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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


牛鬼の花嫁

Opening 牛鬼の花嫁

 それは空も高くなった秋の始め。
 今日も草間興信所は何やらワケの分からぬ駆け込み寺と化していた。

「牛鬼?」
 そして興信所の主、草間武彦は訊き慣れないその科白に眉を顰めていた。目の前のソファに腰掛けるのは白無垢の着物に身を包んだうら若き女性。
 名を――椿<つばき>と云った。
 椿は膝の上にちょこん、と手を丸め、小さく首を縦に振る。細くしなやかな筈の手が、アカギレで見るにも痛そうだった。
「牛鬼様にお会いしとう存じます」
 震えるような声だったが、そこには女の秘めがたい意思が含まれていたかのように思われる。
 女の話はこうだった。

――全国各地に牛鬼伝説は存在するが、椿の云う牛鬼は三重県・父ヶ谷の淵に「いた」、牛鬼である。
 顔は鬼の形相、体は牛といった……西洋で云うところのミノタウルスに相当するだろうか。
 近くの村に伝わる牛鬼伝説は「牛鬼退治」として脈々と受け継がれている。
 その昔。山の奥の奥に存在する淵の近くで山仕事をする為に小屋を作って働いていた衆が夜な夜な、恐ろしげな音を聞いた。地を這うような地鳴りのような……何処か淋しげな音だったと云う。
 人間とは兎角臆病な生き物だ。得体の知れぬモノに対しては底知れぬ恐怖と醜さを露呈する。
 そして椿はその牛鬼の花嫁だった。それは村の者から見れば、『囮』とも云われる存在だったのだ。

「牛鬼様は…村の者に怯え恐れられ……そして、喜五兵衛<きごべえ>殿の銃に撃たれて淵に消えもうした……」
 女の手に大粒の涙が一つ落ちた。コチコチコチ……壁に掛けられている時計の針の音がやけに大きく響く。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
 草間は人差し指と中指で眼鏡をスッと上げると奥で僅かに光を点す。
「牛鬼に……仮に会ったとして、貴方はどうなさるおつもりですか? 貴方、実体化してはいらっしゃいますが、元は霊魂ですよね。既に肉体は無いはず…」
 流れるように美しい黒髪が草間の科白にピクリと揺れた。重ねていた手に僅かに力が込められる。
「よく…お分かりになりましたね…そうです、私の肉体はもうありません…。牛鬼様が撃たれたと訊いた後に、牛鬼様が落ちた淵に身を投げもうした…」
「村の人間に無理やり決められた婚約ではなかった、と?」
「初めは無理やりです。嫌でした…恐ろしいと思いました。…ですが、牛鬼様に会って、瞳を見た途端、恋に落ちました」
 女は顔を上げた。その反動で頬をつーっと一筋涙が零れた。
「死ねば牛鬼様に会えると思いました。ですが、死して霊魂となり数百年。未だに牛鬼様に会えませぬ…」
 光を受け入れぬ黒い瞳と整った顔立ち。椿は人を捨てていた。
 このまま彷徨えば村人を祟る怨霊と化すか……それとも夜叉となり堕ちるかのどちらかだ。
――また厄介なのが来たもんだ……
 草間は頭をポリポリと掻いて、煙草を1本咥え、ライターを弾く。

「おい、何かと面倒な一件だが…頼まれてくれないか? 三重県ってぇと遠いし、話に訊く牛鬼淵とやらも大層な場所らしいが、ちょっとした登山とでも考えれば……」
 肩越しにこちらを振り返った草間の科白は真面目に頼んでいるのやらふざけているのやら……。兎にも角にも、この厄介ごとを自分の手から早く他人の手に委ねたいらしい。
「あー…それと。訊いての通りだから、牛鬼を探すヤツとこのお嬢さんの傍に付くヤツと二手に分かれろよ…と、まぁお前たちには蛇足だったかな」
 ふぅ、と吐き出した紫煙がそのまま空気に吸い込まれていく。その様を視線で追うと、椿はぽつり、と零した。

「牛鬼様は何をしたわけでもない…そもそも、何故、外見が異形故に『悪』として裁かれる? 綺麗な顔をして鬼のような所業を繰り返す者はこの世に溢れかえっておるのに……」

