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鬼社
■ 鬼の鼓動・朽ち果てた社
「……ここか」
斜めに傾いだ鳥居を見上げ、男はつぶやいた。
場所は住宅地の外れにある森の中である。
森林保護という名の下に都市開発の手を逃れ、このあたりはまだ自然の野山が多く残っているようだ。
そんな中のひとつに、この名もない神社が建つ山もあった。
もともとは近隣の人間達が山の神を祭って建てたものらしいが、そのあたりの詳しいいきさつや由来は不明である。色々聞いて回ったのだが、既に知る者が絶えて久しいとの事だ。
神社といえば、そこを管理する団体なり一族なりがいてもいいものだろうが、それすらもない……というより、知るものがいないようだった。
今やここは人からも忘れ去られ、放置された場所らしい。
都市近郊のベッドタウンとして、新しい者が絶えず入ってくるような土地であるから、古いものがどんどんと消えていくのも、あるいは仕方のない事と言えるだろうか。
とはいえ……
「神すらも人は捨てるか……業の深いものだな」
すっかり朱も剥げた鳥居の表面を軽く撫で、男は再び歩き出した。
一歩進む毎に、堆積した笹の葉が軽い音を上げる。
それなりに人里離れた場所であるのに、彼の格好はそれにふさわしいものではありえなかった。
いかにも仕立ての良さそうな黒のスーツの上下に、革靴である。
それに包まれた体躯は、見事な逆三角形を描いており、長身で、胸板も厚い。服の上からでも、見事な筋肉が容易に想像できるような体つきだった。まさに偉丈夫というやつだ。
わずかな微笑を浮かべた顔は、これから起こる事を思って楽しんでいるかのようにも見える。
年は、おそらく30台後半から40がらみであろう。
若い頃は相当女性を泣かせていたのではないか……などと良く言われるらしいが、そんな時は決まって、今でも捨てたものではない、とこたえているという話である。言われた相手は冗談かと思って笑い、その後すぐに、いや本当かもと思い直すそうだ。
名は、荒祇天禪(あらき・てんぜん)。いくつもの会社を影から表から駆るやり手の会長であり、その鋭すぎる敏腕は”凍れる獅子”という異名となって、敵味方を問わず畏怖の対象となっている。
そんな彼が、今、この朽ちた神社の奥に潜むものに迫ろうとしていた。
5分ほど歩くと、小さな上にこれもまたボロボロの社があり、その後ろにさらに奥へと小道が続いていた。
そこにもまた、等間隔に何本もの鳥居が並んでいる。
普通、鳥居というのはそこから神の領域である事を示す結界の意味があり、ひとつの神社に何本もあるものではない。
ただ、京都にある伏見稲荷大社には千本鳥居と呼ばれるびっしりと並んだ鳥居があるし、他にも羽田の穴守稲荷神社、同じく東京の根津神社内にある乙女稲荷神社などに、このような連続した鳥居が見られるのだが……全国的に見れば、それはあくまで少数派である。
あるいはお稲荷さんを祭った神社によく見られる傾向とも言えるかもしれないが、ここはそういうわけでもないようだ。
だとしたら、これはどういう意味を持つのか……
普通でない事には、普通ではない理由があるものだ。
特に今よりも遥かに形式にこだわった昔の事となれば、なおさらである。
「……」
無言でそれらを眺めつつ、さらに奥へと足を進める天禪。
周囲に鬱蒼と覆い茂る竹のせいで、視界は昼といえども薄暗かった。
やがて、連続の鳥居も途切れると、ぽっかりと広い場所に出た。
そこだけ、直径10メートル程に渡って竹林が切り取られたようになっている。
代わりに、中心に1本の巨木がそびえ、天へと伸びていた。
「……楡(にれ)か」
太い幹を見上げ、天禪が言う。
九州以北で見られる落葉樹は、特に北の大地と愛称が良いとされ、北海道において特に大木が多い。先の尖った卵型の葉は、縁に鋸の歯のようなギザギザが刻まれており、特徴といえばそれが特徴だろう。
