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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


調査コードネーム:黄泉津比良坂 −死反玉<まかるかえしのたま>−(後編)
執筆ライター  :立神勇樹
調査組織名   :草間興信所

■オープニング■

 人もこない樹海の小さなヒノキの社で、一人の女が泣いている。
 涙を流すこともなく、声を上げることもなく。
 うっすらと微笑みすら浮かべながら。
 青く茂る榊を祭った祭壇にある、死反玉を眺めながら。
 今、この玉を焔を剣にてうちて現れる、大いなる闇御津波の流れに乗せ、もとある女神の懐へ返せば荒魂が和魂へと帰り、呪いを許されしもしよう。
 しかし、そうする気は透子には更々なかった。
 ましてや、火神教の「宮」が言う讒言を信じている訳でもなかった。
 ──生き返らないことなど、もうとっくの昔に知っていたのだ。
 ただ、許したくなかったのだ。憎みたかっただけなのだ。
 誰も榊を憎まないから。由良さえも榊を嫌わないから。
 自分が憎まなければ良介があまりにも哀れだ。
 憎まなければ、幸せになってしまえば、自分すら良介がいた事を忘れてしまうだろう。
 それではあまりにも哀れだ。
 だから、榊千尋という人間を憎んだ。憎しみで思い出を刻み込もうとした。
 そうすることでしか、忘れずにいられない。自分は弱い人間なのだから。
 やがてこの樹海に火が灯る。
 山肌を流れ出た溶岩が、闇からあふれ出た血のように、あらゆるものを焦がしながら。 そして自分も死ぬだろう。最後まですべてを忘れずに──。

 音も無く雨が降る。
 漆黒の空間に次々に現れて消えるそれは、真実も虚偽もを貫く銀色の悪意の針のようにも見えた。
 事件の発端であり失踪していたはずの、第二種特殊犯罪調査官・榊千尋が島根の病院からここ、東京の警察病院にヘリで搬送されてからすでに5時間が経過しようとしていた。
 草間武彦は、ほかにするべきことを思いつけないまま、ロビーの端でタバコを吹かしていた。しかし、空箱をきつく握りつぶした左手が、彼の心の中にかつて無いほどの嵐が吹き荒れていることを、ひそやかに告げていた。
「火之迦具土だかなんだか知らないが。一体全体どうなってるってんだ」
 ロビーのソファーでは母親に殺されかけ、父親と慕う男を失おうとしている少女が泣きつかれて眠っていた。
 大人の都合に踊らされ、そして飽きられた人形のように打ち捨てられて。
 通路をひとつ挟んだガラス壁の向こう──集中治療室からは、心臓の動きを示す単調な電子音が、榊千尋という人間の死への階梯をしめすように、無慈悲に、容赦なく鳴り続けていた。
 火之迦具土をあがめる教団――「火神教」と警察が呼び、は富士に眠る火之迦具土を解放し、浄化の炎で日本全土を焼き尽くさなければならない、と狂信している宗教団体があった。
 かつて榊千尋は教団を根絶するための捜査に挑み、部下であり神道の術者である嘉数良介を犠牲にして、すべてを終わらせたはずだった。
 しかし実際は違っていた。
 生き残った「火神教」の者は、嘉数を犬死させたと榊を逆恨みする妻を手ごまに取り、榊を罠にはめ、そして苦痛の果ての死により復讐を果たそうとしていた。
「「火神教」の行方に関しては、警察の榊の部署が全力を尽くして探しているらしいが……行方がわかったとしても」
 やることが多すぎた。
 「火神教」を放置すれば、いずれや日本は大きな損害を受ける。
 また嘉数透子とまゆらの母娘を放置しておく訳にもいくまい。もちろん──榊も。
 雑多な情報の山から核心を探し出そうとしていると、不意に集中治療室の扉が開き、一人の年配の医師があらわれた。
「──脈拍の低下と体温の上昇が著しい強い状態です」
 簡素に言う。
「アイスバーン処置と、投薬で持たせていますがこのまま体温の上昇がとどまらなければ、あさっての明け方には43度を越えるでしょう」
 それがどういうことが、瞬時にはわからなかった。
「体温計の多くは42度ないし43度までの目盛しかありません」
 医師の言葉不足を補うように、ぽつりと誰かがいった。
 それ以上の温度になると、たんぱく質が熱変成を起こすという。
 つまりそれ以上の温度だと酵素が働かなくなる──だから。
 計るまでもなく命が「ない」。
「いまだかつてない症状です。まるで呪いとしか思えません。脈拍が低下しているのに熱だけが上昇するとは。レトロウィルスの方面でも検討して治療中ですが、何分データがない。榊君がどれほど持ちこたえられるかも未知数だが」
 俯きがちに医師がつぶやく。
「家族の方を呼ばれた方がよろしいでしょう」
 ──それは、一日と半分だけ早い、死刑宣告のように聞こえた。


