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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


深く暗い場所で
++ 過去からの招待状 ++
Subject:ディナークルーズご招待
 突然のメール失礼致します。
 クルーズ船『アルゴ』でのディナークルーズにご招待いたします。
 美しい夜景と、一流シェフによる料理をご堪能ください。
 皆様のご参加をお待ちしております。


 さまざまな人の元に送られたメール。
 ゴーストネットは、ディナークルーズへの招待状を兼ねたそのメールについての話題で持ちきりだった。メールの末に添えられていた署名部分には、会社名や問い合わせ先などが書かれていたが、問い合わせのメールを送っても決まって『詳しくは、当日集合場所においでください』との返信が来るだけで詳しいことは何も分からない。
 多くの人がこのメールについてさまざまな推測を重ねたが、『参加した』という人の書き込みがないままに時は流れ、いつしか人々の記憶からこのメールのことが忘れ去られようとしていたその時、ゴーストネットにとある書き込みがあった。




 私のところにも、ディナークルーズの招待メールが届きました。
 少し不安ではありますが、思い切って参加してみようと思います。興味のある方は、是非私と一緒に参加してみませんか? 同行してくれる人がいれば、私も心強いです。
 一緒に行ってもいいという方は、是非メールください。お待ちしております。




 書き込み自体に不審な点はない。
 だが問題は、同じような書き込みが、ゴーストネットに関わらずインターネットに存在する多くの掲示板に、さまざまな名前で書き込まれたことである。
 ちなみに、ゴーストネットにその書き込みをした人物の名前は、『ユウ』といった。


「なんかね、怪しいと思わない? 誰もあの招待に応じなかったからまるで焦ってるみたいだよね?」
 書き込まれた内容を眺めていた雫が、うーんと声を上げる。
「だからね、いっそのことこの招待に乗ってみたらって思うんだ。そうすれば、どうしてこの招待者がここまでして、人を集めたいのかが分かるでしょ」
 そういいながら雫が再び掲示板に目を留めたとき、そこに新たな書き込みがあった。




 五年前に沈没したクルーズ船の名前も、『アルゴ』じゃなかったか?



++ やさしいおじさんとの顛末 ++
 白い制服に身を包んだ乗務員とすれ違うたびに、鬼頭・なゆ(きとう・なゆ)は何故かちらちらと自分に向けられる視線に気づいていた。
「…………?」
 首を傾げて、ぎゅっとなゆはクマのぬいぐるみを抱きしめる。
 向けられる視線に気づいてはいるが、その原因にはなゆは気づいてはいないらしい。そもそもふわふわした柔らかな金髪と白い陶磁器もかくやと思われる肌。透明度の高い青い瞳と、まるで西洋で作られた人形のような可愛らしい少女である。そんな少女がたった一人でクルーズ船に乗り込んでいれば、それは人目を引いても無理らしからぬことだった。
「んー」
 船内の廊下の一角。左右に伸びた通路をきょろきょろと見やり、なゆは首を傾げる。
 なゆが向かっているのは食事が用意されているというホールであったが、船に乗り込んでから早速迷子になっていたなゆはなかなか目的の場所が見つけ出せずにいた。
 幾つかの階段を降り、だんだんと周囲に人影も少なくなってくる。
 こんなことならば、さっきすれ違った乗務員に道を聞けばよかった――と思う反面、船のいろいろなところを見て回れば、もしかしたらこの船が幽霊船であるという証拠を掴むことができるかもしれないとの希望もある。
「どっち行こう……」
 何度も何度も左右を見比べてみる。注意深く見れば何か違いがあるのかもしれないと思ってのことだが、何度それを繰り返してみても何ら違うところは見られない。
 どうしようか、となゆが思案していたその時だった。
 背後から声がかけられた。
「どうかしたのかな、お嬢さん」
「んとねー、なゆ迷子なの」
 こころもち首を傾けつつなゆが振り返ると、そこには四十代後半くらいではなかろうかと思われる男が立っていた。
 仕立てが良い渋い茶色のスーツ。髪にはちらちらと白いものが見え初めてはいるが、歳を取っている、という印象は何故か感じない。
「迷子か……それは大変だ。今日は親御さんと一緒なのかい?」
 腰を折って、目線を合わせて話をしてくれるのがなゆは嬉しかった。
「ううん。でもこの船にいれば知り合いの人にあえる予定なの。だけどなゆ、お腹へっちゃったからホールっていうところに行こうと思って」
「それは大変だ。可愛らしいお嬢さんが困っているとなると、おじさんも放ってはおけないな。よろしかったらホールまでご案内したいんだけれどどうだい?」
 背をかがめて、なゆに向かって伸ばされた右手。
 しばしなゆは、それをきょとんとした顔で見ていた。だがすぐににっこりと笑みを浮かべてその手を取る。
「ありがとうおじさん。あのね、なゆは鬼頭なゆっていうんだけど」
「おじさんは小野寺雄二っていうんだ。さあ、ホールはこっちだよ」
 なゆの小さな手を握り締め、雄二は穏やかな眼差しを彼女へと向ける。
 ホールに向けて歩き出した雄二が、ふと足を止めた。そしてゆっくりと船内を見渡す。
「おじさんはね、昔この船に乗っていたんだ――」
「昔なの? 昔ってどれくらい?」
 雄二の正面に回りこみ問いかけるなゆに、雄二が優しく笑いかけた。
「五年前さ。さあ、行こう」


