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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


東京怪談・月刊アトラス編集部「心の宝石【前】」

■オープニング■
 @@日未明武蔵野市路上で倒れている女性が発見された。保護された坂下まみさんは自分が倒れていた理由に心当たりがないと説明している。外傷、盗難の形跡はない模様。
 同様の事件は今月に入って既に四度目。当局では刑事事件の可能性も有りとして捜査を開始した。

 ばさりと音を立てて新聞がデスクの上に放り出された。
「ネタがないわ」
 形のいい脚を見せびらかすように組み麗香は不機嫌そうに呻いた。素人目には投げ出された新聞記事は十分にネタに見えるが麗香にはそうでもないらしい。
 低気圧警報。三下は慌てて麗華の元にはせ参じた。手に読者から送られた情報提供の手紙の束を携えて。
「そんなこともないでしょう? ほらこれなんかどうですか、開かずの教室!」
「ありきたりね」
「それじゃこの、男子トイレの太郎さんなんかは」
「……何年前のネタよ?」
「じゃ、じゃあこの『看護婦は見た! 若院長の悪戯!』なんてのは…」
「うちはオカルトでアダルトじゃないのよ」
「そ、それじゃあですね…」
 ばさばさと手紙の束を捲りあげる三下を、麗香はこれ以上ないほどに冷ややかに見下した。
「さんした君」
「…みのしたですう…」
「さ、ん、し、た、く、ん」
 赤く塗られた指先で三下の顎をついと持ち上げた麗香は、口付けせんばかりに捕らえた顔に己のそれを寄せる。三下は間近に迫った美貌に呑まれ、身を竦ませた。
「は、はひい…」
「痛い目見たくないんだったら、もっと使えるネタを出しなさい」
「…そんなこと言われましても…」
「ふん」
 麗香は容赦なく三下を突き放した。
「わ、わわわっ!」
 よろけた三下が部屋の隅に積んであったダンボール箱に激突する。三下を巻き込んで雪崩れたダンボールから、麗香の鼻先にひらりと一枚の便箋が飛んだ。
「…ん?」
 落ちかけた眼鏡を指先で押し上げ、麗香は飛んできた紙に何気なく目を通した。それはどうやら新聞の折り込み広告のようだった。

『思い出、高価買い取り中!』

 その下に、良思い出あります、等と宣伝文句が重ねられている。それはゲームの中古ショップや、古本屋のチラシに酷似していた。
 麗香はダンボールと紙の山に潰されている三下を勿論無視して声を張り上げた。
「…ちょっと、誰か居ない?」

■本編■
 出されたお茶をゆっくりと啜り、シュライン・エマ(しゅらいん・えま)は息を吐き出した。
 乱雑ではあるがそれなりに掃除の行き届いた室内は、その雑多さと清潔感が拮抗して妙に居心地がいい。その雑多さが、そして清潔感が、誰のせいで引き起こされ、そしてまた保持されているかを考えると笑いを誘われないでもない。
「それで、どうなの?」
 雑多さの犯人であろう碇麗香に問い掛けられ、シュラインは困ったように笑んだ。
「難航しそうね、どうも」
「そう」
 ほんの少しだけ落胆の色を除かせる麗香に向かって肩を竦め、シュラインはこれまでの調査の結果を語りだした。

