を掠める風に身を委ねると静かに瞼を閉じた。
「一体、何を考えている?」
高速5号池袋線を南に下りながら、唯為は先ほどから黙している朔羅に声を掛けた。普段から口数は多く無いが、今日はいつにも増して寡黙に何かを考えているような気がする。
「別に……常人と違うものを持ち合わせているだけで、周りからは異端として扱われ、排除される。今も昔も、人とは変わらんものだ、と思ってな」
朔羅はぶっきらぼうに答えると妙にさめざめと流れる景色を見据えた。それを訊くと、窓に左肘を引っ掛けて右手でハンドルを操作する唯為は小さく溜息を落とす。
「で? 牛鬼伝説の真相は分かったのか」
「いいや…」
首を横に振ると、
「文献自体は見つかったが、如何せん記述が少なすぎる。それに……」
「それに?」
唯為が問い掛けると朔羅は表情を変えずに言葉を紡ぐ。
「椿の……牛鬼の花嫁の記述が一切なかった」
車は都心環状線に移り、霞ヶ関ジャンクションで下の道へと降りる。信号待ちでストップした所で、唯為は内ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「やはりか」
サングラスを外してサイドボードに置き、代わりに灰皿を手前に引き出す。
「やはり、とは…? 初めから信じてなかったと云うわけか」
朔羅は相変わらず表情を崩さなかったが、漆黒の左目と僅かに光が差した右目が彼の内面を鮮やかに彩る。その様子に唯為は僅かに口元を歪ませ、煙草を口に運んだ。「青いな」と朔羅に諭すかのように……
「人なんてもんはな。信ずるに値する部分は10の内1つあればいいもんだ」
「…………」
「特に愛に狂った女なんてモノは、話半分でも聞き過ぎだ」
ふぅ、と大きく息を吐くと、白煙がゆらゆらと立ち上る。唯為は信号が青に変わった所でギアを入れ替えて、アクセルを踏んだ。再び走り出した車の中で朔羅はチラリ、と唯為の表情を仰ぎ見る。この男は色んな意味でスレた発想をする。何が彼をこのように変貌させたのか、否、このような形にならざるを得なかったのか。……それは朔羅も気づいてはいる。
「…………」
草間興信所の近くの路端にキッと僅かなブレーキ音をさせて車を停車すると、朔羅はドアを開けた。車の後ろを回って歩道までやって来ると無言のままに背を向ける。
「朔羅」
既に足を進めている朔羅に窓に肘を掛け、煙草を咥えたままの唯為は声を掛けた。
「朔羅。椿にあまり同情するんじゃないぞ……気をつけろよ」
思わず目を丸くさせた朔羅の表情をまるで読み取ったかのように、男は口元に笑みを貼り付け肩越しに振り返る。窓に置いていた左手を軽く上げると、
「じゃあな」
クラクションが煩わしくなる雑踏の街・東京と朔羅に暫しの別れを告げるかのように赤いボディの愛車を発進させた。去り行く車と唯為の後ろ姿はいつ見ても気分的に重い。
――この遠く離れる空の所為か。
朔羅は軽く頭を振って、意識を飛ばす。考えるだけ、馬鹿らしい。まるでそう云って振り切るかのよう薄く棚引く空を見上げた。
Scene-2 届かぬ願いとその行方
「「…………」」
まさに沈黙、の一言に尽きる。
草間興信所の斜め向かいにある小さな喫茶店での1コマ。朔羅の向側には相変わらず影を落とした椿が所在なさげにポツン、と腰掛けていた。前面ガラス張りの窓の向こうには足早に街中を徘徊するビジネスマンに、何故こんな時間にうろついているのだろうかと思われる学生が。その人影が通り過ぎる度に、椿の表情が更に陰を落としているような気がする。
「……黙っていては分からない。牛鬼と…貴方のことをもう少し詳しく話してくれないか」
沈黙を破ったのは朔羅の方だった。目の前に置かれたホットコーヒーに手をつけることなく……朔羅もまたこの空気が好きではなかった。俯き自分の手にばかり視線を釘つける椿は朔羅の科白に何の反応も示さないまま、相変わらず口を噤んでいる。
朔羅は、やれやれ、と小さく息を落とす。
――これでは唯為の方をアテにするしかないか。
些か腑に落ちないが、肝心の椿が話そうとしないのでは何も始まらない。唯為は別れしなに「気をつけろ」とは云ったものの、同情するも何もあったものじゃない…。