■宴の準備■

 カナリアがさえずるたびに古めいたアンティークの鳥籠が、ゆらゆらと揺れる。
 先ほどまでさんざん室内を荒らしていった、無粋な警察官達は室内を探す事に飽きたのか伽藍堂の周囲をうろうろと餌を探す犬のように、うろついている。
 それは店主である紅蘇蘭にとって目障りなことこの上ない光景であったが、事が事である以上許容せざるを得ないだろう。
 先ほどまで共に事情聴取をうけ――そして見事なまでにしらばっくれた答えを返していた黒月焔と中島文彦、そして警察の人間であるにも関わらず、事の成り行きをとぼけていた御統綺陽子はもう居ない。
 榊、というとるにたらない人間の命が危ないと知り、警察病院へと向かったのだ。
「さて、どうしたものかしらねぇ?」
 店主は呆れた、というよりむしろ楽しむ口調でつぶやいた。
 と、店主の後ろにある壷からくすくす笑いにもにた、水音が立った。
「全くもったいないわ。山を噴火させようなんて力がありあまってるのなら、あたしの糧になれば良いものを」
 上質のヴェルヴェットにもにた、しっとりと柔らかい声が店内に響く。
 と、壷の水音がひときわ激しくなったかと思うと、まるでフィルムを逆回ししているように水が壷からあふれ出し、床に落ちた。
 焼けこげた絨毯にどろりとした液体が広がる。
 やがてそれは吸い込まれ、冬独特の乾燥した空気にさらされ消えていく――筈だった。
 しかし現実には、「それ」はまるでゼリーのようにぶるりと震えゆっくりと盛り上がり一つの形を作り出す。
 しなりとのび、男を抱きとめて離さない白い腕。
 さわりたいという男の劣情を誘ってやまない白くほっそりとした足。
 喉元に浮き上がる繊細でうっすらとした静脈は、これから始まる戦いという名の宴を期待して上気する柔肌とあいまって、極上の薔薇水晶の様を見せている。
 さらりと肩を滑り落ちる髪は闇に染まった蜘蛛の糸。
 つい、と細められ紅を見つめる瞳には蠱惑的な光が宿っている。
「そうねぇ、私は面倒毎があってここを動けないけれど、店をこんなにステキに模様替えしてくれたお礼はキチンとしたいわねぇ」
 伽藍堂の店主はくっ、と喉をならした。
「私のかわりに、喰らってきておくれでないかえ?」
 通常とは違う、やたら時代めいた言葉をつぶやく。
 と、液体から生まれいでた、否、液体であった女が喚起に胸をふるわせた。
 きつく黒皮の下着――今の世においてはボンテージとよばれるスタイルの下着をつけた女は、店主の言葉に応えるように赤い血の色をした唇をゆがめた。
「そうね。紅のお願いなら聞いてあげても良いわ。火神教とやらの力、あたしがいただくわ」
 ぺろりと唇をなめあげ、側にかけてあった漆黒のコートを手に取り、鳥籠のカナリアを指先にのせて口づける。
「ふふふ、ご存分に」
 店主はまるで骨董品を見にきた客にでもいうように、ぞんざいに了承してみせた。
 女は店主の言葉に満足したように、己の髪をかきあげた。
 伝説上にあり、歌によって男を誘い喰らうセイレーンでさえ、この女の動作にくらべればてんで幼稚で、処女のごときぎこちなさに見えるだろう。
 それほどの香に――人の、ことに男の欲望をくすぐる色香に女は満ちていた。
 伽藍堂の店主が出会った時から、いや、この存在がこの人の世に現れて以来、彼女以上に色気に満ちた存在を見たことがない。
 一滴の水ともいえない、黒い液体からなり、人の精気を飲み込み食らいつくす存在。
 本当の名は何といったか。
 ――覚えては居ない。
 ただ、便宜上、この疎ましいほどに便利な現代に、東京に生きる為に名乗っている名前ならば知っている。
 黒木イブ。
 壮絶なまでの色香持つ女に擬態し、よどみつきること無い人間の欲を至上の好物とする妖魔の名前。
 漆黒のイブ。
 その名を持つ女は、肩にコートを羽織り、唇と同じ深紅に染めた爪先でまるで愛猫にするように、伽藍堂の店主の喉を一度だけひっかくと、まだ夜の明けない東京の街へと姿を消していく。
 後には主もなく揺れる、古びた骨董品の鳥籠。
 そして喰らわれたカナリアの、金色の羽だけがあった。

