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<PCシナリオノベル(シングル)>


雫の心

 鼓膜を震わす、密やかな音。
 水面に大きな波紋を描く小さい雫のような澄んだ音が、細かに世界を伝わった。

 幾重にも重なり、幾重にも広がって。
 それは心の響き。
 普段、誰の耳にも届かないけれど。けれど確実に響き続けている音。

 大丈夫。
 私にはその音が聞こえるから。

   ***   ***

「……まぁ、好んで足を踏み入れたい現場じゃないわね」
 モノリスのように乱立するビル群。
 神の領域を侵すように天を目差す建造物のジャングルの中で、彼女――シュライン・エマは強いビル風に煽られる漆黒の髪を押さえ込んだ。
 蒼い双眸に映るのは、雪のように舞い散る冴えた美しい輝き。
 その一つ一つが網膜に致命傷を負わせる凶悪な煌きであることをシュラインは見止め、いつも胸元にかけてある薄く色付いた眼鏡をかける。
 頭上で幾度目になるか分からない爆発音が轟く。
 まだ僅かに距離がある、正三角形を描くように配置された三連のビル。それが最上階から崩壊していく様を、どこかこの世の物ではないような心地で眺めながら、シュラインは傍らに立つ奇妙な服装をした少年を見返った。
「で、あなたはどうしてもあそこに行きたい――と」
「違う。ひづ留は行かねばならんのだ」
 音に遅れて到達した熱を孕んだ密度の高い風が、きっちりと着こなされたシュラインのスーツの裾を叩く。薄く被った粉塵が、再び風にさらわれて行った。
「行かねば、ならんのだ」
 強く、そして己の意志を確認するように表情を変えぬまま二度呟いたひづ留に、内心で密かな苦笑を送ると、シュラインはようやく風のおさまった天を振り仰ぐ。
 先程まで小虫のように飛び交っていた報道のヘリも今はその姿を消している。当然だろう、彼らの目の前で一機、何かに撃ち抜かれて大地に散ったのだから。
 駆けつけていた消防隊やレスキュー隊も二次災害を懸念して、現在は現場から退去している。
 辺りを支配するのは無気味なまでの静寂。
 突然もたらされたテロ予告と、最初の爆発により流布された避難勧告により、外界で動いているのはシュラインとひづ留だけ。
 否、あともう一人。それは眼前のビルを破壊しているテロリストの少年。
「……変わってるのね」
 視線を高く据えたまま発したシュラインの言葉に、ひづ留が自分より僅かに見上げる位置にある彼女の顔を、ほんの少しの疑問の色を瞳に浮かべて見上げる。
 二人の出会いは偶然の産物。
 パニックを起こして逃げ惑う人々の中に、奔流に逆行し迷わず現場を目差す軽やかな足音を、シュラインが聞きつけてしまったことから始まった。
 無造作に一つにまとめた長い髪を風に任せ、洋装とも和装ともつかない不可思議な衣装に身を包み走る少年。彼がシュラインの現実に属さぬ者であることは、多くの怪事を身を以って体験して来たせいか、すぐに分かってしまった。
 ネタになるかも―――?
 それは、気が付いたら少年を追いかけ彼と共にこの場にいた自分に対する、己でも予知していなかった行動への言い訳かもしれない。
「もちろんどちらもよ。テロ少年になんか会ってどうするつもりなの?」
「分からない。けれど会わねばならないことだけは絶対だ」
 <秋吉ひづ留>と名乗った不可思議な少年は、『精神の墓』だとか『防人』だとかシュラインには意味不明の言葉を連ねた後、たった一つシュラインに告げた。
『ひづ留を彼の元へ連れて行け』
 と。
 聞きようによらなくとも、命じられたとしか思えないひづ留の言に、シュラインは眉を寄せたが、続いた「ひづ留一人の力では無理だ」と言う科白に、体に走った緊張を解いた。
 違うのだ、存在意義が自分達と。
「そう言われてもね。私はあんたが何者か知らないし、探してる相手も何者か知らない。そんな状況かつこんな状態でおいそれと『じゃ、行きましょうか』なんて軽々しくは言えないでしょ?」
「それでもひづ留は行かねばならんのだ。彼の者のあまりに純粋過ぎるが故の魂に、ひづ留の精神は同調を来す。だから逢いたい。どうしても彼に逢いたい」
 このまま放置したら「自分一人では無理だ」と言っておきながら、進んで行きそうなひづ留の様子にシュラインは肩を竦めた。これは最初にひづ留の足音に気付いてしまった自分の負けということなのだろうか。
「……で、その<彼>って誰?」
 暗黙のシュラインの了承に、ひづ留の表情に僅かな安堵の色が浮かぶ。
「名は知らぬ。ただ見た目はひづ留と同じような年齢の少年と言う事は分かっている」
 シュラインはこの返答に言葉を失った。
 とどのつまりが『高校生くらいの少年』という事以外、何も分からないと言うことに他ならない。
 名前さえ知らぬ相手に、それほど逢いたいと願うほど、ひづ留は少年に同調していると言うのか。それはひょっとすると、この惨状を作り上げた本人と同調し、最悪ひづ留が同様の行動に出るかもしれないという危険性を孕んでいるのではないだろうか?
 考え始めて、シュラインは意図的に思考を中断した。
 多分、考えれば考えるほど、予想は悪い方向に向かって行くような予感がしたからだ。
「とにかくあんたはその少年に逢わないと、本来の仕事にも戻れないってことね。それなら……まぁ、乗りかかった船ってことで善処しましょ」
 そして二人は爆発音の続くざわめきの震源地へまだ見ぬ少年を探す為に、人々の流れに逆行したのだ。

