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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


耳切り坊主 後編

「耳切り坊主を殺して欲しいのです」
 草間興信所に現れた依頼人・安室仁史は沖縄・耳成島からやって来た。彼の島に『耳切り坊主』と呼ばれる化け物が現れ、安室を含む島の住人5人の命を狙っているのだという。
 残されているのは、彼の親友・金城雅史、婚約者・比嘉夏美。神を祭る神女(ノロ)である比嘉夏夜、その母の比嘉ナツである。
 沖縄での事前調査を追え草間興信所から耳成島へ向った4人は、だがしかし、金城雅史の血と思われるもので一面に染まった部屋と、比嘉夏美の出産に立ち会う事になる。
 耳切り坊主は、北谷王子に耳を削がれ首を切られて殺されたことを恨んでいる、呪力ある住職だ。そして依頼人・安室とその親友である金城は、北谷王子の血を引く若者であった。

「今頃どうしているのか…」
 草間武彦は、首里城からの連絡を最後に通信不能になった調査員達の行く末を案じていた。耳成島は電気も電話も通じぬ未開の地であるという。
 紫煙の向こうに冬枯れの街路樹が見える。
 婚約者や親友が死に直面しているというのに、わざわざ自らここまで足を運んできた安室という青年の、どこか常軌を逸した目の光を草間は見逃していなかった。耳成島には何か隠された謎がある筈だ。調査員達は無事だろうか……。
 だが彼には待つ事しか出来ない。彼の選んだ人間が、もう一度この事務所の扉を揃って叩く事を信じて。


<耳成島 日曜日 昼>
 道の途中に放りだした荷を広いに出ている間に、安室仁史(アムロ・ヒトシ)は客間を整えていてくれた。内一つの部屋には客用布団が3組敷かれ、砂山優姫(サヤマ・ユウキ)、シュライン・エマ、須賀原藍(スガハラ・アイ)が思い思いに座っている。草間興信所からは派遣されてきた4人の中で唯一男性である今野篤旗(イマノ・アツキ)も、多少遠慮したように少し離れた場所に座していた。
 それぞれ、耳切り坊主の襲撃に備え、または比嘉夏美(ヒガ・ナツミ)の出産に立ち会って昨夜から一睡もしていおらず、部屋には疲れと空腹の気だるさが漂っていたがしかし、彼等は眠りそうになるどころか、その眼を炯々と輝かせていた。なぜならば先程シュラインの発した一言が、各々の心を、強く揺り動かしていたからだ。
『変じゃないかしら…右利きなら削ぐに楽なのは右耳だわ』
 なぜ、安室は危険な島に親友と婚約者、その家族を置き去りに東京まで出てきたのか。
 なぜ、安室は自分を襲ってきたものを耳切り坊主と思ったのか。
 なぜ、なぜ、なぜ……その疑問に答えてきたのは全て安室。彼以外の証言は何一つ無く、彼が言ったことが本当だという証拠は、どこにも無い。
『耳切り坊主を殺してください』
 では耳切り坊主は悪なのか。
『あいつは俺の耳を削いだんです。他の皆も殺す気なんです』
 本当かも知れない。嘘かもしれない。
 黙ったままお互いの顔色を伺っていたこの時、個人の心が信と疑どちらに傾いていたのかは分らない。が、優姫の一言がその沈黙を破った。
「見間違いかもしれません。でも私は今、赤ちゃんの首に泥の筋が付いているのを見ました」
「泥? 変だなぁ。産湯を使ったばかりだし、私たちは泥なんて触ってないもの」
 突然何の話なのか、と困惑しながらも首を振って答えた藍の言葉に、シュラインも同意するように頷く。どうやらまだ、優姫が言いたい事を悟っては居ないようだった。
 腕組みをしたまま話を聞いていた今野が優姫に尋ねた。
「どんな感じに付いとったん? ていうのは、優姫ちゃんから見てどう見えたかっていう話なんやけど」
 優姫は、逡巡するように視線を彷徨わせた。何か言いにくいことがあるらしい。
 泥の筋…皆の目が優姫を見詰めた。彼女の次の一言を待って。
 そして優姫は、低く溜息を漏らし、やっとの事で口を開いた。
「泥の筋は……まるで赤ちゃんの首を絞めた痕のように見えました」
 低い呟きを聞いた瞬間、皆の脳裏に一つの単語が思い浮かんだ。
『子殺し』
 全員の背筋に怖気が走った。生まれたばかりの柔らかな肌に食い込む、土で汚れた浅黒い指。赤子は呼吸を失い、まだ自由に動かす事さえ出来ない小さな手で藻掻く。徐々に頬が土気色に変わって行く。産後の母親が声にならぬ声を上げ、子を助けようとしがみついた手を振り解いて、更に力を込める。赤子の首が折れんばかりにクタリと傾ぐ。…では、その手の主は一体誰なのか。
 耳切り坊主か? 先刻の襲撃の目的は、子供を殺す事にあったのだろうか。自らを屠った大村一族の子孫を消すという伝説の通りに。
 だが今、全員の脳裏に同じく思い描かれたのは、安室仁史、その人。
 しかし、証拠の無いことだ……そう思い、皆がその考えを忘れようと頭を振ったとき、今野が強い語調で言った。
「僕も、一つ見とります。赤ちゃんが生まれた時、思いっきり土を握り締めてた安室はんの事」
 初めての子が生まれる緊張のせいかとそう思っていたけれど…と今野は思った。短い間だが彼の為にここまで来たのだ、もし「本当の嘘」だったとしたら、腹立だしいのを通り越して悔しい。
「まさか…そんな…。安室さんは自分の子を殺……?」
 言葉の途中で、藍は信じられない、と青ざめて口元を覆った。
 シュラインがゆっくりと首を横に振る。顔色は険しい。
「私達はこの眼で現場を見た訳じゃない。でも十中八九そうなんだわ。けれど理由は? 男の子ではノロになれないから?」
だが彼女は自分でその考えを否定した。「そんな理由じゃないわね、きっと。博物館で聞いた話では、当時のノロに息子が居たと言っていたもの」
 その時、彼女の言葉に全員がはっとした。
『安室・夏夜』
 4人の視線が交差する。
「なぜ今まで気付かなかったのかしら。あのノロの名前は、夏美さんの母親のもの…」
 船上でメモを読み返そうとしていた記憶が、シュラインの脳裏を過った。あの時思い出していればもっと早かったのに。
「じゃあ、夏美さんと比嘉さんも兄妹って事になっちゃうわ。ええと…つまり…」
 藍の言葉を引き継ぐように、今野が続ける。
「つまり、比嘉夏夜さんが『安室夏夜』さんと同一人物なら、雅史さんと仁史さんは妾腹とか関係なくて、全兄弟いうことになるいう事でしょ? 苗字が云々て言うてるのは安室さん本人やから僕等は嘘つかれたかて分らんから、戸籍見て確認せな断言はできへんけど、安室姓は夏夜さんが金城さんと結婚する前の苗字かもしれん。」
「そうよ、その通り!」
藍は手を叩いた。「年から考えれば、夏夜さんが安室姓だったときに仁史さんが、金城姓だった時に雅史さんが、そして比嘉姓だった時に夏美さんが生まれた。そう考えればおかしくないわ。確か博物館の方は、確か夏夜さんの旦那さまは亡くなったって仰ってた。女の子を残す為に、幾度も結婚したり…なんてそんな事も想像しちゃうわ」
「……そうね、成る程ね…」
 一瞬間をおいて、シュラインが頷いた。ただ、まだ何か納得しかねるという顔をしてはいたが。
 事件を解決する為には、「〜だろうと予測する」事より「〜ではないと確認する」…確実に偽の情報を排除し、真相を追い詰めていく事の方が大事なのだ。混乱しそうな家系図に、手がメモを求めて脇を探ったが、無い事を思い出す。
 そんな彼女の仕種に藍が気付く。
「そういえばメモについて私も気づいた事があったんだ。実は、この家にはペンとかメモ帳なんかが全然なかったの。へその緒を切らないとって色んな所を探したのに。あの時は不思議に思う程度で気にも留めてなかったけど、夏美さんが声を出す事が出来ないなら不自然だわ」
「きっと手話とかできはるんちゃいますか?」
 今野の言葉に、藍は首を横に振る。
「電話も無い島よ。手紙を書く事くらいある筈だわ。それに私、仕事柄手話朗読会をする事もあるの。幾ら手話が出来ても伝えきれない事は紙に書いて伝えているのを見たことがあるわ」
「メモとペン……」
シュラインは細い指で額を軽く叩いた。「何か、ひっかかるわね」
 今野が藍を見る。
「なんや藍はん、手話できはるんですか。したら話は簡単や」
良いことを思いついた、というように彼は手を打った。「夏美はん本人に何が起きたか聞いたらええんや。先刻なんで聞かへんかったんです?」
「だって何だか安室さんが怖組みえたんだもの…有無を言わせずって感じで私たちを追い出しちゃったし」
少し拗ねた口調で藍は言った。「これから行って聞いて見ましょうか」
夏美は土間に面した、竈などの在る部屋に眠っている。「ご飯の時間だし」
 今野の胃が『ご飯』という言葉を聞いた途端にぐぅと鳴った。何せまだ18歳の育ち盛り。
「いい案ね。でもなるべく慎重に行きましょう。幸い安室さんは私たちが彼を疑っている事にはまだ気付いていない筈だから、彼の目の前で迂闊なことは出来ないわ」
 一同は目を見交わし、頷きあった。安室を一度夏美から引き離す、もしくは夏美から彼の気を逸らす必要がありそうだ。などと言い合いながら腰を上げようとした、その時。
 ずっと口を閉ざしていた優姫が、酷く静かに言った。
「では…あの赤ちゃんは……夏美さんと一体どなたの子なのですか」
「安室はんやろ? 今更何を……」
 答えかけた今野ははっと口を噤んだ。優姫は眼を上げ、一同を見渡した。
「だって夏美さんと安室さんは……ご兄妹になるのでしょう…?」
 妙案にやや浮き足立っていた彼等は、水を打ったように静まり返った。島には5人しか居ない。 安室仁史、金城雅史、比嘉夏美、夏夜、ナツ。
 だが若い男女3人が兄妹であったら、何となる。
「だから……殺そうとしたっていうの……?」
 古代にはなかった話ではないが、現代ではその関係が遺伝子に及ぼす影響は世に広く知られており、今では法律上でも止められている。
「せやったら、安室はんと赤ちゃんから目を離したらあかん」
今野が全員を見渡し、言った。「推理が正しければ、安室はんはまた赤ちゃんを狙う。そうやろ?」
 大女(うふいなぐ)! と叫びながら走り出していった安室の尋常でない目の色もまた、今野は見ている。
 彼等の間に一層重い雰囲気が漂った。
「でもまだ一つ、私たちは口にしていない事が在るわね。きっと皆も気付いてると思うけど…」
シュラインが言った。「彼が本当に子供の首を絞めたなら、彼と争っていた耳切り坊主はそれを止めに入ったという事。そして彼の目的が赤ん坊を殺す事なら、私たちを呼ぶ必要は無く、寧ろ邪魔な位なんだと言う事」
「耳を自ら切り落とす」
「そうまでして彼が私たちを呼んだ目的、それは…」
「そう、安室はんは……僕等に雅史さんを殺させるつもりやったんや」
 仮面を被った耳切り坊主の正体は、一面血にまみれた部屋から姿を消したと思われた男、金城雅史であると、既に全員が気付いていた。
 理由はまだ分らず、その証拠も無い。だが興信所を訪れた安室の依頼が、雅史であろうと思われる耳切り坊主を殺して欲しいという内容であったこと、赤子の首を絞めたのが安室であるなら、彼と揉み合い争っていた耳切り坊主は、赤子を助けに入ったに違いない。
 「こいつを殺せ!」と叫んだ安室の鬼のような顔、耳切り坊主が逃げた後の呆然とした顔、彼等は思い当たる諸々の場面を思い出していた。
「なぜ安室はんは雅史さんを殺そうなんて思うたんか……」
 その時優姫が、微かに震え出した。
「力が、効かなくて良かった……私はもしかしたら、この手で雅史さんを…」
 相手を妖怪か化け物と思いこまされていた。一撃目が上手くいけば迷わず連続攻撃に移っていたに違いない。優姫がたった今気付いた『自分の力で人を殺していたかもしれない』という衝撃は他人には計り知れないものがあった。
「優姫ちゃん…」
 細い肩に手を出しかねた今野の代わりに、藍がそっと震える優姫の肩を抱いた。今の優姫はとても脆く見えて、そうせずにいられなかったのだ。
 シュラインの青い双眸に怒りの色が灯り、すぅっと細められた。
「…見つけましょうその理由を。安室さんはを捉えている何かから解放するの。そうすれば、私たちはみんなを助ける事が出来る……きっと、きっとね」