「榊が死んでもそれは運命にしか過ぎない」
 青ざめる一同を前に、中島文彦――張暁文が言い切った。
 予想していた反論が無かったのは、全員が疲れ切っていたからなのか、それとも否定出来ない現実だと心のどこかで誰もが理解していたのか。
 いずれにせよ、暁文には関係なかった。
 焔におごらねばならないとはいえ、存分に食事を楽しみ、そして長い夜を、一般市民には決して味わえない、長くて暗い夜を歌舞伎町ですごそうとしていたのに、唐突に事件に巻き込まれたのだ。
 不機嫌になるのもさることながら、冗談ではない、という気持ちもあった。
 もともと単独行動により動き、幾多の危険な商品……例えば冷たくて黒い鋼鉄の武器……などを売りさばいてきた暁文にしてみれば、こんな事態になっても全員でいっしょに仲良く動きましょう。と言われるのは我慢ならなかった。
 群れる気にはなれない。
 そして、もう一つ別の理由もあった。
 この場でその理由を明かすつもりはさらさら無かったが。
「俺は火神教を潰して俺の居場所を維持するだけだ」
 挑発的な目で一同を見渡す。武神一樹が露骨に顔をしかめて見せたが知った事ではない。
 かつていくつかの事件……発展途上のお嬢様が引き起こした騒ぎのあれこれ……で、仲間とはいえないまでも友好的な関係にあったのだが、それはそれまでの話だ。
 今ではない。
 状況の流れも読めずに、馬鹿みたいに他人を信じていれば、出し抜くことが常識の流氓社会で生きて行けるワケがない。
「俺は俺のやり方でやらせて貰おう。ただ事件に関わらないと言っているワケじゃない。コケにされた礼はきちんとしてやらなきゃな」
 言い捨てると、よけいな反論を避けるために背中を向け、病室の前を、長い病院の廊下を、そして病院自体から遠ざかる。
 あの場にいた何人かは確実に、隔意やいらだちを抱いただろうが。
 そんなことは知ったことではない。
(まずは「宮」の残党の居場所を突き止める)
 奴らは安全な場所で浄化の時が……条件が完璧にそろっているのを見ている。
 病院を出て、駐車場で携帯電話を取り出し、忌々しい思いで王大人の薬局への番号を押す。
 短縮番号ではないのは、出来うることならあのやっかいジジィの世話になりたくないという、常日頃の願いからだ。
 だが、今ほど短縮番号を登録しておかなかった事を悔やんだ事はない。
 ボタンを一つ一つ押す動作、たかがそれだけの事が酷くもどかしい。
 流氓のネットワークをつかえば、警察より早く情報をつかむ事が出来るだろう。
 運が良ければあの火神教とやらのしっぽもだ。
(それにしても。あの御統も怪しくねぇか?)
 警察は火神教と呼んでいるのに、あの女――御統綺陽子だけは「宮」と読んでいた。
 それが教団関係者の証拠だ。
 電子ノイズごしに呼び出し音がなる。
 一回、二回。そして三回目に受話器が上げられ。
 しかし、暁文は言葉を口にしなかった。否、出来なかったというほうが正しいかもしれない。
 なぜなら、問題となっている当の本人が病棟からあらわれ、迷うことなく暁文の目の前に立ったのだから。
「こんにちは、というのは不適切ですね。張暁文さん?」
 言葉が終わるより早く、暁文は動いていた。
 周囲に素早く目を走らせる。
 幸いまだ夜も明け切れぬ早朝の時間帯だった為か、駐車場には人気がない。
 流れるような動作でスーツの内側に手を突っ込み、銃をのグリップを握る。
 サイレンサーがついているのはおあつらえだった。
 取り出すが早いか、銃身を横に倒したままスライドするように御統に、呼吸に会わせて隆起する胸に照準をあわせて引き金を引いた。
 エアガンが放たれるように、圧縮された空気が一息に押し出されるような音がする。
 鉛の球が暁文の視線の真央に着弾する。
 悲鳴もなく、御統が身体をくの字に曲げた。
 そして深紅の液体があふれ出し、完全に彼女の動きを封じ込める筈……だった。
 だが現実には御統はよろめき、二三歩後ずさり、長い長いため息をついた。
「ふー。報告書通りの腕前ですね」
 両手で心臓の位置を押さえつけ、うつむいたままつぶやいた。
「日本の防弾チョッキもすてたものではない、と今私は実感しました」
 顔を上げて笑う。
「あんた……」
 驚愕したのは刹那、すぐに体制をたてなおして今度は防弾チョッキなどというおもちゃで守ることはできない――頭に狙いを定める。
 利害の一致でとりあえず信用しているフリをして、御統と連絡をとり、人目のつかない場所を指定し、接触早々銃弾をブチこむつもりだった。
 自分の勘違いの場合は御統に運がなかっただけだ、そう片づけるつもりだった。
 なのに。
(ちっ、どうやら運がないのは俺の方か)
 考えればわかっていた筈ではないか。このやっかいな事件に否応なしに巻き込まれた――それ以前に焔とのポーカーで負けが込んでいた――経緯を考えれば。
「あんたも『宮』だな。俺の聞きたい事を教えてくれりゃあ命は助けてやるよ」
 二度目のラッキーはあり得ない。もし頭を打たれて、今みたいな脳天気な笑顔を返すならコイツはゾンビだ。
 そうなれば正攻法で、武神やあの鷹科とかいう神道の術者なり、抜剣という知り合いの坊主なりの出番がくるだけだ。
「嫌なら自爆でも何でもすりゃいい。死体からでも聞き出してみせるさ」
 言う。と、御統は驚愕した表情を見せた。
 だが恐怖に青ざめては居ない。日本の、この国流の言葉でいいあらわすなら、まさしく「鳩が豆鉄砲を喰らった」ような顔だった。
「私が? 『宮』」
 心臓から両手を離し、そして、暁文の狙いから逃れようともせず御統は肩をすくめた。
「それこそ、冗談でしょう。過去に私の部下をしなせ、そして今も私のかわいい部下の命を奪おうとしている、お馬鹿さんの仲間?」
 じょうだんではないわ、とすねたように唇をとがらせた。
「火神教を『宮』と呼んだのは、警察ではあんただけだった」
「ええ、そうね。だって火神教なんて格好悪い名前、私は好きではありませんから」
 スーツをつまみ、忌々しげに空いた穴を眺める。
「まあ、説明がたりなかった私も問題ではありますが。このスーツ、必要経費で買い直せるかしら? 無理ね」
 すねた表情のまま言う。
「それともう一つ。日本の警察はプライドのバケモノですわ。身内が……ことにキャリアである私が、警視正の私が殺されれば黙っては居ないでしょうね。今まで目をつぶっていたいくつかの事件もろともこの国をそうざらえしても犯人を捜し出すでしょうね。ジャーナリズムも久々のショッキングな事件に沸き上がり、それはそれは素敵なワイドショーを繰り広げ、私の部下はついうっかり草間さんの興信所の話をしてしまうかもしれませんわね、あら、そうなると大変ですわね。あの狭くて汚い事務所に不似合いな位のフラッシュと、まるで檻のように報道の脚立がとりかこみ、ああ、かわいそうに、あらぬ評判をたれながされた草間さんは仕事を失い、失業、貧困、路頭にまよって、それで東京駅に段ボールをひいて眠る生活、季節は折しも冬、そのうち無精ひげをはやした遺体がみつかって…………」
「ああ、もういいよ。ウザいな」
 ち、と舌打ちして眉間を寄せる。
 御統の妄想を垂れ流すようなしゃべくりに、うんざりしながら言う。
「目をつぶってきた事件だと? これだから警察は信用がならない」
 にっこりと、無邪気な少女のように御統は笑い首を傾げてみせる。しかし吐き出された言葉はこの上なく辛辣なモノであった。
「本当に良い猟犬は、獲物を狩りつくさないものなんですよ。暁文さん」
 獲物が居なくなれば、狩りは成立しない。狩りがなくなれば、猟犬は――警察は存在意義を失う。
「だが、それではあんたが宮じゃないという理由にはならない」
「結構執念深いのですね。榊の報告書に訂正を加えておきますわ」
 うなずく。
「しかしこの場合は信じていただくことが大前提ですから、信じていただかないと困ります」
 言うと、ポケットから何かをとりだし、暁文に投げつけた。
 条件反射的に受け取る。
 と、それは黒にもみえる、濃い小豆色をした記章入りの手帳だった。
「広域犯罪捜査共助準備室・凶悪犯罪担当官、中嶋史彦。ウチの情報犯罪捜査官の偽造はなかなか良いセンスでしょう?」
「最悪なギャグだな」
 同じ読みの、しかし見慣れない漢字とまじめくさった――本人はしたことが一切ない――偽造写真が貼られた手帳だ。
「しかし、それであなたの特殊能力は存分に生かせるかと。違いますか? 二丁拳銃の暁文」
 部下が部下なら、上司も上司だ。と吐き捨てたくなるのを堪える。と、御統がつい、と視線をそらした。
「そちらのお方も、どうせならご一緒に富士へドライブと参りませんか?」
 病院の中庭に続く茂みが揺れる。
 いままで気配など感じなかったその場所から、一人の女が現れた。
 黒いコートからのぞく双球は、手からこぼれ落ちそうにたわわにみのり、「さあ、口づけて味わってごらん」と、蠱惑的に誘っている。
 御統が流す筈だった血と同じ色をした唇は、見とがめられたという気まずさは欠片もなく、ただただ獲物を誘うように宛然とゆがめられ、脳髄を絡め取り意識のすべてを支配しようとしていた。
 快楽とも恐怖ともつかない何かが暁文のつま先から脊椎を走り抜けた。
 ややきつめの瞳は底知れない夜の海のように、漆黒で何の感情も読みとらせない。
 美しすぎる相貌は、思わず見とれずにはいられないが、それは美を楽しむ為ではない。
 あまりにも完璧すぎるため、どこかに傷がないか、と探す為である。そうでなければ人間ではない。
「黒木イブさんですね。紅様からのご連絡受けております」
 御統の言葉に、イブは眉をしかめた。
 隠密のつもりであったのに、伽藍堂の女主人が連絡したのだろうか……いや、彼女はそんな無粋をする人間ではない。
 だが、次の言葉を聞いてイブは機嫌をとりなおした。
「どうぞ、ご存分に「喰らい付くし」てくださいませ」
「言われるまでもないわ。私に命令は赦さない。はやく案内なさい」
 その系統の仕事をしてるのか、女王様然とした言葉に、御統が道化がかった仕草でお辞儀をしてみせた。
(多少手間がかかるが、殺しゃいいだけ楽なもんだ)
 いらだちとも、呆れともつかない衝動からアスファルトをかかとで蹴りつける。
 今更運の――ことさら女運の悪さを――嘆いても仕方がない。
 やられる前に、やるだけなのだから。