アイヌの伝承では、ハルニレ姫と雷神が結ばれ、生まれた子供が人類の祖先となったとされている。ハルニレとは、この楡の種類のひとつでもあるので、神話の時代から人に愛されている樹だとも言える。
この樹もまた、見事なまでの大木であった。直径は2メートルを下るまい。樹齢はおそらく200年以上……と、天禪は踏んだ。
樹の傍らには、途中で切れた注連縄が転がっている。
太さは見た所10センチ以上もあった。草間探偵事務所で子供から話を聞いたところによると、幹に巻かれていたこれに足をかけて登ろうとした所、切れてしまったとの事だったが……
「……ふむ」
無造作に近づき、拾い上げる。
が、手に持っただけでグズグズに崩れるほどに、それは風化していた。確かに、これならば子供が乗っただけで切れるかもしれない。
とはいえ、周囲で聞いてまわった所、これは1年毎に新しいものと交換しているそうなのだ。
なぜ定期的に換えなければならないのか、その理由は誰も知らなかったが、ここの地域の間では古くからそれだけは守るようにと、代々申し伝えられてきたらしい。今年の交換時期は、あとわずか1週間程先だった。
注連縄自体は、見た所いい加減な造りとも思えないのに、わずか1年でこれほどまでに朽ち、新しいものを締め直さなければなければならない原因、謎の伝承の正体とは、一体……
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
ふと、天禪が静かな目で巨木をみつめ、そんな言葉を口にした。
それは、中原中也の「木陰」という詩の一説だったが、途中で口が止まる。
「いかんな、あとは忘れた」
ニヤリと笑った。苦笑すらも絵になる、そんな男だ。
それから、今度は上を見上げて、
「出て来い。そこにいるのはわかっているぞ」
まるで、旧友にでも呼びかけるような気軽さで声をかけた。
一瞬の静寂の後、
さわ、さわ、さわ……
と、葉ずれの音。遥か幹の上の方で、何かが動いている。姿は入り組んだ枝葉によって見る事はできなかったが……確実にこちらに近づいてきているようだ。
と──
轟!!
一陣の凶風が、砲弾となって樹上より襲いかかってきた。
ドン! と地面に重々しい音を立ててぶち当たり、空気と地面の両方に振動が駆け抜ける。
「ほう、避けたか」
どこからか、声。
「手荒い挨拶は、受けかねるのでな」
こたえる天禪はの目は、じっと太い幹に注がれたままだ。
自分へと向けられた攻撃を、何の予備動作もなしに5メートルも飛び下がってかわした体術は、見事というより反則に近い。
「……面白い、そうでなくては歯ごたえがない」
ひそやかな笑い声と共に、幹の陰から進み出るひとつの影。
「これはこれは……」
その姿に、頭からつま先まで遠慮なく視線をやる天禪。
「思った以上に美人だな、お嬢さん」
そう、言った。
現れたのは、真っ赤な着物を纏った妙齢の女性である。
肌の色は抜けるように白く、髪もまた、目にも鮮やかな銀髪だ。
その中で、黒い瞳がじっと天禪をみつめ、朱色の唇が妖しい微笑みをたたえている。
天禪の言う通り、姿形は確かにハッとするほどに美しかったが……人ではありえなかった。
頭から大きく突き出した2本の角と、隠そうともしない凶暴な気配が如実にそれを物語っている。
これが、子供の話にあった鬼の正体だ。
もっとも、目撃した子供は、樹上から舞い降りてきてあっというまに友達をさらっていった後姿を見ただけらしいが……それでも、頭にあった角だけは瞳に焼きついていたというわけである。
「ふん、人間風情に誉められても、嬉しくなどないわ」
「……そうか」
そっけない言葉に、天禪が薄く笑う。
……人間風情、か。
心の中で、その言葉を繰り返した。
「おとなしくしておれ、今から貴様を食ろうてくれるわ」
「ふっ、過激な口説き文句だな」
「ほざけ!」
叫びと共に、空気もまた唸りを上げた。
銀髪の鬼女の足元から落ち葉が爆発したように吹き上がると、地面を切り裂きつつ、何かが天禪へと向かってくる。
