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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


しあわせのおくりもの
++ 問いかける声 ++
 月刊アトラス編集部。
 超常現象などを中心にすえた雑誌である。そういった雑誌にありがちなことではあるが、毎月さまざまな品物の広告が掲載される。

『幸せを呼ぶペンダント』
『金運を招く石』

 などその種類はさまざまだ。ある日そんな品物について困りきった人物が月刊アトラス編集部を訪れてきたのが始まりだった。
「困っている、とは言いがたいんですけれど……」
 商社のOLをしている、という女――狩野千尋は先月発売された月刊アトラスの、とあるページを開いて指し示す。すると麗香はテーブルの上に広げられたそのページに視線を落とした。
「『これを身に着けることで、あなたにはさまざまな幸運が訪れることでしょう。三ヶ月着用しても効果がなかったときには返品を受け付けるので安心です?』……もしかして買ったの?」
「はい。それで、実際にこれを身に着けてから本当にいろいろなことがあったんです。商店街の抽選で温泉旅行があたったり、雑誌のプレゼントに当選したり……あとお財布を拾って、持ち主の方から謝礼をもらった、というのもありますし……今勤めている会社よりも条件のいい別の会社から、『ウチに来ないか』というお誘いも……細かなことをあげればキリがないくらいについているんです。それは問題ないんですけれど、不思議なこともあって」
「それだけ幸せなら、何も問題ない気もするけれど?」
「それが、毎日夢を見るんです」


 そのペンダントは、銀色のプレートに文字のようなデザインが刻まれたもので、隅にあいた穴にチェーンが通されているというシンプルなデザインのものだ。
 千尋がそれを身に着けたときから、さまざまな幸運をが舞い込んだ。だが、それから毎日夢を見るようになったのだという。
「夢の中で、声がするんです。『ねえ、幸せ? 今幸せ?』――そんなふうに毎日毎日、夢の中で問いかけられるんです。まだ、一度もその声に答えたことはないんですが……」
「毎日じゃあ、偶然じゃあすまされませんねぇ……」
 ぽそりと、小声で三下が口を挟むと麗香がぎろりと睨みつける。すると三下はすごすごと自分のデスクへと戻っていく――どうやら、担当分の原稿を書き終えていないらしい。
「夢の中だけなら、まだ良かったんですが……とうとう起きているときまで……」
「それは、確かに変な話ね……」
 詳しく麗香が状況を尋ね、返って来た答えは次のようなものだった。
 一人で暮らしているマンションの一室でくつろいでいると、窓ガラスをとんとんと叩く音がするのだという。
 千鶴の部屋は三階だ。その窓はテラス側の窓ではないために、人がそこを叩くなど不可能だろう。だが、気になって窓を開けてみると小さく声がするのだという。


『ねえ、幸せ? 今幸せ?』


 声がするだけで、害はない。むしろこのペンダントのおかげで次々と幸運が舞いこんでいる。だが、だからこそ怖いのだという。
「ペンダントのせいなのか偶然なのか分かりません。けれど、幸運が次々と舞い込んでいるこの時に、『幸せ?』と問いかけられるというのがどこか不気味で……ペンダントの発売元に連絡を取ってみようと思ったのですけれど、二週間ほど前に倒産してしまったらしくて連絡がつかないんです……なので、ご迷惑とは思ったのですが、広告を掲載していたこちらの雑誌の編集部に相談してみようかと……」


 これは、と麗香は思う。詳しく調べれば、雑誌のネタに使えるかもしれない。
 麗香は幾つかの名前を脳裏に思い浮かべる。こういった類の調査に慣れているであろう人々の名前を――。