<耳成島 月曜日 朝>
 4人の前には布団が敷かれ、比嘉夏美とその息子が眠っている。
 昼から夜…寝ずの番を交代で受け持つ間に、睡眠だけは何とかとることが出来たメンバーだったが、何か気に入らない事でもあるのか、もしくは自分を取り巻く異様な雰囲気に気付いているのか、泣いてばかりのこの子には悩まされた。しかも夏美の産後の経過が思わしくなく、子をあやす腕が弱々しくも動いていたのは夕べまで。今の彼女はただ、うつらうつらと眠るばかりだ。
 土間の竈で煮えている鍋の中では、5分も掛からず作れてしまう缶詰のスープが湯気を立てていた。一品のみの昨日と同じメニュー。料理の腕には覚えありの女性が3人と、それなりに覚えありの男性が一人居るにも関わらず、こんなものしか作れないのは、運んできたはずの食料がほぼ全て何者かに奪われ、手元に残ったのが10缶程度の缶詰のみであったからに他ならない。
「…もういいかなぁ」
 つと、藍が席を立った。彼女のサンダルは昨日の耳切り坊主襲来の折壊れてしまった為、土間に置かれていた下駄を履く。男物なんだろうか、彼女の足には酷く大きいが、ひんやりとした感触は悪くない。また、女性達は皆昨日よりずっと動きやすい服装に着変えていた。髪は纏め上げ、ワンピースやスカートは脱ぎ、ジーンズやスラックスやサブリナパンツに、それぞれ履き替えている。普段の彼女たちのスタイルから見れば、まず珍しい。
 蓋を開けると辺りにスープの香りが漂った。
「安室さん、これからの事なんですけれど」
シュラインは、熱を出した夏美の額を冷ます為に用意した水盥と布を手に持って、昨夜からずっと動かず部屋の隅に座り込んでいる安室に向かい、言った。「私達、今日は2組に分かれて森の中へ入ってみようと思っています」
「耳切り坊主をいよいよ倒しに行くんですね」
 思いがけず素早く強く問い返してくる、そんな安室の態度を、藍は勿論彼女を手伝う形で土間に下りていた今野や優姫達も、何気ない様子で観察していた。だから、
「いいえ…それはまだ。それより先に行方不明の3人も探さないといけませんから」
 シュラインがそう言った瞬間、安室の目に動揺が走ったのを、4人は見逃さなかった。
「彼女等がどこへ行ってしもうたか、心辺りは無いですか?」
 盆に4つの椀を乗せて今野が土間を上がる。数が足りなかった為、手捏ねで作られたらしい重い深皿を1枚用意した。眠っている夏美の分である。それから優姫が箸を探し、藍も席に戻った。
「さぁ…。全く、森の中は広いから」
 安室は表情のない声で答え、横たわった夏美の顔を眺める仕種で、彼等から眼を背けた。
 水曜日にこの島を発ち、金曜日に草間興信所に姿を現した安室仁史に約24時間の空白の時間があると指摘したのは今野だった。東京から沖縄まで飛行機でたったの二時間。実際に移動した自分たちの経験から言ってそれは事実だった。
 興信所に助けを求めて来た時は、一刻も早く島へ来て欲しい、皆が殺されるからとそう言ったのにも関わらず、無駄な時間を持った意味が何かあるはずだ。
 家の周辺まで探しても全く食料らしきものが無かった事、居る筈の家族がいない事、筆記具がない事……『まるで夏美はんが安室はんに軟禁されとるみたいに思えるんや』と彼は言った。
 人間が身体的な自由を失う訳があるとしたら、次の3つのうちのどれかである。
 1.身体に動けぬ理由を抱えている時。
 2.連絡・脱出が不可能な場所に閉じ込められて居る時。
 3.動いてはいけないと自分で決めている時。
「この島の周囲は10キロも無いわ。それに船は私たちが乗ってきたあの一船だけ。きっと捜せるはずよ」
 夏夜とナツは生きている。それが彼等の出した結論だった。生きて、夏美は勿論、もしかしたら耳切り坊主・雅史を脅す材料にされているに違いない。
「それはいいですが、森には……」
言いかけて安室は口を噤み俯いた。昼間でも薄暗い室内で、彼の口元にはうっすらと笑みが零れた様にも見えた。「それより、耳切り坊主をどうやって倒すおつもりなんですか? あなた方の力は見せていただきましたが、その辺はまだ聞いていませんが」
 4人は顔を見合わせて、シュラインが答えた。
「耳切り坊主の動きは素早かったわ。だからまず捕まえる事から始めないと」
「捕まえて。…それでどうなさるんですか」
 ぐいと身を乗り出して安室はしつこく尋ねた。その様子から優姫は思った。
── ああ、この人は聞きたいんだわ。私たちの口から『彼を殺す』という言葉を。
 なぜ彼はそこまでして耳切り坊主…金城雅史を屠りたいと思うのだろう。
「ねぇ、その話は一旦脇に置いておきませんか?」
と、藍が言った。「確かに美味しくはなさそうなスープですけど、冷めたらもっと酷い味になっちゃうかも」
 話の腰を折られた安室は、いやな顔を隠そうともせずに黙り込んだが、4人の元にやや近づいて、差し出された椀を受け取った。
「うん、ええ匂いやね」
 夕べと同じスープだと分っていながら今野は言ったが、啜るスープは塩気のみ目立ち、返答は苦笑のみに終わった。そして、彼の言う『良い匂い』がひょっとしたら刺激になったのか、赤ん坊がぐずりだした。
 反応が早いのはやはり女性達のほうで、すぐさま椀を置いてあやしに掛かる。
「この子もお食事の時間なのかしら?」
「夏美さんを起こします?」
「彼女だって何か口に入れなきゃいけないしね」
 だが徐々に大きくなっていく赤子の泣き声。その時。
「煩い! 泣くんじゃない!! 取って食うぞ!」
 突然の怒声に、一同は呆気に取られて安室を見た。安室はその体躯に似合わず、どちらかというと物静かな雰囲気を持っている男だった。船での印象は、静かというより陰湿とも取れなくもなかったが。
「子供に何するの!」
 シュラインの鋭い一声が飛んだ。安室が片膝立ちになって赤子に掴みかかろうとしたのだ。優姫は咄嗟に赤子を抱き、藍は二人の間に身を挟み、今野がその手を止めた。
「幾ら泣いたかてあんたの子なんやろ…」
それはどうかと心の中で思いながらも、今野はてに力を込めた。男の手はギリギリと音を立てて今野の腕を引き絞る。「…やめや」
 やがて、自分を睨む4対の視線に、安室は息を深く吐いた。
「……失礼しました。寝不足で取り乱して」
だが血走った彼の眼は口ほどにものを言ってはいなかった。「ちょっと隣で気分を落ち着かせてきますから」
 チャンスである。安室が夏美と赤子の傍を離れたのは、あの耳切り坊主の襲来が以来、初めてのことだった。彼の背中が隣室に消えるのを確認し、シュラインがそっと夏美を揺り起こした。
 熱に浮かされているせいか、初め夏美は彼等が誰かを認識できないで居たようだった。潤んだ瞳で辺りを見回し、しばらく。
 億劫そうに身体を傾け、優姫の腕に抱えられた赤子に手を差し伸べた。その手は夕べの力を失っていて、優姫を不安にさせた。
「ほら、あなたのお母さんはここに居ます。だから、大丈夫だから…泣かないで」
 優姫は少しかがみこみ、赤子にも自分にも言い聞かせるように囁いて、母親の手をその頬に触れさせた。
 そんな優姫の肩を藍が叩き、赤子を抱いたまま少し下がった彼女と夏美の間に膝を進めた。
『あなたは 手話が できますか?』
藍の柔らかそうな手が空に言葉を紡ぎはじめる。『宜しければ 質問に 答えて頂けますか?』
 手話にも人の心や人となりというものは現れるものだ。今藍の手は少しだけ躊躇っていた。 もし真実が興信所の面々の思う通りなら、夏美の苦しさはいかほどのものか、などとつい考えてしまうのだ。だが、この事件の全てについて知っていると思われるのは彼女だけ。躊躇ってなどいられない。
 一方、いきなり静かになってしまえば、隣室の安室を不審がらせるだろうと考えた今野は、優姫の傍に席を移して、横から尋ねた。
「僕に抱かせてくれへん? これでも結構あやすの上手いんやで」
「あら…そうしてるとまるで若夫婦みたいね」
「えっ?」
「ぶっ…! わ、わ、わか!?」
 からかう様なシュラインの言葉は、こちらもカモフラージュの為だったようだ。その証拠に彼女は険しい表情のままで、藍の手元を食い入るように眺めている。
 しかし…皆が見つめる中で、夏美は眉を潜めた。熱のせいではない。答えたくないわけでもない。その目は手話が理解できない、と言っていた。
── 違うわ。夏美さんは元々喋れない訳じゃないんだ。
「……赤ちゃんの言葉って、分らないね。何か方法があれば直ぐ泣き止んでもらえるのに」
 意を含んで呟かれた藍の真意は3人と、夏美本人にも伝わったらしい。
「そうね、何か方法があればいいと私も思うわ」
 言いながらシュラインが、すぐさま夏美の額に乗せられた布を手に取り水桶に浸し、軽く絞ると夏美の眠るすぐ傍の板床に、何事かを書き始めた。夏美は食い入るように床に書かれる文字を見つめている。
「YESなら頷いて」と前置いて、シュラインは予め皆と決めていた質問を短い言葉で伝え始めた。
『私たち 助けに来た 殺しに来たのではない』
 まずはこの言葉が一番大事だ。夏美の目が4人の顔を順に巡る。彼等が一人一人強く頷いてみせる。すると、彼女の表情が明らかに和んだ。伝わったのだ。
 勢いに任せて、質問は続いた。
『安室に脅されているか』──YES
「泣き止みませんね。もしかしたらお腹が減っているのかも」
『安室は子供の命を狙っている?』…──YES
「オムツが濡れているのかもしれないわよ」
 声を聞くだけならば彼等が何をしているか、安室には伝わるまい。
 赤子は泣きやみはじめている。そろそろ安室が戻ってくるだろう。
『耳切り坊主は 雅史か』YES!
「…っ!! …せ、せやったら新しいの出して来んといかんわ」
『安室は雅史を殺そうとしているのか』
 最後の問いを読み終えた瞬間、彼女の手が、シュラインの腕を強く掴んだ。
 熱と不安を宿した眼…どこか悲しい眼が皆を見渡す。言いたい事は沢山あるのに、もどかしいといわんばかりに、彼女は首を振り、それから水に濡れた布を手に取った。
『香具山は 畝火雄々しと 耳成と 相争ひき 神代より
         かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 』
 板間に書かれた和歌に眉を潜め夏美を見ると、彼女はもうこれで全部だと言わんばかりに頷き、優姫の腕から赤子を抱き寄せて強く抱きしめ、そして布団の上に改めて座し……深く頭を下げた。