■敵を欺く■

 富士上空をヘリコプターが飛んでいる。
 登山道の要所要所には制服姿の警官が。火口には登山客に変装した私服警官がうろついていた。
(いくら格好を誤魔化したって、臭気でばれるがな)
 心の中で舌を出しながら、登山道を昇る。
 前には黒いコートを着た御統と黒木イブが立っている。
 登山道であるにしては、なんとも場違いな格好だ。
 もっとも、コートを脱いだら場違い以上の騒ぎが起きるのは否めない。
 何故なら御統は見事に穴の空いた防弾チョッキを着ているのだし。
 黒木イブにいたっては、警察が白目を向いて速攻逮捕する、過激な下着姿だ。
 くつくつと、喉をならしながら暁文は笑った。
 だが二人が暁文の心中をのぞいたならば、まなじりをつり上げ、北極の風より冷たい口調で言い捨てるだろう。
 自分だってコートの下に二丁も拳銃を忍ばせている癖に、と。
「それにしても、大がかりねぇ」
「表向きは遭難登山者の捜索、という事にしてますから。全然問題はありません」
 イブの言葉にさらりと御統が返す。
「アンタ、その表向きって言葉好きだな」
「物事には表も裏も有るでしょう。私たちの部署は表向きとは言い難いですからね」
 にこにこと笑いながら火口へ向かう登山道に背を向け、車の方に歩み寄る。
「というわけで、さて行きますか」
「あ?」
「これだけ火口を固められていれば、火神教といえどそうそう簡単に近づけないでしょう。まさかゴミのようにぽい、と死反玉を火口に投げ捨てればおしまい。なんて有るわけないでしょうし」
「でもあなた、儀式は火口で執り行われると言ったわね?」
 あごをそらせながら傲然とイブが言うと、はい、と御統はうなずいた。
「表向きは」
「またか」
「その方が「らしい」でしょう。警察の人間が多すぎると面倒なんですよ。それに表は武神さん達にまかせて裏から奇襲されれば、榊君の時のようにしぶとく逃れる馬鹿も出ないでしょうし」
 今度こそは、完璧にしたいんですよ。と言った。
 車に乗り込み、エンジンをかけながら御統が言う。あわてて暁文が、ついでじらすようにゆっくりとイブが乗り込んだ。
 別働隊と見せかけた武神一樹たちの一行が本体で、本体で火口に張り付いてると見せかけた黒木と暁文の二人が裏から奇襲する。
 敵も味方もだまし尽くす作戦だが、敵に与える動揺は多いだろう。
(どおりで、ね)
 イブは唇をからちろりと舌をのぞかせながら、御統の顔を一別した。
 張暁文と自分。いかにも隠密向きの二人が本隊であるなど、おかしいと感じていたのだ。
 からみつくようなイブの視線を完全に無視しきって、御統が苛立たしげに吐き捨てた。
「警察が人を殺すと面倒なんですよね。過剰防衛だの人権だの」
 ゆっくりと登山道を下って、樹海の方へ向かう。
「んで? 火山の方に警察どもの目を集中させておいて、自分はひっそりと隠れて「おしおき」してやるって事か?」
「私は食べられればどちらでもいいけどねェ」
 呆れる暁文に、イブは物憂げに答える。と、御統は冷たい仮面のような無表情になって、吐き捨てた。
「はっきり言って、私の部下に二度も手を出すような輩に、人権はありませんね」
「それが本音かい?」
 過激だな、とちゃかすように言う。言葉の辛辣さからはかけ離れた明るさは、御統の神経を逆撫でしてやろうという悪意にあふれていた。
 だが、御統は肩を一度すくめると。またまた名刀で大根でも切るようにばっさりと吐き捨てた。
「いえ、これは私的事情です」と。


■火之迦具土■

 銀色の光のリボンをたどる。赤い糸をたどって迷宮をくぐり抜けたギリシア神話の英雄のように。
 光を手放せば二度と戻れない、深い樹海という迷宮から。
 果てに赤い炎が見えた。
 一つ、二つ。――それから三つ。
 進むたびに炎の――社を照らす篝火の数が増えていく。
 まだ真新しい……おそらく周囲の木を切り倒してつくったのであろう、白木の社が視界に現れた。
 もう一歩踏みだそうとして、武神は歩みを止めた。
 女が立っていた。
 触れれば消えそうな、幻のようなぼんやりとした笑顔で。
 だが、その瞳に写る影はどことなく冷たく――まるで泣いているように見えた。
「透子、さん」
 隆之介が喉から絞り出すように言う。
 あの黄泉津比良坂で有った時から変わらない、いや、違う。
 かすかにやつれ、山の寒さで白く冷たく浮き上がる肌。冷たく篝火の炎に揺らぐ瞳。
 それらが互いに共鳴しあい、ひきたてあい、透子を山神のごとく冷酷で人間離れした存在に仕立て上げていた。
「……俺はあんたが羨ましいよ。俺は……俺にはそこまで必死に守りたい記憶がない」
 狼がうなるように、低く、危険な因子を含んだ声で大上は言葉を口にしていた。
「違うな、あった筈なのに忘れちまったんだ。あんたが榊さんを恨むのは有る意味正しいよ。けどな! 由良ちゃんは違うだろ?!」
 怒りが、声となって放たれた。
 それはまるで樹海を者ともせずに駆けめぐる、否、樹海を守護し支配する狼たちの王者のごとき声だった。
 そうだ。透子のこのやり方は違う。
 透子と良介をつなぐ……良介という人間が確かにいた証として由良が存在するのではないか。
「由良ちゃんが居る限り、あんたは良介さんを忘れない……そうじゃないのか?」
 隆之介の言葉に、透子は応えない。
 ただ、磨かれた瑪瑙のように暗く冷たい瞳で見返すだけだ。
「俺はもう……目の前で理不尽に傷つけられたり、道具として利用される存在をみたくない」
 榊がやっていることと、透子がやっていること、どちらもあまり変わらない。
 人形のように無反応なまま、透子はじっと見返している。何の声も届かないのだろうか、といらだちが胸の奥を締め付け、押さえきれない激情が針となって目の奥を、頭の奥をちりちりと突き刺した。
「アンタ……火之迦具土を復活させ、すべてをなくすことで満足なのか? 娘を道具に使ってでも自分が満足していないのはわかっているんだろ」
 死者は戻らない。
 どんな術をつかったところで、戻ったように見えるだけで本当は戻っては居ない。
 ただ、肉の器がうごいてるだけだ。
 東西のあらゆる術を知る焔だからこそ、知っている。
 復活のあらゆる術をもちいても、いつかは終わりが来ることを。
 生きる以上は死ぬことから逃れられないことを。だ。
 当然、巫女であった透子が知らないはずはない。
「死後の世界は生者にのみにあると、知っているのではないか?」
 焔や隆之介より幾分落ち着いた声で、武神一樹が尋ねた。
 否、尋ねたというより諭すという方が正しいだろう。
 遠い異国の地で、神と信じられていた「存在」はある日別の……異端者を排除する狭義な宗教により、悪魔と言われた。
 その時から神は力を失った。
 何故なら、神は「信じられてこそ」の神であり、「信じるものがいるから」こそ力をふるえるのだから。
 そして、死者の世界も然り。
 生きている者が信じなければ、消えるうたかたの幻なのだ。
「貴女が死すれば、「嘉数良介」もよりどころを失い、また無へと帰す。それに嘉数を死なせた事で自分を憎んでいる榊を殺すのは……罰ではなく、救いになるとおもわんか?」
 突如、それまで人形のようだった透子が壊れたおもちゃのように高笑いし始めた。
「榊が、自分を憎んでいる? そんな事、あり得ないわ。彼は「そういう」人ではないもの」
 白い巫女装束の袖が揺れる。
 古めいた管玉や勾玉が連なった手飾がしゃらしゃらと鳴る。
「あれは定められた法を守り、その違法者をとらえる猟犬。目的の為に「し得ねばならぬ事」をなすのに、何のためらいも後悔も見せない。己の力により法が守られるので有れば、その必要とすべき「時」がくれば、千人万人を殺しても、蟻ほどの動揺も後悔もみせない。そういう男」
 否定できなかった。
 確かにそう言う一面はあった。例えばあの東京タワーでの事件。
 何のためらいもなく、少女を……人形として仮の命を与えられていた存在を撃ち殺した。
「まあ、否定はできないな」
 全員の言葉を代弁して、焔がこともなげに吐き捨てた。
 と、一樹と隆之介が非難めいた瞳を向ける。だが、焔は口の端を持ち上げ、顔に彫り込まれた龍とともに透子をあざけりながら唇を再び開いた。
「それにしても、ただ殺した男が、ただ相手の家族の面倒を見てたと思ってるのか? そのあたりの事情をちゃんときいたのか?」
 焔の言葉に、透子がぴくり、と頬を引きつらせた。
「……俺さ、ヤツの事アンタと同じぐらい大っ嫌れーだけど。ま、知らないみたいだから教えとくよ」
 それまで大人の言い合いに口を挟めず、積極的に関わる気にもなれず立っているだけだった碧が肩をすくめた。
「榊のアホ、ああみえても孤児らしいぜ?」
 人一人生きていくのは、どれだけ大変だろう。
 ましてや透子と由良、何も持たない二人が生きていくには東京はどれだけ優しいだろう?
 二人がその厳しさをしらずに済んだのは、良介の……ひいてはその意志をついだ榊のおかげに他ならない。
「アンタは恨んでただけで何もしなかっただけではないのか? 人を犠牲にする時、される時の心、理由をしっかりと考えるんだな。アンタも娘を犠牲にしたんだぜ……犠牲も裏切りも、されてもしても辛いものなんだぜ」
 焔にしては珍しい、どこか憐憫を含んだ、それでいて優しい声で言った。
 とたんに、言葉に押され出もしたように透子がよろめいた。
「何もしらないのに、勝手なことを!」
 透子が叫んだ。
 人形の呪縛が壊れた瞬間だった。
「どうしてなのよ、何故なのよ! 私の処へ戻ってくると言ったのに、どうして榊なんかを信じて死んだのよ。どうして私じゃなくて、榊による死を選んだのよ! どうして榊は馬鹿みたいに良介との約束を守りつづけてるのよ。私は……私は」
 一日一日と、良介を忘れて行く。
 声を、その髪の手触りを、笑いかける時の仕草を。
 ふと気づいたら思い出せない。
 由良の側にいる良介を思い出せない。由良の側にいる榊は簡単に思い出せるのに。
 憎かった、妬ましかった。
 妻である自分よりも、榊の方が良介に近いと認識する度に。
「どうして榊の為なんかに死んだのよ……」
 つい、と涙がこぼれた。

