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<過去の埋葬>
<オープニング>
冬の風が肌を突き刺すように、酷く寒いとある日の午後にその女は来た。
「あの人が何をしようが、どこで野たれ死のうがかまわなかったわ」
そう小さく切り出してから、女はゆっくりと静かに目の前にいる草間を見つめた。
その目には何の迷いも無く、冬独特の寒さを司る灰色の空よりも澄み渡っていた。
「でも、どうしてあの人が今ごろ・・・こんな物を私に渡して、あんな死に方をしたのかが知りたい」
「知ってどうする?」
そう問い返され、女は少し黙った。そして、顔の筋肉だけで艶然と微笑んで見せた。
「過去と決別を」
もう、あの人に囚われるのはごめんだわ。
そう呟いた女の瞳には、迷いなど微塵も無い。それを、草間は冷えてまずくなったコーヒーと同じように見えた。
女には昔、恋人がいた。しかし、2年前にその恋人と別れたらしい。
自由気ままに生きていく恋人についていけなくなったのが理由だと言っていたが、それが本当かどうかは女と、その恋人にしか分からない。ただ、その恋人が一週間前に女の家のポストに一枚の写真を残し死んだ。
奇妙な死に方で新聞にもテレビにも取り上げられた。その恋人は、電車に飲み込まれるように轢かれ死んだのだ。 そして、女は言う。どう贔屓目に見ても、女の恋人であった男は誰かに殺されるような奴ではないし、自殺をするような奴でもない。と。
「あの人が自殺するなら、世の中の半分以上が今ごろ棺おけに両足を突っ込んでるわ」
そう言って、女は
「あの人は、私と付き合っていた当時から、何時も何時も得体の知れない『何か』を探していた。
もし、あの人が殺されるなら、きっとその『何か』によ」
と、呟いた。
それから、女は一枚の写真を草間の前に差し出した。写真には、女と恋人の男が笑い会っている。その写真に別段変わったところは無い。ただ、こびりついた赤茶色の血が付いている以外は。
草間は、その写真を女に突き返すと煙草に火を付けないで、口に咥えたまま聞いた。
「何を望んでいる?」
「彼を・・・・この2年間で彼に何があったのか知りたい。最後に彼が、この写真を私に渡した・・・その真意を知りたいだけよ」
女はゆっくりと優しく写真を撫でて、自嘲気味に笑った。
「そうしなきゃ、私はいつまでたっても彼に囚われたまま。過去と決別できない」
「まだ好きなのか?」
「さあ、どうかしら」
そこで初めて見た笑顔を、草間はこの先忘れる事がないだろうと思った。
女は「自己紹介がまだだったわね」と笑って、草間に一枚の名刺を渡した。
そこには、女が勤めている会社の名前と、女の名前である榊原 沙耶香が書かれていた。
<本編>
シュライン・エマは、依頼人と向き合うように座ると机の上に置かれている写真を取り上げた。
写真はセピア色に変色していたが、それは情緒を誘うようなものではなく、むしろきちんと整理されず変色してしまったかのように思えた。ただ、写真の中で仲良く肩を組み笑いあっている2人の笑顔だけは、その時のまま。変色などせずにいた。その事に、より一層エマは興味を惹かれていた。
「仲がよろしかったんですね」
穏やかに笑いかけると、榊原は目を伏せて髪をかきあげた。
「過去の話よ」
「その過去を、探り出したいのでしょう?」
「・・・・・」
何も答えない榊原を見つめ、エマは言葉を続ける。
「貴方が知っているだけの、彼の事を教えて下さるかしら?」
榊原は戸惑いながら、でも、しっかりと1つだけ頷いてみせた。
エマはメモを見て、ふぅと溜め息を吐いた。とりあえず、依頼人から聞ける事は全て聞き出した。
まず、男の名前は『瀬名 芳一』享年・29歳。地元の建築工場で働いていて、上司や後輩の受けは良かったらしい。付き合っていた時期は、4年。『何』を探していたのかは分からない。と呟いたが、この言葉はあまりあてにできないな。とエマは思っていた。
『彼、面倒見が良かったから』