***
 ガジュマルと松の林を抜けて、南から生暖かい風が吹きつける。色を変え始めた空の下で、藍が胸当てと懸けを付け弓の弦を張っていた。
「あまり気は進まないんだけど」
 微妙な表情で3人を見上げる。弓は得意の技だが、危険な依頼になると聞いて持って来てはみたものの、使わずに済めばいいと今でも思っている。
「藍さんも弓道をされるんですね」
 優姫の声に、シュラインが尋ねる。
「も、ってことは優姫ちゃんも?」
「はい。それに篤旗さんも」
 2人共弓は持って来ていませんけれど、彼女は言った。道具なしでも発動できる力がある故に。
 これから二手に分かれて森へ入る。力が均一になるようにと編成された二組だ。
 まずはシュラインと藍。シュラインには鋭い推察力はあるが、藍のような攻撃能力は無い。
 次に優姫と今野。普段なら攻撃の要ともなる優姫の力は昨日、耳切り坊主に通用しなかった故。
 そして夏美の傍には必ず一組が残り、安室から彼女と赤子を守る。そういう手筈だ。
「さて…用意が出来たら、行きましょうか藍さん」
 シュラインの呼びかけに頷き、藍が立ち上がった。足元は、あの大きな下駄から、優姫に借りたブーツに履き替えている。
「気を付けてくださいね」
 今野と優姫の声を背に、藍とシュラインは森へと入って行った。

[シュライン・エマ 須賀原藍]
「空気が湿ってるわね、雨が降り出すのかしら。それとも元々こういう気候の土地なのかしら」
 シュラインが空を見上げて言った。ガジュマルの森の中で見上げる空は葉の影に隠れて狭い。島に着いた時安室が言っていた様に、この先踏み込めばどんどん薄暗くなっていくのだろう。
「分らないけど、なんだか不気味な雰囲気ね…少し怖いわ」
 普段なら爽やかに聞こえるはずの鳥の声も、今は不安を増すように聞こえる。奥へ向かうにつれ細まる小道には木の根が張り出し、雑草が生い茂り、都会育ちの二人はおぼつかない足取りで時間をかけて歩くしかなかった。道が平坦であるのだけが救いである。
「ねぇ、藍さん」
額に浮かんだ汗を拭いながら、シュラインが藍に尋ねた。「先刻の事、どう思う?」
「先刻の事って藍さんが書いた和歌の事? 大和三山になぞらえた、二人の男性に想われた女性の歌ね。……ロマンス好きの図書館司書の悪い癖でつい深読みしちゃうけど…きっと私が考えてる事で間違いないわよね? 多分彼女は、安室さんと雅史さん二人に想われて苦しんでいる」
「そうね。私もそう思うわ。それから声の事。あなたの手話が通じなかったと言う事についてはどう思う?」
「耳はしっかり聞こえてらっしゃったようだわ。とすれば今声が出せないのは、喉に傷を抱えているか、精神的なものかどちらかだと思うんだけど…和歌を踏まえると私、原因は後者にあると思うわ」
「そう…やっぱり、そうなの……」
 瞬間、シュラインの心にある情景が蘇った。
 目の前で火の灯った蝋燭が揺れている。昼間から閉ざされた厚いカーテンで部屋は暗い。
『ア、あ、…あ』
 耳を澄ませ、指先で机を軽く叩きながら、大きく口を開いて息を吐く。だが灯火は揺れるものの、耳には木を弾く軽い音しか響いてこない。
── 耳がおかしくなった訳じゃない。呼吸も出来てる。
 小さい頃から割とクールな方だった。声が出なくなったと知った時、言語学の本に埋もれる合い間に、試すように幾度も繰り返したこの仕種。発音以外の全てをマスターしても自分の声は耳に届いてこなかった。
── なぜ? 喉を震わせて空気に響かせればいいだけなのに。
 言葉にされなくても分る。父が、母が自分を心配しているのが。だから早く声を出さなければ。
 季節が巡る。月日が流れる。
── 私はもう気になんかしてないわ。私はもう……大丈夫な筈なのよ!
 灯火が暗い部屋の中で揺れる。カーテンはまだ開かない。
 だが、ある日彼女はカーテンの隙間から差し込む白い光に気付いた。
 初めは僅かに、それから段々と大きく。
 開いた窓の向こうには、若葉の芽吹く春の景色があった。
 後ろでドアが開いた音に彼女は気付いた。誰が入ってきたのか振り返らずとも分った。彼女の耳はこの数ヶ月の間に、いつの間にか常人以上に研ぎ澄まされていたからだ。
『ねぇおかあさん。なんだか私お腹がへっちゃった』
 自然に出てきた何気ない一言。
 駆け寄られ、背後から強く抱きしめられた時、胸に溜め込んでいた幾つもの言葉が、涙になって頬を伝った。好き、嫌い、綺麗、汚い、嬉しい、楽しい……幸せ。
「出せるはずの声が出ないっていうのは、結構辛いものなのよ。特に、自分でその原因に思い当たる節があるときはね」
「シュラインさん…?」
 突然黙り込んでしまったシュラインを心配するように、横顔を覗き込んでいた藍を、シュラインはまっすぐ見つめ返し、不敵に笑った。
「夏美さんに言葉を取り戻してあげましょう、藍さん」
強い瞳で藍の顔を見る。「私、雅史さんと連絡を取りたいわ。安室さんの言葉には嘘がある。夏美さんは声を出せない。とすれば後は雅史さんしかいないのよ。全てを知っていそうなのは」
「夏夜さんとナツさんが居るわ」
 藍の言葉に、シュラインは首を振った。
「食料が、なくなっていたでしょう? 私はね、あれは雅史さんの仕業だと思ってるの。食料は大量だったわ。少なくとも私たち5人分は在った筈。雅史さんが自分の分だけ確保するつもりだったならあんなに大量にはいらない。なら、何処かに捕らえられた他のお二人の分も持って行ったとしか思えないの。だから、雅史さんを探すのが一番早いのよ」
「なるほどね! でも島は広いわ、どうやって……あ、そうだ!」
 彼女はポケットの中を探った。
「何してるの?」
「目立つ所に符を貼っておこうと思って。う〜ん、説明はしにくいんだけど、この傍を雅史さんが通り掛かったら、私に分るような…言葉は悪いけど『罠』みたいな感じかな」
 シュラインは目を輝かせた。
「それって、こちらからの伝言を彼に伝えるなんて事は出来ないかしら」
流石は、陰陽師の知人を多く持つシュラインである。良い所に目を向けたものだ「せめて、私たちが彼を殺そうとして来たわけじゃないって事だけでも」
 藍の瞳に納得と尊敬の色が浮かぶ。
「出来る。出来るわ! 成る程ね…ちょっと待ってて」
 ひ〜ふ〜み〜、と枚数を数えて、藍は眼を閉じた。
── 何だか藍さんって少し変わってる人ね、暢気に見えるというか…。
 そのまま見守っていると、ふぅっと藍の呼吸が止まった。
「っ!?」
 瞬間、シュラインは息を自由に出来なくなった。
── 声が、出来な……
「ふぅ…終わり。後はこれを森の中に一定間隔置いて貼っていけば、いつかはアクセスできるはずよ」
「けほっ…けほっ!」
 振り返った藍が見たのは、苦しげに咳をするシュラインの姿だった。
「あ、あれれっゴメンなさい! 息が合っちゃったのね?」
「息が、合う?」
「今、私とシュラインさんの呼吸は自然と同化していたの。そして私が呼吸を止めたものだから、釣られてシュラインさんの息も止まっちゃったの。久しぶりだったから気を付けていなくて……ごめんなさい」
「…だ、いじょうぶ…よ。気に、しないで…」
「そう? ああ、良かった」
 シュラインの動揺は幸いにも、からりとした性格の藍には気付かれなかったようだ。二人は再び歩き出した。何気ない会話をしながら時折足を止めて符を貼るが、雅史…耳切り坊主の気配は無く。闇が訪れる前に戻ろうかと、引き返し始めた時、ふと、藍が口を開いた。
「本当に…人前でこうして術を使ったのは久しぶりだったなぁ」
その呟きを怪訝に感じたシュラインが彼女の横顔を見ると、藍はくるりと振り返って軽く笑った。「草間興信所では何て事ないって思われるかもしれないけど、やっぱりこういうのって普通じゃないでしょ? だからずっと使わないでいたし、できる事自体おかしいんじゃないかなって思ってた事も多かった。ウチには兄弟が居て、あの子達もそれぞれ特殊能力を持ってて、そのお陰で色んな事が起きた。…自分では前向きに生きてきたつもりだけど、時々へこたれそうになった事もあったわ。」
少し、寂しそうな笑顔ではあったが、藍の表情は晴れやかだった。「だから私、草間さんの興信所を知ったとき、凄く嬉しかったのよ。なんていうか…ここでは楽できそうだなぁって。あ、勿論楽な仕事ができるって意味じゃなくて」
 慌てた様子で藍は手を前で振り、それから照れたように、頬を掻いた。
「…何で私、こんな話シュラインさんにしちゃってるのかなぁ。同じ年で、興信所でバイトしてる人で…それに何だか話やすい雰囲気を持っている人だったから…なのかな。迷惑だったらゴメンね?」
「全然…迷惑なんかじゃないわ」
 答えながら、シュラインは少しどきりと胸を弾ませ頬を染め、それから少し驚いていた。自分にとっても居心地の良い草間の事務所。ああして自然と人が集まってくるのはなぜだろうと考えた事が無かった訳ではない。そうか…そんな風にほんの少し息抜きをしたいが為にやってくる人間も居るのね…少し先を歩く藍の背中を見ながら、シュラインがぼんやりとしていると、藍がいきなり振り返った。
「ね、その内ウチのボケ兄と頑固な弟にも会ってあげてね。興信所に連れて行くわ。美味しい珈琲がタダで飲めるって言う話だし」
「? 誰に聞いたの、そんな話」
 シュラインがきょとんとした顔で尋ねると、藍は肩を竦めて答えた。
「船の上で。優姫くんと今野くんから」
「…今度から有料化する提案でもしようかしら……」