 蔓草に足をとられ、地面に倒れ込む。
 両手がふさがっている為か、受け身を取ることも出来ない。
 普段は身綺麗にしているというのに、今の碧海ときたら、森の奥にすまう土の妖精のように、枯れ葉と土にまみれていた。
 地面に転がったまま、剣を抱きしめる。
 と、目の前に手が差し出される。
 剣を取りに浅間神社へと共に向かってくれた幸弘だった。
 一人ではとてもここまでは来られなかった。
 自分だけではどうしていいかわからなかった。
 幸弘の暖かい手を取りながらたちあがり、顔についた土をはたき落とす。
 胸に抱えた長剣が……十拳剣が重い。
 長くて、すぐに蔓や藪にひっかかり、急く碧海をからかうように先へ進むことを拒絶する。
 それでも、進まない訳にはいかないのだ。
 ――火之迦具土とは、剣の姿を取っているという。
(その剣を身にまといし者を火之迦具土と総称するのじゃ)
 と巫嫗(ふう)は……祖母は言っていた。
 炎を纏いし剣を十拳剣で打ち折れば、火之迦具土は血を……溶岩にもにた炎の血を流すという。
 それこそが闇御津羽であり、大地の狭間を通り、黄泉へと流れる水なのだという。
 十拳剣とは固有名詞ではない。十拳……人間の拳を十個ほど並べた長さを持つ剣である。
 しかし、ただ長ければ良いという訳ではない。
 長い間神剣として奉られていなければならないのだ。
(それならばうちの神社の御神刀でもいけるだろう)
 と、弟の碧は面倒そうに言うかも知れない。
 しかし、京都へまで取りに行くいとまはない。
 ならばと、ゴーストネットへ朝一番に駆け込み、浅田幸弘と必死になって富士山近くの神社を検索して御神刀を奉っている場所を探したのだ。
 そして見つけたのだ……富士山をあがめ、鎮める神社。
 源頼朝、北条義時、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康などが寄進をおこない、桜の宮と呼ばれる。
 浅間神社。
 ただし総本宮ではない。
 富士山の周囲にある百四十七社。
 その一つ。たった一つだけが十拳剣を奉っていたのだ。
 もちろん、御神刀を簡単に貸してくれる訳がない。しかも高校生と大学生にしか見えない碧海と幸弘である。
 しかし、必死のお願いによって、渋面をつくっていた宮司は話を聞き入れ、最後には微笑みすら見せて貸してくれたのだ。
 とはいえ、樹海はすでに夜であり、どこを歩いているのかわからない。
 ただ、確かなのは、ヘンゼルとグレーテルの童話にあるように、点々と残された白い光の痕跡。
(一体誰が。黒月さんか)
 幸弘がいぶかしみながら光をたどる。
 鷹科碧と武神一樹は神道系の術者だ。黒月はあらゆる術を知るとはいえ、彼の術はどちらかといえば鋭く、炎のように燃えさかる勢いに満ちた者が多い。もちろん親友である隆之介にこんな芸当が出来る筈がない。
 と、光がひときわ明るい場所に、一人の男が立っていた。
 さらりと揺れる黒髪。
 魔法の光にてらされて輝く瞳は新緑石の鮮やかさ。
 それはどこかで見た顔で……。
「千尋、さん?」
 つかれから、ぼんやりとした頭をふりながら尋ねる。
 その人物はとても榊に良く似ていた。
「後少しだ。俺はここから離れられないが。がんばりな」
 そういうと、ぽん、と碧海の頭に手を乗せた。まるで初めで榊千尋と出会った時のように何気なく、そして優しく。
「説明はナシだ。早くいきな、時間がねぇ」
 言葉に押されるように碧海が走り出す。
 その後に幸弘が続く。と、すれ違う瞬間、男は幸弘を見て、大仰な動きで肩をすくめた。
「ご家族の方への連絡、ちゃんと俺は受け取ったからな」
 と。

