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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


調査コードネーム:黄泉津比良坂 −死反玉<まかるかえしのたま>−(後編)
執筆ライター  :立神勇樹
調査組織名   :草間興信所


■オープニング■

 人もこない樹海の小さなヒノキの社で、一人の女が泣いている。
 涙を流すこともなく、声を上げることもなく。
 うっすらと微笑みすら浮かべながら。
 青く茂る榊を祭った祭壇にある、死反玉を眺めながら。
 今、この玉を焔を剣にてうちて現れる、大いなる闇御津波の流れに乗せ、もとある女神の懐へ返せば荒魂が和魂へと帰り、呪いを許されしもしよう。
 しかし、そうする気は透子には更々なかった。
 ましてや、火神教の「宮」が言う讒言を信じている訳でもなかった。
 ──生き返らないことなど、もうとっくの昔に知っていたのだ。
 ただ、許したくなかったのだ。憎みたかっただけなのだ。
 誰も榊を憎まないから。由良さえも榊を嫌わないから。
 自分が憎まなければ良介があまりにも哀れだ。
 憎まなければ、幸せになってしまえば、自分すら良介がいた事を忘れてしまうだろう。
 それではあまりにも哀れだ。
 だから、榊千尋という人間を憎んだ。憎しみで思い出を刻み込もうとした。
 そうすることでしか、忘れずにいられない。自分は弱い人間なのだから。
 やがてこの樹海に火が灯る。
 山肌を流れ出た溶岩が、闇からあふれ出た血のように、あらゆるものを焦がしながら。 そして自分も死ぬだろう。最後まですべてを忘れずに──。

 音も無く雨が降る。
 漆黒の空間に次々に現れて消えるそれは、真実も虚偽もを貫く銀色の悪意の針のようにも見えた。
 事件の発端であり失踪していたはずの、第二種特殊犯罪調査官・榊千尋が島根の病院からここ、東京の警察病院にヘリで搬送されてからすでに5時間が経過しようとしていた。
 草間武彦は、ほかにするべきことを思いつけないまま、ロビーの端でタバコを吹かしていた。しかし、空箱をきつく握りつぶした左手が、彼の心の中にかつて無いほどの嵐が吹き荒れていることを、ひそやかに告げていた。
「火之迦具土だかなんだか知らないが。一体全体どうなってるってんだ」
 ロビーのソファーでは母親に殺されかけ、父親と慕う男を失おうとしている少女が泣きつかれて眠っていた。
 大人の都合に踊らされ、そして飽きられた人形のように打ち捨てられて。
 通路をひとつ挟んだガラス壁の向こう──集中治療室からは、心臓の動きを示す単調な電子音が、榊千尋という人間の死への階梯をしめすように、無慈悲に、容赦なく鳴り続けていた。
 火之迦具土をあがめる教団――「火神教」と警察が呼び、は富士に眠る火之迦具土を解放し、浄化の炎で日本全土を焼き尽くさなければならない、と狂信している宗教団体があった。
 かつて榊千尋は教団を根絶するための捜査に挑み、部下であり神道の術者である嘉数良介を犠牲にして、すべてを終わらせたはずだった。
 しかし実際は違っていた。
 生き残った「火神教」の者は、嘉数を犬死させたと榊を逆恨みする妻を手ごまに取り、榊を罠にはめ、そして苦痛の果ての死により復讐を果たそうとしていた。
「「火神教」の行方に関しては、警察の榊の部署が全力を尽くして探しているらしいが……行方がわかったとしても」
 やることが多すぎた。
 「火神教」を放置すれば、いずれや日本は大きな損害を受ける。
 また嘉数透子とまゆらの母娘を放置しておく訳にもいくまい。もちろん──榊も。
 雑多な情報の山から核心を探し出そうとしていると、不意に集中治療室の扉が開き、一人の年配の医師があらわれた。
「──脈拍の低下と体温の上昇が著しい強い状態です」
 簡素に言う。
「アイスバーン処置と、投薬で持たせていますがこのまま体温の上昇がとどまらなければ、あさっての明け方には43度を越えるでしょう」
 それがどういうことが、瞬時にはわからなかった。
「体温計の多くは42度ないし43度までの目盛しかありません」
 医師の言葉不足を補うように、ぽつりと誰かがいった。
 それ以上の温度になると、たんぱく質が熱変成を起こすという。
 つまりそれ以上の温度だと酵素が働かなくなる──だから。
 計るまでもなく命が「ない」。
「いまだかつてない症状です。まるで呪いとしか思えません。脈拍が低下しているのに熱だけが上昇するとは。レトロウィルスの方面でも検討して治療中ですが、何分データがない。榊君がどれほど持ちこたえられるかも未知数だが」
 俯きがちに医師がつぶやく。
「家族の方を呼ばれた方がよろしいでしょう」
 ──それは、一日と半分だけ早い、死刑宣告のように聞こえた。


