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耳切り坊主 前編
<オープニング>
「厄介だな…」
俯き、煙草に火をつける草間武彦の横顔には影が差していた。
秋の良く晴れた一日。興信所の窓から差し込む光は眩いほどに明るいのに。
ソファには一人、頭に包帯を巻いた30半ばの、良く日に焼けた男が座っていた。
「俺の話を信じてくれるんですか?」
「ああ…」
草間は男の包帯の下…左耳に滲む血を眺め、肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をした。
「耳切り坊主は居るんですよ」
彼…安室仁史(アムロ・ヒトシ)は低く鬱蒼と答えた。手は細かく震え何かに怯えているようだ。そして彼のテーブルの前には一枚の写真がおいてあり、安室自身とそれから一人の女性、もう一人男性が仲良さそうに、美しい海岸で微笑んでいた。
「で…」
草間武彦は灰を叩いて安室の顔をまっすぐ見詰めた。「あなたはその耳切り坊主を殺して欲しいと、そう言うんですね?」
「ええ、そうです。俺はここの人たちが妖怪やら何やら…倒せる力を持ってると聞いて来たんですから」
「沖縄から、はるばる」
「そうです。沖縄から」
しん…と室内が静まった。草間は深く息を付き、窓の外を眺めた。
── 沖縄か。あちらはまだ夏の気配が残ってるのかもしれないな…。
草間は彼に向き直り、写真を指差して彼を見た。
「あなたは島に…耳成島ですか? そこにこの二人…比嘉夏美(ヒガ・ナツミ)さんと、金城雅史(キンジョウ・マサシ)氏を置いてきた」
安室は草間の言葉と視線に息を飲み、言い訳するように呟いた。
「誰かが、あいつから逃げなければならないと…」
その額に汗が浮かぶ。
「耳切り坊主から?」
草間の声が僅かに尖った。「あなたの婚約者を残し、親友を残してですか? 東京まで」
「だから、助けが必要なんです! 今すぐ!!」
彼は頭を…いや、耳元を押さえ立ち上がった。すると草間を見下ろすほどに大きな、そして堅固な体躯の男であるということが分る。「あいつは俺の耳を削いだ。島には彼等を含めて4人いるが、いつどうなるか…。早く助けに行かなければ」
安室の左耳はそぎ落とされたのだという…耳切り坊主に。
だが草間は、いきり立った安室の前で、落ち着いた目をして頷いた。
「…分りました」
「来て呉れるんですか!?」
「ああ。…だがその前に、もう一度だけあの歌を歌ってみてくれますか?」
その後、彼の歌った民謡は、泣いた子供に聞かせるものなのだと言う。訳して抜粋しておこう。
♪ 大村御殿の門中で 耳切り坊主が立ってるよ
幾人、何人、立ってるの? 三人、四人、立ってるよ 鎌と小刀持ってるよ
泣いてる子供は 耳きるぞ 泣かないで 泣かないで
<プロローグ シュライン・エマ>
夕暮れ間近、草間興信所のドアを開けると、草間武彦が一人でぼんやりと窓の外を見ていた。
「何してるの、電気も点けないで」
シュライン・エマが壁際のスイッチを入れると、蛍光灯が微かな音を立てて点いた。
「ああ…シュライン」
その灯りで夜が近づいていた事に漸く気付いた草間が、ヤニに煤けた壁時計を見上げながら答えた「執筆活動の方はどうだ? その後順調に行ってるのか?」
幽霊作家兼翻訳家である彼女は、今一つの創作に取り掛かっている。どんな風に書き進めているのか、どんなテーマであるか、草間には聞かせるともなしに聞かせていたので、彼も今シュラインがどんな所で煮詰まっているのか知っており、だからこその第一声だった。
「残念ながら停滞中よ。今日は図書館に資料集め」
自分用のカップを棚から出し、草間の薄汚れたマグも洗い、珈琲を注ぐ。草間はそれが当たり前の事の様に窓から離れ、デスクに腰掛けると自分の仕事を始めた。
「今度の依頼は何?」
机に草間のマグを置きながら依頼書を覗き込もうとしたシュライン。だが、草間はすっと肘を引きシュラインの目から書類を微かに隠した。彼女の目が丸くなる。草間がそんな事をするなど初めてのことだ。
「おい」
草間の静止の声も聞かず肘の下から依頼書を引き抜いて読んだ。その口元に微笑が浮かぶ。
「面白そうじゃない。いい気分転換になりそう」
途端に、草間の唇から漏れた深い溜息にシュラインは眉を潜めた。
「…やめておいた方がいいと思うがな」
草間は立ち上がるとシュラインの手から依頼書を取り戻し、憂鬱そうな声で言った。「俺が自分で行こうと思った程だ」
今までは、彼が居ないと興信所を閉めざるを得なかった為、忙しくなるとシュラインたちのような役立つ人間を雇っていたが、今の彼には店番と言う名の(?)妹がいる。…これからは現場に出るつもりだからな、そういえば彼はそんな事を言っていたっけ。
でも…とシュラインは、煙草を咥えた草間の横顔を少し驚いたような目で見つめた。
そんな事を言っておきながら、結局人頼みばかりしていたのが最近の草間だ。
なのになぜ急にこんな事を…つまり、ごくごく遠まわしにでも、シュラインを行かせまいとするような事を、言い出したのだろう。
危険という言葉と一緒にその意味をじっと考え、シュラインは顔を上げた。
「私が行くわ。草間さん」
今度は草間が目を見張る番だった。『いいでしょ? 草間さん』ではなく、彼女はきっぱり『行く』と言ったのだ。それが自分のせいだとは思わずに、草間は煙草を取り落としかけた。
***
待ち合わせは、羽田空港ビックバード2階1番クロックタワー前。
彼女の他に3人の「暫定草間興信所所員」が集まってくる予定だ。
肩に大荷物を掛けていても、旅行客の間をすり抜ける足取りに隙はない。
事務所を出るとき背中に感じた草間の、少し怒ったような心配そうな視線を思い出しながら、シュラインは時計の下に立った。
<空港〜沖縄>
喧騒に満ちた羽田の港内は、これから旅立つ人の群れでごった返している。
ひっきりなしに声を掛けられ、笑顔の絶えないインフォメーションセンターの女性。
慣れた様子で懐を探り、あっという間にゲートを抜けていくサラリーマンの姿。
クロックタワー前。午前10時より少し前。
最初に到着したのは、シュライン・エマだった。どんな未開の土地へ赴く事になっても、スーツとパンプスというキャリア風スタイルを崩さないと思われている彼女。秋風が吹き始めた今日は、深みのある赤いシャツコール地の7分袖を着て、肩に大きなバックを掛けていた。首元のニ連チョーカーも目立つ。
「あら…来たわね」
さほど待つことも無く、人込みの向こうに知った顔を見つけて彼女は呟いた。
連れ立って歩いてきたのは今野篤旗(イマノ・アツキ)と砂山優姫(サヤマ・ユウキ)だった。彼女の姿を目に止めて軽く手を上げたのは今野。肌寒くなってきたからか珍しくジャケットを羽織っているのだが、服の趣味が一貫しているのだろう事と、纏った雰囲気がいつでも変わらないせいもあって、特に目立った変化が見られ無いような気がするのは、男性だからだろうか。
大きなスポーツバックを抱えてシュラインと今野が挨拶を交わすその隣で、ひっそりとお辞儀をしたのは優姫。スリムセミロングの秋用コートは軽いパフスリーブになっていて、シンプルだけれど可愛らしいデザイン。ただ、その下に着たワンピースも長い髪もその瞳も、いつも通りの深い黒だった。唯一色彩があるのは、真白い肌と手に持った茶皮のバックだけ。何が彼女が黒ばかりを選ぶのか、聞いた人間はまだ居ない。
「随分早く着かはったんですね」
「ちょっと寄るところがあったから」
などと話しながら待つ。今回の調査員は4人の筈だから、あと一人来る筈…と思って回りを見渡したその時。
「すみませーん!」
駆けてきたのはロングスカートとサンダルにスーツケースという完全にリゾート向きの服装をした女性だった。背中に白く長い袋を担いでいる。「草間興信所の皆さん、でいいのかな?」
どうやら他の3人が集合時刻より早めに着いていたことに驚いたらしい。息を弾ませながらの声は明るく、しかし大きな微笑みに反して目元にはどこか物憂げな印象が漂っている。
「初めまして。須賀原藍(スガハラ・アイ)と申します。はぁ…遅くなっちゃった?」
「大丈夫よ。まだ十時になってないもの」
シュラインはちらりとクロックタワーを見上げ、微笑み返す。
「誰も遅刻せぇへんなんて、珍しい事もあるもんやな」
どういう訳か雇われた側に時間に暢気なタイプが多いのが、普通なのだが。
「天変地異でも起こるのかしら?」