そうして、朔羅が本日何度目かの溜息を吐いた、その後だった。
「…貴方には…愛する方はおられますか……」
表情を隠すように流れた黒髪がピクリ、と反応すると女は何かにとり憑かれたかのように、ぽつり、ぽつりと言葉を繋ぎ始めた。
「会いたくて会いたくて……狂いそうな夜を経験したことはありますか……」
相変わらず下を向き、朔羅の方を決して見ようとはせず、椿は消え入るような声で話す。
「…………」
「私は毎日がそれです…毎日毎日……気の遠くなりそうな日々をそうして過しております……」
椿は肩を僅かに振るわせた。小さく…それでいて心から叫ぶ慟哭のようにも聞こえる。
「牛鬼の最期を……貴方は見たのか?」
テーブルの上に両手を組んで置き、朔羅は椿を見据えた。女はその問いにプルプルとかぶり振る。
「しかとは……。されど、喜五兵衛殿が何度か牛鬼様と対峙しておるのは知っておりました…。故に、止めてと何度も何度も喜五兵衛殿に泣いてお願いもうした……」
朔羅の問いに一気に感情が噴出したようだ。椿は顔をあげ、大粒の涙を幾度と零し、遮二無二不条理を訴えた。
「喜五兵衛殿は最期に…『南無阿弥陀仏』と刻んだ弾を牛鬼様に撃ち込んで……牛鬼様は崖から落ち、奈落の淵と呼ばれたあの淵へ……」
「そして貴方はそれを追って?」
最後の科白が紡げない女に朔羅は問うた。コクンと頷くと椿はまた俯く。
「牛鬼様が落ちた淵は真っ赤に染まりました……誰もが皆、それを喜んだ…そう私以外の誰もが……」
「…………」
「私はててなし子でした…。母親が神隠しに会い、気絶して村に戻って来たときには既に私を身篭っていたそうです…。故に母は村人に疎外され、私を生んで死に……私も蔑まれて18まで…。牛鬼様の花嫁として差し出されたのもその所為です…」
なるほどな、と朔羅は漸くここで椿の矛盾を理解した。目の前の女は苦難と牛鬼しか知らないのだ。牛鬼を追って命を投げ出したのも、狂うように牛鬼を捜し求めるのも――この椿は形は大人でも心は人恋しさを忘れられぬ子供なのだ……。
――無垢が故に他を知らぬ、か。
「牛鬼は……貴方に幸せを?」
静かな店内に朔羅の声が溶け込むように響く。この空間だけが、外界から切り離されたように時間を止めて。
「牛鬼様が私の全てです」
女はしかと云い切った。漆黒の瞳は何色に染まることもなく、そして何ものにも歪められることなく深みを増す。今の朔羅には決して出来ない瞳だった。
「そうか……」
朔羅はふと脳裏に過ぎった影に僅かに目を伏せ、徐に立ち上がる。
「少しここで待っていてくれるか。電話をしてくる」
座る椿に声をかけると、朔羅は出入り口の傍にある『 Phone 』の看板が吊り下げられているのを確認しそこへと向かう。懐に入れていたテレホンカードを取り出して、受話器をとると、迷うことなく番号を押した。
ツ、ツ、ツ、ツ、ツ……
遠方に掛けている所為か、受話器の奥で切れるような濁るような音が繰り返される。朔羅はそれを遠くに聞きながら、己が導き出した疑問を整理づけていた。
――あのように探し求める椿が何百年と渡り歩いても未だ牛鬼を見つけられんという事は……牛鬼はまだ死してはいないという事か……。
感情論を抜けば、今ここで導き出す結論はやはりそれになる。となると、牛鬼淵へ赴いた唯為が頼りだ。……唯為の『緋櫻』ならば、牛鬼の存在にきっと呼応なり共鳴なりを示す筈。本来なら己も出向きたい所だが、如何せんあの椿を連れて行くとなると、相当ホネだ。
――牛鬼は死してはいない。
それを唯為に伝えねばならない。その為にこうして唯為の携帯にコールをしているわけだが……
『こちらはMTTドゴモです。お掛けになった電話は 電波の届かない場所にあるか 電源が入っていない為 掛かりません』
「…………」
唯為が電源を切っているとは考え辛い。確か、牛鬼淵はかなりの山奥にあると聞く。流石のドゴモもそこまでは電波を受信できないのだろう…。
朔羅は仕方なく受話器を下ろす。こうなれば、椿を草間の所に再び預け、己が赴くしかあるまい。小さな溜息と共に踵を返してテーブルまで戻ってくる。
が。
そこに椿の姿はなかった。
「!」
咄嗟に朔羅は意識を集中させる。
――具現化した躯が精神体へと戻っただけか?