■黄泉路を流れる河はまどろみ■
 
 医療機器の電子音が、まだ夜も明けきれぬ暗い病棟の廊下に響く。
 時計の様に正確に、命の残量を計っているとは思えない程高く明るい音が、ランプの明滅とともに繰り返される。
 処置が一段落ついたのか、先ほどまでベッドの周りでせわしなく動いていた医師や看護婦の姿は今はもうない。
 横たえられた榊の顔は、呪いという苦痛にさいなまれているのが嘘のように何の表情もなく、眠っていると言われればそのまま信じてしまえそうなほど穏やかだった。
(隆之介に請われて来たのは良いけれど……ちょっと予想以上に大事じゃないのか?)
 心中でつぶやきながら浅田幸弘は苦笑した。
 夢の向こう側でまどろんでいた浅田を起こしたのは、無遠慮な程明るいJ−POP音楽――すなわち携帯電話の着信音だった。
 夜中の3時という非常識な時間に鳴り出し、しぶしぶ受け取ってみれば、内容はさらに非常識きわまりない話だった。
 いっそワンギリや悪戯電話であったならば、どれほどすっきりと朝まで眠れただろうか。と苦笑せずにいられない。
 もっとも、夢見が悪かったから、本当にすっきりと二度寝できていたかははなはだ疑問であったが。
 夢を見た。
 思い出したくもない夢を。
 聖母のように優しい顔をした母親が、天使のように歌いながら、赤子である自分にほほえみかけ、そして、手にした小さな針で、まるであやすつもりなのだ、といわんばかりの当たり前の所作で、押さえつけられ身動きのとれない自分の肌を突き刺し、あふれる小さな血球をうっとりと眺めいっている夢だ。
 Child abuse ――幼児虐待。
 辞書を引けば立った一言で終わってしまうソレが、いかなる複雑な意味と因縁を持つか。体験した者にしか――幸弘にしかわからない。また、それを自らさらけだし語り、同情を引く気にはならない。
 それでも。
 偽善と言われようと、何かの間違いだと自分でわかっていようと、友人の非常識な電話を――大上隆之介から受け取ったメッセージを知らない振りをして過ぎ去る事はできなかった。
 待合い室のソファーで眠る、小さな少女をみる。
 ある意味、彼女も幼児虐待されたようなものだろう。
 愛するべき、守り手であるべき母親から突き放され、道具として扱われ、そして泣きながら眠っている。
 シチュエーションが違う、と切り捨てるにはあまりにも自分と酷似した少女の姿。
 放っておける訳がなかった。
 誰彼かまわず髪を染める今時の若者にしては珍しく、何の細工もない、純粋で美しい黒髪を掻き上げながら幸弘はため息をついた。
「なーにが、医者の息子なら少しは何かわかるだろう、だ。同じ三流大学の仲間だって知ってる癖に」
 事件を、呪いを解く鍵を握る母親を追いかけるため、病院を飛び出していった友人の背中を思い出して笑う。
 しかし、彼を知る者であればそれがわずかな嘘を含んでいる事を見抜いて、苦笑仕返す事だろう。
 国立大学の初めに上げられ、最高学府と呼ばれる有名大学を蹴り飛ばし、大学は遊ぶところと割り切ってその三流大学に入学したのだから。
「ともかく、だ」
 ちらり、と集中治療室をガラス越しに見やり眉間にしわを寄せる。
「医療的処置は俺の口を挟む処じゃないけれど、榊氏の身体を蝕むこの熱気は」
 目を細める。と、普通の人間には見えない陽炎のように揺れる赤い光が榊千尋を包んでいるのが見える。
 おそらく、それこそが黄泉津比良坂の呪い。
「千尋さん」
 か細く、消え入りそうな声が幸弘の隣でつぶやかれた。
 幸弘が視線を向けると、すべてを包み込む沈黙の夜闇のような髪と、闇にほのほのと静かに燃える銀の月の瞳を持つ少年――鷹科碧海が、食い入るように榊を見ていた。
 このところ高校が学園祭で授業があって無きがごとし状態だった事もあり、少し風邪気味だった碧海は数日家から出られずに居た。否、出ずに居たといった方が正しいのかもしれない。
 学園祭ともなれば、イヤでも他のクラスメートと様々な関わり、つながりを持たざるを得ない。
 それが苦痛だった。だから、風邪気味なのを幸いに休養すると言って学校を休んでいたのだ。
 なのに「家に閉じこもってばかりだから、身体に悪いんだよ。あおは」と、元気この上ない弟に急かされるようにして、草間興信所に行ったのは昨日の夕方。
 そしてそこで、榊の失踪を知った。
 連絡が無いのは、いつもの事だとおもっていた。
 忙しい人だから。週のうち数日しか東京に居ないほど忙しい人だから。だから邪魔しちゃいけないと、自分から連絡することを避けていた。
 否、連絡する事によって榊に嫌われることが怖かったのかもしれない。
 だけど今は、自分の臆病さがくやしくてならなかった。
 もし自分が連絡を取っていれば、何かに気づいたかもしれない。こんな大事にならなかったかもしれない。
 反面、連絡したからといって何が変わる? 榊にとっての自分など取るに足らない存在、何も引き留める事もできない無力な存在にすぎないのでは? という不安が心の奥底で渦巻いている。
 ――それでも。
「前に東京タワーで逢った時「近いうちに会いましょう」って千尋さん言ったけど」
 風水龍とそれを呼ぶ人形を巡る事件、あの事件の時の冷たい榊の瞳を、そして最後に自分を抱き寄せた時のほほえみを交互に思い出す。
 一体どちらが本当の榊なのか、知りたがっている自分が居た。しかしそれ以上に榊を失いたくないと思っている自分が居た。
「千尋さんの……嘘つき」
 こんな形で会うつもりなんて無かった。
 泣くまい、と思っても涙が視界をゆがめてしまう。
 嘘つき、と繰り返しながら小さい子供が心の奥底で膝を抱えて泣いているのを知覚した。
 別れという言葉に、酷く傷つく弱くもろい子供が心の底で泣いている。
 手をガラスにつける。
 冷たい感触が指先から心臓を貫いた。
 碧海が嗚咽に息をのんだ瞬間、ほのかな――香水ではない、日本古来から伝わる香の――薫りがするハンカチが差し出された。
 顔を上げると金色の髪を乱れなくきちんとまとめ上げた、緑の瞳の女性がほほえんでいた。
 日の光の元では、新緑のように鮮やかな瞳も、夜の闇の中にあっては、永遠に枯れる事のない常緑樹と同じ深く――そして穏やかな色に見えた。
「このまま由良ちゃんの笑顔が消えてしまうのを黙ってみていられません。お節介は承知していますが、皆さんがお帰りになるまで榊さんと由良ちゃんを私もお守りします」
 安心させるように、碧海の細い髪をなでる。
 母が子をあやすように、姉が弟を慰めるように。長い歴史を見てきた者が、うたかたの命を精一杯に生きようとするすべてをいとしむように。
 ちらと、泣き疲れて友人であるシュラインの膝の上で眠る少女を見る。
(家族の幸せを願って逝った防人の意志、無駄にはしません)
 死んだ良介の気持ちは、痛いほど伝わってきた。
 理解出来る、と簡単に言い切ることは出来ない。
 ある局面に際して死を望む人間の考えは、一つの言葉に――愛だとか、世界を守る為とか。そう言った言葉で表すにはあまりにも複雑で、どの言葉を当てはめても陳腐なのだから。
 ただ、痛いほどに伝わってくる。
 一体どれほどの人間がこの日本という国のために、そこに住まう民の為に死んでいっただろう。
 千年近い時、この国と共にありかかるすべてを見てきた妖狐の彼女――草壁さくらだからこそ、痛いほどに良介の思いを「感じて」いた。
