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闘犬『獅子丸』
喩えるなら猫。しなやかな躰。
切れ長の瞳はハッキリと、何事にも動じない気を宿す。女らしい顎のラインに、一つまとめの黒髪を肩に垂らし、美女──シュライン・エマはいつものごとく、事務所の扉に手をかけた。
■闘犬『獅子丸』
ガチャリ。
「……な、何事なの?」
戸を開けて目に飛び込んだのは、机にガックリと手を突く草間の姿だった。その顔には、何枚もの紙がベッタリ貼りついている。ガックリな上にベッタリで、ガックリベッタリだった。
そのガックリベッタリの顔が上がった。
「丁度良かった。シュラインか……」
草間は中へ入るよう、白い手で手招きした。何故、白いのか。紙が巻き付いているからだ。紙ってコピー用紙だ。
草間は戦ったのだ。剥がそうとしたり、破こうとしたり。そしてこうなった。両手が全面的に使用禁止になっていた。
シュラインは呆れた微笑を浮かべ、足を踏み入れた。ペタ。ん?
一歩、踏み出すとシュラインの後頭部に、それが貼り付いた。引っ張るが、しかし結構しっかりくっついている。無理に剥がすと、ビリッと破れて二枚になった。
草間が呟いた。
「破くと増えるから、気をつけろ」
遅かった。破片がシュラインの指に絡みついた。親指と人差し指が早速、使用禁止になった。
「これ……何なの? 武彦さん」
「犬だ。闘犬が乗り移っている。それが五百枚、事務所中に散らばった」
「はぁ、犬……」
と、言われても。コピー用紙に何故……。呆気にとられているシュラインに、草間が声をかけた。少し疲れている。
「ちょっと頼みがあるんだが」
「何かしら」
「ココを刳り抜いてくれないか?」
封印された手が、目と口辺りに触れた。器用な仕事の、まるで不向きな手。その時、紙が一斉に唸りだした。シュラインは、自らの指と草間の顔を見比べる。
──私もああなるのかしら。
無難な答えを選んだ。
「でも、増えるんでしょ?」
唸り声が止んだ。草間はシュラインの肩に手を乗せた。つもりでスカッと宙を掻いた。見えていないから、空振りしたのだ。フゴーフゴー、と息する紙が上下する。草間は無言の抗議を開始した。
「わ、分かったわ。刳り抜けばいいのね?」
言われた通りに刳り抜くと、そこに三つの欠片が誕生した。誕生したそれは、シュラインの眉毛二カ所と上唇の上に貼り付いた。鏡をソッと覗いてみる。麻呂で白ヒゲ。そんな感じだ。
草間の目が、少しだけ笑ったように見えた。
「武彦さん?」
「……すまん」
眼鏡を上げる仕草。だが、紙の上を丸い手が滑る。草間はもどかしげに舌打ちした。
「何とかしなくちゃいけないわね。相手が犬なら、毅然とした態度で接しないと。群の動物だから、ちゃんとどちらが上かを分らせるのは大事だもの。曖昧だと、犬のストレスにもなるんだし」
「それはそうだが……。この散らばった紙共を、どうやって集めるんだ?」
「五百枚か……とりあえず呼び寄せてみましょ。犬笛の音を出してみるわ」
シュラインは大きく息を吸い込んだ。華やかな薄い唇をつぼめ、人の耳が感知出来ない音域の笛の音を、断続的に繰り返す。
ザワ──。
「何か……嫌な予感がするな」
「ええ、何となくね」
でも、もう遅いかも。シュラインの言葉が口から零れる前に、書類の間から、棚の中から、ソファーの下から、一斉にコピー用紙が飛び出した。激しい回転をしながら、ブーメランのような勢いで滑空する。
「危ない!」
草間の腕がシュラインの身を引き寄せた。紙ブーメランはシュラインのいた場所を通り越し、急旋回して二人の足下に滑り込んできた。何枚も同じように滑り込んできた。滑り込んできた。滑り込んでくる。どうなるか。足をすくわれて二人して転んだ。
「キャ!」
