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鬼社
白い煙が極上のヴェールの様に、狭い部屋の中をたゆたい、そして拡散していく。
冬の午後のけだるい光が窓からゆらと差し込んでくる。
片づけなければならない仕事は山とあるだろうに、なぜかその日に限って彼――草間はひとときの平穏を楽しんでいた。
たまっている仕事が事務処理ばかりだから、現実逃避とも言えなくはないが。
テストが終わったその足で、お茶とそして少しばかりスパイスがききすぎた非現実的な話を聞こうと雨宮薫が訪れたのは、まさにその時間だった。
雑然としている事務所内。
にも関わらず、薫が立っているその場所だけが静穏であり透明な雰囲気に満たされている。
今時の若者にしては珍しく色を抜きも染めもしていない黒髪は、黒曜石を紡いで作ったように繊細でどこまでも暗く。
冷静でいかなる雑事にも揺らぐ事のない光を宿す瞳は、夜の海の底のように底知れない深さを持っている。
太陽に透かした月長石のように柔らかく術らかな肌。
すべてがまるで鉱物のように冷たく磨き上げられた美を持っているというのに、何故かまとう雰囲気は酷く脆く、そしておぼろげである。
だが、彼を知る一部の人間は知っている。
その玲瓏で脆い少年という器に入った魂が、どれほどの強い輝きと激しさを持っているかを。
美しい外見や、一つの動作毎に香や彩を感じさせる手足などよりも、遙かに希有で、強い光輝と力に満ちた内面を持っているかを。
否。そうでなければ陰陽師の家系である天宮の一族の次期長にはなりえないだろう。
ため息を付く。
「相変わらず忙しそうだな」
煙草を吹かし続ける草間に言う。別に嫌みな訳ではない。
草間の目の前に積まれた、未記入の書類、精算されてない請求書の束が目に付いたからだ。
「まあ、忙しくても休憩はとらんとな」
その休憩が朝から続きっぱなしなのは、予想が付いていたが、別に言う気はならなかった。苦しむのは草間だし、仕事をため込んだのも草間だからだ。
肩をすくめる。
前髪がさらりと揺れる。
と。おびえるようにドアノブが回され、そしてゆっくりと扉が開かれた。
入ってきたのは小学校に上がったか、上がっていないかというあたりの子供だった。
右手には何枚かの紙幣を握りしめ、左手でしきりにこぼれ落ちる涙を拭っている。
嗚咽をあげて、何も言えない子供を不憫におもったのか、草間の妹――零が、肩を抱くようにして応接ソファーへ導いた。
泣くこと十数分。ようやく涙がかれたのか、泣き疲れたのか。子供はどもりながら「依頼」を話し始めた。
それは森の奥にある。
竹林に紛れるように朽ちた鳥居が立っている。
笹の葉が風毎にゆれる。
さわさわ、さわさわと。ささやくように、禁域を犯す人間に忠告するように、あるいはあざ笑うように。
春も夏も秋も冬も。
決して朽ちぬ刃のごとき葉が、ささやき続ける。
(よくある手合いだな)
空を覆う程に高くのびた竹。その竹が左右からせめぎ合うようにしてむき出しの土の小道を覆っている。
まるで竹で出来た緑の回廊だ。
――その神社への立ち入りは以前から禁止されていたらしい。
聞き取りにくい子供の話を要約して、草間が苦笑混じりに薫に言った。
禁止したとて、相手は子供だ。
ダメと言われれば言われるほど好奇心をかき立てられるだろう。ましてや、大人が滅多に来ない場所とあれば境内がその辺に済む子供達の秘密の遊び場になるのは当たり前だ。
土塊に覆われかけた石段を登りながら、笹がおりなす緑の回廊の終着点を見据える。
作られた当時は、小さいながらにも立派な神社であったろう。
しかし、時という残酷な魔物にさらされた社は、荒れ果てていた。
丹塗りの柱からは塗料が表面ごとはげ落ち、風雨で腐った木の部分がささくれた傷をそのままに何かを問いかけている。
かつては極彩色の絵で飾られていた偏額も、いまでは輪郭がかろうじて読みとれるほどあせていた。
出迎える狛犬の首はもげ、その神社の系統を示すものは何一つ残されては居ない。
ただ、鳥居の奥に祭られている大木を除いては。
(あれ……か)
つい、と目を細める。
荒れ果てた神社ではあるが、鳥居の奥にある大木だけは立派であった。
