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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


東京怪談・月刊アトラス編集部「心の宝石【前】」

■オープニング■
 @@日未明武蔵野市路上で倒れている女性が発見された。保護された坂下まみさんは自分が倒れていた理由に心当たりがないと説明している。外傷、盗難の形跡はない模様。
 同様の事件は今月に入って既に四度目。当局では刑事事件の可能性も有りとして捜査を開始した。

 ばさりと音を立てて新聞がデスクの上に放り出された。
「ネタがないわ」
 形のいい脚を見せびらかすように組み麗香は不機嫌そうに呻いた。素人目には投げ出された新聞記事は十分にネタに見えるが麗香にはそうでもないらしい。
 低気圧警報。三下は慌てて麗華の元にはせ参じた。手に読者から送られた情報提供の手紙の束を携えて。
「そんなこともないでしょう? ほらこれなんかどうですか、開かずの教室!」
「ありきたりね」
「それじゃこの、男子トイレの太郎さんなんかは」
「……何年前のネタよ?」
「じゃ、じゃあこの『看護婦は見た! 若院長の悪戯!』なんてのは…」
「うちはオカルトでアダルトじゃないのよ」
「そ、それじゃあですね…」
 ばさばさと手紙の束を捲りあげる三下を、麗香はこれ以上ないほどに冷ややかに見下した。
「さんした君」
「…みのしたですう…」
「さ、ん、し、た、く、ん」
 赤く塗られた指先で三下の顎をついと持ち上げた麗香は、口付けせんばかりに捕らえた顔に己のそれを寄せる。三下は間近に迫った美貌に呑まれ、身を竦ませた。
「は、はひい…」
「痛い目見たくないんだったら、もっと使えるネタを出しなさい」
「…そんなこと言われましても…」
「ふん」
 麗香は容赦なく三下を突き放した。
「わ、わわわっ!」
 よろけた三下が部屋の隅に積んであったダンボール箱に激突する。三下を巻き込んで雪崩れたダンボールから、麗香の鼻先にひらりと一枚の便箋が飛んだ。
「…ん?」
 落ちかけた眼鏡を指先で押し上げ、麗香は飛んできた紙に何気なく目を通した。それはどうやら新聞の折り込み広告のようだった。

『思い出、高価買い取り中!』

 その下に、良思い出あります、等と宣伝文句が重ねられている。それはゲームの中古ショップや、古本屋のチラシに酷似していた。
 麗香はダンボールと紙の山に潰されている三下を勿論無視して声を張り上げた。
「…ちょっと、誰か居ない?」

■本編■
 JR吉祥寺駅を下車、そこからバスで十分弱。
 駅前にある賑わいは消え失せ、そこは閑静な住宅街となる。通りを奥へ進めば入り組んだ道路に沿ってマンションやアパート、一軒家が並ぶ。通りにもマンションが並び、その合間に煩くない程度にコンビニや不動産屋、カフェなどが混じっていた。
 住宅街の中にある小ぢんまりとした繁華街。その小規模な街の中に、その店はあった。
 冴木・紫(さえき・ゆかり)は編集部で手渡されたチラシのコピーとその店を見比べ、目を瞬かせた。
「…なんていうか…」
 大通りと路地が十字路を作っているその角に、その店はあった。段数の少ない階段がガラス張りのドアのある入口へと続いている。半地下にあるその店はどう見ても極普通の古本屋にしか見えなかった。少しも隠れている様子がない。でかでかと『思い出屋』などと言う電飾の移動看板が出ているほどだ。
「…こー、怪奇現象ならそれっぽい演出してくれないとこっちとしても困るんだけどねー」
 紫はぶちぶちと口の中で文句を言いながら、その階段を下りた。