「イテッ!」
紙はスッ転んで倒れた二人の下に、次々と滑り込んでくる。仰向けに転んだ草間は、肘をついて上体を起こした。その下にも紙はスライディングをかけてきた。
危ない! と思う間もなく、シュラインの前で草間は後頭部から激しくズッコけた。流れる沈黙。虚しくも紙の滑り込む音だけが、事務所内に響き渡る。シュラインの手が何か言いたげな、微妙な位置で止まっていた。キラリ。草間の眼鏡が怪しく光った。草間はちょっぴり怒っていた。
「こ、この! いっそ、燃やしてやる!」
ライター! 草間はライターを取り出した! しかし、火をつけるのは不可能だった。指先が紙に格納されている。シュラインの手が草間の肩に乗った。
「……武彦さん。落ち着いて。事務所を『火の海』にしたいの?」
ダメージ大。草間は悔しげな唸り声をあげて、肩を落とした。為す術もなく、紙が下に滑り込み終わるのを二人は待つ。
シュパーン。シュパーン。
と、集まってくる紙々。同じ“紙々“なら“神々“の方が良かったとか良くなかったとか、二人は思ったとか思わなかったとか。
やがて紙の滑り込みは終わった。草間は安堵の声を漏らす。
「今更だが、改めて君の“それ”を見直したよ」
自在に操る事の出来る声帯。
何言ってるの、というようにシュラインはフフと笑って起きあがった。と、思ったら転んだ。最後の一枚が、絶妙なタイミングで滑り込んできた。草間に抱き留められて、シュラインは少し翳りのある笑みを浮かべた。
「……燃やすのも、“あり”かも」
「明日の朝刊を飾りたくなかったら、止めておこう」
二人は辺りの様子に気を配りながら立ち上がった。本当に収まったようだ。立ち上がると二人は大きな息をついた。草間の紙マスクがブレて「ぶー」と緊迫感の無い音を鳴らした。
「これ、何とかしてくれないか」
「困ったわねえ」
足下には五〇〇枚のコピー用紙が、ビッシリ無造作に嵐が通り抜けた様相で散らばっている。
「……集まりなさい、って言ったら集まるかしら。『集まりなさい!』なんてね」
「そう上手くいったら、俺も苦労はしな」
ササッー。上手くいった。二人の目の前で紙は一つの束になった。顔や手や後頭部に貼り付いていた破片も、束の上に戻る。シュラインも白ヒゲの麻呂から解放された。草間は目頭を揉んでいる。
「主人はどうやら君に決定らしいな」
「拗ねないの。さ、これからどうしましょうか」
五〇〇枚プラス破片達は、クウンと鼻を鳴らした。シュラインはしゃがみ込み、その表面を撫でる。
「ちゃんと褒めてあげないとね。偉い、偉い。よくやったわね」
ペタッ。頬と胸に一枚づつ、ベッタリ紙が貼り付いた。ベッタリがまずかったらしい。ふんわりなら良かったのか。そういう問題でも無いらしい。
フ、と笑った草間の口元には、殺気だった微笑が浮かんでいる。
カミノブンザイデ。
かなり、面白くなさそうだ。シュラインは戻るように紙に命じた。
「ま、まあ、武彦さん。相手は犬なんだし」
「紙だ」
「……」
ヘソを曲げてしまったようだ。恋人未満の微妙な間柄にも、やはりヤキモチは存在する。
男って……。シュラインは思わず苦笑を漏らした。
「ね。ところで一体この子をどうすれば良いの??」
「ああ、それなんだが……手紙には、乗り移ったとしか書いていない」
草間はシュラインに、同封されていた手紙と写真を手渡した。
地元でも負け知らずで有名だった闘犬『獅子丸』。立派な化粧まわしを首に巻き、尾を立てた凛々しい姿には、勇猛果敢な猛者の風格があった。それが呆気なく病に倒れ、その魂が紙に乗り移ってしまったらしい。
「困ったわねえ。成仏なり除霊なりなら、お寺等々に送るでしょうし……。調教して送り返せば良いのかしら」
「君なら出来そうだ」
「冗談よ。バカな事は言ってないで。飼主さんに、ちょっと連絡してみましょ。成仏できない理由を聞き出せれば、解決方法が見つかるかも」