++ 再会への道 ++
 狩野千尋がプレートを購入した会社は既に倒産していたが、その会社が入っていたフロアは今だ借り手がついていない状況であるらしい。何か手がかりになるものを残しているとは考えずらい上に、千尋を苦しめている声があの会社そのものと直接的に関係があるのかという疑問もあったが、崗・鞠(おか・まり)はその会社に向かおうとしていた。
 麗香から問題の会社の住所を聞いてあったという村上・涼(むらかみ・りょう)に案内されるような形で、鞠と彼女の守護獣である橘神・剣豪(きしん・けんごう)は下町と開発途中の駅前との雰囲気が同居する景色の中を歩いていた。
 前を歩く涼の背中を見ながら、鞠は思う。
 ここに向かおうと決めた時、麗香に住所を聞いておくことすら鞠は考えてはいなかった。
 鞠は頭の回転は速いほうであるが、それでもこの普通の人々が生きる世界での経験が圧倒的に不足していた。動物や植物と会話することができるという特殊能力ゆえに、長きに渡り幽閉されていたのが、彼女の経験の無さの原因であろう。
 そして、その経験不足ゆえに時々このようなことが起こる。
 たとえば涼にとっては当たり前である、『現場に向かう前に住所を確認する』という作業を前もって思いつかない、といったことだ。
 昔は、こういった他人と自分の差を感じることで孤独感を募らせていた。
 だが今は違う。
 自分にできないこともあるだろう。だが、自分にしかできないこともある。
 自分の欠点を誰かに補ってもらったならば、いつか誰かの欠点を補えばいいのだ。そうやって周囲の人々との交流を深めていくことは、自分にとっても剣豪にとってもきっとプラスになると、今ならば割り切って考えることができる。
「このビルの二階のフロアよ」
 灰色のビルは入り口が狭いせいか、閉鎖的な印象を見るものに与えた。申し訳程度に、入り口の両脇には鉢植えが置かれているが、それも既に枯れ始めている。
 鞠は入り口を入ってすぐ右側の壁にかかっていたプレートをじっと見つめた。そこにはこのビルに入っている会社名が書かれている。二階部分には薄く会社名が書かれていたようだが、今はその上に黒のマジックで二重線が引かれていた。
「なあなあ、上がってみよーぜ上に」
 奥に見えた階段に、剣豪がわくわくと好奇心に目を輝かせた。
 涼と鞠が顔を見合わせ、奥に向かって歩き出す――すると入り口から入ってすぐのところに、上部がガラスで覆われた警備員室のようなものがあり、一人の警備員らしき男が暢気な様子で顔を覗かせた。
「中に御用ですか?」
「はい。四階に」
 ビルの一階と二階が空いているのは、先ほどのプレートで確認済みである。鞠は警備員に対し淀みなくそう答えた。
「そうですか――しかし、犬を中に連れて入るのはちょっと困るんで、表に繋いでおいてもらえませんでしょうか」
 鞠が自分の腕の中の剣豪に視線を落とす。
 そして、涼も笑いたい気持ちをこらえながら剣豪をじっと見つめた。
 剣豪は何か言いたげな顔をしていたが、今の彼の姿は犬のそれである。この状態で人の言葉を話したところで、警備員を混乱させるだけであろう。
 しばしの沈黙の末に、鞠は頷いた。
「分かりました。表に置いていきます」
 鞠の返事に、剣豪はいささかショックを隠しきれないようだった。


 笑いをこらえていた涼は、ビルの入り口へと戻るなり爆笑して鞠を驚かせた。
 その場で腹を押さえ、体をくの字に曲げながら苦しそうな様子で笑い続けている。
「そーよ。ナチュラルに話していたけど犬なのよね犬。犬はおとなしくココで待ってなさい」
「な……なんだとう! オレのドコがいけないってんだよ!」
 鞠の腕の中から涼に反論する剣豪。だがそれに対する涼は勝ち誇ったような口調で言い切った。
「犬だからよ。決まってるじゃない」
 鞠が剣豪をそっとアスファルトの上に降ろす。すると剣豪は道端で座り込み、悔しげな顔で涼を見上げた。
「……お、オレのどこが……犬だって」
「その姿でよく言えたモンね。どっからどーみて犬じゃない。完全無欠に」
「く……」
 事実だけに反論もできず、剣豪が押し黙る。鞠はそんな様子をじっと見守っているだけで口を挟もうとはしなかった。
「いい子でココで待ってられたら美味しいドックフードの一つも買ってあげるから、大人しく待ってることね」
 挑発するつもりだった涼の言葉に、剣豪はぴくりと耳を立てた。
「本当だな! 絶対買ってくれるんだな!! 約束だぞ!」
「……からかわれてるとか馬鹿にされてるとは思わんのか……キミは」


