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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


< 鬼の書 >

■オープニング

「呪いの書?」
『そう、それも“鬼”が出てくるって話だ』
 胡散臭そうな表情をつくる草間の耳に、受話器の向こうから失笑が聞こえる。
 急ぎの依頼報告書を徹夜で作成し、12時間遅れの就寝を果たそうとしていた草間のもとに、京都の同業者仲間から電話がかかってきたのは昼食も間近の時刻だった。
『まぁ、悪い話じゃないだろう? この手の依頼にしては報酬も三割増しだしな。
 例の“神隠し事件”で手一杯じゃなきゃ、うちが引き受けているところだ』
 早い話、電話相手は万年貧乏の草間興信所に仕事の斡旋をしてくれるというのだ。
 何でも、京都のさる寺院からの依頼で、東京の統和学院大学史学科教授『周防・武昭(スオウ・タケアキ)』氏に、ある古い洋書の江戸期に書かれた翻訳本を届けて欲しいということだった。
「しかし、そんなものわざわざ俺達(探偵)に大枚叩いて頼まなくても、坊主共が自分で届けりゃいいんじゃないのか?
 まさか、そっちで流行の連続失踪事件のせいで、坊さんが忙しいわけでもないだろう?」
 草間の言うとおり、ただ単に相手に荷物を届けるだけなら、金を払って探偵を雇うより、自分達で運んだほうが安上がりだし、何らかの理由で人手が足りなければ郵送するという手段もある。
 しかし、草間の問いかけに、電話の相手は奇妙な間を置いて答えた。
『それがな、出たんだとよ』
「何が?」
『その翻訳本に取り付いてるっていう“鬼”がだよ』
「はぁ?」
 わざとらしく声を細める相手に、草間はあきれたように顔をしかめる。
『まぁ、嘘か真かは定かじゃないがな。
 さっきも言ったが、その翻訳本ってのは僧侶達の中じゃ『呪いの書』として有名みたいでな、お前さんの言うとおり、最初は自分のところの弟子に東京まで届けさせようとしたらしいんだ。
 けどな、その弟子って言うのが、ひょんなことから住職の言いつけを破っちまったらしいんだ』
「言いつけ?」
『そう、“夜闇では、絶対に翻訳本を入れた箱を開けてはならない”てやつをな。
で、見ちまったそうだ……』
「何を?」
『だから“鬼”だよ』
「はぁ?」
 再び草間は間の抜けた返事をした。
『でだ、それ以来、寺院では不吉なことがたて続けに起こって、僧侶達はその翻訳本を運ぶどころか触れるのも嫌がってな、かといって大事な届け物を郵便やら宅配便やらに任せるに訳にもいかないってことらしいんだ』
 草間にしてみれば、訳の分からん探偵に大事な届け物を任せる方が、よっぽど危ういだろうにと思うのだが、さすがに口にはしなかった。
『なぁ、草間、頼むから人助けだと思ってこの依頼を引き受けてくれよ。
 この依頼を持ってきた住職はある筋では結構有名でな、地元の政財界や法曹界に太いパイプを持ってる方なんだよ。
 こっちに来て日の浅いうちの事務所にとって、またとないビジネス・チャンスなんだ。
それに、お前のところは、こういった事を専門にしているんだろう? 後生だから助けてくれよ』
「はぁ……。分かったよ。明日にでもこっちから何人か向かわせる」
『ほんとうか? ありがたい! こんどそっちに帰ったときに飯でもおごらさせてもらうよ。
 そうそう、あとな、その翻訳本なんだが、どうやら狙われてるらしい』
「狙われてる?」
『あぁ。“鬼”が出てから、寺院に不吉なことが起こってるっていったろう?
 坊さん達は“鬼の呪いだ”なんていって騒いでいるがな、境内が荒らされたり、翻訳本を納めた蔵を無理やりこじ開けようとした形跡がある。
 大方“鬼の呪い”に便乗した空き巣か、盗人まがいの収集家あたりが犯人だと思うが、用心するに越したことはないからな』
 その後、数分に渡って詳細を打ち合わせたあと、草間は電話を切ると受話器片手に手書きのアドレス帳を開いた。
「さて? あいつ等、ちゃんと電話に出るか?」
 眠い目を無理やり開かせると、興信所所長は数人の顔を思い浮かべ電話のプッシュボタンを押した。


●SCEN.1

  黄昏色に染まった空の下、一人の僧侶が人気のない街路を足早に駆け抜けていく。
「やれ、やれ、この分では向こうに着くころには夜半を過ぎてしまう」
 40も半ばの僧侶は、沈み行く太陽の光を背に受けながら、溜息混じりの科白を口にすると心持ち足を早める。
 本来であれば、今朝早く師と共に出かけるはずだったのだが、実はその師が朝の読経の際に突然倒れたのだ。
 すでに80を過ぎていた高齢の師はそのまま緊急入院してしまい、手続きやらなんやらで、こんな時間まで出立が遅れたのだった。
『夜闇では、絶対にその箱を開けてはならぬぞ……』
 入院先で意識を回復した師が、別れ際に残した言葉がいやに鮮明に思い出される。
 僧侶は手にした風呂敷包みの中を見て軽く身震いした。見た目は特に何の変哲もない漆塗りの箱だったが、僧侶はなんとも言えない嫌な感じを受けていた。
「やれやれ……」
 僧侶は箱から視線を外すと、紅く染まる空を見上げる。すでに東の空は薄暗い藍色へと変わり始めていた。
(こりゃいかん、急がねば)僧侶がそう思った時だった。グキリという感触が右足に走り、前のめりに地面に叩きつけられた。
「あいたたた……」
 僧侶は自分が躓いて派手に転んでしまったことを悟ると、袈裟に付いた砂を払って起き上がり、ふと、手に風呂敷袋が無いことに気が付いた。
(はてどこに?)と考え、ゆっくりと足元から視線を延ばす。西の空に沈みかけた太陽の光を浴び、長く細く伸びた僧侶の影の中ほどに、その箱はあった。
 転んだ際に投げ飛ばしてしまったのだろう。漆の箱は風呂敷袋から抜け落ち、蓋が半開きになっていた。
「いかん、いかん」
(大切な届け物を傷つけてしまったか?)と僧侶があわてて箱に近づこうとした時だった。
 生臭い異臭。
 そして、箱の中から、人の数倍はあろうかという巨大な岩のような手がヌッと這い出てきたのだ。
「ひぃいい!!」
 箱を拾い上げようとしていた僧侶は、短い悲鳴を上げると、その場にしりもちをつくように倒れた。
 とたんに、僧侶の影が倒れ伏した当人に合わせて短くなり、箱を覆っていた暗闇が一瞬のうちに退く。
 そして気が付くと、あれほど辺りに漂っていた臭気は消え、箱はしっかりと蓋の閉じられた状態で、僧侶の影のはるか先にころがっていた。