++ 船上にて ++
 ホールにはピアノ曲が小さく、気づかなくてもおかしくはないといった音量で流れている。
 幾つも並んだ長方形のテーブルには、真っ白いテーブルクロス。
「村上さんもこちらに来ているはずなんですが……」
 ゆっくりとした足取りで周囲を見回している崗・鞠(おか・まり)とは裏腹に、橘神・剣豪(きしん・けんごう)は並べられている料理をかたっぱしから皿にとっていく。
 その途中で、テーブルの中央にあるフルーツを取ろうと手を伸ばしているなゆの姿が剣豪の目についた。なゆは必死で手を伸ばしているのだが、小柄なため目当てのものに手が届かないらしい。
 なゆは船内で迷子になった末、雄二に案内されてここまで来た。そして雄二はその後用事があるとかでなゆと別れたのだった。
 なゆの姿を目にした剣豪は、持っていた皿を鞠に預けると彼女に歩み寄る。
「どれ欲しいんだ?」
 ひょいと、少女の脇の下に手を差し込み抱き上げる。床から数十センチ程度視界の上がったなゆは、大喜びで目当てのものを取るどころではないらしい。
「全部! なゆ果物とか大好きなの」
「全部は駄目だ」
「えーなんで?」
「俺が鞠たんに怒られる」
 つい先ほど、大皿をそのまま自分のテーブルに持っていこうとして怒られたのは、まだ剣豪の記憶に鮮明に残っているようだ。
 なゆはしっかりとクマのぬいぐるみを抱きかかえている。おそらく剣豪に降ろしてもらったとしても、ぬいぐるみを抱えたままでは目当てのものを取ることはできないだろう、と鞠はフルーツの大皿から、いくつかを見繕って小皿へと取ってやる。
「わーい。ありがとー」
「いいえ。一人でいらしたのですか?」
「うん。でも今一人じゃなくなったからいいの」
 なゆは透き通るような青い目で、じっと鞠と剣豪をそれぞれ見やる。
 二人は知らなかった。なゆがテレパスであるということを。
 そう――なゆは二人がこの『アルゴ』についての調査に来たということを、その能力で悟っていたのだ。
「おねーちゃんたちも『アルゴ』のこと知りたいんでしょ?」
「それじゃ、もしかして……?」
「うん。なゆもそうなんだ。この船おっきくってさっきも迷子になっちゃった」
 ふふ、と笑いながらなゆはヌイグルミを抱きしめた。