++ 幸運を呼ぶもの ++
 販売会社があった場所はもぬけのからだった。
 その後二階のフロアに向かった涼と鞠に、シュライン・エマ(しゅらいん・えま)が追いついてきた。どうやらビルの入り口で剣豪とやりとりがあったらしく、彼女は涼の顔を見るなり、こらえきれない笑いを漏らす。だがそれも僅かの間のことで、すぐに彼女はこのビルについて、そしてペンダントを販売していた会社についての調査を開始した。
 四階建てのビルの、二階のフロアはその会社が借りきっていたものらしい。ポストの中にはダイレクトメールの類がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。その中身を引っ張り出したシュラインが最後のものの消印を確認した。
「狩野さんのもとにプレートが送られた直後に潰れたのね」
 フロアの隅には、ここで使われていたらしいデスクが積み上げられていた。残っているものといえばこのデスクと、ところどころに散らばっている紙くずだけだった。その一枚を拾い上げた涼はつらつらと紙片に書かれた文章に視線を走らせた後に、再びくしゃくしゃと丸めるとてい、と窓ガラスに向けて投げつけた。
 やつあたりにも似た涼の行動にシュラインと鞠は顔を見合わせ肩をすくめる。
 そして、次に鞠が目をとめたのは、積みあがっているものとは別にぽつんとフロアの隅に放置されているデスクだった。その上には、小さな銀色のプレートが光っている。おそらくこれは千尋が購入したという品物と同じものなのだろう。
「会社の規模はとても小さなものだったそうよ――代表者と思われる男と電話番の女性が数名ほど。扱っていた品物は今回問題になっているプレートと似たような、『願いを叶える』とかいうものが多かったようね――けれど勤めていた女性から聞いたところでは、それで願いが叶ったなんてことは聞いたことがない、ですって」
 シュラインが独自に調べてきた内容を話しているのを聞きながら、鞠はデスクの上のプレートを握り締める。
「ペンダントに刻まれていた模様には何か意味があるのでしょうか?」
「意味はあるかもしれないけど、売っているほうもその意味を知らないってパターンじゃないの? そもそもペンダントのおかげで願いが叶ったとかいってる根性が既に気に入らないのよ。自分の力よ自分の。何事もね!」
 涼はガラス窓にぶつかって跳ね返ってきた紙くずを、今度は蹴りつけた。
「…………」
「……な、なによその目は……」
 シュラインが何か言いたげな顔をしているのに気づき、何故かいたたまれないものを感じた涼が問いかける。
「ちょっとだけ、悲しくなったりしなかった。今?」
「……な、なななななんで私がここで悲しくなるのよ」
 思い当たるふしでもあるのか、しどろもどろになる涼を首を傾げて見ていた鞠に、そっとシュラインが耳打ちした。
「まだ就職内定取れないんですって。初めて会ったときからずっと就職活動しているみたいなんだけれど彼女――たぶん、私の予想だと面接官に暴言吐いたりしちゃっているんだと思うけれど……自分をごまかせないし、彼女は」
「そこ! そこ! 親切丁寧に説明してやらなくっていいし!」
 びしりとシュラインに人差し指をつきつけるものの、状況は涼にとって圧倒的に不利だ。
 涼を慰めるためにはどんな言葉を発したらいいだろうか――しばし考えた末に鞠はそれを放棄した。おそらく涼もまた慰めなどを欲してはいまい。
「プレートのおかげで幸せになったとしても、その幸福に縋ってしまうのは不幸であると思っていたのですが……精神的に追い込まれている人というのは、それでもやはり、こういったものを欲するのかもしれませんね」
「……ちょっと待って。なんで私のほうを見て言うのかなソレを」
 ゆらり、と振り返った涼は不自然なまでにすがすがしい笑顔だ。
 だが鞠は動じなかった。
「たまたま思いついただけなので、気になさらないでください」
「いえだからなんでそれを今思いついたのかが気になるんだけど……」
 ねえ私ってそんなに追い詰められているように見える、と問いかけながら涼がぐるりとシュラインの方へと振り返った。
「んー、答えは保留でいいかしら?」
「それってつまりそう見えるってことじゃない! うわもう周り敵ばっかりもしかして!?」


