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兎目の石
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「ちょいと、お兄サン、月の石ってのを知ってるかしらねェ?」
やけに馴れ馴れしい態度で話しかけてきたのは、水商売上がりと解るような徒っぽい女だった。年の頃は四十過ぎだろうか。だが、長年の化粧で痛んだ肌は五十過ぎにも見える。色の抜けた髪は艶がなく、きめの粗い肌と相まって女を乾燥した印象に見せていた。
私はゆっくりと足を組み替えながら首を横に振った。
「いいえ、存じません」
「だろうねェ。アタシも知らないのさ」
喉の奥で引きつった笑い声をあげ、女は身を乗り出してきた。
「だからね、お兄サン。それを探して欲しいのさァ」
「料金の方はどのようにしてお支払いいただけますでしょうか」
「その月の石をあげるよォ。アタシはそれが見たいだけなんだから、手に入らなくたって構やしないのさァ」
「わかりました。では早速、調査に」
「あァ、そうだ。お兄サン。兎に気をつけなさいよォ」
そう言って、死んだ女は姿を消した。現れたときと同様に。
残された私は行動を共にしてくれる調査員を捜すことから始めなくてはならなかった。
1
秋雨前線が停滞している。そのおかげでここ十日は雲の切れ間を覗いたことがない。全く、鬱陶しい。天候は人の気分にも影響を及ぼす。それは俺の雇い主、草間氏も同様のようで。
「上総」
俺を呼ぶ声に張りがない。
「はいはい。調査っすか?」
「いや」
ふるりと首を振って、草間探偵はサングラスのフレームを指先で押し上げた。
「鋼巡査、知っているな?」
「もちろん」
鋼巡査。鋼孝太郎のことだ。新米巡査で、ここらじゃ有名なチャリンコ巡査。俺は直接は面識がないが、草間探偵とは何度か事件で一緒したことがあるらしい。町中を自転車で巡回している姿は、俺も何度か見ている。飄々とした感じの青年だ。
「今の依頼人、名前を聞くのを忘れていた。彼に依頼人のことを訊いてきてくれ。月の石についてはお前が調査して構わない」
「アプローチの方法は?」
「そうだな……」
冷めたコーヒーに手を付けて、草間探偵はしばらく考え込んだ。
「まず、言葉通りの月の石ではないのは確実だが、宝石のムーンストーンでもない。かといって、月と関連した石の伝説というのは聞いたことがない。従って、何かの比喩表現だと思われる。これも依頼人について調査をしていけば解るだろう」
「了解。では、鋼巡査に会ってきます」
「ああ」
小さく頷いた草間探偵にふざけて敬礼をして、俺はくるりと踵を返した。そして、所長室のドアノブに手をかける。
「失礼します!」
「ふぎゃっ!」
横っ面をドアに打たれる。目の前がちかちかするほど痛い。全く、不作法なヤツもいるものだ。俺は弾き飛ばされて床に座り込んだまま、張り飛ばされた頬を押さえた。ジンジンする。平手打ちを食らったような感じだ。
「……上総、大丈夫か?」
「だいじょーっぶ……っす」
「うわ! 失礼しました!」
ぐい、と腕を捕まれる。そして無理矢理に立たされた。その手の主は、俺よりも幾らか背の高い青年。
「ご、ごめんなさい、上総さん」
その背後から顔を出したのは、この事務所のマスコット、草間零。可愛らしい顔には心配という二文字がでっかく見える。
「だいじょーぶだいじょーぶ。壊れて困るような顔じゃないから」
にこりと笑ってやると、口の中がじんわりと熱く、痛い。これは口の中を切ったか。
「大変失礼しました。本官の不注意で……」
「鋼巡査。本人が大丈夫だといってるのだから、大丈夫なのだろう。それより、今日はどうかしたのか?」
草間探偵が、幾ら立っても進展しない話しに痺れを切らしたように先を促す。それを聞いて、青年、鋼孝太郎巡査はビシッと敬礼をした。そして、胸ポケットから一枚の写真を取り出す。
「はい、今日は伺いたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「はい。まずは、こちらの写真を見てはいただけないでしょうか」
