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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


兎目の石


「ちょいと、お兄サン、月の石ってのを知ってるかしらねェ?」
 やけに馴れ馴れしい態度で話しかけてきたのは、水商売上がりと解るような徒っぽい女だった。年の頃は四十過ぎだろうか。だが、長年の化粧で痛んだ肌は五十過ぎにも見える。色の抜けた髪は艶がなく、きめの粗い肌と相まって女を乾燥した印象に見せていた。
 俺はゆっくりと足を組み替えながら首を横に振った。
「いいえ、存じません」
「だろうねェ。アタシも知らないのさ」
 喉の奥で引きつった笑い声をあげ、女は身を乗り出してきた。
「だからね、お兄サン。それを探して欲しいのさァ」
「料金の方はどのようにしてお支払いいただけますでしょうか」
「その月の石をあげるよォ。アタシはそれが見たいだけなんだから、手に入らなくたって構やしないのさァ」
「わかりました。では早速、調査に」
「あァ、そうだ。お兄サン。兎に気をつけなさいよォ」
 そう言って、死んだ女は姿を消した。現れたときと同様に。
 残された俺は行動を共にしてくれる調査員を捜すことから始めなくてはならなかった。





 秋雨前線が停滞している。そのおかげでここ十日は雲の切れ間を覗いたことがない。全く、鬱陶しい。天候は人の気分にも影響を及ぼす。それは俺の雇い主、草間氏も同様のようで。
「変わった依頼人ね」
 ノックもせずに扉を開けた女を見て、草間探偵は思わずため息をついていた。相変わらずというか何というか、聴力が良すぎると言うのもかなりの問題がある。俺はソファに寝そべったままからかい混じりに声をかけた。
「盗み聞きかい?」
「見くびらないで。これを持っていこうと思ったのよ」
 そう言って女は左手に持っていた盆を掲げた。その上には茶筅に乗った茶碗が二つ。殊勝にも草間探偵と依頼人に給仕してくれようとしていたらしい。当然ながら、俺の分の茶碗はない。
 女、我が興信所のボランティアスタッフであるシュライン・エマ嬢はつかつかと机の前に歩いてくると、空いていたスペースに盆を置いた。そして依頼人が腰掛けていた椅子を一瞥する。すっきりと整った容貌のエマにはふさわしい仕草だ。
「この依頼、どう片づけるつもり?」
 机に頬杖をついて、草間探偵は一人で茶碗を傾け始めた彼女を見上げた。自然と上目遣いになった彼に何かを感じ取ったらしく、エマは唇の端を引き上げるように微笑んだ。
「私がやっても良いってワケね」
「予備調査だけで良い。頼めるか?」
 エマは微笑みを湛えたまま頷き、空になった茶碗を茶筅に戻した。
「引き受けたわ。これで私もボランティアから解放されるし、あんたも久しぶりの調査活動に出られる。何の不都合があるというの」
「そう言うと思ってた。今回は少しややこしいから、上総と一緒に捜査に当たってくれ。とりあえず、調査方針だけ固めておこう」
 おっと、俺の出番だ。寝そべっていたソファから体を起こし、エマの隣に立つ。
「今回は、依頼人に月の石を見せる、というのが目的ね。月の石がなんなのか解らないけれど、それを無理に購入したりする必要はない……あら、ちょっと待って」
「そうだ。この依頼人は期限を明確にしなかった。更に、依頼人が再び訪れるのがいつどこかというのも解らない」
「……依頼人の身元調査も必要ってことかしらね。とすると、月の石の捜索と、身元調査が必要ってことになる」
 草間探偵は大きく頷き、調査依頼書にその二つを書き込んだ。依頼人の氏名住所年齢は不明なので空欄のままだ。
「依頼人は、この興信所が『そういった』関係の事件も手がけていると言うことを知っていた。更に、この場所も知っていた。大通りから外れて目立ちにくいこの場所を、だ。つまり、この近所に住んでいたか、働きに来ていたと思われる。恐らく、働きに来ていたんだろうな」
「どうして解るの?」