――『何故』、と。

 その声は何処となく淋しげで無常に満ちていた。


Scene-1 Silva=J=Rainman

――日本にやって来たのもちょうどこの季節だった。
 窓をカラリ、と開けると触れたら何処までも吸い込まれるような、そんな空が広がっていた。遠く離れていく飛行機雲がやけに薄く見える。差し込むように流れてきた風が銀髪をサラサラと揺らし、男は金色の瞳を僅かに細めた。
 カーテンの横に置いてあるサイドテーブルには写真立てが1つ。中には決して美しくはないが太陽のように微笑む女性と所在なさげに困った顔をする子供が1人。そして、その2人を大切に守るかのように後ろに立った男。
 血に塗れたそれは変色し、セピア色に近かった。男は視線を落とすと、まるで思い出までもが失われた楽園のように思われ、何とも云えぬ感情を覚える。
――狂った愛か。
 男は――シルバ・J・レインマンは窓を離れ、それを手に徐にソファへと腰を降ろした。先日、草間興信所で見た女――椿の瞳が何処か懐かしく思える。
「…ガキに似てるんだな」
 ポツリ、と天井を仰ぎ見ながら零す。何も受け入れない、でも淋しげで狂ってしまいそうな漆黒の眼。色は違えど、昔よく見たあの瞳に似ていた。
「…………」
 シルバはゆっくりと立ち上がる。もうこの世にはいない妻と我が子。狂えるものならこっちが狂いたいと何度願ったことか。
「まぁ、ここで燻ってても仕方ないな……」
 小さく溜息を吐くと男はそっとそれに口付けを落とし、部屋を後にした。


Scene-2 悠久の風

 父ヶ谷へと渡る巨大な吊橋。鉄とワイヤーで作られているそれは路上の部分が網目となっていて、下のダム湖が透けて見える。深く濁った緑の水にプカプカと浮かぶ流木。吸い込まれる、と云うよりかは奈落の底のようなそれは高所恐怖症の人間であれば間違いなく足が竦むだろう。
 シルバはこの悠久の時が流れる風に身を任せ、煙草に火を点けた。遠く高い空を優雅に鳶が舞い、虫の音が僅かに聞こえる。橋は全長100mにも及ぶだろうか。真っ赤な塗装が施されている為、地元の人間はそれを『赤橋』と呼んでいるそうだ(因みに、山の反対側にある大和谷入り口に掛けられている同じ形式の吊橋を『銀橋』と云う)。車で向側まで渡るとシャンシャンシャン……と鉄とタイヤが擦れる音がして何とも恐怖心を煽る。だが、シルバにとっては大して怖くもないものであったし、加えて中々お目に掛かれそうもない橋。歩いて橋の真ん中辺りまで引き返し、自然を満喫しながら一服というワケだった。
 今年の夏は猛暑が続いたというのに、ダム湖の貯水量は中々多い。やはり日本一雨が多い尾鷲を山一つ隔てた場所。都会では降らなくてもこの秘境では生命が息づく雨水が降り注いだのであろう。
 ゆらゆらと立ち上る煙と心地よい風。ともすれば、ここに来た本当の目的を忘れてしまいそうだ。
 シルバは金色の瞳を遠くに掲げながら、空を仰ぎ見る。東京で見たものに比べて秋が近い……ふとそんなことを気づかせる空だった。
「さて、あんまりノンビリしてても仕方がないな」
 ピ〜ヒョロロ〜と鳶の鳴き声が耳に届く中で、シルバは煙草を吹かして踵を返す。視線を橋向、父ヶ谷入り口に向けると、まさに男を呼んでいるかのように険しく覆う雑木林がその口を開いていた。