「さむーい」
 船上を凪ぐ風は冷たい。
 コートの襟元を両手で押さえ、身を縮めた村上・涼(むらかみ・りょう)が声を上げつつ周囲を見渡した。その傍らには船上にて合流したシュライン・エマ(―)の姿がある。
 既に出航を始めた『アルゴ』の周囲には暗い海が広がっている。今日はさほど強い風が吹いておらず海も穏やかなため、涼やシュラインの他にも海上から東京の高層ビルや、その他諸々の建造物から構成される夜景を楽しもうというのだろう。多くの人々が甲板に上がって談笑しているようだった。
「沈没した『アルゴ』はその後引き上げられたみたいね……けれど、生存者は石井隆文ただ一人よ」
 シュラインはこのクルーズ船に乗船する前にあった出来事を一通り涼へと話した。元々二人は顔見知りであり、互いにこういった不可思議な事件にかかわった経験がある。それだけではなく、シュラインは彼女が現実に即した目というものを持ち続けることが出来ている点を高く評価していた。
「幽霊船、とか思っていたんだけれど……でもそーだったらそれはそれで嫌よねぇ。ディナーとかっていって怪しげなナマ海草とか食べられそうだし」
 片足をだむだむと踏みしめ、涼は船が幻覚の類ではないということを確認しているようだ。だがそんな手段で正体が知れるほど簡単ではないだろう――そう思いつつもシュラインは涼を止めることはしない。
「そうね……ただ気づいたら海中でしたっていうのは勘弁して欲しいけれど……今のうちから何か対策を講じておいてほうがいいかもしれないわね」
「私は講じてるわよ」
 こころもち、顎を上に向けた涼は目を僅かに細め得意そうな顔をしている。
「対策って?」
「浮き袋持ってきたわ」
「…………酔ってる?」
 胸を張った涼の顔をシュラインが覗きこむ。
「……そ、そんな可哀想なモノを見るような目で見ないでよ……」
「本気なのかと思って」
「いざ浮き輪が役に立つことになったとしても、その時は助けてあげないんだから覚悟しときなさいよ……」
 苦渋に満ちた涼の言葉が終わらないうちに、すぐ隣――二人から歩いて数歩のところにいた人影が、笑いをこらえ切れなかったのか吹き出したらしい声が響く。思わず顔を見合わせる二人に向けて、軽く片手を上げながら歩み寄ってきたのは一人の男だった。
「いや悪い……立ち聞きするつもりはなかった」
 肩にかかるか、かからないかといった長さの茶色の髪を結わえた男の目は、左右の色が違うようだった。涼は眼鏡をかけたその男――東鷹栖・号(ひがしたかす・なつく)をじろりと睨みつける。
「まあそう怒るな。変わりにいいことを教えてやるよ」
「その内容にもよるわね」
「聞くだけきいてみてもいいんじゃないかしら」
 つーんとそっぽを向いた涼に苦笑しつつシュラインが助け舟を出す。
「このクルーズを企画した会社は存在しない」
「どういうことよ、それ。じゃあこのクルーズを企画したのは誰なの? こんな大規模なものを動かすとなったら、個人レベルでどうこうできる話じゃないでしょ」