そう呟いた榊原の、ほんの少しだけ優しい表情を思いだしてから、再びメモに目を通し、再び内容を確認する。
死亡したのは、瀬名が何時もよりも4本ほど遅い電車に乗る為に待っていた時間帯だったという。瀬名が通っている会社はローカル線。つまり、一時間に普通電車だけが3本通るという駅だった。そんな駅のため、4本の乗り遅れは1時間以上も遅い帰宅を意味している。
そして、瀬名は何故、そんな遅い時刻に帰宅しなければならなかったのか。
「その辺りがキーポイントかしら」
エマは、そう呟くと手っ取り早く情報を集められる場所。図書館へと足を延ばす事にした。
金曜日だというのに、館内は微かなざわめきに包まれていた。時期が時期だけに、受験生が多いのだろう。エマは、そんな事を考えながら館内を足早に歩き目当ての場所を目指す。
「・・・この、辺り・・・・よね」
そう言いながら、エマは自分の身長よりも高い本棚の間を歩いて行く。天井に届きそうなほどの本棚には、隙間など無いように雑誌が詰め込まれている。年代別に分けられているそれらを注意深く見ていきながら、ある一箇所で止まる。
「これね」
エマは足踏み台を持ってきて、その上に立つと目当ての雑誌を取り出す。
古ぼけた雑誌は、女性週刊誌の中でも長い歴史を持つものだ。
取り出した雑誌の見出しには、赤い太文字で『衝撃の死っ!旋律の電車事故!』と安い口説き文句が載っていた。
「・・・もうちょっと、頭の良い見出しを付ければ売上も伸びるでしょうに」
そんな事を言いながら、それを見るには理由があった。
『○○週刊誌・・・。あれが、1番・・・彼の事故について書いてあったわ』
他の雑誌は、衝撃的な死をただ大見出しで飾っているだけだったと。
もちろん、それは素人から見た観点だ。けれど、エマの記憶にある限り、榊原の言い分は正しいと言えた。他のメディアは、急き立てるだけ急き立てて、その急き立てたさで、さらに熱を煽るような書き方しかしていなかったように思える。
榊原が、その時の情報になりそうなメディア---たとえば、新聞・雑誌---を所持していたなら、もっと事は簡単に済むのだが、榊原はそれらを買わなかったと言っていた。もっとも、エマは榊原の様子から『買わなかった』のではなく、『買えなかった』のだろうと判断しているし、その判断は正しいと確信している。女同士というのは、こういう時。意識していなくても、案外意思の疎通が自然にできたりするのだ。もっとも、エマ自身がそういう人の感情に敏感・・・・だという事もあるのだろうが。
エマはページをめくりながら、雑誌に書かれている記事を読んでいく。しかし、そこには期待しているような言葉はなく。むしろ、溜め息の数を増やすものでしかなかった。
「外れね」
そう言いながらも、最後の一行まで読もうと目を紙面に走らせた時。ふと、引っかかる文章が載っていた。
『この男性の妻は2年前の同じ日、同じ時間。同じ駅にて自殺している。これは、単なる偶然からなるものなのか?それとも、これにはもっと何か深い因縁か何かが絡んでいるのか?』
後の文章は目に入らなかった。
「・・・・妻?」
呆然と呟く。榊原は、そんな事を一言も言っていない。
いや、それよりも時期的におかしくないだろうか?もし、この記事に書かれている事が本当だと仮定して。いや、限りなく事実に近いだろうが。とにもかくにも、この記事の情報で考えて行けば。榊原と瀬名は不倫関係にあったはずだ。
「不倫・・・別れ・・・・」
エマは呟きながら、頭を整理していく。
榊原と瀬名は付き合っていた。そして、2年前に別れた。
2人が付き合っていた時期は、4年。だとすると、少なくとも瀬名の妻が生きている少なくとも2年間は不倫関係にあったはずだ。
『見えない『何か』に・・・・・』
そこで、ふとエマは1つの仮説を立てた。
「見えない『何か』じゃない。彼女は・・・知っていた?彼と不倫している事が、彼の奥さんが知っていた事を。そして・・・・彼は、その目線を探し見つけようと・・・ああ、でもどうして?」
