コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


東京怪談・草間興信所「心の宝石【後】」

■オープニング■
『ごきげんよう。またお会いしましょう、その日までご壮健で』

 草間は荒々しく電話を切り、拳をデスクに叩き付けた。これで三度目になる、完遂という形ではなく依頼が終了するのは。
 草間は眉間に皺を刻み煙草を噴かした。
 月刊アトラスの今月号にこんな記事が載っていた。
『記憶強盗、現る!』
 女性が人事不省状態で保護される。数週間前から連発していた事件の犯人が、思い出屋という店の店主だったという記事だ。思い出屋は彼女らから商品…つまり記憶を奪い取り、そして『記憶を奪い取られた』と言う記憶をも奪って路上に捨てていたという。
 その記事を見た被害者が麗香経由で依頼を出してきていた。『記憶を取り戻してくれ』と。
 完遂でなく終了したのはどれもその依頼だった。一人は入院、もう二人は自ら命を絶った。
『売り物になるような記憶ってどんなものだと思う?』
 資料を差し出しながら麗香はそう言った。
 大切な記憶。売りに出せるほど、心地良い、大切な。
 奪われた彼女らの不安、そして空白は如何ほどのものだったのだろう?
 その答えがこれらの依頼であり、そして終了だ。彼女らは喪失に耐えられなかった。
 彼女らは救いを求めてこの事務所を訪れた。そして草間らはそれに応えられなかった。
 だからその依頼者達の訪れは草間興信所の面々をこれ以上なく奮起させた。
「坂下まみです」
 女ははっきりとそう名乗り、そして隣に腰掛けたもう一人の女を示した。こちらはまみと名乗った女とは対照的に、哀れなほどに青ざめている。
「そして…水野巴さんです」
 草間は目を見開き、二人を交互に伺った。それは報道された限りのあの事件の最後の被害者の名であり、そして被害者となるところを免れた女の名である。
「私の記憶を取り戻して欲しいんです。…そして、彼女の」
「…私の…私の記憶を守って下さい」
 巴は一枚の紙をテーブルに乗せた。極彩色のチラシである。外枠の白い部分に、小さくメッセージが記されている。
『ごきげんよう、近くお伺いいたします』
「…巫山戯た野郎だな」
 草間は忌々しげに吐き出した。
 そして二人に視線を戻し、大きく頷いた。