●SCEN.2

「それ以来、弟子は高熱を発して入院しておる……」
 ことの経緯を話してくれた老僧は、庭先に広がる闇を見据えながら深い溜息をついた。
 この統覚寺にシュライン・エマが他の仲間と共に到着したのは、夕刻を過ぎて薄闇が常世を覆い尽くそうとしていた頃だった。
 エマは、到着して直ぐに住職と、例の「呪いの書」を運んだ僧侶に話を聞こうと面会を申し込んだが、実際に対面できたのは夜更け過ぎだった。
 当初、「呪いの書」につて住職から、“鬼”については出会った僧侶から直接話を聞くつもりだったが、僧侶の方は鬼に出会ったその日から高熱を発して入院中との事で、とても話を聞ける状態ではなかった。
 ただ、エマにとって幸運だったのは、僧侶の師であり先に突然倒れて入院していた統覚寺の住職が、退院して寺に戻ってきていたことだった。
 しかも、その師弟は同じ病院に入院しており、住職は事の成り行きを弟子から詳しく聞いていたのだ。
「なるほど、当時の状況などは良く分かりましたわ。で、申し訳ないのですが、その翻訳本というのはいったいどういう謂れの物なのかしら?」
 エマは、病み上がりの老僧を刺激しないよう、彼女が記憶する“音”の中から特に“安らぎ”や“いたわり”を感じさせるものを選んで口にする。
「それは私にも分からん。ただ、十数年前に先方からお預かりしていただけでな……」
「では、ご住職は訳の分からない物を十年以上も預かっていたと?」
「訳の分からんとは、つまり“鬼が憑いている”ような物ということかな?
 そのことなら私も知っていたよ。別に先方から聞かされたわけではないがね。
 あの書を一目見て、それがどういった代物か分かっただけだ。
 こう見えても、私は若い頃はそれなりに調伏で名を馳せたものでな、人外のものが発する霊気と言うものならすぐ分かる。
 それに、あの書から発せられる霊気は“鬼”独特なものだとも……」
 布団に横になったまま語る老僧の言葉を、エマは一言一句聞き逃すまいとしていたが、その最後の一節が耳に入ったときは、形の良い眉をピクリと動かした。
「ご住職の話し振り。まるで“鬼”に会ったことがあるような物言いですわね」
「あぁ、そのとおり。私は“鬼”に会ったことがある。
 あれは私がまだ師の下で修行をしていた頃、ちょうど大東亜戦争の最後の年。
 私が師と共に東北の山々を巡って荒行を行っていた時、私は “鬼”に出会った……黒々とした巨体は、優に大人二人分はあり、額の真ん中に見事な角の生えた“鬼”だった。
 私は驚いて腰が抜けてしもうたが、師は何事もないかのように“鬼”と二言三言言葉を交すと、動けぬ私を引きずるようにしてその場を去った。
 あとで師から聞いた話では、あの時、私等は誤って“鬼”の里に足を踏み入れていたらしい、鬼は師にその事を伝えるために現れたということだったか、はたして真実はどういったものだったのか……。
 ただ、そのとき感じた“鬼”の気配だけは、今もはっきりと覚えておる。
 だから、あの書を受け取ったとき、すぐにそれがどういったものかは分かっていた。
 故に、蔵に術を施して書を保管したのだ」
 老僧の告白に、エマは少し驚いた表情を作ってみせたが、内心はまったく普段と変わらず落ち着いたものだった。なにしろ草間興信所でボランティアまがいのバイトをやっている彼女にしてみれば、こういった種類の話は日常茶飯事ともいえた。それでも驚いた表情を作ってみせたのは、そうした方が相手も話しやすいだろうと考えてのことだった。
 冷静に表情一つ変えずに、ただ黙って話を聞くような人物との会話は、思っている以上に話し手の負担が大きいことを、エマは自身の本来の仕事である作家業の取材で熟知していた。つまり、会話に対して反応を示さないような相手に、話し手は絶対に良いネタを教えてはくれないのだ。
「そういえば、お話の蔵はだいぶ酷い事になっていますね」
 作家シュライン・エマ個人としては、やや昔を懐かしむような老僧の逸話は非常に興味があったが、長々と老人の思いで話を聞いている時間があるわけもなく、話を本筋に戻そうと先ほど老僧の話に出てきた蔵の事を持ち上げてみた。
「それほど酷かったかね? 私は君達が訪れる少し前に戻ってきたばかりで、蔵の方はまだ目にしていたいのだよ」
 僧侶の言葉に、エマは蔵の有様を思い出す。
 厚い漆喰の壁に守られた表戸は鍵穴の部分が丸ごと削り取られており、施錠がまったく意味を成さないようにされていた。
 表戸をこじ開けた相手は、内戸もこじ開けようとしたらしいが、内戸は厚さ2cmの鉄板で補強されており、鍵も非常に古いもので簡単に開けられるものではなかった。そのため、蔵の中への侵入は諦めたらしい。
 とはいっても、一般人としての範囲内で扉を開けての侵入を諦めただけで、実際には蔵の漆喰の壁を無理やり削り取って内部に侵入しようとした形跡が見られた。蔵の壁面中には削り跡や小さな穴が、それこそ無数につけられていたのだ。
 ただ、この方法も硬い漆喰の壁の一部分ならまだしも、誰にも見つからずに人が入れるぐらいの大きさの穴を作るのは無理だと判断したようで、結局蔵の中身は無事だった。
 当初、蔵の有様を見た僧侶達はその尋常ならざる手口から、これは『呪いの書』の“鬼”の仕業に違いないと勘違いしていたようだが、エマの見立てでは明らかに人の手によるものに違いなかった。それも窃盗犯のような、多少なりとも物事に熟知した洗練されたものとは違い、素人がしょうがなく盗みを働くような粗野で乱暴な印象を受けた。
 その後、しばらく住職と話をしたが、結局翻訳本についてまともな話は聞けなかった。
 エマとしては、“鬼”が出るという危険な書物を運ぶにあたり、住職や僧侶から可能な限り情報を引き出して、いざと言う時のための対処法なりを考えておきたかった。
 しかし、結局のところ最初の僧侶と同様、“夜闇(ならびに光の届かない暗い場所)では絶対に箱を開けない”ということを守るしかないということぐらいしか、まともな対処法はなかった。
 最終的に自分の中で結論付けた“もの”が“もの”だけに、エマの落胆は目に見えるほどだった。
「そう、気落ちするものではない……。そうだ、あなた方に良い物をやろう」
 思い出したかのように軽く手を叩くと、老僧は床から起き上がり、床の間の隅に設けられた襖の奥から、何やら小さな布袋を取り出してきた。
 老僧に手渡されたそれは、古い御守りだった。
「それは、先方からあの書を預かる際に、何かあったときにはその護り袋の封を解くようにと承っていたものだ。
 書をあなた方が運んで下さるのなら、それは私が持つよりもあなた方が持っていたほうが良いだろう」
「ご住職は、この御守りの中身をご存知なのですか?」
 受け取った御守りを眺めながら、エマは目の前の老人に至極当然の質問を浴びせてみせた。
「さて、書を預かって十数年。別段問題などなかったから、一度も中身をのぞいたことはない。
 それに、そもそも護り袋というものは不用意に封を解いてよいものでもあるまい……」
 そして老僧は、しわがれた頬を歪めて軽く笑みを作ってみせた。