「なるほど、風を操るか。面白い」
一目で見抜き、口元に不敵な笑みを浮かべる天禪。彼の目は、極端に細いつむじ風を2つ、はっきりと捕らえていた。
高速で迫ってくるそれを受けるとどうなるか……多少の興味はあったが、まさか自分の身体で試すわけにもいかないだろう。
「死ぬがいい!」
「いや、遠慮しておこう」
「なに!?」
鬼女の目が、大きく見開かれた。
言葉と同時に、天禪の体がかすみ、かき消える。
死の旋風は彼のいた空間を通り過ぎて、背後の竹やぶへとまっすぐに突っ込んだ。
バキバキという破壊音を上げつつ、触れた竹を全て粉砕、破片を撒き散らしつつしばらく進み、消滅していく。わずかの間に、竹林の中には10メートル程の道が2本出来上がった。
残された竹の切断面にあるのは、鋭利な刃物でめった切りにしたような無残な切り口だ。
それは、恐るべき威力と言えるだろう。巻き込まれれば、人の体などひとたまりもないはず。
……まともに食らえば、だが。
「くっ! どこへ行った!!」
鬼女が声を荒げる。
馬鹿な、自分の目が人間の動きを追えないなど……ありえない。
そんな思いが、彼女の冷静さを一瞬にして奪っていた。
そこに、さらに衝撃が重なる。
「ひとつ、約束してもらおう」
「!?」
愕然と、振り返った。
数メートルと離れていない所に、天禪が立っている。
声をかけられるまで、まったく気がつかなかった。
いつのまに、そしてどうやって移動したというのか……
「俺が勝ったら、樹の上にいる子供を返してもらおう。大方、他の大勢の人間を呼び寄せるために生かしておるのだろうが、これ以上人を食わせるわけにはいかんよ、お嬢さん」
樹上から感じる気配で生存を確認し、目的まで見破った天禪の口元が、逞しい笑みを刻んでいた。
■ 疾風の鬼・無敵の会長
「人間がッ!!」
顔を般若のそれへと変えて、鬼女が空中へと飛び上がった。
間髪入れず、今度は一気に10を越える旋風が巻き起こり、地上の天禪へと押し寄せる。
「ふふ、本気になりおったな」
一方の天禪はというと、まるで余裕の表情だ。
空気の渦の群れに飲み込まれる瞬間、またもやその身が忽然と消える。
「おのれ! 今度はどこに!」
「ここだ」
「なっ!?」
声は、自分のすぐ目の前でした。
顔を上げると、ポケットに両手を入れた黒いスーツ姿が、空中に立っている。
「貴様っ!!」
新たな渦を放ったが、当然のようにかわされた。
自分は風を操り、身体を乗せて空を舞っているのだが、この男はそんな事をせずとも、自在に空中を移動できるらしい。それがどんな術なのかは……まるでわからない。術を使う気配すら感じさせないのだ。
しかし、そう理解してもなお、彼女は目を爛々と輝かせ、さらなる戦意を剥き出しにした。
「手ごわいな、おぬし。だがそれでこそだ。昔も一番美味かったのは、坊主や陰陽師共の血よ」
「俺はそのどちらでもないぞ」
「関係ないわ!」
鬼女の叫びと共に、一旦地上へと向かっていた全ての渦が反転し、再び空へと舞い上がってくる。
獲物を追う猟犬の如く、一直線に天禪へと殺到してきた。
「貴様の気配は覚えた。もはやどこに逃げようと、我が風が貴様を追い詰める!」
「そうか。それは大したものだ。しかし、お前は勘違いをしているな」
「何だと?」
「俺は逃げているのではない。単に避けているだけだ。もっとも……」
と、そこまでを言って、天禪はチラリと下方から上がってくる旋風の群れに目を向ける。
「……」
一瞬、瞳に強い光が宿った。
たったそれだけの事で、結び目が解けるように、鬼女の風が次々と乱れ、無害なそよ風へと変化してしまう。
「な……!?」
鬼女には、何が起こったのか理解できない。
「……俺には避ける必要もないがな。お前が俺の気配を覚えたように、俺もお前の術を覚えた。1度見せた技は2度と通用せんと知れ。さあ、次はどうする、お嬢さん?」
「おのれ……おのれおのれぇーーーーっ!!」