しかし、椿の波動は一切感じられず……即ち、ここに椿がいないことを雄弁に語っていた。
『牛鬼様が私の全てです』
先ほどの女の科白が鮮明に蘇る。あの強い瞳――全てを決意した瞳。
「チッ」
朔羅は珍しく舌打ちを洩らすと、足早に喫茶店を後にする。
――椿は間違いなく、牛鬼淵へ向かっている……!
Scene-3 彷徨
――三重県・大台ケ原麓
バスを降りた朔羅は歩く足をいつもより数段早め、父ヶ谷への道を目指していた。
地元の人間に聞けば、ここから数10kmは歩かねば父ヶ谷入り口までは辿り着けないらしい。山に入った唯為の携帯は相変わらず繋がることなく、朔羅はヒッチハイクでも出来ないかと、民家のある通りまで終着のバス停から歩いてきた。
懐から銀色の懐中時計を取り出すと、針は16:30pmを少し回った所だ。朔羅は車も通らぬだたっ広い道を1人黙々と歩く。
すると前方からけたたましい音を立てて車がやって来たかと思うと、数10m先の路端に停車した。朔羅は弾かれたように視線をそちらに転じ、凝視するとモスグリーンの厳ついジープから覗くのは見覚えのある銀髪ではないか。
朔羅はそれを見つけるや否や藤色の羽織を両手で抑え、小走りに駆け出した。
「?」
歩み寄ってくる影にシルバ・J・レインマンは怪訝そうに眉を寄せると、ジープから飛び降り目を細めた。繊細な銀髪の髪に大人しめの色で纏めた和装――これからシルバが連絡を取ろうとしていた朔羅である。
「お前…椿はどうした?!」
僅かに息を弾ませた朔羅はシルバの姿を確認すると、険しい表情を浮かべた。
「椿が消えた…。こっちに向かっている…いや、既に来ているかも知れない」
「何?」
「牛鬼は死してはいない……椿もそれに気づいた筈だ」
彷徨える魂は飄々と煌々と盲目的に愛する牛鬼を探した。だが、ふと立ち止まって考えてみれば…それはオモチャ箱のように散らかしてしまえば、中には何も残らない。単純な答えさえも見えなく、我を亡くした魂が辿る一途は決まっている。
「椿が本当に彷徨える哀れな魂ならば、自我を手放す前に救ってやりたいものだが…」
車に揺られながら朔羅はつと零した。その想いはシルバも賛成である。
だが、牛鬼淵に残った2人は――果たしでどのように考えるだろうか。苦痛の生か安楽の滅か……どちらが正しいとは云えない。
「とにかく、俺たちも牛鬼淵へ急ぐぞ」
シルバは些か苛立ちを覚えながらアクセルを踏み込んだ。
Scene-4 生きた道、生きる道
――18:50pm
日がとっぷり落ちた、父ヶ谷山中。
昼間、途中までシルバが歩いた所為もあって、道に迷うこともなく2人は牛鬼淵へと辿りつけそうだった。ただシルバが手にする懐中電灯の灯りだけが頼り、と云うこともあって道中は困難を極めたが。
「…………」
黙々と歩く朔羅にその先を行くシルバ。
今宵は新月で月明かりもなく、辺りはヒッソリと闇に包まれていた。
「貴方は椿のことをどう思う」
朔羅は視線を足元に貼り付けたまま、つと口を開いた。
「嘘だと思うか。それとも哀れな女だと思うか……」
リリーンリリーンと虫達が思い思いに声を奏で、肌寒い空気が密やかに沈む。その声を遠くに聞きながらシルバは短い沈黙の後、
「嘘かどうかは知らんが、馬鹿な女だとは思うな」
小さく息を落とした。
