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深く暗い場所で
++ 過去からの招待状 ++
Subject:ディナークルーズご招待
突然のメール失礼致します。
クルーズ船『アルゴ』でのディナークルーズにご招待いたします。
美しい夜景と、一流シェフによる料理をご堪能ください。
皆様のご参加をお待ちしております。
さまざまな人の元に送られたメール。
ゴーストネットは、ディナークルーズへの招待状を兼ねたそのメールについての話題で持ちきりだった。メールの末に添えられていた署名部分には、会社名や問い合わせ先などが書かれていたが、問い合わせのメールを送っても決まって『詳しくは、当日集合場所においでください』との返信が来るだけで詳しいことは何も分からない。
多くの人がこのメールについてさまざまな推測を重ねたが、『参加した』という人の書き込みがないままに時は流れ、いつしか人々の記憶からこのメールのことが忘れ去られようとしていたその時、ゴーストネットにとある書き込みがあった。
私のところにも、ディナークルーズの招待メールが届きました。
少し不安ではありますが、思い切って参加してみようと思います。興味のある方は、是非私と一緒に参加してみませんか? 同行してくれる人がいれば、私も心強いです。
一緒に行ってもいいという方は、是非メールください。お待ちしております。
書き込み自体に不審な点はない。
だが問題は、同じような書き込みが、ゴーストネットに関わらずインターネットに存在する多くの掲示板に、さまざまな名前で書き込まれたことである。
ちなみに、ゴーストネットにその書き込みをした人物の名前は、『ユウ』といった。
「なんかね、怪しいと思わない? 誰もあの招待に応じなかったからまるで焦ってるみたいだよね?」
書き込まれた内容を眺めていた雫が、うーんと声を上げる。
「だからね、いっそのことこの招待に乗ってみたらって思うんだ。そうすれば、どうしてこの招待者がここまでして、人を集めたいのかが分かるでしょ」
そういいながら雫が再び掲示板に目を留めたとき、そこに新たな書き込みがあった。
五年前に沈没したクルーズ船の名前も、『アルゴ』じゃなかったか?
++ たった一人 ++
彼女の予想とは裏腹に、集まった情報はあまりにも少ない。
インターネットという幾多の情報が入り乱れるそれは、真偽を見極める目さえ持っていれば情報収集においては強力な武器となり得る。
五年前に起きたという沈没事件と『アルゴ』という名のクルーズ船。
シュライン・エマ(―)はふうとため息をつくと、椅子の背もたれにどさりと背を預けた。首を傾けて右手の指先でこめかみを強く押すと、僅かではあるが目の疲れがましになったような気がする。だがそれは所詮気休め程度のものでしかなかった。
シュラインがこの作業を初めてから、数時間がたつ。
「五年……沈没事故が忘れられるには、あまりに早すぎるわね……」
プリンターから吐き出された書類は、彼女がこの数時間で集めた情報の数々であった。だがこの成果はシュラインにとっては不服極まりないものだった。そしてその事実が逆にシュラインが作業に熱中してしまった原因でもある。
唯一の収穫はといえば、『アルゴ』に乗船していた人々の名簿である。
できれば当時のアルゴの船内の様子や、詳しい事故原因なども知りたかったのだが、調べても調べても手に入るのはあくまで噂話の域を出ないような話ばかりだ。
朝からずっとパソコンのディスプレイに集中していたためだろう。ひどく目が疲れている。
シュラインはデスクの隅に置いたままだったコーヒーカップに手を伸ばした。作業に入る前に淹れたものなので冷め切っているだろう――だが予想とは裏腹にカップはまだ暖かい。
カップの内から、指先に伝わる温もり。
「…………?」
コーヒーを淹れなおした記憶はない。
シュラインは見慣れた草間興信所の事務所を見回す。壁にかけられていた時計は最近よく止まったり動いたりを繰り返し、気づくたびに草間が苦虫を噛み潰したような顔をしつつ直しているのだが、今それが指し示す時刻はディスプレイの隅に表示されるそれと同じだ。
そこで不意にシュラインがとある可能性に気づく。
事務所に来客があった様子はない。いくら情報収集に夢中になっていたとしても、ドアをあけて誰かが入ってきたのならば気づいてしかるべきだ。それにも気づかぬほどに、彼女は無防備なたちではなかった。
だとすれば、残る可能性は一つ。
「……変な気の回し方をするんだから……」
鋭い印象を見る者に与えるであろう美貌が僅かに和らぐ。
そう、コーヒーを淹れなおした人物がいるのだとしたら一人しかいない。
この草間興信所に自由に出入りでき、そしてなおかつシュラインが唯一警戒せずにいられるであろう相手。
パソコンのディスプレイにかじりついているシュラインの背を、彼はどんな顔で眺めそしてどんな顔でコーヒーを淹れなおしたのだろうか?