「なにがあったかなんて私の方が聞きたい所です」
 坂下まみは憮然とそう言った。
 麗香から手渡された資料を元に訊ねてきたシュラインを、まみは勿論快く迎えはしなかった。出版社からと言う事で門前払いを食らわせられること一回。少し時間を置き、身分を明かして漸く、まみは家へとシュラインを招じ入れてくれた。決め手はまみへの取材ではなく、事件の調査であり、そして解決に向けての当てが少しはある、と言う所だったのだろう。
 整然とした居心地のいい居間に招き入れられたシュラインは、ずばりと話題を切り出した。それに対して、まみは憮然と答えたのである。
「本当にわからないのね?」
「…ええ」
 頷き、まみは少し考えるように虚空に視線を投げた。
「駅を出て…そう少し遅くなったかな、と思った辺りまでは、確かに覚えてます。だけどそれからの事は…いつも通りに帰宅したはずですしだからいつも通り過ぎて覚えてないのかもしれないけど…でも何で倒れてたかって言われると」
 全然、とまみは肩を竦める。
 ふん、と、シュラインは顎に細い指を当てた。ここまでは予測の範疇を出ない。
「それで…これはどなたかご家族の方にも聞いてみて欲しいんだけど。なにか、そうなにか大切な思い出がないって、ことはない?」
「思い出?」
「そう…楽しかった事でも、嬉しかった事でも、なんでもいいわ」
 まみは眉間に皺を寄せてか唸った。
「私が覚えてない、何かイイコトってことですよね?」
「そうよ」
 頷いたシュラインに、まみは心底困り果てたようにうーと唸った。
「…聞いては、見ますけど」
「大切なことなのよ」
 身を乗り出すシュラインに、まみは唇を尖らせて言い返してきた。
「雲を掴むような話だとは思わないんですか?」
「?」
「だってイイコトなんて、そんな漠然とした話。例えば彼氏が出来て私は嬉しくても、私に彼氏ができた事なんか他の誰が嬉しいの? それでなくても思い当たるイイコトって、私と私の周りの人では全然違うはずだし。なによりいつの? どんな場所での? 私そんなむちゃくちゃ年取ってる訳じゃないけど覚えてるだけだって十何年の幅があるんですよ?」
 言われてシュラインは眉を顰めた。
 確かにそうだ。目の前に座るまみは見たところ二十歳そこそこと言った所だろうが、それだけ生きてきていればいい思い出も悪い思い出も、数え切れないほどにあるだろう。こうしている今もまみは、恐らく悪いだろう思い出を生産しているのだ。
 感情は途切れる事はない。そのうちの一体いくつを思い出として胸の内に仕舞いこむのか、それは当人以外の誰にも分かりはしないのだ。
 シュラインは兎に角何か分かったらと月刊アトラス編集部の電話番号を置いて、まみの家を後にした。

 聞き終えた麗香はふうんと呟いて眼鏡を指先で押し上げた。
「言われてみれば、確かにね」
「まず彼女の線から有益な情報は得られないと思うわ」
 それに、と前置いて、シュラインは言葉を継いだ。
「それにね、誰かと共有する思い出だけが、幸福なものかしら?」
 例えば。ほんの少し指先が触れ合った、それだけの事をシュラインは今もはっきりと覚えている。感じた動揺と、幸福感を。けれどそれは多分シュラインだけの感情だ。触れた指先の相手がそれを、少なくともシュラインほど鮮明に幸福なものとして覚えているとは到底思えない。
 ふとした日常に感じる幸福をずっと覚えていることがある。それは他者にとってはただ日常でしかない。そんなことを。
 集団で共有する思い出よりも、そうした瞬間の幸福の方を多く、人は胸に仕舞っているのではないだろうか。
 麗香は深く頷いた。してみるに彼女にもまた、それは覚えのある話なのだろう。それに小さく頷きを返し、シュラインは大きく息を吐き出してソファーの背もたれに身を預けた。息と共に感傷を吐き出し、シュラインはきっと顔を引き締めた。
「それに誰かと共有しない思い出の方が、足がつきにくいことは確実なのよ」
「取る側からすれば都合がいいということね。それも納得ね」
 麗香はずいと身を乗り出し、シュラインの顔を覗き込んだ。
「それでどうするの? まさか下りるとは言わないでしょうね?」
「まさか」
 シュラインは首を振った。
「まだ店の線が残ってるわ。辿れる線が無かったとしても…ちょっと下りる気にはなれないわね」
 まみの話を聞く内にその思いは強まった。
 胸の内に秘めた、自分だけの暖かいもの。それを暴かれ、奪われ…そして奪われた事実さえ喪失してしまったら。
 それは真に恐怖だった。
 喪失そのものも恐ろしいが、それ以上に、そんなことが可能な人間が(人間で無かろうとも)存在しているかもしれないという事実が恐ろしい。
 シュラインの答えに麗香は満足げに頷いた。
「店を当たるなら情報があるわ。どうも本当に記憶を抜き取れるらしいわよ」
 シュラインは目を瞬かせた。
「随分とはっきり言い切るのね?」
「売ったってコが居るのよ。たまにウチにも記事持ち込んでくるライターの子だけどね、いつでも金欠で苦しんでるようなコで」
「…大胆な真似するわね」
 本気で呆れるシュラインに、麗香は全くだと笑う。
「飲み会の帰りに上機嫌で歓声あげながら鳩追っかけ回してたって記憶だったらしいんだけど、兎に角思い出せないそうよ。値段は360円」
 妥当ねと言って、麗香は指を口元に当ててクスクスと笑った。シュラインも釣られて笑う。
 そして麗香はがらっと表情を改めた。
「それからもう一つ。これは真名神くんが取って来たネタなんだけどね」
 旧知の陰陽師の名前にシュラインは軽く目を見張る。
「…真名神が?」
「そう。その店、思い出屋って言うんだけど。古物商許可が下りてるそうよ」
 シュラインは眉根を寄せ、目線で麗香に問い掛ける。麗香は重々しく頷いた。
「合法ってことね」
「…随分と、小賢しいわね」
 シュラインは忌々しげにそう呟き、もっと詳しい話を聞く為に身を乗り出した。