「馬鹿な女?」
朔羅は顔を上げて先行く男の背中を見た。見慣れた唯為より僅かに身長が高い。
「ああ、馬鹿な女だ。どんな形にしろ、死ぬほど大切なものは手を掴んだら絶対に離すな。てめぇ勝手なエゴで……手放せば二度と手に入らなくなる」
「…………」
「死ねばそこで何もかも、終わりだ」
シルバは目を伏せた。これは椿への科白じゃない。過去に起した自分への戒め――そう後悔に他ならない。
シン、と何処までもあるようなないような……そんな闇は不意に心の傷を深く抉り出す。朔羅は男の心中をふと察したのか、敢えてそれ以上は何も訊かなかった。
歩き始めて約1時間。
瀬の早い流れが耳に届き、牛鬼淵へ到着を静かに物語っていた。
「獅王丸と唯為が来ている筈だが……」
シルバが視線を巡らせると、前方にボワンと浮かび上がったような小さな焚き火の灯りが見える。
「唯為」
2人の姿を見つけると、所々に転がっている老木に注意を払いながら朔羅とシルバはその灯りへ吸い込まれるように近づいた。2人は朔羅の姿に少し驚いたようだったが、2時間ほど前の夕刻に椿がこの淵に現れたことを告げる。意思の強い――まるで別人のようだったと。
「……やはりか」
朔羅は表情を曇らせ東京で椿と交わした会話を話す。
――椿は天涯孤独の身だったと云うこと。
――ずっと村のものに疎外されて生きてきたと云うこと。
――牛鬼が……彼女の全てだったと云うこと。
不遇の人生の先に見た牛鬼しか知らぬ哀れな女――それが椿……彼女の云い分を頭から信用するワケでもないが、かと云って無闇に責めることも出来ない。
「椿は既に牛鬼淵の中だ」
獅王丸が視線を闇の淵に向けながら云うと、シルバと朔羅はその先を見据えた。
火を取り囲む4人の輪。下から浴びる光が赤くそれぞれを染め上げる。
唯為は揺らめく炎に椿の狂気を見るような気がした。あの女を止めることが出来るのは……自分たちではない、牛鬼の存在だけだ。ぐっと鞘に収めた緋櫻を握り締め、顔を上げると3人とも意を解したようにコクン、と頷いた。
「朔羅、お前の言霊で牛鬼を呼び起こせ」
Scene-5 胡蝶の夢
ちょうど、淵を見下ろす形となる岸壁に朔羅は上ると、スと人差し指と中指を揃えて口に添え、瞳を閉じた。声にならぬ『声』を唇から空気に伝える。ヒンヤリと辺りを覆った冷気が静かに風を帯び始めると、途端に底から湧き上がるような呻き声が淵全体に響き始めた。
ウォォオォオォォォォォ……
ウォォオォオオォオォォォ……
思わずコチラまでぐっと来そうな…途轍もなく淋しい声だった。岸壁の真下は水面である。そこからまるで朔羅を呼び込むかのように啜り啼く声……。
その声に共鳴して緋櫻がドクン、ドクン、と息づき始めるのを朔羅の後ろに控えた唯為は気づく。そして、岸壁の左下の出張った岩には覇紅を従えた獅王丸。そして右下の川縁にはシルバが。
『来るな……』
覇紅が静かに告げると獅王丸が頷く。唯為、獅王丸、シルバの視線が一点に――淵の中央に吸い寄せられた。
「古より宿りし誇り高き牛鬼……我の声汝に聞こゆならば其の姿…我に見せ給へ――」
朔羅が溶け込むように静かに云い放ち、指を唇から外し空に梵字を書き記す。すると、それが合図だったかのように、淵の中央がきのこ雲のように体積を引き摺り球状に盛り上る……!