***
 夏美の家に戻った二人は今野たちに出迎えられた。聞けば、夏美の容態はますます悪くなっているという。水曜日の船が来たら、医者を呼ぶか本島に連れてゆくかしなければなるまい。
 気分が悪くなったのは、符を張って耳切り坊主を捕らえるつもりだと言った時の、安室の反応だった。
「その符で直ぐに殺す事は出来ないんですか」
 一日中その調子だったのだ、とは後から聞いた。一緒に居た優姫たちはさぞかし欝な気分になったことだろう。
── 何がそこまで安室を追い詰めているのか……。
 日暮れていく。


<耳成島 火曜日>
 夏美の傍で再び交代の寝ずの番をしつつ、島での3日目の夜が明けた。疲れや睡眠不足にはまだ耐えられそうだったが、空腹が、徐々に身体を蝕み始めている。
「…くれぐれも気をつけて」
「何かあったら直ぐ戻ってくるのよ」
 そんな心配そうな声を背中に、今野と優姫は家を出た。

[今野篤旗 砂山優姫]
 警戒しながら歩く森の中には、爽やかとはいいがたい重い雰囲気が漂っていた。昨日と違うのは鳥や虫の声さえしなくなった事だが、都会育ちの二人は何かがおかしいと感じながらも気付かずに、どんどん森の奥へと入り込んでいた。優姫はシュラインが道や印を記入した地図を持ち、今野は藍の作った符を片手に持っている。
「あっ…」
 小さな声に、今野が過敏に反応して振り返った。
「大丈夫? 優姫ちゃん」
「いえ、少し躓いただけですから」
 ブーツの踵が木の根に掛かったのです、と優姫は言って直ぐに今野から眼を逸らした。
 一昨日の一件から今朝まで。シュラインたちが家を出た後も二人の態度はどうもぎこちない。
── あんな事言うたんや、眼ぇ合わせてくれんくもなるよなぁ。
『優姫ちゃんはいつもそうや。危ない場所でも依頼でも一人で行ってまう。自分を心配する人が居るて分らん程、莫迦な子やない癖に。…どうして全部一人でやろうとするんや!』
 分っている。彼女は皆に良かれと思って一人で行ったのだ。けれど彼女は、もしかしたら死んで居たかもしれなかった。
 気付いたら声を荒げていた。優姫は今野が彼女に長い間恋心を抱いているなどとは勿論知らない。殆ど言い掛かりも同然に頭ごなしに叱られて、気を悪くしない方がおかしい…今野は鬱々と考え続け、思わず溜息をついた。
 今野の背中を追いながら、その深い溜息を聞きつけ、優姫は黙ったまま足元を見下ろした。
── やっぱり篤旗さん、呆れてらっしゃるんですね…。
 不注意すぎた事、自分の力を過信しすぎていた事、人に迷惑を掛けた事。当たり前の事で怒られて、なのに謝りもせずに文句を言った。
『そんなに言うなら一緒に来てくれなくても良かったんです』
 そんなつもりじゃなかったけれど、きっとそう聞こえただろう。まるで我侭な子供みたいに。
 本当は違う。あの時初めて…今野が自分の為に一緒に依頼に来てくれていたのだと、雷に打たれた様に気付いた。
 初め彼は、従姉妹と、彼の妹とが居るその先に、少しだけ距離を置いて立っていた。それがいつの間にか彼の妹が居なくなり、従姉妹が居なくなり。自分の直ぐ隣に居る事が珍しくなくなった。あんまり自然にそこに居たものだから、気付かなかった。
── 勢いで言ってしまったけれど。
── それでもあの言葉全部が嘘というわけでもない。
 だから、謝るに謝れない。きっかけも掴めないまま二人はどんどん森の奥へと入っていった。
「もう日も差さんほどになって来たなぁ」
今野は鬱蒼と茂った木の枝を見上げて言った。それでも森の中には人が漸く通れる程度ではあるが道が続いている。「な、優姫ちゃん、この辺で一旦引き返そか? 昼には交代せな…」
 振り返った今野は、優姫がどんどん森の奥へ歩いていく事にぎょっとしてその背に呼びかけた。
「ちょっと、優姫ちゃん、どこ行くん」
「え?」
 物思いに耽っていた優姫は、はっと我に返って歩みを止め顔を上げた。
 その眼の前に何か気になるものが飛び込んできたのはその時だった。
「あれはなんでしょうか、篤旗さん」
 二・三歩後ろから後を追ってきた今野は優姫の指差す方を見た。その先には木々が切り開かれ光が差し、高さ3メートルほどの石で組んだ門柱がぽつんと建っていた。
「さぁ…見たこともあらへんけど…」
二人は吸い寄せられるようにそちらへ歩み寄った。その時!「動いたらあかん!」
 今野の手が優姫の腕を掴み、強く引くと同時に身体を入れ替えた。一瞬のことに呆気に取られた優姫は彼を見上げたが、足元で走った黒い影に気付いて身を竦めた。
── こ…これは。
 二人の周辺には攻撃態勢に入った何十匹というヘビが這っていた。気配はすぐ頭上の木の上からもする。金色の目が薄暗い森の中でぎらぎらと光り、二人を注視している。
「このまま後ろへ下がるで」
 今野の背に庇われたまま、優姫は後ずさった。彼等が後退し始めると共に、蛇はゆっくりと四散していく。まるで意思を持った門の守番のようだった。
「…び、びびった…」
やや広い小道まで出ると今野は胸を撫で下ろした。そういえばここは沖縄だったのだ。多分あれがハブというものなんだろう。「あっ、最悪や、噛まれとる!」
 エアが入っているはずの靴の踵から、思い切り空気が抜けていた。二つ並んでいるのは牙の刺さった跡なのだろうが、分厚く堅い靴を貫通するとは、なんと鋭いのだろう。
── 新品やったのに。ハァ…まぁええか〜。靴で済んでよかったわ。
「何をしてるんですか、早く靴を脱いでください、篤旗さん!」
 胸元に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴られて、今野は思わず目を丸くした。
「え…? 優姫ちゃん…?」
「どこを噛まれたんですか? 毒を抜かなければ。ぼんやりしてないで、早くっ!」
 今度は本当に彼の胸元を掴み、何とか座らせようと引っ張っている。だが力を使っていない状態の優姫の細腕で彼がどうにかなるわけでもなく。
「あの……僕、どこも噛まれとらんけど」
困ったように頬を掻いて、今野は言った。「靴の底齧られただけやってん」
 きょとんとした黒い瞳が彼を見上げ、逸らされた。優姫は俯き、ゆっくりと今野の胸元を離し、彼に背を向け来た道を戻り始める。
「優姫ちゃん? ごめん、そないに驚かしてもうた?」
 だが優姫は隣に並んだ今野に顔を見られぬように背け、早鐘のように打つ心臓の上を服ごと握り締めた。
「いいんです。私が早とちりをしただけですから。お気になさらないでください」
── もし噛まれていたら。今頃は…。
 紛らわしい事をしてしまったとか、悪かったとか、今野が言っているのが遠くに聞こえたような気もしたが、優姫の心にまでは届かなかった。