考え込み。そして、雑誌を元の場所に戻すとエマは立ち上がった。
座っていても答えは見つからない。見つかるとすれば、それは。
外にしかない。
エマはとりあえず、榊原の紹介。という事で、瀬名の会社に来ていた。同じ会社の同僚だったのかと聞くと、そうじゃなく。取引先の会社の事務を榊原がしていて、その関係で知り合ったのだと話してくれた。
「すいません。お忙しい中」
エマはスッと頭を下げ、入ってきた中年の男に挨拶をした。
手馴れたエマの丁寧な挨拶に、中年の男はニコニコと機嫌が良いように笑う。
「こちらこそ、待たせてしまって申し訳ない。急なお客様がいらしててね」
「いいえ。私の方こそ急な面会を、お許しいただいて」
「瀬名君の知り合いだそうだね」
エマの言葉を遮り、男は切り出した。
「ええ」
「・・・・彼とは、どういう関係だったのかな?」
先ほどまでの友好的な態度が影をひそめる。そんな男の様子を、静かに流れる風のように受け流すとエマは、少し寂しそうに微笑んで答える。
「先輩は大学時代に良くして頂いて。私、大学を途中で辞めなければならない時も、先輩には相談に良く乗ってもらっていたんです。でも、先輩。急にあんな事になってしまって」
少しわざとらしいかな?と思いながら、この年代の人間なら大丈夫だろうとエマは涙を拭うように目の辺りに指を這わせる。
「ですから、先輩に・・・遅いかもしれないけれど。でも、先輩が何を悩んでいたのかを知りたいんです。そうして、きちんと墓前で謝りたい。先輩に頼ってばかりで、先輩の悩みを気付いて上げられなかった・・・その事を」
そこまで言って、さすがに(やりすぎたかな?)と目をあげると、男はエマが思っていた以上に単純にできていたらしくエマの言葉を全部信じ込んでいた。
「そうか・・・いや、すまないね」
「い、いいえ」
拍子抜けしてしまいエマは、涙を浮かべて同調する男を見つめてしまった。
男は鼻を鳴らしながら、エマを見て苦渋の表情を浮かべた。
「・・・君の信用している男を・・・・こういうのは何だがね」
「仰ってください。私は、それを聞くために、ここに来たのです」
「・・・うむ」
そう一呼吸置いて、男は周りを伺うかのように声をひそめた。エマが通された場所は客室というよりは、会議室に近い場所で壁があまり厚くない場所だ。その事を配慮しての行動だろう。
「実は・・・な、彼の死は。彼の奥さんを追っての事だと」
「・・・・え?」
「いや・・・なぁ」
さすがに、これ以上は話せないと言葉を濁す男にエマははったりをかけた。
「奥さんとの関係・・・冷めてたんですよね?」
断定で聞くエマに、男は咳払いをしつつ頷く。
「ありがちな事だよ。若い人にはな」
つまり、若くして結婚したはいいが後々持たないと言いたいのだろう。もちろん、エマに言わせてみれば、それは単なる言い訳にすぎない。若かろうが、若くなかろうが、結婚は持つ。お互いの気持ちが続いている限りは。
しかし、エマの考えている事など知る由も無い男は言葉を続ける。
「冷めていた事は冷めていた。だが、奥さんの方が中々・・・・・まぁ、その離婚届に判を押さなくてな」
「・・・・どうして?」
「彼の奥さんはプライドが高い人だったからな」
そこまで言って、さすがに喋りすぎたと思ったのか男はコホンと咳払いをして話題を逸らす。
「まぁ、そんなこんなで。彼の奥さんが、あの駅で自殺してしまったのが、ちょうど離婚届に判を押した日・・・なんだよ」
エマは眉をひそめ、それから、すぐ顔をあげた。
「それが、二年前?」
「・・・・」
男はコクンと頷いた。
瀬名は1人暮らしを、会社から一時間ほど離れた場所でしていたらしい。だが、妻が死んでから実家の方へと戻っていた。という事を、会社の男から聞きだした。そして、その実家が会社から歩いて10分程度の所にあるという。
わざわざ遠い所に住んでいたのは、瀬名の妻と結婚し新しいアパートを借りたせいだ。
エマは教えてもらった住所を手がかりに、瀬名の実家へと向かっていた。もしかしたら、瀬名の母親なり父親が瀬名の変調に気付いているかもしれない。