 また一つの破砕音と共に、大きなガラスの破片が地上を目指して降り注ぐ。
 それを眺め、シュラインは一度大きく深呼吸をすると、キッと揺るがぬ視線で前を見据える。
「それじゃ、急ぐとしましょうか。このまんまだと自衛隊が出て来て近づける物も近づけなくなっちゃうわ」
 シュラインは弾むようにひづ留の肩を前に押し出した。


「次、右に5メーター程走る。そしたら一旦休憩」
 散乱する瓦礫の山を器用に避けながら二人は猫のようにしなやかに疾走する。
 未だ断続的に続く爆発音と、それに伴って降り注ぐビルの残骸。
 外壁の総てをミラーガラスで覆っていたせいで、辺りはミラーハウスの様相を呈していた。
 何の目印がある訳ではない地点で足を止め、細かく舞うガラスの破片に、シュラインは汗で僅かにズレかけた眼鏡の位置を正す。その瞬間、二人の立つ位置を挟み込むように巨大な瓦礫が砂埃を大きく巻き上げて落下した。
「ギリギリセーフって感じ?」
 爆風をヒールの爪先に力を入れて踏み耐え、衣服に積もった灰塵を振り払う。乾いた唇を舌で舐めると、口の中でジャリッと砂を噛む音が鳴った。
「こんな事になるんだったら運動靴とジーンズにしとけば良かったわね。このスーツ、もうクリーニングに出しても駄目ね」
 結構気に入ってたんだけど。
 はたいても次から次に舞い上がる埃と、繕っても誤魔化しようのないレベルで裂けてしまった部分のあるスーツに、シュラインは唇を歪める。
「……なぜ物が落下する場所が分かるんだ?」
「あら、知らないの? 女の勘ってヤツよ。女は逆境に強いから――嘘よ。音が聞こえるの」
 明らかないぶかしみを込めた視線を間近に受けて、シュラインが笑う。
「爆発音に引き続く物の空気を裂く音。その音で落ちてくる物の大きさや場所くらいなら結構簡単に分かるものよ」
「最近の人間はそんなことも出来るのか?」
 あまりに見当違いのひづ留の解釈に、シュラインは吹き出すのを必死に堪えて『さぁね、それはどうでしょう?』と軽やかに嘯いた。
「で、どうなの? 目的の彼には近付いてそう?」
 未だ納得の行かない風のひづ留だったが、シュラインの問いかけに意識を集中するように目蓋を落とす。急激に張り詰めた空気に、シュラインはテロリストの少年を探すひづ留の意識の糸が見えるような錯覚を覚える。
「同調度が高まって来ているから……多分、もうそんなに遠くない」
「それじゃ、ビルの中には入らなくても良さそう?」
「その必要性はない」
 ひづ留の言葉に、シュラインは大きく息を吐き出すと、その場に片膝を付くとアスファルトの大地にそっと手の平を押し付けた。
「何をしている?」
「悪いけど、ちょっと黙っててもらえるかしら?」
 瞼を伏せる。
 閉ざされた視界により鋭敏化された感覚が、指先が触れた大地を伝う僅かな音を一つ一つ拾い上げて行く。
 傍らにたたずんだままのひづ留は、固唾を飲んでシュラインの様子を見守った。
「……確かに、ビルの崩壊は止まってるみたい。それなら後は簡単ね」
 スックリと背を伸ばしてシュラインが立ち上がる。彼女の卓抜した聴覚は、現在ビルの破壊が小休止に入っている事を聞き取っていた。
 人の力が作り出したのではない自然の風が、シュラインとひづ留の頬を優しく撫でる。
「それじゃ、行きましょうか」
 綺麗に爪を切り揃えられた白くしなやかな手がひづ留の前に差し出された。
 ひづ留はシュラインの顔と差し出された手を交互に見遣ってから、意を決したようにそれを取る。
「ここから先は私は目を瞑っていくから。申し訳ないけど足元のナビよろしくね」
「ナビ?」
「航海者。つまりは導き手ってこと。ってわけでテロ少年見つけるまで私を転ばせないでね」
 柔らかく目蓋を落とす。
 意識の裾野を広げ、聞き取る事の出来る音を、砂の中から砂金を見つける慎重さで探し出していく。