 戒めの鎖を乗り越え、岩盤を直角にザックリと割ったような……そんな崖道をザッザッと足音をさせて上る。下は50mは有にあるだろう、細い源流と掠れた流木の広がる谷。先ほど、赤橋で煙草を吹かしていたあの時と、気配が微妙に異なることをシルバはもう気がついていた。何かこう……霊的なものが存在しているような空気が躯に纏わりつくような。
「…………」
 別に嫌な感じはしない。だが、この「人を寄せ付けない」閉ざされた自然、とでも云うだろうか。あまり自分には馴染みがなく少々息苦しい。シルバは小さく溜息を落とすと、視線を足元から前方へと上げる。山を上へ上へと登るようなこの崖道が緩やかにカーブを描いて坂となっていた。
「ん?」
 視線をそのカーブに沿って巡らせた男はふと、その先に黒い影を発見する。その影にシルバは眉間に皺を刻んだが、入り口に真っ赤なBMWが横付けされていたのを思い出し、「なるほど」と浅く頷いた。
「唯為か?」
 ちょうど、道の脇に差し掛かろうとしていた沙倉・唯為<さくら・ゆい>だった。こんな山奥でも黒いスーツ着こなし、前のボタンを数個開けている。その格好で今から急傾斜の獣道を下ろうというのだから、中々座った根性だとシルバは苦笑いを零す。
「入り口に派手な車が止まっていたから、まさか、とは思ったが……」
 男の存在に唯為は何ら驚きもせず、逆に肩を大業に竦めて見せると、
「まぁな。牛鬼淵とやらにハイキングだ」
口の端を吊り上げる。相変わらず何処からその自信は沸いて来るのだと問いたいものだ。
「何だな。1人だったら遭難したときヤバイかと思っていたが、これで一安心だ」
 揶揄った口調でシルバがそれを返すと、唯為は全くだ、と嗤った。
 舞い上がる風が2人の髪を揺らす。目の前を防ぐような雑木林を抜け、そして更に谷を北上し、その先が目指す牛鬼淵だ。シルバは途切れた視界の向こうに……金色の眼を貼り付けた。


Scene-3 道なき道のその果てに

 唯為と合流し、谷へと下ったシルバはどうも椿の存在が気になって仕方が無かった。
 角が取れていない岩がゴロゴロとしている川岸を2人は黙々と上流を目指す。所々に大きな流木が無造作に転がっており、何処か原始的な香を2人に与えた。
 牛鬼淵とやらは地図上ではこの先にあると云う。ただし、地元の人間でさえも訪れたことがない秘境の地。そこで牛鬼を見つけ、椿を救うとなると中々骨の折れる作業だろう。
 シルバは肩に引っ掛けたジャケットを揺らしながら、頭の中を幾度となく過ぎる像に眉を小さく寄せた。
「おい」
 ふと、僅かに後ろを歩く唯為が男を呼び止める。シルバは、ん?と肩越しに男を振り返ると、唯為が顎でしゃくって前を見ろと促した。
 これまた自然に相応しくない男が1人が立ち止まっている。厳密に云えば、肩から揺らめく侍を含めれば2人、だろうか。アルマーニの濃いグレーのスーツを上から下までバシっと着こなし、知的な雰囲気を纏う男だった。
「お前も来てたのか」
 同じくスーツに身を包む唯為とは対照的にボタンを上まで留め、ネクタイも締められている。何処か排他的な雰囲気を醸し出す――綾小路・獅王丸<あやのこうじ・しおうまる>。シルバと唯為は彼の姿を見つけると獅王丸と同じような表情をして肩を竦めて見せた。考えることは3人とも同じだったらしい。
「結局、3人ともこっちに来たってワケか」
 赤い小さな石がついたネックレスを静かに揺らして唯為はやれやれ、と息を吐く。
「……となると椿には朔羅しか付いていないのか?」
 シルバの科白に優雅に煙草をふかし始めた2人は、つと動きを止めた。先日の草間の態度からして、あの男が今回の一件から逃げることはあっても協力するとは考え辛い。
 あの猪突猛進、周りは全然見えてませんな椿のことだ。朔羅の目を盗んで再びこちらに舞い戻るという可能性も無きにしも非ず。
 3人が思わず顔を見合わせ眉間に皺を寄せる中、その上空では相も変わらず鳶がのどかに鳴いていた。まるで嵐の前の静けさを物語るかのように優雅に――くるくる、くるくる、と。