■本編■
 真名神・慶悟(まながみ・けいご)は実の所少し後悔していた。
 人生だとか生活だとか、そう言った意味合いでの深刻なものではないが、現状ではかなり深刻かもしれない後悔だった。
 草間興信所内に絶えず響いていたカタカタと言う小さな音がふいに止まった。
 んーっと思い切り腕を振り上げて冴木・紫(さえき・ゆかり)が伸びをする。
 空は気持ちがいいほど晴れているというのにこうして室内に篭って延々とキーボードを叩いているというのは健康的とは言い難い。
 首筋に手を当ててこきこきと関節を鳴らした紫は、再びノートパソコンに向かった。
 コラムだろうがなんだろうが兎に角何かを書かなければ紫に明日は無いのかもしれない。
「仕事よ仕事!」
「…内職っていいません、この事態では」
 紫の気合に水を注すように、低い女の声が割って入る。しかし紫はノートパソコンの液晶画面から視線を上げはしなかった。
「時間って言うのは限りある資源なんだから、有益に使うべきでしょ」
「それは結構な信念だと思いますけど…」
 なおも食い下がってくる女、坂下まみに、紫は漸く顔を上げた。顔を上げた先に憮然とした顔で紫を睨むまみと、不安げな顔で俯いている水野巴の姿がある。紫は二人を交互に見やると顔の前でピコリと人差し指を立て重々しく宣言した。
「この事態で真剣に護衛しろって言われても不可能なのよ」
 その声に慶悟の頬はひくりと反応した。
 紫は立てた人差し指をくるりと回す。それに釣られるようにまみの視線が小奇麗とは言いがたい事務所をぐるりと一瞥した。
 窓際にまみ、その隣に巴。入口付近にまた巴、給湯室近くにまみ。ソファーの後ろには紫までいる。性質の悪い戯曲でも見ているかのようだ。
「…それは、まあ」
 ばっちりと再確認してしまったらしいまみは、流石に紫の言葉に刃向かっては来なかった。
 紫はそれに頷き、肩をすくめた。
「すごい趣味だわ。なんて言うかこう、バッチリ悪夢?」
「……なにが言いたいんだあんたは?」
 後ろから低く声をかけても、勿論紫は動じなかった。絶対に分かっていて言っている。
 紫は振り返りもせずに言った。
「あらいたの真名神」
 慶悟は渋面を作って紫の後頭部を睨みつけた。
「その面の皮の厚さは驚異だな」
「力一杯大きなお世話よ」
 紫はソファーの背もたれに寄りかかってカクンと顎を上向け、慶悟を見上げる。
「第一ね、あなた人の事どうこういえた立場じゃないんじゃない?」
 う、と、慶悟は言葉に詰まった。
 部屋中に散らばったまみや巴、紫の姿は慶悟作の式神である。思い出屋を視覚的に撹乱するという目的で似姿を取らせてある。その発案事態は、慶悟も、紫も、そしてこの小奇麗とは言えない事務所の持ち主である所の草間も理解したし寧ろ歓迎したのだが。
 しかし右に巴左にも巴、右にまみ左にまみ、紫やら慶悟やら今は調査に出ていて居ない筈のシュライン・エマ(しゅらいん・えま)やらがひしめき合う室内というものは、予想をぶっちぎってひたすらに不気味だった。
 思い出屋が水野巴を狙ってくるのなら打って出る必要はない。待ち構えればいい。
 その篭城の場所がこうも不気味では、それは文句の一つも出ようと言うものだろう。
「まさかと思うけどこうやって式に好きな姿取らせてお人形さんごっこしてるとか無いでしょうね?」
「…その軽い口を閉じろ」
 慶悟の声に殺気が混じる。しかし紫はふふんと鼻を鳴らしただけだった。だらりと背もたれに身を預けた姿勢のまま軽く言う。
「閉じなかったらどうするつもりなわけ?」
 この余裕に皹を入れる切り札を、慶悟は一つだけ保持していた。勿論躊躇無くそれを口にした。
「今日の食事代は自腹を切るんだな」
「……」
 速攻紫が謝ったことなど言うまでもない。

 事務所に戻って来たシュラインは入口でまず立ち尽くした。
 数人の依頼人や慶悟や紫、そして己がひしめき合う室内に、流石に怯んだようだった。
 素早く立ち直ったシュラインは、相も変わらず下らない言い争いを続けている慶悟と紫の間に割って入った。
「懲りないわねあんた達も」
 慶悟は憮然とした顔で腕を組む。
「俺をこれと一緒にしないで貰えるか?」
「いい暇つぶしにはなるのよこれはこれで」
「ちょっと待て、あんたそう言う目的で俺に絡んできてるのか?」
「他に何があるっての?」
「ああもう、いい加減にしなさいっ!」
 年長者に一喝されて、二人は押し黙った。
 シュラインは痛み出したこめかみに指先を当てて眉間に皺を刻んだ。それはそうだろう、どう見ても前回より激化している。
 コホンと咳払いを落とした慶悟は空いているソファーをシュラインに指し示した。シュラインはふうと息を落として、それからそのソファーに腰を下ろした。
 既に深夜、巴とまみは資料室で横になっている。そちらの方は今草間と零、そして慶悟の式が見張りに付いている。
 紫が淹れてきた紅茶を一口啜り、人心地ついたシュラインはその日の調査結果を語りだした。
 思い出屋。本名三越孝治。二十八歳。外科医。
「分かったのはそのくらいのことよ。警察のデータベース使わせてもらってこの程度。逮捕暦なし」
「え? だってこの間のは?」
 思い出屋は逮捕されている。他ならぬこの三人が警察に突き出したのだから間違いはない。
 慶悟は忌々しげに吐き捨てた。
「あれが記憶をどうこうできる事を忘れたか? 通報があった記憶をその場に居る全員から根こそぎ奪って、後はそら惚ければ済むことだ」
 それよりもと簡単なプロフィールの中の一つの項目に慶悟は反応した。
「…外科医?」
 シュラインは大きく頷き、膝の上で手を組んだ。紫もまた身を乗り出してくる。
「それってやっぱり脳外科、ってことなの?」
「らしいわよ」
 紫は少し考える顔になった。
「…脳外科と記憶…符合はするけどどうもピンと来ないわね。何が目的なの?」
「というよりも医療技術なんかをまともに学んだやからがなんだってこんなことに手を染めてきてるんだ?」
 さあ、と、シュラインは肩を竦めた。
「単に宝石集めたかった…? そうねどうにもしっくり来ないわ」
 でしょー? と紫が応じる。
 横合いから軽い調子の声が会話に混じったのはちょうどその時。
「おやお分かりになりませんか?」
「さっぱりだ。_____!?」
 やはり軽い調子で応じた慶悟は一拍の間の後目を剥いた。
 聞き覚えのあるその声、その人を食ったような口調。
 全員が弾かれたように腰を浮かせ、入口へと視線を投げる。
「ごきげんよう。またお会いできましたね?」
 思い出屋は人好きのする笑顔を浮かべ恭しく腰を折った。