そういって、草間探偵に写真を渡す。俺も一緒になって覗き込んだ。そして、一斉に声を上げる。
「依頼人の!」
「さっきの幽霊!」
「……幽霊、ですか?」
鋼巡査の声のトーンが下がる。見れば、どことなく哀しげな顔だ。何かマズイことをいってしまったのだろうか。幽霊、と言うからにはその人は死んでいる。この写真の人物が彼の知り合いだとしたら、確かにマズイことを言ってしまったかも知れない。
「この女性は?」
「はい。名前は水野礼子。年は47才。この近くで『レイナ』というスナックを経営しています。結婚はしていませんが、内縁の夫……いわゆるヒモがいました。水野礼子はその気っぷのいい性格で、この辺りじゃ知れた顔です」
「……確かに、この女性は先ほどまでここにいたよ。幽霊だったが」
「そう、ですか……」
「何? 知り合い?」
俺が聞くと、鋼巡査は頷いた。
「はい。本官が飼っている犬の面倒を見てもらったことがあったり、以前、店で盗難騒ぎがあったときに顔見知りになったんです。それで、ここ数日、店に出てこないと従業員から通報がありまして」
「それで、ここへ?」
はい、と鋼巡査は頷いた。
俺は思わず首を傾げた。水野礼子が行方不明になって、その聞き込みに訪れたのならば話は分かる。だが、彼はここに彼女がいると知っていて訪れたような話しぶりだ。いったい、どういうことなのか。
「実は……草間さんですからお話しするのですが、今朝、夢を見たんです」
「例の、予知夢?」
「はい。朧気だったのですが、水野さんがこの事務所の前に立っているような夢で……それで、ここに来たんです」
「なるほど……」
草間探偵は小さく頷いてから、サングラスのフレームを指で押し上げた。
「その夢は正解だな。つい今し方、その水野礼子さんが現れ、この興信所に依頼を持ち込んできた。『月の石を見せて欲しい』とな」
「月の石?」
「ああ。それについてはこちらも解らない。これから調査にいく」
ちらりと俺を見て。
「上総がな」
「……ええ、行きますとも。じゃ、鋼巡査。一緒に行きましょうか」
「え、えぇッ!? 本官もでありますか!?」
「依頼人、水野礼子は、月の石を見せて欲しいと頼んだ。ってことは、もう一度現れる。彼女はもう幽霊なんだから、死んでいることはほぼ確定。なら、もう一度現れた幽霊に自分の体の在処を聞き出せば、事件は解決。でしょ?」
「あぁ! なるほど」
新米サンは、少しおとぼけらしい。
2
「月の石……って、何でしょうねぇ」
「自分は」
「あ、良いっすよ。普通の話し方で」
「そう、ですか? それなら……」
にこりと笑う。人好きのする、いい顔だ。草間探偵の苦み走った雰囲気とは正反対だ。
「俺が知ってるのは、上野の博物館にある月の石だけです。上総さんは?」
「俺も同じ。本物の月の石か、宝石のムーンストーンぐらいしか知らない。けど、水野礼子が見たがっているのは、そんなものじゃないだろうなぁ」
そういったものが見たければ、自分の足で見に行くことが出来る。だから、これらは除外。とすると、何をさして「月の石」と言ったのだろうか。
「石、と言うからには、なにか固いものですよね」
「だろうなぁ」
「月、月……衛星……引力とか海の満ち引きとかにも関係しますよね」
「そうだけど……」
それと石とどう関係があるのだろうか。小首を傾げた俺の前で、鋼巡査はぽん、と手を打った。
「そうだ! 図書館に行きましょう!」
「…………その格好で?」
「え? 何か問題でも?」
「問題って言うか……さすがに警察の制服はマズイんじゃ……」
そうですか、と言いながら、鋼巡査は自分の姿を眺める。確かに、図書館は公共の施設で、警察官がそこを利用したとしても何の問題もない。が、激しく注目を集めることは間違いないだろう。攻めて上着と帽子だけでも脱いだらどうだろうかとも思うのだが……。鋼巡査は全く気にした様子もない。
「いや、大丈夫ですよ! さ、行きましょうか。解らないことがあれば調べれば良いんですからね!」
正論だけど、正論だけど!