 耳を澄ませ
 どんな音にも驚かないように。心を波のない水面のように落ち着けて
 テロリストの少年
 純粋な心の持ち主
 弾む足音
 歓びに沸き上がる心音

 おずおずとシュラインの手を引くひづ留の鼓動もヒントの一つ。彼と未だ見ぬ少年は同調しているのだから。

 探し出せ
 見つけ出せ
 拾い上げろ

「……見つけたわ」
 意識の糸を耳に収束させたまま、シュラインの唇がかすかにそう言葉を象った。
 確かにそう遠くはない、けれど近くもない場所に彼はいる。息が上がるほどに弾んだ心音を落ち着かせるように、ただ静かに立ち尽くしている。
 絶間なく混ざる乾いた音は、恐らく彼が砂塵の上に在る証拠。その音が地を滑る響きだけを纏わせたまま、自分達の足元まで運ばれて来る。幾重もの残骸の山を、風にさらわれ運ばれて。
「確かに彼はビルの外にいるようね。……取り敢えず、このまま真っ直ぐ進んでもらえる」
 捉えた微かな糸を離さぬように伏せた目蓋はそのままに、シュラインはひづ留に手を引かれて歩き始めた。時折立ち止まり、的確にただ一点を目指して。
 そして二人は辿り着き、出会う。この惨状を作り出した、その本人に。