「エマ! 冴木!」
 女二人の動揺を悟り、慶悟は鋭い叫び声を上げた。
 呆然としていて貰っては困る。既に慶悟は符を構えて立っている。
 思い出屋は三人を満足げに見やり、拳を口元に当ててクスクスと笑った。
「そう殺気立たなくとも。私は別にあなた方に危害を加えに来たわけではありませんから」
「人を襲って記憶取ろうってのが危害じゃないとでも言う訳?」
 冷ややかな紫の声に、思い出屋は肩を竦めて見せた。
「なにも総ての記憶を頂戴しようとは言ってないでしょう? 無害だという事はあなたは身を持って知っているはずだ」
「私はね」
 ふんと紫は鼻を鳴らした。それに乗じるようにそしてシュラインと紫の二人を背に庇うように、ずいと慶悟は身を乗り出した。
「無害だと? 既に二人…自殺に追い込んで、その上で無害だというつもりか?」
「無害ですよ」
 思い出屋はチロリと紫を一瞥した。
「無害だったはずです。彼女達が『自分が何かを失ったかもしれない』と知覚することがなければね。そう…あんな記事さえ見なければ」
 はっと紫は口元を抑えた。その記事を書いたのは確かに紫なのだ。
 紫に微笑み、思い出屋は尚も容赦なく言葉を継ぐ。
「あの記事を見ていない人の中に自殺を試みた人など居ません。記憶を無くしたという意識がなければ彼女達は何も気付きはしなかった、知らぬままなら何一つ問題は無かった筈です。あなたが、お書きになったあの記事をね」
「…それは…っ」
 紫が思わず思い出屋から顔を背ける。よろめく紫を、シュラインが支える。
「話をすりかえないで。そもそもあんたが人の記憶なんか抜かなければこんな事にはならなかったはずでしょ?」
「それは勿論」
 あっさりと思い出屋は頷く。
「私にはそれが必要でしたから」
「…何故だ?」
 慶悟の問いに、思い出屋はさもおかしそうにクックと喉を鳴らす。
「私は脳…感情、記憶のメカニズム総てを解明したいだけです」
 言って思い出屋は手を振り上げた。いっそ優雅なほどの動きで翳された手の後ろからずるりと、既に紙から現出してしまっている獏が姿を現す。一頭ならず。
 宙に浮かび上がり岩を擦りあわせたような低い唸り声を上げる獏の姿に、慶悟は振り返らぬままに叫んだ。
「エマ! 冴木!」
 未だ動揺したままの紫を肘で弾き飛ばす。
 肘で突き飛ばされ、紫は漸く我に返った。
 引き起こした結果に混乱するのも後悔するのも後だ。今すべきはそんな内に向かう思考などでは断じてない。正気に戻れば気付けぬほどに愚かな女では無い筈だ。
 シュラインと顔を見合わせた紫はばっとソファーの向こうにあるドアに飛びついた。少し遅れてシュラインもそれに続く。
「任せたわよ!」
 届いた紫の声に、慶悟はそんな場合ではない事は分かっていたが少しだけ口元を綻ばせた。
 後方から襲われる不安はあるはずだ。だが心配はしていない。その程度には紫は慶悟を信用しているのだ、何だかんだといいつつも。
 そして慶悟もまた。
 まみと巴は二人に預けて大丈夫だろう。
 そう信じ、慶悟は重心を落として身構えた。

