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時嶋宗正・12年前の京都より最愛の君に愛を込めて…
Opening 12年前の京都より
掃除屋ことC.T.クライン、22歳。
実はドイツ出身、生まれてこの方日本人である実父に会ったことがない。
そんな彼が日本にやって来た理由は、その実父に会うが為…なのだが。
PRRRRR PRRRRR
〆切り間際のアトラス編集部に一際高くコール音が鳴り響く。
各自のデスクの上には山積の書類と何処から湧いてきたのかゴミだらけ。その山の奥から徹夜明けの頭には苛立ちそうなコールが遠慮なく耳に届く。
「あーもうッ。ウッサイわねッ!」
初めは取るのもメンド臭く、「三下クン、取りなさい!」と怒鳴った麗香だったが、いつもなら「はひぃぃ〜」のナヨナヨしい声と共に駆け寄るあの男が見当たらない。そう云えば夕飯の買出しの為に近くのコンビニまでパシリに出したんだっけか…。
麗香はボールペンで苛立たしそうに頭を掻くと、書類とゴミと茶封筒の山を掻き分けて白い電話を引っ張り出した。
「はい、アトラス編集部」
短い応答ながらも、そこには確実に明日に迫る〆切りを前にした女の心情が表れている。電話本体を引きずり出した事で、ドシャと雪崩式に崩れた本が足元に落ちるのをヒョイ、と避けながら麗香は、
「用件が無いなら切るわよ」
一向に返事が無い受話器の向こうに声を投げた。
『……麗香か』
消えるような小さな声が漏れたかと思うと、再度デスクから書類が滝のように床に落ちる。最初は受話器を肩に挟みながら拾っていた麗香だったが、ここまで落ちればもう呆れた溜息しか出ない。
それよりも久々に聞いたその声に綺麗な眉を僅かに潜め、受話器のコードに赤いマニキュアを塗った人差し指を絡めた。
「掃除屋? 久しぶりじゃない」
女は電話の本体を持つとくるりと椅子を回し、後ろの窓から灯りが点り始めた夜景を眺める。ポツンポツンと紅と蒼のネオンサインに銀と黄土の街灯たち。
「最近見ないからどうしてたのかと思ってたのよ。何、仕事でも忙しいの?」
ブラインドが下ろされていない窓は部屋の明かりを反射して受話器を手にした麗香の姿を薄く映し出していた。
しかしその麗香も、これから始まる会話の恐ろしさをまだ気付いてはいない。
『お前、そこに暇人でもいないか』
麗香の問いに答える所か、掃除屋の突拍子もない科白に麗香は眉を寄せた。そして「ははーん」と悪女風の笑みを口元に貼り付け、スラリと長く伸びた足を組みかえる。
「頼みごとならお断りよ。今、それでなくても忙しいんだから。…2流の興信所にでも行ってちょうだいな」
受話器の奥の掃除屋が言葉を発する前に、麗香は冷たく云った。ただでさえ人手が足りてないというのに幾ら『お得意サマ』の頼みと云えども聞いてなんかいられない。
「それよりアンタ、今何処にいるのよ。どうせなら手伝いに来るぐらいの根性見せて欲しいわね」
麗香は再び、キィと音を立てて椅子を回すと、書類の山に電話を置いた。そして、埋もれていたマグカップを手にとり、ズズっと冷めたコーヒーを啜ると…
『12年前の京都にいる』
「ふーん…12年前の京都…。また随分遠いトコにいるのねー…って?!」
ブフゥっとチョット映像ではお見せ出来ません、なぐらいに女はコーヒーを勢いよく吹き出した。白い書類の山に茶色の雨が遠慮なく降り注ぐ……。
「ハァ?! アンタ、ちょっと…!」
『「わん★ダフル」…という商品を知ってるか』
慌ててブッチャける女を余所に掃除屋は至って冷静だ。淡々とした声で麗香の問いの上に更にワケの分からぬ問いを重ねた。麗香は思わずゴクン、と息を飲み込むと、
「……『わん★ダフル』って……深夜放送してる通販の商品かなんかだっけ…?」
他局が砂嵐を放映する明け方も近い時間に…とあるマイナー局がとある通信販売の番組を放映している。実は通販マニアな掃除屋は以前からこれを愛用し、買った商品をさも嬉しそうに麗香に見せたことが何度もあった…。
『いつもの通り、「わん★ダフル」を買って試したのは良かったんだが…気が付けば12年前…しかも京都・三年坂に飛ばされていた』
やれやれ、と小さな溜息が一緒に漏れる。
「チョット待って…ツッコみ所は相変わらず満載だけど…『わん★ダフル』って確か愛犬に食べさせる栄養剤みたいなモノじゃなかったっけ?」
女は何処かヌけ気味な掃除屋に敢えてツッコミは入れず、額に手を当て机に置いていたボールペンを手に取ると、くるくると器用に回した。すると、
『そうだ。だからウチで飼ってるレクターに食べさせてみたんだが…数分後に口に吸い込まれてしまって…』
「…犬に食べられちゃったワケ?」
ああ、と短い返事の後、また本日一番の盛大な溜息が聞こえてくる。
「で、こっちはどうすればいいの?」
弾くように回していたボールペンの蓋をキュッと抜いて、麗香は近くにあった書類の裏にサラサラと掃除屋の科白を書き留めていく。
『取り敢えず、ウチのマンションのテーブルの上にある残りの「わん★ダフル」を持ってこっちに来て欲しい。でないと私が帰れない。……ついでにこっちで人探しも手伝って貰いたい……報酬はそれなりに支払う』
珍しく掃除屋は長々と言葉を紡ぐと『それからな』と更に言葉を続けた。
『それからな。ベッドの横のサイドテーブルの上にあるピ……を…持って来て……』
「ピ? 何、雑音で聞こえな……」
麗香が復唱するのと同時に、ブツンと鈍い音が鳴って、あとは「ツーツーツー」と機械的な音が無機質に木霊するのみだった。
「…………」
受話器をジィっと見つめて固まる麗香。
――ピ、ピ、ピ…ピーナッツ?