「この辺りで葬式が出たという話は聞いてないからさ。だから、この近辺の飲み屋の関係者に聞き込みをすれば身元は判明する……」
「甘いわね。かつての依頼者の知り合い、という線もあるわ。始めから断定してかかるのは危険よ」
 俺はエマの台詞を鼻で笑い飛ばした。
「しっかりしろよな。ここは話を聞いただけ、地図を見ただけで解るような場所か? 看板もない、番地の標識もない、周囲にあるのは怪しげな飲み屋ばかり。この辺りの関係者じゃなかったら解らないだろ」
「生前に案内されていたのかも知れないわ。それに、相手は幽霊なのよ? 人間の常識で計る方がどうかしているわ」
 眼鏡を押さえて、草間探偵はため息をついた。
「……じゃ、アプローチの方法を変えよう。依頼人のアクセサリーだ。依頼人は指輪とネックレス、ピアスをしていた。指輪は恐らく銀の台座だった。ネックレスとピアスは金。そして、全部同じ宝石を使っていた」
「同じ宝石?」
 依頼人の背中しか見えなかった俺は首を傾げた。指輪らしきものをしていたのは見えたが、ネックレスとピアスまでは確認できなかったのだ。
「そうだ。サファイアだ」
「よっぽどサファイアが好きだったのね」
「サファイア……ねぇ」
 茶碗を手に取り、俺はすっかり温くなった煎茶を口にした。窓の外から野良猫の鳴き声がする。また縄張り争いか。聞き苦しい声にエマが眉間にしわを寄せていた。
「依頼人はサファイアを好んだ。何故か。単に好きなだけならピアスにまでサファイアをつけるだろうか?」
「……私ならつけない。指輪をネックレスに同じ宝石をあしらうなら、ピアスにまで使う必要がないわ。くどいだけよ。金とサファイアという組み合わせはネックレスで使っているのだし」
「そう。だから、依頼人が生前、単にサファイアを好んだとは考えにくい。ちゃんとした理由があるように思われる」
「サファイア……中世ヨーロッパでは魔よけとして使われていたわね。戦場に向かう騎士の中には、剣や兜にサファイアをつけたという話もあるくらいよ」
 さすが本業翻訳家と言うところだ。その話は知らなかった。俺が感嘆の声を上げると、エマはふと気づいたように目を開いた。
「サファイアは誕生石にもあったわね。9月だったかしら……ええ、確かそうよ」
「それだな。魔よけなら一つか二つ、身に帯びていればいい。だが、誕生石となれば自分をアピールするのにも役立つ」
「そうね。それに、誕生石を身につけていると魔よけにもなると言うわ。それの意味もあって依頼人はサファイアを身につけていた。それにサファイアには乙女座の守護石という意味もあるから、依頼人は9月1日から23日までの間に生まれているわ」
 これで随分と範囲が狭まった。俺は指を鳴らして一つずつ条件を列挙した。
「つまり、依頼人は水商売で四十歳から五十歳の間、この近辺で仕事をしていた、9月生での乙女座。特徴はサファイアのアクセサリー。少し聞き込みをすれば解るだろうな、これだけ手がかりがあれば」
「でしょうね。そっちはあんたに任せて、私は月の石を探すとするわ」
 そこでエマは人差し指を唇に当て、思案深げに目を伏せた。青い瞳に影が落ち、深い紺色に見える。
「月の石……どういう意味かしら」
 俺はエマと同じように首を傾げた。
「言葉の意味そのまま……ってワケじゃないだろうな。本物の月の石は上野の国立科学博物館に二つも展示されている。だから、月面で採取された『月の石』じゃない」
「それに、宝石のムーンストーンでもないでしょうね。サファイアの指輪やネックレスを買いにどこへ行ったのかは知らないけど、宝石店へ行けばムーンストーンのアクセサリーぐらい置いてあるわ。だから、依頼人は何かを『月の石』と喩えた……そう考えるのが一番正解に近そうね」
「そして、その『月の石』には兎が関係している。これも手がかりになるな。兎なぁ……耳が長いヤツとか、目の紅いヤツということか? 月と兎じゃ、餅つきぐらいしか思い浮かばないな」
 空の茶碗を茶筅ごと盆に乗せ、エマは涼やかに笑った。