***
 疲れた様子だったが、やはり眠らず起きていたシュラインや藍と共に例のスープを啜りながら、襲ってきた蛇の事、森の中に突然現れた門の事など伝え終わった時には午後2時を過ぎていた。安室は、僅かでも良いから食べられる物を探すと言って、集落の隅で昔開墾されていた畑の方に行っている。
「ハブか…厄介ね」
「夜行性の蛇のはずだけど、森の中は暗いし、丁度今の時期が活動の中心なんだわ」
 二人の女性の言葉に、今野はだが、首を振った。
「でも蛇は、まるで僕等があの石の門に近づくのを阻止しようとしてる様に見えました…優姫ちゃん、そうやろ?」
「え、あっ…そうですね」
いきなり話を振られ、物思いに耽っていた優姫ははっと顔を上げた。「すみません…私、水を替えて来ます」
 夏美の枕元に置かれた桶を手に取ると、優姫は立ち上がって戸口を出て行く。
「ちょお待って! 一人で外出たらアカンて言うとるやん……」 
 二人が再び外に姿を消すと、シュラインと藍は目を見交わした
「今野くんたら、優姫ちゃんを怒らせる様な事でもしたのかな?」
「それはどうかしらね。私割りと以前からあの二人を知っているけど」
シュラインは自分の事は棚に上げ、軽く笑った。「…もしかしたらそろそろ…なのかもよ?」
 と、藍を見た青い瞳は悪戯気に輝いていて、藍は思わず大きく微笑み返した。
「あら、あら〜そうなの。まぁ…お姉さんちょっと照れちゃうわ〜」
それから、ふと真面目な顔をしてシュラインに問いかけた。「覗きに行っちゃダメかしら?」
「野暮は止めて置きなさいよ。ん……?」
その時シュラインの鋭い耳が、微かな羽音のようなものをキャッチした。「何か聞こえるわ」
 音源に顔を向けると壁に藍の弓が立て掛けられている。そんなシュラインの仕種を見て、藍は思わず声を上げて壁に駆け寄り弓を手に取った。
「やったわ! アクセスできたのよ、シュラインさん!」
 弓は細かく震えており、その小さな震えをシュラインが聞きつけたのだった。
「地図を…そう…分ったわ。場所は……ここ」
 シュラインの開いた地図には、符を貼った場所が×印で幾つも書き加えられていたが、そこは森の、つまり島のほぼ中心であり、先程今野と優姫の報告にあった、石門から一番間近な一点であった。
「今、話せる?」
「多分……もう少し…近づいてくれたら…」
目を閉じた藍が言うには、符は既に発見され、自分たちに彼を襲う気が無い事だけは伝えられたという。「シュラインさん。私の背中に手を置いて? 今から私が…なんて言ったらいいのかな……電話みたいな、ものに、なる…から…。後は、ま、か、せ……」
 弓を抱いたまま、藍の首ががくんと落ちた。
 シュラインは、生唾を飲み込んで、彼女の細い背に手を置いた。パリンと静電気のようなものが掌に走り、しびれ続けるが、シュラインは手を離さずに、自然に目を閉じた。
 瞼の向こうに森の中の情景が浮かんだ。符と藍を通して見えているリアルタイムの風景なのだろう。まるでTV電話のように四角い画面が区切られた隅に何か動くものがあった。
── あれは…仮面の男。
 辺りを警戒しながらも近づいてくる。そして符の前で立ち尽くす様にして、恐る恐る触れてきた。
『あんたたちは一体何者なんだ』
 初めて聞いた仮面の男の声は、深くどっしりとした響きを持っていた。心の声なのだろうか、隙間から見える口元はピクリとも動いていない。
── やはり、言葉を封じられているのね。
 苦い思い出がシュラインの脳裏を過ったが、これはきっと質の違うものだからと自分に言い聞かせ、心の平静を保つ。
『私たちは安室仁史さんから耳切り坊主を殺して欲しいという依頼を受けて、東京の草間興信所という所からやって来たの』
相手の動揺が藍の背につけた掌から伝わってきた。『あなたは金城雅史さんね? なぜそんな格好をしているの? なぜ夏美さんの傍に居ないの?』
 訪ねたい事は沢山あった。安室が島を出てから起きた事、優姫を襲った時の事、安室と争った理由。そして今一体何をしているのか。
 だが交信の時間は短かった。藍の体が震え出し、明らかに無理をしていると分ったからだ。
『時間が無いわ、雅史さん。術者の体が持たないの。夏美さんは体の具合が良く無いわ。私たちは水曜日の船で彼女を医者に連れて行こうと思ってる。そしてあなたを助けたいと思ってる。…あなたは、一体どうしたいの?』
『俺か…俺は……』
 雅史の唇が動いた。そして次の一言は、半分意識を神格化させている藍の心にも響き渡った。

***
 ただ水を汲みに出ていたにしては長い間外に居た今野と優姫が戻ってきたのは、藍を通じた耳切り坊主とシュラインの会話が丁度終了した所だった。
 自らを符と同化させ媒体とした藍は睡眠不足の上に疲労困憊になって倒れこんだが、それでも通信の興奮で意識は失わずに居た。
「えっ…雅…いや、耳切り坊主がどこにおるか分ったんですか!?」
 驚きを隠せない二人に向かい、シュラインは重く頷き、藍はVサインをしてみせる。
「それで……?」
 言葉を交わす事が出来たのか、と暗に含めて優姫が促す。
 連絡をつけることは出来たのか、と暗に含めて優姫は促した。
 シュラインは戻ってきた二人が、出る前とは少し雰囲気を異にしていたことに気付いたが、あえては何も言わずに、夏美の傍に座るように指示し、藍には枕を与えて布団を軽く掛け、話し始めた。

-----
耳切り坊主・金城雅史の話
 どこから話そうか……そうだな。
 俺達は一週間分の食料を交代で買い付けに行くのと同時に、その週を本島で過ごす事になっていた。幾ら人の少ない島だといっても、稼ぎが無くては皆を養えないから、俺と仁史と交代で港の荷下ろしの職についてるんだ。
 ある日島へ戻ると、普段なら船着場まで荷を運びに来てくれる皆の姿が無く、不思議に思った俺は比嘉の…夏美の家を尋ねた。家の中は暗く冷えて、その中にぽつんと夏美が座って、オバァとアンマー(母。夏夜のこと)が両脇に座っていた。「仁史はどこ」と聞いたら「追い出した」って言う。そんな馬鹿なと思った。追い出すと言ったって、島から出るには俺が乗ってきた船に乗るしかないし家は二軒しかない。
 その頃俺は、集落の外れの家に独りで住んでた。戻ってみると案の定仁史が上がり込んでいて、まるでさっきの夏美のように、板間の真ん中に膝を抱えて蹲ってた。「何があった?」と聞いたらあいつは初め黙ったままで、しばらく経って漸く答えた。夏美を抱いた…って。
 俺は…いや、俺達は仁史がそんな事する訳無いと思ってたんだ。
 昔からあいつは物静かで我慢強かった。だからあいつが何かする筈は無いって思ってたんだ。
 どんなに、どんなにあいつが夏美を好いていても、実の兄妹なんだから……って。
 え…? 俺と夏美の間に血縁は無いのかって? 無いよ。俺は金城の母と安室の父の子だからな。妾腹なんだ。そう、本家の苗字は安室だ。金城じゃない。最も本家なんて、俺が生まれて直ぐに潰れてなくなったけどもな。
 そして俺が11、仁史が12、夏美が8つの時、俺たちを除いた最後の家が島から出て行った。この島は不便すぎるからと言ってたが、本音はノロに関わりたく無いと、そういうことだったんだろうと思う。その時俺が……妾の子であるばかりか、ノロの血も引いておらず、村の隅で縮こまって暮らしてた俺が、夏美の婚約者に決まった。
 家を貰った。食うに困らなくなった。……オバァ達が優しくなった。
 それまで、3人で遊んでるといつも、俺を汚いものみたいに見てたくせに。仁史と俺は殆ど同じ時期に生まれて、同じ顔で、同じ身体つきをしてたのに。
 あの頃は、仁史と逆だったらって何度も考えてたっけな。家族が居て、恵まれてて。
 だけど今は……。
 俺は仁史が好きだった。温厚で頭も良かったし、優しかった。でも、どこかできっと妬んでた。 夏美の事がずっと好きだったよ。小さい頃から良く懐いてくれて、可愛かった。でも仁史も同じ風に夏美を想ってる事、俺達は知っていたんだ。知っていて、夏美も俺も、オバァもアンマーも一緒に知らない振りをしてた。知らない振りして一緒に暮らしてた。養い手が減るのを恐れて島から出る事も許さずに。夏美は…辛そうな顔を隠せずにいたけどな。
『あの日』の喧嘩は夏美が止めに入って終わり、オバァ達の提案で仁史は、俺が居ない間『術封じの仮面』被せられる事になったんだ。そう、俺が今被せられてるこの仮面さ。元は耳切り坊主の術を封じる為に作られたものだが、俺たちは北谷王子の血を引いてる。だからあんたたちが使えるみたいな能力が、多少なりともあるんだ。
 オバァは仮面を被せた上で仁史を家の柱に括りつけた。仮面を着けると声が出ず体力も酷く消耗する。自分では勿論外せない。俺も夏美も、そこまでしなくてもいいんじゃないかと言ったが、オバァは許さなかった。仁史もこれは自分への罰だからって…そんな風に二月過ぎた頃。
 夏美の妊娠が分った。
 俺の子かもしれない。仁史の子かもしれない。本当のところは誰も分らないが、オバァ達は反対した。理由は明らかだけれど、夏美は生むと言い張った。だが子が大きくなるにつれて、妙に口数が減っていき……本当にいつの間にか、声を失っていた。
 精神的なものだと言った医者の言葉にショックを受けたのは、俺より夏美より仁史だった。
 あいつは…オバァ達に責められて、夏美の声も失って……追い詰められていったんだと思う。
 先週の水曜、本当なら俺が行く順を押し切って仁史は本島へ行った。
 なのに、木曜の朝。息苦しさに目を覚ますと仁史が俺の枕元に正座して、俺をじっと見下ろしていたんだ。そしてこう言った。
『オバァとアンマーは御嶽(うたき)に閉じ込めてきた。お前を殺してやりたいが……』
その時初めて俺は、仁史の左耳が無くなっていた事、そこから流れる血で辺り一面赤く染まっていたこと、視野がやけに狭い事…仮面を被せられた事に気付いた。『これからお前を殺してくれる人を探しに行く。俺はもうきっと、おかしくなり始めてるんだと思う。お願いだから雅史、彼等が来たら大人しく殺されてくれな。…でないと俺は何をしでかすかもう良く分からない』
 多分仁史は二人を閉じ込めるだけでかなりの力を使ったんだと思う。何度も転びながら出て行った。俺は恐ろしくて、後が追えなかったよ。あいつは、別人のように見えた。
 仁史が言うのは、俺が死ねば皆を開放してくれるという事なんだろうと思う。夏美と二人して御嶽へ行ったが、仮面を被せられていては結界を破るのは無理だった。元々あそこは男子禁制だしな。
 そこへあんたたちが本当にやって来た。夏美が俺に身を隠せと言って…多分彼女は、俺と仁史の争いが見たくなかったんだとも思うが…俺を追い出した。俺は森の中に潜んだ。荷を荒らしたのは俺だ。食い物が欲しかった。俺の分も、オバァ達の分も。夏美には後でこっそり運ぶつもりだったんだ。子供が生まれた事、仁史が子供を殺そうとしたのは俺も夏美も予測していなかった。
 そしてあんたたちがどうしても帰らない様子なら……すまない。殺そうとも思っていた。俺は夏美が大事だ。自分の命も大事だ。……仁史も、時間を掛ければ思い直すだろうと思ってたんだ。
 でもあんた達は俺たちを助けてくれると言う。
「俺は……あんた達を頼る。夏美も、オバァもアンマーも…仁史の事もどうか、助けて欲しい」
-----