「……よく分からないんだけど…でも、何だか大変そうだから行ってあげてくれない? 『ピ』が何か…それはアンタ達に任せるから」
もう、どうにでもなれ、といった風に麗香は両手を上げて肩を竦めて云うと、床に散らばった書類と雑誌を拾い始めた。
【第1部】
Scene-1 始まる鼓動
都心から少し離れた閑静な高級住宅街にそのマンションはあった。
少し色づいた樹木が道路を挟むようにして植えられ、その葉がひらりひらりと舞って男の目の前を過ぎる。
白い紙切れを手にした男は煙草の煙を燻らせながら、目を細めて白い外観の建物を仰ぐ――その名も『 Felice(フェリーチェ) 』。
「随分と洒落た所に住んでるもんだ」
咥えていた煙草を人差し指と中指の奥で挟んで、ふぅと大きく紫煙を吐き出すと黒スーツに見を固めた男――沙倉唯為は、手にしていたメモ用紙をクシャクシャと丸めるようにポケットに押し込んだ。
「麗香、掃除屋の電話で引っ掛かる事は無かったか?」
日もまだ高い時間帯。
唯為は月刊アトラス編集部のフレッシュルームにいた。
安っぽい灰色のフェイク地のソファにどっかりと腰を降ろし、足を組んで向かい側に座る女に尋ねる。ヨレヨレと覚束ない足取りの三下が置いていったインスタントコーヒーが寒そうに湯気を白く立てていた。
――何にせよ情報は多いに越した事はない。
唯為は今回の事件(?)を麗香の口から聞いたものの、些か合点がいかない節が多々あった。そこで、1人月刊アトラスに赴き、こうしてその時の掃除屋の様子を訊いているわけなのだが……。
「さぁ…いつもより多弁だったけど…それでも相変わらず」
けれど、女は唯為の問いかけに両手を挙げて肩を竦めて見せ、首を軽く左右に振るばかり。
『古い付き合い』と以前麗香は掃除屋のことをそう云ったが、おちゃっぴーな彼の性格に反して、掃除屋はやはり明確に一般人と自分との間に1本の境界線を引いていた。麗香にしてもどこぞの3流興信所にしても、付き合いはするが必要以上には踏み込まない、踏み込ませない。……そう云う所は唯為には痛いほど理解できる部分があった。
「あ…でも」
修羅場明けでドンヨリと疲れ果てた麗香だったが、赤いルージュに手を添えて、思い出したかのように、つと口を開く。
「そう云えば…いつもより…何だか声が変だったような気がするわ」
私の気のせいかもしれないけど、と麗香は付け加えるとテーブルの上に置いてあった紙コップのコーヒーを手に取った。少し酸味のある香がフワリフワリと鼻を擽ると、女は僅かに目を細めて、
「あとそれとね。アイツ、物凄く神経質なのよ。だから他人をマンションに入れたり、自分の持ち物を持ってきてくれ、なんて…そんなこと、絶対頼まないわ」
「非常事態を除いて、か」
と、唯為が言葉を続けると、麗香は小さく溜息を洩らしカップに口付けた。
昼間の会話を思い起こしながら、唯為は移り行くエレベーターの階数ランプを見上げていた。
――レクターに食われたなんぞ、何かの見過ぎだとは思うが……。
『レクター』と云えば、やはり真っ先に思いつくのが、某ハリウッド映画に出てくる、あの人食いドクターである。映画好きな掃除屋がそこから取って犬に付けた名だろうが…それにしたってあまりにも今回の一件にハマり過ぎているような……。
暖色のランプが13階に灯ると、チン、と短く到着の合図を知らせ、ドアが重そうに両側に開く。
――まぁ、カワイイ掃除屋のピンチだ、駆け付けてやるか。
唯為は不敵に喉の奥で嗤うとジャケットを翻し、掃除屋の部屋へと足を向ける。カツカツ…と規則正しい靴音だけが響き、何とも静かなマンションだと男は思った。
……しかしその静寂も、数秒後にはアッと云う間に掻き消されてしまうのだが。
Scene-2 赤目の少女・黒い男
エレベーターから右に曲がって、小さなクランクの先に掃除屋の部屋はあった。なるほど、廊下を見渡せば確実に死角に入る場所を選ぶのは職業柄当然と云ったワケか。
唯為はフン、とつまらなさそうに鼻を鳴らすと、辺りに巡らせていた視線を前へと向ける。すると、掃除屋の部屋の前に1人の少女が立っているではないか。
「何をしている?」
その少女は赤み掛かったブラウンの髪を緩やかにたらし、綺麗に整えられた眉を寄せドアを睨みつけていた。白のブラウスに身を包み――と云っても味気ないものではなく、全面は丁寧に編みこんだデザインとなっており、背中は躯のラインを保ったままボタンで留め上げてある。シンプルなシルエットの割には何処か遊び心があり、先に広がっている袖口が、ドンドン、とドアを遠慮なく叩く衝撃に釣られてフワリフワリと揺れていた。
「あーナイスタイミーングッ。ドアが開かなくて困ってンのよ」
唯為の姿を見つけるや否や、その少女は声を上げた。元気そうにくるくると表情が変わる――朧月・桜夜<おぼろづき・さくや>も今回の一件に携わってるらしい。
そんなに声を上げて叩けば他の住人に不信がられるだろうが、とでも云わんばかりに男は盛大な溜息を漏らしたが、それをこの少女に云った所で馬の耳に念仏なのは至って明白。視線を厚いドアに貼り付けたかと思うと、
「どいてろ」
そう云ってスイ、と少女を後ろへと退けた。
――どうせあの掃除屋のことだ……。