ぽそっと呟かれた優姫の台詞には幸い誰も気付かなかった様子である。彼女だけ頭一つ分背が低かったからに違いない。
手荷物検査の間が軽い自己紹介の時間だった。今野、シュライン、優姫の3人が幾度か一緒に依頼を解決した事がある、と言う話を聞いた藍は「それは頼もしい!」と微笑み、逆に彼女が高校司書教諭であると知ると、彼等は「知人に同じく司書が居る」などと答えたりしていた様だ。
「依頼人の安室仁史さんは夕べの飛行機で一足先にお戻りになったらしいわ」
ロビーよりも人の空いた待合。漸くベンチに腰掛けたシュライン・エマは、膝上に乗せたバックに一旦チケットを収めながら他の3人に向かい、言った。
興信所でバイトする事もある彼女は、今朝も草間の元へ立ち寄り、依頼料から足代、宿泊代などを預かってきたという。旅の財布を握るのは彼女になりそうな予感だ。
「気が急いとったんやろか。昨日帰ろうが今日帰ろうが、変わらへんと思うんやけど」
ベンチの傍に立ったまま、医科歯科大学一回生に籍を置く今野篤旗が言う。
彼が草間に聞いたところに寄れば、依頼人の住む『耳成島』は沖縄本島から更に船で3時間ほどの場所にあるのだという。定期船は土曜…つまり今日と水曜の週に二度しか出ないと聞いた。
ならば先に戻っても仕方がないと思うのだが。
「耳成島は耳切り坊主がいる危ない場所なんでしょう? そんな所に婚約者を残して来てるっていうんだもの、きっと気になるのよ。少しでも傍に戻っていたいんだわ。その気持ち分るなぁ」
頬を染めて藍が言う。
「でも安室さんが居ないとなると、何が起きたか詳しく聞くことができませんね」
静かだが良く通る声で優姫が言った。彼女はまだ高校生だがよく興信所に出入しており、草間、シュラインとも親しい。昨日も草間の元に立ち寄った際、依頼人・安室仁史に僅かの時間ではあるが会った、と付け加えるように話した。
「どんな人だったの?」
「どんな…」
ベンチに腰掛けたシュラインに尋ねられて優姫は答える。「頭を包帯で巻いてらっしゃって、血の香りが…あれは耳切り坊主に左耳をそぎ落とされたのだと、草間さんが仰っていました」
瞬間、優姫を除く全員の肌が粟立つ。一方優姫の伏目がちの黒い瞳は何を思っているのか瞬きさえ少ない。
「体格的にはとてもがっしりされている方でした」
優姫は手荷物を片手に持ち替え、伸びをして手を上にかざす。「背はこれ位でしたでしょうか」
今野より高かったと思う、と優姫は言った。今野は体格こそ普通ではあるが背の高い青年である。とすると安室は190センチ前後の長身という事になるだろう。
「耳切り坊主に切られた、か」
シュラインは何事か思うように俯き、隣に座った藍も含め、皆の顔を見渡した。「そんなに体格のいい方が、耳を切られるなんて、どんな相手なのかしら」
「切られたからには、目の前で犯人…? 人かどうかは分らないけど、見ているはずよね」
と言ったのは藍。沖縄が初めてだという彼女はひょっとして飛行機も初めてなのだろうか、航空券が珍しいのか手の中で弄んでいる。「依頼人さんがこの場に居ないのは予想してなかったわ。私も色々聞きたかったのに」
僕もや、と相槌を打ちつつ、今野はシュラインに尋ねた。
「で、その安室氏とはどこで落ち合うことになっとるんやろか」
「那覇港よ。船は午後3時に出るそうだから、島に着くのは午後6時ってところかしら。那覇では少し時間が取れるわね」
シュラインの答えに被るように、空港の案内アナウンスが告げた。
『11時発那覇空港行き5108便 ご搭乗開始です。8番ゲートにお集まりください』
「大村御殿の門中で 耳切り坊主が立ってるよ…♪ かぁ」
突然藍が歌い出し、みなは驚いたように振り返った。
沖縄の独特の音階は紙に書かれた歌詞を見るだけでは歌えないものだろう。藍はうふふと笑って3人を見る。
「昨日教わった歌、職場で調べたらこんなリズムだったの。…なんだか怖い歌詞ね」
チケットを口元に当てて、だが藍の笑った顔にはまだどこと無く面白がっている様子が伺えた。
「その歌は、有名なものだったのですね。私も少し時間があったので調べてみたんですが」
優姫は興信所からの帰り道、立ち寄った図書館での事を思い出した。ページを繰るごとに分っていった耳切り坊主の血なまぐさい伝説。
「僕も大体は。結構色々出てきましたよ」
「私もよ。色々と興味深かったわ」
シュラインは立ち上がりながら視線を上げた。那覇に向かう観光客達が笑いさざめきながら搭乗口に吸い込まれていく。「でも後の話は飛行機の中でにしましょうか」
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砂山優姫の調べた話〜耳切り坊主の伝説
昔々の事です。ある王が弟に頼みました。
『悪さをする住職が居る。懲らしめて呉れまいか』
弟は頷き、住職と賭け勝負をします。結果、勝負に勝った弟は住職の耳を削いで殺してしまいます。だがそれを恨みに思った住職は死に際に言うのです。
『お前の後を継ぐ男子全て呪い殺してやろう』
その通り、王弟の家で生まれた男子は全て死ぬようになってしまった。
けれど、女の子であれば助かるという言い伝えです。
でもこれだけでは、耳切り坊主が一体どんな悪事を働いたのかまでは分りませんね……。
シュライン・エマの答え
その住職というのは、黒金座主と呼ばれているそうよ。
王弟の名は北谷王子。王子は次々呪い殺される息子の為に一計を案ずるの。
「生まれた子が男でも、辺りに大声で触れ回れ。『大女(うふいなぐ)が生まれたよ、北谷御殿に大女が生まれたよ』と」
黒金座主は女の子供は殺さない。男の子は13歳を過ぎるまで女の子として育てられたそうよ。 大女と叫ぶのは、悪霊払いの声なのね。
それに北谷御殿では…これは歌に出てくる大村御殿と同じものらしいけど…黒金座主の命日に霊を慰めることもあったみたい。
優姫ちゃんの調べた事と、私の調べた事で大体辻褄が合ったかしら。
今野篤旗の疑問
僕も調べられる事はネットで調べて来たんやけど、いくつか疑問に思うところがありました。
そもそも、黒金座主は耳切り坊主、て呼ばれてますけどほんまその伝説の通りやったら『耳切られ坊主』やないですか。伝わる間に大分変わったんやね。
けどポイントはその後や、なぜ安室はん達が耳切り坊主に襲われなあかんのか。
それが分れば今回の依頼解決できそうな気がする。
「呪い殺したゆう事から思えば、耳切り坊主に何かの『力』──念力だか術だか知らんけど…あったって事になる。安室はんが僕等に頼んできた理由もそれやろ?」
耳切り坊主を倒す。僕はできる限りのことするつもりやけど……。
須賀原藍の提案
私が調べた事も皆と大体同じ。特に今野くんの言う『なぜ襲われなければならないのか』には興味があるな。考えたんだけど、耳切り坊主の事はもっと詳しく調べて見たほうがよさそう。そしたら『なぜ襲われたか』も『耳切り坊主の力はどんなものか』の答えも、自然に出てきてくれるんじゃないかと思うの。
「大村御殿…って今も沖縄のどこかにあるのかしら」
調べてみない? 耳切り坊主の歌には他にも何か隠されている気がする。
追記:安室の伝聞〜 草間武彦のメモ
時刻 火曜日 夜9時から9時半辺り。
現場 比嘉夏美宅にて風呂焚き中(風呂は外からかまどに火をくべるもの)
・突然襲い掛かられ、揉み合う内に左耳を捕まえられ、削ぎ落とされた。
・圧し掛かってきたのは仮面を付けた何かだった。
・暗中一瞬の出来事で、一時的に気を失う。仮面を付けた大きな影が森に逃げていく後姿も見た。
・水曜日の船で、本島へ渡る。
・興信所へ来たのは、金曜日 午後4時。
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羽田から沖縄までの飛行時間は2時間弱。東京駅から大阪へ新幹線に乗るよりも早い。
4人が那覇空港に降り立った時の気温は24度。秋には少し早い良く晴れた真昼だった。
「暑ぅ…」
タクシー乗り場で待ちながら、太陽を見上げ今野は呟いた。目の前にかざした掌がじりじりと焼ける。東京では紅葉が始まっていることなど夢のよう。丁度正午を過ぎて太陽は真上にあり影は限りなく狭くなっていた。
「時間があるというお話でしたし、島に渡る前に地元の方にもお話を聞いてみたいですね」
先程飛行機を降りてから、静かな声で提案したのは優姫だった。「調べたこととはまた違った事が分るかもしれません」