「だからこそ、なのではないか」
 責めるではない。まして憐憫でもない。
 ただただ諭すように一樹はぽつり、とつぶやいた。
 透子の涙が樹海の地に落ちてにじむ。
「巫女として嘉数良介を祭り守り、彼の為に生きよ」
 神託を告げる預言者のように、その言葉は周囲をふるわせ透子を包み込む。
「祭る……私が、良介を?」
「信じられなければ神は消える。しかし、信じられれば人は神にもなろう」
 事実嘉数良介は神だったに違いない。透子にとって唯一人の絶対の存在意義。
「死反玉、返してくれないか? 榊さんを助けたいのもあるけど……俺はあんたも助けたい。そして由良ちゃんも」
 そして何より自分はこれ以上森を失いたくはない。
 何故か、という理由は隆之介にはわからなった。だが、心のそこからそう思い、言葉にしていた。
 透子が、胸元を押さえた。
 そこにはひときわ暗い闇色の曲玉が下がっていた。
「大人しくそれを渡しな。俺がしかるべき処に戻してやろう」
 焔が手を伸ばす。
 きつく透子の唇がかみしめられる。
「俺さ、想うけどその良介さんって人? 別に榊のアホの為に死んだんじゃないと想うぜ? 火神教をほっとけば、あんたや由良ちゃんも死んだ筈だ、それだけじゃない。もっと多くの人も」
「返した処で……榊さんは……戻らないわ」
 ぽつり、とつぶやく。
「わかっていたのよ。あの人が何を望んでいたのか」
 自分が愛した人と、娘が笑って生きていける世界。それだけを唯ひたすらに望んでいたのだと。
 そこに自分がいなくても、笑っていられるように榊にすべてを託したのだと。
 なのにどうして自分には、何も言わずにいってしまったのだと。それが悔しかっただけなのだ。と。
「透子さん、今度は貴女が良人を殺すのか?」
 武神の視線が透子を捕らえる。
 笑っていた。
 彼女は泣きながら笑っていた。
「返しても、十拳剣が無ければ火之迦具土はうち破れないの」
 どうしたらいいのか、とまどいを隠せずに、それでも笑っていた。
 もう手遅れなのだという諦めと、自分の負けを認めた笑いだった。
 だが、彼女の笑顔はすがすがしかった。
 確かに、榊に対する復讐とねたみへの戦いには負けたのだろう。
 しかし、自分の中にいる本当の自分との戦いに、彼女は勝ったのだ。
「十拳剣――って、今更いわれても」
 そんな剣は無い。取りに戻ってる暇はない。
「十拳剣にて火之迦具土を、燃えさかる剣に化身した神をうち破れば、溶岩のごとき炎の血がながれ、やがて水に変じて黄泉へといたる。その流れに死反玉をのせてすべらかに母神の身元へ返せ」
 信じられない声をきいた。
 碧ははじかれたように後ろを向く。と、そこには月の光のごとき銀色の目を輝かせ、長い包みを胸に抱いた兄の――碧海の姿があった。
「まったく、相変わらず感情のままに猪突猛進なんだな。ま、この場合は」
 それで、正しい。と告げながら碧海の後ろから浅田幸弘が姿を現す。
「幸弘!」
「碧海」
 二人が叫んだ瞬間、透子の後ろ、五十メートルばかり離れた処に立っていた白木の神殿から、あまたの悲鳴が上がった。
「アンタ、火之迦具土は」
 焔が胸元から幾何学的な模様が描かれた紙を取り出し、社へ走りながら聞く。
 と、透子が叫んだ。
 社の中です。と。

「さあ、お次は誰?」
 喉をならしながら、イブが髪を掻き上げる。
 足下には炎の術で焼かれて灰となったコートが落ちている。
 裸身に近い、妖艶この上ない下着姿で、樹海にあるにしてはあまりにも非常識な構図ではあったが、無数の篝火にてらされ、赤い光の揺らめきに白い肌を彩らせたイブの様子は、なぜか不思議とこの状況に似合っていた。
 足下に転がる、ひからびた死体を、ブーツのつま先で蹴りどかす。
 周囲を取り囲む白装束の信徒達は、イブの壮絶なまでの美しさに思考を奪われていた。
 それでも意志力がつよい何人かが手をのばし、彼女に襲いかかろうとする。
 瞬間、夜風になぶられるイブの髪の一筋に指が触れるより早く、銃声が鳴り響き、信徒達の額の真央に穴が空き、次々へと倒れる。
「邪魔しないでちょうだい、暁文」
 食事を邪魔されたのが癇に障ったのか、イブが普段より一オクターブ高い声で叫んだ。
「邪魔してるのは、テメェだろう。俺は俺のやり方でやらせて貰う。食事ができねぇのはテメェがトロいからだ!」
 からかうように返ししな、両手の拳銃をたくみに操り、信徒達を流し目で一別する。
 そして、暁文の視界に捕らえられた順番通りに、銃声が鳴り響き、倒れていく。
「ち、トロいとは随分なお言葉ね。では、好きにやらせていただくわ!」
 手を天にさしのべる。
 とたんに熱されたバターよりも簡単に「黒木イブ」という形が崩れ、ゲル状のどろりとしたモノが地面へと吸い込まれた。
 音のない影のようにしみが地面を動く。
 突然の事態に、呆然としている信徒の中で、ひときわ若くい男の背後でしみがとまった。
 と、先ほどの奇妙な光景を逆回しするようにゲルがイブへと戻る。
 腕を喉と胸にからみつかせ、右足を男の右足に絡める。
 赤い舌で、ちろりと首筋をなめたかと想うと、人型が崩れ、薄い液体の膜となり男の表皮を覆い尽くす。
 驚愕に開かれた口から、水音を盾ながら液体――イブの本性が体内へと入り込み、そしてあらゆる臓器に満ちる精気を吸い尽くす。
 痛み、というよりむしろ悦楽に満ちた表情をうかべ、男の皮膚が劣化し、髪が白くなっていく。
「フフフ、最後にこの世至上の快楽を味わったんだから、幸せな死に方かもしれないわねぇ」
 ぺろり、と再び唇をなめ、次なる獲物を探し液化する。
(敵じゃなくて良かったぜ)
 あれからは、逃れる術はない。
 放たれる炎の術を交わす。
 火球が髪をかすかにかすめて焦がす。
 ひさしぶりだ。ここまで暴れるのは。
 こうでなくては、生きている感じがしない。
 生と死、裏切りとかりそめの協定。ギリギリでしか生きられない流氓の本性がこれ以上ないまでに暁文をかき立てる。
「おらおらおら、人をここまで巻き込んでくれたんだ。覚悟は出来てるよな? 出来てねぇなんて半端な事は言わせねぇぞ」
 社から出てきた――おそらく教団幹部である男に銃口を定めてみせる。
「別開玩笑?(冗談はここまでだぜ?)」