 店内は予想に違わぬ様相を呈していた。
 外から見たところでは単なる古本屋でしかなかったが、中に入って見ればやっぱり単なる古本屋でしかない。
 少しばかり黴臭い空気と、業務用の大きな木製の本棚。正面には巻数のある本を纏めたセット販売らしい巻数のある本を纏めたものがピラミッド型に積まれ、更にその奥にはコミックのコーナー。無人のレジを挟んで右手には分厚い書籍や新書のコーナーが設えられている。レジの周囲には整理前なのだろう本が積まれ雑然とした雰囲気を醸し出している。
 大き目の、そして古い雰囲気の、古本屋そのものだ。
「…思い出屋ぁ?」
 紫は鼻の頭に皺を寄せ胡乱な声を上げた。
 古い本が雑然と並んでいる店舗は普通古本屋と呼ばれるのだ。花が並んでいれば花屋、魚が並んでいれば魚屋である。
 思い出屋というからには思い出が並んでいてくれなければ困るではないか。
 紫はぶつぶつと口の中で文句を言いながら店内へと歩を進めた。
 新書の棚に辿り着くとその先に開け放されたドアが見える。覗き込むとその中でなにやら作業をしていた男と目が合った。男は微笑んで立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「…あ、あーはい」
 型通りの挨拶をされて、紫は慌てて頷いた。
 それはこの店に辿り着いて初めて見る古本屋らしからぬものだった。だからと言って思い出屋らしいのかと問われても唸らざるを得ないのだが。
 ギリギリ二十台といったところだろうか、きっちりとスーツを着込んだ、物腰の穏やかな男だった。整った冴え冴えとした美貌の上に丸眼鏡が乗せられその顔の与える印象を緩和させている。人好きのする笑顔だった。古本屋の店員と言うよりは営業エースのサラリーマンと言った印象がある。
 男は紫の手にしたチラシに気付いたようで、更に破願した。
「お買い上げですか? それともご売却でしょうか?」
「…思い出の、ですよね?」
「無論ですが?」
「あの…ここって古本屋に、見えるんですけど?」
 周囲の本棚に視線を這わせる紫に、男はああと頷いて本棚から一冊の本を取り出した。そしてそれを紫に差し出す。反射的に受け取ったその本を、紫はしげしげと眺めた。
 装丁のしっかりしたハードカバーの書籍だが、その背表紙にはタイトルはあっても出版社の名前は無い。カバーもついておらず、表紙にもタイトルだけが記されている。赤茶の革張りの装丁の上に金文字で『成就・恋愛』と記されていた。中を開くと底には捲るべきページは無かった。紙は束ねて貼り付けられその中央が切り抜かれている。空いた大穴の中に布が敷かれ、その中央に信じられないほど大きな青い宝石が鎮座している。
「人気の商品ですよ」
 言われて紫はその宝石と男を見比べた。
「…コレが、思い出?」
「ええ」
 男が頷きを返す。紫は周囲に林立する本棚の中身をさっと確認した。確かに本だ、本に見える。だがそのどれもに著者の名も出版社も記載されていない。本に見えるが、それは本ではないということだろう。
 この林立する本棚の中身総てが。
 ぞくりとした戦慄が紫の背を駆け上がった。それと同時に動揺していた精神がクリアになっていく。
 古本でないのならそれで結構。これで本気で古本屋であったなら何の為に電車賃とバス代を使ってまでこんな所まで出向いたのかわからなくなるではないか。今月の年金が引き落とされたら預金残高ヤバいというのに。
 すっと息を吐き出し、紫は背筋を伸ばした。
「ええと、売りたいんですけど…どんな思い出でも構いませんか?」
「ええ、それはまあ。ただ引き取り値の方は思い出の状態によってはお安くなってしまいますが」
「お願いします」
 ショルダーバッグをきゅっと握り締め、紫は頷いた。