彼女の提案により一同は、昼時でもあることから食事も兼ねて、重い荷物と上着を空港に預け、移動する事にした。
「大型一台お願いね」
沖縄には電車が無い。4人乗れるタクシーを捕まえたシュラインは窓越しに腰を屈めて運転手に話しかけた「この辺に美味しいお昼が食べられる場所あるかしら?」
「この辺の店はなんでも美味いよ」
観光客慣れしているのか、僅かにアクセントが違うだけの言葉。
「じゃあ、一番美味しい所でお任せかな」
何が食べられるのかな。と嬉しそうな藍。全員が乗り込んだ所で自動ドアを閉めながら、運転手は助手席に座った今野に突然尋ねた。
「首里城も近いが、見てくか?」
「へっ…そりゃちょっとは見たいは見たいけど」
つい答えかけた今野の背中に、後部座席から3人の女性のじぃっとした視線が注がれる。
「ははは。紅揃いで羨ましい所だが、若いけど黒一点らしいから頑張れな」
発進したタクシー運転手の名は金城と言うらしい。聞けば沖縄では良くある名なのだという。
「じゃ、例えば比嘉とか安室いう名前も、フツーにあるんやろか?」
何気なく尋ねると、それも良くあると答えられた。「ふーん…」
窓の外には椰子の並木が続く。那覇空港から町へ向かう道乗りの脇にはフェンスで囲われた基地もあった。言葉も風習も違う、けれどここは日本。不思議なことだ。
「ねぇ運転手さん、大村御殿っていうのはどこにあるの」
身を乗り出すようにして藍が尋ねた。耳切り坊主の歌詞の中にあった、唯一場所を示すらしい言葉。
「大村御殿? うぅん…」
「こんな歌に出てくる場所なの」
そう言って、シュラインは躊躇いがちに、だが良い声で歌い出した。先程羽田で藍が歌ったそのリズムを、たった一度で覚えてしまったらしい。
「あぁ、ああ」
納得いった、というように彼は頷き、途中からシュラインの声にあわせて朗々と歌った。
突然のコラボレーションに優姫は驚いたように目を丸め、今野と藍は面白そうな目をしている。
沖縄の人間は歌も舞いも日常としてあるとは聞くが、見事なものだった。
歌い終えた運転手は言った。
「この大村御殿か。そりゃ歌だよ。御殿なんて無い」
シュラインは形の良い眉を顰め、他の3人は思わず顔を見合わせた。
「じゃあ、北谷御殿はどう?」
異名として残る方を尋ねても、首を傾げるばかり。
「今はもう無くなってしまったのでしょうか。伝説ですし、歌の歌詞ですし」
と呟かれた何気ない優姫の一言を、運転手が聞きつけたのはその時だった。
「学生さん?」
バックミラー越しに優姫が頷くと、彼は笑った。「なるほど。伝説を調べに来たわけだ。ミミジリボージャーを選ぶとは、珍しい人たちだが…」
「ミミジリボージャー?」
藍は聞きなれぬ言葉に首を傾げた。
「耳切り坊主の事」
一同は無言で顔を見合わせた。地元で話を聞くならば、彼のような人が一番良いのではないだろうか。
「ねえ運転手さん、これから3時までこのタクシーお借りできるかしら? 色々移動するかもしれないの」
財布の紐を握るシュラインが代表して尋ねると、彼は至極あっさりと頷いた。
「勿論大丈夫だからよ」
そして値段交渉の末、前窓に『貸切』サインが出た頃、タクシーは那覇市内に入っていた。
<美味しいお昼と耳成島>
タクシー運転手・金城の前には、彼の愛妻が作ったというお弁当が広げられており、なじみだという店の店員は、彼のお弁当を見ても全く気にしていない風だった。
嗅ぎ慣れないがいい香りが充満した狭い店内の床はコンクリートの打ち放し。扇風機がまだ置かれているのは、熱気のある厨房を冷やす為だろう。見慣れぬ沖縄のTV番組も放送している。
「見てみて! 招き猫の目が青いわ、流石は沖縄!」
注文を終えて辺りをきょろきょろ見回していた藍が、カウンターの隅に置かれたのを見つけて嬉しそうに言う。物憂げな印象の割りには、どうやら活発な面も持っているらしい。
「ホンマ。僕とお揃いやね」
丁度席から離れてカウンターの傍に居た今野が招き猫の目を面白げに覗き込んで、軽く頭を叩いた。そんな音さえ軽快に思えて、彼等は思わず微笑んだ。
「ところで今野君、そこで何やってるの?」
「あ、これ見とったんですわ」
シュラインに尋ねられ、今野は雑誌置き場から一冊の本を手にして籍に戻った。軽い椅子の足がコンクリの床に音を立てる。
「大村御殿が無いんやったら、耳成島はどうやろなと思って」
沖縄観光ガイドと書かれた本のインデックスを開きながら、今野は指先で「ミ」の行を探す。3人は頭を寄せてその紙面を覗き込んだ。
「お、あったわ」
耳成島(みみなし・じま)
本島より南に150km。毎週水・土曜に出航する小型船で3時間。「神に守られる島」としてノロと呼ばれる司祭者に奉られている。
たった二行の解説だった。どうやら目立つ観光地というわけでもないらしい。
「ノロって何ですか?」
優姫は、黙々と弁当を食べる金城に尋ねた。こちらでは相席の人間の食事を待つ風習が無いのか、それとも金城がそういう質の人間なのだろうか。
「ノロか。ノロは…神様を祭る女の人のことだね」
箸を持ったまま、調味料を探しつつ金城は答えた。
「女の人…っていうと巫女さんみたいなものかな?」
藍の言葉に、金城は首を横に振る。
「それは、ユタ。神託したり占いするわけだから。ノロは血縁で継いで、ユタは修行してなる」
一応これでも観光タクシーの運転手だからねえという金城の笑いに答えながら、シュラインはメモを取っている。
「じゃあ、耳成島についてはどうですか?」
再び優姫が尋ねた。
「知らないことも無いが、名前くらいだなぁ。遠いし、行く用事もないし。行く予定?」
一同が頷き、運ばれてきたゴーヤチャンプルー定食を前に金城は首を傾げた。
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運転手・金城の知る耳成島の話
そうだなぁ。私の知ってるのは、あの島のノロは島の神でなく、海の向こう…ニライカナイからやってくる神を迎える為にいるんだという話だね。出迎えてもてなして、そしてまた海の向こうへ帰ってもらうんだということだから。
それ以上は噂にも聞いた事がない。住んでる人も……へぇ居るの。そう。
出入の少ない島だってのは確かだね。
勉強に使うならいい加減な話を教えるわけには行かない。どうだろう、博物館にでも行ったら。
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耳成島のこと、沖縄のこと、金城は上手い話し手だった。事件に関することもそうでない事も、聞けば大体のことは冗談交じりに楽しく教えてくれた。おかげで一同はしばし事件を脇に置き、美味しい食事と金城の話を楽しむ時間を過ごす事が出来たのだった。
<博物館と耳切り坊主伝説>
タクシーに乗ってやってきた博物館は、幸いな事に土曜でも休館ではなかったようで、人こそ少ないものの学芸員と思われる人影はある。湿気も多い沖縄だが、こうして日陰に入ると半袖になった背を伝う汗のせいもあって、すっと身体が冷えるような気がした。
「耳切り坊主について、調べてらっしゃるとか」
受付の女性に用件を伝えた所、出てきたのは少し年嵩のスーツを着た男性だった。館長ではなかろうが、学芸員の一人なのかもしれない。
「大体のところは分っているのですが、他にもいくつか疑問が」
飛行機の中で話したことも、歓談の最中に金城から聞き出したことも、シュラインは手際よくメモに取っていた。多分、普段から物事の整理に文字を使うタイプの人間なのだろう。
「どんな事でしょうか」
彼は落ち着きのある声で、尋ねてきた。
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博物館の男性の話
ああ…大村御殿、ですか。
場所で言うなら、正に今あなた方が立っているここが、大村御殿です。ん、須賀原さんは随分驚いた顔をされていますね。
黒金座主を倒した北谷王子の住む館を北谷御殿と言いました。その子孫が後に大村と言う姓を賜り、北谷御殿が大村御殿と名を変えたのです。
戦争などあったせいもあるでしょう。大村氏はいつの間にか居なくなり、御殿はこちらの博物館となりました。供養も『大女』と叫んで回る事も、以来やっているお家を見たことがありません。大村姓の方は呪われるとかで…改名でもされたのかもしれませんが、その姓を名乗る方もお見かけしなくなりましたね。
耳切り坊主がした悪い事、ですか?