 同時刻――東京『統和学院大学』。
 紅・蘇蘭(ホン・スーラン)は銀の長煙管を口から離すと、ゆっくりと甘い吐息を吐くように室内に紫煙を漂わせた。
 20階建てのビルに備え付けられた大きな窓からは、闇の中に煌々と輝く新宿副都心のネオン光が伺える。
 しかし、今は悠長に夜景を眺めている時ではない。
 何しろ紅は、この部屋に着いてから3時間以上待たされて、ようやくお目当ての人物に会えたのだから……。
 今、紅の目の前には、グレーのデザインスーツに身を包んだ三十代半ばの黒髪の男が、応接テーブルを挟んだ向かい側に鎮座していた。
「どうもお久しぶりね、周防教授。この間、お会いしたのは、確かどこかの大学から貴重な文化遺産が盗まれた日だったわね。
 それに、確か私がお約束していたのは、一緒にディナーが楽しめる時間だったような気がするのだけど……。
 私の認識が正しければ、今はもう就寝の時刻の方が近いんじゃないかしら?」
 紅は不機嫌さを隠そうともせず、この部屋の主で優男といった感のある大学教授を睨みつける。
「これは、痛いところを突かれる……。
 確かに今日のことは、お詫びします。ただ、こちらにも事情がありましてね。
 それに事前に急用が入って、お会いできなくなったことはお伝えしていますよ。
 それでも待つとおっしゃったのは、他ならぬミス・紅、あなたですよ」
 紅の毒気たっぷりの言葉に、周防もすかさず切り返す。
 たちまち、二人の間に険悪な空気が漂い、たっぷり30秒ほど沈黙が流れる。
 その間、周防は懐から紙タバコを取り出し、応接テーブルの上に準備されていたマッチを擦って火をつけ、紅は三度煙管を口に含み、同じ回数だけ紫煙を吐き出した。
「まぁ、いいわ。今日は別にあなたと喧嘩をしに来たわけではないのだからね。
 率直に聞くわ。
 周防・武昭(スオウ・タケアキ)。あなたのところに届けられる翻訳本。あれはいったいどういう代物なのかしら?」
 長い沈黙の後、紅はようやく口を開くと、あの翻訳本について問いただした。
「どう言う物も何も、江戸期に書かれた洋書の翻訳本で……」
 目の前の男が発した惚けたような言葉を聞いて、紅は応接テーブルの灰皿に手にした煙管を派手に打ち付けて、その言葉を無理やり中断させる。
「聞いていなかったの、周防?
 私は率直に、つまり賭け値なしに聞いたのよ?
 この私が、あなたに対してね……」
 紅は、これまで以上に凄みのある声を発すると、真紅の瞳に薄っすらと光を漂わせて目の前の優男を見据える。
 もし、この場に彼女が香主(幹部)を勤めるチャイニーズ・マフィア『幣(パン)』の構成員が居たら、その場に崩れ落ち、それこそ真っ白な大理石の床が自らの血で赤黒く染まるほど何度も何度も額を打ち付けて許しを請うたに違いない。
 紅・蘇蘭という“鬼”を正体とする“妖(アヤカシ)”がその瞳に鈍い光を表した時とは、彼女が怒りを身の内に秘めている時であり、条件が整えば何時でも怒りの対象を抹殺するということを示していたのだ。
 しかし、目の前の男は『幣』とは何の関係もない人物である以上、紅の瞳の意味するところなど知る由もなかった。それでも彼女の発する異様な殺気は若い大学教授にも十分伝わったようで、先ほどのとぼけたような態度は一掃され眉間には深い皺が刻まれていた。
 先ほどと同じく、このまま睨み合いが続くかと思われたが、今度は男の方が沈黙を破った。
「はっはははははは!!
 さすがは音に聞こえた『幣』の紅瞳公主(コウルイコウシュ)殿。その様子では、私の素性などすでに調べ上げているのでしょう?」
 それまでとは打って変わって、周防は乾いた笑みを浮かべる。
 紅は、目の前の優男が自分の正体を知っていることに驚きを感じなかった。なぜなら、同様に紅も、この周防・武昭という人間の素性についてすでに調べ上げていたからだ。
 否、実際のところ殆ど調べる必要すらなかったといって良い。
 なにしろ、彼女と同じ『幣』の香主であり四〇〇年来の友である黄・大人(ホワン・ターレン)に、この男の名を出しただけで、その素性はすぐに知れたからだ。
「分かりました。
 公主、あなたがそこまでおっしゃるなら、私も腹をくくりましょう」
 周防はゆっくりと席を立つと、部屋の奥に鎮座する木製の机に向かい、小さく言葉を紡ぎ一番下の引き出しにそっと手を触れた。
 室内にカチリという施錠が外れる音が響き、引き出しが独り手に押し出される。
 周防は、引き出しの中から黒い革表紙の古書を取り出すと、それを紅の目の前まで持ってくる。
 滑る様な光沢を放つ黒革の表紙に包まれたその書は、現在よく目にする機械で製本された本とは違い、一から人の手によって作られた規格外の古い洋書だった。
 そして何より人目を惹くのは、十字に結ばれた鎖の留め具だった。それは、まるでその書を外側から拘束するかのように見えた。
 実際、本を開いて見なければ分からないが、たぶん中身は普通の紙ではなく羊皮紙ではないかと、骨董店の店主も務める紅は見当をつけた。
「それは……?」
 紅の問いに周防は答えず、洋書の留め具を外すと古書を紅に差し出す。
 周防の即すかのような態度に、目の前の男の意図を測りかねながらも、紅は古書に手を触れた。
「!!」
 瞬間、紅は頭の中をドス黒い闇に弄られるような激しい感覚に襲われ、受け取ろうとした洋書を応接テーブルの上に落とした。
 激しい吐き気を抑えながら、紅はテーブルの上の古書を見る。紅の視線の先で古書は、誰も触れていないにもかかわらずバサバサと空を切る音を発し、何も書かれていないページが開かれる。
 と、紅の目の前で先ほどまで白紙だったページに、次々と文字が浮かび上がっていった。
(ラテン語?) 紅は目で素早く文字を追い、その内容に驚愕した。
 そこには、紅・蘇蘭という“妖”についてこと細かく書き記されていた。それこそ本人しか知らないようなこと、その生まれや思想、過去の行い、さらには彼女が習得した方術や天仙として担う役割など、基本はラテン語で記されながらも要所要所、たとえば方術や仙としての極意などは、漢字、それも古い書体で記されていたのだ。
「こ、これは?」
 さすがの紅も驚き、先ほど頭の中を弄られたような感覚を忘れ、つい洋書を手に取ってしまった。しかし、今度は何事も起こらなかった。
 紅は自身に何の変化もないことを悟ると、すでに数ページに渡って書き記された紅・蘇蘭の項を無視してページを前へと戻すように捲る。
 そこには、紅同様、何人もの人物や“妖”の記述が、習得した魔術や呪術の類と一緒になされていた。そして、その中には、周防・武昭と石上・亞祁仁の名も記されていた。
「見てのとおりです。
 この本は、自身に触れた人物の記憶を読み取り、その人物の習得した“力”を自動的に記述する本です。
 と言っても触れた者の全てが記述されるわけではなく、特に強い力を修得している者のみですが……」
 古書に目を通していた紅は、周防の説明を聞いてあることが頭に浮かんだ。
「なるほど、あなたやあの石上・亞祁仁(イソノカミ・アキヒト)が持っていた手記。あれの元になったのはこの本というわけね。
 で、この本が、例の翻訳本の大元、原書ってことね」
「そういうことです。
 ただ、正確に言うなら、あれは単なる翻訳本ではないですがね。
 あの翻訳本は、この原書の複製品(コピー)とでもいうべき代物です。
 江戸期にこの原書の白紙ページを特殊な方法で切除し再構成したものなんですよ。
 その能力は原書と同じ、触れたものの“力”を記録する。
 あの翻訳本には、本朝の数十人に上る術師の記録が残っているのですよ」
 周防はそこまで話すと、右手を差し出して見せた。
 紅は一瞬躊躇したが、すぐに手にしている古書を目の前の優男に渡した。
「人の能力を記述する本……。話には聞いたことがあったけど、実在していたとはね。
 しかし、その翻訳本、長い間、預けていたものでしょう?
 なぜ、今になって手元に戻そうというの? それに本に捕り憑いている“鬼”てのは……」
「さすがにそこまで答える義務はありませんね」
 紅の問いに、しかし、周防はキッパリと拒絶した。
 たちまち紅の視線が険しくなる。
「まさか、あなた方……」
「安心してください、50年前にあなた方と交わした協定は守りますよ……少なくとも、『幣』が協定を守る限りは、ですが……」
 そのとき見せた周防の瞳を、紅はしばらく忘れることができなかった。