「あのさぁ、あんたら何?」
 まるで不浄の下界を眺める神のような尊大さで、瓦礫の山の頂点に彼はいた。
 学生服に酷似した着衣には目立った汚れはなく、ともすればただの高校生が紛れ込んでいるようにしか見えない。
 しかし、彼の手にしたハンドガンが静かに現実を物語っていた。
「で、こいつで間違いない?」
 尊大不遜炸裂少年の発言を綺麗に無視し、シュラインが傍らのひづ留に<逢いたい>人物が彼であったのかを確認する。
「間違いない。この者がひづ留を呼んだ者だ」
「なぁにごちゃごちゃ言ってんだよっ」
 乱入者の態度に苛立ちを抑える様子もなく、少年が瓦礫の山から乱暴に二人のすぐ近くに降り立った。それと同時に舞い上がった砂埃に、シュラインは口元を押さえながら不快気に眉根を寄せ、ほとんど距離のなくなった少年の顔を一瞥する。
「あんたこそ誰?」
「うっわー、信じられねぇくらいシツレイなオトナ。相手にモノを尋ねる時は自分から、って習わなかった?」
 最初に問うて来たのはどっちかしら?
 口に出すまでもないコメントを、シュラインは敢えて飲みこんだ。物事を穏便に運ぶ為には、ムキになるのは禁物なことは重々承知している。
「私はシュライン……まぁ、通りすがりでこの子に頼まれてあんたを探してたの。で、こっちはひづ留。これで自己紹介はOK?」
 じっと少年に目を向けたままのひづ留の分までシュラインが名乗った瞬間、周囲を包んでいた刺すような空気が、僅かに緩んだ。
「……ふーん。ま、いっか。俺はトキ・リグローズ。で、ひづ留とか言うヤツはなんで俺を探してたわけ?」
 見た目、警察とかそんなんとは無関係っぽいし。
 トキ――そう名乗った少年の表情に笑みが浮かぶ。それだけで張り詰めていた雰囲気が一気に解け出す。
 シュラインはその劇的な変化に息を止めた。
 この少年は、確かに純粋なのだ……怖いほどに。提供された答えに素直に納得し、それに対する疑いを持つこともない。
 けれど――それは本当に良いこと?
「さぁ……私はトキ君に逢いたいとしか聞いてないから。それより、トキ君はなんでこんなことを?」
 変わらず無言を通すひづ留に代わり、シュラインは目の前の少年の奇行の理由を問う。
 トキに示す様にグルリと巡らせたシュラインの視界に映るのは、非日常的な惨状。それだけでトキが<普通>でないことは、逆らい難い現実として圧し掛かって来る。
「理由? ちょー簡単じゃん。だってここのビルのオーナーだっけ? こないだなんとかって会社の不正ギワクで捕まったじゃん。なのに、まるで何事もなかったように、こんなもんがここに建ってるのってマチガイだと思わない?」
 ゾクリ
 背筋を走りぬけた戦慄にシュラインは身を硬くした。
「あんたっ……そんなっ」
 続ける筈だった言葉は紡がれずに封じ込められる。明かにトキの行動を否定するシュラインの反応に、トキの表情に浮かんでいた笑顔が消え落ちたのだ。
 代わりにトキが纏ったのは<邪気>という名の衣。
 その混ざり気のない純粋な感情に、あらゆる修羅場を掻い潜って来たシュラインさえ、半歩引き摺る様に後ずさった。
「俺はさー、正義の為にこの罪の証のビルを壊してあげてるわけ。分かる?? なんってーの、汚れた世界の浄化? とにかくそーゆーワケなわけ。っつーことで、邪魔しないでくんない?」
 トキが右手に握ったハンドガンのトリガーに指をかける。
 その瞬間、それまで無言を通してきたひづ留が不意に動いた。
「お前は間違っている!」
 天を指すように掲げられたひづ留の右腕に、黒い一羽の鳥が大きな羽音を伴い舞い下りる。
「八咫烏っ!?」
 三本足の烏。伝承の中の筈の生き物の到来が、その場の緊張感を一気に高めて行く。 
「お前には、それを裁く権利はない。だからお前は間違っている」
 そう言いきり、ひづ留は自分の指の薄皮を食い千切り、ぷっくりと溢れ出した鮮血を八咫烏に分け与えた。次の瞬間、八咫烏は元の形を失い、剣の形を取ってひづ留の手の中に鈍色に耀きながら納まる。
 トキがそれを一瞥し、明かな敵意に顔を歪める。
「お前ら、ムカツク。いったい何様? ってかマジウザい。だから俺の邪魔ってことは、世界の邪魔に決定。んなわけで、消えてくれる? っつーか――消す!」
「それは此方の台詞だっ!」
 高まる鼓動。
 熱風を巻き起こさんばかりに、激しくぶつかる意思と意思。
 先ほどまで限りなく先鋭化されていたシュラインの聴覚に、その音はいっそ物理的な攻撃の方がマシなほど苛烈に突き刺さった。
 反射的に瞑ってしった目蓋の裏に赤い光が明滅する。シュラインは両手で必死に自分の耳を覆い、最初の衝撃をやり過ごそうと自分の内側にある音だけに意識を集中した。
 やはり連れてきてはいけなかったのか。
 ひづ留はトキに同調し引き摺られ、戦意を剥き出しにしたのではないか。
 純粋過ぎる想いの激突。
 どちらもそれが<間違った事>だとは思っていないから、恐らくどちらかが倒れるまでこの戦いは続くのかもしれない――物理的な邪魔が入る、その時まで。
 けれど、それまで二人が無事とは限らない。
 ビッと何かが近くで弾ける音に、シュラインは両耳を塞いだまま目を開く。
 トキの手にしたハンドガンから目には見えない力が放出され、その何かをひづ留の剣が受けとめ撥ね返す。
 二人の人知を凌駕した戦いの衝撃波により、シュラインの髪をまとめていたリボンは引き千切られ、無残な姿となって少し離れた所まで吹き飛ばされていた。
 先ほど何かが弾けた音は、リボンが切れた音だったのだと、シュラインは局地的に発生した烈風に煽られた自身の髪に頬を叩かれ理解する。

 違う。
 この戦いはどちらも違う。
 純粋とは本当に良い事?
 彼等のそれは盲信のそれとどこが違う?
 幾多の難事を超えて辿り付く平穏の先にある唯一のものとは明かに異質。

 ――純粋が悪いとは言わない
 ――穢れない魂は貴いものであるとは思う
 ――けれど、それに物事を判断させるのは酷く危険

 雑音のない世界には、たった一つの音は大きく響く。
 それが良い事であろうと、悪い事であろうと。
 たくさんの音が入り混じっていれば、相殺され小さな揺らぎになるであろうに。