「どけよ! 俺は今ストレスたまってるんだ! 瀕死の榊の変わりに十倍増しで殴るからな!!」
 言われた方に取っては災難以外の何者でもない主張を叫びながら、碧海は手から念動を放ち、碧と、そして後ろに居る碧海にのびてくる信徒の手を身体毎吹き飛ばしてやる。
「水剋火、とは言いますが。俺の場合は正しくありませんね」
 篝火がのび、しなる炎の鞭となって幸弘を襲う。
 しかし、炎は幸弘の顔数十センチ前で急速に弱まり、何故か氷となり、砕けて地に落ちる。
「熱気と冷気を操る俺にとって「相剋」はあり得ない」
 術で敵わないと見てとった男の手刀を避ける。と、側にいた隆之介が男の手首を取り、ひねりをくわえて投げ飛ばす。
 普段にはあり得ない力が身体の中を駆けめぐっているのを隆之介は感じていた。
 森を焼かれるのは我慢ならない、再び教団とか信者とかいう訳の分からないヤツに森を、自分の居場所を破壊される訳にはいかない。
(なんで、俺はここまで森にこだわっているんだ!!)
 心臓の音が、狼の遠吠えのように聞こえた。
 自分のしらない自分の「血」に焦る。それでも攻撃の手を休めない。
「やりすぎだ」
 苛立たしげに吐き捨て、一樹は自分に対して炎の壁を築き、封じ込めようとした男に手をさしのべ、裂帛の声を放つ。
 と、ガラスが砕け散るような音がして周囲の術者もろとも「技」が中和される。
「中島と……もう一人いるな。陽動のつもりだろうが、殺しすぎだ」
 あれでは火神教と変わらない。
「ふむ、あいつはやりだすと徹底するからな。傍らの女も同じ手合いだ」
 乱戦になりつつある中で、取り出した呪符を空に放つ。
「吾以日洗身・以月錬真・仙人輔我・日月佐形・二十八宿・與吾合并・千邪萬穢・逐水而清・急急如律令!」
 と、ミミズともウジ虫ともつかないぷるぷるとしたバケモノが現れる。
 朱色の丹砂で呪が書かれた紙を用いて使役する、中国の呪虫「三巳虫」。
 死をささやき、死を誘う虫である。
 かつての事件で見て以来、おもしろ半分に焔はこの術を取得したのだ。
「新たな術を試すほど大暴れ出来る機会はなかなかないからな、俺の実験台になってもらおうか? 母娘の弱みにつけ込んで使役する薄汚れたお前らには、お似合いのウジ虫だろう?」
 地獄の閻魔より壮絶で人を嘲った笑いを浮かべる。
 虫は信徒を喰らいながら、のたうつようにして祭壇へと向かっていく。
 突如炎が、鮮烈な太陽のような光が輝き、三巳虫を一閃した。
「火之迦具土!」
 碧海が叫び、十拳剣を抱いたまま、焔の前に、殺された三巳虫の呪力――呪い返しのおぞけたつ眩い波動の間にたつ。
「澳津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、道反玉、死反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼、布瑠部由良由良止布瑠部」
 すばやく唱えると、柏手をうつ。
 とたん、透明で精錬に練れた「気」が呪力をつつみ浄化した。
「あお!」
 叫んで碧が崩れ落ちかけた碧海を済んでで抱き支える。
「これ、で、千尋さん、を」
 剣を焔に押しつける。もはや持っていることも出来ない位消耗していたのだ。人一人を易々と殺す呪いを返し、浄化するなど、いくら神道をたしなんでいても、無茶がすぎいていた。
 無言のまま受け取り、剣と化けした火之迦具土――否、剣に乗り移られ、火之迦具土と変容しようとする「宮」へと焔は駆け寄る。
 雨のように降り注ぐ火は、幸弘の氷と、武神の中和で身体に触れるより早く消え去り、道を邪魔する雑魚は暁文の銃と隆之介によって排除されていく。
 そして地に倒れた信徒どもを、歓喜の笑みをうかべながらイブがこの上なくみだらに食べ尽くしていく。
 段を踏みやぶらんばかりの勢いで駆け上がる。
 鞘から引き抜くのももどかしく、体の中の血を、彫り込まれた龍と一体化して火之迦具土に襲いかかる。
 それは一枚の絵に見えた。
 炎を纏う神と、天空を支配する炎吐く龍神の一騎打ちに。
 落雷のような轟音。
 そして、金属が砕ける音。
 はぜるような音がして、火之迦具土と変容しかけ、しかし果たせなかった男は白い光のような炎に包まれ、黒い炭と化す。
 折れた剣が、赤く赤く、溶岩のように熱をもったまま床に転がり、白木を焦がしている。
「これを!」
 透子が武神に死反玉を投げた。
 死反玉は最初からそうなるのが決まっているように、武神の手に落ち、白木の床に広がる、かつては鉄であった溶岩の固まりへと玉を落とす。
 と、透子が戦いのさなかにあって、祈るような声で歌い出した。

 時間が音もなく過ぎていく。
 二度目の朝が来ようとしていた。
 日暮れまでにすべてが終わらなければ、榊は死ぬ。
 たった一日だというのに、何年もここに居たように、シュラインは感じていた。
 時計は針の進みかたが、早いような遅いような気がしていた。
「遅い、ですわね」
 待つのにはなれているさくらも、終末が訪れようとしているのを感じていた。
 待つのはなれている、何年も、何百年も待っていた。見守って、出会い、そして別れていた。
 だけど、帰ってきた。
 いつでも愛するべき人は、愛するべき土地が訪れ、さり、また訪れた。
(だから、一樹さまはきっと帰ってくる)
 ふるえそうになる手を握りしめながら、さくらはうつむいた。
 と、由良の手首に下がっている鈴が鳴りだした。
 玉がなく、決して鳴るはずのない玉が。
「鈴が、なっております」
「まさか、鳴るはずがないのに、また鳴るだなんて」
 シュラインが驚愕のままに口に手をあてる。と、由良が驚いたシュラインの顔を見て笑った。
「お父さんが歌ってる」
「え?」
 あわてて榊を見る。と、由良が一度だけ瞬きして、シュラインの袖を引いた。
 再び金色の鈴がなる。
 ――高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて。
 鈴の音に合わせるように、由良が口ずさむ。
 それは子供が口ずさむにしては、あまりにも難解であったが、間違える事無く由良は歌をたどっていく。
 鈴の音を追うように、合わせるように。
 子供が父親の後を追いかけ、追い越し、戯れるように。
「我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき」
 さくらが、ゆっくりと目を閉じて先を続ける。
 神道の知識など、まったくないのに、シュラインの脳裏にも歌詞が、歌詞が描く光景がくっきりとうつりだす。
 鈴の音に誘われるように、鈴の音が教えるように。
 口ずさむ。たどる。その歌の高低を。
 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て。
 と、唇が動いていく。
「かくよさしまつりしよものくになかと おほやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて したついはねにみやばしらふとしきたて」
 声が戯れる。
 幼い由良の声と、さくらのふうわりとした声、そしてシュラインの見事なまでに高低を捕らえ、あまたに変わる美しき声――そして、もう一つ、若い男の声が、導くように鈴の音と共にあたりに響いた。