「やれやれ、獲物を少し逃がしてしまいましたね」
 ふっと思い出屋が溜息を吐く。それに慶悟はぴくんと眉を跳ね上げた。
「少し?」
「ええ、二人ほど女性を」
 無論巴とまみの事だろう、慶悟はそう考えた。だからこそ次の思い出屋の言葉に驚愕を隠せなかった。
「冴木紫さんとシュライン・エマさんを」
「なん、だと…?」
「極普通の女性の記憶よりも、極普通でない女性や男性の記憶の方が私には遥かに意味があります」
「…つまり、水野巴に寄越した予告状は…俺たちを釣るエサか」
 知らず、慶悟の声はトーンを落とした。
 予告紛いの真似を目の前で被害にあい掛けた女に仕掛ければ確かに紫もシュラインも、そして慶悟も動いただろう。事実動いている。
 ただそれだけのために、釣るエサとする為だけに、蒼白になって怯え怪奇事件専門探偵などと言う妖しげな場所を頼るほどの恐怖を巴に与えたというのか。
 火のような怒りが湧き上がった。
 聖人君子を気取るつもりなど無い。お人よしでもありえない。(紫にたかられ倒していようとも)
 それでも、この男は許せなかった。
「追わせてやる気は無いぞ」
「随分と嫌われたものだ」
 思い出屋はさも残念そうに慶悟を見やる。
「私がしている事はそう悪い事でもないはずなのですがね」
「どの口が言うか!」
 既に二人を自殺に追い込んでおいてぬけぬけと。
 嫌悪を隠そうともせずに顔をしかめる慶悟に、思い出屋は目を細めて首を振る。
「言ったでしょう?」
「何をだ?」
「私は脳…感情、記憶のメカニズム総てを解明したいだけだと」
 思い出屋はどこかうっとりと虚空に視線を投じる。
「私はね、曖昧さが許せないんです」
 そう言って思い出屋は自らの頭を指差す。
「脳は謎だと言ったのはチャールズ・シェリントンでしたか…そんな謎はね、無くていい。脳もまた人体である以上真実を究明する手から逃れていいはずがない。『心』と言う概念も本来生物学の領域であるべきなんです」
 うっとりとどこか夢見るように思い出屋は語る。着崩す事無くきっちりと着込んだスールも物柔らかな声も硬質の美貌も初めてこの男を見たときから変わることはない。
 だが今思い出屋には決定的に欠けているものがあった。
 正気と言う、その一つだけが決定的に。
 そしてその正気でない男の望みは…
「つまり俺達はその為のサンプルか?」
 その為に、感情や記憶と言う曖昧な概念を生物学の領域にまで持ってくるその為により多くのサンプルを欲しているのだ、この男は。
 愉悦などではない。その方がまだ可愛げがある。
 この男にとって自分達はサンプル。実験用のモルモットに過ぎないのだ。
 にっこりと笑って思い出屋はあっさりと頷いた。
「まあ、あなたは多少手強そうですが、他のお二人はそうではなさそうですし」
 現出した獏がぎらりと目を輝かせる。慶悟の背に戦慄が走った。いくら式の助けを借りようとも、こんなものを二匹も同時にけしかけられては溜まったものではない。
 慶悟の動揺を読んだのだろう、思い出屋は慈悲深く笑んだ。
「つもりが無くとも追わせて頂きます。あなたにはこの二頭を遊び相手に置いて行ってあげますから安心なさい」
「ま…!」
 待てとさえ、言う暇はなかった。
 虚空に爪を立てた獏が跳躍するのと同時に、思い出屋は身を翻した。追うよりもまず、慶悟は獏を片付けねばならなかった。