 シュラインは両足に力を込め、砂塵に塗れた大地を踏みしめた。叩き付ける風によろめきそうになりながら、眼鏡をかけなおし二人の戦いを直視する。
 そして、刹那。
 トキの表情に浮かぶ迷いを見出す。
 同調しているひづ留の顔にも困惑の色がまざまざと刻まれている。
「………なんだっつーんだよッ」
 ひづ留から弾き返された力の余波に体勢を崩しながら、トキが絶叫を迸らせ、大地を叩く。
「俺こんなん知らねぇよっ! なんだよお前!! なんで俺にそんなんぶつけて来るんだよ!! 俺、間違ってねぇだろッ」
 その瞳が困惑に揺らぐ。
 自分と同等の純粋な力をぶつけられた事により、トキの中に何かが芽生え始めていた。そんなトキの状況に、必然的にひづ留の動きにも迷いが生じる。
 荒らぶる魂に生まれた間隙。
 そして奇跡的に到来した静寂の世界に、一つの音が踊った。
 ブラームスの子守歌。
 眼鏡を胸元に戻し、両手を大きく広げシュラインは全てを包み込むように謳い上げる。
 山のように積み重なったビルの残骸に声は幾重にも反響し、水面を揺らす波紋の様に張り詰めた世界に柔らかく響き渡った。
「……どう、二人とも少しは落ち着いた?」
 カランと小さな小石が瓦礫から崩れ落ちる音が大きく聞こえるほど、穏やかな静けさを世界が取り戻したことを確認し、シュラインは歌う事を止め、ペタリと地面に座り込んだ二人に真摯な眼差しを向ける。
「トキ君……確かにこのビルのオーナーは悪い事をしたのかもしれない。けれどそれはこのビルを破壊して良いって事じゃない。それをすることでいったいどれだけの人達に新しい迷惑をかけることになるか分からないから」
 まだ呆然とするトキの前にシュラインは視線を合わせるように膝を折った。鼻先を擽るほどの至近距離で、トキの赤味を帯びた前髪が、消え入りそうな炎のように風に攫われる。
「それにね……私は、誰かの一存で誰かを裁く権利なんてないと思うの」
 成された事実を悪と見なすか、それとも善と見なすか。
 それは一己の人間で判断する事は、酷く危険であり、そして酷く困難なこと。目の前の少年の魂は、それを理解できないほどに、今はまだ幼い。
 だから、同質の純粋さに驚愕を覚えて自己が揺らぐ。
 それは恐らく彼の中に生まれて初めて芽生えた痼り。
「……そんなこと……俺にはわからな……」
「そうね、今はまだ分からないかもしれない。でも、これから先、君はそのことを分からなきゃいけない」
 シュラインの蒼い双眸が、トキの赤い瞳を真っ直ぐに捉えた。その視線に篭る強さにトキは耐えられず視線を反らす。
「トキ……お前はひづ留と一つ約束をしろ」
 不意に陰る視界。声で誰かは分かっていても、シュラインはゆっくりと背後を振りかえった。過度の同調は既に去ったのか、冷静さを取り戻したひづ留の手に剣はない。
 バラバラと蒼天に機械の羽音が響き始めた。
「ひづ留はお前に同調して、お前の意を知った。ひづ留は一概にお前を否定する気はない――しかし、この女が言う通り、お前は知らねばならぬ事が余りに多い」
 それを知らねば、お前はお前の揺らぎが生み出した歪に飲まれ、いずれ精神を崩壊されるだろう。
 予言――否、宣告。
 その弁にひづ留は何かを反論しかけたが、硬く唇を引き結んだ。感情を喪失していた瞳に、耀きが――先ほどまでの色合いとは確かに何かが違う光が生まれているのを、シュラインは認め心の中で安堵の息を吐き出す。
「だから、お前はこのひづ留と約束を交わせ」
「……何?」
 ひづ留がシュラインとトキの間に割って入りながら、まだ座り込んだままの少年に手を差し伸べる。トキはその手を面倒くさ気に一度振り払ったが、思い直したようにゆっくりと取った。
 ひづ留が引っ張り上げるようにしてトキを立ち上がらせる。それを眺めながら、シュラインも一歩下がりながら腰を上げた。
「お前はこれから―――」
 空を間近に飛ぶヘリコプターのプロペラ音が震わせる。見上げた空には、事態の変化を察知したのか数機の報道ヘリが舞っていた。
「……分かったよ。約束してやる」
 爆音に二人の約束の内容を聞き取り損ねたが、彼等の鼓動の脈打つ音の安定感に、シュラインは表情を緩める。