脇をざざっと眺めると、男はドアの横に置いてある自分の背丈の半分程の観葉植物を見つけ、徐にそれに歩み寄る。
「おにーサン、何してンの?」
後ろからの桜夜の問いかけに答えないまま…唯為は植物の太い幹に手を掛け、グイっと鉢を斜めに浮かせた。すると、白い鉢のその下に銀色の鍵が土に汚れながらも鎮座しているではないか。
「アーッ、鍵!」
男の背中から覗くように見ていた桜夜は目を輝かせ、
「来たことあンの?」
その鍵を手に立ち上がる唯為に少女は大きな赤い瞳を開いて、背の高い男を仰ぐ。
「まさか」
男は少女の問いかけに吐き捨てるように嗤うと、
「だが、あの掃除屋の考えなんぞ、この程度だ」
そう云って口元に笑みを貼り付け、ドアの鍵穴へとそれを差し込んだ。
Scene-3 レクター・クライン
極力、音を抑えてドアに手前に引きやると、その先から漏れた明かりに唯為は眉を潜めた。
「あれ…? 電気点いてンだけど…もしかしてクラちゃん帰ってこれた…とか?」
背の高い男の後ろからまたひょっこり顔を覗かせた桜夜は、唯為の脇を強引にすり抜けてブーツを脱ぎ捨てるが早いか、パタパタと白いフリルのスカートを翻しながら駆けて行く。
唯為はその後ろ姿にヤレヤレ、と肩を小さく竦ませると自分も靴を脱いで廊下に上がった。
廊下を突き抜けた先――12畳ほどの広いリビングにはクリーム色のソファとガラス製のテーブル中央に置いてあり、右手にはカウンターを挟んでダイニングキッチンが。ホワイトオフとブルーで整えられたその部屋は想像していたよりも生活の匂いがあって「意外だな」と唯為は呟いた。
「あれークラちゃーん」
忙しなくリビングを見渡した桜夜は、やはりいない部屋の主にソファの前で首を傾げている。
唯為は、その桜夜の脇をスイと抜けるとテレビの前にダラしなく置かれたゲーム機に眉を寄せた。そう…まるで今さっきまで使っていたかのような、そんなコントローラーの引っくり返りっぷりなのである。
「…………」
唯為は左膝をついて屈むとそれを手に取り、何かを察したかのように小さく溜息を吐いた。そして今度はキッチンへと視線を向ける。掃除屋の話によれば『わん★ダフル』はキッチンのテーブルの上にある筈なのだが…。
そうして唯為が目を細め、徐に立ち上がった時だ。テレビの横に置いてあるMDコンポの上のCDを何気に「ふ〜ん」と眺めていた桜夜が、視界に入った黒い影に「あれ?」と顔を上げた。
クゥ〜ン……。
本能を擽るような声…とでも形容すればいいか。
フワフワと薄茶の毛並みをした1匹の犬――ゴールデンレトリバーがキッチンの方からショボくれた顔をしてペタペタと歩いて来るではないか。つと顔を上げて、侵入者とも呼べる2人を見つけても唸りもせず…また「クゥン」と小さく鼻を鳴らすとフローリングの床を歩いて、慣れたようにソファへと寝そべった。
「もしかして…レクター…?」
桜夜はピンクのマニキュアを塗った人差し指で垂れ耳のその犬を指すと、犬は首をニョキっと伸ばし、黒い瞳でジィっと桜夜を見つめるが人間で云う溜息、であろうか。すぐに、つまらなさげに頭を両足の間にペチョンと置いてカーテンが引かれている窓を淋しそうに見つめた。
「うわー可愛いー!」
桜夜はその円らな瞳の『レクター』に心を鷲掴みにされたらしい。
足早にソファへと駆け寄ると、フカフカなその毛並みを撫で、「きゃー!」と顔を綻ばせ首に手を回した。
少女のテンションとは反比例に、レクターは鬱陶しそうに首を振ったが、そんな抵抗など桜夜には関係ない。フワフワとした耳を掴んで遊んだり、顎の下の毛を引っ張ったり、足の裏の肉球をプニプニと触ったり…。
一方の唯為はと云うと(強引に)ジャレ合っている桜夜とレクターに、またいつもの溜息を落として気分を切り替え、部屋の探索を再開することにした。そこで、
「アラ、貴方達も来てたのね」
不意に艶っぽい声が玄関からリビングに通じる廊下から響き、唯為はドアノブに掛けた手を止め、視線を転じる。
紫めいた漆黒の髪を優雅に垂らした、巳主神・冴那<みすがみ・さえな>である。首に巻いた白大蛇が冴那を守護するかのように……唯為を見つけるや否や威嚇する為にギョロリと金色の目を向けた。
「いいのよ、お前。唯為と…そちらのお嬢さんは平気」
女は嗜めるように白大蛇の頭に口付けを落とすと、「それで…」と言葉を続けた。
「それで、何か分かったの?」
黒髪をさらりと女は掻き上げると、唯為を見据える。
「いや…俺達も今さっき来たばっかなんでな、これからだ。…と、そこに居るバカ犬が噂の『レクター』らしいが」
唯為はそう云って桜夜と共にいるレクターを顎でしゃくって指し示すと、我慢し切れなくなったのか内ポケットから煙草を1本取り出し火を点けた。白煙の何とも云えぬ香にレクターの鼻先がクンクンと反応したのは気のせいだったろうか。
Scene-4 わん★ダフル
取り敢えずメンバーが揃った所で「勝手に『わん★ダフル』を食べさせるなよ」と桜夜に釘を刺し、唯為と冴那は寝室へと繋がるドアを開けた。リビングと違って灯りが点いていないその部屋は、ドアから差し込んだ光を拒絶するかのような冷たい空間だった。
「ねぇ、唯為。『ピ』が何か…見当はついたかしら?」