 ひゅっと顔の横を獏がすり抜けていく。一房髪を飛ばされて、慶悟はひゅうっと口笛を吹いた。
 余裕など無いが、ある振りでもしなければ焦燥でどうにかなりそうだった。
 シュライン達には式を一つ、付けてある。命じれば守ることはできるかもしれないが思い出屋が相手ではあまりにも分が悪かった。
 唸り声を上げて獏が上体を伏せる。じりじりと間合いを詰めてくるその様は肉食獣そのものだ。実際は肉どころか訳の分からないものを糧とする生き物ではあるが。
 だが、だからこそだろうか。
 獏を避けながら慶悟は下唇を舐めた。
 本来の野生の獣が持つような、それこそ野生ともいえるべき気転がこの二頭の獏にはない。人間というあまり素早くない生餌など、本当に野生の生物であれば苦も無く引き裂いているはずだ。
「…行けるか?」
 呪と共に部屋中に散らばっている、巴やまみ、紫やシュラインの姿を模した式に命じる。
 ただ捕らえよと。
 そしてそれによって苦も無く、慶悟は二匹の獣を討ち果たした。

 ひょこりと奥の部屋から顔を出した草間は部屋の上体に目を剥いた。しかしその驚愕は一瞬の事で、草間はすぐに慶悟に視線を投じた。
 草間も馬鹿ではない。その場に最も倒れていなければならないものの影がないことに気付いたのだ。
 思い出屋はここにはいない。
「…急いでくれ」
「ああ」
 慶悟は頷き、ドアへと走った。
「依頼人も心配だが…あの女どものことだ、何をしでかしているかわからんからな」
 ぼそりと呟いた草間の声が、慶悟の背中を追いかけてくる。
 それに振り返ることはしなかったが、慶悟は少しだけ笑った。
 シュラインの性格は熟知していたし、紫の性格もここの所の関わりで嫌と言うほど思い知らされている。
 確かに、何をしでかすかわからない女どもでは、あった。
 だが慶悟が笑ったのはその為ではなく、心配だと口に出せない草間の素直でないいい口の為だった。

 式を頼りに慶悟がその児童公園に駆けつけた時、その場はすでに戦闘の匂いを醸し出し始めていた。
 思い出屋が両手を広げている。その両腕に被さるように二頭の獏がぬっと暗闇から顔を出す。
 獣のものとも人のものとも取れない奇怪な唸り声を上げて、獏は宙に爪を立てた。ちょうどネコ科の獣が獲物に向けて跳躍する直前のような、そんな姿勢だった。
 シュラインと紫はざっと腰を落とし身構えた。
 どこまでも勝ち目がない。それでも黙ってこの男にサンプルを提供してやる気には到底なれない。その意気が手に取るようにわかる。
「…どうする?」
 紫が思い出屋から目を離さず、傍らのシュラインに低い声で訊ねた。シュラインもまた紫を見ないまま少しだけ首を振る。
「…命は取られないわけでしょう。無駄でも何でも、殴るわよ、他に出来る事なんかないんだし」
「まー妥当ね」
 他に手がないとも言うのだろうが。
 慶悟は口の中で呪を紡ぎながらどこか冷静に二人と思い出屋を観察していた。思い出屋はまだ慶悟の到着に気付いてはいない。
 はっきりとした勝機が、慶悟に余裕を与えていた。
 シュラインと紫の二人は更に重心を低くした。勝機など無くとも、と言うより勝敗になど関係なく、紫とシュラインは、あの思い出屋の取り澄ました顔を殴ってやりたいのだろう。そんな気がする。
 獏の唸り声が大きくなる。その前脚が宙を抉る瞬間と、二人が予備動作を追える瞬間が重なる。思い出屋を除く四つの影が、その瞬間跳躍した。
 この拳は思い出屋には届かない。それを紫もシュラインも覚悟していた。
 決死の特攻にクスリと笑い、慶悟は呪を解き放った。
「え?」
「…あ?」
 腹部に食い込む拳、そして顎を弾き飛ばす拳。
 その手ごたえに、紫は目を瞬かせた。見ればシュラインもまた不思議そうな顔で紫と己の拳を見比べている。
 そして何より、思い出屋が倒れているのはどういうことだ?
 思い切り顔にそう書いてある。
 慶悟は爆笑したいのを堪えて、二人の前へと歩を進めた。
「言ったろう? 主役は遅れて登場するもんだってな」
 と、言いながら。