●SCEN.3

 早朝の東名高速を一台のくたびれた乗用車が走り抜ける。早朝といってもこの国の東西を結ぶ大動脈である東名高速は、閑散などという言葉とは無縁である。
 現に、今も、もたついている乗用車を左右同時に大型トラックが追い越していく。
 そして、決まってクラクションの嵐が吹き荒れる。
「なぁ、真名神……。このオンボロ、もうちっと早く走れないのか?」
 何度目かのクラクションの洗礼を受け、鬼伏・凱刀(オニフセ・ガイト)はたまらず隣の運転席に座る金髪の青年に声をかける。
「ダメだな。草間の車は時速80km以上は出ないセーフティー・カーらしい」
 アクセルをべた踏みしながら、真名神・慶悟(マナガミ・ケイゴ)はあきれたような声だす。
「たく、もっとましな車はなかったのかよ……」
 凱刀の愚痴に、慶悟はこの車を借りたときのことを思い出した。
 草間からこの依頼の話を聞いたとき、慶悟はすぐに車での移動を思いついた。というのも、電車やバスなど公共の交通機関を利用した場合、もし翻訳本に何かあった場合、あるいは翻訳本を狙っているという連中に襲われた場合など、関係のない一般の乗客まで巻き込む恐れがあったからだ。
 それに公共の交通機関では行き先は選べても、その過程――目的地までの移動経路を自由に設定することはできない。
 すでに決められたコースを移動した場合、翻訳本を狙っているという連中に待ち伏せを食らう可能性も高かったし、そういう場合に自分達で移動コースを変更して危険を回避することができない公共の交通機関では、明らかに自分達が不利だった。
 まして、何の関係もない一般の乗客までが乗り合わせているとなれば、なおの事だ。
 そのため、慶悟は車での移動を考えたのだが、いざ移動手段が決定したところで一つ問題があった。
 それは、慶悟は車の免許を持っていたが、車そのものを所有していないということだった。
 最終的に草間に呼び出された仲間全員の話し合いの結果、車で移動することで合意に達した際に、慶悟は車を持ってそうな相手、つまり草間興信所の所長にその手配を頼んだのが、そもそもの間違いだった。
 草間に連れられて、彼が保有するガレージのシャッターを開けた先にあったのは、よく言えば年代物の名車、悪く言えばスクラップ寸前のオンボロ車だった。
 現在の車の保有者である若い興信所所長の説明では、彼の父親が自分より若い頃に購入した代物で、父親が他界してからは一度も乗ったこともなければまともな整備すらしていないという素晴らしいものだった。ただ、いずれ使うつもりだったらしく、しっかりと車検だけはクリアしていたのが、せめてもの救いだった。
 それにしても、数十年後の日本人の体型などまったくお構いなしに設計された年代物の車は、ただでさえ現代の日本人の平均身長を大きく超えている慶悟と凱刀にとって、お世辞にも快適な車内空間とはいえなかった。
 長身とはいえ細身の慶悟はまだましな方で、長身で大柄、格闘技選手のようなガッシリとした筋肉質の凱刀が、狭い助手席で律儀にシートベルトをして座っている姿など、普段の彼を知っているものなら、思わず噴出してしまいそうになるほど滑稽だった。
「たく、これじゃあ向こうに着くころには夕方になっちまうよ……て、真名神。おまえなに笑ってやがる?」
 窮屈そうに隣に座る人物の姿に、思わずニヤついてしまった慶悟を見て、凱刀が気味悪そうに顔を引きつらせる。
「いや、なんでもない。ちょっと思い出し笑いをしちまっただけだ。
 それよりも、凱刀、あんたはしっかりとその風呂敷包みを持っていてくれ。
 エマの話じゃ、そいつは夜闇じゃなくても暗いところならどこでもお構いなしに現れるらしいからな。
 間違っても、この狭い車内をさらに狭くするようなことは避けてくれよ」
「分かってるよ」
 短く答える凱刀。その時、彼の視界のすぐ脇を、赤いネイキッドタイプのバイクに跨った女が高速で通り過ぎた。
 腰まで届く艶やかな黒髪を靡かせながら、黒木・イブは一人、草間興信所の公用車(?)には乗らずに、自前のバイクでオンボロ車にスピードを合わせて移動していたのだ。
 普段なら仕事着であるエナメル製のSMファッションの上にトレードマークとも言える黒のロングコートを羽織っただけの姿であるイブであったが、さすがに遠路京都まで片道数百kmに及ぶ長旅ではあまりに非実用的と考えたのか、今はピッタリと体にフィットした黒革のライダースーツに身を包んでいた。
とはいっても、そこは高級SMクラブの女王様。ライダースーツの下には下着はおろか何も着けてなく、しかも前は胸元などとうに通り越して臍の下まで止め具が下げきられ、完璧なプロポーションにフィットしたライダースーツから伺えるボディライン共々、衆目を惹き付けるのには十分すぎるほどである。
 元々、ゲル状の半液体を正体にもつ“妖怪”であるイブにとっては、食事のための餌を得るための擬態でしかないプロポーションであったが……。
 颯爽と駆け抜けるイブの姿を、オンボロ車の後部座席でぼんやりと外を眺めていたシュライン・エマは(よくやるわねぇ)と心の中で呟いた。
 運転席に座る慶悟などは、最初、草間興信所の入り口で出合ったときには、ライダースーツのイブに突然ビルの脇に連れ込まれ、完全に露出した上半身を押し付けられ耳元に熱い吐息を吹きかけられながら誘惑された事を思い出し、年甲斐もなく一瞬顔を赤らめるしまつだった。
 すでに、このような一台の乗用車とバイクのランデブーは、3時間以上に渡って続けられており、4人の緊張感はやや薄れかけ始めていた。