そんなことを思うと、くすぐったいような不思議な気持ちになる。
シュラインは椅子の背もたれに再び背を預けた。ただし今度はゆっくりと、体を伸ばしほぐすように。
リラックスした様子で、シュラインが再びパソコンのディスプレイへと向かうと、一通のメールが届いていた。情報収集するにあたり、何か知っていたら是非教えてほしいと知人にも伝えてあったのだが、その返事が来たらしい。
正直言って、あまり期待はしていなかった。
もはや『アルゴ』に関する情報を集めるためには、いつもと違った方向からのアプローチも必要なのではないか? そんなふうに考えていた矢先のメールである。シュラインがそのメールに期待できないとしても無理らしからぬことだろう。
短い挨拶で始まるそのメールの内容は、五年前に沈んだ『アルゴ』に関するものだった。
「……唯一の生存者……?」
それが自分の見間違いでないことを祈りつつ、シュラインがディスプレイに顔を近づけた。
石井隆文。
アルゴの乗務員である彼は、五年前の事件の唯一の生存者であるのだという。
幾多のメディアが彼の言葉を、そして事件の詳細を彼の口から聞き出そうと躍起になったが、石井隆文は何も語ろうとはしなかったらしい。そして彼は事件以来クルーズ船を降り、ひっそりと一人暮らしをしているとのことだ。
メールをくれた相手に礼を返信すると、シュラインはデスクの上のコーヒーカップへと手を伸ばした。
何も知らない者が見ればただのコーヒーだ。だがシュラインは一杯のコーヒーによって自分がひどくリラックスしているのを感じて可笑しくなる。
「そうね……会うだけあってみるのもいいかもしれないわね……」
話してくれないかもしれない。
だが、もしかしたら――という思いもある。
それにアルゴ沈没を体感した彼にとって、同じ名前のクルーズ船の存在は決して気持ちの良いものではないだろう。シュラインとは別の視点から、情報を集めている可能性はある。事件のことが聞けなくとも、その人物と会うことは無駄ではないとシュラインは考えた。
メール文面の住所をさらさらとメモ帳に書き写すと、シュラインは草間興信所を後にした。
街の中心部から少し離れたところに石井隆文が住むという家はあった。
家の周囲には竹林が生い茂り、明るい日の光を遮断している。冬という季節のせいなのか、それとも他に理由があるのか――ひんやりとした空気の中で、シュラインはぽつりと立っている一軒の平屋を見つけた。
横開きのドアには刷りガラスがはめ込まれていて、そこから中の様子は見えない。小さな庭に面した部分には縁側があるようであったが、奥の障子がぴったりと閉じられているために、やはりそこからも中の様子を伺い知ることはできなかった。
古ぼけた家。だが、窓は磨きこまれ庭もきちんと手入れされているように見える。
シュラインは玄関にあった呼び出しチャイムのボタンを押す――だが、壊れているのか元から音が鳴らないようにしてあるのか、押しても押してもそれは役には立たない。
仕方なく、シュラインは玄関先に立ち擦りガラスをどんどんと叩く。
「すみません。石井さんはいらっしゃいますか?」
しんと静まり返った中に、シュラインの声が響く。
家の中から答えは返ってこなかった。だが辛抱強く待ち続けると、やがて中からとんとんと人の足音が聞こえてくる。
「――突然すみません。石井隆文さんですか?」
からりと音を立ててドアが開いた。
現れたのは髪をきっちりと撫でつけた中年の男だった。トレーナーの上下という出で立ちではあるが、男の一人暮らしにしてはきちんと洗濯も、そして家の掃除もしているようだった。
「どちら様ですか」
「――お話しをお伺いしたいんです。五年前の事件のことで」
温厚そうな男だと、シュラインは思った。
だがそれと同時に、彼が何か――とてつもない何かを背負っているような気がしてならなかった。
五年前――そうシュラインの口から言葉が紡ぎだされたその時、ぴくりと男の肩が震えた。
男はシュラインが中に入るのではないかと警戒しているのだろう。ドアの上のほうを片手で押さえている。