「そう――これだけのものならば、航行するだけでもどこぞに届出の一つくらい出ていて当然だろう。だが、この船にはそれがない」
 号の口から告げられた内容に、シュラインは驚きはしなかった。そもそも、五年前に沈んだという船と、同じ名前をつけようとすること自体が不自然極まりないのだから。
「幽霊船というのは、もしかしたら本当であると……?」
「さあな。正直どちらでもいい」
 海から吹き付ける風に目をわずかに細めた号が呟くように言うと、涼とシュラインは首をかしげた。
「どうでもいい?」
 繰り返すシュラインに号が皮肉気に笑う。
「ああ――俺はここで何が起こるのかを見届けたいだけだ」
「見届けるのはいいけど、この船が海に沈んじゃったらどうするのよ。そしたらキミたち全員あの世行きよ」
 私は浮き輪持ってるから助かるけど――と涼が言葉を続ける。
 号はさらに笑みを深くした。
「その時はその時だ――俺も切り札を出すさ」
「変な人ね」
 だが、同意できる部分もあるのだとシュラインは思う。
 見届けたいという思い。それはシュラインもまた抱いているのだから。
「なに――まだまだだ。なにせ浮き袋を持ち込むなんて発想は浮かばなかったからな」
 ムカつくわ――と呟いた涼が、ふとシュラインのずっと後ろの方に視線を固定させている。なんだろう、と思いシュラインも視線を追いかけるようにして振り返ると、そこには鞠と剣豪――そしてなゆの姿があった。
「やほー」
 ひらひらと手を振る涼に、鞠がぺこりと頭を下げる。
 そしてその横にいる剣豪と、彼に手を引かれるようにして歩いている少女なゆの姿をひとしきり眺めた後で涼はにこにこと実に機嫌良さげな様子で剣豪の前に歩み出た。
「へーえ」
 にこにこ、という邪気のない笑みが、にやにやといういささか邪気を含んだものへと変化する。またあの言い争いが始まるのか、とシュラインは嘆息したがなゆや鞠はきょとんとした顔をしていた。
 いつもの剣豪は人間の姿をしている時はラフは服装をしていることが多い。だが今日の彼はディナークルーズということを意識してかスーツ姿である。
「……馬子にも衣装……」
「あ! 今なんか意味わからなかったけど悪口言っただろ!」
「別にいいじゃない意味分からないなら言われてないのも同然でしょ」
「なんとなくイヤな感じがするから駄目だ。だいたいなー、俺に無断で鞠たんに電話してんじゃねえよ!」
「そういうキミだってねー、電話切るのやめてくれない!!」
「電話?」
 シュラインが鞠を振り返ると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。『アルゴ』の調査をしていて、今度乗り込もうと思っているという連絡を頂いたので、せっかくならば同じ日にしようと話を……」
「あのねー、なゆはお食事食べにきたの。ディナークルーズって船でお食事ができるんでしょ?」
 ふわふわした金髪を揺らしながら、なゆが号を見上げる。小さく首を傾げる仕草が愛らしい。
「幽霊船でなければな」