ふむ…黒金座主は住職で、隠居生活を囲碁を得意として暮らしておりましたが、いつの頃からか彼の寺に女性達が尋ね、祈祷などしてもらうようになりました。ですがその内、黒金座主は尋ねた女性に妖術を掛け悪戯すると噂が立つ。そこで王はまず、北谷王子に事の真相を確かめるよう命ずるのです。
真相を確かめる為、北谷王子は妻を黒金座主の所へ行かせます。だが妻は…座主の良いようにされて戻ってくる。砂山さんのような若い女性の前でこんな話は申し訳ないですが…まぁ、そういう事ですね。
怒った北谷王子は自らの髷を賭け、黒金座主に囲碁の勝負を挑みます。座主は代わりに耳を賭け、二人の勝負は始まります。
対局は王子の優勢でした。ですがその間にふと眠気が襲います。黒金座主の術でした。石を置き換える音が耳に響き、王子は跳ね起き宣言する『お前の負けだ耳を寄越せ』切りつけた弾みに王子は座主の首をも切って殺してしまったのです。
今野さんが仰るとおり、黒金座主は強い呪力を持った男だったのでしょう。
呪い殺す力を持っていたり、人に催眠をかけることが出来たり、身体も大きく色黒の住職であったというお話ですから、力も強かったでしょうね。ただ人間であったのは確かです。
もし戦う事になったら…? さぁ…? 考えた事も無かったからなんとも……。
ですが妻を奪われた悔しさが、眠気を吹き飛ばしたのでしょうし、強いて言うなら、北谷王子にも何らかの力があったのでしょう。
そういえば、供養の時には耳切り坊主の顔を模った『術封じの仮面』を奉るという話が、どこかにあった気もします。本当かどうかは…。
シュラインさんお尋ねの耳成島については、二十数年前に島史編纂の為訪れた時のことになります。その頃のノロには小さい息子さんがいらっしゃった様子ですが、旦那さんはお亡くなりになられて居ました。ノロは女性しか継げませんから、今頃どうなさっているか……5.60歳にはなられているはずです。
名前…ええと待ってくださいね。
ああ、これだ。「安室夏夜(アムロ・ナツヨ)」さん。これが当時のノロですね。
島民ですか? さて…あの頃でも4.5件しかありませんでした。
それだけしか分りませんが、お役に立ちましたか?
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<首里城〜耳成島へ>
博物館から出て1分も歩かぬ内に、首里城公園内に入ることが出来た。
北谷王子はつまり、時の王の弟であったわけで、城内に館を構えていたと言う事なのだろう。
蒼く澄んだ空の下では、先程聞いた話の内容が嘘のように思えた。
「伝説としては面白かったけど、胸が悪くなるような所もあったわね」
女性陣には特に辛いものがあったようで、散歩がてら大池の傍を歩く今野のゆっくりした歩調にも、皆どこか憂鬱そうに付いて来ていた。
「酷い奴だわ。女性を手篭めにするなんて」
ちょっと古い表現だが、藍の憤慨は十分伝わってきている。
「泣いている子供をあやすには不気味な歌だと思っていましたが、時代を経て歌と真相は大分変わっていたようですね」
白く積み重ねられた歓会門の石積み。黒いワンピースを着た優姫の姿は、彼女の沈んだ気持ちとは裏腹に、影絵のように目立つ。黙って静かにしていても、その場に居ないと直ぐに分る類の人間がたまに居るが、彼女もそういった種類の人間だと思う。
隣を、沖縄の空と同じ色のシャツを着た今野が歩いている。髪や目の青さも相まって空に溶け込みそうだった。博物館での話をじっくり考えつつ呟きをもらしている。
「耳切り坊主と耳成島の関係は、まだ分らへんかったし。この二つを繋げる線が必要やって気がするなぁ」
そんな二人の後を追うように、シュラインと藍が並んで階段を昇っていく。
秋の色を含み始めた沖縄の風に、藍は帽子を飛ばされぬ様に押さえなら、沈みがちになった3人を見て、きゅっと口角を上げて笑った。
「でも思った通り、やりがいのある依頼だわ。この調子で行きましょうか!」
藍はどうやら、物憂げな外見に反して大分活発な女性のようだ。
シュラインは、そんな藍の言葉に漸く笑顔を見せた。依頼に関して常にドライな彼女も、職業柄なのか時折どうしようもなく人や物語りに魅入られてしまう事がある。
「そうね、待ち合わせの時間にはまだ時間があるし。そうだ、さっき博物館でパンフレット貰ってきたの。ここを抜けたら次は瑞泉門。その次は水の落ちる速さで時を刻んだという漏刻門…はぁ…大分昇るのねぇ」
次々と現れる門を潜り、白い階段を昇りながら一同は徐々に沖縄の町を見下ろす高さへと上がっていった。目を細め見下ろせば遠く霞む海が見える。ほんの数時間前まで、天気の悪い東京に居たとは思えなかった。
「ここで一休みしたら戻った方がええでしょうね。一番有名な御庭(ウナー)を見るんは、依頼を無事終えてからのお楽しみや」
今野は言った。そう、無事に…戻って来られればいいのだが。
「この先はチケット買わないと駄目みたいだしね」
シュラインが言った。発券場と案内所とちょっとした売店が連なっている。「あっちに公衆電話があったわ。ついでに興信所に連絡取っておくから3人はここで待ってて」
優姫は頷き木陰に置かれたベンチに座った。少し具合が悪そうに見えるのは気のせいか。
「じゃあ私もちょっと…」
藍もシュラインの後を追いかけるように、その場を離れた。何をしに行くのかは分らない。
「あ……」
今野が何かを言いかけたのは、二人のどちらにも届かなかった。
<シュライン・エマ>
「そう、携帯が繋がらないと思うの」
3人をわざわざ置いての電話相手は勿論草間武彦だった。「ここでもうギリギリだったから、島に渡ったらたぶん完全にNGね。あっちに電話があればいいけど」
今までに調べ上げた事を報告するというたった5分の間に、どんどん小銭が落ちていく。
草間の、相槌を打つタイミングや質問の仕方はとても的確だ。シュラインの頭を整理するのにも一役買っている。だから彼女がマメに報告を入れるのは、途中経過の報告以外にも理由があるのだ。断じて草間の声を聞きたいからだけではない。
そしてシュラインは鋭い女性だ。頭の回転もさることながら、人を観察する力にも優れており、比較的冷静に相手の話を分析する事ができる。今も彼女は、電話の相手…草間にもそういう面があるんだろうな、と会話をしながら頭の隅で考えていた。
「あとは島の地図を手に入れて、安室さんと話しながらって事になりそうだわ」
分った、という相槌と共に、メモを取っていたと思われる音が止んだ。
そして、何やら考えている気配。
「どうしたの?」
彼がこうして黙り込んだ時や、声を低くしたときは重要なことを言いだす場合が多い。黙って息を潜め、待つ。
『あのな…』
よほど言いづらい事なのだろうか。出かける前の草間の様子も思い出して、シュラインは身構えた。『黙っておこうかと思ったんだが…』
なんだろう。危険な事だろうか、もしくはいきなり依頼がキャンセルされたとか?
だが、草間は全く彼女が予想していなかった事を、言った。
『シュライン……沖縄には大量のアレがいる』
── あれ? あれって……?