 JR吉祥寺駅を下車、そこからバスで十分弱。
 駅前にある賑わいは消え失せ、そこは閑静な住宅街となる。通りを奥へ進めば入り組んだ道路に沿ってマンションやアパート、一軒家が並ぶ。通りにもマンションが並び、その合間に煩くない程度にコンビニや不動産屋、カフェなどが混じっていた。
 住宅街の中にある小ぢんまりとした繁華街。その小規模な街の中に、その店はあった。
 大通りと路地が十字路を作っているその角に、その店はある。段数の少ない階段がガラス張りのドアのある入口へと続いている。半地下にあるその店はどう見ても極普通の古本屋にしか見えなかった。少しも隠れている様子がない。でかでかと『思い出屋』などと言う電飾の移動看板が出ているほどだ。
 シュラインはその店構えにまず驚いた。いくらなんでもここまで堂々と店を構えているとは思っても見なかったのだ。しかも何処からどう見ても古本屋にしか見えない。周辺の店で聞き込みも行ったが、その結果も、シュライン自身が感じた印象を裏付けただけだった。
 誰もがこの『思い出屋』を、古本屋だと思い込んでいるのだ。それもそのはずで子の店舗は以前から古本屋であったという。店名が変わっただけのことと、周囲は認識しているのだ。
「…つまりまだ新しい店だってことだけど」
 シュラインはそう呟いた。
 新聞に折り込みチラシなども撒いているのに周囲の認識が追いついていないと言うのはそういうことである。
 シュラインは思い出屋を見下ろし、逡巡した。
 入る事はどうしても躊躇われる。
 その店には人から記憶を奪える何かが居る。確実に。それが先刻まみの聞き込みをした時に呼び起こされた感覚にどうしても引っかかるのだ。
 怖い、と、そう思う。
 それでも意を決し、階段を下りようとしたとき、そのガラス戸がふいに内から押し開けられた。
「!」
 シュラインは慌てて路地へと逃げ込み、階段を上がってくる人影を眼で追った。
 ギリギリ二十台といったところだろうか、きっちりとスーツを着込んだ、物腰の穏やかな男だった。整った冴え冴えとした美貌の上に丸眼鏡が乗せられその顔の与える印象を緩和させている。人好きのする雰囲気の男だった。古本屋の店員と言うよりは営業エースのサラリーマンと言った印象がある。
 律動的な足取りで階段を昇りきった男は、足を止めぬままに大通りを進みだす。男が店の前から動いたのを見計らい、シュラインはさっとまた店の前に舞い戻った。半地下の店から漏れていた電気の光が消えている。電飾看板の電気も落とされていた。
「…つまり」
 今の男が、この店の店主だと言う事だろう。
 追うか、引くか。
 その躊躇は一瞬のことだった。だが何もシュラインがそれを判断したと言う訳ではない。目の前を見知った顔が横切ったからだ。
 派手な衣装に、派手な金色の髪の男。それが思い出屋と思しき男の進んだ方向に足早に歩いていく。連れ立って歩いている女に見覚えは無かったが、その容姿は麗香から聞いたものと一致した。
「真名神…」
 獲物は同じ。思い出屋だ。
 シュラインは一つ頷き、その後を追った。