Scene-4 椿、その行方

 流石にこのままではヤバイと感じ取った3人は、取り敢えず携帯電話が繋がる麓の村まで1人引き返すことを決めた。東京にいる朔羅と連絡をとって、椿が大人しくしているなら問題ナシ。椿が消えたと云うなら気を引き締めて止めねばならぬ。
 ただ、問題は誰が戻るか、なのだが……。
「俺が戻ると云いたい所だが、牛鬼のツラを拝まないで、もう一度あの山道を引き返すのは遠慮させて頂きたい」
「戻っても構わないが、覇紅がいないと牛鬼は見つけられんと思うが」
 2人は同時にシルバを仰ぎ見る。まるで「オッサン、お願いします」と云った感じに……。
「…………」
 確かにシルバが戻るのが一番早いだろう。格好も去ることながら、元軍人の彼と残りの2人とでは経験に雲泥の差がある。
 男はやれやれ、と大きく息を落とすと、ここで2人に別れを告げることにした。


 取り敢えず父ヶ谷を降りて、ジープに乗り民家のある地域まで引き返してくる。空に上った太陽が傾くのを見ると、シルバはハンドル横のデジタル時計に視線を転じた。――ちょうど16:30pmを回った所である。朔羅に電話して、その後、地域資料館か何かで牛鬼伝説を詳しく洗い直した方がいいな、と男は考えを巡らせながら車を止めた。
 前方に藤色の羽織を着た男が歩いているのである。
「?」
 シルバは怪訝そうに眉を寄せるとジープから飛び降り、歩み寄ってくる人物に目を凝らした。
 繊細な銀髪の髪に大人しめの色で纏めた和装――これからシルバが連絡を取ろうとしていた十桐・朔羅<つづぎり・さくら>である。
「お前…椿はどうした?!」
 僅かに息を弾ませた朔羅はシルバの姿を確認すると、険しい表情を浮かべた。
「椿が消えた…。こっちに向かっている…いや、既に来ているかも知れない」
「何?」
「牛鬼は死してはいない……椿もそれに気づいた筈だ」

 彷徨える魂は飄々と煌々と盲目的に愛する牛鬼を探した。だが、ふと立ち止まって考えてみれば…それはオモチャ箱のように散らかしてしまえば、中には何も残らない。単純な答えさえも見えなく、我を亡くした魂が辿る一途は決まっている。
「椿が本当に彷徨える哀れな魂ならば、自我を手放す前に救ってやりたいものだが…」
 車に揺られながら朔羅はつと零した。その想いはシルバも賛成である。
 だが、牛鬼淵に残った2人は――果たしでどのように考えるだろうか。苦痛の生か安楽の滅か……どちらが正しいとは云えない。
「とにかく、俺たちも牛鬼淵へ急ぐぞ」
 シルバは些か苛立ちを覚えながらアクセルを踏み込んだ。


Scene-5 生きた道、生きる道

――18:50pm
 日がとっぷり落ちた、父ヶ谷山中。
 昼間、途中までシルバが歩いた所為もあって、道に迷うこともなく2人は牛鬼淵へと辿りつけそうだった。
 ただシルバが手にする懐中電灯の灯りだけが頼り、と云うこともあって道中は困難を極めたが。
「…………」
 黙々と歩く朔羅にその先を行くシルバ。
 今宵は新月で月明かりもなく、辺りはヒッソリと闇に包まれていた。
「貴方は椿のことをどう思う」
 朔羅は視線を足元に貼り付けたまま、つと口を開いた。
「嘘だと思うか。それとも哀れな女だと思うか……」
 リリーンリリーンと虫達が思い思いに声を奏で、肌寒い空気が密やかに沈む。その声を遠くに聞きながらシルバは短い沈黙の後、
「嘘かどうかは知らんが、馬鹿な女だとは思うな」
と、小さく息を落とした。
「馬鹿な女?」
 朔羅は顔を上げて先行く男の背中を見た。見慣れた唯為より僅かに身長が高い。
「ああ、馬鹿な女だ。どんな形にしろ、死ぬほど大切なものは手を掴んだら絶対に離すな。てめぇ勝手なエゴで……手放せば二度と手に入らなくなる」
「…………」
「死ねばそこで何もかも、終わりだ」
 シルバは目を伏せた。これは椿への科白じゃない。過去に起した自分への戒め――そう後悔に他ならない。
 シン、と何処までもあるようなないような……そんな闇は不意に心の傷を深く抉り出す。朔羅は男の心中をふと察したのか、敢えてそれ以上は何も訊かなかった。