 そして同じように国を……この日本という国の風土を、風を、雨土のすべてを愛し、受け止め、守ろうとする男を愛するが故にまた、同じ国を守る男を愛した透子の――残された者の張り裂けんばかりの気持ちをないがしろにすることも出来なかった。
 電子音が連なる。
 脈拍を示すその音は、徐々に長くなっていっている。
 普通の人間なら気づかない程の感覚で、少しずつ、何の違和感もなく。
 ただ、シュライン・エマ一人だけが恐ろしいまでに緩慢で何気ない違和感に気づいていた。
 絶対音感をもち、あらゆる音の生み出す振動を聞き分ける彼女だけが、榊の呪いがとどまることなく冷酷に、ゆっくりと――そう、まるでしめった真綿で苦しめ殺し尽くそうとしているのに気づいていた。
 ぶるり、と身体をふるわせ、シュラインは膝の上で眠る由良を抱きしめた。
 すべらかな髪が、肩を滑り静かに落ちた。
「呪いが」
 ぽつり、とつぶやく。
 つぶやかなければ、呪いの恐ろしさで心臓が締め付けられ死んでしまいそうな気がしたからだ。
「止める事は出来ないのかしら。解く事はできないまでも、なんとか引き延ばす方法は」
「俺の力がどこまで通用するかわかりませんが、とにかく冷気を操って少しでも体温の上昇をくい止めてみます」
 くい止められないまでもせめて例えわずかでも時間稼ぎができれば。
 幸弘がつぶやき、見とがめる医師が居ないのを確認して、そっと集中治療室に入る。
 アイスバーン――冷却液の入ったビニールバックの上に横たえられた榊に手をかざす。
 細めた目の奥、心の中で一番冷静で冷たい部分がゆっくりと思考によって研ぎ澄まされていく。
 熱を――炎と氷を自在に操る彼が能力を、自分の中に眠る力を呼び覚まそうとする。
 そういう意味では、大上隆之介の人選は間違ってはいなかった。
 かざした手が、榊を包む赤いぼんやりとした光に触れる。
 とたんに赤外線ストーブにでも手をかざしてるのではないか、と己を疑った。
 側に居るだけなのに、熱気を感じる。
 おそらく、特異能力の力が強ければ強い程、この熱気を強く感じるのであろう。
 手のひらに伝わる熱をなだめるように、ゆっくりと冷気を放つ。
 冷たさと熱さが交互に手のひらをさいなみ、感覚をおかしくする。
 しかしここで集中を失えば、冷気が必要以上に勝ちすぎて榊を傷つけてしまう。
 壊すよりむしろ、一定の力を一定の時間射出しつづける事の方が難しい。
 冷気が強すぎれば、処置の為に、榊の苦痛を和らげる為に投入されている麻酔の点滴チューブまでも凍らせてしまう事になるだろう。
 熱気か、過度の集中からか額に汗がにじむ。
 冷気で榊を覆い、能力を固定しつなぎ止める。
 ただそれだけの事が、酷く困難で辛い。
 ほの青い光が薄い膜となって榊を包む。瞬間、赤の領域がわずかに消える。すべてを消すに至らないのはさすがに神の呪いということか。
 ふらつきそうになる幸弘を、そっと支えながらさくらは榊を見た。
 ――これは呪いなのだ。
 すべての能力を中和・消去する武神とて迂闊に手を出すことは出来ない。
 ましてや同じ系統に属する神の力同士を下手に干渉させあう事は赦されない。
 イザナミの掟をやぶりし者に注がれる呪い、すなわち神からの罰なのだ。
 それを同じ系統であるニギハヤヒの祭祀権を持つ物部氏の子孫たる武神一樹が勝手に中和することは赦されない。
 こと日本神話の――その系統に組み込まれた神々の呪いは「解ける」ものなのだ。
 神々の怒りを鎮め、荒魂を和魂へと転じれば。
 敬意を示し、奉れば、掟を破った事を反省している意を示せば解けるのだ。
 とはいえ、呪いに対抗しえる唯一の力は意志の力。持ちこたえられるかどうかはひとえに榊の意志にかかっているのだ。
「榊様は、由良ちゃんとの約束を破るおつもりですかっ」
 さほど大きくはない、しかし言霊の力に満ちた声で彼を叱りつける。
 誕生日だというのに、失わせるつもりなのか。と心の中で榊を糾弾し、発破をかける。
「千尋さん」
 碧海が榊をのぞき込む。
 しかしその顔には何の感情もない。
 苦痛も、安楽も、生きていたいという欲求も、死にたいという諦めも。
 ただこんこんと眠り続けているだけである。
 手のひらを取る。普段よりずっと熱い体温が手のひらから伝わってくる。
 だけどいつものように力強く碧海の手を握り返しては来ない。
 もう一度、名前をつぶやく。
 と、涙がこぼれ落ちる。
 どうして良いのか、わからない。
 何を望んでいるのかわからない。
 それでも、また会いましょうといったあの言葉を嘘にしてほしくは無かった。
「約束を破るつもりですか?」
 震える声でつぶやく。
 刹那。
 かすかに榊の手が動いた。
「…………で、……すか」
 喉の乾きからか、かすれて聞き難い声がした。
 通常であれば耳障りでしかない低くかすれた声も、今とあっては何よりも得難い声に聞こえた。
「なんで、泣いて居るんですか?」
 先ほどよりわずかにしっかりとした声が問いかける。
「千尋さん」
「榊様っ」
「嘘だろっ」
 碧海、さくら、幸弘がほとんど同時に驚嘆した。
 日本人にしてはやたらと茶色いまつげが震え、半分だけ瞳が開かれる。
「すみません……また、会いたいといったのは私なのに……なんでだろう」
 凝視していなければ、気づけないほどかすかでもろい微笑みを浮かべて榊は再び瞳を閉じ、唇をうごかした。
「今は、酷く眠くて……だから」
 強く、手のひらが一度だけ握りしめられる。
 ――また、後で。
 震えるような唇の動きがそう告げていた。
 榊の手がするりと碧海の手から抜け落ちた。しかし、碧海はもう泣いてはいなかった。
(そうだ。とりあえず今は何か自分にも出来ることがないか考えないと)
 死反玉がなんとかこちらの手に戻ってきたなら、それをどうにかして呪いを解く事も出来るだろうけど……取りもどす事ができるだろうか。
 そう考える。
 信じるしかない。死反玉を取りに向かった大上を、武神を、そして碧海の弟である碧を。
 それにしても、と幸弘は碧海から目をそらして息をのんだ。
 碧海は、榊の目覚めが良い兆候だと信じただろう。
 しかし実体は逆だ。
 完璧に麻酔が効いている筈なのだ。目覚めては行けない筈なのだ。榊は。
 大病院の理事長の息子として、幼い頃からイヤでも医学的な言葉を知る環境に合った為か、幸弘にはわかっていた。
 榊が目覚める筈はないのだと。
 それほどに強い麻酔がかけられているのだと。
 なのに目覚めたと言うことは、目覚めずには居られない苦痛が彼を襲っているということだ。
 実際に酷く眠いのは当然だ。しかしそれはおそらく碧海や自分たちを心配させまいという強がりにすぎない。
「いざとなったら、憑依を行って榊様にかかる呪いの負担を少しでも減らします」
 その髪と瞳の色さえなければ、否、日本人とは違う髪と瞳の色をもっていてもなお大和撫子と呼びたくなる優雅で流麗な所作をするさくらが、剣士のように凛と言った。
「でも、それではあなたが」
「危険は承知の上。でも、一樹様達なら必ずこの呪いを「解いて」くださると信じてますから」
 幸弘の狼狽に、さくらの華がこぼれ落ちるような柔らかい微笑みで答える。
「……はぁ」
 頬をかきながら心中でつぶやく。それより、だ。
「誰か榊さんのご家族に連絡は取りましたか? いえ、渦中の奥さんじゃなくて親御さんとかご兄弟とか」
「え?」
「ご連絡とれる方がいましたらお願いします」
 ……今度は、さくらが狼狽する番だった。
 何故なら。
(榊様の弟さん……たしか一樹様がおっしゃっていた……)