「五年前……」
「そうです。『アルゴ』に関することで話を……」
「帰ってくれ」
隆文の目は真剣だった。
シュラインの目を間近で見つめ、そして有無を言わせぬような口調で再び繰り返す。
「――頼むから、帰ってくれ」
「何故、何も語ろうとはしないのですか?」
だがシュラインの問いに隆文は答えなかった。
答えの代わりに、まるで全てを拒絶するかの如くドアが閉められる。
「何かが起ころうとしています――」
閉じられたドアを前にして、シュラインは語りかけた。ドアの向こうにいるであろう隆文に向けて。
「アルゴという名前のクルーズ船が再び海に出ようとしています。そして、ユウという人物がこの件に関して不可解な動きを見せている……まだ何が起ころうとしているのかは分かりません。けれど、五年前に関連して何かが、水面下で動いているような気がしてならないんです」
「俺が話しをしたところで、何が変わるというんだ……俺には何もできやしない。人一人ができることなんて限られているんだ。何が動いているにせよ、君に出来ることは少ない――当時の俺がそうだったように」
隆文の言葉に、シュラインは思わず我を忘れた。目の前が真っ白になったような――それは怒りだった。
出来ることが少ない――やってみなければ分からない。全ての人が同じではない。
彼に出来なかったことが、自分に出来ることはあるだろう。そしてその逆もあり得ることに何故彼は気付くことができないのだろう?
彼はこうして、ずっとたった一人きりで過去を悔やみ続けていたのだろうか。
「もう一度、ここに来ます」
玄関から一歩離れ、振り返るとシュラインがドアに向かってそう声をかける。
「私には出来ないことがある――けれどできることもある。それを証明するためにも、もう一度ここに来ます」
++ 船上にて ++
「さむーい」
船上を凪ぐ風は冷たい。
コートの襟元を両手で押さえ、身を縮めた村上・涼(むらかみ・りょう)が声を上げつつ周囲を見渡した。
既に出航を始めた『アルゴ』の周囲には暗い海が広がっている。今日はさほど強い風が吹いておらず海も穏やかなため、涼やシュラインの他にも海上から東京の高層ビルや、その他諸々の建造物から構成される夜景を楽しもうというのだろう。多くの人々が甲板に上がって談笑しているようだった。
「沈没した『アルゴ』はその後引き上げられたみたいね……けれど、生存者は石井隆文ただ一人よ」
シュラインはこのクルーズ船に乗船する前にあった出来事を一通り涼へと話した。元々二人は顔見知りであり、互いにこういった不可思議な事件にかかわった経験がある。それだけではなく、シュラインは彼女が現実に即した目というものを持ち続けることが出来ている点を高く評価していた。
「幽霊船、とか思っていたんだけれど……でもそーだったらそれはそれで嫌よねぇ。ディナーとかっていって怪しげなナマ海草とか食べられそうだし」
片足をだむだむと踏みしめ、涼は船が幻覚の類ではないということを確認しているようだ。だがそんな手段で正体が知れるほど簡単ではないだろう――そう思いつつもシュラインは涼を止めることはしない。
「そうね……ただ気づいたら海中でしたっていうのは勘弁して欲しいけれど……今のうちから何か対策を講じておいてほうがいいかもしれないわね」
「私は講じてるわよ」
こころもち、顎を上に向けた涼は目を僅かに細め得意そうな顔をしている。
「対策って?」
「浮き袋持ってきたわ」
「…………酔ってる?」
胸を張った涼の顔をシュラインが覗きこむ。
「……そ、そんな可哀想なモノを見るような目で見ないでよ……」
「本気なのかと思って」
「いざ浮き輪が役に立つことになったとしても、その時は助けてあげないんだから覚悟しときなさいよ……」
苦渋に満ちた涼の言葉が終わらないうちに、すぐ隣――二人から歩いて数歩のところにいた人影が、笑いをこらえ切れなかったのか吹き出したらしい声が響く。思わず顔を見合わせる二人に向けて、軽く片手を上げながら歩み寄ってきたのは一人の男だった。