 歩き始めて約1時間。
 瀬の早い流れが耳に届き、牛鬼淵へ到着を静かに物語っていた。
「獅王丸と唯為が来ている筈だが……」
 シルバが視線を巡らせると、前方にボワンと浮かび上がったような小さな焚き火の灯りが見える。
「唯為」
 2人の姿を見つけると、所々に転がっている老木に注意を払いながらシルバと朔羅はその灯りへ吸い込まれるように近づいた。2人は朔羅の姿に少し驚いたようだったが、2時間ほど前の夕刻に椿がこの淵に現れたことを告げる。意思の強い――まるで別人のようだったと。
「……やはりか」
 朔羅は表情を曇らせ東京で椿と交わした会話を話す。
――椿は天涯孤独の身だったと云うこと。
――ずっと村のものに疎外されて生きてきたと云うこと。
――牛鬼が……彼女の全てだったと云うこと。
 不遇の人生の先に見た牛鬼しか知らぬ哀れな女――それが椿……彼女の云い分を頭から信用するワケでもないが、かと云って無闇に責めることも出来ない。
「椿は既に牛鬼淵の中だ」
 獅王丸が視線を闇の淵に向けながら云うと、シルバと朔羅はその先を見据えた。

 火を取り囲む4人の輪。下から浴びる光が赤くそれぞれを染め上げる。
 唯為は揺らめく炎に椿の狂気を見るような気がした。あの女を止めることが出来るのは……自分たちではない、牛鬼の存在だけだ。ぐっと鞘に収めた緋櫻を握り締め、顔を上げると3人とも意を解したようにコクン、と頷いた。
「朔羅、お前の言霊で牛鬼を呼び起こせ」


Scene-6 胡蝶の夢

 ちょうど、淵を見下ろす形となる岸壁に朔羅は上ると、スと人差し指と中指を揃えて口に添え、瞳を閉じた。声にならぬ『声』を唇から空気に伝える。ヒンヤリと辺りを覆った冷気が静かに風を帯び始めると、途端に底から湧き上がるような呻き声が淵全体に響き始めた。

 ウォォオォオォォォォォ……
 ウォォオォオオォオォォォ……

 思わずコチラまでぐっと来そうな…途轍もなく淋しい声だった。岸壁の真下は水面である。そこからまるで朔羅を呼び込むかのように啜り啼く声……。
 その声に共鳴して緋櫻がドクン、ドクン、と息づき始めるのを朔羅の後ろに控えた唯為は気づく。そして、岸壁の左下の出張った岩には覇紅を従えた獅王丸。そして右下の川縁にはシルバが。
『来るな……』
 覇紅が静かに告げると獅王丸が頷く。シルバ、獅王丸、唯為の視線が一点に――淵の中央に吸い寄せられた。
「古より宿りし誇り高き牛鬼……我の声汝に聞こゆならば其の姿…我に見せ給へ――」
 朔羅が溶け込むように静かに云い放ち、指を唇から外し空に梵字を書き記す。すると、それが合図だったかのように、淵の中央がきのこ雲のように体積を引き摺り球状に盛り上る……!

「!」

 嵐のような水飛沫と共に現れた巨大な黒い影――般若面に闘牛のような2本の角を生やした顔に巨大な牛の躯。塗り潰したような金色の瞳が煌々と光ると、朔羅を見据えた。
『我を呼ぶのは其方か……』
 耳に届く、と云うよりかは直接脳髄に話し掛けられる。朔羅は小さく頷くと、掲げていた手をゆっくりと下ろした。
「私が貴方を呼んだ。……正確に云えば、貴方の花嫁、椿が貴方を捜し求めて…」
 朔羅はそこまで言葉を紡いではた、と止まった。
 荒れ狂う波が漸く収まり、牛鬼の姿が闇夜に浮かび上がる。それは血の涙を流し、懐には人間の頭蓋骨を抱き、後ろ足の1本はもげてしまっていて、ない。
「……椿の骸か」
 その姿を下から見上げているシルバは呟いた。そう…白骨化した髑髏。それは数百年前に今、朔羅と唯為が上っている岸壁から身を投げた椿の骨。
『椿…椿はもういない……』
 牛鬼の光を宿さぬ金色の瞳から溢れるように赤い涙が溢れ、ぽたり、ぽたり、と淵に落ちる。
『椿……大切な我が娘……』
 4人は牛鬼の科白に言葉を失った。椿は自分のことを『牛鬼の花嫁』と云った。だが、娘…とは?