 最初、それに気が付いたのは後部座席に座るエマだった。
 何とも不思議な音を発てた物体が後方から近づいてくるのを彼女の耳が聞き取った。
 特に音を聞き取ろうと意識していたわけではないが、どういう訳か彼女の耳はその音に反応した。
 目の前では、車内で煙草を吸おうとしている慶悟に、姿に似合わず嫌煙家の凱刀が『俺の半径5m以内で煙草を吸うんじゃねぇ!!』などと叫んでおり、その先にはオンボロ車を先導するかのようにイブの紅いバイクが軽快なエンジン音を発てて路面を疾走していた。
 エマの視界には、3時間前からまったく変わらないやり取りが映し出されていた。
 当初は、なれない土地に来て少々聴覚がズレているのか? とも考えたが、その音――何か小さな生き物が物凄い速さで疾走しているような音――はハッキリと耳に聞こえてくる。
 車内で口論を続ける慶悟と凱刀の声、さらにはこの車のボンネットの奥から発するエンジン音に、タイヤが回転してアスファルトを蹴り出す音、そしてイブの乗るバイクの軽快な駆動音……一つ一つ耳に入る音を分析していって、エマはそこで“ハッ”となって後部座席の窓に頬を擦り付けるようにして前後左右を確認する。
 そこには本来“ある”べきもの“いる”べきものが見当たらなかった。
「どういうこと!? この時間の東名で走っていのが、このオンボロとバイク一台だけって?」
  エマは驚きのあまり、大声を上げてしまう。
  エマの耳は決しておかしくなっていたのではなかった。それまで隣を、前を、後ろを激走していた車両が全ていなくなってしまっていたのだ。その結果、雑音が一気に減ったため彼女の耳は意識しなくても、その変化を聞き取ることができたのだ。
 その時、突然背後から発せられた声に、驚いて凱刀が『どうした!?』といって振り向く。慶悟も振り向きはしなかったがバックミラーで後部座席に座るエマを見る。
 そして二人とも、エマの後ろ、距離にしてこのオンボロ車から十数m先に、疾走する奇妙な生き物を見てその動きを止めた。
 体はそれほど大きくはない、人間の子供ほどの大きさの浅黒い肌をした4本足の生物がものすごいスピードで近づいてきていた。
 その体の中心には薄笑いを浮かべた人間の顔とも猿のような動物の顔とも思えるものが逆さに付いていた。
 それは、まるで両手と両腕がありえない方向に曲がった人間の子供が、仰向けになって疾走しているように見えた。
 あまりのことに車内にいる3人はしばらく呆然とその生物を見つめていたが、慶悟はすぐにあることに気が付いて車の計器類からスピードメーターを見た。
「時速78km……おい、冗談だろう?」
 いくらオンボロとはいえ時速80km近いスピードで疾走する車に難なく近づくその生き物は、単純に考えても時速100kmに達する速さで駆けていることになる。
「きしゃあああぁぁぁぁ!!」
 慶悟が、その驚愕の事実を認識するのと、奇妙な逆さ生物が大きく跳躍して車の天井に乗りかかるのとはほぼ同時だった。
 オンボロ車の天井が奇妙な音を発てて押しつぶされる。
「くそう!! この狭苦しい中じゃ、俺の愛刀『血火』も抜けねぇ!!」
 愛刀を何とか抜き放とうと凱刀が悪戦苦闘しているところへ、天井から鋭く尖った物体、変質した生物の腕が4本同時に差し込まれる。
 ことここに至って、慶悟は自分の認識が少々甘かったことを身をもって体験することになった。
 つまり、一般の乗客を巻き込まないために選んだ車での移動は、いわば相手にとっても好都合。
 一般人の“目”に付くことなく、目的を達成することができたのだ。
 それでも自由に移動経路を設定できる車の方が有利であると考えていたのだが、高速道路を走る車としては時速80kmは決して速くなくとも、人間には十分危険なスピードであり、車自体が危機に瀕しても咄嗟に飛び降りたりすることは不可能であった。
 一度目の攻撃を何とかやり過ごした3人であったが、敵は次々と天井に新しい穴を作っては、中の人間を串刺しにしようと襲い掛かってくる。
「このままじゃ、まずい! 真名神、車を止めろ!!」
 凱刀は叫びながら、多少危険でも身の内に封じた鬼を召喚しようと考えた、まさにその時だった。
「ぐぎぎゃがぁぁぁぁぁ!!」
 天井から凄まじい奇声が聞こえ、続いて無数に開けられた穴から、緑色をした粘着質の液体が流れ落ちてきた。
「あんたら、こんな雑魚相手に何手間取ってんだい!!」
 見れば、先ほどまで車の前方を疾走していたイブが、いつの間にかすぐ脇を併走していた。
 その左腕は、肘の先から銀色の光沢を帯びた刃へと変質し、切っ先には緑色をした液体を滴らせていた。
「ガガガガ……!!」
 片腕を失った敵は、無残な鳴声を放ちながら車の天井から転げ落ちる。
 その間に、慶悟は急ブレーキをかけて車を止める。
 車内から飛び降りるように出てきた仲間達の前で、イブは片腕で器用にバイクを操ると後輪をスライドさせクイックターンを決め、路上に転がる逆さ生物に向かって猛スピードで走り寄る。
 相手もバイクに跨るイブの意図を理解したのだろう。片腕を失いながらも立ち上がると再び奇声を上げて走り出す。
 決着は一瞬。
 イブと化物が交差した刹那、イブのバイクが制御を失って横滑りを起こす。
 しかし、次の瞬間には無理やりスロットルを全開にして再びバイクを完全に支配(コントロール)するイブ。その背後で、胴を半分に切断された化け物は、制御するべき手足を失い自らのスピードを殺すことができず、激しく回転しながら何度も何度もアスファルトに分断された体を叩きつけて絶命した。
「ふん、この程度のモンをけしかけられるとは、あたしらも甘く見られたもんだよ!」
 イブは被っていたフルフェイス・メットを取ると、長い黒髪を一回大きく振って、もはやただの肉塊へと姿を変えた化物をつまらなそうに見下ろした。


●SCEN.4

「確か、こっちを出たときはオーソドックスなファミリカーだったような気がしたけど……。
 どこでオープンカーに乗り換えたの?」
 紅・蘇蘭が合流場所として指定したJR八王子駅で、30時間ぶりに再開した仲間達を見たときの第一声は、仲間の心配よりも変わり果てたオンボロ車(すでにオンボロを通り過ぎて廃車といってよかった)のことだった。
 そして、それに答えた仲間の言葉は以下のようなものだった。
「何、ちょっと風通しを良くしたのさ……」
「こっちのほうが風情があって楽しいでしょう?」
「まぁ、何だ。狭っ苦しいから、ちょこっと広くしてやったのさ」
「凱刀の言葉を現代語に翻訳すると『精神衛生上極めて劣悪な車内環境を改善するべく、車体上部を撤去した』といったかんじか?」
 4人の発した内容に、軽く目眩を覚えた紅は、心の中でこの車の本来の所有者に同情する羽目になった。
 後に草間に問い詰められて判明することだが、突然の襲撃によって車内空間が3分の2に凹み、穴だらけになった屋根を、凱刀とイブがいとも簡単に切除したのが、このオープンカー・モドキの正体だった。
 何はともあれ、八王子で合流した紅・蘇蘭は、他の仲間と共に一路、新宿にある『統和学院大学』へ向かって出発した。すでに到着予定を大幅に過ぎており、空は完全に紅く染まっていた。