++ しあわせのおくりもの ++
「これが幸せのぺんだんとってヤツなのか? へーえ」
 狩野千尋が購入したプレートの匂いをかいでいる剣豪をよそに、シュラインは窓を開けて外へと顔を出している。
「どう?」
 その背後から問いかける涼に、シュラインは首を横に振って見せた。
「ダメね。人が隠れていられるようなところはないし――誰かのイタズラっていう線はこれで消えたわね」
 その後からひょいと涼も外に顔を出してみる。確かに人が長時間隠れていられるような場所はない。足がかりになるものといえば、せいぜいエアコンの室外機くらいなものだが、その上に留まっていたとしてそれが目に入らない筈がない。
 千尋のペンダントをしげしげと眺めていた鞠がそれを手に取った。
「立ち入った質問かと思いますが、千尋さんは何故このペンダントを購入されたのですか?」
 揺ぎ無い眼差しに、千尋は言葉につまる。
 だが鞠の視線は、じっと千尋に注がれたままだった。神秘的ですらある黒い瞳に、千尋は射抜かれたようにして動けずにいる。
「何故って、幸せになりたいと思うのは、当たり前のことではないでしょうか?」
「では、千尋さんはいま幸福ですか?」
「……え……」
 鞠からの思わぬ問いかけに、千尋が黙り込んだ。その手にはしっかりとプレートが握りこまれている。
 プレートの匂いから新たな発見があるかと匂いをかいでいた剣豪は、対象であるそれを取り上げられてしまったために前足を揃えて、ちょこんとその上に自分の顔を乗せる。いじけたようにも見える動物特有の愛らしい仕草に、シュラインは吹き出しそうになるのを懸命にこらえていた。
 鞠の問いに答えを返すことができずにいる千尋に向かって、剣豪がふいと立ち上がり、正座している千尋の膝の上に両足を置いて、千尋の顔を間近でじっと見つめる。
「あのさ、美味いドックフードって、不味いヤツ食ってるから美味いって判るんだよな。で、ソレずっと食ってたら不味いやつ食いたくなくなって、もっと美味いの食いたくなんの」
 じっと、剣豪の話に耳を傾ける千尋とは裏腹に、涼はシュラインに耳打ちする。
「……あれって私に対する嫌味かしらね」
 剣豪と約束の末に、ドックフードを買ってやったがその味が不味かったと剣豪がふてくされた件を思い出したのだろう。
 涼の小さな囁きには構わずに、剣豪はさらに言葉を続ける。
「美味いのが美味いとわかるから、俺はソレ時々でいいけど。でもお前は美味いもの食いすぎて、今自分が幸せかどうか分からなくなってるんじゃないのか? 亡くすのが怖いんだろ? だから幸せかどうかって聞いてくる声に答えられないんだ。本当は何てことないのに、怖く思えているだけってことないのか――ゼータクだな、お前。でもさっきのドックフードはマズかったぞ」
 くるり、と顔だけをこちらに向けた剣豪の言葉の最後の部分は、明らかに涼へと向けられていた。
「文句あんなら自分で買え!」
「お前美味いの買ってくれるっていっただろ!」
「ドックフードの味なんて分かるはずないでしょーが私にっ!」
 犬と人間が怒鳴りあう様というのはなかなかにシュールな光景ではある。
 しかも両者ともに遠慮している様子はない。つまり互いに本気であり、一歩たりとも譲る気配が感じられない。
「止められない?」
「無理だと思いますが、一応やってみますか?」
 表情にこそ出さないが、鞠は困っているようだった。剣豪の世界は明らかに広がりつつある。そしてそれに引きずられるようにして鞠自身の世界も。
 だが、不快ではなかった。
 こうしてさまざまな事件に接し、それを解決する上でさまざまな人に出会うということは、鞠にとっても剣豪にとっても必要なことなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、鞠が首を傾げる。
 この世界は、どこまで続くのだろうか、と。
「こういうのはどうかしら?」
 シュラインは涼と剣豪の口論には口出しをすることはなかった。
 人差し指と中指で、自分の顎のあたりを撫でながらシュラインがまるで、様子を伺うようにすぐ隣にいた千尋に視線を走らせた。
「声の主が何者かどうかを、聞いてみればいいわ」
「けれど、答えてくれると思いますか?」
「答えるわ――声の主は千尋さんが幸せであるかどうかを確認したいのでしょう? ならば、『声の主が何者かわかれば、幸せになれるかもしれない』と聞いてみればいいのよ」
 手探りの状態が続いていた。
「答えがどんなものであれ、前進することはできるわ。相手の考えさえ分かれば、あとはどうとでも対応できるものよ」
 小首をかしげたシュラインは、まるで千尋にどうするのかと問いかけているかのようだった。


