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あなたしかいない(揺らぐ空間)
●放送センターへようこそ
渋谷駅より北西方向に約1キロ、そこには放送局がある。その放送局の名はNHK、日本放送協会だ。朝一番のNHKニュースを見ると、渋谷の映像が映し出されることが多い、これは放送センターが渋谷に存在しているからであった。
真夜中、そのNHK放送センター付近に2人の女性の姿があった。周囲に他に人影は見られないが、遠くからバイクのエンジンの音が聞こえてくる。どこかの暴走好きな輩が、近辺を走っているのかもしれない。
1人はあどけない顔をした黒髪セミロングの女性だった。ミニスカートの紅いスーツでスタイルのよい身体を包んでいるが、正直童顔であるために似合っているとは言い難い。もう1人は切れ長の目で首から僅かに色がかった眼鏡を下げている、中性的な容貌を持つ女性だった。先の女性と同じく黒髪だが、長さはそれ以上であった。
「本当にこの辺りで起こるのかしら」
中性的な容貌を持つ女性、シュライン・エマが疑問の言葉を口にした。いや、疑問と言うよりは再確認と言う方が正しいのかもしれない。目の前の女性、捜査課勤務の警察官である月島美紅と共に導き出したことなのだから。
「事件は起こらない方がいいですけど、起こらないと消えた人たちのこともよく分からないままになっちゃうし……難しいですよね」
神妙な表情で美紅が言った。
何故この時間に2人はここに居るのか、それを説明するには数日前に遡る必要があった。
数日前、裏に草間の手による文章が書かれた月刊アトラス編集長・碇麗香の名刺を持って、美紅が草間興信所を訪れたのがそもそもの始まりである。
その席で、最近頻発している行方不明事件の話を美紅の口より聞かされ、名刺を持ってきてくれた義理もあってシュラインは捜査に協力することになった。すると何と捜査中にも女性が1人、シュラインたちの目の前で消えてしまったのだ。道玄坂のラブホテル街で。
そんなこともあって、シュラインは美紅と関わり合うことになってしまったのだが、先日の捜査の際にある事実を突き止めていた。
事件発生場所と時間を地図にプロットしていった所、奇妙な点に気付いたのである。事件発生時間はほぼ真夜中に集中していたが、事件発生場所は移動していた。近しい所では、渋谷駅方面から緩やかな曲線を描くようにして。
シュラインと美紅は、目の前で起きた事件の場所と、今日までに起きた行方不明事件の場所をその地図のプロットに追加してみた。と、道玄坂での事件の後も緩やかな曲線を描き続け、宇田川町で昨日起きた事件もその曲線の延長線上にあったことが分かったのである。
そこから先となると、大幅に曲がらない限りは曲線がNHK放送センター近辺を通るのは間違いがなかった。それゆえに、シュラインと美紅はこうして張り込むためにやってきたという訳だ。
「あ、警邏は強化されているみたいです。先輩がそう話してましたから」
思い出したように話す美紅。
「先輩って、事務の?」
「いいえ。私と違って、いつも犯人追いかけていますよっ」
美紅がにっこりと微笑んで答える。
(勝手に捜査してるのが見付かると、やっぱり始末書よねえ)
苦笑するシュライン。美紅は捜査課に勤務しているが、している仕事は事務だ。いくら捜査に興味があるといっても、勝手に捜査してはいけない。先日、目の前で女性が消えた時も、シュライン1人でそれを目撃したことにしたのだから。捜査してたことがばれないようにと。
「……あれ、霧?」
美紅がぼそっとつぶやいた。いつの間にやら、周囲に霧が発生していたのだ。シュラインたちを包むようにして。
(この前も確か霧が出た後で女性が消えて……)
はっとして、周囲を見回すシュライン。だが先程までと同じく誰の人影も見られない。鼻で笑うシュライン。
「そうね、偶然なのか……も……!?」
シュラインの顔が強張った。そして両目を閉じて、聴覚に全神経を集中させた。
「嘘……何で聞こえないのよ」
愕然とするシュライン。先程まで確かに聞こえていたバイクのエンジン音が、全く聞こえなくなったのだ。それだけじゃない、他の物音――生活音も聞こえてこないのだ。シュラインの聴覚をもってしてもである。
やがて霧が晴れ、渋谷の街が再び姿を見せた。が、微妙に違和感がある。美紅も気付いたのか、困ったような表情をシュラインへと向けていた。
「行きましょ。ちょっと確かめたいことがあるの」
シュラインが美紅の腕をつかんで、歩き出した。向かう先は、渋谷駅前――。
●誰もいない街・渋谷
「ここ……渋谷、ですよね?」
美紅が信じられないといった表情で、シュラインに尋ねた。シュラインが表情も変えずに答える。