その台詞に、完全に逆上した声を張り上げる。
彼が余裕の笑みを浮かべているのを見たのだから、なおさらだ。
風の鬼女の怒りは、凄まじいまでの突風となって具現化した。
もはや凶器と化した空気の輪が彼女の周囲を幾重にも取り囲み、舞い上げられた木の葉すら、剣呑な刃へと変化させる。
眼下の竹林や楡の巨木も激しく波打ち、ぎしぎしと悲鳴を上げていた。
「ふむ、なかなかのものだ」
が、天禪はというと、まるで慌てた様子もなく、重々しく頷いたきりである。
……とはいえ、これ以上騒ぎを大きくするのも本意ではない。そろそろ潮時か。
胸の内でつぶやいて彼が目を向けたのは、傍らに立つ大樹だ。
その枝葉の中に、今は気を失った少年がいる。彼にさらなる危害が及ぶような事態があってはならない。無論、自分がいる限り、そのような事は断じてさせはしないが。
「では、終わりにしよう」
野太い声が、絶対の自信を込めて宣言する。
「ぬん!」
続けて、鋭い気合が風の中に響いた。
天禪が右手を一振りすると、新たに巻き起こる空気の渦。
それは先程の鬼女の技と同じものだったが、太さも高さも、いずれも数倍に達していた。
「貴様! それは!?」
自らの風をあっさりとコピーされ、鬼女が目を剥く。
「面白い技だが、いかんせんお前のやり方はまだまだ荒い。せめてこれくらいは洗練してみせるのだな」
「……な……」
激しい怒りが、驚愕へと変わる。
真正面から向かってきた天禪の竜巻は、こちらの風をものともせずに突き進み、全てを巻き込み、飲み込んでいく。
「……貴様は……何者なのだ……」
鬼女が、呆然とつぶやいた。
対抗する術も、意思も、何もかもが渦へと吸い取られたかのようだ。
「ふっ、わからんか? ならばもう一度、俺をよく見てみるがいい」
「なに……?」
微笑と共に、天禪は己の本来の気配を表に出した。
ほんの少し、片鱗をじわりと滲ませた程度だったのだが……それだけで一瞬あたりが暗く陰り、遠くの鳥達が一斉に空へと舞い上がる。
「……貴様……い、いや、あなた様は……」
周囲を包んだのは、抜き身の妖刀のごとき、鋭すぎる鬼気……
目線が合うと、もはや指一本動かせなくなる。
氷の針を心臓へと突き立てられたかのようだった。
……器が……違いすぎる。
「相手が悪かったな、お嬢さん」
鬼女が最期に耳にしたのは、そんな声。
あとは迫ってくる暴風を避ける事もできず……風の鬼の意識は、そこで途切れた──
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる
「……」
そんな声が聞こえて……彼女は目覚めた。
開けた目に最初に飛び込んでくるのは、黒いスーツの広い背中。
「起きたか」
振り返りもせずに、男──天禪が言った。
「……はい」
すぐに居住まいを正すと、その場に正座し、深々と頭を下げる。
場所は、楡の木の根元であった。
どうやら自分は気を失い、この方の手によって介抱されていたらしい。
時間は……それほど過ぎていないはずである。
自分の隣には、さらった子供が同じように寝かされていた。こちらはいまだに安らかな寝息を立てている。
「ようやく、詩を思い出した。昔戯れに1度読んだだけだが、思い出せぬのは気持ちが悪い。胸のつかえが取れてなによりだ」
「……申し訳ありません」
淡々とした天禪の台詞に、鬼女は静かにそう告げた。
「何を謝る? 思い出せなかったのはお前のせいではないぞ」
「いえ、そうではありません」
「では、なんだ」
「無礼にも、貴方様のような方に挑んでしまった非礼をお詫び致します」
「……」
「もはや、いかようにされても構いませぬ。貴方様の望むままになさいませ」
きっぱりと、淀みなく鬼女が言い切る。
決して適わぬ相手に対する畏怖と、非礼への贖罪、あとは目上の者に対する敬意の現れだろうか。言葉にも態度にも、嘘や迷いはなさそうである。
「……」
しばし、天禪は無言だったが、