ともかく、今は些細な事でもいいから情報が欲しかったのだ。
目の前にある家は、集合住宅の中に埋れるかのような普通の家だった。エマは門に付いているインターホンに指を伸ばし一回だけ深く押す。
押してから、ほんの少しの間の後、機械を通し落ち着いた声が聞こえてきた。
「はい?」
「初めまして。私、シュライン・エマと申します。瀬名先輩が・・・その、不幸にあったと大学時代の友人に聞いて、ご挨拶をしたいと思いまして」
「・・・・・・・芳一の?」
「はい」
警戒心があらわになる声は、きっと事故があってからマスコミに追い掛け回されたせいだろう。
「突然で申し訳ございません。ただ、先輩にはお世話になりましたから・・・。だから、一言だけでも挨拶をしたくて。もし、ご都合が悪ければ後日改めてご挨拶を」
強引にはでないエマの態度に、機械から通される声にほんの少しだけ優しさが滲み出る。
「都合が悪いわけじゃないの。ごめんなさいね、どうぞ入ってちょうだい」
その言葉を受けてからエマは、門を開け1番、瀬名の情報を手に入れやすい場所へと足を踏み込む。
仏壇に手を合わせてから、瀬名の母親に軽く頭を下げる。
仏壇は居間と続きになっている和室にあり、冬の柔らかな日差しだけを存分に、部屋の中へと入れていた。
「突然、申し訳ございませんでした」
エマは居間にいる瀬名の母親に頭を下げる。ちょうど、彼女はエマにお茶を入れていたらしい。居間には紅茶の良い匂いが漂っていた。
「いいのよ。それにしても、芳一がお世話になっていたみたいで」
母親に座る事を勧められ、エマは座り心地の良いソファへと腰を下ろした。目の前にある重厚な木のテーブルに食器の重なり合う軽い音が響く。
白い茶器には、淡い茶色の紅茶が入っていた。
「どうぞ。コーヒーのストイックを切らしていて紅茶だけれど・・・大丈夫かしら?」
「ええ。ありがとうございます」
エマは微笑んでから、茶器を取り上げ一口だけ紅茶を飲む。
「先輩にお世話になっていたのは、私の方です。ここ2年は私用が重なって音信不通になってしまい、先輩の事を知る事が遅くなってしまいましたが」
エマの言葉に母親は少しだけ寂しそうに微笑む。
「いいのよ。こうして来てもらえる人がいるだけ芳一は幸せだわ」
「1つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何?」
エマに少なからず心を許しているらしく、母親は穏やかに問い返す。
「先輩は・・・どうして、こんな事を?」
しかし、エマの言葉に顔色を変える。それから、諦めにも似た溜め息を吐いて呟いた。
「疲れたのでしょうね」
「・・・疲れた?」
「芳一が結婚して、しばらくは幸せそうだったわ。でも、その幸せは続かなかったみたい」
エマは何も言わず、黙って話を聞く。
「ごめんなさいね。私もよく分からないのよ・・・母親失格ね」
目元を拭う母親にエマは優しく微笑みかける。
「そんな事ないと思います。だって、先輩がここに帰ってきているという事は、先輩。きっと、ここが1番安心できる場所だったからじゃないでしょうか?」
「・・・・ありがとう」
エマは微笑んでから、話を終えるように話題を逸らす。
「1つお願いがあるんです」
「何かしら?」
「先輩の部屋を・・・見せていただけますか?」
「ええ、かまわないわ」
すっかりエマに心を許したらしい母親は快く承諾すると、2階にあるという瀬名の部屋へとエマを案内する。
「ここよ」
案内された部屋は、きっと瀬名が死んでからも手が入れられる事はなかったのだろう。モノトーン系で片付けられた部屋の中は、カーテンに遮られた薄い闇に覆われていた。
母親は部屋の中に入ると、窓のカーテンを開け部屋の中に光を入れる。その時、ちょうど下から電話の鳴る音が聞こえてきた。
「ごめんなさい。ちょっと、失礼するわね」
母親の言葉にエマは頷いてみせる。