「!」
嵐のような水飛沫と共に現れた巨大な黒い影――般若面に闘牛のような2本の角を生やした顔に巨大な牛の躯。塗り潰したような金色の瞳が煌々と光ると、朔羅を見据えた。
『我を呼ぶのは其方か……』
耳に届く、と云うよりかは直接脳髄に話し掛けられる。朔羅は小さく頷くと、掲げていた手をゆっくりと下ろした。
「私が貴方を呼んだ。……正確に云えば、貴方の花嫁、椿が貴方を捜し求めて…」
朔羅はそこまで言葉を紡いではた、と止まった。
荒れ狂う波が漸く収まり、牛鬼の姿が闇夜に浮かび上がる。それは血の涙を流し、懐には人間の頭蓋骨を抱き、後ろ足の1本はもげてしまっていて、ない。
「……椿の骸か」
その姿を下から見上げているシルバは呟いた。そう…白骨化した髑髏。それは数百年前に今、朔羅と唯為が上っている岸壁から身を投げた椿の骨。
『椿…椿はもういない……』
牛鬼の光を宿さぬ金色の瞳から溢れるように赤い涙が溢れ、ぽたり、ぽたり、と淵に落ちる。
『椿……大切な我が娘……』
4人は牛鬼の科白に言葉を失った。椿は自分のことを『牛鬼の花嫁』と云った。だが、娘…とは?
――私はててなし子でした…。母親が神隠しに会い、気絶して村に戻って来たときには既に私を身篭っていたそうです…。
朔羅の脳裏に鮮明にあのときの椿の科白が蘇る…。
「では、神隠しにあった椿の母は貴方の子を身篭った…それが椿……」
唯為も獅王丸もシルバも、牛鬼の悲痛な叫びが脳髄に叩き込まれる。
椿が狂ったように牛鬼を求めたのは……唯一の肉親だった、からか? それとも知らず知らずのうちに…それに惹き付けられたのか……。椿のあの盲目的な愛は…椿は父と知らずに愛し、その命を投げたのか?
――余りに…哀れな……
言葉が出なかった。
唯為は徐に瞼を閉じる。椿を止めることが出来るのは、牛鬼しかいない。だが、その牛鬼と椿の間には切っても切れない……――決して1つにはなれぬ愛。
獅王丸も口を噤んだまま…胸が痛かった。血の繋がった……しかも片方はそれを知らぬ。
思わず、ぐっと握り締めた拳に力を入れた……その瞬間だった。
直下型地震のように下からズンッ!と突き上げるような衝撃が走る。その揺れに岸壁の際にいた朔羅はバランスを崩し倒れこみそうになるが、唯為が咄嗟に走り寄り、朔羅の身を抱え上げる。
シルバも身を低く沈め衝撃に耐え、獅王丸も岩から降り、脇にあった老木を支えに屈んだ。
『獅王丸殿…椿だ……』
清清と覇紅の声が響いた。そして揺れが収まり、4人が顔を上げたその視線の先――淵の対岸に……白い、真白き牛鬼が現れる。目の前にいる黒く年老いた牛鬼よりは二回り程小さいが……闇に映えるその白さ、輝き、そしてヒシヒシと伝わる慟哭…。
「椿……」
血の涙を流す牛鬼の瞳は既に光を宿していない。まさか懐に抱く白骨の娘が霊魂の白き牛鬼となって現れるなど、考えにも及ばないだろう。
椿は――この地点で既に椿ではなかったのかも知れない。
白き牛鬼は耳を劈くような雄叫びを上げると、崖から駆け下り真っ先にシルバの方を目掛けて走り込んで来た。
「チィ!」
想像以上に早いそれにシルバは咄嗟に身を翻し岩を蹴る。そして懐からコルトパイソン357マグナムを取り出すと、徐に銃口を椿に向けた。
「撃つなッ」
朔羅は思わず抱え込む唯為の腕を払って身を乗り出した。
「今、撃てば椿は本当に物の怪に堕ちゆくだけだ…」
消え入るような声で朔羅は云った。
その様子を見て、唯為は小さく舌打ちを洩らす。あれだけ気をつけろ、と云ったのに、朔羅は既に椿に同情を寄せてしまっていた。
その間にも、呼び止められたシルバはそのままトリガーを引くことなく突進してくる椿を紙一重で避け、何とか手立てがないものか、と流れる景色の中で強く思う。
「獅王丸ッ!」
シルバが呼ぶと回り込んでやって来た獅王丸が椿の向こう側に現れる。右手を空に掲げると、覇紅が赤い光を放ちながら徐々に姿を変え……スラリと光る太刀へとその身を変化させた。
「可哀相だが、このままでは埒があかない」
獅王丸は静かに云い捨てると、ギラリ、と刃を光らせて構える。
『牛鬼様が私の全てです……』
荒れ狂うように暴れていた椿は、獅王丸に標的を変え凄まじいイキオイで走り寄せた。しかし、獅王丸は眼光を光らせ、スとそれを避けると、椿はそのまま唯為と朔羅がいる――己が淵へとその身を投げた岸壁に体当たりした!