 
■静穏なる戦い■

 どれほどの時がたったのだろう。
 すでに昼にさしかかろうというのに、集中治療室の前は静かだった。
 それがいつもの事なのか、今日この日だけの事なのかシュラインにはわからなかった。
 うつむいたまま深い青を宿す瞳を細める。
 ……透子さんは夫を好きなのか。あるいは夫を好きな自分が大事なのか。
 榊を憎む事は状況的に自然だと思える。
 共感出来るか否かは別として。だが。
 ただ、かすかな憤りはある。
(良介氏の最後の願い……妻と娘を案じてた彼の思いに何も感じないの?)
 彼女は良介という人間を受け入れてると言えるのだろうか?
(良介氏が哀れだというなら、妻に娘を傷つけられた事こそ哀れよ)
 両手を膝の上で硬く握りしめる。間接が怒りによって白く浮き上がってくるがそれでも力を緩めようとはしない。
 ――あの、鈴。
 なるはずの無い黄金の鈴、由良ちゃんをそっと守護してきた鈴は良介氏の願いそのものだ。
 透子からすれば、自分たちを置いて勝手に「この国を守る」という大義名分の為に死をえらんだ良介にいらだち、死すべき状況へ追い込んだ榊を憎むしかないのはわかる。
 だけど。
 つい、と瞳をあげ隣で膝を抱えている少女を見る。
「行かなくてよろしかったんですか?」
 店を休みにするため、一旦、櫻月堂へもどっていたさくらが、小さな風呂敷包みを抱えたまま、心配そうにシュラインを見た。
「色々言いたい事はあるけれど、一樹さん達が向かった様だし……まかせたわ」
 苦笑してさくらを見る。と、彼女の緑色の瞳が同じようにほろ苦い、けれど優しく柔らかな光を宿す。
 どうにも由良ちゃんと榊が心配なのだ。
 何も出来ない。
 ただ由良と手をつないで治療室をにらんでるだけの自分が歯がゆい。
 それでも、戦場に赴くよりは、と思う。
 いくつかの戦いを知っている。富士演習場や東京都庁、そして異端を狩るもの達との戦いを。
 しかしあの時と今では決定的な違いが一つあった。
 すでに被害者が出ている、という点だ。
 かなうものならば戦い、そして一刻でもはやく解決にこぎつけたい。
 だが榊がここにこうして命を失いつつあるのであれば、待つのも一つの戦いだろう。
 静穏で、静穏だからこそもっとも精神力を消耗する、力無き戦い。
 唇をかみしめ、顔をあげたシュラインの隣にさくらがすとん、と腰をおとした。
 落ち着いた色の和服を身にまとっている事から、彼女もこの静穏な戦いの参戦者だと理解できた。
 膝をかかえたままじっと榊を見ている由良の方をむき、さくらは風呂敷包みをほどいた。
 中には昔ながらの竹かごであんだ弁当箱が入っている。
 蓋をあけると綺麗な三角形、あるいは俵型ににぎられたおむすびとお月様をとかしてつくったような卵焼きが入っている。
「あまり時間がありませんでしたので、これぐらいしかできませんでしたが」
 一つとりだし、由良にさしだす。
 と、少女は手負いの獣のようにおどおどとした動きで、そっとそのおむすびを受け取った。
「あたたかい……」
 ぐう、とおなかをならす少女に、今度はすこし濃くいれた日本茶をポットからそそいで渡す。
 由良がかじると、中から大きめの梅干しが……夏の終わりにさくらがみずから庭の梅をもぎ、つけこんだものが現れた。
 とたんに由良が顔をしかめた。
「大丈夫ですよ」
 和歌でもよむような流麗で懐かしい声でさくらが言う。
「お母さんは本当のお父さんを生き返らせてやるという悪い人たちに騙されてるだけですから。帰ってくればまた優しいお母さんに戻っていますよ」
「……」
「由良ちゃん、それでもお母さんが好きかな?」
 シュラインが由良の肩を抱きながら言う。
 と、少女は顔をしかめたままうなずいた。
 目の端に涙を浮かべたまま何度もうなずく。
「……っぱいの」
「え?」
「お母さんが作った梅干しより、酸っぱいの」
 自分が泣いている理由を上手く説明できないからか、それとも、もう涙は見せたくないと幼いながらに決意しているのか、由良はごまかすように嗚咽をあげながらおむすびを食べていた。
 そうか、と今まで迷走していた考えがすとんと腑に落ちた。
(透子さん、きっと由良ちゃんが榊さんを慕っている姿をみて、この子の中にみえる良介氏の面影を認めたく無かったのかも知れない)
 自分たちを残して、榊を信じて死んでいった彼。
 彼を信じて由良と自分を守り続ける榊。
 単に上司と部下としてではなく、それを越えてつながり合う絆――戦友としての信頼感。
 それが妬ましかったのかもしれない。
 自分は一日一日と、夫であり愛する男の面影が消えていくというのに、榊は一日、一日と由良を守る事で良介とのつながりを深めている――そう、透子には見えたのだろう。
 それは透子の戦いだったのだ。
 夫を奪い、そして夫との絆を見せつけるように娘から父親の姿を奪っていく榊への。
 むなしくて勝ち目のない戦い。
(この子と笑っていれば、彼を忘れる事なんてあり得ないでしょうに)
 複雑すぎる透子の心中を慮って、シュラインは由良の肩を抱いたまま目を閉じた。
 
 取り返さなければ。
 死反玉を。
(それも二日以内になんとかしないと。出来れば千尋さんの側を離れたくはないけれど、見ているだけじゃダメだから)
 玉を取り返しに行こう。
 ――デモドウヤッテ?
 すでに中島や武神のグループとは数時間以上差が開いている。
 今更行っても間に合わない。泣いている間に時間を無駄にしてしまった事が悔やまれる。
 と、視線を上げると病院の廊下の端、のっぽの観葉植物に隠れるようにして、浅田幸弘が親指を唇にあてて、いらついた目を時計に向けていた。
 彼が着た時、すでに大上隆之介は武神達を出ていって居たのだ。
 追いかけていっても間に合わない。それを知っているからこそのいらだちだと碧海にはわかった。
「あの……」
 声をかける。先ほど泣いているところを見られた気恥ずかしさが、生来の人見知りに拍車をかける。
 声をかけられただけお手柄だと、彼を知る人間は驚いただろう。
 しかし、恥ずかしいのは幸弘も同じだった。
 普段ならだれにも見せない苛ついた態度を、幼い仕草を見られているとは思わなかったからだ。
「ちっ、隆之介のヤツ。あいつの事だから感情のままに突っ走ってるだけだろうな」
 恥ずかしさをごまかすためか、つい、と視線をそらしてぶっきらぼうに言う。
 だが、言った後でそれがいかにもありえそうな事態だと気づいて、深々とため息をついた。
「火之迦具土の首を落としたのは十拳剣。それから生まれたのが闇御津羽。だったかな」
 博識な幸弘の言葉に、碧海はこくりとうなずく。神社が生家であるためか碧海もその手の知識は豊富な方だったが、どうみても唯の大学生という姿の幸弘がここまで詳しいのは驚きだった。
「闇き谷より湧き出る水……そこより陵の女神にお返しするのが筋ではあるな。相手は火神教……水剋火の言葉通り、火を剋すのは水な筈だが」
「呪いの解き方は透子さんに、聞いてると思います……でもダメという事もあります」
 自分の娘を犠牲にしてまで、事を起こした彼女だ。
 ちょっとやそっとの揺さぶりや説得では、応じない可能性もある。
「巫嫗(ふう)に聞いてみます」
 事件とは別の、重苦しい感情が胸を押さえつける。
 厳格で厳しい祖母の面影が心中をよぎる。
 嫌だ、と思う自分が嫌だった。
 それでも、とまどっている時間すらもったいないと思った。
 もう一度、目覚めて欲しいといった。
 また後でと、榊は言ったのだ。
 そして碧海は聞きたかった。
 かつて自分の能力で人を傷つけた。
 記憶の向こうではじけた柘榴、血のにおいのするなま暖かい果実。
 同じモノを知っているのだと、今日初めて知った。
 制御しえない力をもっていて……榊はどうしてあそこまで朗らかに笑えるのだろう。
 備え付けられた公衆電話にありったけの小銭をいれる。携帯電話を持つようになってテレホンカードとはすっかり疎遠になっていたからだ。
 と、電話機の上に重ねられた小銭が、ふた山増えた。
 驚いて目を上げると、幸弘がさらに5枚十円玉を重ねてみせた。
「あの……」
「気にしなくていいよ。あいにくと俺は小銭の持ち合わせが無くてね」
「じゃあ、どうして?」
 と、尋ねると彼はくすん、と鼻の奥で笑い悪戯めいた瞳で病棟を行き来する看護婦に流し目を送って見せた。そして彼の親友である隆之介を真似た、軽い口調で言い切った。
「白衣の天使に恵んでもらったのさ」
 つい、吹き出した。
 少しだけ心が軽くなった気がした。
「とにかく携帯で連絡を取って、死反玉を清める方法だけでも伝えないと、な」
 軽口めかせた言葉に、優しさが隠れていた。
「浅田さんは大上さんの事好きなんですね」
「ぶっ」
「いえ……変な意味ではなく」
 赤面しながら碧海が訂正すると、幸弘は当たり前だろう、とそっぽを向いた。
 彼女をナンパされるという何とも最悪な出会いをしたが、今では大上が居ない事が考えられない程、大切な共になっていた。
 幸弘は当たり前だろう、ともう一度つぶやいて、時計をにらんで見せた。
 好きなのが当たり前なのか、変な意味ではないという言葉に対しての肯定なのか。
 自分でも判別がつけがたかった。