パチン、とドアのすぐ際にあったスイッチを押す男の横をすり抜け、冴那はベッドの横のサイドテーブルの前に立つ。
「…ピータン…? なんて…ある訳ないわね…」
真剣な面持ちでテーブルの上を見渡す女に、唯為も歩み寄ると、
「これじゃないか?」
まさかピンヒール…とか紅いヤツの趣味みたいな物はあり得んだろうし、と喉の奥で嗤って冗談混じりに唯為は云うと、書類やら何やら置かれたその隅で小さく存在を放っている紅いカケラを1つ手にとった。
「ピアス…?」
人差し指と親指で摘んだそれを冴那は凝視すると、
「ピンナップ…写真か何かだと思ったのだけれど…」
「…人探しだとか何だとかヌカしてたからあり得ん話ではないが…ここにはないな」
手にとったピアスをジャケットの内ポケットに仕舞う男に冴那も「そうね」と頷いた。
そこへ、桜夜が例の『わん★ダフル』を手に、相変わらずショボくれたレクターを連れて部屋に入ってくる。
「1回につき1錠って書いてあるケド…」
説明書と睨めっこしながら桜夜はそう云って白い筒状の大きなプラスチックケースに薔薇色のラベルが施された『わん★ダフル』を唯為に渡す。
「じゃあ3人だから3粒飲ませれば良いんじゃなくて?」
冴那は何の躊躇もなく云ってのけた。
「おにーサンもそれでOK?」
少女がニタリと嗤ってイタズラっぽい目を向けると、唯為は「上等だ」とでも云わんばかりに鼻を鳴らす。
「さっさとこのバカ犬に飲ませてしまえ」
Scene-5 第4番目の第3者
数分後。
――何も起こらなかった。
「飲ませ方がマズかったのかしら…?」
冴那は『わん★ダフル』のボトルを裏返し、説明書きに視線を左右に巡らす。色々と謳い文句は書き連ねられているが、肝心の効能については、
『愛犬と共に貴方の願いを叶えます(Φ∀<)』
これだ。
冴那がそれを読み上げるとベッドに腰を降ろしていた唯為は、呆れてものも云えないのか首を振るだけだ。
「他に…何か必要なんじゃなくって?」
ふと思いついた疑問を口にして冴那は顔を上げるが、これまた退屈そうに床に座り込んでいた桜夜は、
「何かって何よー。…ピ…はピアスでしょ? いつもつけてたし…ってまさかそれがどうとかって話なんて…」
ぷぅっと頬を膨らませて、赤い眼で「僕、何か悪いことでもした?」な感じのレクターをみやる。そしてまた深い溜息と共に頭をポリポリと掻いた。
一同、掃除屋の部屋にてまさにお手上げ状態。
だが、この投げやりな空気も次の来訪者によって一瞬にして掻き消されることとなる。
「レクター?」
低い声が玄関のドアが閉まるのと同時に静かに響き、3人は思わず顔を見合わせた。
「……?」
近づいてくる足音に反射的とも云えるだろうか。「ヤバいって!」と壁に埋め込まれているクローゼットの中へ縺れるように雪崩れ込んだ。勿論、食後のゲップが鳴り止まないレクターも一緒に……。
「何故、隠れる必要があ…」
少女に押されて咄嗟に隠れはしたが、身動きも取れぬ暗闇のクローゼットの中で男はつと反論を零す。が、それは最後まで云いきることなく、桜夜によって口を塞がれてしまった。
(声がデカイー)
シィ!っと目で窘められた唯為は小さく溜息を落とした。身長もそれなりにある自分にしたらここは相当辛いのだ。恐らく人1人で丁度いい程度の広さの所へ3人+犬が考えもなしに飛び込んだ為に、文字通り「ぎゅうぎゅう」。蹴り飛ばしてでもここから出たいと思うのと同時に、この何とも云えぬ防腐剤の匂いが男のイライラ度を更に高める。
「レクター、何処にいる?」
そんな唯為を余所に声の主は寝室へと入ってきたようだ。桜夜は通風の為に開けられている隙間から赤い瞳で覗くと、
(なぁんか…怖そうな人…クラちゃんの知り合い?)
と、クローゼットの一番奥へと追いやられている冴那に首を傾げて見せた。
(もしかしたら事件に関わる第3者かも知れなくってよ?)
女は暗い所も狭い所もさして苦手ではない。少々息苦しいのは苦手ではあるが…慣れればこの程度。光が差し込む隙間へと吸い寄せられるように手を当てて顔を寄せ、桜夜と共にその『第3者』を盗み見する。
で、唯為はと云うと、『緋櫻』を手にレクターを膝の上に抱きかかえる格好だ。しかも、膝も中途半端に曲げている為、所謂『空気椅子』状態となり我慢するのはかなりシンドイ。
唯為がキレるのが早いか、部屋に入ってきた人物がクローゼットの扉を開けるのが早いか――どちらが早いかの瀬戸際だった。
――ジュルジュル……。
「?」
唯為がもう間もなくキレる所で、先ほどまでショボくれていたレクターが何やら凄まじい涎を垂らし始め――それは悲しいかな、犬を抱える体制となっている男の自慢のスーツへと遠慮なく流れ落ちる。犬の涎と云うものは兎に角…濃厚で、でろーんと透明なそれが垂れたかと思うと長い糸を引きながら、黒いスーツに妙な川を作った。
(…殺す……)
男はここでプッツンいってしまったようだ。チャキリ、と緋櫻の鍔を鳴らすと、残忍な笑みを浮かべ犬の首をフォールドして固定する。首の骨でもへし折るつもりなのだろうか。
(うわーヤバッ! こっちに近づいてくるッ!)
(開けられた瞬間、蹴り倒せばそれで済むことよ)
(ってか、アンタちょっと、早く口ン中、入れなさいよッ!)