「月の参考文献を当たるのが一番のようね、あんたと話していても進展はなさそうだし」
 一言余計だという間もなく、彼女はほっそりとしたその姿をドアの向こう側に消していた。相変わらず腰が軽い。舌打ちした俺は、ソファに置いていた小さなウェストポーチを拾い上げ、扉に手をかけた。
「上総。解ってるな?」
「兎に気をつけろ、だろ? 解ってる」
 ひらひらと手を振り、俺はそこを後にしたのだった。




 九月半ばの午後四時過ぎ。
 草間興信所を出て、白とブルーの傘を差したシュライン・エマは大通りへ向かった。依頼人の言う「月の石」が何であるかを調査するため、まずは図書館へ向かうのが手っ取り早い。そう考えたのである。
 月の石、とは何だ。何かの比喩表現だとして、石はそのまま「石」を示した物だと思われる。もしくは、それに類する鉱物。依頼人が帯びていたというサファイアも鉱物の一種だが、そうすると随分と幅が広がる。そして何を「月」と喩えたのか。
 大通りを歩いて、地下鉄の駅へ続く階段を駆け下りる。改札をカードでくぐり抜けてホームへ出ると、ちょうど列車が到着したところだった。それに飛び乗り、走ったせいで乱れた黒髪をなでつける。目の前で手すりにもたれかかっていた男が、おやというような顔をした。エマの黒髪碧眼という珍しい取り合わせに気づいたのだろう。
 それをさりげなく無視して、ショルダーバッグから手帳を取り出した。前回の調査から今日でちょうど二ヶ月目。その間、興信所に全く客足がなかったわけではない。エマの興味を引く事件がなかったのだ。胸の奥が沸き立つのを覚えながら、彼女は手帳のページをめくって今日の日付に印を付けた。
 三つ目に停車した駅で列車を降り、改札をくぐり抜けて階段を上る。そこから五分ほど歩いて図書館へ入る。
 そう言えば、と内心で首を傾げた。依頼人はこんな昼日中に現れた。まだ夕方には早すぎる時間だ。死んでいるのなら、あそこに現れた依頼人は幽霊と言うことになる。雨の日は幽霊が現れやすいと言うが、これは珍しいのではないだろうか。それとも、幽霊は昼日中でも関係ないのか。
 エマは天文のコーナーに向かいながら、幽かに首を振った。依頼人の身元調査に関しては上総に一任したのだ。自分が関わる筋合いのことではない。エマがすべきことは、「月の石」に関する調査を一刻も早く完遂することだけだ。
 月面調査や月の謎とタイトルにある本を適当に取り、更に民族学のコーナーへ向かう。そこから宗教・神話に分類された本を取りだして、空いている席に腰を下ろした。首から下げた眼鏡をかけ、最初に開いたのは月面調査に関する考察書だった。つまり、アポロ計画に関する本である。月の成立過程から始まり、大きさや自転・公転速度、朝夕力に関して事細かに書かれている。だが、その本から解ったことと言えば、いわゆる「本物」の月の石は玄武岩である、ということぐらいだった。正確には玄武岩に類似した石、である。珪素を主成分としているとことと、酸素と結合して酸化物に変化していると言うことも解った。
「でも、これは違うのよね……」
 そういった月の石なら上野に行けば見ることが出来る。死んでまで見たいと思わせるような物ではない。
 エマは小さなため息をついて、天文関係の本を脇へ退けた。そして、世界の神話を集めた本を開く。目次から月に関係すると思われる項目を探し、斜め読みしていった。ギリシャ神話に出てくる月の女神アルテミス、エジプトの月の神はヒヒのトト神、インド神話では万物の生命の源としての月を司るソーマ神などが有名だ。だが、これらに「石」と関連づけられる伝承はない。更にページを繰り、東洋の神話・伝説の項目を開いた。
「呉剛……?」
 ごごう、と振り仮名が振ってある。エマがその名前を呟くと同時に、館内に蛍の光が流れた。まもなく閉館です、と告げるアナウンスに、周りの人々が一斉に身支度を始める。慌ててエマは天文学の本を棚に戻し、神話・伝説の本だけを持って貸し出しカウンターへ急いだ。同じように読み切れなかった本を借りていこうとする人々が列を作っている。貸出票に記入をして列の最後尾に並びながら、もう一度先ほどのページを開いた。