「ついでにもうひとつ思い出したのだが、昔──安永から天明にかけて、このあたりに風を操る女の鬼がいたそうだな。よく人を捕っては食らっていたそうだが、旅の術者によって封じられたと聞いた」
ふと、そんな事を語り始めた。
「……はい」
鬼女が、わずかに頷く。
「そこでお前の処遇だが、なんでも言う事を聞くと言ったな?」
「はい、確かに申し上げました」
「よし、ならば今後一切、2度と人は食わぬと誓え」
「……は?」
予想もしなかった言葉に、思わず鬼女の顔が上がる。
「あの時代は、ちょうど天明の大飢饉の折だ。人も、動物も、それ以外のものも、大勢空腹で死んでいった。俺も食うものがなくなった野山には見切りをつけ、漁師の真似事をして、鯨やら鮪やらを取って過ごした覚えがある」
背中を向けたまま、天禪は静かに語った。
「俺は人など食ったことはないし、食いたいとも思わんが、それらはおよそ人などより美味かったと断言できるぞ。そして今は、さらに美味いものが世の中に満ち溢れている。人など食うのはやめておけ、不味い上に割に合わん、そうは思わんか?」
「……はあ……」
なんとも返答しかねる、といった感じの鬼女であった。
本当にそのような事で、良いのだろうか……自分は本気で命を狙ったというのに……
どうにも簡単には信じられぬ処断である。
「そういえば、名前もまだ聞いていなかったな。お前、名はなんという?」
「……はい、風華(ふうか)と申します」
「そうか、良い名だな」
そこで初めて、天禪が振り返った。
「俺は荒祇天禪。単なる酔狂者だ」
木漏れ日の下で、野太い笑みを浮かべる偉丈夫。
「……あ……」
じっと見つめられ、思わず鬼女の頬に赤みが刺した。
……この方の言葉ならば……信じてもいいのかもしれない。
一瞬にして、そう思ってしまう彼女だ。
竹林の間を微風が流れ、さわさわと音を鳴らして通り過ぎていった──
■ エピローグ・会長式封印の法
──1週間後。
麓にでかいベンツを乗り付け、竹林の山へと入る1人の男の姿があった。
鍛え上げられた見事な体躯を包むのは、日本では有名企業の役員クラスか、あとはヤクザの親分くらいしか身に付けないような最高級ブランドの黒いスーツである。
それくらいになってくると、服の方が着る者を選ぶものだが、この男の場合は決して負けていないばかりか、完全に着こなしており、どこから見てもピタリと決まっている。
革靴で落ち葉の海を歩く姿も実に威風堂々としており、まるでどこかの風景画のようだ。
男の名は、荒祇天禪。
その名前を聞いただけで、並みの産業スパイなどは裸足で逃げ出すと言われる程のやり手経営者である。
噂は本当であり、実際はそれ以上だと、敵に回した相手は残らず恐怖の顔で語るのだそうだ。
5分ほど進むと、朽ちかけた社に辿り着いた。
道はそこで途切れており、後は鬱蒼と茂る野生の竹林が広がるのみだ。
が、天禪が1歩足を踏み入れると、竹は音もなく左右に分かれ、新たな通路を作っていく。
あの後、彼が新たに敷いた結界であった。
天禪以外の者が進もうとすれば、堂堂巡りの果てに社へと戻ってきてしまう。そういうものだった。
これならば、いかに好奇心旺盛な子供でも、近づく事はできまい。
やがて視界が開け、楡の巨木が見えてくる。
「来たぞ」
と、声をかけると、枝葉の中に一陣の風が吹き、
「お待ちしておりました」
天禪の前に、1人の女性が舞い降りてきた。
鬼女、風華である。
しかし、その見栄えは、1週間前とは大きく変わっていた。
彼女が今身につけているのは濃紺のブランド物スーツであり、長かった髪も肩のあたりで切りそろえられている。角も消すか隠すかしているらしく、外見上は鬼である事を示すものは何もない。
それこそ、少々色っぽいやり手のビジネスウーマン……といった風だ。
「うむ、では今日の土産だ、受け取るがいい」
「……恐れ入ります」
天禪の言う土産とは、手にした大ぶりのナップザックの中身である。