■火之迦具土■

 銀色の光のリボンをたどる。赤い糸をたどって迷宮をくぐり抜けたギリシア神話の英雄のように。
 光を手放せば二度と戻れない、深い樹海という迷宮から。
 果てに赤い炎が見えた。
 一つ、二つ。――それから三つ。
 進むたびに炎の――社を照らす篝火の数が増えていく。
 まだ真新しい……おそらく周囲の木を切り倒してつくったのであろう、白木の社が視界に現れた。
 もう一歩踏みだそうとして、武神は歩みを止めた。
 女が立っていた。
 触れれば消えそうな、幻のようなぼんやりとした笑顔で。
 だが、その瞳に写る影はどことなく冷たく――まるで泣いているように見えた。
「透子、さん」
 隆之介が喉から絞り出すように言う。
 あの黄泉津比良坂で有った時から変わらない、いや、違う。
 かすかにやつれ、山の寒さで白く冷たく浮き上がる肌。冷たく篝火の炎に揺らぐ瞳。
 それらが互いに共鳴しあい、ひきたてあい、透子を山神のごとく冷酷で人間離れした存在に仕立て上げていた。
「……俺はあんたが羨ましいよ。俺は……俺にはそこまで必死に守りたい記憶がない」
 狼がうなるように、低く、危険な因子を含んだ声で大上は言葉を口にしていた。
「違うな、あった筈なのに忘れちまったんだ。あんたが榊さんを恨むのは有る意味正しいよ。けどな! 由良ちゃんは違うだろ?!」
 怒りが、声となって放たれた。
 それはまるで樹海を者ともせずに駆けめぐる、否、樹海を守護し支配する狼たちの王者のごとき声だった。
 そうだ。透子のこのやり方は違う。
 透子と良介をつなぐ……良介という人間が確かにいた証として由良が存在するのではないか。
「由良ちゃんが居る限り、あんたは良介さんを忘れない……そうじゃないのか?」
 隆之介の言葉に、透子は応えない。
 ただ、磨かれた瑪瑙のように暗く冷たい瞳で見返すだけだ。
「俺はもう……目の前で理不尽に傷つけられたり、道具として利用される存在をみたくない」
 榊がやっていることと、透子がやっていること、どちらもあまり変わらない。
 人形のように無反応なまま、透子はじっと見返している。何の声も届かないのだろうか、といらだちが胸の奥を締め付け、押さえきれない激情が針となって目の奥を、頭の奥をちりちりと突き刺した。
「アンタ……火之迦具土を復活させ、すべてをなくすことで満足なのか? 娘を道具に使ってでも自分が満足していないのはわかっているんだろ」
 死者は戻らない。
 どんな術をつかったところで、戻ったように見えるだけで本当は戻っては居ない。
 ただ、肉の器がうごいてるだけだ。
 東西のあらゆる術を知る焔だからこそ、知っている。
 復活のあらゆる術をもちいても、いつかは終わりが来ることを。
 生きる以上は死ぬことから逃れられないことを。だ。
 当然、巫女であった透子が知らないはずはない。
「死後の世界は生者にのみにあると、知っているのではないか?」
 焔や隆之介より幾分落ち着いた声で、武神一樹が尋ねた。
 否、尋ねたというより諭すという方が正しいだろう。
 遠い異国の地で、神と信じられていた「存在」はある日別の……異端者を排除する狭義な宗教により、悪魔と言われた。
 その時から神は力を失った。
 何故なら、神は「信じられてこそ」の神であり、「信じるものがいるから」こそ力をふるえるのだから。
 そして、死者の世界も然り。
 生きている者が信じなければ、消えるうたかたの幻なのだ。
「貴女が死すれば、「嘉数良介」もよりどころを失い、また無へと帰す。それに嘉数を死なせた事で自分を憎んでいる榊を殺すのは……罰ではなく、救いになるとおもわんか?」
 突如、それまで人形のようだった透子が壊れたおもちゃのように高笑いし始めた。
「榊が、自分を憎んでいる? そんな事、あり得ないわ。彼は「そういう」人ではないもの」
 白い巫女装束の袖が揺れる。
 古めいた管玉や勾玉が連なった手飾がしゃらしゃらと鳴る。
「あれは定められた法を守り、その違法者をとらえる猟犬。目的の為に「し得ねばならぬ事」をなすのに、何のためらいも後悔も見せない。己の力により法が守られるので有れば、その必要とすべき「時」がくれば、千人万人を殺しても、蟻ほどの動揺も後悔もみせない。そういう男」
 否定できなかった。
 確かにそう言う一面はあった。例えばあの東京タワーでの事件。
 何のためらいもなく、少女を……人形として仮の命を与えられていた存在を撃ち殺した。
「まあ、否定はできないな」
 全員の言葉を代弁して、焔がこともなげに吐き捨てた。
 と、一樹と隆之介が非難めいた瞳を向ける。だが、焔は口の端を持ち上げ、顔に彫り込まれた龍とともに透子をあざけりながら唇を再び開いた。
「それにしても、ただ殺した男が、ただ相手の家族の面倒を見てたと思ってるのか? そのあたりの事情をちゃんときいたのか?」
 焔の言葉に、透子がぴくり、と頬を引きつらせた。
「……俺さ、ヤツの事アンタと同じぐらい大っ嫌れーだけど。ま、知らないみたいだから教えとくよ」
 それまで大人の言い合いに口を挟めず、積極的に関わる気にもなれず立っているだけだった碧が肩をすくめた。
「榊のアホ、ああみえても孤児らしいぜ?」
 人一人生きていくのは、どれだけ大変だろう。
 ましてや透子と由良、何も持たない二人が生きていくには東京はどれだけ優しいだろう?
 二人がその厳しさをしらずに済んだのは、良介の……ひいてはその意志をついだ榊のおかげに他ならない。
「アンタは恨んでただけで何もしなかっただけではないのか? 人を犠牲にする時、される時の心、理由をしっかりと考えるんだな。アンタも娘を犠牲にしたんだぜ……犠牲も裏切りも、されてもしても辛いものなんだぜ」
 焔にしては珍しい、どこか憐憫を含んだ、それでいて優しい声で言った。
 とたんに、言葉に押され出もしたように透子がよろめいた。
「何もしらないのに、勝手なことを!」
 透子が叫んだ。
 人形の呪縛が壊れた瞬間だった。
「どうしてなのよ、何故なのよ! 私の処へ戻ってくると言ったのに、どうして榊なんかを信じて死んだのよ。どうして私じゃなくて、榊による死を選んだのよ! どうして榊は馬鹿みたいに良介との約束を守りつづけてるのよ。私は……私は」
 一日一日と、良介を忘れて行く。
 声を、その髪の手触りを、笑いかける時の仕草を。
 ふと気づいたら思い出せない。
 由良の側にいる良介を思い出せない。由良の側にいる榊は簡単に思い出せるのに。
 憎かった、妬ましかった。
 妻である自分よりも、榊の方が良介に近いと認識する度に。
「どうして榊の為なんかに死んだのよ……」
 つい、と涙がこぼれた。