 JR八王子駅から一旦東京環状16号線に出て、すぐに川崎街道に入る。
 その間、八王子市から日野市、多摩市へと都内を東に向かって走る。このあたりは東京都といっても、まだまだ開発のされていない地域で、ところどころに畑やら建設予定のみが立って何年も放置された広大な空き地などが点在する場所だ。
 川崎街道から府中街道へと入り、それに伴い府中市へと移動する。府中市を越えればその先には調布市、そしてその先はもう東京23区内だった。
 すでにあたりは完全に日が落ち夜の帳があたりを覆っていた。
 そんな時、ふと前方に工事中の標識が見え、誘導灯をもった先導員が手馴れた手つきで次々と先行していた車を迂回道路へと案内する。
 慶悟としては、昼間の経験からあまりに人気のない脇道には入りたくなかったので、迂回経路につて先導員に聞くと、先導員はハッキリとした口調で事細かに経路を教えてくれた。
 簡単で誰でも分かるような経路だったし、先導員のよどみのない態度も車内にいた全員を安心させるものがあった。
 だから、油断したというわけではなかったが、気が付けば何もない、ただ広いだけの場所へでた。
 そこには、3人の全身黒尽くめの人間が悠然とした態度で待ち受けていた。
 その手には、月明かりを受けて黒い光沢を放つ機関銃が握られていた。
 その銃がロシア製カラニコフK突撃銃をチューンナップした物であるなどということは、車内とバイクに乗る5人は知らなかったし、その銃が秒速4000m(通常の自動式拳銃は秒速250m〜300m実に16〜18倍の速さ)という超高速で、しかも、わずか数分で1000発もの貫徹弾を射出し、車のドアや厚さ10cm程度のコンクリートなど難なく貫通させてしまう代物であることなど、当然知る由もなかった。
 これには中途半端な防御などまったく役にはたたなかったし、術を施すにも、その術が効力を発揮する前に、文字通り肉ミンチにするだけの能力を突撃銃は持っていた。
「やぁ、始めまして、皆様」
 3人の中で真ん中に陣取るリーダー格のやせこけた男が、この場にそぐわないほど明るい声を発した。
 しかし、それに答える者は誰もいなかった。
「やれやれ、これは嫌われてしまいましたね。
 まぁ、いいでしょう。
 私達としても、別段あなた方と仲良くしようなどとは考えていませんから」
 男は、左手の甲を口元につけて、笑うような仕種をする。
「お前達!!
 全員外に出るんだ!!
 いいか、変なまねするんじゃないぞ。 
 言っとくが、俺達には貴様等のちんけな術など通用しないぞ」
 先ほどまでとは打って変わって、男は粗野な口調で命令する。
「どうする? 真名神?」
「どうするって聞かれてもな。この状況じゃどうにもならないだろう」
 慶悟と凱刀の二人がそこまで言葉を交わしたところで、銃弾が数発路面に撃ち込まれる。
「さっさと、出て来い。
 それと、そこのバイクの女。お前もバイクから離れろ。
 おっと、バイクと車の鍵をこっちに投げるのを忘れるな」
 イブとしては銃弾なんぞたいしたことはなかったが、自分が下手な動きを見せれば他の仲間にも危害が加わるのは避けたかった。
 なぜなら、自分や紅・蘇蘭のような“妖”ならいざ知らず、他の3人は肉体的には普通の人間。銃弾は十分すぎるほど脅威だったからだ。
 結局、全員が男の指示に従い車とバイクを降り、慶悟とイブはそれぞれ車とバイクの鍵を相手に向かって投げた。
「ようし、いい子だ。
 次はそこのデカイの、お前が持っている包みをいただこうか。
 おっと、箱ごと投げるなんて野暮なことはしなくていいぞ。
 どっかの馬鹿坊主みたいに地面にぶつかった衝撃で蓋が開いて“鬼”に襲われでもしたら厄介だからな。
 金髪頭の伊達男、お前が持って来い」
 突然の指名に慶悟は少々驚いた。
 女であるエマや紅、イブをさしおいて男である自分が運び役になるとは思っていなかったのだ。
 確かに常識的に考えればそのとおりだが、この時、目の前の3人は昼間の襲撃失敗からあることを学んでいた。
 それは、大柄で屈強そうな凱刀や明らかに人ではないイブ、そしてあの時彼等が放った“地虫”の存在に逸早く気づいた特殊能力をもつエマ。この3人は要注意だということを……。
 そして残ったのが、昼間の事件でまったく能力を見せなかった慶悟と、途中で合流した紅の二人だったが、男達は『幣』の紅・蘇蘭を良く知っていた。
 3人にしてみれば、その実力を知っているだけに、もっとも恐ろしい相手がこの紅・蘇蘭だった。この紅の動きを封じる為にも、人間を人質にとるのがもっとも効率がよいと考え、彼等はわざわざ自分達で武装して姿を現した程なのだ。
 最終的に3人の男達は、昼間たいした能力を発揮しなかった慶悟を指名したのである。
 慶悟は、隣の凱刀から風呂敷の中身である木箱を預かる。
 その時、慶悟は凱刀に向けて意味ありげな視線を投げかけた。
 それを見た凱刀は、軽く頷いてみせた。
「ようし、さっさとそいつを持って来い」
 命令されたとおりに、大人しく木箱を持って男達に近づく慶悟。
 それにあわせて、3人のうち、一番右側に立っていた長身の男が慶悟に近づく。
 互いに歩調をあわせるかのようにゆっくりと近づき、長身の男の前まで来る。
 間近でみると、男達の持つ銃が酷く恐ろしく見えた。
 慶悟も陰陽師として、その能力は極めて強力であったが、さすがにこの距離で銃弾を叩き込まれれば、術を繰り出す間もなくやられてしまうだろう。
「よし、そのままゆっくりと地面に箱を置け。
 いいか、蓋に少しでも指が触れたらお前の頭をぶっ飛ばすぞ!!」
「くっ!」
 慶悟は下唇を噛み締め、やせこけた男の言葉に従う。
「箱を置いたら、3歩下がれ。そうだ、そのままだ、後ろは振り向くな」
 その言葉を聞いたとき、慶悟は内心舌打ちをした。
 こうなってはどうしようもないので、いざという時のために、箱のみをじっと見つめていた。
 それこそ、目をつぶっていてもその場所へ正確に到達できるほどに……。
 慶悟が3歩下がって立ち止まったことを確認すると、長身の男がゆっくりとした動作で木箱に近づき、そのまま箱を拾い上げようと手を触れた。
 その瞬間だった……。
 物凄い閃光があたりを覆いつくしたかと思うと、凄まじい轟音が鳴り響いた。
(爆発した!?) エマがそう思った時には背後から何者かに覆いかぶさられた。
 力一杯地面に叩きつけられたエマは、何事が起こったのかよく理解できなかった。
 その、閃光で視界が失われ、轟音で聴覚が麻痺した状態の中で動く者がいた。
 真名神・慶悟と鬼伏・凱刀の二人だった。
 実はこの二人は、密かに箱に術を施していたのだ。それは、自分達の仲間以外が箱に触れようとした場合、閃光と轟音を発して相手を麻痺させるというものだった。
 そのため、二人は長身の男が箱に触れた瞬間に行動を開始した。
 凱刀は目を瞑りさらにすぐ側に佇むエマの体を無理やり地面に伏せさせる。
 イブや、紅が人間ではないことはすでに知っていたので、すまないとは思いながらも、人をはるかに越えた身体能力を持っている彼女等なら大丈夫と判断した。
 そして凱刀は、そのまま転がるようにして車の方へ向かった。
 