さっきまで、「カワイイ」だとか何だとか云ってジャレていた筈のレクターの口を、桜夜は左右にビヨーンと引っ張って、惚けた顔のまま涎を垂れ流す犬に小声で怒鳴りつける。勿論、首は唯為に締め上げられているのだから、レクターは白目を剥いて泡を吹くしか手立てはない。
まさに、三者三様の――この非常事態。
思わず冴那が小さな溜息を吐いたその時に、望んだ怪奇事件は勃発する。
3人の記憶はここで暗転へと突入し――何が起こったのか、それは『過去』になった『今』でも理解することは出来なかった。
【第2部】
Scene-1 小さな待ち人
気分は最悪だった。
アスファルトを舐めるなどと考えるだけで気が遠くなる。
そもそも、この圧し掛かるような重みは何だ?
「来るのが遅い」
真夏の太陽の熱い日差しのように遠慮なく降り注ぐ声。
何処かで聞き覚えがあるが…誰…だった…?
「いつまで団子になってるつもりだ?」
男は瞼をゆっくりと持ち上げると、映った白コートの裾に停止した思考が起動する音を聞く。
そして、石のように動かない自分の躯に凄まじい違和感を覚え、そろりと視線を上げるとうつ伏せになった自分の背の上に何やら重いものが乗っかっている。
「まさか空から降ってくるとは思ってもみなかったな」
嘲笑するように嗤った声が唯為の脳裏を否応なく鮮明にさせ、この重みが何を意味さすのかも簡単に理解できた。
「冴那と桜夜…さっさと降りろ」
凄むような声を喉の奥から出すと、ようやく気がついたのか、上の影がモソリと動く。
「ったぁー…躯が軋む…」
少女は唯為の声に頭を抱えながら上半身を起こし腰をトントンと右手で叩くと今度は、
「ホント…いいクッションがいて助かったわ」
まさに積み木が崩れたかのように倒れこんでいた冴那は躯をパキパキ鳴らしながら悪びれなく唯為の背中から降りる。うーん…と両手でめいっぱい背伸びする桜夜に髪を直す冴那。本当――女という生き物はとことん怖い。
「とゆーワケでクラちゃん。遅くなったけどお助け隊3人集合したわッ。勿論、『わん★ダフル』もこのとーり!」
ビシィっと例のボトルを前に突き出した桜夜だったが、目の前にその人物がいないことに「あれ?」と首を傾げた。
「……ここだ」
何処からともなく聞こえてくる声に3人は思わず視線を巡らせると、小店の裏口に置いてあった小さな樽の後ろから…途轍もない光景が飛び込んできた。
「……掃除屋?」
ようやく身軽になった唯為が埃を掃いながら……目が点になった桜夜と冴那の代わりに問いただす。
「…………」
そこにいたのは確かに掃除屋だった。いつもの白コート、蒼い髪、紅い瞳、排他的な空気。
――ただ、彼の躯が『子供』であること以外は。
「何でお前達はそのままなんだ…」
ズリズリと大きすぎる服に足をもたつかせながら自慢の白コートさえも引き摺り登場した掃除屋に、桜夜はパクパクと口を金魚のように開け、人差し指は掃除屋を指差したまま、わなわなと震えている。
外見年齢としては小学校低学年くらいの――幼児体型であろうか。
「おかしいわね…私はともかく、唯為や桜夜は何も外見に変化はないのに…」
冴那に関して云えば、600年の長き月日を生きてきた身である。たかが12年前など、彼女にしたら昨日とさして変わりはない。
そこで冴那は桜夜が持っている『わん★ダフル』をスィっと奪い取ると、再び説明書に視線を落とす。
「『どうしても気になることがあるならば…貴方に何かが起こるかも。ただしお一人様限定です|∀Φ)』」
読み上げて顔を上げた冴那と唯為の視線がぶつかると、互いにモノも云わず小さくなった掃除屋を見やる。
「お一人様限定にモノの見事に掛かったワケか…」
唯為の溜息が大きく秋の京都――しかも12年前に落とされると、日を浴びた風が三年坂の小道を足早に駆け抜けた。
Scene-2 会いたい気持ちと会えない気持ち
三年坂と清水坂の間を結ぶ小路にヒッソリと佇む、小さなその店に一行の姿はあった。着物姿の老婆がごゆっくり、と頭を下げると、木製の古びた机の上に緑茶と白玉入りあんみつ、そして何故か林檎ジュースが出される。
「お子様にはこれで十分だろう?」
面白げに茶を啜る男は先ほどから一生懸命、袖を捲る掃除屋にズィっと林檎ジュースを押し付けた。
「それにしてもお前、昔からチビスケだったんだな」
苛立ちを隠せず睨みつけた掃除屋に悪びれることなく、ククっと嗤って悪態を突き続けるこの男の性格は根本から捻くれている。勿論、
「クラちゃん、後で子供用の服でも買いに行こっか♪」
あんみつを頬ばりながら、掃除屋の向かい側に座った桜夜も実に楽しそうで……。
そんな話はどうでもいいと云わんばかりに掃除屋はあんみつに手を出すと、1人コーヒーを傾けている女は徐に視線を斜め向かいの彼へと正した。
「で…探し人だけど」
切り出した瞬間、空気が凍るのを冴那と桜夜…当然唯為も肌で感じた。確かに彼は麗香との電話で「手助けして欲しい」と云っていたのだ。にも関わらず、何故このように意を決した……否、まだ何処かで揺れ動いている瞳をせねばならないのだろうか。
表情を曇らせた掃除屋を赤い瞳でジィッと食い入るように見据えた桜夜に気付いてか、彼は――クラインは諦めにも似た溜息を1つ落とすと、場所を取るぞ、と一言断って亜空間から黒塗りの日本刀を取り出した。
「この刀を造った人物を見てみたい」
獲物としては2尺8寸・鍔には雲龍が施されており、『緋櫻』とは違って新しいながらも洗練されたそれに唯為は繁々と眺め入る。
「えェーたったそれだけェ?」