「ふーん。でもなゆもこの船の中をいろいろ調べたけど、幽霊の人なんていなかったよ」
 号はなゆの言葉には答えずに頭を撫でてやる。するとなゆは嬉しそうに笑った。
 船は順調に夜の海を進み続けている。夜景に視線を注いでいた鞠が、脳裏からこのアルゴについての調査結果を思い出しながら口を開く。
「さっき乗組員に確認したのですが、このクルーズ船の航路はかつて沈んだ『アルゴ』のものと同じようですね。同時に主催者についても聞いてみたのですが、それについては知らないようでしたが」
「主催者は存在しないということも考えられるだろうな。この船が本当の幽霊船ならば、そう考えるほうが自然だ」
 号の言葉に、シュラインは『アルゴ』のことを調べていたときに入手した名簿のことを思い出す。
「五年前の事故の時の生存者は一人だけ」
「一人だけ? ほかのみんなな?」
 大きく目を見開いて尋ねたなゆに、シュラインは目を閉じて首を左右に振ってみせた。それだけでシュラインが何を言わんとしているのかを理解したらしく、なゆは悲しげな光を瞳に浮かべて視線を足元に落とす。
「生き残ったのが一人だけっていうのが気になりますね。その方の名前は?」
 問いかけた鞠は、それが『ユウ』でないかと期待しているようだった。
 だが、そうでないことは石井隆文と接触したシュラインが一番良く知っている。
「石井隆文――ただね、ちょっと今これを見ていて気になったんだけれど」
 これだけの規模の船の乗客名簿だけあって、シュラインが示すファイルは分厚い。ぺらぺらと数ページめくった末に見つけた箇所を、指で指し示す。
「小野寺雄二――石井隆文の上司で、『アルゴ』の上司よ」
 その名前を聞いた瞬間、おそらく全員が『ユウ』のことを思い出したに違いない。
「おのでらゆうじ?」
 名前の部分を繰り返したなゆは、その名に聞き覚えがあるようだった。
「知ってるのか?」
 号が問いかけると案の定、なゆがこくりと首を縦に振る。
「うん。知ってる。この船の中で迷っていたときに案内してくれたの♪ 優しいいいおじさんだったよ」
 嬉しそうに語るなゆに、涼との舌戦を中止した剣豪が真顔でなゆに向き直る。
「お前なー、親切にされたからってほいほいついてっちゃ駄目なんだぞ」
「でもなゆはいい人と悪い人の区別はちゃんとつくもん」
 剣豪はなゆの両肩に手を置いてなおもまるで父親のような言葉をかけようとすると、なゆがあっと目を大きく見開いた。
 甲板の上――シュラインたちを追い越したその先に、つい先ほど話題に上った人物を、小野寺雄二の姿を見つけたのだ。
「おじさん!」
 なゆが駆け出した。シュラインたちもまた慌ててなゆの後を追いかける。
 その時、船が大きく傾いた。
 人々の悲鳴がシュラインの耳を打つ。号は船の外――海を見渡したが『アルゴ』の浮かんでいる一帯だけがまるで意思を持っているかのようにしてクルーズ船に牙をむいたように思えた。
「何かの意思が――働いているとしか思えんな」
「浮き輪の出番かもね」
 号と涼の、ひどく対称的な言葉がシュラインの耳を打った。