『幸せ?』


 怒鳴りあっていた涼と剣豪がぴたりと押し黙った。
 そう――それは明らかに、その場にはいない『何か』の言葉であり問いかけ。
 千尋は、問いかけに対し明らかに答えることを躊躇していた。
「怖いの?」
 鞠に駆け寄る剣豪の姿を視界の隅に捉えながら、涼が尋ねる。すると大きく見開かれた千尋の目が、すがるように涼へと向けられる。
「怖いの? 降って沸いた幸運が、答えることで消えそうで? でも所詮元々なかったものでしょ? ねえ、そもそもキミ本当に不幸だったの? そうじゃないでしょ。誰だって、そこそこは幸福でそこそこは不幸なのよ。結局気の持ちようじゃないの?」
「…………」
「毎日の中で、ソレを見出せることが出来たか出来ないかの、ただそれだけの差なんじゃないの本当は? 本当にそれすらなかったの?」
 畳み掛けるような涼の言葉に、千尋は無言で考える。
 不思議と、あれだけ彼女を苦しめ続けた見えない何者かの問いかけは、気にはならなかった。常にたった一人でそれと対峙していた頃とは違い、今は剣豪たちが側にいてくれている。
 千尋は押し黙り、膝の上で拳を握り締めていた。
 幸福は、あっただろうか?
 目を向けることさえできれば、それは日常の中に確かに『在る』のだと涼は言う。ならば自分にもそれはある筈。それを見るべき目がなかっただけならば。
 そう、確かに幸福はあったのだ。ひどくささやかで、与えられたと信じた幸福の前にはかすんでしまいそうなものであっても、その時に感じた温かな気持ちには嘘はなかった筈なのだ。
 例えば、乗り遅れそうだったバスがわざわざ停車して自分を待ってくれた――そんな小さなものであっても。幸福であると思える出来事は、プレートを手に入れる前にもあったはずなのだ。
 そして千尋は口を開く。緊張からか、口の中がからからに渇いているのが自分でも分かった。シュラインはそんな彼女を安心させるようにして頷いて見せる。


「あなたの――この声の正体が分かれば、きっと、幸せになれる気がします――」


 沈黙の中で、皆の視線は千尋のプレートに注がれていた。
 やがて、重苦しいほどの静けさの中で、そのプレートが光に包まれる。やわらかな光に。
『ただ、幸せになってほしいという意志のみ――』
 与えられた言葉はそれだけ。
 首を傾げるシュラインと涼の間で、鞠だけには分かった。常に動物や植物と語らい続けた彼女であるからこそ、その意志を正確に汲み取ることができたのだろう。
「実体すらなく、人を幸福にしたいという意思だけの存在であるということですか? けれどその先に何があるのです。人の願いをかなえたその先に、何を求めているのですか?」
 それが、鞠の心配している点だった。
 古来より、人の願いを叶えるという怪異は多く語り継がれている。だが、願いと引き換えに何らかの代償を求めるもまた珍しくはない。
 淡い光に包まれ、ふわふわと宙に浮いているプレートに興味を引かれた剣豪が、ちょいちょいとそれに触れようとするが、プレートはするりとその手をかわした。
『人の意志の積み重ね――同じ方向を向いていたそれらが、私を作った。幸せを望む気持ちは誰にでもある。ならば、それを叶えるモノが必要だ。人を幸福にして、そして感謝されることのみを私は望む』
「生まれて間もないのね。だからやり方に融通が利かないんだわ」
 シュラインの口調には、呆れたような響きが含まれていた。とりあえずこの『意志』が、千尋に害を与えようとしているモノでないことだけは分かった。理解できたのならば、次は対策を立てる必要がある。
「つまり、このプレートを購入しようとした人たちの『幸せになりたい』って意志から生まれたってコト?」
 首を傾げながら問いかける涼に、鞠が頷いてみせた。
「幸福かと問いかけたのは、ただ純粋に確認がしたかったのでしょう。幸福になって、感謝されることをアレが望んでいたのであれば、それしか理由はありませんから」
「純粋で、不器用すぎるのね――けれど、それなら狩野さんの悩みを解決するのは簡単だわ」
 シュラインが言うと、千尋は宙に浮いたそれをぎゅっと握り締めた。
 手段こそ不器用ではあるが、その『意志』は純粋に千尋の幸福を願っていた。その事実が、千尋には嬉しかった。
 誰かが自分の幸福を心から願っているならば、既にそれは幸福であると思う。
 自分はここまで純粋にはなれないけれど――。