「てわけでですね碇さん。本気で覚えてないんですよコレが」
 月刊アトラス編集部。来客用のソファーに図々しく座り込んだ紫はテーブルの上にメモ帳を広げて呟いた。
 広げられたページには『飲み会の帰りに上機嫌で歓声あげながら鳩追っかけ回していた』と書かれている。
 麗香は呆れた顔を隠しもせず、紫を見やった。
「鳩?」
「そー鳩。友人にも確認しましたけど。やらかしてたらしいんですよ。因みに店に入る前にこれ書いた記憶もありますけどね、すぽーんとないんです、やらかしてた時の記憶が」
 言いつつ紫はバッグからレシートを一枚取り出した。一般的レジスターのものらしく、合計−360円と記されている。
「身分証明の写し取られて、でもう一枚あったレシートにハンコ打たされて、金貰って帰ってきました」
「その時の状況は?」
「目ぇ瞑ってくれって言われて、こう…目隠しするみたいに顔に手当てられて…それで次の瞬間にはありがとうございました。一瞬ですね」
「ふうん」
「それで、店から出て、手帳を見てもそんなことがあったなんてかけらも思い出せないんです」
「…単に酔って覚えてないだけの話じゃないのか」
 突如として背後から響いた男の声に、紫は首だけを巡らせてそちらを振り返った。そこに背の高い細身の男の姿がある。
「出会い頭に失礼な事かましてくれるあなたはどなたー?」
「名乗る前に名乗ったらどうだ?」
 不機嫌そうに言う男を、紫は鼻で笑った。
「無礼には無礼で返すのよ私は。で?」
「…真名神・慶悟(まながみ・けいご)だ」
 そちらも名乗れと言わんばかりに睨み付けて来る慶悟に、紫は肩を竦めて名乗った。慶悟はさして感銘を受けた風でもなくただ頷いて、麗香の空けたソファーに腰を下ろした。そしてズバリと切り出した。
「売ったのかあんた? いい度胸だな」
「ってことはあなたもあの店には行って来た訳ね?」
 慶悟は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「なによ?」
「一筋縄ではいかんぞあの店は」
 慶悟は己の体験して来た所を隠さずに語った。
『努力する事無く成功の甘い果実を味わえるなら、そして二度と思い出したくも無い痛みや挫折を永遠に消し去ることが出来るなら…それはとても有意義ではないですか?』
 この店は一体なんなのだという慶悟の問いに、思い出屋はそう答えたという。
『リサイクルですよ何事も。誰かにとって不快な思い出でも誰かにとってはそうではない。有意義に活用させて頂いております』
 そして慶悟の思考を読んだかのように薄く笑んで言ったと言う。
『ところで当店は古物商許可申請書を公安委員会に提出しておりまして、許可も頂いております。私自身も古物取扱免許は保持していましてね』
「…ちょっと待ちなさいよ」
 紫は眉間に皺を寄せて慶悟の言葉を遮った。
「つまり何…あの力一杯妖しい店…合法だって、ことなの?」
「そうだ」
「じゃあ…行ってタコ殴りにしたりとかすると捕まるのは…」
「こっちの方だと言うことだな」
 ひくっと紫は頬を引き攣らせた。最終的にはタコ殴りにしてやればいいと思っていたのだから当然である。
「あの店構えにチラシ…気付いてしかるべきだったかもしれんがな」
 余りにも堂々とし過ぎている。
 紫は大きく息を落としたが、次の瞬間すっくと立ち上がった。
「うだってても仕方ないわね、行きましょ」
「…何処へだ? 『現場百辺』と言う奴か?」
 慶悟の問いに、紫はちちちと人差し指を振った。
「腹が減っては戦はできぬよ。ってわけで奢って」
「……何故そうなる?」
 当然の慶悟の問いかけに、紫はきっぱりと答えた。
「年金落ちたら預金残高一万切るからよ」
「……それと俺に何の関係がある?」
「私の目の前に居るからよ。さーいきましょいきましょ」
 戸惑う慶悟を無理やり立たせ、紫は編集部を後にした。慶悟に向かって麗香が気の毒そうな顔で手を振っていたがそれは無論紫の視界には入らなかった。