エマは母親が完全に出たのを確かめてから、部屋の中をザッと見渡す。七畳程度の部屋の中は、ベッドと机。そして、机の上に乗っているノートパソコンと天井に近いほど大きな背の本棚が1つ。それ以外は見当たらない。
シンプルに片付けられたというよりも、生活感が無いと言った方が正しいかもしれない。
エマは下で話している母親の様子をうかがうと、どうやら話は長引いているらしい。
(今のうちね)
とりあえず、目に付いた本棚に手を当てる。
日記か何か。とりあえず、瀬名が何を考えていたのかを分かる物を探す。
他の本に比べて分厚すぎる本はないし、どちらかというと雑誌関連のものが多い。それでも、とりあえず本棚を見ていると、ふと青い他の本とは違うものを見つけた。
エマはその本を取り出すと、青い生地の表紙には銀色の細い文字が『Diary』と浮かんでいた。
本をめくり中を読む。
中には男にしては丁寧な文字が、ほぼ毎日の出来事を綴っていた。
「・・・・・」
どうやら、この日記は1年前。ちょうど、去年から書かれているものらしい。ただ、瀬名が命を絶つ二ヶ月くらいまえから日記は途絶え途絶えになっていた。しかも、不穏な空気を漂わせている。
『俺は、逃げられない』
『どうすればいい?』
『あいつから逃げる事はできないのだろうか?』
『・・・もうすぐ、あいつが迎えにくる』
『死にたくない。死にたくない・・・・せめて、沙耶香に今の気持ちを』
『俺は死ぬのか』
最後の日付は瀬名が死んだ日。そして、瀬名の妻の命日だ・・・・。
「殺された?」
エマは呆然と呟いて日記を見つめた。
エマは瀬名が死んだ駅へと来ていた。ちょうど、瀬名が電車に轢かれた時間だ。
「・・・・分からないわ」
突き止めて突き止めて考えて行くたびに、謎は深まる。
瀬名は何故死んだのか?
榊原は何故妻の事を隠していたのか?
瀬名の妻は何故自殺したのか?
そして・・・・・。
絡まりあう糸が意味するものは?
激しい音を立てて過ぎて行く電車の影を見送り、エマは薄紫から完全な暗闇に陥って行く世界を見つめた。
平和な世界。でも、確実に・・・。ここで、一週間前に起こった事は『平和』とは言いがたい。『平和』な中で起こった『悲劇』。その『悲劇』の真相は、もしかしなくても想像できない何かが引き起こしたのだろうか?
冷たい風とともに、電車の通り過ぎる音と突風がエマのキレイな黒い髪を撫で上げる。
「もう」
エマはまとまらない頭と同じようになってしまった髪を手で整えながら、ふと辺りを見渡した。その時、不意に目に入った人物に愕然として、その1点だけを見つめる。
瀬名 芳一。
本来ならいるはずのない彼が、そこにいた。
エマは少しだけ震える手で写真を取り出し、目の前にいる人物と比べる。
写真に付いている血痕は、飛び散ったものを拭き取った跡が残っている。そして、その中で微笑む2人。
間違いなかった。
エマは一呼吸置いてから、瀬名に近づく。
一歩一歩近づくたびに、景色が消え、音が消え、色が消え。
瀬名にあと数メートルという所で、2人の存在以外は全て消えた。
「寒いわね」
エマはそう話し掛けた。
瀬名はゆっくりとエマを見、それからゆっくりと顔を元に戻す。エマの存在など初めからなかったかのように。
しかし、エマは気にしていないようすで瀬名に話し掛ける。
「榊原 沙耶香。知っているわね」
その名前に、瀬名は驚いたように顔を再びエマに向ける。
「彼女から依頼されているの。貴方が、どうしてこんな事をしたのか・・・をね」
そう言ってエマは写真を右手の人差し指と中指の間に挟んで微笑んだ。
瀬名はしかし、何も言わずエマの持っている写真に目線を注ぐだけだ。
「話せないの?」
『・・・・彼女は・・・元気か?』
エマは瞬時迷ってから、首を横に振る。
「元気とは言いがたいわね。貴方への想いで」
『・・・・・・・・・・』
「教えて頂戴。貴方は何故、死んだの?」
一つ目の疑問だ。まずは、それを解かない限りは前へ進めない。
『贖罪・・・』
そう呟いてから、瀬名は再びエマから目線を逸らし上を向く。