「幸せです、私は」


 千尋の手の中で、プレートがひときわまばゆい光を放つ。
 部屋の中が光で満たされていく中で、再び千尋が言った。


「幸せです、私は――あなたは私の幸福を心から願ってくれた。ねえ、そんなふうに思ってくれる人と、なかなか出会うことはきっとできない。だから、あなたと会うことのできた私は、そしてそれを悟ることができた私は、きっと幸福なんです」


 そっと、千尋が両手を開く。
 プレートを包む光が、一瞬大きく膨れ上がったかに見えた。まばゆい閃光に皆が一瞬目を閉じる中で、それは窓ガラスをすり抜け、そして夜空高くに消えていく。そう――まるで流れ星のように。
 暗い空を流れていく星を見上げていた剣豪が、ぽつりと呟いた。
「なあ、流れ星って願いを叶えてくれるんだよな?」
「どんな願いを叶えたいんですか?」
 優しく剣豪を見下ろす鞠の姿を見つめながら、シュラインは思う。
 幸福は、どこにでもあるのだと。
 ただ、その存在に気づきさえすれば、どこにでも――。


++ 日々の中で ++
「だからこないだ買ってやったでしょーがっ!!」
「美味いの買ってくれるって話だっただろ。あれはマズかったからナシだナシ!!」
 相変わらずぎゃいぎゃいと言い争いをしている涼と剣豪。
 これが昼間ならば、犬の姿をしている剣豪が人の言葉を話しているのを見られるのに問題があるために、多少なりとも声を潜めるくらいの配慮はあっただろう。だが、幸か不幸か時間は夜であり、駅前ですらもしんと静まり返っている深夜である。
 二人のやりとりに、くすくすと笑いを漏らしているシュラインの隣には鞠の姿があった。
「あのプレートは、どこに消えたのでしょうか?」
 あの後、千尋の部屋のどこを探してもプレートは発見されなかった。
 流れ星になったんだ、などという剣豪の発言はともかくとして、その後千尋が幸せかと問いかける声に悩まされることがなくなったのは事実である。
 シュラインは夜空を見上げた。
「あれが、今でも『人を幸福にしたい』と思っているなら、またどこかで誰かを幸福にしようとしているのかもしれないわね。ただし、次はもう少し器用になっていると思うけれど」
「――そうですね。もう、同じことは繰り返さないのではと、私も思います」
 シュラインの言葉に鞠も同意を示す。
 プレートがあくまで人を幸福にすることを望んでいたならば、問いかけたその声によって千尋を怖がらせてしまったことは不本意であったはずだ。
 次は、もっとささやかに。
 誰かを幸福にし、そしていつの間にか消えてしまっているような――そんな手段を取っているに違いない。
 夜道を歩きながら、シュラインと鞠が視線を交し合う。
 その数歩先では、相変わらず涼と剣豪が言い争いをしていた。
「だから、美味いとか不味いとか言われたってわかんないわよそんなのはっ」
「分からないクセに、『美味いの買ってくれる』っていったのか。嘘つきだなお前」
「なんですってぇ!」
 そんな二人の後姿を見つめていたシュラインが夜空を見上げる。それにつられるようにして鞠もまた視線を上げた。
 そこにはもう、あの時の流れ星は見えない。


 幸福を願う気持ちは誰にも止められはしないだろう。
 けれど、と鞠は思う。
 誰しもが、幸福になれる資質をその内に秘めているに違いないのだと。



―End―



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0381 / 村上・涼 / 女 / 22 / 学生】
【0625 / 橘神・剣豪 / 男 / 25 / 守護獣】
【0446 / 崗・鞠 / 女 / 16 / 無職】


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■         ライター通信          ■
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 いつもありがとうございます。久我忍です。
 幸せとかいうとかなり広範囲なので、『これ!』ってあまり断言できないのではないかと思うのですが、お金があれば幸せかというとそれも違うと思うし、かといってなさすぎるのも困るんじゃないかなーと思ったりします。
 けれどコタツの中でぬくぬくでうたた寝とかしていたりとかすると、幸せだなーと思ってしまう自分は案外簡単な人間なのかもしれません。