「いや悪い……立ち聞きするつもりはなかった」
肩にかかるか、かからないかといった長さの茶色の髪を結わえた男の目は、左右の色が違うようだった。涼は眼鏡をかけたその男――東鷹栖・号(ひがしたかす・なつく)をじろりと睨みつける。
「まあそう怒るな。変わりにいいことを教えてやるよ」
「その内容にもよるわね」
「聞くだけきいてみてもいいんじゃないかしら」
つーんとそっぽを向いた涼に苦笑しつつシュラインが助け舟を出す。
「このクルーズを企画した会社は存在しない」
「どういうことよ、それ。じゃあこのクルーズを企画したのは誰なの? こんな大規模なものを動かすとなったら、個人レベルでどうこうできる話じゃないでしょ」
「そう――これだけのものならば、航行するだけでもどこぞに届出の一つくらい出ていて当然だろう。だが、この船にはそれがない」
号の口から告げられた内容に、シュラインは驚きはしなかった。そもそも、五年前に沈んだという船と、同じ名前をつけようとすること自体が不自然極まりないのだから。
「幽霊船というのは、もしかしたら本当であると……?」
「さあな。正直どちらでもいい」
海から吹き付ける風に目をわずかに細めた号が呟くように言うと、涼とシュラインは首をかしげた。
「どうでもいい?」
繰り返すシュラインに号が皮肉気に笑う。
「ああ――俺はここで何が起こるのかを見届けたいだけだ」
「見届けるのはいいけど、この船が海に沈んじゃったらどうするのよ。そしたらキミたち全員あの世行きよ」
私は浮き輪持ってるから助かるけど――と涼が言葉を続ける。
号はさらに笑みを深くした。
「その時はその時だ――俺も切り札を出すさ」
「変な人ね」
だが、同意できる部分もあるのだとシュラインは思う。
見届けたいという思い。それはシュラインもまた抱いているのだから。
「なに――まだまだだ。なにせ浮き袋を持ち込むなんて発想は浮かばなかったからな」
ムカつくわ――と呟いた涼が、ふとシュラインのずっと後ろの方に視線を固定させている。なんだろう、と思いシュラインも視線を追いかけるようにして振り返ると、そこには見知った二人の人物と、その二人に連れられた見知らぬ人物とがいた。
「やほー」
ひらひらと手を振る涼に、崗・鞠(おか・まり)がぺこりと頭を下げる。
そしてその横にいる橘神・剣豪(きしん・けんごう)と、彼に手を引かれるようにして歩いている少女鬼頭・なゆ(きとう・なゆ)の姿をひとしきり眺めた後で涼はにこにこと実に機嫌良さげな様子で剣豪の前に歩み出た。
「へーえ」
にこにこ、という邪気のない笑みが、にやにやといういささか邪気を含んだものへと変化する。またあの言い争いが始まるのか、とシュラインは嘆息したがなゆや鞠はきょとんとした顔をしていた。
いつもの剣豪は人間の姿をしている時はラフは服装をしていることが多い。だが今日の彼はディナークルーズということを意識してかスーツ姿である。
「……馬子にも衣装……」
「あ! 今なんか意味わからなかったけど悪口言っただろ!」
「別にいいじゃない意味分からないなら言われてないのも同然でしょ」
「なんとなくイヤな感じがするから駄目だ。だいたいなー、俺に無断で鞠たんに電話してんじゃねえよ!」
「そういうキミだってねー、電話切るのやめてくれない!!」
「電話?」
シュラインが鞠を振り返ると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。『アルゴ』の調査をしていて、今度乗り込もうと思っているという連絡を頂いたので、せっかくならば同じ日にしようと話を……」
「あのねー、なゆはお食事食べにきたの。ディナークルーズって船でお食事ができるんでしょ?」
ふわふわした金髪を揺らしながら、なゆが号を見上げる。小さく首を傾げる仕草が愛らしい。
「幽霊船でなければな」
「ふーん。でもなゆもこの船の中をいろいろ調べたけど、幽霊の人なんていなかったよ」
号はなゆの言葉には答えずに頭を撫でてやる。するとなゆは嬉しそうに笑った。