「禁呪ね」
 シュラインはほっと息を吐き出し、靴の先で倒れた思い出屋をつついた。思い出屋は倒れたままぴくりとも動かない。
 操り手を失った獏はその場でただうろうろと歩き回っているばかりだった。
 慶悟は思い出屋の頭をとりあえず蹴飛ばしてから二頭の獏に歩み寄った。
「どうするつもりなの?」
 訊ねてくる紫に、慶悟は振り返りざまにまりと笑って見せた。
「まあちょっと見てろ」
 言って獏に向直った慶悟はそのまま口の中で呪を紡ぎ出す。
 それは先刻、草間に一瞬声を失わせたほどの光景。
 劇的な変化というわけではなかった。ゆっくりとしかし確実に、獏の体が縮んでいく。やがて獏は小さな石ころほどの大きさにまで縮み、そして小さな破裂音を立てて消滅した。
 瞬間、薄暗い公園にぱあっと光が差す。光が差したかのように見えた。
 様々な色の宝石が公園の小さな明かりに照らされて輝く。まるで波紋のように。宝石の水がたゆたいながらざあっと公園中に敷き詰められていく。
 紫もシュラインも、そして巴もまみも呆然とその幻想的な美しい光景を見詰めた。
 宝石の波紋は紫達の足元を埋め、そしてホタルのように瞬きながら、一つ、また一つと消え去っていく。
「…す、ごい…」
 掠れた声が紫の唇から滑り出る。
「…一体何をしたのよ?」
 シュラインの問いかけに、慶悟は額に滲んだ汗を払いつつ答えた。
「下手に燃やすのもヤバいかも知れないんでな。【水気】と【木気】を吸い上げて…まあ乾かし殺した」
 そして獏が消滅する事によって獏が蓄えていた記憶の宝石が持ち主の元へと帰って行ったのだ。
 瞬き消えていく宝石の光がまみと、そして紫にも吸い込まれていく。
 紫とまみは顔を見合わせた。
「それで、どうだ? 『飲み会の帰りに上機嫌で歓声あげながら鳩追っかけ回していた』のか、あんた?」
 紫が苦虫を噛み潰したような顔で慶悟を睨んで来る。
「…言うようになったじゃないの」
「ただでたかられ続けて溜まるか」
 間接的な肯定に、皮肉を返す。まみもまた口元を抑えて硬直していた。気丈なその瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいる。巴がその肩をなで、無言でまみを励ましている。
 大方の宝石が消え去ったところでシュラインはパンと手を打ち鳴らした。
「さてと」
 その声に紫と慶悟が反応する。
「後の問題は…」
「これね」
 大またで未だに地に倒れ付している思い出屋に近付いた紫は、その体を足で蹴って上向かせた。
「…どうしたもんかしらね」
 シュラインがうめく。
 この男をどう罰すればいいのだろう?
 この男が犯した罪は許されざる事だ。だがそれを立証する手立てがない。立証できるのは何人かを襲って人事不省に陥らせたというそれだけの事。第一こんな男に有効な罰などどこにも存在しない。ただ一つ、死刑を除けばだが。立証できるだけの材料でこの男にそんな罰を課せられるはずがない。
「…殺してコンクリで固めて東京湾でも一向に構わない気はするんだけど…」
 うーんと紫もまた唸る。
 唸りつつ固まってしまった二人に、慶悟は笑って言った。
「面白い手があるぞ」
「なによ?」
「コイツの意識に禁呪をかける。脳に関する研究の総てを意識できなくしてやればいい」
 獰猛に笑んで、慶悟は思い出屋を見下ろした。
 シュラインと紫は思わず顔を見合わせる。
 無理もないと慶悟は思う。
 何しろそれは今まで思い出屋が培ってきた『医者』としての能力を封じるという事に等しい。
 しかし、
「やって」
 異口同音に、紫とシュラインは言った。
 つまり二人ともに、慶悟と感情を等しくしていた。
 とことん完全に、激しきっていたのだった。