――私はててなし子でした…。母親が神隠しに会い、気絶して村に戻って来たときには既に私を身篭っていたそうです…。

 朔羅の脳裏に鮮明にあのときの椿の科白が蘇る…。
「では、神隠しにあった椿の母は貴方の子を身篭った…それが椿……」
 
 シルバも獅王丸も唯為も、牛鬼の悲痛な叫びが脳髄に叩き込まれる。
 椿が狂ったように牛鬼を求めたのは……唯一の肉親だった、からか? それとも知らず知らずのうちに…それに惹き付けられたのか……。椿のあの盲目的な愛は…椿は父と知らずに愛し、その命を投げたのか?
――余りに…哀れな……
 言葉が出なかった。

 唯為は徐に瞼を閉じる。椿を止めることが出来るのは、牛鬼しかいない。だが、その牛鬼と椿の間には切っても切れない……――決して1つにはなれぬ愛。
 獅王丸も口を噤んだまま…胸が痛かった。血の繋がった……しかも片方はそれを知らぬ。
 思わず、ぐっと握り締めた拳に力を入れた……その瞬間だった。

 直下型地震のように下からズンッ!と突き上げるような衝撃が走る。その揺れに岸壁の際にいた朔羅はバランスを崩し倒れこみそうになるが、唯為が咄嗟に走り寄り、朔羅の身を抱え上げる。
 シルバも身を低く沈め衝撃に耐え、獅王丸も岩から降り、脇にあった老木を支えに屈んだ。
『獅王丸殿…椿だ……』
 清清と覇紅の声が響いた。そして揺れが収まり、4人が顔を上げたその視線の先――淵の対岸に……白い、真白き牛鬼が現れる。目の前にいる黒く年老いた牛鬼よりは二回り程小さいが……闇に映えるその白さ、輝き、そしてヒシヒシと伝わる慟哭…。
「椿……」
 血の涙を流す牛鬼の瞳は既に光を宿していない。まさか懐に抱く白骨の娘が霊魂の白き牛鬼となって現れるなど、考えにも及ばないだろう。

 椿は――この地点で既に椿ではなかったのかも知れない。

 白き牛鬼は耳を劈くような雄叫びを上げると、崖から駆け下り真っ先にシルバの方を目掛けて走り込んで来た。
「チィ!」
 想像以上に早いそれにシルバは咄嗟に身を翻し岩を蹴る。そして懐からコルトパイソン357マグナムを取り出すと、徐に銃口を椿に向けた。
「撃つなッ」
 朔羅は思わず抱え込む唯為の腕を払って身を乗り出した。
「今、撃てば椿は本当に物の怪に堕ちゆくだけだ…」
 消え入るような声で朔羅は云った。
 その様子を見て、唯為は小さく舌打ちを洩らす。あれだけ気をつけろ、と云ったのに、朔羅は既に椿に同情を寄せてしまっていた。
 その間にも、呼び止められたシルバはそのままトリガーを引くことなく突進してくる椿を紙一重で避け、何とか手立てがないものか、と流れる景色の中で強く思う。
「獅王丸ッ!」
 シルバが呼ぶと回り込んでやって来た獅王丸が椿の向こう側に現れる。右手を空に掲げると、覇紅が赤い光を放ちながら徐々に姿を変え……スラリと光る太刀へとその身を変化させた。
「可哀相だが、このままでは埒があかない」
 獅王丸は静かに云い捨てると、ギラリ、と刃を光らせて構える。

『牛鬼様が私の全てです……』

 荒れ狂うように暴れていた椿は、獅王丸に標的を変え凄まじいイキオイで走り寄せた。しかし、獅王丸は眼光を光らせ、スとそれを避けると、椿はそのまま唯為と朔羅がいる――己が淵へとその身を投げた岸壁に体当たりした!