 げっそりと肩を落としている慶悟の前で、紫は実に幸せそうにパスタをぱくついていた。
「…あんたプライドはないのか…?」
「一円にもならないでしょ、そんなものは」
 フォークを置きナプキンで軽く口元を抑えた紫ははー美味しかったと溜息を吐いた。
「さて、これからどうしましょうか?」
「その前に礼の一つも言え、あんたは」
 白い目を向けられても、紫は何処吹く風だ。
「もう一杯奢ってくれたら考えるわ。それでだからどうするか、よ」
 慶悟は諦めたように息を吐き出し、軽く頭を振った。意識を切り替えたのだろう。
「…店に式は配して来たがな。それで記憶を奪っている要因が見つかったからと言って…」
「なんですって?」
 紫は眉を顰めた。
「だから要因が見つかったからと言って掠め取るわけにも行かないだろう」
 それではこちらが盗難を働いたことになる。そう言う慶悟に、紫は首を振った。
「そうじゃなくって、今式を残してきたとか言わなかった、あなた?」
「言ったが、それがどうかしたのか?」
「なら話は実に簡単だわ」
 分からない?、と言うように紫は目を眇めてみせる。その視線を受けてだろう、慶悟はふんと鼻を鳴らした。
「…あの男をつけ回す訳か」
「そう言うことよ」
 店が合法だからと言って、その店主が合法だとは限らない。
 あの店主は関わっているはずだ、武蔵野で連発している奇妙な行き倒れ事件に。それは状況的に怪しいという極めて曖昧な疑惑でしかないが、紫も、慶悟もその極めて曖昧な疑惑がおぞましい…そう言って構わない事態に発展することが多いことを熟知していた。伊達に奇怪な事件に関わっているわけではない。
「こうなると式を放してきたことは正解だな。あの店の付近で張るか」
 慶悟の声に、紫は頷いて立ち上がった。
「賛成。確かあの店の近くにも茶店あったわよ、茶店」
 伝票になど勿論目もくれずに席を離れる紫の背に、慶悟が疑わしげな視線を投げた。
「……性懲りもなく俺にたかるつもりか?」
「電車賃とバス代払ったら財布の中身も千円切りそうなのよ、私」
 いっそ偉そうに、紫は言い切った。

「なんか…死ぬ前にストーカーの気分が味わえるとは思っても見なかったわ」
「あんた軽口以外の台詞は吐けないのか?」
 あまり友好的とは言えない会話の応酬でありながらも、その声は耳を澄まして聞こえるかどうかと言う、とことんの小声。
 二人は連れ立って一人の男の後ろを歩いていた。正確にはつけていた。
「これがこう…見た目も何もかも完全に犯罪者って相手ならこんな気分にもならないんでしょうけど?」
 そう言って紫は慶悟を一瞥した。
「俺ならそうだと言いたいのかあんた?」
「少なくとも『思い出屋』よりはね」
 慶悟はチッと軽く舌打ちを落とした。確かにあの『思い出屋』の見かけはどこまでも真っ当で、真っ当な上で上物だ。認めざるを得ない。
「人は見かけによらんと言うことだ」
「それ、自画自賛のつもり?」
「俺は真っ当に正直に陰陽師家業を営んでるが?」
「その稼業のどの辺りが真っ当なのよ?」
「思い出屋よりは遙かにな」
「………成る程」
 陰陽師に営業許可が下りるのか聞いて見たい気もしたが紫はそれを飲み込んで頷いた。
 秋の日はつるべ落とし。すっかり日の落ちきった周囲は一定間隔で据えられた街頭の光だけが目印となる光源だった。帰宅時間を僅かに外れているために人通りは少ない。一軒家も乏しい通りで、家庭の持つ暖かな空気も流れては来ない。
 どこまでもひっそりとしていた。
 紫とて好きで軽口など叩いているわけではない。そうして気を紛らわせていなければ、この空間の持つぞっとする程の静謐にからめ取られてしまいそうになるのだ。
 その静謐の中を、思い出屋の姿勢の良い背中は早くもなく遅くもなくしっかりとした足取りで進んでいく。
「…何処へ行くつもりなのかしら?」
「当てがあるようにも思えんが」
「でしょうね」
 思い出屋は何処に寄るでもなくただ律動的な足取りで、かれこれ30分以上は歩き続けている。それをつけている二人も同じだけの時間足音を忍ばせて歩き続けていた。尾行と言ってもギリギリ思い出屋の背中が視界に入る程度の距離は取っている。見失わないよう躍起になる必要は無い、慶悟の放った式が思い出屋にぴったりと張り付いているからだ。
 それでも感じる緊迫感に変わりはない。息の詰まるほどの緊張が限界に達しようと言う、その時、それは訪れた。