 蔓草に足をとられ、地面に倒れ込む。
 両手がふさがっている為か、受け身を取ることも出来ない。
 普段は身綺麗にしているというのに、今の碧海ときたら、森の奥にすまう土の妖精のように、枯れ葉と土にまみれていた。
 地面に転がったまま、剣を抱きしめる。
 と、目の前に手が差し出される。
 剣を取りに浅間神社へと共に向かってくれた幸弘だった。
 一人ではとてもここまでは来られなかった。
 自分だけではどうしていいかわからなかった。
 幸弘の暖かい手を取りながらたちあがり、顔についた土をはたき落とす。
 胸に抱えた長剣が……十拳剣が重い。
 長くて、すぐに蔓や藪にひっかかり、急く碧海をからかうように先へ進むことを拒絶する。
 それでも、進まない訳にはいかないのだ。
 ――火之迦具土とは、剣の姿を取っているという。
(その剣を身にまといし者を火之迦具土と総称するのじゃ)
 と巫嫗(ふう)は……祖母は言っていた。
 炎を纏いし剣を十拳剣で打ち折れば、火之迦具土は血を……溶岩にもにた炎の血を流すという。
 それこそが闇御津羽であり、大地の狭間を通り、黄泉へと流れる水なのだという。
 十拳剣とは固有名詞ではない。十拳……人間の拳を十個ほど並べた長さを持つ剣である。
 しかし、ただ長ければ良いという訳ではない。
 長い間神剣として奉られていなければならないのだ。
(それならばうちの神社の御神刀でもいけるだろう)
 と、弟の碧は面倒そうに言うかも知れない。
 しかし、京都へまで取りに行くいとまはない。
 ならばと、ゴーストネットへ朝一番に駆け込み、浅田幸弘と必死になって富士山近くの神社を検索して御神刀を奉っている場所を探したのだ。
 そして見つけたのだ……富士山をあがめ、鎮める神社。
 源頼朝、北条義時、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康などが寄進をおこない、桜の宮と呼ばれる。
 浅間神社。
 ただし総本宮ではない。
 富士山の周囲にある百四十七社。
 その一つ。たった一つだけが十拳剣を奉っていたのだ。
 もちろん、御神刀を簡単に貸してくれる訳がない。しかも高校生と大学生にしか見えない碧海と幸弘である。
 しかし、必死のお願いによって、渋面をつくっていた宮司は話を聞き入れ、最後には微笑みすら見せて貸してくれたのだ。
 とはいえ、樹海はすでに夜であり、どこを歩いているのかわからない。
 ただ、確かなのは、ヘンゼルとグレーテルの童話にあるように、点々と残された白い光の痕跡。
(一体誰が。黒月さんか)
 幸弘がいぶかしみながら光をたどる。
 鷹科碧と武神一樹は神道系の術者だ。黒月はあらゆる術を知るとはいえ、彼の術はどちらかといえば鋭く、炎のように燃えさかる勢いに満ちた者が多い。もちろん親友である隆之介にこんな芸当が出来る筈がない。
 と、光がひときわ明るい場所に、一人の男が立っていた。
 さらりと揺れる黒髪。
 魔法の光にてらされて輝く瞳は新緑石の鮮やかさ。
 それはどこかで見た顔で……。
「千尋、さん?」
 つかれから、ぼんやりとした頭をふりながら尋ねる。
 その人物はとても榊に良く似ていた。
「後少しだ。俺はここから離れられないが。がんばりな」
 そういうと、ぽん、と碧海の頭に手を乗せた。まるで初めで榊千尋と出会った時のように何気なく、そして優しく。
「説明はナシだ。早くいきな、時間がねぇ」
 言葉に押されるように碧海が走り出す。
 その後に幸弘が続く。と、すれ違う瞬間、男は幸弘を見て、大仰な動きで肩をすくめた。
「ご家族の方への連絡、ちゃんと俺は受け取ったからな」
 と。

「だからこそ、なのではないか」
 責めるではない。まして憐憫でもない。
 ただただ諭すように一樹はぽつり、とつぶやいた。
 透子の涙が樹海の地に落ちてにじむ。
「巫女として嘉数良介を祭り守り、彼の為に生きよ」
 神託を告げる預言者のように、その言葉は周囲をふるわせ透子を包み込む。
「祭る……私が、良介を?」
「信じられなければ神は消える。しかし、信じられれば人は神にもなろう」
 事実嘉数良介は神だったに違いない。透子にとって唯一人の絶対の存在意義。
「死反玉、返してくれないか? 榊さんを助けたいのもあるけど……俺はあんたも助けたい。そして由良ちゃんも」
 そして何より自分はこれ以上森を失いたくはない。
 何故か、という理由は隆之介にはわからなった。だが、心のそこからそう思い、言葉にしていた。
 透子が、胸元を押さえた。
 そこにはひときわ暗い闇色の曲玉が下がっていた。
「大人しくそれを渡しな。俺がしかるべき処に戻してやろう」
 焔が手を伸ばす。
 きつく透子の唇がかみしめられる。
「俺さ、想うけどその良介さんって人? 別に榊のアホの為に死んだんじゃないと想うぜ? 火神教をほっとけば、あんたや由良ちゃんも死んだ筈だ、それだけじゃない。もっと多くの人も」
「返した処で……榊さんは……戻らないわ」
 ぽつり、とつぶやく。
「わかっていたのよ。あの人が何を望んでいたのか」
 自分が愛した人と、娘が笑って生きていける世界。それだけを唯ひたすらに望んでいたのだと。
 そこに自分がいなくても、笑っていられるように榊にすべてを託したのだと。
 なのにどうして自分には、何も言わずにいってしまったのだと。それが悔しかっただけなのだ。と。
「透子さん、今度は貴女が良人を殺すのか?」
 武神の視線が透子を捕らえる。
 笑っていた。
 彼女は泣きながら笑っていた。
「返しても、十拳剣が無ければ火之迦具土はうち破れないの」
 どうしたらいいのか、とまどいを隠せずに、それでも笑っていた。
 もう手遅れなのだという諦めと、自分の負けを認めた笑いだった。
 だが、彼女の笑顔はすがすがしかった。
 確かに、榊に対する復讐とねたみへの戦いには負けたのだろう。
 しかし、自分の中にいる本当の自分との戦いに、彼女は勝ったのだ。
「十拳剣――って、今更いわれても」
 そんな剣は無い。取りに戻ってる暇はない。
「十拳剣にて火之迦具土を、燃えさかる剣に化身した神をうち破れば、溶岩のごとき炎の血がながれ、やがて水に変じて黄泉へといたる。その流れに死反玉をのせてすべらかに母神の身元へ返せ」
 信じられない声をきいた。
 碧ははじかれたように後ろを向く。と、そこには月の光のごとき銀色の目を輝かせ、長い包みを胸に抱いた兄の――碧海の姿があった。
「まったく、相変わらず感情のままに猪突猛進なんだな。ま、この場合は」
 それで、正しい。と告げながら碧海の後ろから浅田幸弘が姿を現す。
「幸弘!」
「碧海」
 二人が叫んだ瞬間、透子の後ろ、五十メートルばかり離れた処に立っていた白木の神殿から、あまたの悲鳴が上がった。
「アンタ、火之迦具土は」
 焔が胸元から幾何学的な模様が描かれた紙を取り出し、社へ走りながら聞く。
 と、透子が叫んだ。
 社の中です。と。