 中国の伝説に曰く、中秋の夜半、霊隠寺という寺の僧侶が屋根を打つ水滴のような物音を不審に思って庭へ出ると、そこには色とりどりの粒が散らばっていたとある。その粒は美しく冷たい光を放っていた。その僧侶がそれらを拾い集め、翌朝、和尚に見せたところ「月にあるという桂の大木から落ちてきた物だ」と言う。
 固く、色のある、粒。
 カウンターに貸出票を提出して、その本を借り出しながら、エマは不思議なほどに確信していた。これが「月の石」に違いないと。資料に依れば、それは月の桂、すなわち月桂樹の種とある。だが、色を持ち、光を放つというのであれば、それは宝石のことではないだろうか。ならば、石という鉱物にも当てはまる。
 だが、まだ調べ始めたばかりなのだ。断定してかかるのはマズイ。図書館を出て、傘越しに薄暮の空を見上げながら携帯を取り出す。リダイヤルで上総を呼びだした。
「私よ」
「ああ、今どこだ?」
「図書館。『月の石』の手がかりらしき物を見つけたわ。そっちはどう?」
「依頼人の身元が分かった。やっぱり近くの飲み屋のママだった。ところで、この後の予定は?」
「夕飯の買い物をしてからそっちへ行こうと思ってる。冷蔵庫の中、空っぽなんだもの、しょうがないでしょう」
 電話の向こうで、上総が苦笑する気配がした。彼の後ろはやけに騒々しい。繁華街にでもいるのだろうか。
「今、その飲み屋の近くにいる。良ければ夕食を奢るぜ。依頼人と生前親しかったという男のいる店だ」
「……それは良いけど、その店、汚い場所じゃないでしょうね?」
 場末の食堂や飲み屋には、時々アレがいることがある。そんな場所に赴くのは御免被りたい。それを察した上総が、小さな笑い声を立てた。
「いいや、割と小綺麗な店だな。流行のレストランバーっぽい感じの店で、名前はフル。看板にはPhuleと出ている」
「解ったわ。場所は?」
 興信所近くの番地を言われて、エマは慌てて手帳にメモを取った。興信所から歩いて十分ほどの場所だろうか。確かに、近い。
 上総は先に行っていると告げ、電話を切った。エマは携帯を借りた本と一緒にショルダーバッグに放り込み、地下鉄の駅へと足を早めた。




 午後六時過ぎ。この界隈じゃ珍しいレストランバーと言うこともあり、店はかなり賑わっていた。会社帰りの若いサラリーマンが多いのは、多分に立地条件によるものだ。女性が店の周囲にある一見いかがわしい飲み屋をくぐって来るには、かなり勇気がいる。それを考えれば、随分な客の入りだ。
 だからだろう。エマが店のドアを開けて中に入ってきた瞬間、客の視線が彼女に注がれた。今、店内にいる女性客の殆どは、営業時間前の飲み屋の従業員か、数人のグループ連ればかりだったからだ。一人のエマに視線が向くのは当然だろう。
 俺は店の奥のテーブル席で、軽く右手を挙げて合図をした。それに気づいて、エマが颯爽と歩いてくる。
「お待たせ」
 若い従業員にドライチンザノをオーダーして、肩からバッグを降ろす。椅子に腰を下ろして、メニューを手元に引き寄せた。
「それで、依頼人の身元調査が終わったそうね? 教えてちょうだい」
「ああ。名前は水野礼子。この店の斜向かいにある『レイナ』のママだった女だ。結婚はしていないが、内縁の夫……いわゆるヒモがいる。水野礼子はその気っぷのいい性格で、この辺りじゃ知れた顔だったらしい」
「そんな人を知らなかったの? 情けないわね。あんたも武彦さんも」
「財政状況に文句を言ってくれ。で、店の経営も上手くいっていたし、トラブルらしいトラブルもなかった。ところが、三日前から行方不明なんだ」
「……もう死んでるじゃない」
 呆れたように言われて、俺は肩を竦めるしかなかった。
「店で働いていたホステスが、三日前からママと連絡が取れないと言うんだ。さすがに、彼女は死んでます、とは言えないだろう? それじゃこっちが犯人にされそうだ」
「まぁ、そうね。で、この店の誰が水野さんと親しかったの?」