++ 記憶の淵で ++
 悲鳴と、ある筈のない荒波と、それらの間を縫うようにしてなゆは走り続けていた。
「おじさん!」
「なゆちゃん、待って……!」
 呼び止める声はシュラインや涼のものだろう。だが、なゆは走り続けた。そしてその先――船尾に近いあたりでスーツ姿の穏やかな顔をした男は笑みを浮かべて立っていた。海を――そしてその先をじっと一人見つめながら。
「本当に、なにもかもが昔のままだ」
 夢見るような雄二の言葉。なゆは思わず立ち止まった。
「おじさん……?」
 なゆの後から、シュラインたちの足音が響く。
 船上を照らし出していた照明の数々が明滅する。荒れ狂う海はやがて甲板をも水で覆い尽くそうとしていた。
「この……馬鹿!」
 がっしりとなゆの頭に大きな手が置かれた。剣豪のものだ。
「こんなところでぼーっとしてる場合じゃねえだろ。逃げるんだよ!」
「逃げるってどこに?」
 問い返された言葉に、剣豪は答えられなかった。
 なゆは真っ直ぐに剣豪を見ていた目を逸らし、雄二を見上げる。
 剣豪を制止するようにしてその肩に手を置いた鞠が、一歩を踏み出した。
「何があったのか――そして何が起ころうとしているのか、教えて頂けませんか?」
「昔、こんな事件があった」
 男が話し始めた物語は、一隻の船が沈んだ時のものだった。
 船が沈み始めたその時、救命ボートのすぐ側にいた男。彼は乗客を誘導しようとしたが、既に彼のいた場所は海中に没する寸前だった。
 そして彼は救命ボートを使用して一人生き残る。そう――たった一人で。
 シュラインは目を閉じた。雄二の語る『彼』とは、石井隆文のことだろう。
 彼の背負っていたものは、これだったのだ。
 がっしりと、はぐれまいとシュラインの腕にしがみついている涼が顔を上げる。
「それがこの状態どどう関係するっていうのよ」
「彼は未だに悔いている。けれど、そんな必要はどこにもないのですよ。分かりますか?」
 号には、雄二の言わんとしていることが分かる気がした。
 彼は唯一の生存者である石井隆文を救いたいのだ。五年前の事件の再現は、隆文がかつて直面した状況を号たちに体験させようというのだろう。
「誰かに、知って欲しかった」
 ふと雄二が船の上部を見上げる。そこに見えるのは救命ボート。
 雄二はボートを下ろすためのレバーを引いた。船がさらに傾く。
 号はなゆが水に流されないようにしっかりとその手を握っていた。剣豪もまた鞠の腕を握り締めている。それらの姿を雄二は眩しそうに見つめた。
「誰かに、知って欲しかった。あれは事故だ。私達が死んでしまったことで、まるで彼一人に責任があるかの如く彼は考えているだろう。だがあれは事故だ。彼一人に責任がある訳ではない。もちろん責任がないかと言われればそれは違うだろう。だがあの時、もしも誰か他の人間が彼の立場に立ったとしても、救命ボートを使い生き残るという選択以外はなかった――あれは、事故だ」
「だから、再現したのか?」
 立っている足に力を込めなければ今すぐにでも流されてしまいそうだった。号はそれでも問いかける。
 不思議と雄二は、流れる水にも何も感じてはいないかのようだった。皆が懸命に水に抗っている中で、彼は水の脅威とはまるでかけ離れたところにいるかのようだ。
「そう――彼の視点でものを見てもらうことで、それが『どうにもならなかったのだ』ということを知ってほしかった。そして、それを見たものにしか、おそらく彼を救うことはできない」
 既に船体が傾いているためか、不安定な形でボートがシュラインたちの前に下りてくる。
「乗りなさい」
 穏やかな口調ながら、何故か抗えないものを感じた。
 シュラインは腕にしがみついたままの涼を促すようにしてボートに乗り込む。ここでは死ねないと、本気で思う。
 彼が望むものが、石井隆文の救済であるならばシュラインたちは生還しなければならない。そしてこの惨劇を体験したものとして彼に言葉をかけなければならない。
「行きましょう」
 シュラインの思いを、そして雄二の思いを敏感に察知したらしい鞠が、剣豪と共にボートに乗り込む。剣豪がなゆの方を振り返る。
「ほら、早くしろよ」
 剣豪の言葉に、号がなゆの手を引いて歩き出そうとする。
 なゆはその手を振り払おうとしたが、幼い彼女の力などたかが知れている。号はなゆの手を離そうとはしなかった。
「ねえ、おじさんも一緒に行こう」
 だが、雄二は首を横に振った。
「それはできないよ。おじさんはもうそちらには行けないんだ。そして、君達以外この船に乗っていた人々もね」
 ひときわ高い波が船を飲み込もうとしていた。もはや猶予はないと判断した号が、小柄ななゆを抱き上げてボートに乗り込む。
 波が船上をさらっていく。なゆはボートの上から手を伸ばした。
「おじさん!!」
 なゆは手を伸ばした。
 その手が、届かないことを確信しながらも――それでも。