年に一度は注連縄を取り替えていたというのだから、それなりに信仰はあったのかもしれない。
だが、それに付随する「祭」が行われているという話は聞かない。
(鎮魂のタタリ神か)
意味もなく心中でつぶやく。
草間は言葉を切り、ニヤリと笑っていた。
(そう。察しがいいな。なんでもその子供の友達が木に登ろうと注連縄に足をかけた拍子に縄を切ってしまったらしい)
簡単に切れる代物で有るはずが無いのに――だ。
縄が切れる。
子供が落ちる。
と、その子供は優しく腕に抱き留められる。
(木から現れた鬼によって)
巨木の幹から白い腕が現れたという。そしてその腕は子供を抱き留めた。
驚いた子供が顔を上げると、長い黒髪に覆われた顔と……左右からつきだした異質の角を見たという。
テーブルに置かれたしわだらけの三千円をみやって、草間は頬杖をついたまま上目遣いで目の前に立つ薫を見て言った。
「報酬はごらんの通りだが?」
煙草の煙はいつの間にか視界から消え去っていた。
薫はあごに指をそえて一瞬だけ瞑目した。
考えるまでもない――答えはイエスだ。
「ああ、引き受ける」
本来で有れば仕事は祖母を通している。祖母の命を受けてではないと「仕事」は出来ない。
しかし、それは奇遇にも鬼なのだ。
「鬼の仕業なんだろう?」
ふ、と口元をゆるめる。
とたんに零が頬を赤らめる。
薫本人は気づいていないだろうが、彼のほほえみは、まるで初咲きの薔薇がほころぶように柔らかく優雅なのだ。
頬を赤らめない女性を捜す方が難しい。
ともあれ、そんな自分の魅力に気づいていない薫はほほえみのまま首をかしげた。
「鬼の仕業なんだろう? だとすればこちらの領分だ」
鬼。
日本という国の歴史から、このマガモノの存在は切っても切れない。
人に近くあり、人でない。
神に近くあり、神ではない。
陰陽の術に置いてもまた。
不倶戴天の敵であり、そして式神となる守護者でもある。
どちらともとれない曖昧で、断定することの出来ない存在ではあるが。
知った以上、関わらずに済ませる事は出来ない。
境内を歩く。
どこからか落ちてきたどんぐりが、ぱきり、と踏みつぶされる。
先ほどまで晴れていたのが嘘のように、雲が厚くたれ込めていた。
灰色の空に、暗く影った笹が揺れる。
天の高い処で、風がうなり啼いていた。
「何故」
思ったのかつぶやいたのか、薫にも判然としなかった。
ただ一つの疑問が、心の底にわだかまっていた。
何故鬼はその場で子供を殺さなかった?
封じられるほどの鬼なら、封印がとけた開放感に任せてその場で殺すなり食すなりしてもおかしくない。
なのに、落ちてくる子供を抱き留め、そして連れ去ったというのが解せない。
連れ去ったあとに、という事も考えられるが。
(どちらにせよ急いだ方がよさそうだな)
連ね鳥居の奥、巨木へと歩をすすめる。
鳥居を一つくぐる毎に、空気が張りつめていく。
階段をあがる。鳥居をくぐる。それ毎に、確実に人の世から、異界へと移り変わっていく。
刹那、視界が開けた。
風がとまり、笹の葉擦れの音がやんだ。
すべてが朽ち果てた神社のなかで、たった一つ真新しく「時」の浸食にさらされていない注連縄が、無惨にもちぎれ、そして地面に落ちていた。
(いる)
気配を感じた。そしてかすかに鼓膜に届く、女のしっとりとした笑い声。
小鳥がかかりおった。
雛鳥の餌につられて小鳥がかかりおった。
黒い髪と黒い瞳もつ極上の小鳥が……。
笑い声の合間に、女のささやきが繰り返しそう告げる。
「姿を現せ」
放たれた矢のようにまっすぐに通る薫の声が、竹林に響いた。
「ほぅ。なんとも気の強い小鳥じゃ」
幹が脈動する。時間を急速に流したように脈動し、隆起し、柔らかな胸が、長い黒髪に覆われた顔が現れる。
ぷるり、とそれは頭を振った。と、白い――病的に白い雪の様な肌が、血そのものの色を持つ唇があらわになる。
そして絹糸の黒髪から現れるのは二本の角。
「何故、子供を捕らえた」
薫の言葉に血染めの衣装に包まれた豊かな胸が、ふるえた。
地面に引きずっている裾の部分だけが、嘘のように白い。
それはまるで夕焼けにさらされた雪山。
胸元から広がる血の紅。
裾に残るかすかな白。
肩から滑り落ちる髪は、やがて到来する闇のようで。
魂を絡め取られそうなまでに、美しい。