船は順調に夜の海を進み続けている。夜景に視線を注いでいた鞠が、脳裏からこのアルゴについての調査結果を思い出しながら口を開く。
「さっき乗組員に確認したのですが、このクルーズ船の航路はかつて沈んだ『アルゴ』のものと同じようですね。同時に主催者についても聞いてみたのですが、それについては知らないようでしたが」
「主催者は存在しないということも考えられるだろうな。この船が本当の幽霊船ならば、そう考えるほうが自然だ」
号の言葉に、シュラインは『アルゴ』のことを調べていたときに入手した名簿のことを思い出す。
「五年前の事故の時の生存者は一人だけ」
「一人だけ? ほかのみんなな?」
大きく目を見開いて尋ねたなゆに、シュラインは目を閉じて首を左右に振ってみせた。それだけでシュラインが何を言わんとしているのかを理解したらしく、なゆは悲しげな光を瞳に浮かべて視線を足元に落とす。
「生き残ったのが一人だけっていうのが気になりますね。その方の名前は?」
問いかけた鞠は、それが『ユウ』でないかと期待しているようだった。
だが、そうでないことは石井隆文と接触したシュラインが一番良く知っている。
「石井隆文――ただね、ちょっと今これを見ていて気になったんだけれど」
これだけの規模の船の乗客名簿だけあって、シュラインが示すファイルは分厚い。ぺらぺらと数ページめくった末に見つけた箇所を、指で指し示す。
「小野寺雄二――石井隆文の上司で、『アルゴ』の上司よ」
その名前を聞いた瞬間、おそらく全員が『ユウ』のことを思い出したに違いない。
「おのでらゆうじ?」
名前の部分を繰り返したなゆは、その名に聞き覚えがあるようだった。
「知ってるのか?」
号が問いかけると案の定、なゆがこくりと首を縦に振る。
「うん。知ってる。この船の中で迷っていたときに案内してくれたの♪ 優しいいいおじさんだったよ」
嬉しそうに語るなゆに、涼との舌戦を中止した剣豪が真顔でなゆに向き直る。
「お前なー、親切にされたからってほいほいついてっちゃ駄目なんだぞ」
「でもなゆはいい人と悪い人の区別はちゃんとつくもん」
剣豪はなゆの両肩に手を置いてなおもまるで父親のような言葉をかけようとすると、なゆがあっと目を大きく見開いた。
甲板の上――シュラインたちを追い越したその先に、つい先ほど話題に上った人物を、小野寺雄二の姿を見つけたのだ。
「おじさん!」
なゆが駆け出した。シュラインたちもまた慌ててなゆの後を追いかける。
その時、船が大きく傾いた。
人々の悲鳴がシュラインの耳を打つ。号は船の外――海を見渡したが『アルゴ』の浮かんでいる一帯だけがまるで意思を持っているかのようにしてクルーズ船に牙をむいたように思えた。
「何かの意思が――働いているとしか思えんな」
「浮き輪の出番かもね」
号と涼の、ひどく対称的な言葉がシュラインの耳を打った。
++ 記憶の淵で ++
悲鳴と、ある筈のない荒波と、それらの間を縫うようにしてなゆは走り続けていた。
「おじさん!」
「なゆちゃん、待って……!」
呼び止める声はシュラインや涼のものだろう。だが、なゆは走り続けた。そしてその先――船尾に近いあたりでスーツ姿の穏やかな顔をした男は笑みを浮かべて立っていた。海を――そしてその先をじっと一人見つめながら。
「本当に、なにもかもが昔のままだ」
夢見るような雄二の言葉。なゆは思わず立ち止まった。
「おじさん……?」
なゆの後から、シュラインたちの足音が響く。
船上を照らし出していた照明の数々が明滅する。荒れ狂う海はやがて甲板をも水で覆い尽くそうとしていた。
「この……馬鹿!」
がっしりとなゆの頭に大きな手が置かれた。剣豪のものだ。
「こんなところでぼーっとしてる場合じゃねえだろ。逃げるんだよ!」
「逃げるってどこに?」
問い返された言葉に、剣豪は答えられなかった。
なゆは真っ直ぐに剣豪を見ていた目を逸らし、雄二を見上げる。
剣豪を制止するようにしてその肩に手を置いた鞠が、一歩を踏み出した。