俺はちょっぴり、鋼巡査と一緒に図書館へ行くのは遠慮したいと思った。
自慢の自転車は交番に置いてきたらしく、俺たちは徒歩で図書館まで行くことを余儀なくされた。だからといって、パトカーで行くわけにはいかないが。
そう言えば、と内心で首を傾げた。依頼人はこんな昼日中に現れた。まだ夕方には早すぎる時間だ。死んでいるのなら、あそこに現れた依頼人は幽霊と言うことになる。雨の日は幽霊が現れやすいと言うが、これは珍しいのではないだろうか。それとも、幽霊は昼日中でも関係ないのか。
興信所から徒歩で十五分ほどの場所に、図書館はある。区立図書館の分館だが、蔵書は割に揃っている。
予想通り、入り口を入った瞬間から俺たちは人目を集めた。受付のオバサンから勉強中の学生まで、俺たち、特に鋼巡査をじろじろと見ているのがハッキリと解る。それなのに当の本人は、それを気にした様子もない。
「……大した神経だ……」
「え? 何か仰いましたか?」
「いや、何でも。それより、ここだろ? 天文学のコーナー」
「ええ」
俺たちは月面調査や月の謎とタイトルにある本を適当に取り、更に民族学のコーナーへ向かった。そこから宗教・神話に分類された本を取りだして、空いている席に腰を下ろした。一冊の本を題の大人が二人して覗き込んでいるのは、端から見なくても奇妙だ。今度は、俺も注目の的にされてしまった。
ためいきをつきつつも、最初に開いたのは月面調査に関する考察書だった。つまり、アポロ計画に関する本である。月の成立過程から始まり、大きさや自転・公転速度、朝夕力に関して事細かに書かれている。だが、その本から解ったことと言えば、いわゆる「本物」の月の石は玄武岩である、ということぐらいだった。正確には玄武岩に類似した石、である。珪素を主成分としているとことと、酸素と結合して酸化物に変化していると言うことも解った。
「でも、これは違います」
「そうだな」
そういった月の石なら上野に行けば見ることが出来る。死んでまで見たいと思わせるような物ではない。
俺は小さなため息をついて、天文関係の本を脇へ退けた。そして、世界の神話を集めた本を開く。目次から月に関係すると思われる項目を探し、斜め読みしていった。ギリシャ神話に出てくる月の女神アルテミス、エジプトの月の神はヒヒのトト神、インド神話では万物の生命の源としての月を司るソーマ神などが有名だ。だが、これらに「石」と関連づけられる伝承はない。更にページを繰り、東洋の神話・伝説の項目を開いた。
「呉剛……?」
ごごう、と振り仮名が振ってある。鋼巡査がその名前を呟くと同時に、館内に蛍の光が流れた。まもなく閉館時刻です、と告げるアナウンスに、周りの人々が一斉に身支度を始める。慌てて俺たちは天文学の本を棚に戻してから、神話・伝説の本だけを持って貸し出しカウンターへ急いだ。同じように読み切れなかった本を借りていこうとする人々が列を作っている。貸出票に記入をして列の最後尾に並びながら、もう一度先ほどのページを開いた。
中国の伝説に曰く、中秋の夜半、霊隠寺という寺の僧侶が屋根を打つ水滴のような物音を不審に思って庭へ出ると、そこには色とりどりの粒が散らばっていたとある。その粒は美しく冷たい光を放っていた。その僧侶がそれらを拾い集め、翌朝、和尚に見せたところ「月にあるという桂の大木から落ちてきた物だ」と言う。
固く、色のある、粒。
カウンターに貸出票を提出して、その本を借り出しながら、俺は不思議なほどに確信していた。これが「月の石」に違いないと。資料に依れば、それは月の桂、すなわち月桂樹の種とある。だが、色を持ち、光を放つというのであれば、それは宝石のことではないだろうか。ならば、石という鉱物にも当てはまる。
「この、呉剛の石とやらが、月の石なんでしょうか?」
「恐らくな」
「……そうか!」
大きな声で叫ぶので、前に並んでいた人も、後ろに並んでいる人も吃驚してこちらを見ている。
「女の幽霊だから、宝石が欲しかったんですね!」
「……多分ね」
俺は、俺たちの回りから少しだけ、人々が引いたことに気づいた。
3