「さあ、お次は誰?」
 喉をならしながら、イブが髪を掻き上げる。
 足下には炎の術で焼かれて灰となったコートが落ちている。
 裸身に近い、妖艶この上ない下着姿で、樹海にあるにしてはあまりにも非常識な構図ではあったが、無数の篝火にてらされ、赤い光の揺らめきに白い肌を彩らせたイブの様子は、なぜか不思議とこの状況に似合っていた。
 足下に転がる、ひからびた死体を、ブーツのつま先で蹴りどかす。
 周囲を取り囲む白装束の信徒達は、イブの壮絶なまでの美しさに思考を奪われていた。
 それでも意志力がつよい何人かが手をのばし、彼女に襲いかかろうとする。
 瞬間、夜風になぶられるイブの髪の一筋に指が触れるより早く、銃声が鳴り響き、信徒達の額の真央に穴が空き、次々へと倒れる。
「邪魔しないでちょうだい、暁文」
 食事を邪魔されたのが癇に障ったのか、イブが普段より一オクターブ高い声で叫んだ。
「邪魔してるのは、テメェだろう。俺は俺のやり方でやらせて貰う。食事ができねぇのはテメェがトロいからだ!」
 からかうように返ししな、両手の拳銃をたくみに操り、信徒達を流し目で一別する。
 そして、暁文の視界に捕らえられた順番通りに、銃声が鳴り響き、倒れていく。
「ち、トロいとは随分なお言葉ね。では、好きにやらせていただくわ!」
 手を天にさしのべる。
 とたんに熱されたバターよりも簡単に「黒木イブ」という形が崩れ、ゲル状のどろりとしたモノが地面へと吸い込まれた。
 音のない影のようにしみが地面を動く。
 突然の事態に、呆然としている信徒の中で、ひときわ若くい男の背後でしみがとまった。
 と、先ほどの奇妙な光景を逆回しするようにゲルがイブへと戻る。
 腕を喉と胸にからみつかせ、右足を男の右足に絡める。
 赤い舌で、ちろりと首筋をなめたかと想うと、人型が崩れ、薄い液体の膜となり男の表皮を覆い尽くす。
 驚愕に開かれた口から、水音を盾ながら液体――イブの本性が体内へと入り込み、そしてあらゆる臓器に満ちる精気を吸い尽くす。
 痛み、というよりむしろ悦楽に満ちた表情をうかべ、男の皮膚が劣化し、髪が白くなっていく。
「フフフ、最後にこの世至上の快楽を味わったんだから、幸せな死に方かもしれないわねぇ」
 ぺろり、と再び唇をなめ、次なる獲物を探し液化する。
(敵じゃなくて良かったぜ)
 あれからは、逃れる術はない。
 放たれる炎の術を交わす。
 火球が髪をかすかにかすめて焦がす。
 ひさしぶりだ。ここまで暴れるのは。
 こうでなくては、生きている感じがしない。
 生と死、裏切りとかりそめの協定。ギリギリでしか生きられない流氓の本性がこれ以上ないまでに暁文をかき立てる。
「おらおらおら、人をここまで巻き込んでくれたんだ。覚悟は出来てるよな? 出来てねぇなんて半端な事は言わせねぇぞ」
 社から出てきた――おそらく教団幹部である男に銃口を定めてみせる。
「別開玩笑?(冗談はここまでだぜ?)」

「どけよ! 俺は今ストレスたまってるんだ! 瀕死の榊の変わりに十倍増しで殴るからな!!」
 言われた方に取っては災難以外の何者でもない主張を叫びながら、碧海は手から念動を放ち、碧と、そして後ろに居る碧海にのびてくる信徒の手を身体毎吹き飛ばしてやる。
「水剋火、とは言いますが。俺の場合は正しくありませんね」
 篝火がのび、しなる炎の鞭となって幸弘を襲う。
 しかし、炎は幸弘の顔数十センチ前で急速に弱まり、何故か氷となり、砕けて地に落ちる。
「熱気と冷気を操る俺にとって「相剋」はあり得ない」
 術で敵わないと見てとった男の手刀を避ける。と、側にいた隆之介が男の手首を取り、ひねりをくわえて投げ飛ばす。
 普段にはあり得ない力が身体の中を駆けめぐっているのを隆之介は感じていた。
 森を焼かれるのは我慢ならない、再び教団とか信者とかいう訳の分からないヤツに森を、自分の居場所を破壊される訳にはいかない。
(なんで、俺はここまで森にこだわっているんだ!!)
 心臓の音が、狼の遠吠えのように聞こえた。
 自分のしらない自分の「血」に焦る。それでも攻撃の手を休めない。
「やりすぎだ」
 苛立たしげに吐き捨て、一樹は自分に対して炎の壁を築き、封じ込めようとした男に手をさしのべ、裂帛の声を放つ。
 と、ガラスが砕け散るような音がして周囲の術者もろとも「技」が中和される。
「中島と……もう一人いるな。陽動のつもりだろうが、殺しすぎだ」
 あれでは火神教と変わらない。
「ふむ、あいつはやりだすと徹底するからな。傍らの女も同じ手合いだ」
 乱戦になりつつある中で、取り出した呪符を空に放つ。
「吾以日洗身・以月錬真・仙人輔我・日月佐形・二十八宿・與吾合并・千邪萬穢・逐水而清・急急如律令!」
 と、ミミズともウジ虫ともつかないぷるぷるとしたバケモノが現れる。
 朱色の丹砂で呪が書かれた紙を用いて使役する、中国の呪虫「三巳虫」。
 死をささやき、死を誘う虫である。
 かつての事件で見て以来、おもしろ半分に焔はこの術を取得したのだ。
「新たな術を試すほど大暴れ出来る機会はなかなかないからな、俺の実験台になってもらおうか? 母娘の弱みにつけ込んで使役する薄汚れたお前らには、お似合いのウジ虫だろう?」
 地獄の閻魔より壮絶で人を嘲った笑いを浮かべる。
 虫は信徒を喰らいながら、のたうつようにして祭壇へと向かっていく。
 突如炎が、鮮烈な太陽のような光が輝き、三巳虫を一閃した。
「火之迦具土!」
 碧海が叫び、十拳剣を抱いたまま、焔の前に、殺された三巳虫の呪力――呪い返しのおぞけたつ眩い波動の間にたつ。
「澳津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、道反玉、死反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼、布瑠部由良由良止布瑠部」
 すばやく唱えると、柏手をうつ。
 とたん、透明で精錬に練れた「気」が呪力をつつみ浄化した。
「あお!」
 叫んで碧が崩れ落ちかけた碧海を済んでで抱き支える。
「これ、で、千尋さん、を」
 剣を焔に押しつける。もはや持っていることも出来ない位消耗していたのだ。人一人を易々と殺す呪いを返し、浄化するなど、いくら神道をたしなんでいても、無茶がすぎいていた。
 無言のまま受け取り、剣と化けした火之迦具土――否、剣に乗り移られ、火之迦具土と変容しようとする「宮」へと焔は駆け寄る。
 雨のように降り注ぐ火は、幸弘の氷と、武神の中和で身体に触れるより早く消え去り、道を邪魔する雑魚は暁文の銃と隆之介によって排除されていく。
 そして地に倒れた信徒どもを、歓喜の笑みをうかべながらイブがこの上なくみだらに食べ尽くしていく。
 段を踏みやぶらんばかりの勢いで駆け上がる。
 鞘から引き抜くのももどかしく、体の中の血を、彫り込まれた龍と一体化して火之迦具土に襲いかかる。
 それは一枚の絵に見えた。
 炎を纏う神と、天空を支配する炎吐く龍神の一騎打ちに。
 落雷のような轟音。
 そして、金属が砕ける音。
 はぜるような音がして、火之迦具土と変容しかけ、しかし果たせなかった男は白い光のような炎に包まれ、黒い炭と化す。
 折れた剣が、赤く赤く、溶岩のように熱をもったまま床に転がり、白木を焦がしている。
「これを!」
 透子が武神に死反玉を投げた。
 死反玉は最初からそうなるのが決まっているように、武神の手に落ち、白木の床に広がる、かつては鉄であった溶岩の固まりへと玉を落とす。
 と、透子が戦いのさなかにあって、祈るような声で歌い出した。