「何があったのか――そして何が起ころうとしているのか、教えて頂けませんか?」
「昔、こんな事件があった」
男が話し始めた物語は、一隻の船が沈んだ時のものだった。
船が沈み始めたその時、救命ボートのすぐ側にいた男。彼は乗客を誘導しようとしたが、既に彼のいた場所は海中に没する寸前だった。
そして彼は救命ボートを使用して一人生き残る。そう――たった一人で。
シュラインは目を閉じた。雄二の語る『彼』とは、石井隆文のことだろう。
彼の背負っていたものは、これだったのだ。
がっしりと、はぐれまいとシュラインの腕にしがみついている涼が顔を上げる。
「それがこの状態どどう関係するっていうのよ」
「彼は未だに悔いている。けれど、そんな必要はどこにもないのですよ。分かりますか?」
号には、雄二の言わんとしていることが分かる気がした。
彼は唯一の生存者である石井隆文を救いたいのだ。五年前の事件の再現は、隆文がかつて直面した状況を号たちに体験させようというのだろう。
「誰かに、知って欲しかった」
ふと雄二が船の上部を見上げる。そこに見えるのは救命ボート。
雄二はボートを下ろすためのレバーを引いた。船がさらに傾く。
号はなゆが水に流されないようにしっかりとその手を握っていた。剣豪もまた鞠の腕を握り締めている。それらの姿を雄二は眩しそうに見つめた。
「誰かに、知って欲しかった。あれは事故だ。私達が死んでしまったことで、まるで彼一人に責任があるかの如く彼は考えているだろう。だがあれは事故だ。彼一人に責任がある訳ではない。もちろん責任がないかと言われればそれは違うだろう。だがあの時、もしも誰か他の人間が彼の立場に立ったとしても、救命ボートを使い生き残るという選択以外はなかった――あれは、事故だ」
「だから、再現したのか?」
立っている足に力を込めなければ今すぐにでも流されてしまいそうだった。号はそれでも問いかける。
不思議と雄二は、流れる水にも何も感じてはいないかのようだった。皆が懸命に水に抗っている中で、彼は水の脅威とはまるでかけ離れたところにいるかのようだ。
「そう――彼の視点でものを見てもらうことで、それが『どうにもならなかったのだ』ということを知ってほしかった。そして、それを見たものにしか、おそらく彼を救うことはできない」
既に船体が傾いているためか、不安定な形でボートがシュラインたちの前に下りてくる。
「乗りなさい」
穏やかな口調ながら、何故か抗えないものを感じた。
シュラインは腕にしがみついたままの涼を促すようにしてボートに乗り込む。ここでは死ねないと、本気で思う。
彼が望むものが、石井隆文の救済であるならばシュラインたちは生還しなければならない。そしてこの惨劇を体験したものとして彼に言葉をかけなければならない。
「行きましょう」
シュラインの思いを、そして雄二の思いを敏感に察知したらしい鞠が、剣豪と共にボートに乗り込む。剣豪がなゆの方を振り返る。
「ほら、早くしろよ」
剣豪の言葉に、号がなゆの手を引いて歩き出そうとする。
なゆはその手を振り払おうとしたが、幼い彼女の力などたかが知れている。号はなゆの手を離そうとはしなかった。
「ねえ、おじさんも一緒に行こう」
だが、雄二は首を横に振った。
「それはできないよ。おじさんはもうそちらには行けないんだ。そして、君達以外この船に乗っていた人々もね」
ひときわ高い波が船を飲み込もうとしていた。もはや猶予はないと判断した号が、小柄ななゆを抱き上げてボートに乗り込む。
波が船上をさらっていく。なゆはボートの上から手を伸ばした。
「おじさん!!」
なゆの悲痛な声が、溢れる水の脅威の中で響く。
シュラインはじっと目を閉じていた。
全ては、夢なのだ。
けれど自分はやらねばならない。
石井隆文を救わなければならない。
目が覚めたとき、そこは海の見える港の一角のようだった。
「無事?」
「流石に風邪引きそうよ、これは」
シュラインの言葉に答えつつ涼が立ち上がる。腕を、足を動かしてみるが怪我はないようだった。
「ソレ絞ったほうがよくない?」