『俺は、あいつの愛情が重くて、息が詰まりそうだった。ダメだった。あいつがくれる愛情を俺は返せない。どうすればいいのか、分からなくなって・・・そんな時、沙耶香に会った』
「逃げ場にしたの?」
『違うっ』
初めて荒々しい声で、そう否定する。
『好きだ。本当に気持ちに嘘は無い。沙耶香の傍は安心した。あいつの気持ちに苦しい。でも、どうしたらいいのか分からない。と、そんな弱い俺を・・・沙耶香は何時だって支えて・・・・一緒に生きようと言ってくれた。それが、どれだけ俺に救いの光を与えてくれたか・・・・』
「でも、別れたわね」
『だからだ。あいつが、離婚届に判を押した日。俺が区役所に行く前に、あいつは飛び降り自殺をしたんだ。俺を完全に縛るために』
「・・・・そうして、貴方は榊原さんと一緒にいられなくなった」
『あいつを俺は殺した。殺した。たとえ、俺の意思はなくとも・・・・俺は殺人者なんだ・・・』
そこまで聞いて、エマはやっと榊原が何故、瀬名の妻の存在を隠したか。そして、彼が『何か』を探していた。というのは、瀬名の妻の異常な愛情の執念の事だろう。
そして、そこまで考えれば、榊原が瀬名の名誉の為に何も話さなかった事が分かる。
『2年前。あいつが死んで・・・俺は、もう何も分からなくなった。沙耶香に当り散らし・・・傷つけるだけ傷つけたんだ』
「それが原因で別れたの?」
瀬名は1つ頷いた。
『沙耶香は、何時だって俺を愛していてくれたのに・・・・』
エマは頭を振り瀬名の前に写真をかざした。
「これは?どうして、どうして彼女に渡したの?」
『あいつの命日の三ヶ月前くらいから、あいつが夢の中に出てくるんだ。そうして、手招きをして微笑む。その笑顔を見て、俺は殺されてしまう事を悟った。でも、俺は沙耶香が好きで・・・傍にいられないから・・・でも、どうしようもなく。結局、あの頃。幸せだった頃の2人を、せめて思い出して欲しかったんだ』
自分勝手だと分かっているけれど。と、瀬名は付け加えた。
「写真についている血は?」
『写真を渡しに行く途中、不意に口から血が出た。その時のものだ』
「病気だったの?」
『いいや・・・たぶん、あいつの仕業だろう。他の女を見るなという』
呪いのようなものだろうと、呟く瀬名の表情は曇っていた。
「そう。それじゃあ、どうして貴方は自殺なんかをしたの?」
エマの言葉に瀬名は首を緩く横に振った。
もちろん、エマも瀬名が自殺なんかしていないと、あの日記を読んで分かっている。ただ、瀬名が素直に死んだ理由を言うはずがないと思って、わざと「自殺」という言葉を使っただけだ。
「じゃあ、何故?」
『・・・・・』
何も言おうとしない瀬名に、それでもエマは穏やかで冷静な態度を崩さない。
「何も言いたくないなら、それでいいわ。でもね」
エマは一呼吸置いて、写真を見た。
笑いあっている2人。
この一瞬、確かにこの2人は永遠をそこに見出していたのだろう。
「彼女が言っていたわ」
-------そうしなきゃ、私はいつまでたっても彼に囚われたまま。過去と決別できない
一字一句、間違える事無くエマは瀬名に榊原の言葉を伝える。
「彼女は、まだ貴方が好きなのよ。断言してもいいわ」
『・・・・・・・・・・・・・・どうして分かる?』
「同じ女よ。それに、過去と決別したいという事は、彼女がまだ貴方に囚われている良い証拠だと思うわ」
『過去・・・・』
「貴方との事は過去。そして、貴方も。彼女も過去に囚われたまま」
何もない真っ白な世界の中で、挑みあうように見つめあう。
「教えてちょうだい。貴方は何故死んだの?私はそれを、彼女に伝えなきゃいけない」
瀬名は瞳を伏せ、重くなってしまった口を開いた。
『あの日・・・ここに立った時だ。あいつの命日で、あいつがここで死んで。色々な事を考えていた。あいつの、もういないはずの、あいつの存在が間近に感じて。そこで、『ああ、俺は逃げられない』と実感した』
その言葉を聞いて、エマは日記に書かれていた言葉を思い出していた。しかし、もう死んだ人間が、生きている人間を殺す事など出来るのだろうか?