「それにしても、月の石がこの……呉剛の石だとして、どうやって探すんです?」
さすが警察官。的確な質問だ。
「解らない。一応、この本によれば月の桂の種はそのお寺の周囲に蒔かれて、一年で立派な大木になって色とりどりの小さな花を付けたそうだ。今もそのお寺は桂の木で有名で、毎年中秋の頃に花を咲かせているらしい」
「それって、中国にあるんでしょう?」
「そう。だから、……行くんなら鋼巡査が行ってきて」
「えぇッ!? 俺がですか?」
「そう。ウチの興信所、貧乏でね。中国までの往復渡航代金すら出ない。その点、鋼巡査は捜査のための海外出張が認められる」
「認められませんよ! 俺はまだまだ新米なんで、そんな海外出張だなんて!」
「じゃ、諦めるしかないな」
一瞬、ぽかんとした後。
「えぇッ!? 諦めるんですか!?」
「だって、他に方法がないだろ?」
「そうかも知れませんけど……」
しょんぼりと項垂れる。警察官が項垂れる姿というのも珍しい。俺は少し観察しておこうと、鋼巡査を見やった。すると、巡査はがばりと顔を上げた。
「そうだ! アイツに聞けば解るかも知れません!」
「アイツ?」
「はい。水野礼子の内縁の夫です。本名は誰も知らなくて、兎と呼ばれています」
「兎!?」
兎に気を付けろ、と依頼人は言った。それは自分の内縁の夫に気を付けろと言う意味だったのか。だがそれは、その男に彼女が殺されたことを意味しているようにしか聞こえない。そんなヤツはどうせろくなヤツじゃないだろう。おおかた、やくざ崩れか何かだ。
「……その、兎ってのは、どんなヤツだ?」「えぇと、本名、年齢不詳。この界隈じゃ兎の通り名で通ってます。何で兎なのかは不明ですが、日本人ではありません」
「外国人?」
「ええ。金髪に赤い目の。でも、日本語は流ちょうでしたよ? この前、聞き込みに行ったとき、綺麗に喋ってましたから。外見からすると30歳前後でしょうか。優男風で、かなりの美形です」
「優男……?」
それはまた、随分想像と違う。俺は意表をつかれて、唖然としてしまった。
「で、兎は店を出してます。水野礼子の店の斜向かいです。行ってみますか? そこも飲み屋ですから、まだ開いてないし」
「そうだな……ちょっと話を聞かせてもらおうか」
俺が頷くと、鋼巡査は嬉しそうに先に立って歩き出した。よっぽど事件解決に邁進するのが好きらしい。そのためには他人の評価など気にならないと言うのだろうか。
俺には理解しがたい生き方だ。
午後六次会点のその店に到着したのは、五時に図書館を出た十五分後だった。鋼巡査の言ったとおり、まだ店は開いていない。
鍵のかかっていないドアを開けて、俺たちは中へ入った。薄暗い店内の中、磨かれたカウンターにスポットライトのような灯りが落ちている。感じからして、ダイニングバーのような店か。
「すみません、まだ開店前なのですが……」
カウンターに立っていた男が顔を上げた。長い金髪は緩やかにうねり、その白い貌の中で赤い目が異様に光る。その目が鋼巡査を見ると、ふわりと笑った。
「おや、これはこの前の……」
「たびたび失礼します! 今日は、先日とは別のことをお窺いしたいのですが、宜しいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
そう言って男、兎は俺たちに席を勧めた。そして、グラスに水を注いでくれる。グラスの外側には水滴が浮かび、水が美味そうに見えた。
「それで」
言いながら兎は、ふい、と目をそらした。その視線の先を追えば、コンロの上で鍋が火にかけられている。何かを煮ているのだろうか。それにしては、何も匂いがしない。それとも、鍋で湯を沸かしているだけなのか。
「あの」
「ん? 何だ?」
くいくいと腕を引いて、鋼巡査が俺の耳元に囁いた。
「この水、飲まないでください」
「は? 何で?」
「良いから、飲まないでください。何か嫌な感じがするんですよ、これ」
そう言って、鋼巡査は顔をしかめてグラスを指さした。これも、予知夢同様、何かを感じ取っている、と言うわけだろうか。俺は素直に忠告に従った。