シュラインは受話器を持ったまま思案した。アレとは指示代名詞の遠称である。
『沖縄語では普通にいるのが『ヒーラー』。飛んでるのを『トビーラー』って呼ぶらしい』
── ああ、なんだか凄く嫌な音感。
彼女の青い目が遠く高い沖縄の空をぼんやり見上げたのはその時であった。
『しかも沖縄のはな、スリッパぐらいでかいらしいぞ。だから行くのは止した方がいいだろうなと思って止めたんだが、もうお前はそっちにいるんだしな? アレっていうのは…』
「待って! 絶対言わないで、言っちゃ駄目ーっ!!」
シュラインはその時、絶叫した自分に気付かなかったのだと、後に語った。
『ゴキ……』
彼女は別れの挨拶もせず、叩きつけるように電話を切った。
かつて無い出来事であった。
<首里城から耳成島へ>
「大丈夫、何でもないわ」
と言いながらもなぜだか酷く顔色悪く戻ってきたシュラインを気にしながら、藍が売店で購入してきたジュースを飲み、皆はタクシーへ戻った。待ち合わせの時間にはまだもう少しあったけれど、空港に預けた荷物の事もあるし、もう港へ向わねばならない刻限が迫っている。
シュラインの提案で本屋に寄り耳成島の地図を手に入れた後、タクシーの中でふと藍が言った。
「さっき思いついたんだけれど。もしかして安室さんの戸籍を調べれば何か分るかもしれないと思わない?」
どうやら藍は、そこに耳切り坊主と安室氏の関係を見出そうとしている様子だった。「もし、もしもよ? 居なくなったという大村氏、その子孫が安室さんだったとしたら……襲われたっていう理由の説明だけは付くんじゃないかなって思ったの」
運転手・金城を除く全員がハッとしたように藍を見た。
「大村氏は耳切り坊主に呪われている」
優姫は呟いた。「逆に言えば、耳切り坊主が大村氏以外の人間を襲う理由はありませんね」
だが、今野がざわめいた車内を制した。
「いや、ちょぉ待ってくれへん? 僕もその線は考えたんやけど、さっきの博物館の話思い出してや? 13歳を過ぎたら耳切り坊主に襲われることは無いて言うてたやん。安室さんは確か27やったよね。もし安室さんが大村氏の子孫やったとしても、おかしいやん」
藍の眉が落ちる。
「それは、えーと。…やっぱり安室さん本人に会って聞かないとこれ以上分らないかしら」
「けど、いい勘してるわ」
と言ったのはシュライン。先程までの具合悪そうな様子は藍の言葉で吹き飛んだらしく、目を輝かせている。「博物館での話…20数年前でさえ耳成島には4,5世帯しかなかったわけでしょう? 調べれば少なくとも耳切り坊主と安室さんを繋ぐ何かが……」
一同は顔を見合わせた。しかしその時、意外な人物が声を発した。運転手の金城だった。
「あのね、戸籍では先祖は調べられないよ。時間も掛かるから出航にも間に合わないだろう」
戸籍とは親子の関係のみを記したもので、しかも明治以前のものは手に入れる方法が違う。他人の戸籍を見るには正当な理由が必要であるとか、なかなか面倒なものらしい。
「なんでそんな詳しいんや?」
今野が尋ねた。どうもこの運転手、謎が多い。
「おじさんはね、昔役所の職員だったのさ」
金城はあははと笑って答えた。
波は穏やかで、船は驚くほど小さかった。
海に出た事など数えるほどしかない草間興信所の4名は、錆び付いた漁船を前にちょっと呆然としていた。
耳成島の住人たち、そして安室の家系を調べるという仕事は運転手・金城が引き受けてくれた。
調べた事は手紙に書いて次の船で送ってやろうとまで言ってくれた。島には電話が無いと判明した為だ。彼は、シュラインからお礼の金一封が差し出されたのも拒まなかった。
「安室さん、これで3時間ですか?」
親切なタクシードライバーを見送り、そして今、4人の前には依頼人の安室が居る。
優姫以外は初めて彼に会う事となった。
「そうです。日暮れ前に着けるとは思うけど、海の上は少し冷えるから、気をつけて」
外見に似合わぬ静かな言葉で、彼は言葉少なく答えた。頭にはまだ包帯が巻かれていたが、優姫が見たという左耳の血の跡は包帯を巻き替えたのかもう無い。ただ、その下にあるはずの左耳のふくらみも明らかに無かった。
海慣れした仕種で停泊している船の縄を解く腕は太く、背も高く、浅黒く日焼けした身体は逞しい。逆に、目の下には隈が出来、思いつめたような色が浮かんでいる。
彼の背後では、船長と思われるじっとりと湿った雰囲気の中年男性が荷を運び乗せていた。何かと思って箱書きを読めば、どうやら食料品らしい。
電話も無く携帯も繋がらない島へ、これから渡る。
この船便だけが、島と本島を結ぶ唯一の絆。
「…乗りましょうか」
優姫が桟橋から船体に足をかけるのを、さりげなく今野が助ける。
「レディファースト?」
ともすれば暗くなりそうだった船出を茶化すように、藍はそんな今野に手を差し出した。背中担いだ白く長い袋は弓なのだという。
「当然よね」
それに習ってシュラインも、今野の手に手を置き船に渡る。
「自分で自分をレディ言うのはどうかと思いますけど」
苦笑いして今野がその後を追おうとすると、船長がくい、と無愛想に顎で後ろを指し示した。 安室が、暗い瞳で彼等を見ていた。
軽快なエンジン音にあわせて舳先が波をかき分けて行く。
「…大分思いつめてらっしゃる様子ですね」
優姫は傍に居た藍に、呟くように話しかけた。
漁船とは、文字通り魚と漁師のみ乗ることが出来れば良いように作られている。
狭い操舵席に入るわけにも行かなくて、一同は甲板に置かれた丈夫な荷へ、思い思いに腰掛けていた。既に那覇港を出て一時間が経過している。秋の日はつるべ落としとは沖縄でも同じ事。もうしばらくすれば見事な夕焼けが右舷に見られるはずだ。
「なんか仕事してはる様やしなぁ」
彼の仕種は仕事というより手遊びに近いものがあった。目も手元をばかりを見ている訳ではなく、停泊ロープを巻いたりほぐしたりしながら何事かを呟いている。
「そんなに心配なら、どうして一緒に島を出なかったのかしら。大事な婚約者を殺されるかもしれない島に残すなんて。それに、親友だって言う金城さんの事だって。ね?」
藍が首をかしげて優姫を見下ろす。
「彼等が心配な気持ちも分るけど、これで間に合わないような事が起きたら困るわ」
と、溜息を付いたシュラインに、今野が言った。
「僕が声掛けてきますわ。……安室はん!!」
今野は船首に向って数歩歩き、波に負けないように声を張った。「済んませんけど、幾つかお聞きしたい事があるんですが、ええですやろか!?」
その時、操舵室にいた船長…伊原という…が喉で笑った。
── 何、嫌な感じの笑い方。
だが、たまたまそれに気付いたのは、藍だけだった。
揺れる船の上を、安室はゆっくりと歩いてきた。
「島で襲われたときの事、詳しく知りたいと思うの」
シュラインは今野が腰掛けていた箱の上に、先程購入した地図を広げてペンを構えた。
「あなたが襲われたと言う比嘉夏美さんのお家は島のどの辺り? 耳を切った相手はどっちの方向へ逃げたのかしら」
先程自己紹介だけは済ませていたが、安室はどうやら、殆どが女性でしかも年若い草間興信所調査員達を不足と取り、信頼していない様に見えた。興信所の皆がどんな能力を持っているか知らないのだから、当然といえば当然の反応ではあろうが、シュラインの質問に、漸く我に返ったように、目を上げた。
「比嘉家がここ…」
島の最北にある船着場と書かれた場所から、ほんの一キロ南へ入った場所を、安室は指した。「耳切り坊主は島の中心に向って…中心は森になってるんですが…逃げました」
彼が襲われたという風呂焚き口は、家の南側にある。耳切り坊主も南に逃げたと言う事だ。
「じゃあ…他に残っている二人というのは、どんな方たちなんですか?」
優姫が尋ねた。ずっと不思議に思っていたのは、『皆を助けて欲しい』という安室の依頼についてだった。皆というのは、一体誰なのか。
「島に居るのは夏美と雅史の母と祖母です。……これって何か関係があるんですか、耳切り坊主を殺す事と」
言葉は丁寧だったが、目には不審の色が再び浮かんでいた。
「だって、耳切り坊主に襲われるから助けたい、っていうのは彼等のことなんでしょう?」
シュラインは思わず強く聞き返した。この安室と言う男性は、一体何を考えているのだろう。
「それは…その。彼女たちは多分大丈夫だから、忘れていました」
安室は言葉を濁し、不審そうな目つきになった4人から目を逸らした。
「どういうことや?」
「大村の血は入っていないからです。耳切り坊主も襲えませんし襲う必要も無いわけです」
「大村の家……」
一同は、思わず顔を見合わせた。
やはり、安室仁史は大村氏の子孫に当たるのだ。
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安室仁史の話
耳成島はニライカナイの神を奉る島です。
今島に残っているのは、雅史と夏美の母親・夏夜と祖母のナツ。
まずはなぜ、俺たちが耳切り坊主に襲われなければならないのか。そしてなぜ俺が襲ってきた化け物を耳切り坊主だと思ったのか、お話しましょう。