地が揺れる――。
破壊できそうにもない強靭な岸壁の岩がぶつかったその衝撃で大きく揺れ…亀裂が走りピシピシと悲鳴をあげて、崩れ始めた。
「クッ」
岸壁の上にいた唯為は脆く割れ始めたそこから朔羅を守るように抱き寄せ、後ろの林へと引く。すると、椿がダメ押しのように、もう一度岸壁に肩からぶつかると再度牛鬼淵が揺れた――!
「朔羅」
唯為は朔羅の躯をドンッ!…と林の方へ強く押すと自分はその衝撃で落ち行く岩盤と共に足元を滑らし、淵へと――身を堕とす。奈落の淵……落ちれば二度と浮上出来ないと云われる牛鬼淵へ……。
朔羅は押された反動から木々の下へと倒れ込んだが、弾かれたように上半身を起こす。黒い眼には相変わらず口元に笑みを貼り付けて嗤う唯為の姿。
「……唯為?」
そして――唯為はそのまま闇の淵へと姿を消した。
Scene-6 もう二度と
まるで雷が落ちたかのような惨劇だった。
下にいたシルバと獅王丸も噴火のように降り注ぐ岩を何とか避けながら顔を上げると、水飛沫を上げて唯為が淵に落ちる姿を目の当たりにする。
「唯為ッ!」
シルバが声を上げると、際まで走り寄った朔羅が咄嗟に自分もその後を追おうと藤色の羽織を投げ捨てた。
「止めろッ。飛び込めばお前まで上がって来れんぞ!」
シルバは云うが早いか駆け出し、朔羅を止めようと崩れ落ち坂道となった岸壁を駆け上がる。
「シルバ。お前はそこから朔羅を連れて引け。椿は私が仕留める」
そう云って獅王丸が動きを止めた椿に覇紅を光らせる。燃える様な赤い光を発しながら……。
『椿…椿か……愛しい椿か……』
まるで老木のように微動だにしなかった牛鬼はそこで漸く声を発した。辺りに木霊するように水面までも揺らす。
『椿よ…我は此処におるぞ……此処へ来てその美しい顔を見せておくれ……』
牛鬼は「我」とは云っても決して「父」とは云わなかった。牛鬼は既に察していたのだろうか……椿に必要なのは父性ではないことを。
『牛鬼様…牛鬼様……』
岸壁に数度激しくぶつかった所為で、椿の白い肩からは赤い血が滴っていた。しかし、それに何ら気を止めず、漸く…漸く聞こえたその声に椿は大粒の涙を零し――そして真白き牛鬼の姿から人の……純白の花嫁の姿に戻る。
『牛鬼様…ずっとお慕い申上げておりました……』
椿は巫女のようにフワリと闇に浮かび、牛鬼の傍に近づく。そして牛鬼が白骨の椿の屍を牛鬼淵に沈めるとその手を蓮の様に美しい椿に差し出した。
『どうぞもう…この手を離さないで下さいな……』
Scene-7 星月夜
どうやら何とか一段落したと察したシルバは朔羅を連れて獅王丸のいる川縁まで降りてくる。黒く底の見えない牛鬼淵――唯為の姿どころか何も見えはしない。
「潜るか…潜るにしても、生きているならもう浮上してきてもいい頃だが……」
獅王丸が覇紅の術を解いて、岸へと歩み寄る。
「…………」
朔羅は声が出なかった。あのとき、自分がシルバを止めなければ、自分が早々に身を引けば、唯為は自分を守って崖から落ちるなんてことはなかった……。あれほど自分勝手な感情を引きずらないように…そう決めていたのに。
思わずここへ来るまでにシルバが云った科白を朔羅は思い起す。その様子を見て、シルバは小さく溜息を吐くと
「俺が懐中電灯を持って潜ろう。それが一番確実だ」
ジャケットを脱ぎ、コルトパイソンをその上に置いた。ペンライトを口に咥え、重そうなサバイバルナイフも外し煙草も取り出す。
しかし、シルバがブーツを履いたまま、水辺リに足を進めると――ブクブクと前方から泡が盛れ、思わず3人の視線はそこに釘付けとなる。
その小さな泡は徐々に大きくなり、そしてシルバは咥えていたペンライトを手にし、そこへ光を当てると、黒い影が浮上してくるのが分かった。
「ぷはッ!」
イキオイよく水から頭を出したのはこれから捜索される筈の――唯為。
プルプルと頭をかぶり振って、大きく息を吐くと、顔を上げこちらを向いた。
「何、3人揃って立っている?」
唯為は軽く掻いて岸まで泳ぐと、纏わりつく水を鬱陶しそうに振り切り水辺から上がった。
「テッキリ死んだかと思ったが」