 足音にとて個性は確実にある。
 シュラインは耳を澄ませながら一歩一歩確実に進んでいた。真名神慶悟とは旧知の間柄だ。その足音を聞き分ける事はシュラインには造作も無い事だった。
「…それにしても…」
 ぞくりと身を震わせ、シュラインは体をぎゅっと抱きしめた。
 思い出屋を追いかける二人を、更に尾行し出して既に30分以上が経過している。
 秋の日はつるべ落とし。すっかり日の落ちきった周囲は一定間隔で据えられた街頭の光だけが目印となる光源だった。帰宅時間を僅かに外れているために人通りは少ない。一軒家も乏しい通りで、家庭の持つ暖かな空気も流れては来ない。
 どこまでもひっそりとしていた。
 静謐を感じる。このまま慶悟達諸共何処かへ連れ去られてしまいそうな静謐を。
 息の詰まるほどの緊張が限界に達しようと言う、その時、それは訪れた。

 誰かが…いや何かが後をついてくる。
 細いヒールの足音に重なるように、カツカツと、革靴の底の鳴る音がする。
 女は幾度か後ろを盗み見、そしてその都度足を速めた。
 心臓が早鐘を打つ。大丈夫だ大丈夫だと幾度も自分に言い聞かせ、納得したつもりでも女の足はどんどんその速度を速めていた。
 何かが迫ってくる。それに呼び起こされるのは原始的な感情。追われる、その緊張感、緊迫感。一言で表すならそれは恐怖と呼ばれる。
 じりじりと強まるその感覚の果てに女はぴたりと足を止めた。ふっと息を吐き出し、なけなしの勇気を振り絞って振り返る。
「…誰…?」
 誰何の声は喉に絡み、掠れていた。
 そして足音は姿を現した。街灯の光を頭から浴び、浮かび上がるように。
 スーツの男、思い出屋は女に向けてにっこりと微笑んだ。
「そんなに慌てる事は無いでしょう、そして怯える事も無い。そんなものは総てなかったことになるのですから」