 誰かが…いや何かが後をついてくる。
 細いヒールの足音に重なるように、カツカツと、革靴の底の鳴る音がする。
 女は幾度か後ろを盗み見、そしてその都度足を速めた。
 心臓が早鐘を打つ。大丈夫だ大丈夫だと幾度も自分に言い聞かせ、納得したつもりでも女の足はどんどんその速度を速めていた。
 何かが迫ってくる。それに呼び起こされるのは原始的な感情。追われる、その緊張感、緊迫感。一言で表すならそれは恐怖と呼ばれる。
 じりじりと強まるその感覚の果てに女はぴたりと足を止めた。ふっと息を吐き出し、なけなしの勇気を振り絞って振り返る。
「…誰…?」
 誰何の声は喉に絡み、掠れていた。
 そして足音は姿を現した。街灯の光を頭から浴び、浮かび上がるように。
 スーツの男、思い出屋は女に向けてにっこりと微笑んだ。
「そんなに慌てる事は無いでしょう、そして怯える事も無い。そんなものは総てなかったことになるのですから」

「それは一体どういう意味だ?」
 慶悟の声に、思い出屋は首だけを巡らせて振り返った。その顔に人好きのする笑顔が浮かんでいる。
「これはこれは。またお会いしましたね、あなたも」
 視線を向けられ、紫はギクリと身を強張らせた。
 人好きのする柔らかな笑顔であり、物腰だ。だが今この状況で見るそれは、昼間店内で見た時とは全く異なる印象を、紫に、いや恐らくは見るもの総てに与える。
 それはいっそ禍々しく。
 獲物として目をつけられていた女も同じなのだろう。注意が逸れたのだから逃げればいいものを、身を強張らせてその場に突っ立っている。
「どういうことだと聞いているんだが?」
 慶悟は心持紫を庇うようにしながらゆっくりと重心を落とした。対峙してみて改めて思い知る。この男には隙というものがない。
 思い出屋はクスリと笑った。
「恐らくはあなた方の想像している通りですが?」
 彼女の、と言って思い出屋はほんの僅か、女に視線を投げる。
「身の内にしまわれた宝石を拝借したいと、そう思いまして」
 言って思い出屋はいっそ優雅なほどの動作で懐から一枚の紙を取り出した。
 街灯の光にぼんやりと照らされるその紙には、何某かの絵が描かれている。
「…ば…く?」
 紫がポツリと呟く。慶悟は思い出屋から視線を外さないままに紫に問い掛けた。
「ばく?」
「…何かで、見たことがあるわ」
「あれが牛とカバを掛け合わせたような生き物には見えんが…」
 ぼんやりとしか見えないその絵は、少なくとも動物園の檻の中で飼われているものとは大分趣を違えている。少なくとももっと猛々しい生物に見える。
 思い出屋は関心したように目を細めた。
「中々博識なお嬢さんですね。酔って鳩を追い掛け回していたとも思えません」
 クスクスと思い出屋は笑い、そして頭上にその絵を翳した。
「…先ほどの問いに正確に答えてさし上げましょう。私がしている事はね、言うなれば一種の鵜飼いなのですよ」
「鵜飼い?」
 慶悟は眉を顰めた。
「古来より獏は悪夢を食べると言われてきました。正確には獏を描いた絵を枕元に置いて眠ると悪夢を退けてくれるとね」
「…それが何だっていうの?」
「やれやれ博識な割には想像力の足りないお嬢さんだ」
 溜息を吐いた思い出屋は手にした紙を愛しげに眺める。
「それはある種の模様を描いた紙が人の意識を取捨し干渉を行える、と言う事です。退けるのは悪夢だけなのですからね。後の考え方は符術と同じこと」
 思い出屋の笑顔には相変わらず曇りは無かった。そしてその笑顔はだからこそ禍々しい狂気を湛えている。
「放った獏が持ち帰る『記憶』の結晶を手に入れる。難しい話ではありません。最も記憶の結晶がこんなにも美しいものであるとは思いもよりませんでしたが」
 パチリと思い出屋が指を鳴らすと携えられた絵がぐにゃりと撓む。絵の中のひしゃげた獏はその口からころりと、大粒の宝石を吐き出した。
「こんな宝石が大脳辺縁系の中に死蔵されている…実に勿体無い話でしょう?」
 美しい資源を観賞し、その後に還元する、総てはリサイクルなのですよ。
 紫は嫌悪に眉を顰めた。
 今語られた内容が事実であるのかどうか、そんなことは議論するに値しない。確かに紫は本の中にしまわれた青い宝石を見た。そして記憶を、クズ同然のものではあったが確かに記憶を一つ、失っているのだ。
「…それで…こうやって無理やり営業してたってわけなの?」
「仕方がないでしょう? 売りにこられる方は皆さん負の感情ばかりです。それでは偏ってしまいますからね」
「勝手なことを!」
 慶悟が吐き捨てるように言った。嫌悪を感じているのがありありと分かるその横顔を、紫は同じ思いで見つめた。
 目的は利益でも、救済でもない。
 それはこの男の、思い出屋の単なる愉悦だ。
 思い出屋は二人の顔を交互に眺め、さて、と呟いた。
「あなた方も沢山の宝石を死蔵しているのでしょう? 見せて頂きましょう。大丈夫痛くはありませんよ。そちらのお嬢さんは既にご存知でしょうが」
 クスリと笑う思い出屋に、紫は我知らず半歩後ずさった。それを片腕で庇った慶悟はすかさず符を構える。
「冗談でも御免被るな」
 思い出屋の手元で獏の絵が揺らぐ。
 放たれれば慶悟が如何な使い手であろうとも終わりだ。一瞬の出来事だった。それを紫は覚えていた。
 爽やかな笑顔のまま、思い出屋は手元の獏に命じる。
「さあお行きなさい。おまえの望むまま掴み取るがいい!」
 ざわりと。
 風も無いのに紙が震える。
 小刻みの振動はやがて大きくなりその小さな紙切れの中から何かを吐き出そうと収縮する。
「…!」
 紫は口元を手で覆った。
 その紙切れの中から、にゅっと何かが這い出てくる。金色の毛皮に、黒の縦縞模様の、それは獣の前脚だった。
 獏は体形は熊、鼻は象、目はサイ、尾は牛、足はトラと言う姿を持つと言われる。
「真名神!」
 思わず紫は叫んでいた。見上げる慶悟の頬から一筋の汗が流れ落ちる。その視線が向かう先を素早く追った紫は絶望的な思いで唇を噛んだ。
 そこに女の姿がまだある。悲鳴をあげる事すら出来ず、ただ立ち竦む女の姿が。
 慶悟は符を打たないのではない。打てないのだ、その女の存在ゆえに。
 恐怖と嫌悪に、紫が目を閉じた、その時だった。
『巽の方・震の方より疾く来たれ雷! 急々!』
 その声は、後方から響いた。慶悟のものとまるで違わぬ、男の声。
 驚いた紫が振り返ったその刹那、再び、今度こそ慶悟から鋭く声が発せられる。
「行け!」
 再び振り返った紫が見たものは慶悟の指先へと舞い戻りそこから思い出屋へと飛来する何か。
 そして、思い出屋はどうと音を立てて地へと倒れ伏した。