獅王丸はヤレヤレ、と安堵の短い溜息を落とす。すると、唯為は盛大に肩を竦めて見せ、
「阿呆が。誰がこんな所でくたばるか」
水を含んだ重いスーツのジャケットを脱ぎ、豪快に雑巾絞りをした。勿論、相変わらずの笑みを貼り付けて。
「ん? ウチの可愛い子は何て顔してんだ」
唯為はジャケットを肩に引っ掛けて、視線を朔羅に向けると――朔羅は白い頬に一筋の涙を流していた。
「…………」
滅多に表情を変えない朔羅のその涙に唯為は一瞬戸惑ったが、すぐに仕方ないな、と笑う。そして朔羅に歩み寄ってぽんぽん、と母親が子供をあやすようにそっと頭を撫でた。
Epilogue 一人、そして二人
『これからは牛鬼様の目となり、この世に留まれるぎりぎりまで傍にいることにします……』
正気に戻った椿は、牛鬼の肩にチョコンと乗り、幸せそうに微笑んだ。
椿は己が牛鬼の子だということには気づいていない。先ほどの記憶も曖昧にしか覚えていないようだった。
椿は牛鬼の血を引いている。恐らく霊魂となっても、半永久的に牛鬼の傍にい続けられるだろう。今後の2人の問題は当人同士で解決するのが一番だ。
牛鬼は相変わらず厳しい顔とおどろおどろしい雰囲気を身に纏っていたが、彼の心は腐った人間より数倍も慈愛に満ち、驚くぐらい澄み切っていた。
――1つの嘘で1人の女の幸せが生まれるのならば、それもまた一興なり。
そうして2人は地鳴りのような音を立てながら闇の牛鬼淵へと消えた。
「まさか、お前があんな顔してくれるなんて思ってもみなかったな」
唯為は朔羅の藤色の羽織を肩に引っ掛け、ククっと喉の奥で嗤った。先行く朔羅としては弱みを握られたみたいで腹立たしいことこの上ない。
「…黙れ。一度死んで来い」
プイ、と顔を背けてスタスタと歩く。その後ろ姿に唯為は「おーおー」と肩を竦めると苦笑いを零して、朔羅の手を握って引き寄せた。
「ありがとな」
そう小さく囁くと、2人を包むように秋の冷えた風が空を舞い、黒髪と銀髪を優しく揺らす。
秋はもうその色を鮮やかに彩っているようだった。
Fin
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0579 / 十桐・朔羅(つづぎり・さくら) / 男 / 23 / 言霊使い】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【0900 / シルバ・J・レインマン / 男 / 35 / ブラックリストハンター】
【1004 / 綾小路・獅王丸(あやのこうじ・しおうまる) / 男 / 32 / 天才外科医師】
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■ ライター通信 ■
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* こんにちは、本依頼担当ライターの相馬冬果です。
この度は、東京怪談・草間興信所からの依頼を受けて頂きありがとうございました。
* 今回の依頼は三重県・父ヶ谷に実際に残る『牛鬼伝説』をモチーフとして
執筆しております。
ですが、あくまでモチーフはモチーフであって、依頼用にかなり脚色を
加えておりますので、その点はご了承下さいませ。
(話の通り『椿』や『牛鬼の花嫁』は伝説には一切存在しておりません)
* 物語の全容も含めて、椿や牛鬼に対する感情、行動、進展度などは、
他の参加者の方のノベルにも目を通されますとより一層楽しんで頂けると思います。
≪十桐 朔羅 様≫
再びお会い出来て嬉しいです。ご参加、ありがとうございました。
十桐さんだけが椿の傍につき、椿の出生の秘密を知るキーワードを
聞き出すことに成功しております。
その他の点においても、まさに「お見事!」といった内容のプレイングでした。
それでは、またの依頼でお会い出来ますことを願って……
相馬
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