それは、俺が大村氏の子孫だからです。小さい頃から寝物語に聞かされていました。大村の血は耳切り坊主を呼ぶんだと。…いつくるのか、いつくるのかと恐ろしかった…。
だから、あのバケモノを見たとき、俺は耳切り坊主が来たと思ったんです。
大村氏が島に渡ったのは戦前の事と聞いています。その時には既に金城と名乗っていたそうです。名を変えたのはこの苗字を嫌ったせいとか、単に婚姻の結果とも言われてます。
……そうです。雅史の氏が金城ですから、もうお分かりかと思います。俺は本家の妾腹で、雅史は本家の息子。俺たちは異母兄弟です。
だから、俺と雅史には耳切り坊主に襲われる理由があるんです。
次に、なぜ俺が彼等を残してこなければならなかったのか……。
まず、夏美は……腹に俺の子が居るんです。臨月ですから船に乗るのは無理だった。
腹の子は、男です。男子を宿しただけで耳切り坊主に殺された母親も少なくないから、雅史が夏美を守ると言って、島に残ったのです。
夏美の母を連れて出られなかったのは、夏夜が今のノロだからです。耳成島のノロは、島を離れる事が出来ない決まりなのです。出れば神が怒りを表すと言います。でも逆に言えば、耳成島の神に守られている彼女がきっと一番、安全でしょう。
祖母のナツはもう、夏夜にノロを譲りましたから、勿論島を出る事は出来ますが、やはり身重の夏美を案じて残りました。それに、本人も80を越えた老体ですから。
------
「ちょお待って…頭がこんがらがるわ」
今野は額に手を当てて、頭の中で図を描いた。「あれ? したら夏美はんと雅史はんも血が繋がってはるん?」
「えっ?」
皆の顔に?マークが浮かぶ。
「だって…今、『雅史はんと夏美はんの母と祖母』って…あれ?」
「そうかな。私は単に夏美さんのお母さんとおばあさんと取ったんだけど」
日本語というのは、難しいものだ。
「あ、ああ。説明しますよ」
安室はシュラインからメモ帳借り、右手にペンを持って書き出した。
ナツ(先代ノロ)
│
│
安室(母)___ 金城(父 旧大村氏)___ 夏夜(ノロ)___ 比嘉
│ │ │
│ │ │
安室仁史(自分) 金城雅史(異母弟) 比嘉夏美(次代ノロ)
│ │
│ │
────────────────────────
│
出産予定の男子(二人は婚約中)
「うわぁ…フクザツ……」
「金城さんは、比嘉さんとも異母兄妹になるんやな」
自分の考えた事が間違っていない事を確認し、今野が頷く。
一瞬、安室の眼球が振れた。
── あら…夏夜って名前…どこかで聞いたかしら……。
シュラインは、メモ帳に目を落としながら、ふと考えた。
ページをめくって前書きとめたことを見直そうとも思ったが、4人が注目していることで、後にしておこうと考える。
「ねぇ…島にはもう5人しか居ないって…」
シュラインは彼等の父親を指して言った。「他の人たちは、どうしたの?」
「もう随分前に亡くなりました。最初に金城の父が、次に母が。その後で比嘉の父が」
あっさりとした口調で安室は答えた。「ノロを残して、他の家族も皆便のいい本島へ越していきました。今の俺たちはノロの血を繋ぎノロを守る為にいるようなもんです。そしてノロの血は、何があっても続かせなければならない」
その台詞を言ったとき、安室の顔にはえも言われぬ陰が走った。
暗く、鬼気迫るような、目の奥に浮かんだ光。
優姫の背筋がゾッと粟立つ。これは、草間興信所で見た安室の、血生臭さを思い出させる目だ。
「お子さんが居るとは思わなかったわ、驚いちゃった」
その場の雰囲気を盛り上げようと、藍が勤めて明るく言った。だが。
その言葉に、振り返った安室の目は、どこまでも深く暗く濁っていた。
「ねぇ、安室さん……安室さんは、夏美さんを愛してらっしゃる……のよね?」
なぜ、そんな質問をしてしまったのか、その時のシュラインには分らなかった。
安室は答えた。
「勿論ですよ。……島には俺のほかに、居ませんしね」
<耳成島 一日目 土曜日>
朽ちかけた桟橋に漁船が着いた。投げるように降ろされた荷の量は多くなかった。島には電気が来なくなって久しいとの事だった。冷蔵庫も無い。電話も勿論ない。波に削られた浜は狭く、彼等は崖を崩して作られた石階段を、それぞれ荷を抱えて昇った。これは次の水曜までの彼等自身の食料だ。ここから、過疎した村までは一キロの道のり。
「深い森……」
優姫が島を眺めて呟いた。缶詰の袋を抱え目を上げると辺りはもう薄暗い。ガジュマルの森の中に狭い獣道が通じている。
東京から沖縄、そして耳成島。行程に疲れ始めているのかもしれないが、船で安室が押し黙るようになってから、一同も口を効かなくなり始めていた。無論冗談さえ出ない。
この島は、暗い。暗くて重い。優姫の呟きに、安室は言葉少なく答えた。
「本当の森はもっと深い。道もなければ光も無い。海も見えない」
振り返れば、夕日が落ちかけたオレンジ色の海に漁船が帰っていく。彼は、藍のサンダル履きの足元をじっと見つめて言った。「少し早く歩いてもいいですか。……雅史が、心配です。本当なら荷を運ぶ為に船着場に来る筈なのに」
「っ、なぜそれを早く言ってくれないの!」
シュラインが鋭く言うと同時に、全員が目を見交わした。
今野が頷き、荷物をその場に置いてあっという間に駆け出した。
「何しとるんや安室はん! 荷なんか放っておいて…行くで!!」
おろつく安室を先頭に、優姫達も荷を降ろし、走り出す。
「金城さんはどこにいるの!?」
「俺の家です。俺たちは同居しているんです。幾ら血が繋がっていても夏美と暮らす訳にもいかないし、他には住める家もないので…人が住まなくなった家は朽ちます」
皆嫌な予感を感じながら、走った。
……運ばれてきた荷物だけが、森の小道に残されている。
彼等が居なくなってから、物音一つしない。
暗い、森。
その時、ガサリ…と草陰が揺れた。
草間興信所の調査員と、安室の姿が居なくなった事を、確認するその黒くつぶらな瞳は、緑と黒に塗り分けられ、髭を蓄えた仮面の下にある。
人間……なのかもしれない。身につけた着物の裾は泥に汚れ擦りきれ、血に染まっている。
じんわりとした動きで、小道に出てきた。
見上げるほど高い背を、丸く埋めて、彼等の荷物を探り始める。そして泥に汚れた短刀で、荷を切り裂き始めた。
一体、何をしているのか。
全ては仮面の下。今はまだ何も分らない。
「雅史!! 雅史っ!!」
集落の外れにある、石垣に囲われた沖縄の民家は、薄闇の中に鬱蒼と佇んでいる。
「……うっ……」
土間から最後に駆け上がった藍は、思わず口元を抑えた。
板張りの床が、一面どす黒く染まっていた。金臭さで息苦しい。
「……酷い…」
シュラインの呟きに、優姫が眉を寄せ、今野はゆっくりとその場に膝を付き、指先を当てた。「もうすっかり乾いて……雅史さんの血やろか…」
そうは考えたくないけれど、と付け加える。
「電気をつけて…あ、無いんだったわね。安室さん、灯りを」
薄暗い土間で呆然と立ち尽くしていた安室が、はっとしたように、ランプを灯した。
ぼんやりとしていた染みが、淡い灯りに照らし出された。
「あれ…見てください」
優姫の指差した方向には、明らかに人間の手で引かれたと思われる血の筋が、残っていた。
「争った跡…かな」
気を辛うじて保ちつつ藍が呟く。「血が、外に続いてるみたい」
自らの足元を、全員が確かめた。土の上には確かに血痕と思われるものが続いており、何より戸口の敷居にべっとりと残っていた。
「この怪我で、どこへ行かはったんや」
その時、安室がはっとした様に叫んだ。
「夏美…夏美は!?」
玄関から転げ出た安室を追って彼等は再び走り出した。雅史が襲われたのだとしたら、ともすれば彼女の身も危険だ。しかも血は数時間もしくは数日経っている。
身重の比嘉夏美。産み月で辛いとは言え、それを知らぬわけも無い。
そして、一同が雑草の伸びた道を駆け、夕暮れの重い空気の中を集落の逆離れにある比嘉夏美の家に飛び込んだとき、彼等は信じられない光景を見た。
「っ…、あ…っ… く…ぅうっ…」
比嘉夏美が、一人布団の上でもがき苦しんでいたのである。
写真で見た大きな笑顔は今どこにも見えない。寝巻き代わりなのだろうか、白い着物は着崩れて、黒髪が汗の浮かぶ頬にべったりと張り付いていた。
一種妖艶とも見えるその姿に、思わず足が止まる。
「夏美!!」
安室が一同の傍をすり抜けるように、彼女の傍に駆け寄った。「もしかして、生まれるのか!?」
「な……」
ぎょっとしたのは何も今野だけではない。安室の服裾を掴んだ夏美が、苦しげに頷く。
「だ、誰か居るの? お産婆さんとか!」
流石に混乱した様子で、藍が尋ねる。
「オバァたちが取り上げてくれるんだが……」
沖縄語で、祖母の事をオバァという。だが今、この場に5人以外の気配は無く、彼等は一瞬しん…と静まった。
夏美の母と祖母は一体どこに行ったのか。だが、今それを考えている暇は、ない。
「男の人は、外に出て!」
シュラインの鋭い声が飛んだ。まさか、の顔で優姫と藍が彼女を見上げる。
シュラインとて、自信も経験もなかった。だがもしも、誰も間に合わなかったら。
もしも……彼女たちが既に耳切り坊主に殺されているとしたら…?