「いいタイミングで現れたな」
 声の主を振り返り、慶悟は荒い息を整えながら言う。紫はその姿に目を丸くした。確かに男の声だった。だが現れたのはどこからどう見ようと女の姿だった。
 目を瞬かせる紫に、女は苦笑して『特技なのよ』とまたしても慶悟の声で答えた。シュライン・エマ(しゅらいん・えま)と名乗った女は慶悟に向直り小さく鼻を鳴らした。
「張ってたのよ、思い出屋を。正確にはあんた達を、だけど」
 シュラインは行き倒れ事件の被害者の線からこの件に当たっていた。だから合流が遅れたのだと説明した。
 釈然としない風の慶悟を『結果としてはそれで良かったんだから良しとしなさい』といなしたシュラインは、手の中の紙切れをひらひらと振ってみせる。
「これと」
 シュラインは道路に転がる思い出屋を顎で指し示す。
「それ、どうする?」
「俺としてはとどめの一つも刺しておきたいところだが」
「そんなわけにいかないでしょ」
 紫は足先で思い出屋を突きまわしながら溜息を吐いた。本音としては同感だが、それではこちらが犯罪者だ。シュラインも同様のようで苦い笑みを口の端に刻む。
「ま、取り敢えずは警察ね。ここのところ妙な事件も増えてる事だし、無碍にもされないでしょ。それに…」
「それに?」
 紫の問いかけにシュラインは目を細めて視線を投じる。その先に震えて蹲っている女の姿がある。紫は思い出屋を蹴りまわす作業を一時中断して、その女に駆け寄った。
「行き倒れ事件の犯人である事に間違いは無い、か?」
 慶悟の声に、シュラインは頷いた。