 シュラインと藍による話の再現が終わった時、今野と優姫に出せたのは、深い溜息だけだった。
 眠気は何処かに吹き飛んで、4人は目を見交わした。
「つまり食料を持ち去ったのは雅史さん。私を襲ったのは敵だと思っていたのと、自分たちの食料も確保する為だったんですね。そして多分…メモを持ち去ったのは安室さん」
 優姫の言葉に今野も頷く。
「僕が気になってた24時間のタイムラグも、漸く納得いったわ」
「私の能力や、優姫くんの力が通じなかったのは、彼の被っていた仮面を狙ったから…か」
 と、シュラインが下駄を履いて土間へ降りた。思えばこれも、この家を追い出された安室仁史が履いていたものなのかもしれない。
「家系図、整理してみましょうか」
彼女は灰の中から燃えさしの小枝を引き出して板間に戻った。

======================================
「初めに安室さんが書いたのがこれ」

                       ナツ 
                         │
                         │
安室(母)___ 金城(父 旧大村氏)___ 夏夜___ 比嘉
       │             │     │
       │             │     │
     安室仁史        金城雅史     比嘉夏美
      
======================================
「次に今野君と藍さんが提案したのが、夏夜さんを中心に考えた、これ」

  金城 ────── 安室夏夜 ────── 比嘉
       │       │        │
       │       │        │
 金城雅史(次兄) 安室仁史(長兄) 比嘉夏美(妹)

======================================
「でも本当は…こう」
                    ナツ(オバァ) 
                        │
                        │
金城___ 安室(本家 旧大村氏)___ 夏夜(アンマー)___ 比嘉
    │              │           │
    │              │           │
  金城雅史         安室仁史         比嘉夏美
======================================

「本家の苗字…金城と安室、一つ姓が変わるだけで、仁史さんと雅史さんの立場が逆転するの」
小枝を脇に置き、シュラインは3人の顔を見渡し、言った。
「安室さんはね、私が彼に、夏美さんを愛してらっしゃるかと尋ねた時、こう答えたわ。『島には俺だけしか居ないから』って。ずっと何の事だろうと考えてた。思い当たったのは『夏美さんと婚姻関係を結べるのが彼だけ』という事。だから、彼が子供を殺そうとしていると、今野君や優姫ちゃんの言葉で気づいた時、愛してるって言うのは口だけで、義務とか儀礼の為に彼女と関係を結んだんだと思ったのよ…でも、彼は寧ろ……」
「夏美さんを愛する余りに、自分の立場を彼と入れ替えたいと願った…いいえ、そう思い込み始めているんですね」
「同時に僕等に偽の家系図を見せて、問題なく耳切り坊主を殺させようとした。頭のええ人や」
 思わず溜息で終わった3人に、藍が強い口調で言った。
「だったら! ますますこのままでは駄目よ。御嶽(うたき)の場所を探して二人を助けて、夏美さんも雅史さんも…安室さんを止めなくちゃ! このままじゃ…」
 その時。土間に続く戸がガタンと揺れた。
 皆ははっとして振り返る。思わず声が大きくなっていたが、そういえば安室が出て行ってから大分時間が経っていた。
「…何やら声がしましたが。どうかしましたか」
 畑に残っていた芋を探って掘って来たと安室は手に持った籠を土間の隅に置いた。
 床に書かれた家系図を慌てて隠すように藍が布団を被り横になる。
「……あんまり大きな声を出すと、聞かれてしまいますよ……耳切り坊主に……」
 4人の傍に歩み寄る顔つきは穏やかだった。
 けれども。
 その笑顔は、彼自身の素顔の上に仮面を貼り付けたように見えた。


<耳成島 水曜日 夜明け前>
 カタリ…と小さな音を立てて戸が開いた。
 西の空に沈みかけた月が明るく白く輝く中、長い影が一つ比嘉家の周りを巡っていた。
「ごめんなさい…夏夜さんたちを逃がすまでの辛抱だから……」
 藍である。興信所の4人は中に眠っているはずの安室だけ残し、符を入り口という入り口に貼り動きを封じる作戦を練ったのだ。
 森のとば口には、腕に子供を抱いたシュラインと、藍の弓を手に持った優姫と、そして腕に比嘉夏美のぐったりした身体を抱えた今野が待っている。
 昼間優姫と今野が見たあの石組みの門が御嶽なのだと、ふいに意識を取り戻した夏美から確認が取れた。雅史はその傍に居ると藍の弓が伝えていたし、話は全て安室に聞かれていただろう。 船が浜に着くのは、朝9時。あと約5時間と言う所か。それまでに夏夜たちを助け、夏美や雅史を船に乗せる。彼等さえ逃がす事が出来れば、安室の切り札はなくなり、優位に立てる。
 そうすれば後は彼を説得する事も、最終手段として、捕らえ、気持ちが落ち着くまで何処かに…隔離する事も出来るだろうと…そう考えた。
 また、安室に自分たちが、耳切り坊主・金城雅史を殺す気が無いとバレた以上、あの家に居てはいけないと全員が思った。安室は興信所の所員に雅史の殺害を依頼したのだ。真相を知る彼等が島から逃げる事になれば、次の依頼も出来ない。結果彼の目的は果たせなくなる。
 今は自分たちの命も危ないと思って良かった。 
 藍が貼った符はさほど長持ちしない。そして島の地理に詳しいのは安室であり、こちらには雅史が居るものの、か弱く力の無い女性と赤子が合わせて4人も居る事になり、不利だ。
 御嶽までの道は酷く長く感じた。彼等自身もロクに眠らず食料も乏しい中での4日目。
 疲労が溜まり空腹を嫌でも感じる。妙な話だが、昨日安室が取ってきた芋が無かったら、今動く事さえ敵わなかったかもしれない。
 ガジュマルと松の森は薄気味悪いほどに静かで暗く。踏み込む一歩ごとに深い闇に入り込んでいくように思えた。
「蛇に気をつけて」
 シュラインの言葉も役に立つとは思えない。足元さえも良く見えないほどだったから。
「そろそろ火、つけましょか」
 木の枝に、藍が首里城で購入した泡盛を浸した布を巻いたものにマッチで火をつけると、辺りがやや明るくなった。葉の影が一層不気味に周辺を照らし出す。途端に足元から何かが音を立てて引いていった。
「…何かしら、今の…」
「気のせい…という事にしておきませんか?」
 弓を藍に返した優姫は、今野の逆側から夏美の身体を支えながら呟いた。そして…更に1時間余り歩いた所で、藍の弓が強く反応を示し、同時に脇の茂みが音を立てて掻き分けられた。
「きゃぁっ」
 予測していたにも関わらず、つい声を上げてしまったのは藍だったが、他3人は比較的冷静にそちらを振り返った。
 仮面の男が立っていた。声が出せないとは分っているが、何も言わずに向ってくる姿は流石に不気味に見えた。初めてまともに対峙する事となったが、金城雅史は安室に負けず劣らずの体躯の持ち主で、着物に付着した黒い染みは、安室が耳をそいだ時の血なのだろうから。
 彼はまず今野の腕に抱えられた夏美の姿を確認し、シュラインの抱いた赤子にそっと触れた。 その小さな手を確認するように。柔らかな頬の丸みを確かめるように。
 小さな穴から覗く黒い瞳が潤むのが見えた。
 もしかしたら自分の子ではない小さな命を、この男は既に愛し始めているらしい。
 そして男は今野と優姫から、夏美の身体を抱き取ると、軽々と背に乗せた。
「雅史さんですね?」
シュラインの問いかけに男は頷いた。「夏夜さんとナツさんを助ける方法を、教えて欲しいの」
 再び男…雅史は頷いたが、方法をどう伝えていいのか、もどかしそうに身を捩った。
 そこに進み出たのが優姫だった。彼女は彼の仮面を避け太い腕に触れ、直接心に語り掛けた。
『あなたの思考を少しだけ、読ませていただいてもいいですか……?』