「それは一体どういう意味だ?」
 慶悟の誰何の声に、シュラインはぴたりと足を止めた。そして気付かれないように距離を詰める。街灯の影に隠れるように身を潜め、目を凝らすと思い出屋と思しき男が首だけを巡らせて振り返っていた。その顔に人好きのする笑顔が浮かんでいる。その更に向こうに震える女の姿がある。
「これはこれは。またお会いしましたね、あなたも」
 視線を向けられ、慶悟の傍らの女がギクリと身を強張らせる。
 人好きのする柔らかな笑顔であり、物腰だ。だが今この状況で見るそれは、昼間見る時それとは全く異なる印象を、見るもの総てに与える。
 それはいっそ禍々しく。
 獲物として目をつけられていた女も同じなのだろう。注意が逸れたのだから逃げればいいものを、身を強張らせてその場に突っ立っている。
「どういうことだと聞いているんだが?」
 慶悟が心持紫を庇うようにしながらゆっくりと重心を落とした。油断は出来ないということだろう。この男には、思い出屋には隙というものがない。
 思い出屋はクスリと笑った。
「恐らくはあなた方の想像している通りですが?」
 彼女の、と言って思い出屋はほんの僅か、震える女に視線を投げる。
「身の内にしまわれた宝石を拝借したいと、そう思いまして」
 言って思い出屋はいっそ優雅なほどの動作で懐から一枚の紙を取り出した。
 街灯の光にぼんやりと照らされるその紙には、何某かの絵が描かれている。シュラインは目を凝らしてそれを見つめた。見覚えのある意匠だ、あれは恐らく…
「…ば…く?」
 女がポツリと呟く。それはシュラインの予想と違わない。慶悟は思い出屋から視線を外さないままに女に問い掛けた。
「ばく?」
「…何かで、見たことがあるわ」
「あれが牛とカバを掛け合わせたような生き物には見えんが…」
 ぼんやりとしか見えないその絵は、少なくとも動物園の檻の中で飼われているものとは大分趣を違えている。少なくとももっと猛々しい生物に見える。
 思い出屋は関心したように目を細めた。
「中々博識なお嬢さんですね。酔って鳩を追い掛け回していたとも思えません」
 クスクスと思い出屋は笑い、そして頭上にその絵を翳した。
「…先ほどの問いに正確に答えてさし上げましょう。私がしている事はね、言うなれば一種の鵜飼いなのですよ」
「鵜飼い?」
「古来より獏は悪夢を食べると言われてきました。正確には獏を描いた絵を枕元に置いて眠ると悪夢を退けてくれるとね」
「…それが何だっていうの?」
「やれやれ博識な割には想像力の足りないお嬢さんだ」
 溜息を吐いた思い出屋は手にした紙を愛しげに眺める。
「それはある種の模様を描いた紙が人の意識を取捨し干渉を行える、と言う事です。退けるのは悪夢だけなのですからね。後の考え方は符術と同じこと」
 思い出屋の笑顔には相変わらず曇りは無かった。そしてその笑顔はだからこそ禍々しい狂気を湛えている。
「放った獏が持ち帰る『記憶』の結晶を手に入れる。難しい話ではありません。最も記憶の結晶がこんなにも美しいものであるとは思いもよりませんでしたが」
 パチリと思い出屋が指を鳴らすと携えられた絵がぐにゃりと撓む。絵の中のひしゃげた獏はその口からころりと、大粒の宝石を吐き出した。
「こんな宝石が大脳辺縁系の中に死蔵されている…実に勿体無い話でしょう?」
 美しい資源を観賞し、その後に還元する、総てはリサイクルなのですよ。
 シュラインは嫌悪に眉を顰めた。
 今語られた内容が事実であるのかどうか、そんなことは議論するに値しない。現実にあの店はあり、記憶を失った実例があるのだ。そしてこの男の示す狂気もまた、確信を糊塗するに十分すぎた。
 女が怒りを湛えた声で叫ぶ。
「…それで…こうやって無理やり営業してたってわけなの?」
「仕方がないでしょう? 売りにこられる方は皆さん負の感情ばかりです。それでは偏ってしまいますからね」
「勝手なことを!」
 慶悟が吐き捨てるように言った。嫌悪を感じているのがありありと分かるその声を、シュラインは同じ思いで聞いた。
 目的は利益でも、救済でもない。
 それはこの男の、思い出屋の単なる愉悦ではないか。
 思い出屋は二人の顔を交互に眺め、さて、と呟いた。
「あなた方も沢山の宝石を死蔵しているのでしょう? 見せて頂きましょう。大丈夫痛くはありませんよ。そちらのお嬢さんは既にご存知でしょうが」
 クスリと笑う思い出屋に、女が後ずさる。それを片腕で庇った慶悟がすかさず符を構えた。
「冗談でも御免被るな」
 思い出屋の手元で獏の絵が揺らぐ。
 爽やかな笑顔のまま、思い出屋は手元の獏に命じる。
「さあお行きなさい。おまえの望むまま掴み取るがいい!」
 ざわりと。
 風も無いのに紙が震える。
 小刻みの振動はやがて大きくなりその小さな紙切れの中から何かを吐き出そうと収縮する。
「…!」
 シュラインは悲鳴を噛み殺した。
 その紙切れの中から、にゅっと何かが這い出てくる。金色の毛皮に、黒の縦縞模様の、それは獣の前脚だった。
 獏は体形は熊、鼻は象、目はサイ、尾は牛、足はトラと言う姿を持つと言われる。
「真名神!」
 女が叫ぶ。しかし慶悟葉動かない。その視線が向かっているだろう先を素早く追ったシュラインは納得しつつも絶望的な思いで唇を噛んだ。
 そこに震える女の姿がまだある。悲鳴をあげる事すら出来ず、ただ立ち竦む女の姿が。
 慶悟は符を打たないのではない。打てないのだ、その女の存在ゆえに。
 ならば。
 シュラインは噛み締めた唇を解放し、すっと息を吸い込んだ。こうなればここまで合流せずに居た事はいっそ幸いだろう。
 思い出屋はシュラインの存在にまだ気付いていない。そして慶悟は『それ』が引き起こす一拍の間を逃すほどお人好しではない筈だ。
 シュラインは目を閉じた。思い出す、旧知の男の声を。縁が腐れるほど鉢合わせ、その都度聞いていた、耳に馴染んだ声だ。思い出すのに時間は要らなかった。
 かっと目を見開き、シュラインは叫んだ。慶悟の声で。
『巽の方・震の方より疾く来たれ雷! 急々!』
 後方から響いた慶悟のものとまるで違わぬ男の声に思い出屋が目を見張る。女もまた驚愕を顔に張り付かせて振り返る。その間を、無論慶悟は逃さなかった。
 女が振り返ったその刹那、再び、今度こそ慶悟から鋭く声が発せられる。
「行け!」
 慶悟の指先へと舞い戻りそこから思い出屋へと飛来する何か。
 そして、思い出屋はどうと音を立てて地へと倒れ伏した。