 そして、その夜は混迷の収拾をつけながらゆっくりと、明けていった。

「あ…?」
「あら?」
 JR吉祥寺駅を下車、そこからバスで十分弱。
 その店の前に立つ女の姿に、紫は目を瞬かせた。夕べ見た顔である。
 シュラインは紫の姿を見つけると片手を上げて合図した。
「来たのね、やっぱり」
 言われ、紫は肩を竦めた。
「まあ。その内もう一人も、来るんじゃないですか?」
「そうみたいね」
 シュラインが苦笑を浮かべる。その視線を追うと、タイミングを見計らったかのように背の高い男が近付いてきていた。
 それこそ昨夜のシュラインのように。
「遅かったわね、真名神」
「真打なんでな」
 シュラインの声に、慶悟はにやっと笑って答えた。紫はそれを見てぴくんと眉を跳ね上げる。
「つまり真打登場狙ってたの? 生憎だけど感銘受けてはあげないわよ?」
「…猫でも三日は恩を覚えてるもんなんだがな」
「だからもう一皿奢ってくれたら考えるって言ってるでしょ」
 仲がいいのだか悪いのだか分からない(恐らく悪いのだが)言い争いを始める二人を尻目に、シュラインは半地下にある店の入口を眺めて溜息を吐いた。
 恐らくはこの二人の言い争いの理由もそこにある。釈然としないのだ。
 既に時刻は正午を回っている。だがその店は開いていない。半地下の店ならば、そしてこの時間ならば、当然ついているはずの電気の明かりが見えない。人の気配も全く感じない。
 それだけならば当然のことだ。この店の、思い出屋の店主は昨夜警察に連行されたのだから。
 だが、
「…真に勝手ながら閉店させて頂きます、ねえ」
 ガラス戸に貼り付けられた紙を読み上げ、シュラインは眉を顰めた。飽きもせずに言い争いを続けていた二人もぴたりと押し黙る。
 閉店の張り紙。それを誰が、いつ、どうやって貼り付けたと言うのだろう?
 慶悟は目の前の紫を見下ろした。
「あんた…売り払った思い出は戻ってきたのか?」
「残念ながら。…まあ特に残念なものでもないんだけど」
 紫の言葉に、一同は押し黙り、静かな佇まいを見せているその店を見下ろした。
 思い出は戻らない。店もない。
 だが思い出屋は捕まり、これ以上の事件は恐らく発生しない。
「一区切りと見るべきなのね」
 シュラインの声に、紫と慶悟は頷いた。
 釈然としないものを残しながらも。

 その時一陣の風が吹いた。
 その風に一枚の紙が舞い上げられる。それはゲームの中古ショップや、古本屋のチラシに酷似していた。赤や青の派手な色彩のチラシ。
 その外枠の白い部分に、小さくメッセージが記されていることに三人は気付くことはなかった。

『ごきげんよう。またお会いしましょう、その日までご壮健で』

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1021 / 冴木・紫 / 女 / 21 / フリーライター】
【0389 / 真名神・慶悟 / 男 / 20 / 陰陽師】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、里子です。参加ありがとうございました!
 今回より作中の表記に一律で名前のほうを使わせて頂いております。これまでは響きが好みな方を選んで使わせて頂いていたのですけど。
 今後は指定のない限りは名前で統一しようと思います。混乱させてしまった方にはお詫び申し上げます。

 感情のメカニズムはその内完全に解明されるだろうとのことです。
 そもそも脳の研究と言うのは始まったのが遅いそうなんですね、頭部が人間にとって重要な器官であることはずっと前から分かっていたのに。心とか感情とか、そういうものに対する躊躇があったからだとか。
 解明されるってこと事体は悪い事だとは思いませんけど、神秘的なものが内在する余地はやっぱり残して欲しいななんて思います。

 今回はありがとうございました。また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。