***
『御嶽…石門の向こうに二人は捕らえられている。だが入り口に張られた結界は、物質は通すが人は通さないので、破る為には安室が作った時以上の力をぶつけて弾き飛ばすしか無い。更に門は神聖なもの。近づいただけで『守り』が働き、男子禁制ゆえ特に男が近づくとますます酷い事になる』
 後一歩先に進めば『守り』の働くという手前の距離で、左に優姫、中央にシュライン、右に弓を構えた藍が立った。少し後ろには夏美と赤子を背に庇って、女性達の援護の為に今野と雅史が身構えている。
「準備はいい?」
シュラインの声に皆が頷いた。表情は引き締まり、いつでも飛び出せるように身を屈める。「行くわよ…3.2.1…GO!!」
 彼女たちが一線を踏み越えた瞬間、空間が歪んだ。『神気』が辺り一帯を覆いつくしている。そして無粋な侵入者たちに一気に襲い掛かった。
「いくで! 雅史はん!」
 今野は掌に蓄えた熱を形に、彼女たちを襲う蛇に向かい、炎に変えて焼き払った。隣では雅史も目に見えぬ力を使い、シュラインの走る道を作りだしている。だが月明りに鈍く光る背が波に見えるほどに、蛇達は数を増やしていた。
「須賀原藍の名を持って願い奉る! この場一辺我に課し、地の力貸したまえ!」
 藍の、符を貼った矢が淡く光始める。
「自由を奪い、閉じ込める…どんな理由があろうと、間違っていると私は思います」
 優姫は目を閉じた。自分を襲うものは全て、後ろに居る二人が払ってくれると信じて。
 ザッっと音を立てて藍と優姫は歩を止めた。そしてそれぞれに力を引き絞り、シュラインが飛び込もうとしている門に向って解き放った。
「いけぇ!!」
「当たって…!」
 次の瞬間、二つの力は大きく弾け、結界が途切れた門の中に、シュラインが転げ込む。
「早く! 出るのよ外に!!」
 薄暗い中には、呆気に取られた様子の二人の女性が蹲っていた。シュラインはその腕を掴み寄せ、有無を言わさず出口に向って引いた、両手を広げたほどの空間が、力の衝突によって青く発光しているが、既に閉じようとしており…。
「優姫ちゃん、藍はん! もう一回や!」
 後ろから鋭く今野の声が飛んだ。
「はいっ!」「了解っ!!」
 二人の力がもう一度結界にぶつかると、今度は轟音と共に、空間が割れるような衝撃が全員の身体に響いた。閉じかけた入り口が再び発光する。
 そして、シュラインたちが飛び出したか、否か。地響きが止むと共に結界は失せ。
 一瞬の間をおいた後、蛇たちもじわじわと姿を消して行った。
「もう…大丈夫って感じるのは……ノロであるあなたが居るから…かしら?」
 シュラインは腕に抱えた50代半ばの女性…比嘉夏夜を見下ろして呟いた。

***
 夜が明けて、数時間後。
 彼等は浜辺を見下ろす崖の上までやってきていた。
 足腰の弱いオバァ…比嘉ナツは今野の背に負われ、夏夜は長い監禁の後でありながらもしっかりと自分の足で歩き、腕には生まれたばかりの孫を抱いている。
 顔色の悪いまま夏美は金城雅史のたくましい腕に抱き上げられ、その後ろに優姫、藍、シュラインが付いて来ていた。
「見てや…海やわ……」
 潮の流れや深さが目に見えるほどに、澄み渡った青い海と空。すっかり明けた朝の光が右手後方から浜辺の林を抜けて差し込んでくる。オバァの小柄な身体を一旦地面に下ろし座らせ、遠くを見やった今野は大きく息を付いた。新鮮な空気を酷く長い間吸っていなかったような気がした。
 時刻は近づきつつあったが船影はまだ見えない。
 黙ったままのオバァと夏美、そして赤子のみ乗せて、船はまた本島に引き返す事になるだろう。
 無論、興信所の4人はまだ行かぬ。やらねばならぬ事が残っているからだ。
 夏夜はノロゆえこの島を出られぬと言い張った。
 そして雅史は。…雅史の仮面は、被せた本人である仁史にしか外せないのだという。
「ここまで来たら、乗りかかった船っていう奴よね。どうせ船はまた戻ってきてくれるんだし」
 有給休暇にも限りはあるんだけどな…などと藍は思ったが、一応口にはしないで置く。
 船に彼女たちを乗せ出航を確認出来たら、夏夜と雅史を連れて家の符を剥ぎに戻る。開放された安室は思いがけぬ顔を見て、一体どんな顔をするだろうか。
 少なくとも、素直に仮面を外すとは思えなかった。
 金城雅史は夏美が少しでも楽になるよう、身体を地面に横たえ、優姫のコートを借り、身を包んでやっていた。夏美の顔に影が差し、一層容態思わしくなさげに見える。
 重苦しい雰囲気が漂いかけたその時。水平線の向こうに小さな影が浮かんだ。
「…船だわ。良かった。少し早く来たのね」
 遠視のシュラインは胸元の色付き眼鏡を掛けた。その間にも影はどんどん大きくなってくる。
「あれは…」
逆に、目の良い優姫は肉眼のまま船の上に目を凝らした。操船席に、なぜか見覚えのある人間が乗っている。「もしかしたら、運転手の金城さんじゃあないでしょうか……」
 確かにそれはタクシー運転手の金城だった。だがなぜ彼が船を…。しかも崖下にある船着場に停泊する為、甲板に出てきた金城は、タクシーの制服を着たままだった。
 崖の上から皆は身を乗り出して彼に向かい手を振った。島の住人は訳が分らぬといった表情で所員たちの妙な喜びようを見ていたが、たった4日間の事でも、孤島に長い間閉じ込められていたという感覚は、町育ちの彼等にとって無かった訳ではなく、運転手金城の顔は、そう言った意味で彼等を酷く懐かしい気持ちにさせていたのだった。
 皆の呼ぶ声に、金城が気付いて崖上を振り仰いだ。その時だった。

「お願い、やめて!!」
 聞きなれない女性の声が、優姫の耳を鋭く打った。
 振り返るのが恐ろしいような気がした。見てはならない光景がそこにあると、思えた。
 先程までオバァを背負っていた今野の背中に、何かがぶつかり、ずるりと地面に倒れた。
 同時に、むせるような金臭さが、潮の香りに混じって辺りを漂ったのを藍は感じた。
── ああ、なんて事……。
 ゆっくりと、振り返ったシュラインの目に、胸元を血に染めて倒れ込んだ夏美の姿が映った。
 呆然とした面持ちの安室仁史が、同じように倒れた彼女を見つめていた。
 どうやってあの家を抜け出してくる事が出来たのだろう。なぜここが分ったのだろう…思う事は沢山あったが、今は全てがどうでも良いことに思えた。
 仮面の男は、膝を付いた。
 大きく無骨な掌で、夏美の胸に触れた。赤い血が押さえ込んだ指の隙間から溢れてくる。
 安室仁史の手から短刀がほろりと落ちて、乾いた地面に転がった。
 多分彼はその短刀で自分の耳を削いだのだろう。
 閉じ込められた事が、余計に彼の狂気を煽ったのかもしれない。
 とうとう、彼は自ら雅史を狙ったのだ。
 けれどもそこには、先程まで気を失っていたと思われていた、夏美の体が飛び込んでいた。
「お兄ちゃん……ごめんね…」
 夏美は囁くように言って、目を閉じた。
「ああ……。…うん…」
 深い深い溜息が、安室の喉から漏れた。
 そして、次の瞬間。
 彼等は、崖から青く澄んだ空に向って身を躍らせる安室仁史の背中を、見た。