桜夜にしてみたら、もっと大きな――と云っても彼女の思考は計り知れないが――事件を想像していたらしい。単純に「刀を造った人物を見たい」と云う理由で『過去』である『今』にやってきたのは…何だか腑に落ちないようだ。
「じゃあ、取り敢えず…分かってることを教えて下さらない?」
冴那は淡々とした口調で問うと再び冷めたコーヒーに口付けた。横でぷぅっと頬を膨らませた桜夜がオレンジジュースをズズっと啜る音がする。
「名は時嶋宗正(ときしまむねまさ)。本名は時嶋千寿(――・ちとせ)。名の知れた刀匠だ」
興味深そうに視線を向けていた唯為に掃除屋は刀を渡すと、再びあんみつを口に運ぶ。どうやら彼は色の付いた寒天は嫌いらしく、透明な寒天ばかりをよって食べている。
唯為は徐に手渡されたそれを目線の高さまで掲げ僅かに抜くと、美しく光る互の目乱れに目を細めて、
「かなりの業物だな」
チャキリ、と鍔を鳴らし元に戻す。
「だが、これだけで『会いたい』とヌカすのはお前らしくもないな。この俺に無駄足させる気か」
男はそう云い捨てるや否や煙草を1本取り出すと、彼が禁煙していることを知っているのかいないのか……大層に煙を吐いて足を組んだ。
「失礼かも知れないけど…身内の方かしら?」
4人の間に流れた短い沈黙を破ったのは冴那だった。
その問いかけに――クラインは観念したのだろうか。張り詰めていた意地や建前を取り払うかのように「はぁーっ」と珍しく声を立てて大きな溜息を吐くと、
「時嶋宗正…いや、千寿は私の…実父になるらしい。私の知る限りでは11年前に…つまり『今』からすれば来年に死ぬ」
スプーンを咥えたままの桜夜にそう云って彼は、はにかむような耐えられないような……そんな笑みを浮かべた。
「日本に来てから一度、彼の甥…つまり日本語で云う所の従弟になるのか? その男を尋ねて鍛錬所に行ったことがあったが、そこはつい最近作られたもので、千寿に関するものはこの刀以外なにも…」
――手掛かりがない。
会いたいと願う気持ちは誰よりも強い筈なのに、会って何を話したらいいのか分からないし…けれど会いたいし。
唯為は何処か遠い所で掃除屋の話を聞いていた。
会いたいのに会えない…それは自分にも云えることではないだろうか。だが、それに縛られてしまえば、『今』の自分の存在その物を否定してしまうような、そんな気がして――考えたくもなかった。
この手で殺めた母に今更かける言葉など思いもつかない。仮に会えたとしても……母はその美しい顔を強張らせて自分に怯えるのではないか。「親不孝者」と詰られた方が幾分マシかと考える自分に失笑せざるを得ない。
それに……。
アイツにしたって同じことが云えるわけであって……怯えた黒い瞳で自分を写すよりかは――。
男はそこで、はたと掃除屋の声に現実を知る。自分は何をここまで怯えているのだろうか……。
「手掛かりはない……ただ、三年坂を抜けて…千寿はよく清水寺へと…」
秋の日差しが冬の日差しに変わろうとしているその季節。クラインは所在なさげに視線を彷徨わせると、天窓から差し込む光に目を細め――そこで言葉を止めた。
Scene-3 子供と大人
「まぁ兎に角…顔も分からないワケだし…ここはウチの子達の出番ね」
店を出ると冴那は流れる風に髪を靡かせながら、右手の人差し指で小さく空に円を描いた。
すると何処からともなく大小の蛇達が姿を見せ、そしてその内の1匹が女の足を伝って彼女の腕に乗る。
「蛇は舌の先で匂いを嗅ぐのよ……」
そう云いつつ、腕をスイっとクラインに寄せると、乗せた蛇が赤い舌を覗かせてギョロリとクラインを見るや否やペロリと頬を舐め上げた。
「キショッ!」
脇で見ていた桜夜は思わず声を上げたが、冴那はお構いなく彼が手にしている日本刀も舐めさせ、
「素敵な味…香りでしょう…? 同じ香りを探すのよ…?」
妖艶な声で囁き掛けるように紡ぐと蛇達は一斉にその場を散った。
「じゃあ、私も行くわ。見つかり次第、…そうね、仁王門の階段の下に来ること…それでいいかしら?」
冴那は肩から落ちた髪を右手で掻き上げ、雑踏の中へと消えて行く。桜夜も「私もチョット飛ばしてくるわねン♪」とパタパタとフリルのスカートを翻しながら修学旅行生が賑わう三年坂へと姿を消した。
残ったのは唯為とミニサイズの掃除屋だが――。
「煙草を1本寄越せ」
袖と裾を折りに折り込んだ掃除屋はいつもより遥かに高い男を仰いで、大業そうに云ってのけた。幼児特有のぷくっと膨れた頬が何とも赤く染まっている。
「ガキには流石にやれんな」
唯為はその姿に喉の奥でククっと嗤い、見せびらかすように内ポケットから1本取り出す。パチン、とライターが弾く音がするとクラインは実に苛立たしそうに唯為を見上げたが、男は何の悪びれもなく大きく紫煙を吐き出した。
「そうそう。ピアスで良かったか?」
ライターを仕舞う代わりに、唯為は例の『ピ』を思い起こしたのか紅い小さなピアスを出して彼に見せる。傾きかけた太陽の日差しに反射して目に痛い程の赤い光を一瞬放った。
「ピンヒールかとも思ったんだがな」
掃除屋の小さい手に屈んでそれを落とすと唯為はまた嗤う。当然のことながら、間髪入れずに「……シバくぞ」と不機嫌としか形容し難い声が返ってきたのだが。
「どうせ、今の躯じゃピアスホールなんぞ開いてないだろうに」
大事そうにそれを眺める掃除屋に揶揄った口調で唯為は云うと不意に彼は影を落とし、
「開いてないなら開ければいいさ」
無理やりピアスを挿れて、路地裏へとさっさか歩いていく。赤い血が耳を伝ってパタパタと落ちていく様が遠目にも映り、唯為は小さく溜息を落とした。
Scene-4 沈む夕日に紅い華
西の空が茜色に染まる頃。