 少し身を乗り出していたエマは、店員がグラスを運んできたのでやむなく体を引いた。俺はそいつに、鶏レバーのフォンダン仕立てと兎のゼリー寄せをオーダーした。その店員が立ち去ると、エマは身を乗り出して眉間にしわを寄せた。
「兎に気をつけろと言われておきながら、わざわざ兎を食べるの? 悪趣味ね」
「そう言うな。『兎』については見当がついてるんだ。本物の兎じゃないから安心しろ」
 そう言って、俺はカウンターを見た。視線を追って、彼女もそちらを見る。
 カウンターの中では、一人のバーテンダーがシェイカーを振っている。硬質なものを連想させる金髪が揺れていた。口元には人当たりのいい笑みが刻んである。
「あいつが店のマスターだ。本名は不明。去年の秋にこの店を出したそうだ。マスターとかオーナーとか呼ばれている」
 エマはふぅんと生返事を返し、小さなライトに照らされる金髪のマスターを眺めた。
「マスターと水野礼子の接点だが、誕生石のサファイアを身につけるようにアドバイスしたのがマスターだったらしい。水野礼子はこの店に何度か来たことがあって、そのときにアドバイスされたみたいだ。それから二人は親しくなって、水野礼子がマスターに酒を奢っているところを何人かが目撃している」
「酒を? 金品じゃなくて?」
「ああ。酒を。それもワンカップみたいな安酒じゃない。京都の貴船水系の湧き水で作られた日本酒、それも大吟醸だ」
「……どういうこと? 銘柄じゃなくて水で選んだと言うこと?」
「そのようだな。それに、水野礼子が失踪した日、この店に来たという目撃証言もある」
 エマは何度も頷き、ドライチンザノのグラスに口を付けた。そこに先ほどオーダーしたオードブルが運ばれてきて、途端にテーブルの上が手狭になる。
「で、そっちは?」
 俺が尋ねると、彼女は口端だけで笑った。青い目にテーブルランプの炎が映っている。それが挑戦的に瞬いた。
「一つ、気になる話を見つけたわ。呉剛の伝説よ」
「ごごう?」
 俺が首を傾げると、テーブルの上に指で漢字を書いた。
「呉剛は月の宮殿で庭師をしているの。月の桂、つまり月桂樹の手入れを任されていて、毎日剪定をしているのよ。中国の伝説に、中秋の夜、あるお寺の庭先にその桂の種が降ってきたという伝説があったわ」
「種? 石じゃなくって?」
「ええ。でも、その種は色とりどりで、美しい光を放っていたそうよ。まるで宝石のようにね」
「なるほど……」
 比喩表現なら、宝石のような種を「石」と喩えるのもありだろう。俺は頷き、レバーを一切れ、口に放り込んだ。こんな場所にある店にしてはなかなかの味だ。
「だが、そうすると『月の石』はどうやっても見ることが出来なくはないか?」
「そうなのよね」
 ため息をついて、エマはゼリー寄せをナイフで切り分けた。
「完全に方法がないわけじゃないの。その伝説によると、月の桂の種はそのお寺の周囲に蒔かれて、一年で立派な大木になって色とりどりの小さな花を付けたそうよ。今もそのお寺は桂の木で有名で、毎年中秋の頃に花を咲かせているらしいわ」
「……中国までその種を取りに行くのかよ」
「渡航費用は出るの?」
「……出ない」
 真っ当な依頼の絶えて久しい我が興信所の財政状況は、かなり厳しい。外食程度ならばともかく、中国までの往復渡航費用となると難しい。思わず頭を抱えた俺にため息をついて、エマは店員にウィスキーの水割りをオーダーした。
「で、『兎』は何だったのかしら?」
「ああ……それは」
 エマに耳を寄せるように手招きして、俺も身を乗り出した。




「水野礼子を殺したのはあんただな?」
 にっこりと、Phuleのマスターは笑った。自分のしたことに欠片ほども罪悪感を抱いていないような、そんな無邪気な笑顔だ。
 俺は思わず舌打ちをして、エマを連れてきたことを後悔した。この手のタイプは質の悪いのが多い。エマに危害が及ぶかも知れなかった。そうすると、あの美味い肉じゃがが食べられなくなる。食糧事情も踏まえての舌打ちだった。
「水野さんにはお世話になりました」