 地が揺れる――。
 破壊できそうにもない強靭な岸壁の岩がぶつかったその衝撃で大きく揺れ…亀裂が走りピシピシと悲鳴をあげて、崩れ始めた。
「クッ」
 岸壁の上にいた唯為は脆く割れ始めたそこから朔羅を守るように抱き寄せ、後ろの林へと引く。すると、椿がダメ押しのように、もう一度岸壁に肩からぶつかると再度牛鬼淵が揺れた――!
「朔羅」
 唯為は朔羅の躯をドンッ!…と林の方へ強く押すと自分はその衝撃で落ち行く岩盤と共に足元を滑らし、淵へと――身を堕とす。奈落の淵……落ちれば二度と浮上出来ないと云われる牛鬼淵へ……。
 朔羅は押された反動から木々の下へと倒れ込んだが、弾かれたように上半身を起す。黒い眼には相変わらず口元に笑みを貼り付けて嗤う唯為の姿。
「……唯為?」
 そして――唯為はそのまま闇の淵へと姿を消した。


Scene-7 もう二度と

 まるで雷が落ちたかのような惨劇だった。
 下にいたシルバと獅王丸も噴火のように降り注ぐ岩を何とか避けながら顔を上げると、水飛沫を上げて唯為が淵に落ちる姿を目の当たりにする。
「唯為ッ!」
 シルバが声を上げると、際まで走り寄った朔羅が咄嗟に自分もその後を追おうと藤色の羽織を投げ捨てた。
「止めろッ。飛び込めばお前まで上がって来れんぞ!」
 シルバは云うが早いか駆け出し、朔羅を止めようと崩れ落ち坂道となった岸壁を駆け上がる。
「シルバ。お前はそこから朔羅を連れて引け。椿は私が仕留める」
 そう云って獅王丸が動きを止めた椿に覇紅を光らせる。燃える様な赤い光を発しながら……。

『椿…椿か……愛しい椿か……』

 まるで老木のように微動だにしなかった牛鬼はそこで漸く声を発した。辺りに木霊するように水面までも揺らす。
『椿よ…我は此処におるぞ……此処へ来てその美しい顔を見せておくれ……』

 牛鬼は「我」とは云っても決して「父」とは云わなかった。牛鬼は既に察していたのだろうか……椿に必要なのは父性ではないことを。
『牛鬼様…牛鬼様……』
 岸壁に数度激しくぶつかった所為で、椿の白い肩からは赤い血が滴っていた。しかし、それに何ら気を止めず、漸く…漸く聞こえたその声に椿は大粒の涙を零し――そして真白き牛鬼の姿から人の……純白の花嫁の姿に戻る。
『牛鬼様…ずっとお慕い申上げておりました……』
 椿は巫女のようにフワリと闇に浮かび、牛鬼の傍に近づく。そして牛鬼が白骨の椿の屍を牛鬼淵に沈めるとその手を蓮の様に美しい椿に差し出した。
『どうぞもう…この手を離さないで下さいな……』


Scene-8 星月夜

 どうやら何とか一段落したと察したシルバは朔羅を連れて獅王丸のいる川縁まで降りてくる。黒く底の見えない牛鬼淵――唯為の姿どころか何も見えはしない。
「潜るか…潜るにしても、生きているならもう浮上してきてもいい頃だが……」
 獅王丸が覇紅の術を解いて、岸へと歩み寄る。
「…………」
 朔羅は声が出なかった。あのとき、自分がシルバを止めなければ、自分が早々に身を引けば、唯為は自分を守って崖から落ちるなんてことはなかった……。あれほど自分勝手な感情を引きずらないように…そう決めていたのに。
 思わずここへ来るまでにシルバが云った科白を朔羅は思い起こす。その様子を見て、シルバは小さく溜息を吐くと
「俺が懐中電灯を持って潜ろう。それが一番確実だ」
ジャケットを脱ぎ、コルトパイソンをその上に置いた。ペンライトを口に咥え、重そうなサバイバルナイフも外し煙草も取り出す。