唯為は千寿を見つけたと云う冴那と桜夜と仁王門の前で合流し、清水寺から出てくる彼を待ち受けた。
黒の作務衣(さむえ)に身を包んだ彼を遠くから盗み見した唯為は恐ろしいくらい掃除屋に似ていると思い、視線を落とす――千寿に目を奪われた掃除屋は彼が4人の目の前を通り過ぎて、再び坂を下ろうと遠ざかっても動こうとはしなかった。
「オイ」
固まったままの掃除屋を唯為は小さく呼ぶと、全く反応を示さない。ここに来て気でも変わったのだろうか。
「クラちゃん、折角だから追おうヨ」
桜夜はクラインの顔を覗き込むように屈むと頭を撫でる。カァカァと塒(ねぐら)に帰る鴉達が燃えるような赤い空へ黒い影を落とすと、一行は千寿の後を追うことにした。
清水坂を下り、三年坂を抜け……千寿は決まった速度、決まった足音で石畳の坂を下っていく。途中に何本かの小路に入り、京都特有の迷宮へと身を潜らせる彼の後を50mほど離れて4人は尾行しているのだが、一体何処へ向かおうとしているのか。
「この先って何かあったっけ…?」
桜夜は小声で冴那に尋ねると、女は首を振った。
「さぁ…この先は確か高台……墓地しかなかった筈よ」
窄まるような小道を抜けると、少し広がった――と云っても一間程の幅しかないが――通りに出た。そこを千寿は右に曲がり、古びた石段をトントン…と規則正しい歩調で上っていく。
「やっぱお墓…?」
桜夜は階段を見上げると首を傾げ、一番後方にいるクラインを肩越しに振り返った。
「ここ知ってる?」
「…………」
何も返事は返って来なかったが、代わりに掃除屋はこの階段を上ろうと云うのか、桜夜の傍を無言ですり抜けると白コートを踏んづけないように捲り上げて、それに挑んだ。墓の階段というものは何処であっても急激な斜面との兼ね合いで段差の激しいものが多い。加えて、ここは山の中腹にある為か少なくとも子供には辛い石段であることは確かだった。
そこで男はそれを見かねたのか石畳の前で四苦八苦する掃除屋の首根っこを猫のように摘み上げると、
「さっさと行くぞ」
そのまま物でも担ぐかのように無造作に持ち上げて唯為は階段を上り始めた。
血が滴るような空が赤く京都市内を濡らす。
思わず息を弾ませてしまうほど、長い階段を上りきったその先には街を見下ろす絶景があった。山際に近い高台は人の気配が全くなく、時間帯も関係するだろうが『静寂』を絵に描いたような空気がシンと支配している。
「あ…」
冷えた風が攫うように駆け抜け、桜夜がふと声を発した。高台のその先端――赤土の上に敷いた石畳の上に古びた墓が建っている。縁のありそうな大きな墓石と…それと外れるように離れた小さな石。
4人が視線を向けると、ちょうど千寿がその小さな墓に参っている所だった。音羽の滝で汲んできた水を花筒に丁寧に流し込み、細い糸の様な線香の煙がゆらゆらと立ち上っている。
「あれは…大きな墓石は時嶋一族の墓だ」
視線を釘付けていると、降ろして貰った掃除屋がつと零した。この墓には本人もやって来たことがあるらしいのか、さして驚く様子は見受けられなかった。
「じゃあ、あの小さなお墓は何方のものかしら?」
冴那が風に揺れる髪を手で押さえながら千寿が長く手を合わせる墓について尋ねる。しかし今度は首を横に振った。
「あの墓は…いつ来ても寂れていて……」
古びた大きな墓には千寿は寄りもしなかったのに、その今にも忘れ去られそうな小さな墓には色とりどりの千羽鶴や墓前に飾るには似つかわしくない赤い薔薇とかすみ草。
「誰の墓なんだろ…ってかここまで来たんだったら聞けばイージャン!」
桜夜はパァっと花を咲かせるように表情を明るく変え、
「過去に触れるのはイケナイことだと思うケド…アタシは直接関係ないしネ♪」
そう云って桜夜はバッチンとウィンクを掃除屋に向けると、パタパタと千寿の下へ駆けて行く。やはりじっとして憶測を巡らせるのは好きじゃないらしい。
「止めなくて良かったのか?」
唯為が煙草を吹かしながら口を開くと掃除屋は自嘲気味た笑いを零し夕焼けに目を細めた。
「自分では到底聞けそうにない」
掃除屋は呟くとぷいっと煙から避けるように唯為から離れる。すると、黒い長い影を引いて、桜夜が「おいでおいで」と手招きをした。
「折角だから行かなくて?」
冴那は小さな掃除屋に穏やかな声を投げかけると、観念したのか……4人で千寿と接触を図ることにした。
12年前の京都――生まれて初めて会う父親に。
Scene-5 時と価値
「君たちは…?」
近くで見ると恐ろしいくらいに千寿はクラインに似ていた――否、クラインが千寿に似ているのであろう。
瞳の色こそ違うが、蒼い髪と躯に纏う空気がそっくりそのままである。
「えっと、その…そうだ! カンコー客なンですが、その墓について少し……」
桜夜が立ち上がった千寿に尋ねると千寿は「珍しいな」と呟く。刀匠という伝統工芸の技術者だ。何処か人と接するのは苦手らしく少し戸惑ったように表情を強張らせた。
「…墓…この墓のことか」
千寿は女子高生らしき少女と何処かのホストのような男と浮世離れした女に些か不信感を抱いたようだが、さして気にも留めず視線をその小さな墓に落として話始めた。
「この墓は私の妻の墓でね…。10年前に死んだんだ」
死水も取ってやれなかった、と複雑な表情で千寿は云うと、小さくなった線香が最後の煙を立てて消える。
「妻はドイツ人とのハーフだったんだが、引き取る身内もいなかったし…何より私がこの手で葬ってやりたかった」
屈んで再び線香を取り出すと、マッチを擦って火を点ける。
「身内はいなかったって…クラちゃ…じゃない子供はいなかったンですか?」