「そうよ、渋谷だわ」
そう言ってから、声のトーンを落として一言付け加えた。
「……建物だけは、ね」
渋谷駅前に戻ってきた2人は、信じられない光景を目にしていた。正確にはその途中でも目にしてはいたのだが、決定打となったのがこの渋谷駅前の光景だったという訳で。
渋谷駅前には誰の姿もなかったのだ。スクランブル交差点を渡る歩行者も、車道を走る自動車も、何もない。あるのは見慣れたいつもの建物ばかりであった。
「……私たちが行方不明になっちゃったんですか?」
美紅が不安そうにつぶやいた。ミイラ取りがミイラとはこのことを指すのだろうか。だが恐らくは美紅の言う通りなのだろう。目の前で女性が消えた時と同じく、霧が発生したのだから。
「ねえ、美紅さん。前の調査で出た、ここを脱出した方々に聞き込みはしたの?」
しかしシュラインは慌てることなく、美紅に質問を投げかけた。
「えっ? あの……すみません、出来てません……」
首を竦め、次第に声の小さくなってゆく美紅。シュラインがこめかみの辺りを指先で掻いた。
「下手に動けないことは分かるけど……」
シュラインは途中で言葉を止めたが、その後に『それくらいは調べてほしかったかも』と続くのはほぼ明白だった。
(そうすると、脱出方法は分からないのよね)
そう、どうすれば元の世界に戻れるのか分からないのだ。しかし脱出した者が居る以上、何らかの手段があるはずだ。
また、これはチャンスかもしれなかった。草間たちがこの空間に居ると仮定するならば、上手くゆけば捜し出せるかもしれないからだ。それに先日のメモといい、名刺といい、仮定が成り立つのであれば、この空間と元の世界は接触を失っていないということでもある。
「まさか、偶然元の世界と重なるのを期待してメモ置いてみてるのかしら……」
ふとシュラインが言った。もしその通りだとしたら、目論見は成功してはいるのだが……。
「何なんでしょう、この世界」
美紅はきょろきょろと辺りを見回していた。物音のしないこの空間に居ると、落ち着かないのかもしれない。
「何なのかしら。自然発生的な物なのか、それとも意図的な物なのか……それも分からないわよね」
そう答えながら、シュラインは別のことも考えていた。自然発生的な空間であれば、3人はわざとこの空間へ入り込んだのかもしれない。何かのほとぼりを冷ますために。が、意図的な物であるならば、3人は引きずり込まれたと考えられる。恐らくは、姿を消すきっかけとなった相手の手によって。
(後者だと、メモが罠の可能性もあるけど、あれは確かに武彦さんの文字。内情にも詳しかったものね……)
罠の可能性も頭をよぎったが、シュラインはすぐにそれを打ち消した。と、その時だ。
「あっ、あそこに人影が……!」
センター街の方を指差して、突然美紅が叫んだのだ。シュラインもそちらを向いたが、一瞬だけ人影らしい物が見えた。
「もしかすると、ここから脱出する術を知ってるかも!?」
美紅が期待に満ちた眼差しをシュラインへと向ける。確かにその可能性はあるかもしれない。
「追いかけてみましょうよっ!」
そう言う美紅は、今にも走り出しそうな勢いであった。シュラインが小さく頷いた。
「いいわ。見えた人影追ってみましょ」
●人影を追って
追いかけることを決めた2人だったが、素性の分からぬ相手だ。追いかけるにせよ、慎重にならざるをえない。
「無闇に近づくのは危険かもね……しばらくは距離を取って追いましょ」
シュラインはそう美紅に言って、人影の見えた方へと小走りに進んでいった。美紅もその後を追ってゆく。
人影の見えた場所まで行き、周りを警戒しつつ見回すシュラインたち。もう人影は見えない。だがシュラインは聴覚に意識を集中させ、人影の足音を追ってみることにした。これだけ静かなら、かなり鮮明に音を拾えるはずである。両目を閉じ、口元をぎゅっと結ぶシュライン。
「……居たわ!」
そしてシュラインは、遠ざかる足音を拾うことに成功した。音の距離と方角からすると、最初に自分たちが居た場所、NHK放送センターへ向かっているようであった。それもまだそう離れていない。今から追えば、間違いなく追いつけると思われた。
「向こうですねっ! 早く行きましょう!」
一足先に走り出そうとした美紅。だがシュラインがそれを制した。
「待って! 何これ……足音の他に別の……スパーク音……?」
シュラインの耳に、足音に混じって電気がスパークした時の音が聞こえていた。それも断続的に。
「でも、早くしないと、振り切られちゃいますよ!」
結局、先に走り出す美紅。シュラインはふっと溜息を吐いて、美紅の後を追って駆け出した。
●揺らぐ空間