 慶悟は男達に仕掛けが気取られないよう、長身の男が箱に触れる瞬間、ぎりぎりに目を閉じようとしたが結局タイミングが合わなかった。
 もとより“後ろを振り向かず、3歩下がれ”と命令された時、視力を失うことは覚悟していたので、目が閃光を捉え視力を失った中で、慶悟は記憶を頼りに、ただ翻訳本の入った箱のあった場所めがけて飛びついた。
 受身も満足にできず地面に胸を叩きつけながらも、指先が何かに触れた。
 と、その瞬間、激しい衝動が脳内を駆け巡る。
 何か、頭の中をドロドロとした液体のようなものに弄られる……そんな感覚だった。
 しかし、凄まじい吐き気を感じながらも、慶悟は指先に触れたものをしっかりと掴み取るとそれを決して離そうとはしなかった。
「凱刀ぉぉぉぉぉぉぅ!」
 慶悟は、視界を失い聴覚も麻痺した中で、相手の耳が生きているかどうか分からなかったが、出せる限りの大声で唯一事態を把握できているであろう仲間の名を叫んだ。

 
 10秒は続いた閃光が収まり、凱刀がまぶたを開いたとき、目の前には何かを叫びながらあらぬ方向に銃弾を乱射する2人の男達の姿が映った。
 そして、その手前では長身の男と地面に転がった左綴じの和書を握り合う慶悟の姿を見た。
 慶悟は何か叫んでいるようだったが、よく聞こえなかった。この時になってようやく凱刀は自分の耳がイカレていることに気が付いた。
 凱刀は、昼間の襲撃のあと術を施した際に、耳に詰めていた簡易耳栓がまったく役に立たなかったことを理解すると、小さく舌打ちをした。
 開け放たれたままの助手席のドアの奥から愛刀の『血火』を握り取ると、慶悟の下へ全速力で駆けつける。
 視界の隅では、イブや紅がすでに閃光と轟音の効果から回復しつつあるのが伺えた。
 凱刀は走りながら『血火』を鞘から抜き放ち、慶悟と共に翻訳本を掴んでいる長身の男を最初の狙いにして上段より一気に大刀を振りかぶる。
 しかし、凱刀の刃が男の首を切り落とすかに見えた瞬間、その切っ先が固いものに弾かれ軌道が変わる。
「何!?」
 刃は大きく軌道をそれ、慶悟と長身の男との間、ちょうど二人が掴んでいる翻訳本を切断するように『血火』が大地に突き刺さる。
 いったい何が起こったのかと、凱刀が顔を上げると夜闇に溶け込むようにして、巨大な影が浮き上がるところだった。
(ヤバイ!)瞬時にそう判断すると、凱刀はいまだ回復しきっていない慶悟を引きずるようにして後退する。
「いかん! “黒色鬼”が実体化する!!
 このままでは巻き込まれる。退け、退け!!」
 ようやく麻痺から回復した黒尽くめの男達であったが、黒い巨体を目のあたりにすると、蒼白となってその場から逃げ出そうとした。
「この野郎! 逃げるんじゃねぇ!!」
 『血火』を構えて凱刀が3人を追いかけようと一歩足を踏み出した。
 とたんに、それまで微動だにしなかった黒い巨体が、突然凱刀に向けて踊りかかってきた。
 咄嗟に凱刀は愛刀の刀身で身を庇う。しかし、その防御ごと1m以上後方に吹き飛ばされる。
「ぐは!!」
 刀身を通して衝撃が内臓まで響き、凱刀はよろけて片膝をつく。
 その間に黒い巨体は一気に凱刀との間合いを狭める。
「何やってんだい、あんた!!」
 凱刀に向けて二撃目を喰らわそうとしていた“黒色鬼”の右腕を、イブが自身の両腕を鞭のように変質させて引き絞る。
 イブの妨害に、一瞬動きが止まった“黒色鬼”であったが、すぐにそんなもの関係ないかのように、そのまま腕を振り下ろす。
 ほんの少し前まで凱刀がいた場所に“黒色鬼”の拳が突き刺さり、深々と大地を抉る。
「やってくれるじゃねぇか!
 てめぇがその気なら、こっちもやってやらぁ!!」
 凱刀は意識を集中すると、身の内に封じた大鬼を召喚する。
「我が誅敵は眼前にあり! 出でよ!」
 凱刀の呪気あたりを包み、がたちまち背後に巨大な一角鬼が現れる。そして大鬼は主(アルジ)の命令に従って“黒色鬼”に向かって踊りかかる。
 グチャリと奇妙な音を発して“黒色鬼”の顔が半分弾け飛ぶ、しかし黒い巨体はまったく動じることなく、左手で大鬼の胸を貫き心臓を握りつぶす。
 真っ赤な鬼の血が当たり一面を染め上げ、その上に大鬼の巨体が崩れ落ちる。
 その様を凱刀は驚愕の眼差しで見つめていたが、不意に歓喜の雄叫びを上げた。
「ふはははは! すげぇ、すげぇぜ!!
 気に入った!! 俺は貴様が気に入ったぜ!!
 お前の体、この俺が貰ってやる!!」
 喜びに打ち震える凱刀が、目の前の“黒色鬼”を捕えようと【封禁】の呪を施そうとする。しかし、その行為を止めるものがあった。
「その“黒色鬼”を封じようとしても無駄。
 そいつは、簡単に封じられるようなヤワな鬼じゃない」
 それまで、黙って成り行きを伺っていた紅・蘇蘭が、凱刀の前に立ちふさがった。
「おい! てめぇ、そりゃどういう意味だ? この俺の術が貧弱だとでも言いたいのか!?」
 今まさに術を施そうとしていたところを邪魔されて、凱刀は紅に凄まじい怒気をぶつける。
 紅は、凱刀の怒りなど知らぬかのように、ただ“黒色鬼”を凝視していた。
「凱刀。別にあなたの術が貧弱だとか言うわけじゃないよ。
 ただね。こいつはある特別な人間の命令しか聞かないのさ。
 いくらあんたが強力な【封禁】の使い手でも、こればっかりはどうしようもない。
 何しろ、こいつら“五角鬼”は、その人間たちによって形作られた“鬼”だからね。
 創造者の一族にしか扱えない代物なんだから」
 紅は朗々とした調子で言葉を紡ぎながらも、頭の中では50年前の出来事と、黒髪の優男の顔を思い出していた。
「なんだと?
 じゃあ、こいつにはもう、主がいるのか?」
 凱刀の問いに、紅は背を向けたまま頷いてみせる。
「悪いことは言わないは、主がいる“妖”を捕えることがどれほど困難でかつ危険か、分からないあなたでもないでしょう?」
 紅の言葉に、凱刀は奥歯を噛み締めながらも「くそっ!!」と捨て台詞を吐いて、【封禁】の術を諦めた。
「いいわ。
 イブ。悪いけど凱刀と一緒に奴の足止めをお願い。たぶん、この中だと二人が一番頼りになるから。
 このままこいつを放って置くと、手当たり次第に周りを破壊しまくるからね。凱刀が半分に切断したみたいだけど、なんとか元の本に戻してみるわ。
 それから、エマさん。慶悟君をお願いするわね。
 あの閃光と轟音を間近で受けているから、まだしばらく視力と聴力は回復しないでしょうから、あなた達二人は後ろに下がっていて」
 紅は素早く仲間に指示を出すと、自らは術の詠唱に入る。
「ちぇっ! いいよ、やってやろうじゃないか!!
 ぬかるんじゃないよ! 凱刀!!」
 言うが早いか、イブは“黒色鬼”の右腕めがけて再び腕の鞭を巻きつかせる。
 当然、これには先ほどの力比べで自らに分がないことを悟っていたから、無理に“黒色鬼”の力に対抗しようとはぜず、相手が力任せに腕を引くのにあわせて、イブは一気に鬼の反対側に跳躍する。
 着地と同時にイブは全身に力を加え鞭と化した両腕を引き戻し、それに“黒色鬼”自身の力を加えて、一気に相手を地面に倒れさせる。
「くらえぇぇぇぇ!!」
 前のめりに倒れた巨体に、すかさず凱刀が愛刀『血火』を突き刺し、“黒色鬼”を大地に縫い付ける。
(よし!!)紅は“黒色鬼”が動きを封じられた瞬間、心の中で大きく気合を入れて、鬼を元の場所に戻そうと術を施そうとした。
 しかし、“黒色鬼”は自らの巨体を貫いた大刀を、いとも簡単に体から抜き払うと無手となった凱刀めがけて駆け寄る。
 瞬時にイブが凱刀と鬼の間に割って入るも、左腕の一閃で激しく地面に叩きつけられる。
「ぐあ!!」
 イブは、苦悶の声を上げながらも転がるようにして鬼の攻撃を避け、間合いをとる。
 その戦いは明らかに凱刀やイブに不利なものだった。
「なんとかして奴の動きをとめて。
 そうしないと、術をかけられない!!」
 紅は前線に立つ二人に声をかけるが、返ってくる返事は弱々しいものだった。
 固唾を飲んで3人の戦いを見守っていたエマだったが、時間がたつにつれて、明らかに仲間の方が不利になっていくことに気が付いた。
(自分も何かしなくては?)と、さっきから考えていたが、戦闘能力で3人に及ばない自分が前線に出ても何もできることはないことも悟っていた。
 そんなときだった、ふとエマの頭に昨晩のことが思い出された。
『そう、気落ちするものではない……。そうだ、あなた方に良い物をやろう……』
 老僧の言葉が電光のように頭を駆け巡り、エマは翻訳本とともに預かった御守りを懐から取り出した。
 逡巡のあと、一気に御守りの封を切る。あせる気持ちを抑えながら袋の中身をとりだす。
「な? なに、これ!? いったいこれをどうすればいいの?」
“必ず何かある”と淡い期待をもって、袋の中に入っていたものを取り出した、エマは絶句した。
「どういうこと? これを詠めっていうの?」
 あまりのことに、どうしたものか迷っていたが、呪術に関しては素人のエマに考えられることは何もなかった。
 結局やれることが一つしかないと悟ったエマは、意を決して袋から取り出したもの、そこに書かれた内容を、彼女が記憶する“音”の中で“最も美しく”、“最も力強い”声で、詠み上げた。

『 天の原
    ふりさけ見れば
           春日なる ♪
   三笠の山に
         いでし月かも ♪  』

 (古今和歌集 安倍・仲麻呂 作)

 凛とした中に艶やのある声が、あたり一面に響き渡る。
 エマの手には、所々色落ちした古い百人一首の札がしっかりと握られていた。
 突然の詩に、その場にいた誰もが驚いてエマの方を振り返る。
(いったい何を?)
 前線で戦う三人がそう思ったとき、突然どこからともなく狼の遠吠えのような、哀しくそれでいて力強さのある音が聞こえてきた。
 そして、皆がその声の主を見たとき同じ思いに至った。
「泣いている? あの“黒色鬼”が、泣いているの?」
 エマは、皆の心を代弁するように声を上げた。
 その場にいた5人、そう、未だ視力も聴力も回復していない慶悟の心にもその泣き声は響いていた。 
 その5人の前で、あれほど暴れていた“黒色鬼”はまるで彫像のように動きを止め、次第にその色を失っていた。
 そして、最後に再び遠吠えのような声を発すると、完全にその場から霧散してしまった。
 その場にいた誰もが、それこそ詩を詠んだエマですら、何が起こったのかわからなかった。