桜夜は恐らくこの場にいた誰もが巡らせた問いを思わず口にした。こんなときに彼女のような性格の人間がいると非道く有難い。
「子供…いるさ。だが一度もこの手に抱いたことがない。妻は子が出来たことを私に黙っていてね。生んですぐ何処かに預けたらしいが…私がそれを知って渡独したときには既にもう…」
千寿はようやく火の点いた線香を立てると、再び墓前に両手を合わせた。この男の後ろ姿は――後悔しかないような…そんな淋しさを覚える。
「生きていれば、もう10になる…年に一度、探しにドイツへは行くが今年も駄目だった。もう今生では会えまい……」
秋の冷めた風が吹き付けるかのようにその場を抜けた。沈み掛けた太陽が名残惜しそうに山に身を隠すと、辺りは急激な暗さに包まれ、まるで千寿の無念さを物語っているようだと唯為は思った。
「…伝えたいことはありますか?」
そこでずっと口を噤んでいた掃除屋が徐に口を開く。
「もし子供が生きていたら…何か伝えたいことはありますか」
「伝えたいこと…?」
千寿はスックと立ち上がって小さな蒼い髪の子供を見下ろすと、
「そうだな…月並み程度だが――」
そう云ってクラインに歩み寄ると小さなその躯を抱き上げた。フワリ、と髪が揺れて息が詰まる。
すると、掃除屋の躯が千寿の手の中で徐々に薄くなって、白い蒸気を出し始めた。
「…クラちゃん?!」
「!」
桜夜と冴那、唯為は思わず目を見張った。もしや!、と冴那は手にしていた『わん★ダフル』に視線を落とすと、
『 P.S. 効力はいつまで持つか分からないアルよ。まぁそれなりに楽しむのが吉アルね』
――とまぁ、何とも勝手な謳い文句が書かれてある。
「エセ中国産!?」
桜夜は思わず声を発したが、この際『わん★ダフル』が何処産でも知ったこっちゃあるまい。
「!」
唯為が視線を千寿に抱っこされた掃除屋に戻したときには、彼はまるで霊体のように白く薄く風を纏って、高く昇ったかと思うと――名残惜しそうに光を1つ残し…消えた。思わず、唯為は緋櫻を抜いて何とかそれを阻止しようかとも試みたが、それも後の祭りで……。
「……やはり私には我が子を抱く価値もないのか」
そうポツリ、と呟いた千寿に3人は言葉を失った。
Epilogue 最愛の君に愛を込めて
「ここに人が来るのは初めてかも知れないな」
その後、千寿は苦笑いを浮かべながら3人を自分の鍛錬所へと招いた。
先ほどの高台から30分歩いた山際にあるそこに着く頃にはトップリと日も暮れて、辺りは虫の音しか聞こえない静かな空気に包まれている。
「私は癌に犯されていてね…もう長くない。だから今、この一刀にまさに命懸けだ」
ガラリ、と木の引き戸を開けるとそこには研ぎ石の上に置かれた闇を吸う抜き身の日本刀。千寿は3人に背を向けると、それを我が子のように愛しそうに眺め、また作業に戻った。
「答え…訊けなかったネ」
鍛錬所を後にした桜夜は煙が昇る煙突を振り返りながら口を開く。
消えたクラインは恐らく12年後の『現代』へと帰った筈。自分たちも後数時間で元に戻るわけなのだが、その前に是が非でもクラインが訊けなかった答えを代わりに訊きたいと少女は何処かで思っていた。
しかし。
「例え、俺やお前や冴那が訊いた所で意味のない話だ。掃除屋が訊いて初めてその言葉は価値を得る」
唯為はポケットに手を突っ込んだまま、前を見据えた。そう、『言葉』と云うものは「誰が」「誰に」――伝える気持ちは本人じゃないと意味がない。
「それに、たった1つの言葉や感情で運命が変わるほど…世の中、慈悲深いものでもなんでもないさ」
自嘲気味た嗤いを浮かべ、唯為は首を振った。それは掃除屋も理解しているだろう。
『月並み程度だが――』
夜の風は非道く冷たく、竹林が物悲しそうにザザっと音を立て、そして黒髪を揺らす。
そこで、3人の意識は白くなり――秋の風と共に「12年前」に別れを告げた。
『月並み程度だが――……「幸せ」に。…最愛の君に……「いつまでも」愛を込めて……』
Fin
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【0376 / 巳主神・冴那(みすがみ・さえな) / 女 / 600 / ペットショップオーナー】
【0444 / 朧月・桜夜(おぼろづき・さくや) / 女 / 16 / 陰陽師】
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■ ライター通信 ■
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* こんにちは、本依頼担当ライターの相馬冬果です。
この度は、東京怪談・月刊アトラスからの依頼を受けて頂きありがとうございました。
* 今回の依頼は「現代編」である『第1部』と「過去編」である『第2部』に分かれて
構成されております。ご了承下さいませ。
* 物語の全容も含めて、掃除屋や千寿に対する感情やそれに対する行動などは、
他の参加者の方のノベルにも目を通されますとより一層楽しんで頂けると思います。
≪沙倉 唯為 様≫
再びお会い出来て嬉しいです。ご参加、ありがとうございました。
プレイングに「沙倉さんらしさ」がとてもよく出ていて、良かったと思います。
物語が進むにつれて、内面描写を少し増やしてみましたが如何でしたでしょうか?
それでは、またの依頼でお会い出来ますことを願って……
相馬
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