「いいタイミングで現れたな」
 振り返り、慶悟は荒い息を整えながら言う。女はその姿に目を丸くした。確かに男の声だった。だが現れたのはどこからどう見ようと女の姿だった。それは驚くだろう。
 目を瞬かせる女に、シュラインはは苦笑して『特技なのよ』とまたしても慶悟の声で答えた。そしてシュラインは慶悟に向直り小さく鼻を鳴らした。
「張ってたのよ、思い出屋を。正確にはあんた達を、だけど」
 シュラインは行き倒れ事件の被害者の線からこの件に当たっていた。だから合流が遅れたのだと完結に説明した。
 まみとのやりとりを今ここで詳しく説明する必要はない。
 釈然としない風の慶悟を『結果としてはそれで良かったんだから良しとしなさい』といなしたシュラインは、手の中の紙切れをひらひらと振ってみせる。
「これと」
 シュラインは道路に転がる思い出屋を顎で指し示す。
「それ、どうする?」
「俺としてはとどめの一つも刺しておきたいところだが」
「そんなわけにいかないでしょ」
 冴木・紫(さえき・ゆかり)と名乗った女が足先で思い出屋を突きまわしながら溜息を吐いた。本音としては同感だと言うのが良く分かる行為だ。シュラインも苦い笑みを口の端に刻んだ。
「ま、取り敢えずは警察ね。ここのところ妙な事件も増えてる事だし、無碍にもされないでしょ。それに…」
「それに?」
 紫の問いかけにシュラインは目を細めて視線を投じる。その先に震えて蹲っている女の姿がある。紫は思い出屋を蹴りまわす作業を一時中断して、その女に駆け寄った。
「行き倒れ事件の犯人である事に間違いは無い、か?」
 慶悟の声に、シュラインは頷いた。