「子を求めているのか?」
さすれば、浄化のあとに花とこけしを添え供養してもやろう。と告げる。
とたんに女――鬼はけたたましい笑い声で薫をあざ笑った。
「否。わらわが欲しいのは血じゃ。兄様のように暖かくわらわを包むそなたの血」
唇が誘惑するようにゆっくりと動き、言葉を告げる。
と、突風が吹き薫の髪をなぶった。
巨木の枝が揺れる。
顔をあげると、檻のように絡み合った枝の中に子供がぐったりととらわれていた。
「わたさぬわ。あれは呼び水。そなたのような「血」もつ若者を呼び寄せる罠じゃからな」
甲高い笑い声が響く。
野放図に妖気が放たれる。
そしてあまたの光景が脳裏に飛び込んできた。
時代がかった家屋。そのなかに居るのは二人の男女。
男は困惑したように女を見ている。
脇に刺した刀から、男が侍であることは見て取れた。
(兄様のものにしてくださいまし)
かつては人間であった鬼が、絶望的に美しい微笑みをうかべながら、白い夜着のまま男にしなだれかかる。
だが男は拒絶して突き放した。
よろめき、畳の上に崩れ込む女。
(いかにそなたの願いであれど、兄と妹が交わるなど、とうてい許せるものではない)
唇をかみしめてうつむく男。
くやしや。
――くやしや、兄様。
女の思念が呪詛となり、炎の様に薫の胸奥をいぶり焦がす。
道ならぬ恋、狂気を孕んだ恋が憎悪へと変わっていく。
乱れた髪の奥から、眩い希望と憎悪に燃える瞳が男をみていた。
そして。
懐から取り出された女の懐剣が、鞘走りの音ももどかしく引き抜かれ――男の胸を貫いた。
「見えたか、そなた」
鬼が唇をゆがめながら、傲然とあごをそらせた。
「人にしては希有な光を持つからじゃな。そうじゃ、わらわは兄様を、最愛なるものをこの手で刺した」
うっとりと、熱に浮かされた夢遊病者のようにほほえむ。
刺した剣を引き抜く。
降り注ぐ血脈。赤く、そして暖かくぬめる液体。
「ついぞ一度もわらわを抱いてはくれぬかったが。最後にわらわのすべてを抱いてくれおったわ。おお、その血のなんと暖かいこと。我の口に入りし兄様の血の何と甘いこと」
すう、と手を薫に差し向ける。
「あのときわらわの胸奥に兄様が入ってきた。兄様の血はわらわにやどった」
喉がふるえる。
歪んだ狂気、歪んだ愛。
「しかしくやしや。血の暖かみはすぐに消えてしもうた」
一度味わった血の暖かさ、命の力。
消え去れば、想像を絶する餓えと虚無が心を満たす。
「兄様の血はおしや。二度とわらわを癒してはくれぬ」
死んでしまったのだから。
では、なんとする?
血でしか慰められない、否、血でも刹那しかいやす事ができない歪んだ欲望。
二度と兄の血がえられぬならば、代わりを立てるのもやむをえぬ。
――そして女は鬼になった。
人を惑わし、血をすすり、一時の安息を血の包容を得る為に。
「愚かな」
吐き捨てた。
愛ではない、と否定するつもりはない。
だが相手の幸せを、命をねがわず、己の愛だけを押しつける様はなんと浅ましいことか。
胸の奥がうねり、吐き気がした。
――自分ならば、決してしない。
自分の手で失ってまで呪縛しようとは思わない。
両親が死去して以来、何も言わず、厳しく、そして優しく自分を育てた祖母。
その祖母を大切に思う気持ちはある。
また自分を見守ってきた――守の青年である隼人も。
その腕が自分を導いてきた。その手が自分を守ってきた。
ようやく今、彼らを守れるまでに成長したが、それでも、守られた時の腕を、その言葉を忘れた事はなかった。
自分がこの腕で守り、自分をその腕で支えて欲しい。と強く乞い願い、心の奥底で望んではいるが。
強要することは出来ない。
否、する必要がないのだ。
仮に道ならぬ恋が、この鬼のように自分が道ならぬ恋にとらわれていたとしても。
その腕を自分だけの者にしてしまいたいと願い、その願いに苦しんでしまったとしても。
執念ともいえる独占欲を、愛する人々にみせつけるよりは。
いっそ狂ってしまった方が良い。
「包容を拒否されたから、血の包容を強要したか――浅ましい独占欲だ」
喉元を押さえて、顔をあげて鬼をにらむ。
「そんなに餓えるのが嫌と言うのならば、俺が二度と飢える事のない国へ送ってやろう」
指をポケットに滑り込ませる。
取り出したのは、一枚の符。