(それを言ったら、目の前にいる人の事も説明できないけれど)
苦笑してから、エマは瀬名に言葉を続けるよう先を促した。
『言っただろう?呪いだと』
エマはその言葉を聞いて、顔をこわばらせた。
「まさか・・・」
『俺も、まさかだと思っていた。でも、確かな事なんだ。あいつの部屋を整理してたら』
「その根拠を裏付ける証拠が出てきたのね?」
瀬名は頷いて自嘲気味に笑った。
『あいつを、あそこまで追い詰めていた・・・気付けなかった』
エマは溜め息を吐いて、今回の依頼では溜め息ばかりだと気付くと、さらに溜め息の数が増えた。
「それで、貴方は奥さんの呪いで電車に轢かれた?」
『ああ。あいつと同じ日に同じ時間・・・・ただの偶然だと思うか?』
「偶然にしてはできすぎね」
『あいつは俺を完全に縛る事に・・・自分の命と引き換えにしてでも、それを成功させたんだよ』
苦々しく言う瀬名にエマは呆れたような表情を浮かべてみせた。
「でも、それが全部貴方の思い込みだとしたら?」
『何?』
「いい?呪いなんて、素人がやって成功するものじゃないわ」
実際、エマも今までの事件と経験の中で、それを分かっていた。
「呪いは自分に跳ね返る。奥さんが成功するとは思えない」
『じゃあ、俺は何で・・・あいつはっ』
「・・・貴方は自分が思っている以上に、過去に囚われていたのよ」
奥さんと榊原さんの間にね。と付け加えて、エマは静かに言葉を続ける。
「もういいじゃない。貴方は死んでしまった。貴方の奥さんも・・・過去に、もう囚われるのは、もうやめてもいいと思うわ」
『・・・俺は』
「少なくても、私は貴方が幸せだと思うわ」
エマは微笑んでから、手元にある写真を見つめた。
「過去と決別したい。そう言っていたけれど、きっと彼女は貴方の事を忘れたくて言ったわけじゃないわ」
『・・・・?』
「貴方との事を。貴方にあった事を知って、それで、きっと乗り越えたいのよ」
過去に起こった事を。もう、取り戻す事の出来ない時間を。
幸せだった一瞬を。
「もう、いいでしょう?」
再び優しく問うエマに瀬名は、ゆっくりと言葉を発した。
『・・・沙耶香に伝えてくれ』
「何を?」
『どうか、幸せに・・・・と』
それが、瀬名の最後の言葉になった。
白い霧に包まれ、そこにあった瀬名の姿は消え、変わりに世界は再び色彩を取り戻す。騒がしいほどの、電車の音が耳に飛び込む。
エマはゆっくりと辺りを見渡して、安堵の溜め息を吐いた。
「呪い・・・ねぇ」
事実、呪いが本当にあるかどうかは分からない。でも、女の執念は恐いから成功するかもしれない。
とりあえず、依頼人である榊原には全て伝えた方が良いだろう。きっと、榊原も全てを覚悟しているに違いない。
エマは手元にあったはずの写真が、何時の間にか消えていることに気付いて、慌てて辺りを見渡したが、写真の姿はどこにもない。
「・・・・え?」
持っていかれた?とエマは自分の手元を不思議そうに見て、それから少しだけ微笑んだ。
たぶん、過去に縛られていた二人は、あの写真が無くなる事で呪縛のようなものから完全に解かれるのだろう。
過去は赫い花のように、時に人の胸に咲き痛め傷つけるけれど、いつかその花は美しく散花する。未来に優しく柔らかく降り積もり、人を強くするために・・・。
過去は、そうやって人々の胸の中で埋葬されていくのだ。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/ シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
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■ ライター通信 ■
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初めまして(^^)このたびは、拙い依頼にご参加頂きまして、本当にありがとうございました。
とても嬉しかったです(^^)
さて、今回のお話は如何でしたでしょうか?恋愛というよりも、過去にしがみついたまま、何も出来ずにいる2人をテーマにしております。過去にこだわるのは悪い事じゃないけれど、しがみついて何も出来ないというのは、一種の逃げじゃないかなぁと思いつつ(苦笑)結果的に、色々と突っ込みどころの多いものに仕上がってしまいましたが(遠い目)
それでは、今回はご参加頂き本当にありがとうございました(^^)読まれたあとに少しでも、『ああ、楽しかったな』、『こういう話、好きかも』と思っていただければ、これ以上の幸せはございません。また、どこかでまたお会いできることを祈りつつ・・・・。
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