***
「本当にあなたを残して行ってもいいんですか?」
 タクシー運転手金城の前に、比嘉夏夜がひっそりと立っていた。
「えぇ…私はこの島のノロだから…どうしたって出て行くことは出来ないんだから…」
腕に抱いた赤子を名残惜しげに見つめる。「それにあの子…仁史は私の子だもの…私が一緒に居てやらなくてどうするか」
 そう言うと彼女は、船に乗り込む浅黒い肌の男…雅史に子供を手渡して、一歩後ずさった。
 安室が崖から飛び降り、命を絶つと同時に仮面の呪縛は解けた。その下にあったのは、殆ど見分けが付かないほど、双子と言っても通じるような、安室仁史に酷似した金城雅史の顔だった。
 父方だけとは言え血の繋がった兄弟。顔立ちも体格も殆ど変わらない。なのに明暗分かれた。
 一人は愛する乙女を苦も無く手に入れる事が出来、一人は天地がひっくり返っても、想いを遂げる事は出来ない…筈だった。
 相変わらず、今野に背負われたオバァは口一つ開かない。
 船が桟橋を離れてゆく。喪に服すように風景に沈んだ、灰色の島が遠ざかっていく。
 エンジンは軽快な音を立て、舳先は波を掻き分ける。
 金城は約束通り、耳成島代々の戸籍を手に入れてきてくれていた。今となっては役に立たないが、それはシュラインがあの板間に書き記した通りの図式だった。彼は、この船の本来の船長である男と言葉を交し、安室仁史が夏夜とナツを監禁するに一役買ったという事も偶然に突き止めた。もし金城に戸籍の件を頼んでいなかったら、船は、安室が雅史の死を確認し無線連絡するまで、耳成島に来ない事になっていたそうだ。
 僅か周囲10キロも無い島で、食料も碌に無く仁史と、それからもしかすると雅史にも追い回されるかもしれなかったのだと考えるとぞっとする。
 島は水平線の彼方に見えなくなった。
「…これで良かったのかしら…」
波の音にかき消されそうな、小さな声で藍が言った。感情的とまでは行かないが、声は悲しみに沈んでいる。今は目元を赤くしているのみだが、埋葬の間はずっと泣いていた。「安室さんはあんな結末で満足だったの?」
 藍は、崖に飛び込む瞬間の、安室の表情を思い浮かべた。あの時彼はなぜか、例の張り付いたような笑顔ではなく、心の底から、安堵の笑みを浮かべていたように見えた。
 そう伝えると、今野は目を伏せ、じっと考え込んだ後で言った。
「安堵の笑み…か。ひょっとしたら安室はんは、取って代わりたくて雅史はんを狙ったいう訳でもなく、犯してもうた禁忌に対する衝動で赤ちゃんを殺したかったんでもなく、ただ、夏夜はんを自分だけのものにしたかっただけやったんかも知れへんな……」
 藍は、その言葉にふと思い当たる事があり、目を上げた。
「そうか…。安室さんは、女児をもうける為に幾人もの人と結婚を繰り返した夏夜さんと、夏美さんを重ねて見てたのかも。だから余計にそういう気持ちが強かったのかも知れない」
「一種のマザーコンプレックスのようなもの、と言う事?」
 シュラインの問かけに、藍は頷いた。
「ただ……その気持ちを向けた相手は、想ってはいけない女性だったんだけれど」
 もしも血の繋がりが無く、普通に出会う事が出来たなら、彼も彼女ももしかしたら死なずに済んだのかも知れないと思うのは、都合の良すぎる考えだと分ってはいる。それでも想像せずにはいられなかった。
 でも、これだけは分る。
 耳切り坊主は、雅史ではなく仁史そのものだったと言う事。
「雅史さんはこれからどうなさるんでしょう」
舳先に目を向けても、そこには思いつめた様子で停泊ロープを巻いたりほぐしたりしていた安室の姿はもう無い。赤子を抱いてどこか遠くを見つめている雅史の姿があるのみ。「夏美さんという人を失って…」
 『あんな形で』と優姫は思った。自分を庇い、愛する人が命を落とす。目の前で息絶える。
「…夏夜さんが亡くなる前に、必ず次のノロをもうけんといかん、て雅史はんは言うとったよ」
「えっ?」
 女性達が今野を見る。いつの間に雅史と言葉を交わしていたのだろう。
「自分にノロの血は混じっていないから、あの子に託すしかないんやて」
「なんで、そこまでして……」
 シュラインの目には雅史の背中が、口を引き結んだ鬼のように見えた。
「耳成島のノロが奉るのは海の向こうから来る神なんやて。彼女等が居なくなると……日本列島は大嵐に巻き込まれるんやそうや」
「……もしかして、それって、台風の事?」
 閃いた藍の問いに今野はだまって頷いた。
「私たちも知らぬ内に彼女の力に守られていた一人なのですね。報われる事も無いのに、彼女は決して島から出る事は敵わない…その血を絶やす事も」
 ぽつり、と優姫が呟いた。
 夏美もやがてそうなる筈だった。島に居た3人の若者はそれぞれの背に、逆らえない運命を背負って成長してきたのだ。
「夏美さん、最後に声が出るようになっていたわね」
シュラインが言った。あの身体を起こせたことだけでも奇跡だと言うのに。「それから…ごめんなさいって」
 あの言葉の意味はなんだったのだろう。仁史をあそこまで追い詰めてしまったから?
── それとも……。
 その時、荷物の影でじっと蹲っていた影が、僅かに身じろいで声を発した。
「ノロの女は情が深いのさぁ……。夏美も夏夜も、誰か一人を愛することなどできんかった」
皺だらけの、顔が一同を見渡し、そして頭上に浮かぶ白い太陽を見上げた。「全てはこのオバァのせいよ。ノロの血のせいよ……ただそれだけの、それだけの事よ………」


<シュライン・エマ 須賀原藍 〜エピローグ>
 沖縄本島に戻った4人は、それぞれの予定に合わせて東京に戻る事になった。
 ここは、海鮮が美味いと評判の民宿。例のタクシー運転手金城に案内されてきた宿だ。シュラインと藍は、5日ぶりの風呂を浴び、狭いながらも清潔で温かな布団と畳の敷かれた部屋で、海に面した窓を開け、部屋の明かりを消して星空を眺めていた。
 二人だけなのは、事件解決したらと言っていた沖縄観光の予定もなんとなく立ち消えになった事と、学生である優姫と今野が、二人以上に時間の融通が利かない立場だったからだ。
「そんなに飲んで……明日仕事なんでしょ? 藍さん」
「ん〜、あ〜、いいのいいの、一週間くらいサボっても大丈夫。非常勤だから」
そんな訳があるはずが無いのだが、大分酔った調子で窓の桟に身体を預けた藍は、半ば本気でそう言って、シュラインの手にコップを押し付けた。「さぁ飲んで飲んでの〜ん〜で〜」
 沖縄泡盛1200mlと書かれた酒は、昼間買いなおしてきたものだ。その脇には紅薩摩いも饅頭と書かれた箱が置かれていたが、こちらはシュラインの買った、草間興信所への土産。
 土産を選びながら、ゴキ…なんちゃらの件を謝らなきゃ、と彼女は何やら呟いていたが、藍には意味が分らなかった。
 他には酒のつまみと思われる裂きイカやら魚の燻製などがあるのが、窓から差し込む月明りだけでも、十分に見て取れる。
「もう私はいいわ。これ以上飲んだら明日が辛い……」
 今でももう十分に。と彼女はぐったりしながらそう思った。タダでさえ強い酒をコップで煽るなど何年ぶりの事だろうか。
 けれど、そうでもしないと今夜は眠れそうになかった。
 シュラインの黒髪と、藍の青みかかった前髪が、海風に煽られる。遠くで漁船の灯りが揺れている。今にも星と溶け合いそうな眺めだ。
「ねぇシュラインさん」
 不意に藍が、転寝しそうになっているシュラインに声を掛けた。
「ん…?」
「もし、二人の男性を同時に同じくらい好きになってしまったら…あなただったらどうする?」
「………分らないわね。だって私にはありえないもの」
 大した時間も掛けず、あっさりと答えられて藍は思わず肘を桟からずり落とした。
「もうちょっと深刻に考えてよ」
「考えなくても分るの。私にはこれからもずっと一人だけ」
 そう答えたシュラインの頬が、夜目にもほんのり朱に染まっていたのは酒のせいだけではなく、見間違いでもなかろう。
「ふ…ぅん…」
何事か納得したような藍の、意味深な相槌。「いいわねぇ。若い人は」
「同じ年でしょ。何言ってるの」

 二人は黙って再びこの事件について思いを巡らせる。
 長い長い5日間。
 しばらくすると、波の音に混じって、二つのかすかな寝息が聞こえ始めた。
 藍の手から空のコップが落ち、シュラインの体が窓の桟に傾ぐ。

 日が昇れば、また新しい日がやってくる。
 興信所にも新しい依頼が舞い込んで、いつかこの事件も書類の中に埋もれていくだろう。

 それでも。
 記憶には、報告書には残らないものが褪せることなく刻み付けられていく。
 言葉に出来ない気持ち、目に焼き付けられた光景。やるせなかった感情。

 けれど今はもう、お休みなさい。
 辛い事は少しだけ忘れて、良い夢を。

<終わり>
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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<NO> <PC名>   <性別><年齢><職業>
0086 シュライン・エマ    女  26 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
0495 砂山・優姫(サヤマ・ユウキ)   女  17 高校生
0835 須賀原・藍(スガハラ・アイ)   女  26 司書教諭
0527 今野・篤旗(イマノ・アツキ)   男  18 大学生
※申し込み順に並べさせていただきました。
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■         ライター通信          ■
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さて、漸く終わりました。「耳切り坊主」いかがでしたでしょうか。ライターの蒼太です。
シュラインさん、砂山さん、須賀原さん、今野さん。前後編お疲れさまでした。
今回、400字という制限の中で良くもあれほど詰め込めたなぁというプレイングが私のところに届きました。前編からの推理が主ではありましたが、その中に感情の流れも含まれていたりで、一言、凄かったです。兎に角纏め方がとても上手いです。この話を考えた私が書いてもこうは纏められないだろう、と尊敬してしまいます。
今回は、ハッピーアンハッピーどちらにせよ、誰かが死ぬかもしくは誰かが大怪我をするという2つの流れを予定していました。PC、NPCの誰がそうなるかというのは勿論プレイングを読ませていただいてから決まるのですが、ここでPCさんがもし〜していたらこう、という分岐点があり、こういう所が、東京怪談はやはりゲームであり、文章は生き物なのだなと思えて来るところです。

不安に思っておりました登場人物の方々も、前後編変わらず来て頂けて、とても嬉しかったです。
四苦八苦しつつも、楽しく書かせて頂きました。今はなんだか上手く言葉に表せないのですが、終わってほっとしております。

また、前編後編共に長く、読むのが大変そうですね。でも実は大分削った所もありまして、読めば読むほど突っ込みどころが見つかるかとも思いますけれど、出来る限りのことはさせて頂きました。もし何かありましたら、テラコンなどから文句を言ってください。きっと往生際の悪い言い訳メールが届くかと思います。
PCさんがPCさんらしく生き生きと動いていると思っていただけたら幸いです。
では、また次回、もしご縁がありましたら、是非ご一緒させて頂きたく思います。
一緒に色々なお話を作って行きましょうね!                 蒼太より