「今日はどんなご用件で?」
兎は微笑したまま首を傾げた。
「水野礼子を殺したのはあんただな?」
「え、ちょっと!」
「良いから! こいつが水野礼子を殺したのは間違いないんだ」
にっこりと、店のマスターは笑った。自分のしたことに欠片ほども罪悪感を抱いていないような、そんな無邪気な笑顔だ。
「水野さんにはお世話になりました」
「なら、どうして殺した?」
兎は赤子のように無邪気に笑う。
「水野さんが私と一緒になりたいと言ったんですよ。だから」
「殺した? 意味が分からない」
「私と一体になりたいと望んだのは彼女の方なんですよ?」
「お前と、一体になる?」
言葉の真意を測りかね、俺は眉間にしわを寄せた。マスターは小首を傾げ、カウンター上のスポットライトを見上げた。
「人は死なないと、私と一体になれないんですよ。お世話になった水野さんだから、私はその願いを叶えてあげようと思ったんです」
「あんた、何を言ってるんだ?」
鋼巡査の声が強張る。警察官としては当然だろう。だが、そんな鋼巡査に、マスターは寧ろ困ったような顔をした。何故、彼が緊張するのか解らないと言った顔だ。
「私が月に帰るために手を貸してくれた水野さんだから、私は一緒になりたいと言った彼女の願いを叶えたんです。それだけのことでしょう?」
こいつは、本当に解らないのだ。
俺は慄然として、つばを飲み込んだ。
「水野礼子の死体は、どこにある?」
「ここですが?」
そう言って、マスターは自分の腹の上に手をおいた。意味を悟ると、俺は知らず一歩退き、顔を歪めた。
「……喰った、のか?」
「ええ。死んだ人は私の食料ですから。私と一体になってるでしょう?」
そう言う意味か。
再び唾を嚥下して、俺は掠れそうになる声を振り絞った。
「兎の分際で」
そこでようやくマスターの顔に緊迫感らしきものが浮かんだ。だが、それはほんの一瞬でかき消え、また笑みを浮かべる。
「何だ、ご存じじゃないですか。私は月に帰りたいんですよ。月の兎ですから」
「……本気で言ってるのか?」
鋼巡査の押し殺した怒声にマスターは微笑んだ。警官として、見過ごすわけには行かないと言ったところか。
「私はね、ヒキガエルと一緒にいるのが嫌になって地上に来たんですけど、やっぱり長年暮らしていた場所が恋しくなりましてね。その話をしたら水野さんは喜んで協力してくれましたよ。月へ帰るために、大きな木を育てなくちゃいけないんです」
息を呑み、鋼巡査が一歩進み出る。
「それって月の桂の木のことだな? やっぱり、『月の石』はその種だったのか!」
「ああ、よくご存じですね。ええ、その通りですよ。あの木は我が儘でしてね、綺麗な水でないと育たないのですよ。昔はどこに出もあったんですが、今は探すのが難しくて」
「綺麗な水……だと?」
「ええ。綺麗な水が、たくさん必要なんですよ。とてもたくさん、ね」
マスターはにっこりと笑った
「これが、その月の石にもあげている綺麗な水です。美味しいですよ?」
手つかずのグラスを示し、マスターは口を付けるように勧める。俺たちは互いに目配せをして、唇をグラスに付けて、水を飲む振りをした。断ると話が進まない気配があったのだ。
「美味しいでしょう? 月の桂もこの水が好きでしてね、たくさんやるんですよ。でも、まだ足りなくて、なかなか大きくならないんです。だから、私が月へ帰れるのは当分先の話なんですよ」
実に残念そうに言って、マスターはほっと息をついた。
「もうたくさんだ! それより、『月の石』を見せてくれないか?」
「ええ、良いですよ」
あっさりと承諾したマスターに、俺たちは一瞬呆気にとられた。親しかった水野礼子でさえ見たことがないと言うから、よっぽど大事にしているのだろうと思っていたのだ。かたくなに拒まれることも覚悟していたのに、これでは拍子抜けだ。
マスターはカウンターの奥のドアを開け、どうぞと手招いた。扉の先には階段があり、地下へと潜っている。薄暗いそこには小さな電灯が点っているきりだ。
「この先にあるんですよ」