NHK放送センター方面へ向かうシュラインと美紅。妙に距離が長く感じたが、確実に放送センターへと近付いていた。そして――。
「居ましたっ!」
放送センターが見えたその時、美紅が遠くを指差して叫んだ。そこには白いシャツの上に青いジャケットを羽織り、ジーンズを履いて頭に紅いバンダナを巻いている茶髪短髪の青年の姿があったのだ。
「居たけど……危険だわ」
しかしそこに居たのは青年だけではなかった。青年を取り囲むように、何故か鎧武者が何人も居たのだ。青年はそれら鎧武者を撃退しようとしていた。
「たっ……助けないと!」
美紅が青年の方へと駆け出してゆく。シュラインが背後から叫んだ。
「待ちなさいよっ! 助けるって……何か武器持ってるんでしょうねっ?」
「ありません! けど、警察官として、見過ごす訳にはいかないじゃないですかぁっ!」
何と、美紅は武器もなしに青年を救い出そうとしていたのだ。
(ああ言われたら、引き止める訳にいかないじゃないの)
シュラインは覚悟を決めて、美紅の後を追った。2人と鎧武者に取り囲まれた青年との距離が次第に縮まってゆく。そして鎧武者も2人がやってくるのに気付いたようで、2人の方へ振り返ったその瞬間だった。
「散れ!!」
青年の手から青白い稲妻が放たれ、鎧武者の1体に命中した。霧散する鎧武者。青年は次々に、鎧武者へ稲妻を叩き込んでゆく。やがて全ての鎧武者が霧散した。その場に静寂が戻った。
「大丈夫?」
青年のそばへとやってきたシュラインが声をかけた。
「……ええ、大丈夫です。けど、少し力を使い過ぎたかもしれない……」
青年はそう答えながら、肩で息をしていた。
「凄いですねっ! どういう芸なんですかっ?」
美紅が驚きの表情を青年へ向けていた。
「芸って……」
苦笑するシュライン。あれは芸とは言わないだろう。
「それはそうと」
シュラインが青年へと向き直った。
「……どうしてここに? 勝手に連れてこられたの?」
シュラインが青年にこの空間へ入り込んだ経緯を尋ねた。青年は少し言いにくそうにしていたが、結局は経緯を話し始めた。
「深入りをしすぎたらしくて……罠にかけられたんですよ」
(罠? 誰かがこの空間の制御を担ってるってことなのかしら)
怪訝な表情を浮かべるシュライン。すると突然青年が叫んだ。
「どいて!」
「え?」
青年がぐいとシュラインを押し退け、右手を前方に突き出した。先程のように青白い稲妻が放たれる。それはいつしか背後から現れていた鎧武者へと叩き込まれ、たちまち霧散した。
「倒しても倒しても出てくるんです。鎧武者だけじゃない、幽霊や妙な化け物……きりがなくて」
忌々し気につぶやく青年。シュラインは周囲を警戒しながら、青年の話を聞いていた。
「どうやって脱出するかも分からないし」
「分からないんですかぁ……」
がっくりと肩を落とす美紅。と――不意に周囲の空間が揺らいだ。
「何だ?」
「何ですか?」
驚きの声を上げる青年と美紅。
「あっ……」
シュラインも短い声を上げた。だが空間が揺らいだことに対してではない。放送センターの敷地内、そこに見覚えのある顔が3つあったからだ。草間、麗香、そして三下である。向こうもこちらに気付いているようで、何やらこちらを指差している。シュラインの顔がほころんだ。
(やっぱり居たのね!)
3人がこの空間に居ることは明らかとなった。が、シュラインの喜びも束の間。すぐに3人の姿は見えなくなった。代わりに、シュラインの耳に聞こえてきた物があった。バイクや車のエンジン音だ。
「エンジン音が……聞こえてるわね」
シュラインが、美紅が、そして青年が周囲をきょろきょろと見回した。近くを若いカップルが平然と歩いている。どうやら元の世界へと戻ってこれたようだ。
「どうして戻ってこれたかはよく分からないけど……とにかく報告しないと。2人とも、どうもありがとう!」
青年がシュラインと美紅に礼を言い、その場から走り去ろうとした。慌てて美紅が青年に声をかけた。
「あなたのお名前はっ?」
「武人、西船橋武人!」
ちらりと振り向いて青年、西船橋武人が叫んだ。武人の姿はたちまち暗闇へと消えていった。
「でも……何者だったんでしょう?」
美紅がシュラインに尋ねた。当然、シュラインにも分かるはずがない。分かるのは、武人がただ者ではないということだ。
「気のせいかもしれないけどね」
シュラインはそう前置きしてから、言葉を続けた。
「何だか大きな事件に巻き込まれつつあるんじゃない? 武彦さんといい、アトラスといい、私たちといい……そういう運命なのかしら」
シュラインが大きく溜息を吐いた。
【了】
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