 時間が音もなく過ぎていく。
 二度目の朝が来ようとしていた。
 日暮れまでにすべてが終わらなければ、榊は死ぬ。
 たった一日だというのに、何年もここに居たように、シュラインは感じていた。
 時計は針の進みかたが、早いような遅いような気がしていた。
「遅い、ですわね」
 待つのにはなれているさくらも、終末が訪れようとしているのを感じていた。
 待つのはなれている、何年も、何百年も待っていた。見守って、出会い、そして別れていた。
 だけど、帰ってきた。
 いつでも愛するべき人は、愛するべき土地が訪れ、さり、また訪れた。
(だから、一樹さまはきっと帰ってくる)
 ふるえそうになる手を握りしめながら、さくらはうつむいた。
 と、由良の手首に下がっている鈴が鳴りだした。
 玉がなく、決して鳴るはずのない玉が。
「鈴が、なっております」
「まさか、鳴るはずがないのに、また鳴るだなんて」
 シュラインが驚愕のままに口に手をあてる。と、由良が驚いたシュラインの顔を見て笑った。
「お父さんが歌ってる」
「え?」
 あわてて榊を見る。と、由良が一度だけ瞬きして、シュラインの袖を引いた。
 再び金色の鈴がなる。
 ――高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて。
 鈴の音に合わせるように、由良が口ずさむ。
 それは子供が口ずさむにしては、あまりにも難解であったが、間違える事無く由良は歌をたどっていく。
 鈴の音を追うように、合わせるように。
 子供が父親の後を追いかけ、追い越し、戯れるように。
「我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき」
 さくらが、ゆっくりと目を閉じて先を続ける。
 神道の知識など、まったくないのに、シュラインの脳裏にも歌詞が、歌詞が描く光景がくっきりとうつりだす。
 鈴の音に誘われるように、鈴の音が教えるように。
 口ずさむ。たどる。その歌の高低を。
 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て。
 と、唇が動いていく。
「かくよさしまつりしよものくになかと おほやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて したついはねにみやばしらふとしきたて」
 声が戯れる。
 幼い由良の声と、さくらのふうわりとした声、そしてシュラインの見事なまでに高低を捕らえ、あまたに変わる美しき声――そして、もう一つ、若い男の声が、導くように鈴の音と共にあたりに響いた。

「此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す」
 ――かくさすらひうしなひてば つみといふつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを あまつかみ くにつかみ やほよろづのかみたちともに きこしめせとまをす。
 罪という罪はあらじと、祓い給い清め給う事を、天つ神、国つ神、八百万の存在するすべての神がみと共に、ききかなえたまえと願う。
 透子の声が、碧と碧海の声が、武神の声が、そして全く何もしらない隆之介や幸弘までもが歌っていた。
 炎は静かに岩となり、岩は砕け水となり、床から、地へおち、水となり、そのさらに深い根の国へと吸い込まれていく。
 死反玉を抱いたまま、荒ぶれる黄泉の女神をいさめに降りていく。
 声が響き終わった瞬間、戦いは終わっていた。
 あまりのあっけない結末に、暁文はすべてがどうでも良くなっていた。
 ポケットから取り出した、御統の偽装警察手帳を篝火の中へ投げ捨てる。
 皮が燃える異臭が、何故か心地よい。
 イブもまた、信徒の精気を喰らいすぎて飽きていた。
 活きがいいのはともかく、同じような精気ばかりでは飽きがくると言う者だ。
 すっかり戦闘する気を失った二人を見て、一樹はうなずく。
 自分の力のすべてを手のひらに集中する。
 そしてすべての汚れを払うように、禊ぎの言葉の最後の響きにあわせて、柏手を打った。
 とたんに、それまで狂信的な熱を瞳にうかべていた信徒たちから、何かが消え失せた。
「……え?」
「教義に関する知識と記憶を封印した。もはや宗教そのものが消滅したと行っていいだろう。ただ、問題は」
 ここに居る信徒達が、自分たちは何故ここに居るのだろう、と途方にくれ、今後の生活に支障をきたすだろう、という事だが、人に迷惑をかけたのだ。それぐらいのリスクは負って貰わねばならない。
「武神様」
 つ、と透子が頭を垂れた。
「歌を聞きました」
 そう、聞こえた。
 幼い由良の声、そして武神が愛するさくらの声、シュラインのすべてをしのぐ美しい声。
 そして、透子が、請い願った、立った一人の最後の歌を。
 遠く離れたこの場所で聞いていた。
「神葬を行おうと想う」
 草間達を氏子とし、自ら神主を請け負って、改めて嘉数良介の死を悼もう。
 もちろん巫女は、透子だった

 
■エピローグ■

 神葬で、堂々とした武神の祝詞をききながら、シュラインは巫女として側に控える透子をみた。
 本来ならば逮捕されるべき彼女であったが。
 巻き込まれたこと、事情が事情であったこと、そして被害者である榊が彼女を訴える――由良から取り上げる真似をするのを心底嫌がった事から、厳重注意ですべてが終わらせられていた。
(由良ちゃんへの凶行は、幸せの放棄の為だったのね)
 幸せをすべて放棄して、死んでしまいたいという思い。
 榊に対する妬みと、忘れていく自分への焦り。
 由良を巻き込むまいという、精一杯の行動だったのかもしれないと、今となっては想う。
 つまり、由良こそが透子の幸せの象徴であり、この富士に眠る良介の幸せの象徴でもあったのだろう。
 退屈な祝詞に、もぞもぞと居心地悪そうにしている由良が、シュラインの視線に気づき、にっこりとわらった。
(そうね、由良ちゃん)
 笑い返す。
 と、隣で退屈そうに大の大人が大あくびをした。
 言うまでもない、草間武彦である。
(まったく、武彦さんといい、榊さんといい、亡くなった良介さんや隆之介君)
 そのた大勢の興信所にかかわった男の顔を思い浮かべて、一息にため息と笑いを吐きだした。
「まったく、男の人って仕方ないんだから」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0173 / 武神 一樹(たけがみ・かずき)/男/ 30/骨董屋『櫻月堂』店主】
【0134 / 草壁・さくら(くさかべ・−) / 女 / 999 / 骨董屋『櫻月堂』店員】
【0599 / 黒月 焔(くろつき・ほむら)/男/27/バーのマスター】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 /草間興信所事務員&翻訳家&幽霊作家】
【0213 / 張・暁文(チャン・シャオウェン) / 男 / 24 / サラリーマン(自称)】
【0365 / 大上隆之介(おおかみ・りゅうのすけ)/ 男 / 300 / 大学生 】
【0454 / 鷹科・碧(たかしな・みどり)/ 男 / 16 /高校生】
【0308 / 鷹科・碧海(たかしな・あおみ)/ 男 / 17 / 高校生】
【0898 / 黒木・イブ(くろき・−)/女/30/高級SM倶楽部の女王様】
【0767 / 浅田・幸弘(あさだ・ゆきひろ)/男/19歳/大学生】

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■         ライター通信          ■
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 前後編というお話に最後までおつきあいくださった方、また波瀾万丈の後編から果敢にも奮闘された方、ありがとうございました。
 おかげさまで何とかNPCは生き延びました。
 今回はとても個性的なプレイングがあり、なかなか楽しんで書かせていただきました。
 良いプレイングなのに、私の実力不足で完全に描写しきれず、申し訳ない限りではありましたが。
 精一杯がんばらせていただきました。
 一本のファイルにまとめると膨大な量になってしまうため、個々別にわけさせていただきました。
 またここではない、別のお話で再会出来るとうれしいです。

 次の榊さん単発事件の予定は未定ですが。
 ひさびさにまったりしたお話を書いてみたいです。
 沖縄か、京都か、長崎か。
 のんびりとした話で行きたいと思っておりますので、機会がありましたら、よろしくお願いします。

 シュライン・エマ様
 前後編の参加ありがとうございました。
 今回は後方サポート的な立場というか、ケアの方にまわってくださりありがとうございました。
 実のところ、だれも由良の面倒を見ない場合、飛び出して行き、人質としてつかまりさらに事件がややこしくなるという時間制限機能がついていました。
 おかげで予定より随分と早く解決を迎えることができました。
 
 では、再び不可思議な事件でお会いできることを祈りつつ。