そう言って先に立ち、どんどん地下へと降りていく。俺はその後に続き、鋼巡査が最後に続いた。扉は開け放したままだ。
階段の天井はかなり低い。俺ですら身を屈めなければならない。鋼巡査の長身では、歩くのも辛いだろう。
「あ痛ッ!」
背後で悲鳴が上がった。その前に、ゴツンという音がしたから、恐らく、彼が頭をぶつけたのだろう。俺は振り返ろうかとも思ったが、そうすると俺の足下が危うくなるので止めた。
一階分ほど下ると、開けた空間に出た。古いワインセラーのようだ。中央にはコンクリートで作られた長方形の水槽。中に電灯でも仕込んであるのか、水面からほのかに光を放っている。
だが、木の陰はない。辺りを見回しても煉瓦の壁があるばかりだ。
「この中ですよ」
マスターはそう言って、コンクリートの水槽の中を示した。俺とおでこを押さえた鋼巡査は恐る恐る近づいて中を覗き込み、息を呑んだ。
水槽一杯に張られた水。その床には色とりどりの石が敷き詰められている。その上に横たわる、白い骨。漂白されたように白いそれに、石の光が反射して美しい。
「あァ、ようやく見られたよォ」
「うわッ!」
鋼巡査が驚いて、俺の腕にしがみついてきた。不意に聞こえてきた声に俺も狼狽える。
「み、水野さん?」
「ありがとうねェ。お兄サンの助手サン」
「おや、水野さん、どうしたんです?」
「あァ、兎。アタシはねェ、あんたがご執心だった『月の石』を見たくってねェ」
水野礼子は自分の骨が漂う水槽を、満面の笑みを浮かべて覗き込んでいた。
「あんたと一緒になっちまう前に見せて貰おうと思ったのさァ」
目元の辺りに笑みの気配を漂わせ、水野礼子は満足げに呟いた。マスターはにっこりと笑って、俺たちを見た。
「そういうことでしたか。しかし、困りましたね。滅多な方にはお見せしたくないんですよ。水野さんはお世話になった方ですし、お見せするのは構わないんですけどね」
「兎、やめておくれよォ。頼んだのはアタシなんだからさァ。アタシを少しでも好いてくれるんなら何もしないでおくれよォ」
「大丈夫ですよ。何もしやしませんよ」
腕を伸ばし、白い指先で水槽の水を跳ね上げる。濡れた指先を唇に当て、兎は冴え冴えとした笑みを浮かべた。
「この水を飲まれたんですから、私が何をしなくてもいずれ、あなた方も私と一つになるんですから」
白骨の漂う水槽。その寝台の如き月の石。微笑む兎。苦笑する女の死霊。
「……そう言う水だったのか……」
俺の喉から絞り出された声は、それこそ干涸らびていた。
4
「……それで、依頼は完了したのか?」
「だから、水野礼子に月の石を見せた。それで完了だろ?」
長いため息をついてから、草間探偵は調査依頼書に完了の判子を押した。
あの兎の店を飛び出してから、一夜明けた今日。俺はことの顛末を草間探偵に話した。その結果がこれである。何故、ため息をつかれなければならないのだ。
「その水を始末するべきだったな。被害が増える可能性もある」
「ああ……そういうことか」
俺は納得がいって、頷いた。
そのとき、所長室の薄いドアをノックする音がした。そして、恐る恐るドアが開いて、鋼巡査が顔を出した。
「あのぅ……宜しいでしょうか?」
「どうぞ。昨日はご苦労様。無事に事件は解決したようで結構だ」
「実はそのことなんですが……先ほど、兎の店へ行ってみたら、そこにあったはずの店がなくなっていたんですよ」
「なくなったぁ!?」
「ええ。で、不審に思って近所の人に聞き込みをしたら……なんと、誰もそんな店はなかったって言うんです! これ、どういうことだと思います?」
俺は草間探偵を振り返った。サングラスの下で切れ長の目が何度か瞬く。それから。
「……無事に月へ帰れたんだろう」
「あぁ! そうですか、そうですよね!」
そう言って、鋼巡査はにっこりと笑った。まるで兎のように。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1064/鋼・孝太郎/男/23/警察官
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