「なら、どうして殺した?」
 二十代後半とおぼしきマスターは、赤子のように無邪気に笑う。
「水野さんが私と一緒になりたいと言ったんですよ。だから」
「だから殺したの? 意味が分からないわ」
「私と一体になりたいと望んだのは彼女の方なんですよ?」
「お前と、一体になる?」
 言葉の真意を測りかね、俺は眉間にしわを寄せた。マスターは小首を傾げ、閉店後のフロアで唯一のライトを見上げた。
「人は死なないと、私と一体になれないんですよ。お世話になった水野さんだから、私はその願いを叶えてあげようと思ったんです」
「訳が分からないわ!」
 吐き捨てるようなエマの言葉に、マスターは寧ろ困ったような顔をした。何故、彼女が激高するのか解らないと言った顔だ。
「私が月に帰るために手を貸してくれた水野さんだから、私は一緒になりたいと言った彼女の願いを叶えたんです。それだけのことでしょう?」
 こいつは、本当に解らないのだ。
 俺は慄然として、つばを飲み込んだ。
「水野礼子の死体は、どこにある?」
「ここですが?」
 そう言って、マスターは自分の腹の上に手をおいた。意味を悟ると、エマはせり上がってくるものを堪えるように口を手で覆った。俺も知らず一歩退き、顔を歪めた。
「……喰った、のか?」
「ええ。死んだ人は私の食料ですから。私と一体になってるでしょう?」
 そう言う意味か。
 再び唾を嚥下して、俺は掠れそうになる声を振り絞った。
「兎の分際で」
 そこでようやくマスターの顔に緊迫感らしきものが浮かんだ。だが、それはほんの一瞬でかき消え、また笑みを浮かべる。
「何だ、ご存じじゃないですか。私は月に帰りたいんですよ。月の兎ですから」
「……本気で言ってるの?」
 震える声のエマにマスターは微笑んだ。常日頃は理性的な彼女も、さすがにこれは堪えているようだ。
 水野礼子は生前、この男のことを兎と呼んでいた。それを彼女の店のホステスから聞き出した俺は、最初は洒落だと思った。だが、水野礼子に近づいたとき、兎は自分が月へ帰るために協力して欲しいと持ちかけたと聞き、嫌な匂いをかいだのだ。
「私はね、ヒキガエルと一緒にいるのが嫌になって地上に来たんですけど、やっぱり長年暮らしていた場所が恋しくなりましてね。その話をしたら水野さんは喜んで協力してくれましたよ。月へ帰るために、大きな木を育てなくちゃいけないんです」
 息を呑み、エマが一歩進み出る。
「それって月の桂の木のこと? やっぱり、『月の石』はその種だったのね!」
「ああ、よくご存じですね。ええ、その通りですよ。あの木は我が儘でしてね、綺麗な水でないと育たないのですよ。昔はどこに出もあったんですが、今は探すのが難しくて」
「それで、貴船水系の水で造った酒、だったワケか……」
「ええ。あそこの水は月の力を得ていますからね、ちょうど良かったんですよ」
 マスターはにっこりと笑い、俺たちに飲みますか、と尋ねてきた。答えを聞く前に、グラスを二つ出してきて、ラベルの貼ってないボトルから水を注いだ。
「どうぞ」
 断る方が怖くて、俺はグラスを手にした。エマも同じようにグラスを手にして、そっと口を付ける。水は湧き水の甘い味がした。柔らかな感触さえ受ける。
「美味しいでしょう? 月の桂もこの水が好きでしてね、たくさんやるんですよ。でも、まだ足りなくて、なかなか大きくならないんです。だから、私が月へ帰れるのは当分先の話なんですよ」
 実に残念そうに言って、マスターはほっと息をついた。
 エマは一口だけ口を付けたグラスをカウンターに置いて息を呑んだ。
「もうたくさんだわ。『月の石』を見せてくれないかしら? それが済んだら私たちは退散するわよ」
「ええ、良いですよ」
 あっさりと承諾したマスターに、俺たちは一瞬呆気にとられた。親しかった水野礼子でさえ見たことがないと言うから、よっぽど大事にしているのだろうと思っていたのだ。かたくなに拒まれることも覚悟していたのに、これでは拍子抜けだ。