草間が電話をしている間、シュラインは紙の束をずっと撫でていた。耳に会話が入ってくる。
「はぁ、フィラリアで。寝かせていた傍にコピー用紙が……。九十八勝? 後、二勝で百。いつも励ましていた。なるほど」
草間は溜息と共に電話を切った。
「好物は『たくあん』だそうだ」
「はぁ?」
結局、獅子丸が成仏出来ない理由は、よく分からなかった。フィラリアと言えば、蚊を媒体として犬がかかる死の病だ。血中に産み付けられた卵はやがて心臓を巣に、数を増やしていく。白く長いそうめんのような虫が、体中を蝕んでいくのだ。
「百戦錬磨の剛勇も、小さな虫には勝てなかったのね。それが悔しかったのかしら」
「かもしれないが……。だとしても、死んでしまった以上、どうする事も出来ない。まさか寄生虫相手に復讐するとでも?」
「そうよねえ。飼い主さんに断って、神社かどこかに送ってみたら?」
ふーむ。
二人は悩ましげな顔で腕を組み、コピー用紙を見下ろした。整った五百枚。厳密に言えば、五百枚と端切れが五つ。
シュラインはセロハンテープを手に、破れた箇所を補修した。
「ほら、これで完全に元通りよ。紙に乗り移るなら、紙相撲の力士さんにでも移れば良かったのにね。それなら誰とでも対戦出来たでしょう?」
撫でる優しげな指先。そんなシュラインの横顔に、草間は目を細めた。
「動物好きな人間は、誰もいない所で一番それが出るそうだ」
「あら……おかしいわね。一人いるはずなんだけど」
振り返り見るシュラインに、草間は「どうかな」、と言って肩をすくめた。その顔は微かに微笑っている。
「“いるようには見えなかった”」
「そう? じゃあ“忘れちゃった”のかしら」
「いい意味に取っておくか」
「どうぞ、ご自由に」
心許した相手にだけ見せる油断。それを絡めた微妙な駆け引き。二人してクスリと笑った。
「さて、と。本格的に参ったな。打つ手が全く思いつかない」
「原因も分からないし……。今回は降参するしかないみたいね」
「ああ、完敗だ」
二人が小さな溜息を漏らした刹那、紙から犬の形をしたモヤが飛び出した。スタッと立ったのは、草間の散らかった机の上だ。
大きなしめ縄とまわしを下げた立派な土佐犬が、二人の前に立ちふさがった。
「ウオオオオオオォォン!」
一声。獅子丸は呆然と立ちすくむ二人の前から、アッという間に消え失せた。
「……な、何だったんだ?」
「さ、さあ。成仏したの?」
草間は沈黙しているコピー用紙を手に取った。
揺すってみる。叩いてみる。引っ掻いてみる。
無言。
ライターであぶってみる。チリチリチリ。紙が少し焦げた。
「どうやら逝ったようだ。しかし、何故なんだ? 君に優しくされたからか?」
シュラインは二人の行動を思い起こした。優しさが成仏のきっかけなら、それ以前にも覚えはある。獅子丸を褒め、そして懐かれた。
「違うわ、もっと……他の」
犬笛を吹き、紙をまとめ、そして電話をした。
「待って。獅子丸は確か……」
たくあんが好物だ。そしてフィラリアで倒れ、それまで九十八勝と言う輝かしい成績を残している。
「あ!」
「うん?」
「それよ、そうだわ。九十八勝よ、武彦さん」
要領を得ない草間に、シュラインは指を向けた。自分と、草間と。それは残り二つの白星。
「降参して正解だったのよ。あれは勝ち名乗りだったんだわ」
「は……」
最後の声を思い出すシュラインの横で、草間はガックリと項垂れた。来たときと同じポーズに戻った草間に、シュラインは苦笑した。
後に残された獅子丸の残骸。シュラインに補修された紙マスクは、勝利にほころんでいるように見えた。
終
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