●SCEN.5

 『統和学院大学 本館 特別理事室』
 この神道系名門大学の方針を決定する理事会。
 その理事の一人に久々に会うため、同大学考古学教授 周防・武昭 は、この部屋を訪れていた。
 マホガニー製の最高級デスクの前に直立不動の姿勢で立つ周防は、机の向こうに座る自身より10歳は若い銀髪の男に、持ち込んだ凹面銅鏡を手渡した。
「“辺津鏡”の保管ご苦労だった。で、もう一枚の行方は?」
「はっ! 現在鏡を持ち去った石上・紫亞(イソノカミ・シア)……いえ、物部・守屋(モノノベノ・モリヤ)を探しておりますが、依然として消息はつかめません」
 銀髪の男の問いに、周防は詳しく答える。
「そうか、引き続き捜索をつづけろ……。姉のほうはどうしている?」
「今現在は、天理の石上神社にて修練に励んでいるようです」
「なるほど、石上の蔡明殿のもとならば、コミュニティーの連中も手が出せまい。となると、問題は彼女が天理を離れた時だが……よし、京の嘉桔老に伝えて、天理に何人か手慣れの者を送り、陰から石上家の当主を御守りするよう手配しろ」
 周防は主君に恭しく頭を下げる。
「それと、例の物は届いたか?」
 銀髪の男はその姿に満足すると、もう一方の品物のことを臣下に尋ねた。
「どうぞ……」
 周防より差し出された木箱を受け取ると、銀髪の男は半分に破れた中身を取り出す。
 一瞬、不快感を表すように眉間にしわを寄せたが、男は何事もなかったかのように、そのまま本を手にとってページを捲る。
「前半部を持っていかれたか……少々厄介なことになったな」
「申し訳ございません……」
 何ページか捲って、銀髪の男は黒く墨で塗りつぶされたようなページを見付けて手を止めた。
「まぁ、よい。必要な部分はしっかり残っていたからな」
 そう言うと、男は、黒塗りのページを一枚引きちぎると、すぐに呪(シュ)を唱える。
 たちまち手にしたページから青白い炎に包まれ、真っ黒なに文字が浮かび上がる。
「やれやれ、これで最後の言霊は揃った。鏡のほうも何とか代わりのものを手配できたしな」
「では、ようやく……」
「あぁ、これで北関東の結界を再構築できる。
 半年振りに東京に出てきて、侍従長の説教を3時間も聞かされたのはさすがに参ったが、おかげで鏡を借り受けることができたからな。
 明後日には宮内庁からこちらに届けられるそうだ。 
 万一のことを考えて、お前が直接護衛につけ」
 銀髪の男の命令を、周防は恭しく頭を下げて拝命した。


●エピローグ

 翌日、『統和学院大学 考古学研究室』
 夕暮れが近づくころ、真名神・慶悟は『統和学院大学』内で一番高い建物なかにある周防・武昭教授の研究室を訪れていた。
 目の前には、大きなガラス窓を通して、西の空がゆっくりと朱色に染まっていく様がみえる。
 東京の、しかも新宿でこれほど綺麗な夕日が見れるものなのか? と慶悟は素直に思った。
 あのあと、慶悟が視力と聴力を完全に回復するのには、一晩かかった。自分で仕掛けたこととはいえ、少々やりすぎたと反省していた。
 問題の翻訳本は半分になってしまったが、周防教授に渡して確認したところ、必要なところは無事だったということで、なんとか依頼達成となった。
 ただ、やはり慶悟はある疑問について、どうしても確認したくて、この学院に周防・武昭を訪ねたのだ。
 夕暮れ色に染まる室内の中で、周防教授は慶悟と向かい合って応接用のソファーに腰を下ろしていた。
「周防教授……いや、武昭兄。
 今日はどうしても知りたいことがあって来たんだ」
「あの“黒色鬼”のことか?」
 昨日、十年ぶりに再会したばかりの慶悟の問いに、周防は昔のように優しい口調で答えた。
「やはりあれは、陰陽師、土御門一門にあって名門と謳われる周防家が従えているという伝説の“五角鬼”なんだな。
 あの、陰陽道の聖典『金烏玉兎集(キンウギョクトシュウ)』を唐よりもたらした吉備・真備(キビノ・マキビ)が、同じく唐より持ち帰った鬼の角。
 それを削って作った五匹の鬼。その“五角鬼”に間違いないんだな」
「そこまで分かっていて、私に、周防家の当主に何を聞きたいんだい」
 慶悟の核心に迫る言葉にも、まったく動じた様子もなく、さらりと問い返す周防。
「なら、単刀直入に聞く。
 なぜ、あの鬼は、あの時、詩なんかで霧散してしまったんだ?
 俺が両親から聞いていた五角鬼の話では、連中は一度受けた命令は、どんなことをしても達成する。あの場合はあの翻訳本に触れようとしたものを全て排除するという命令だったに違いない。だとしたら、なんで詩の一つで、ああも簡単に消えてしまったんだ?」
 慶悟は、昨日から抱えていた疑問を、自分とは15歳も歳の離れた相手に浴びせかける。
 その糾弾するかのような言葉にも、周防は表情一つ変えない。
「慶悟、君は大事なことを失念している。
 あの詩は、ただの詩ではないよ、少なくとも五角鬼達にとってはね。
 よく聞きなさい。
 吉備・真備は確かにあの鬼達の素となる角を、唐より持ち帰った。それはお前の言葉どおりだ。問題はそれが何の鬼かだ」
「何の鬼?」
「そうだ。いや、正確に言うなら吉備・真備に角を預けた鬼がいったい誰なのかということだ。
 お前はそれを知らないから、あの詩を、ただの詩としか思えないんだ。
 いいか、吉備・真備が角を受けた鬼は、かつて真備公と共に唐へ渡った安倍・仲麻呂(アベノ・ナカマロ)公が、時の唐皇帝に憤死させられて鬼となったのだ。
 そして、あの護り袋に入っていたのは、安倍・仲麻呂公が遠く離れた故郷を思って詠った詩。
 当然、仲麻呂公の体を削って作った五角鬼にとって、その詩はその心を静めるのに絶大な効果をおよぼすものなのだ。
 ゆえに、あの詩を聞いた黒色鬼は望郷の念を背負い涙を流し、ついには霧散してしまったんだよ」
 慶悟の疑問に答えるように、そこまで一気にまくし立てると、周防は上着の内ポケットから煙草を取り出し火をつけて紫煙を吐き捨てた。
 そして、目の前の金髪青年にも一本薦める。
 その煙草を受け取りながら、慶悟はあの鬼が発した声を頭の中で何度も反芻した。
 外では、いよいよ西の空が真っ赤に染まり、気の早い東の空は薄い藍色を帯び始めていた。


〜おわり〜


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家
                   +時々草間興信所でバイト】
【0389/真名神・慶悟/男/20/陰陽師】
【0569/鬼伏・凱刀/男/29/殺し屋】
【0898/黒木・イブ/女/30/高級SM倶楽部の女王様】
【0908/紅・蘇蘭/女/999/骨董店主・闇ブローカー】

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■         ライター通信          ■
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大変遅れてしまい申し訳ございませんでした。
ライターの綾瀬孝です。

皆様にはたびたびご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした。

今回もシナリオは一本にまとまっています。
当初、東京駅までは何も起こらないと設定していたのですが、皆さん電車や公共の交通機関を使うことを避けていらっしゃったので、いっそのこと車で移動、しかも襲撃あり。な展開になってしまいました。

少しでも皆様のPCの雰囲気が出せていたならうれしく思います。
それでは、短いですが、この辺で失礼します。

このたびは本当に申し訳ございませんでした。