 マスターはカウンターの奥のドアを開け、どうぞと手招いた。扉の先には階段があり、地下へと潜っている。薄暗いそこには小さな電灯が点っているきりだ。
「この先にあるんですよ」
 そう言って先に立ち、どんどん地下へと降りていく。俺はその後に続き、エマが最後に続いた。扉は開け放したままだ。一階分ほど下ると、開けた空間に出た。古いワインセラーのようだ。中央にはコンクリートで作られた長方形の水槽。中に電灯でも仕込んであるのか、水面からほのかに光を放っている。
 だが、木の陰はない。辺りを見回しても煉瓦の壁があるばかりだ。
「この中ですよ」
 マスターはそう言って、コンクリートの水槽の中を示した。俺とエマは恐る恐る近づいて中を覗き込み、息を呑んだ。
 水槽一杯に張られた水。その床には色とりどりの石が敷き詰められている。その上に横たわる、白い骨。漂白されたように白いそれに、石の光が反射して美しい。
「あァ、ようやく見られたよォ」
 エマが引きつった声を上げ、俺の腕にしがみついてきた。彼女らしからぬ行動と、そして不意に聞こえてきた声に俺も狼狽える。
「み、水野さん?」
「ありがとうねェ。お兄サンの助手サン」
「おや、水野さん、どうしたんです?」
「あァ、兎。アタシはねェ、あんたがご執心だった『月の石』を見たくってねェ」
 水野礼子は自分の骨が漂う水槽を、満面の笑みを浮かべて覗き込んでいた。
「あんたと一緒になっちまう前に見せて貰おうと思ったのさァ」
 目元の辺りに笑みの気配を漂わせ、水野礼子は満足げに呟いた。マスターはにっこりと笑って、俺たちを見た。
「そういうことでしたか。しかし、困りましたね。滅多な方にはお見せしたくないんですよ。水野さんはお世話になった方ですし、お見せするのは構わないんですけどね」
「兎、やめておくれよォ。頼んだのはアタシなんだからさァ。アタシを少しでも好いてくれるんなら何もしないでおくれよォ」
「大丈夫ですよ。何もしやしませんよ」
 腕を伸ばし、白い指先で水槽の水を跳ね上げる。濡れた指先を唇に当て、兎は冴え冴えとした笑みを浮かべた。
「この水を飲まれたんですから、私が何をしなくてもいずれ、あなた方も私と一つになるんですから」
 兎に気をつけろと、始めに言われていたのに。
 白骨の漂う水槽。その寝台の如き月の石。微笑む兎。苦笑する女の死霊。
 たぷり、と腹の中で水が蠢いた。




 店の地下からエマの腕を引いて走り出て、俺は興信所の扉を蹴り開けた。台所に立ってケトルをコンロにかけようとしていた零が目を丸くしている。それに頓着していられず、俺はトイレへ走った。エマは洗面所だ。
「……どうしたんだ?」
 奥から姿を現した草間探偵は、腹の中をすっきりさせている俺たちに目を丸くした。それに答える余裕もなく、最後の一欠片まで胃袋から絞り出す。
「エマ、大丈夫か? おい、上総。二人して拾い食いでもしたのか?」
「……な、ワケないって……」
 慌てて水を持ってきてくれた零には悪いんだが、当分は水は遠慮したい。捻出した唾で酸っぱい口中を洗い流し、俺は壁にもたれるように座り込んだ。
「探偵見習いの上総耀司君。それで依頼の方は片づいたのか?」
「ええ、片づきましたよ。綺麗さっぱりね」
「兎にも酷い目に遭わされたわよ」
 エマがハンカチで口元を拭いながら、その青い目で草間探偵を睨んだ。
 俺は大きく手を振り、雇い主に渋面を向けてやった。
「もう懲り懲りだ。幽霊からの依頼なんて受けないでくれ!」
 それが無理な話だと言うことは俺もエマも承知の上だったが、その日は言わずにはいられなかった。
 折しも、中秋の名月は明日だった。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、反町です。
これが初仕事なので手探り状態で書いた結果、随分と字数オーバーになってしまいました。これも愛嬌とご容赦くださいな。エマさんの理性的な側面や特技を生かし切れなくて悔しいです。
こんな私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。