「我が命に答えてきたれり!」
命を唱えざまに、符を放つ。
白い光が符から放たれ、拡散する。
「何? そなたもしや陰陽の者か!」
くわっ、と鬼が口を開いた。
先ほどまでの形の良い唇が裂け、ねじ曲がった犬歯が鋭く巨大化する。
「おのれ、か弱そうな姿態にぬかったわ!」
蛇のように舌をちらすかせ、かすれた息がしゅう、と鬼の喉奥から漏れる。
「姿態で騙すのは、お前の十八番じゃなかったのか?」
いらだちと吐き気から、冷たく言い返し、輝く符を指し示し印を組む。
「結界か!」
鬼が叫んだ時はもう遅かった。
踊るように指が絡まり、解ける。
そのたびに裂帛の声が森に響いた。
「四神相応! 梅花の門をくぐり西よりきたれ我が式なる白虎!」
硝子が割れるような音が鳴る。
光が一つの形を取り始める。
銀色の毛皮、主人の瞳と同じ黒曜の縞もつ神獣へと。
獣が咆吼する。
竹林が激しくゆれ、たれ込めた雲と雲の合間に稲妻が走った。
「させぬわ、小僧」
さけぶなり、大木が枝をしならせ白虎へと向かっていく。
しかし、白の獣は身を軽々とおどらせ、鞭のように襲いかかってきた枝をすり抜け、太陽と同じ金の瞳を輝かせながら鬼の肩筋に食らい付いた。
「おのれ! おのれぇえええ!」
赤い血が流れる。
今まで殺した者達の血の上に、殺してきた鬼の赤い血が。
鋭くのびた爪で、白虎の首筋を掴み、片手で枝をあやつり、薫を襲わせる。
だが薫は一息に間合いを詰め、鬼の足下に着地すると、立ち上がりながら、人差し指で鬼の額の真央を突いた。
「――墜ちろ」
指先に力を集約する。
心の奥底に眠る、もっとも清い精神の流れをイメージする。
はぜるような音がして、鬼が頭から吹き飛ばされ、今まで自分の住処であった大木に叩きつけられる。
ごきり、ともぐった音がし鬼の腕と首があり得ない方向へとねじ曲がった。
鬼の口から血があふれた。
身に纏っていた衣の、最後の白い部分が鬼自身の血によって染め上げられていく。
まるで最初からそうなることが決まっていたかのように。
最後に、かすかに鬼の唇が動いた。
兄の名を呼んでいるように、聞こえた。
夜も更けた興信所で、薫は苦笑した。
彼が出ていった時と同じように、否、しわをのばされ、きちんとおもしを乗せられた千円札三枚が、テーブルの上に鎮座ましましていたからだ。
だが薫はそれを貰うつもりは無かった。
興信所によったのは、単に事件報告の為だけなのだから。
「おい、報酬は……俺からも」
何も見なかったようなそぶりでコートを肩にかけたまま背中をむけ、出口に向かっていた薫は足をとめて振り返る。
「報酬? いや……」
友達を救おうとなけなしの金を持ってきた子供からも、またその子供からの依頼を一笑にふさず、真剣に対応してやろうというこの男からも。
薫は報酬を取る気になれなかった。
興信所の前には、一台の車が止まっていた。
(相変わらず手際がいい男だ)
十一才年上の男に向かって唇の端をかすかに上げてみせる。
あざ笑うような表情だが、それが照れ隠しなのだと、きっと守の青年は見抜いているに違いない。
車に乗り込むと、すぐにエンジンが始動し夜の街を縫うようにすべらかに動き出す。
時間が時間だからか、渋滞している車のテールランプが宝石のように連なっている。
「なあ、隼人。お前、道ならぬ恋をしてどうしても諦めきれない時はどうする?」
「は?」
運転していた男が虚を突かれたように瞬きを繰り返した。
「相手を殺すのか――それとも自分が狂うのか」
あの鬼のようになるのが愛なのだろうか。それとも……?
後味の悪さをそのままに、顔をしかめ、眼鏡を人差し指で押す。と、青年はなんでもないように視線を薫からそらせて、渋滞している道を見ながらほほえんだ。
「いいえ」
小さな、だがはっきりとした声で彼は否定してゆっくりと瞳を閉じた。
「どちらでもありません」
静かな声が鼓膜の奥で響いていた。
だが、青年の微笑みで、声で、すべてがわかった。
後味の悪さがすべて氷解した。
心地よい疲れと安堵が、身体を満たしていた。
眠りが彼を誘っていた。
――次の戦いまでの、うたかたの安息へと。
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