自分たちがやるしかないのだ。
長い夜が、始まった。
かまどに火を起こすなど、した事が無かった。優姫は本で読んだ知識を頼りに灰を掻き出し、火をくべる。今野が井戸から水を汲んで優姫の元に運ぶ。だが居る訳には行かず、納屋から大きな桶を探し出した後は、軒に座り込んでしまった安室の隣に、所在なさそうにしゃがみ込んだ。
藍は、慣れない他人の家を隅から隅まで探し、小刀を一振り見つけた。他には、不思議な事に、この家には文房具と思われるものが見当たらなかった。ハサミもエンピツも紙切れ一枚さえも。
シュラインの腕時計の針が、ゆっくりと時を刻んでいく。
時折静かになる比嘉夏美の額の汗を拭きながら、彼女たちはじっと待っていた。
新しい命が生まれる瞬間を。その手助けをすることを。
<耳成島 二日目 日曜日>
「……ホギャ…ァ …ギャァ…… アァ……」
微かな声が今野と安室の耳に届いたのは、夜明けだった。
「生まれたんか……?」
やや呆然としながら今野が呟いた声は、枯れていた。外部からの攻撃に備え一睡もせず、黙り込んだ安室と言葉も交わす事も無くただじっと待っていたせいだろう。
ゆっくりと立ち上がり板張りの扉の前に立った時、こちらから開けてはならないと言われていた扉が、開いた。
優姫だった。彼女は一晩でげっそりとやつれたような顔をしていたが、何とも表現しかねる、満足気で豊かな表情をしていた。
「生まれましたよ」
彼女の後ろでは、シュラインと藍が、産湯を使わせている。家の中はどこか妙に、優姫の表情と同じ穏やかな空気が漂っていた。
「もう入ってもええの?」
生まれたばかりの子供の赤さを目の当たりにして、流石に緊張を隠せず今野が尋ねる。
「駄目です。まだ後産が終わってませんから」
「そっか…」
今野はふと、板扉に掴まった優姫の手首に目を留めた。「その腕、どうしたん?」
ああ、というように、優姫は片手でその痣を撫でた。
「私は、夏美さんの手を握る事しかできなくて、シュラインさんと藍さんが殆どやってくださったんですが……赤ちゃんが生まれる時、すごく、すごく強い力で、夏美さんが……」
痣は、5本の指の形をはっきりと残していた。
優姫は、今野の顔を見上げた。
「私も、ああいう風に生まれてきたんですね」
優姫は今、従姉妹と暮らしている。家を出てから、もう大分経つ。
「優姫ちゃん…」
今野は、意地を張っていた自分が少し莫迦らしくなった。彼女はいつだって彼女のままで、自分がそんな優姫を好きになったのだから、ただそれだけでいいのではないかと。
「じゃあ私は、戻りますから」
扉が再び閉まる。今野はほうっと息を吐いて、安室を振り返った。父親ではない自分だってこんな気持ちになるのだ、安室の苦労といったら、どれ程だろう。
「安室はん、やっぱり男の子やったて。名前とか決まってはるんですか?」
だが、安室は答えない。
── そんな力いっぱい握り締めんでも……。
じっと軒に座ったまま、安室は強く土を握っていた。どうやら、手が強張っている様子だ。
「安室…はん?」
肩に手を掛けると、彼は跳ね起きた。その尋常ではない動きに思わず手を引く。
「大女ー(うふいなぐ)! うふいなぐが生まれたぞー!!」
突然、安室は駆け出した。駆けてあたりに触れ回った。「比嘉の家にうふいなぐが生まれた! 生まれたのはうふいなぐだ!!」
鬼気迫る、と言ってもいい。そんな安室の姿に今野はただ呆然とするしかなかった。
一方、家内で夏美と生まれた赤ん坊を診ていた藍とシュラインは、その声を聞いて微笑んだ。
「本当に大村氏の子孫なのね。でもお父さんがああやってくれるなら、君はもう安心だよ」
藍は、やや皺の取れてきた赤ん坊の頬をつんと指先で突付く。
「お母さんも、お疲れさま」
比嘉夏美、という名前と写真での姿しか知らなかった女性を、今は「お母さん」と自然に呼べる。それさえなぜか感動的で、シュラインは気を緩めたら泣いてしまいそうだった。
でもこうして眠っている夏美は、まだ随分年若い。彼女たちより年下だろう。
「まさかこの年で赤ん坊を取り上げるとは思わなかったわ」
茶化すように言ったシュラインの台詞に、藍が尋ねた。
「シュラインさんはお幾つなの?」
「今年26よ」
「あら、私も」
藍は嬉しそうに微笑んで言った。「もしあと3年若かったら、絶対無理だったと思うわ」
深く頷く藍を見て、シュラインは思わず噴出した。
「…た、確かにそうね。この年でよかったって事かしら?」
「それは、勿論」
声を上げて、思わず笑う。だが、産後の疲れて眠りに落ちた夏美をみて、お互い「しぃ…」と指先を唇に当てた。
二人は夏美の為に粥を作ろうかと言い出した。優姫が起こしたかまどは土間で相変わらず燃えている。
「そろそろ男性陣を入れてあげましょうか」
シュラインの言葉に、藍が頷いて戸を開けに行く。沖縄の古い民家独特な、土間のある作り。
「お米はどこなのかしら。野菜も見当たらないし」
── もしかして、食料は私たちが持ってきた分しかないの…?
彼女は振り返らぬまま藍に尋ねた。だが藍は。
「あら…今野クンだけ?」
戸をあけた先に、今野の姿のみ見つけて、尋ねた。「安室さんと優姫ちゃんは?」
土間を抜けた裏口には、産湯に使った桶が丁寧に洗った状態で置かれていた。
大女(うふいなぐ)! と叫びながら安室はどこかへ消えてしまった。
「お湯を捨てに行ってくれるって……戻ってこないのは今野くんと一緒に居るからだと…」
シュラインの言葉を聞き終わるか、否か。
絹を裂くような悲鳴が、3人の耳に届いた。
その時優姫は、海に続く森の小道にいた。
夜が明けた事もあって、置いてきた荷物を少しでも持ってきた方がいいだろうと思い、安室と今野に報告した後、拾いに出かけてきたのだった。
しかし荷物は荒らされていた。刃物で切り裂かれ、運んできた缶詰が道に散らばっている。
「誰がこんな事を……」
中身をぶちまけられた茶皮のバックを手に取って、優姫は呟いた。お気に入りのバックだ、食料の箱などと違って、切られていないのは幸い、などとこの状況で思ってしまうのはやっぱり彼女も女の子だからなのだろう。
しかし、その時道脇の茂みが、音を立てて掻き分けられた。
優姫がバックを盾に身構え素早く振り返った。その目に映ったのは。
彼女は知らぬことだったが、荷を荒らしていた張本人…緑と黒の仮面を被った大男…耳切り坊主であった。間は3歩もない。
「っ…」
優姫は相手の出方を伺った。襲い掛かってくるならば、十分に対処出来るはずだと思った。
ゆらり…と耳切り坊主が動いた。草を踏み分け、優姫に向かい腕を伸ばしてくる。
── はじき、飛ばそう。
そう思ったのは、伸ばされた逆の手に、短刀が握られていることに気付いたからだった。
しかし、恐ろしげな仮面に向かい、彼女がそう念じたにも関わらず。
── えっ…!?
彼女の力…念動力は発動しなかった。見えない力に抑え込まれるように、身体の中から外へ放出する事が出来なかったのだ。
大きな、浅黒い手が、グッと優姫の肩を掴む。そして短刀を持った手がゆっくりと上がる。その手に残る赤黒い染みは、泥にまみれていても疑いようが無い……血だ。
初めて優姫の心に恐怖感というものが湧き上った。
「は……離し…て…」
だが、耳切り坊主は優姫の身体に覆いかぶさるように迫ってくる。
肩に指が食い込み、気付けば彼女の喉からは悲鳴が起こっていた。
「うふいなぐー! うふいなぐが生まれたぞー!!」
安室の声が、森の中から聞こえたのはその時だった。
優姫の悲鳴を追って、森に飛び込んだ3人は、比嘉の家からさほど遠くない場所で優姫の姿を見つけた。
「優姫ちゃん! 無事やったんやね!」
今野が駆け寄る傍に、息を切らせて戻ってきた優姫の目には、怯えの色が灯っている。
「何があったの?」
尋ねたシュラインに、先程のこと、安室の声を聞いて耳切り坊主が逃げたことを手早く伝えるが、声が震えるのを抑えられなかった。今初めて、力が使えないという状況が、あれほど無防備なものなのだと知った。
「そう、耳切り坊主は逃げたの……大丈夫、もう怖い事は無いわ。一旦、戻りましょ」
震える優姫の肩を抱き、歩き出そうとしたシュラインの前に、今野が立ったのはその時だった。
「優姫ちゃん」
青い瞳と発せられた声には、怒りが含まれていた。彼は余り感情に流されるタイプではない。特にマイナスの感情には。だからこんな風に怒気を孕んだ彼を見るのは、優姫のみならず、幾度か依頼を一緒にこなした事があるシュラインも、短くはあるがこの旅で彼に慣れてきていた藍にとっても初めての事だった。
「なんで一人で行ったん」
篤旗は静かに言った。「優姫ちゃんはいつもそうや。危ない場所でも依頼でも一人で行ってまう。自分を心配する人が居るて分らん程、莫迦な子やない癖に」
優姫の悲鳴を聞いたとき、肝が冷えた。草間の依頼がどんな種類のものか、改めて気付いた。「なのになんで全部一人でやろうとするんや。僕だって皆だって、優姫ちゃんに手を差し伸べるのを嫌がる人なんて、ここには一人も居らんのに」
そんな人間は、興信所の仕事など受けないだろう。子供の命を救ったりもしないだろう。
「僕は、いつだって優姫ちゃんの事守りたいて、思っとるのに!」
けれど、今野が本当に彼女へ伝えたいのは。
手を伸ばし、彼女を抱きしめ守りたいと思っていると言う事だけではなく。
差し出した手を、どうか握り返して来て欲しいと言う事。
静かな沈黙が流れた。
「……今はこの辺にして、戻ろうよ。少なくとも今回は何事も無く無事だったんだし、ね?」
今回に限る事を言っているのではない、と藍にも分ってはいたが、そう言うしかなかった。
「……だったら」
優姫が小さな声と共に、いつの間にか俯いていた顔を上げ、漆黒の瞳で今野を見上げた。「だったら私は、拒めばよかった。一緒に来ては駄目と言えば、よかった」
その時だった。
遠くから、微かに火のついたような赤子の鳴き声が聞こえてきたのは。
比嘉夏美の家に再び駆け戻った4人が見たものは。
産後の夏美の前で、揉み合い殴りあう二つの影だった。安室と…そして。
「あれが…耳切り坊主!?」
仮面の大男が安室の上に圧し掛かる。大きく振り上た右手の中で、短刀が鈍く光る。
「あー! あぁああー!」
夏美の喉から、悲鳴らしきものが聞こえ、彼女の腕の中に守られた生まれたばかりの赤子も、負けず劣らずの音量で泣き喚いている。
「殺してください! こいつを殺してください! 早く!!」
短刀を持った腕を、力いっぱい押しとどめながら安室が悲鳴を上げる。
殺せ、という言葉は生々しかった。
最初に家に駆け込んだ今野は、掌の上に一気に力を込めた。
── 燃やすか、凍らせるか!?