入っているのは、今風の食料や本などで、この鬼女を現代に馴らしていくのには、少なからず必要な品だった。
ふと、天禪が上を見上げる。
わずかな風に混じって、何かが小さく聞こえていた。
「ラジオを聞いていたのか?」
「はい、良いものですね、今の楽器の音色は」
「そうか」
微笑む風華の顔を見て、天禪も頷いた。
耳に届いているのは、クラシックの名曲、ベートーベンの交響曲6番”田園”だ。指揮はカラヤンで、演奏はベルリンフィル……という事まで聞き分けたが、天禪にはそこまで解説する気はない。
これがいきなりハードロックだったりしたらさすがに面食らったろうが、その心配はいらないようだ。
「天禪様」
「なんだ?」
「私にも、あの詩を教えては頂けませんか?」
「……詩?」
「はい」
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる
風華が、その一節を口にした。
あのとき、天禪が言ったのと同じ内容を。
どうやら、一度聞いただけで覚えたようだ。
「それか……」
薄く笑う天禪。
「中原中也は、俺のような男が読んでも様にはならんぞ」
「いいえ、そんな事はありません」
ゆっくりと、風華が首を振った。
「それに、その一節だけでも、その、なんというかロマンチックで……できれば全てを教えて頂きたいのです」
「……ほう」
「な、なんでしょうか?」
「もうカタカナ語を覚えたか。なかなか順応性が早いな」
「す、すみません。出すぎた真似を……」
「何を謝る。誉めているのだぞ、俺は」
「……はあ」
恐縮したのか、恥ずかしそうにうつむく鬼女であった。
……面白いな。そして、頭も悪くはない。
天禪の方は、そんな感想を胸の内で1人つぶやく。
この調子であれば、あと1月もしたら人里に下ろして問題はないだろう。
その時は、どこか働き口を見繕うもよし、自分の下で秘書をやらせてもよしだ。
そこまでが、今回の自分の仕事だと、彼は思っていた。
とはいえ、特に情をかけたつもりはない。
話せばわかりそうな者だったので、たまたまこのようにしただけの事である。
風華に対しても、見返りを要求しているわけではなかった。
現代で生きる知識さえ身につければ、あとは本人の好きにさせるつもりでいる。
それだけでも十分過ぎる程の世話と言えるかもしれないが……そこはそれ、本人も言うように、彼の酔狂の成せる技なのである。
ただ、もし、人里に出た時に再び人を襲うような事にでもなれば……その時、風華は天禪のもうひとつの面を見る事になるに違いない。
天禪は酔狂ではあるが、決して甘いわけではないのだから。
その事実を、あの世とやらで嫌というほど知る事になるだろう。
この先、鬼女風華がどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
やがて、天禪の声が、その場に静かに流れ始めた。
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる
暗い後悔 いつでも附纏(つきまと)ふ後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙つぽい晦暝(かいめい)となり
やがて根強い疲労となつた
かくて今では朝から夜まで
忍従することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる私の眼(まなこ)――
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる
思わず聞き惚れずにはいられない、野太い男の美声。
その内容は、なんとなく自分の事を詩っているような気もして……鬼女はうっとりと目を閉じ、ただじっと聞き入るのみなのであった。
■ END ■
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