 かたかたかたかたと事務所内にキーボードを叩く音が響き渡る。
 草間の白い目をものともせずに、紫がその場でアトラスに持ち込む予定の原稿を執筆している。
 報酬を受け取りにやって来たはいいが、預金を下ろしに出かけた零がまだ帰ってきていない為に、この場に居座っているのだ。
 慶悟も立場は同じで来客用のソファーの上にふんぞり返っている。作業用のデスクではシュラインが今回の事件の報告書を纏めていた。
「…商売にならんだろう」
 憮然と草間が呟いても、勿論誰も取り合わない。
「ふう」
 切りのいいところで顔を上げた紫がつい昨日もしていたようにんーっと思い切り伸びをする。それを見計らって、慶悟は紫に声をかけた。
「ところであんたな?」
「んー?」
 テーブルに置いてあったミネラルウオーターのペットボトルに口をつけ、紫が面倒くさそうに慶悟に視線を投じてくる。
「あんたこうして見る限りじゃ特に何も『一般的でない』所なんかなさそうだが…何かあるのか?」
「あーそれ?」
 あっさり答えてくるところを見ると、昨夜の思い出屋のご高説を紫もまた聞かされたらしい。
 紫はテーブルの上に置かれていた慶悟の煙草を一本摘み上げ、慶悟の口に咥えさせた。そしてちょいちょいと指先で慶悟を呼び寄せた。
 怪訝そうな表情で、それでも身を乗り出すようにして顔を寄せた慶悟の鼻先で、紫はぽっと小さな火を灯した。その指先に。
 その火に煙草を寄せ、慶悟はゆっくりと息を吸い込んだ。煙草の先端に赤く火が灯り、紫煙が天井へと向けて立ち昇る。
「成る程」
「煙草に火ィつけるか深夜に油撒いて放火して回る程度の役にしか立たないけどね」
「放火の趣味があったのかあんた」
「お人形さんごっこが趣味の奴よりマシでしょー?」
 すわ再戦かと思われたその時、シュラインが小さく声を発した。
「え?」
 全員がシュラインを振り返る。その顔に驚愕がありありと浮かんでいる。
「どうした?」
 草間の問いかけにシュラインは緊張の面持ちで答える。
「…聞き覚えのある足音よ。勿論、零ちゃんのじゃないわ」
 その意味の分からないものなどこの場にはいない。一同は弾かれたように入口のドアを見やる。数秒の間の後、そのドアは開かれた。予想に違わぬ姿を覗かせて。
 ギリギリ二十台といったところだろうか、きっちりとスーツを着込んだ、物腰の穏やかそうな男だ。整った冴え冴えとした美貌の上に丸眼鏡が乗せられその顔の与える印象を緩和させている。
 まごうことなく、思い出屋の姿。
 一同の緊張に気付く事無く、男は硬い表情で口を開いた。
「あの、ここでこの間から連発している行き倒れ事件の調査を行ってくれると聞いたのですが」
 その手に握られているのは現在発売中の月刊アトラス。
「私は三越孝治…書類上は外科医、なのだそうです」
 困惑しきったその様に、昨夜見せた狂気は見受けられない。

 そして勿論、その依頼は、その依頼だけは、草間興信所が受けることはなかった。

『脳は謎である。かつても、そしてこれからも。(中略)それは脳が私たちにその謎を解く鍵を与えないからである』
 サー チャールズ・シェリントン『人間の脳』より。

 いつか解明される日が来ても、それでもきっとどこかが謎のままだろう。
 神秘の、心の宝石。

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1021 / 冴木・紫 / 女 / 21 / フリーライター】
【0389 / 真名神・慶悟 / 男 / 20 / 陰陽師】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
 こんにちは、里子です。再度の参加、ありがとうございました。

 前編の方にも書きましたが、脳を科学するって言うのはやっぱりどうにもなあと思わないでもないのです。無駄な事だとは決していいませんが。
 こう、どうしてもね。古い考えなのかもしれませんが、想像の余地って言うのかな、残しといて欲しいんですよね。
 その辺りが思い出屋の嫌な奴っぷりに現れてるのかもしれません。

 今回はありがとうございました。また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
 ご要望などありましたら聞かせていただけると助かります。