「此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す」
 ――かくさすらひうしなひてば つみといふつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを あまつかみ くにつかみ やほよろづのかみたちともに きこしめせとまをす。
 罪という罪はあらじと、祓い給い清め給う事を、天つ神、国つ神、八百万の存在するすべての神がみと共に、ききかなえたまえと願う。
 透子の声が、碧と碧海の声が、武神の声が、そして全く何もしらない隆之介や幸弘までもが歌っていた。
 炎は静かに岩となり、岩は砕け水となり、床から、地へおち、水となり、そのさらに深い根の国へと吸い込まれていく。
 死反玉を抱いたまま、荒ぶれる黄泉の女神をいさめに降りていく。
 声が響き終わった瞬間、戦いは終わっていた。
 あまりのあっけない結末に、暁文はすべてがどうでも良くなっていた。
 ポケットから取り出した、御統の偽装警察手帳を篝火の中へ投げ捨てる。
 皮が燃える異臭が、何故か心地よい。
 イブもまた、信徒の精気を喰らいすぎて飽きていた。
 活きがいいのはともかく、同じような精気ばかりでは飽きがくると言う者だ。
 すっかり戦闘する気を失った二人を見て、一樹はうなずく。
 自分の力のすべてを手のひらに集中する。
 そしてすべての汚れを払うように、禊ぎの言葉の最後の響きにあわせて、柏手を打った。
 とたんに、それまで狂信的な熱を瞳にうかべていた信徒たちから、何かが消え失せた。
「……え?」
「教義に関する知識と記憶を封印した。もはや宗教そのものが消滅したと行っていいだろう。ただ、問題は」
 ここに居る信徒達が、自分たちは何故ここに居るのだろう、と途方にくれ、今後の生活に支障をきたすだろう、という事だが、人に迷惑をかけたのだ。それぐらいのリスクは負って貰わねばならない。
「武神様」
 つ、と透子が頭を垂れた。
「歌を聞きました」
 そう、聞こえた。
 幼い由良の声、そして武神が愛するさくらの声、シュラインのすべてをしのぐ美しい声。
 そして、透子が、請い願った、立った一人の最後の歌を。
 遠く離れたこの場所で聞いていた。
「神葬を行おうと想う」
 草間達を氏子とし、自ら神主を請け負って、改めて嘉数良介の死を悼もう。
 もちろん巫女は、透子だった

 
■エピローグ■

「おかしい、絶対におかしい」
 事件が終わって数日ぶりに、暁文は黒月のバーを訪れていた。
 ポーカーで負けた日から通算すれば、二週間以上のご無沙汰という事になる。
 その二週間、まったくツキが無かった。
 運び屋の仕事をこなせば、クライアント金をだししぶり、とんずらを扱いた。
 追いかけて、痛い目にあわせて残りの金を取り立ててみれば、もうけより経費が多くなったというこの始末。
 気に入りの女は、新しくできたホストクラブのホストに夢中で携帯電話にも出ない。
 そのくせ、訳のわからない女子高生にはナンパされて、何故かひきずりまわされる。
 まったく不運だ。この店に来て運命がかわったのだ。
 ならばこの店でもう一度良い方に好転するかもしれない。と、現れたのだ。
「なるほどな。では、もう一度勝負をいどむか?」
 リキュールが並ぶ棚の隅にひっそりと置いてあるカードのケースを取る。
「豪華中華料理はナシだ」
「そうか、それでは一日バーテンでどうだ?」
「この店でか? それも面白そうだ。バーテン服ってのはこういう機会でもないと気恥ずかしくてきれないからな」
 それなら、勝っても負けても楽しめる。
 そう想った暁文は甘かった。
「誰が男のバーテン服だといったかね? それでは罰ゲームにならんだろう?」
「……なんだ? ていうか、その龍と一緒にニヤニヤ笑いするのはヤメロ」
 と、言った後、ふと嫌な予感がして眉をひそめた。
「まさか、メイド服とかいったら殺すぞ?」
「そのまさかだ」
 平然とグラスを磨きながら言った焔の言葉に、暁文は金魚のように口をぱくつかせた。
 黒月焔の言動が冗談であったのか、本気であったのか。
 ――それはまた、別のお話である。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0173 / 武神 一樹(たけがみ・かずき)/男/ 30/骨董屋『櫻月堂』店主】
【0134 / 草壁・さくら(くさかべ・−) / 女 / 999 / 骨董屋『櫻月堂』店員】
【0599 / 黒月 焔(くろつき・ほむら)/男/27/バーのマスター】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 /草間興信所事務員&翻訳家&幽霊作家】
【0213 / 張・暁文(チャン・シャオウェン) / 男 / 24 / サラリーマン(自称)】
【0365 / 大上隆之介(おおかみ・りゅうのすけ)/ 男 / 300 / 大学生 】
【0454 / 鷹科・碧(たかしな・みどり)/ 男 / 16 /高校生】
【0308 / 鷹科・碧海(たかしな・あおみ)/ 男 / 17 / 高校生】
【0898 / 黒木・イブ(くろき・−)/女/30/高級SM倶楽部の女王様】
【0767 / 浅田・幸弘(あさだ・ゆきひろ)/男/19歳/大学生】

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■         ライター通信          ■
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 前後編というお話に最後までおつきあいくださった方、また波瀾万丈の後編から果敢にも奮闘された方、ありがとうございました。
 おかげさまで何とかNPCは生き延びました。
 今回はとても個性的なプレイングがあり、なかなか楽しんで書かせていただきました。
 良いプレイングなのに、私の実力不足で完全に描写しきれず、申し訳ない限りではありましたが。
 精一杯がんばらせていただきました。
 一本のファイルにまとめると膨大な量になってしまうため、個々別にわけさせていただきました。
 またここではない、別のお話で再会出来るとうれしいです。

 次の榊さん単発事件の予定は未定ですが。
 ひさびさにまったりしたお話を書いてみたいです。
 沖縄か、京都か、長崎か。
 のんびりとした話で行きたいと思っておりますので、機会がありましたら、よろしくお願いします。

 張暁文様
 前後編への参加ありがとうございました。
 なかなか個性的なプレイングでとても楽しく書かせていただきました。
 ちょっと深読みしすぎていたので、ハンデ(?)で女運を悪くしてみました。
 また最後の方、黒月氏とのやりとりがギャグっぽくなってしまいまして、これで良いのかどうか心配でもあります。

 では、再び不可思議な事件でお会いできることを祈りつつ。