 目が覚めたとき、そこは海の見える港の一角のようだった。
「無事?」
「流石に風邪引きそうよ、これは」
 シュラインの言葉に答えつつ涼が立ち上がる。腕を、足を動かしてみるが怪我はないようだった。
「ソレ絞ったほうがよくない?」
「やー!!」
 なゆの持つくまのぬいぐるみは、海水を吸ってかなり重くなってしまっているようだ。だがなゆはそれを離そうとはせず、涼は軽く肩をすくめる。
「おい」
 号がシュラインに声をかけた。
 彼は地面に落ちていた一冊の手帳を視線だけで指し示す。
 シュラインは地面に肩膝をつきそれを拾い上げると、最後のページにびっしりと文字が書かれているのを発見した。
 それは、死者から石井隆文へ向けられたメッセージ。
「届けましょう。それを石井さんへ――」
 鞠が立ち上がり海へと視線を向ける。ふと隣を見れば剣豪は背伸びをして目を凝らし『アルゴ』の姿を探しているようだった。
 だが、その姿はもはや見えない。
 海は静けさに満ちていた。
 そう――まるで全てが夢であったかのように。


++ 五年越しの言葉 ++
 街の中心部から少し離れたところに石井隆文が住むという家はあった。
 家の周囲には竹林が生い茂り、明るい日の光を遮断している。冬という季節のせいなのか、それとも他に理由があるのか――ひんやりとした空気の中で、シュラインはぽつりと立っている一軒の平屋に向かっていく。
「あそこが?」
 小さく問いかける鞠に涼が頷いて見せた。
「石井隆文の家ですって。五年前の事故から、彼はずっとたった一人で生活していたらしいわ」
 おそらく、彼をそうさせたのは深い後悔だ。
 もしかしたらあの時、自分一人が救命ボートに乗って助かる以外の手段があったのではないかという思い故だ。
「一人じゃ、きっと寂しかったよね」
 ぽつりと、なゆが呟くとその顔を剣豪が覗きこんだ。
「でもいいんだよ。今は一人でもこれからもずっと一人ってわけじゃないだろ。だからいいんだよ」
 投げやりとも思える剣豪の言葉の中にある、深い意味に果たしてなゆは気づいただろうか?
 きょとんとした顔でなゆが剣豪を見上げた。そのまっすぐな視線に剣豪もまた首を傾げてなゆの目を見返す。
 歳の離れた兄妹のような二人に、涼がぷっと吹き出した。
「ほらほら、説明してやんなさいよおにーちゃん」
「誰がおにーちゃんだ誰が!!!」
 くるりと振り返り、涼に対してすかさず言い放つ剣豪の服の裾を、なゆがちょいちょいと引っ張る。それに気づいた剣豪が視線を落とすと、なゆがにっこりと笑いかける。
「剣豪おにーちゃんって呼んでいい?」
「……お、おう」
 途端背後では涼が体をくの字に折って爆笑する。
 そんな涼に、鞠がふと隆文の家のほうを視線で示した。見えるのは、こちらに向けて歩いてくるシュラインと号の姿――おそらく、シュラインの手から例の手帳は無事に隆文へと渡されたのだろう。
 そして、その背後では深く、深く頭を垂れている隆文らしい男の姿。
「これからね」
 涼の呟きに鞠が頷く。
 なゆは海に消えてしまった、とても優しい手をしていた人物――雄二のことを思い出す。あふれそうになる涙を、ごしごしと目元をこすることで堪える。
 雄二は海に消えてしまったけれど、彼は自分の成すべきことを成したのだ。
 隆文の時も、雄二の時も、五年前のあの時に止まったままだった。
 そして、アルゴが引き上げられた後も、止まったままだった彼の時間。
 海の深く、深くに沈められたままだった二人の時間は、今まさに動き出したのだから。



―End―

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0381 / 村上・涼 / 女 / 22 / 学生】
【0446 / 崗・鞠 / 女 / 16 / 無職】
【0625 / 橘神・剣豪 / 男 / 25 / 守護獣】
【0969 / 鬼頭・なゆ / 女 / 5 / 幼稚園生】
【1056 / 東鷹栖・号 / 男 / 27 / 情報屋】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちわ。久我忍です。
 今回はかつてないほどにギリギリ納品です。確かにペースを落とそうとは思っていましたがいくらなんでも落としすぎだろう……とかセルフツッコミしまくって反省しました。次からはもうちょい早く納品できるように頑張りますのでどうか見捨てないで下さい(弱気)。

 次回はどんな依頼がいいかなーと、頭の中で今もぐるぐる考え中です。
 でも時計が出てきそうな予感です。決まっているのはそれだけなので、アップする時期も何も決まっていないのですが。


 それでは、またどこかでお会いしましょう。