 大丈夫、きっと大丈夫。
 トキ、そしてひづ留の心の雫が作り出す音の波紋は、まだ幾ばくかの脆さを抱えはするが、先ほどまでの針の先端のような危うさはない。
「では、ひづ留はもう行く。世話になったな、礼を言う」
 一度シュラインに礼儀正しく頭を下げたひづ留は、世界に溶け込むようにシュラインの眼前で姿を忽然と消した。
 それとなしに予想はしていたものの、あまりの出来事に言葉を失ったシュラインの肩をトキが軽く小突く。
「なんっつーか……一人でさっさと行っちまってズルイとおもわねぇ?」
 論点はそこではないような気がするのだけれど。
 俄に痛み出したこめかみを人差し指で押さえながら、シュラインは小さく唸った。どうにも自分がこの手の事件で出会う人々――人と呼んで良いのか不明な輩も中にはいるが――は常識という物差で計るに堪えない事が多過ぎるような気がする。
「ほんじゃぁ、俺も行くから」
「こらっ、あんたはちょっと待ちなさい」
 背を向け歩き出したトキの首根っこを、シュラインは無理矢理捕まえた。突然絞められた喉元に、トキが潰れた声を上げて抗議したが、当然そんなものを聞く義理はない。
「本当なら、あんたをこの事件の犯人として警察に突き出さなきゃいけないトコなんだけど……まぁ、それは仕方ないとして」
 『仕方ない』のではない。
 この少年を突き出した所で、世間が信用する筈がないと分かっているのだ。常識と言う強固な鱗で覆われた現実は、この少年と言う存在自体を受け入れる事はないだろう。
 だからせめて、真実を知る者が戒めとならなくてはならない。
「あんたにはこの事件の責任を負う必要があるわ。だから、私とも約束しなさい。絶対にこの事を忘れないと、犠牲になったもの全ての重さを背負って生きていくと」
「……………」
「私はトキ君の鼓動の音を忘れない。だから責から逃れようとしたら、きっと分かる」
「……どうすれば良いのか俺にはわからない」
 恐らく自分の犯した罪の重さにも気付いていないだろうトキは、逃れる事を許さぬ強いシュラインの視線に縛られ、絞り出すようにそれだけを口にした。
「取り敢えず、祈りなさい。出来ないのであれば、歌うのでも良いわ。毎日必ず、そうして思い出しなさい、自分のしたことを」
 そうしてシュラインは、再び二人の戦いを止めた子守歌を小さく口ずさむ。
 変わり始めているトキが、自分の罪の重さに気付く日がいつか来ると、そう祈りを込めて。
「……分かったわね?」
「なんとなくりょーかい」
「それじゃ、行きなさい」
 捕まえていた襟首を放し、シュラインはトキの背中を押した。彼の返答に少なからずの不満と不安がなかった訳ではないが、今はトキの安定したリズムを刻む心音を信じるしかない。そして、急激に騒がしくなり始めた周囲の状況が、ゆっくりはしていられない現実を伝えていた。
「おねーさんも、急いだ方が良いよー」
 駆け出したトキが瓦礫の山の間からひょっこりと顔だけ覗かせ、シュラインに大きく手を振る。
 衣服に着いた埃を払っていたシュラインは、それに小さく応えて多少の苦さを含んだ笑みを頬に刻んだ。
 そして、誰に届けるわけでなく一人ごちる。
「人はね、色んな事を吸収して成長して行くのよ。純粋なだけでは……きっと……」
 呟きは風に乗り、ざわめきを取り戻しつつある世界の雑多な音に混ざって行く。
 けれど消えず、いずれ誰かの心に届く揺らぎになるだろう。
 それは元の形を失い、人の意識に触れるものではなくなっているだろうけれど。
 それでも、幾重にも重なり、幾重にも広がって。
 それは心から零れた雫の響き。
 普段、誰の耳にも届かないけれど。けれど確実に響き続けている音。
「さーって、私も行かなきゃね」
 これ以上、この件に関する面倒に巻き込まれるのはゴメンだし、普段ならとっくに顔を出している時間に姿を見せない事に、草間興信所の面々も心配しているかもしれない。
 敢えてトキが向かったのとは反対の、そして人の足音が聞こえないビルの残骸で空からは死角になる位置を選んでシュラインも駆け出した。