一瞬、迷った。彼の能力は、温度を操る力。
次には優姫やシュライン、藍も戦闘態勢に入る。
「縛符!」
藍の手から耳切り坊主の仮面めがけて符が飛んだ。しかし「…符が、効かない!?」
いくら藍が本職の霊能者ではないにしろ、仮面に張り付き、相手の身体を捕縛するはずの符が全く役にも立たないなどというのは、初めてだ。
「もしかしたら、特殊能力が効かないの?」
シュラインの額に汗が浮かぶ。隙を見て夏美と赤子だけでも助けようと言うのか、壁伝いにじわじわと移動をし始めている。
「そんなはずあらへん!」
今野は腕を前方、丁度安室と同じ体格をした耳切り坊主の太い胴を狙い、突き出した。とその掌から、極限まで集中させた冷気が迸る。
「はぁっ!!」
『グ…ハッ』
命中した冷気の塊は、耳切り坊主の身体を安室の上から弾き飛ばした。
「やった!」
藍が叫ぶ。
「次行くで!」
「はい!」
阿吽の呼吸で優姫の念動力が発動する。効くか効かないかはその後の話だ。
起き上がろうとしていた耳切り坊主に、念が真っ向から向けられた…その時。
『アアァアアア!!』
耳切り坊主が突進してきた。藍は咄嗟にシュラインの居る壁際に飛ぶ。履いて来たサンダルの紐が切れて、転倒する。
今野は優姫の肩を掴んで、逆方向に倒れこんだ。次の瞬間。
「逃げたわ!」
シュラインの言葉通り、4人の間を割って、耳切り坊主は戸板を破り逃げていた。
「……何があったのかを、話してくれないかしら、夏美さん」
夏美と赤子が横たわった布団の周りには、4人と安室の姿があった。
彼女たちを放って家を空けたのは、失敗だったと今なら分る。
今彼女は、真っ青な顔をして、ただ幼子を抱きしめるばかり。
「夏美に聞いても無駄です」
安室が言った。彼は、目の前で興信所の4人の能力を見て、先程までは浮かれているようにすら見えたが、今は、顔を引き締めている。「彼女は声が出せないのです」
ビクリ、と布団の下の夏美が震えた。
「声が……?」
優姫は思い出した。先程聞こえたのは、赤ん坊の泣き声だけ。助けを求めてもいいはずの母親の叫びは、無かった。あんなに泣いて、大丈夫だったのだろうか、と子供の顔を見る。
── あら…? あれは…。
子供の首に、泥で描いたような筋が、残っていた。まるで……そう、首を絞めた跡ような。
彼女の他には、まだ誰もその事に気付いていないようだ。
「俺が戻ったら、あいつが赤ん坊を攫おうとしていた、そうだよな?」
安室が、夏美に尋ねる。しかしそれは妙に強く押し付けるような言い方だった。
青い顔をしたまま、ゆっくりと頷く夏美。
安室は、一同の顔を見渡した。その目は、だがどこを見ているのか分らない風に視点が定まっていなかった。
「先程は俺が取り乱してしまい、申し訳なかった。ですがまだ気持ちが落ち着きません。それに今は彼女を休ませてやりたから……お部屋をご用意します。夕べからどなたも寝てらっしゃらないですし……今はここまでにしてください」
安室が奥へ引っ込んだ後、草間興信所の面々は、何か腑に落ちない気持ちを抱えたまま、先程の荷物を拾いに行った。優姫が言ったとおり、荷はズタズタに裂かれ、中身は殆ど無かった。
ただ、幸いな事に個人の荷物…今野のスポーツバック、シュラインの大バック、優姫の茶皮のバック、藍のスーツケースと白く長い手荷物も、裂かれる事無く無事だったのだが……。
「……無いわ」
整えられた部屋で中身を確認していたシュラインが、呟くように言った。
「何か盗られたの?」
藍が心配そうに尋ねると、シュラインは答えた。
「事件のあらましを書いたメモと……ペンが」
部屋を訪ねて来た今野へ確認しても、4人の荷物の中で盗られたのは、それだけだった。
シュラインは、藍、優姫、今野を前にして、ポツリと何気なく呟いた。
「あとね、草間さんのメモを思い出して。さっきの耳切り坊主は右利きだった……。変じゃないかしら。左利きならこうして圧し掛かって、右手で左耳を引っぱって…こう……削げるけど…」
宙で描かれたシュラインの優雅だが物騒な手つきに、皆は思わず息を呑んだ。
身体と心は、睡眠と食事を求めている。
孤島の闇は深く、流れる時間は遅く、先はまだまだ長い。
<後編に続く>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0086/シュライン・エマ /女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0495/砂山・優姫(サヤマ・ユウキ) /女/17/高校生】
【0835/須賀原・藍(スガハラ・アイ) /女/26/クラス司書教諭】
【0527/今野・篤旗(イマノ・アツキ) /男/18/大学生】
※申し込み順に並べさせていただきました。
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■ ライター通信 ■
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シュラインさん、砂山さん、今野さん。いつも依頼に参加してくださって本当に有難う御座います。そして須賀原さん、初めまして。選んでくださって有難う御座います、ライターの蒼太と申します。前後編推理戦闘シナリオというとても手を出しにくい依頼に、来てくださる方がいたというだけで感涙ものです。
前編謎解きは、お陰様で成功です。
1.耳切り坊主は、耳を「切られた」人間だと気付く。
2.島に残された人間について興味を持つ。
3.耳切り坊主がなぜ安室仁史を襲うのかを、知りたいと思う。
という3つのプレイングが出来ていれば、全くOKでした。
番外で、歌に振り回されすぎない。というのもありましたが、更に深く考えてらっしゃった方も居り、思ったより先に進めることが出来ました。多少沖縄観光もしていただいたつもりですが、いかがでしたでしょうか。
さて、しかし、予告通りまだ完結しておりませんので、嬉しい気持ちをぐっと堪えて後編に繋がるヒントを残すのみとしたいと思います。
・耳成島という名について。
香具山は 畝火雄々しと 耳成と 相争ひき 神代より
かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
これは後編に出てくる歌です。まつわる伝説を調べると、依頼の真相についてのイメージが沸くかもしれません。
・個別部分にヒントはありません。PCさん達が何をどう考えて行動しているか、という参考にしてみてください。
・北谷王子の子孫である二人には、攻撃系特殊能力がある筈ですが…?
・沖縄本島や東京草間興信所と連絡を取りたいと思いついたら、タクシードライバー金城に予め言付けていたと言う事にすると良いでしょう。(その必要は無いかも知れませんが)
前編で「耳切り坊主」の正体はほぼ明らかになりました。
彼がなぜそこに至ったかの訳を知り、彼の気持ちを探り、どう解決していくかが後編のテーマです。
PCさん達が依頼の中で何を考え、どう成長していくか、何を想うか。楽しみにしています。
では、上手く依頼完了し無事に興信所へ戻れることを願って、一緒にがんばって行きましょう。
後編もどうぞ宜しくお願いいたします。 では、また。 蒼太より
※後編窓口は11月25日(月)午後11時にOPENする予定です。
最大のヒントです。 家系図を良く見てください。
誰か一人の○○を入れ替えるだけで、解決します。
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