 そして、その夜は混迷の収拾をつけながらゆっくりと、明けていった。

「あ…?」
「あら?」
 JR吉祥寺駅を下車、そこからバスで十分弱。
 その店の前に立ったシュラインは近付いてくる女の姿に目を瞬かせた。夕べ見た顔である。
 紫が小走りで駆け寄ってくる。シュラインは紫に片手を上げて合図した。
「来たのね、やっぱり」
 言うと、紫は肩を竦めた。
「まあ。その内もう一人も、来るんじゃないですか?」
「そうみたいね」
 シュラインが苦笑を浮かべる。タイミングを見計らったかのように背の高い男が近付いてきていた。
 それこそ昨夜の己のような登場の仕方である。
「遅かったわね、真名神」
「真打なんでな」
 シュラインの声に、慶悟はにやっと笑って答えた。紫がそれを見てぴくんと眉を跳ね上げる。
「つまり真打登場狙ってたの? 生憎だけど感銘受けてはあげないわよ?」
「…猫でも三日は恩を覚えてるもんなんだがな」
「だからもう一皿奢ってくれたら考えるって言ってるでしょ」
 そう言えば麗香が紫を評していつ見ても金欠で苦しんでいるような子だと言っていた。どうやらその二次災害に慶悟は見舞われたらしい。(要はたかられたのだろう)
 仲がいいのだか悪いのだか分からない(恐らく悪いのだが)言い争いを始める二人を尻目に、シュラインは半地下にある店の入口を眺めて溜息を吐いた。
 恐らくはこの二人の言い争いの理由もそこにある。釈然としないのだ。
 既に時刻は正午を回っている。だがその店は開いていない。半地下の店ならば、そしてこの時間ならば、当然ついているはずの電気の明かりが見えない。人の気配も全く感じない。
 それだけならば当然のことだ。この店の、思い出屋の店主は昨夜警察に連行されたのだから。
 だが、
「…真に勝手ながら閉店させて頂きます、ねえ」
 ガラス戸に貼り付けられた紙を読み上げ、シュラインは眉を顰めた。飽きもせずに言い争いを続けていた二人もぴたりと押し黙る。
 閉店の張り紙。それを誰が、いつ、どうやって貼り付けたと言うのだろう?
 慶悟は目の前の紫を見下ろした。
「あんた…売り払った思い出は戻ってきたのか?」
「残念ながら。…まあ特に残念なものでもないんだけど」
 紫の言葉に、一同は押し黙り、静かな佇まいを見せているその店を見下ろした。
 思い出は戻らない。店もない。
 だが思い出屋は捕まり、これ以上の事件は恐らく発生しない。
「一区切りと見るべきなのね」
 シュラインの声に、紫と慶悟は頷いた。
 釈然としないものを残しながらも。

 その時一陣の風が吹いた。
 その風に一枚の紙が舞い上げられる。それはゲームの中古ショップや、古本屋のチラシに酷似していた。赤や青の派手な色彩のチラシ。
 その外枠の白い部分に、小さくメッセージが記されていることに三人は気付くことはなかった。

『ごきげんよう。またお会いしましょう、その日までご壮健で』

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1021 / 冴木・紫 / 女 / 21 / フリーライター】
【0389 / 真名神・慶悟 / 男 / 20 / 陰陽師】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、里子です。再度の参加ありがとうございました!
 今回より作中の表記に一律で名前のほうを使わせて頂いております。これまでは響きが好みな方を選んで使わせて頂いていたのですけど。
 今後は指定のない限りは名前で統一しようと思います。混乱させてしまった方にはお詫び申し上げます。

 感情のメカニズムはその内完全に解明されるだろうとのことです。
 そもそも脳の研究と言うのは始まったのが遅いそうなんですね、頭部が人間にとって重要な器官であることはずっと前から分かっていたのに。心とか感情とか、そういうものに対する躊躇があったからだとか。
 解明されるってこと事体は悪い事だとは思いませんけど、神秘的なものが内在する余地はやっぱり残して欲しいななんて思います。

 今回はありがとうございました。また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。