「やー!!」
なゆの持つくまのぬいぐるみは、海水を吸ってかなり重くなってしまっているようだ。だがなゆはそれを離そうとはせず、涼は軽く肩をすくめる。
「おい」
号がシュラインに声をかけた。
彼は地面に落ちていた一冊の手帳を視線だけで指し示す。
シュラインは地面に肩膝をつきそれを拾い上げると、最後のページにびっしりと文字が書かれているのを発見した。
それは、死者から石井隆文へ向けられたメッセージ。
「届けましょう。それを石井さんへ――」
鞠が立ち上がり海へと視線を向ける。ふと隣を見れば剣豪は背伸びをして目を凝らし『アルゴ』の姿を探しているようだった。
だが、その姿はもはや見えない。
海は静けさに満ちていた。
そう――まるで全てが夢であったかのように。
++ 五年越しの言葉 ++
「これを――」
差し出された手帳を、隆文は不思議そうな顔をして見つめるだけで受け取ろうとはしなかった。
シュラインは隆文の手を開かせ、その上に黒い手帳を乗せる。
手帳の最後のページに、かつては毎日見ていた――けれども見ることができないはずの字を見た隆文がその場に膝をつくさまを、涼や鞠たちは家から離れたところでじっと見つめている。
溢れる涙を、隠すようにして片方の掌を押し当てていた隆文が搾り出すように問いかけた。
「一つだけ聞きたい。これを、何処から?」
「――過去からです」
私にはできましたか?
過去からのメッセージを伝え、救うことができましたか?
その質問を、シュラインは呑みこんだ。
そして家を出たところでシュラインを待っていた号を見上げる。
「満足?」
「さあな」
「ねえ、名は知られているけれど、誰も姿を見たことがないという情報屋のことを聞いたことがあるの。今までは都市伝説みたいなものだって思っていたけれど、もしかして……」
噂で聞くその人物の印象と、何故か号のそれがシュラインの中で重なる。
「気のせいだろう。俺はそんな大層なものじゃないさ」
「……そう」
釈然としないものを感じながらも、シュラインは頷いた。
そして隆文のほうを振り返る。
自分には何が出来るのだろう?
シュラインは思う。
自分には出来ないこともあるが、けれどきっとできることもあると信じていた。だがそれは本当なのだろうか?
号は思い悩むシュラインの肩を叩く。
「見ろよ」
促されるようにして視線を上げると、隆文の姿が目に入った。
深く、深く頭を垂れている隆文の姿。
自分には出来ないことがある、だがそれと同じだけできることもあるだろう。
そして、おそらくは彼もまた――。
―End―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0381 / 村上・涼 / 女 / 22 / 学生】
【0446 / 崗・鞠 / 女 / 16 / 無職】
【0625 / 橘神・剣豪 / 男 / 25 / 守護獣】
【0969 / 鬼頭・なゆ / 女 / 5 / 幼稚園生】
【1056 / 東鷹栖・号 / 男 / 27 / 情報屋】
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■ ライター通信 ■
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こんにちわ。久我忍です。
今回はかつてないほどにギリギリ納品です。確かにペースを落とそうとは思っていましたがいくらなんでも落としすぎだろう……とかセルフツッコミしまくって反省しました。次からはもうちょい早く納品できるように頑張りますのでどうか見捨てないで下さい(弱気)。
次回はどんな依頼がいいかなーと、頭の中で今もぐるぐる考え中です。
でも時計が出てきそうな予感です。決まっているのはそれだけなので、アップする時期も何も決まっていないのですが。
それでは、またどこかでお会いしましょう。
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