 しかし、シルバがブーツを履いたまま、水辺リに足を進めると――ブクブクと前方から泡が盛れ、思わず3人の視線はそこに釘付けとなる。
 その小さな泡は徐々に大きくなり、そしてシルバは咥えていたペンライトを手にし、そこへ光を当てると、黒い影が浮上してくるのが分かった。
「ぷはッ!」
 イキオイよく水から頭を出したのはこれから捜索される筈の――唯為。
 プルプルと頭をかぶり振って、大きく息を吐くと、顔を上げこちらを向いた。
「何、3人揃って立っている?」
 唯為は軽く掻いて岸まで泳ぐと、纏わりつく水を鬱陶しそうに振り切り水辺から上がった。
「テッキリ死んだかと思ったが」
 獅王丸はヤレヤレ、と安堵の短い溜息を落とす。すると、唯為は盛大に肩を竦めて見せ、
「阿呆が。誰がこんな所でくたばるか」
水を含んだ重いスーツのジャケットを脱ぎ、豪快に雑巾絞りをした。


Epilogue 深更

『これからは牛鬼様の目となり、この世に留まれるぎりぎりまで傍にいることにします……』

 正気に戻った椿は、牛鬼の肩にチョコンと乗り、幸せそうに微笑んだ。
 椿は己が牛鬼の子だということには気づいていない。先ほどの記憶も曖昧にしか覚えていないようだった。
 椿は牛鬼の血を引いている。恐らく霊魂となっても、半永久的に牛鬼の傍にい続けられるだろう。今後の2人の問題は当人同士で解決するのが一番だ。
 牛鬼は相変わらず厳しい顔とおどろおどろしい雰囲気を身に纏っていたが、彼の心は腐った人間より数倍も慈愛に満ち、驚くぐらい澄み切っていた。

――1つの嘘で1人の女の幸せが生まれるのならば、それもまた一興なり。

 そうして2人は地鳴りのような音を立てながら闇の牛鬼淵へと消えた。


「お帰りなさい、シルバ。今日の夕飯のシチューはね、レイが作ったのよ」
「ガキが?」
「一生懸命作ったんだから、褒めてあげてね」

 まるで昨日のように思い起こす幸せだったあの頃。椿の物映さぬ漆黒の瞳は牛鬼によって色を変えたが、自分には後悔の念しか残っていない。
 妻は銃弾に倒れ、子も行方不明。生きているのかいないのか……それすらも分からないのだ。
「…………」
 吹き抜けるような淋しげな秋の風が男の銀髪を揺らす。
 ただ、この色の無い闇に――一縷の望みを託して願わずにはいられない、そんな夜だった。


Fin


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0900 / シルバ・J・レインマン / 男 / 35 / ブラックリストハンター】
【0579 / 十桐・朔羅(つづぎり・さくら) / 男 / 23 / 言霊使い】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【1004 / 綾小路・獅王丸(あやのこうじ・しおうまる) / 男 / 32 / 天才外科医師】

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■         ライター通信          ■
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* 初めまして、こんにちは。本依頼担当ライターの相馬冬果と申します。
 この度は、東京怪談・草間興信所からの依頼を受けて頂きありがとうございました。
* 今回の依頼は三重県・父ヶ谷に実際に残る『牛鬼伝説』をモチーフとして
 執筆しております。
 ですが、あくまでモチーフはモチーフであって、依頼用にかなり脚色を
 加えておりますので、その点はご了承下さいませ。
(話の通り『椿』や『牛鬼の花嫁』は伝説には一切存在しておりません)
* 物語の全容も含めて、椿や牛鬼に対する感情、行動、進展度などは、
 他の参加者の方のノベルにも目を通されますとより一層楽しんで頂けると思います。

≪シルバ・J・レインマン 様≫
 初のご参加、ありがとうございました。
 設定を拝見させて頂き、大人の雰囲気と過去の後悔を上手く出せたらな、と
 執筆させて頂きましたが、如何でしたでしょうか?
 それでは、またの依頼でお会い出来ますことを願って……
 
 
 相馬