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神様なんていらないから…
Opening 絡まる思惑
神様なんていらないから、お兄ちゃんと一緒に過したかったの……
神様なんていらないから、小さな幸せが欲しかったの……
『臨時ニュースをお伝えします。
本日午前9時30分頃、渋谷、喫茶店・カフェリアにて立て篭もり事件発生。犯人は客4名を人質に3,545万円の金と逃走車を要求…繰り返します…』
草間武彦は流れる慌しい声に眉間を寄せ、新聞に落としていた視線を思わずテレビに向けた。
『今、新たな情報が入りました! 犯人は1人、26歳無職男…容疑者の名は溝口勇也(みぞぐちゆうや)…』
マイクを片手に必死で画面に訴えるリポーター。騒然とする背後の人込み。
相変わらず東京という都市は、小さな事件から大きな事件まで…パニック状態に陥らないと気が済まないらしい。
草間は冷めかけたコーヒーカップを手に取るとズズっと啜る。勿論、上目でテレビを凝視しながら、だ。
「で? 俺にあの男を殺しに行けと?」
乱れた新聞をバサバサっと畳みながら疲れた口調で草間は云う。再度コーヒーを口に含む程度呷ると今度は忙しなさい仕草で煙草を咥えた。
「あぁ…頼む」
時計は10時を少し回った所だった。珍しく草間興信所には朝早くからの来訪者…ソファにスーツで身を固めた中年男性が1人。
「あれは私の息子だ。最も妻が10年前に連れて出たっきり会ったことはないが」
指に幾つもの成金趣味的な指輪をはめたその男が差し出した名刺を、草間はへの字口で受け取る――波山電子株式会社社長・波山慶介(はやまけいすけ)――波山電子と云えば不況の中でも確実に成長を見せる『世界のハヤマ』だ。
「仮にも波山の息子があのようなタワケたことを仕出かしてる…警察など金を抱かせれば後で何とかなる…が」
噂は尾ひれをつけ、やがては波山を脅かす、と男は吐き捨てるように云った。
「昔からアイツはそうだ…金をやっても物を与えても私にはなびかん。挙句の果てに立て篭もりだと? いつまでも私を甘く見ていたら困る。アイツには私の会社はやれん」
男はテレビに映るその光景を苦虫を噛み潰すかのような表情で眺めると、草間に再度「殺してくれ」と口を開いた。
「……それにしても、何故、彼は3,545万円と云う中途半端な金を要求してるんですかね…どうせやるなら銀行にでも入って1億掻っ攫った方が…」
煙草の煙を燻らせながら草間はポリポリと頭を掻いた。敢えて波山慶介の要求は流すかのように。
「ふん…決まっておる。梢(こずえ)の手術代にだろう…」
男もそこで葉巻を取り出し、机に置いてあったライターで火を点けた。忌々しそうに鼻を鳴らす。
「梢はあれの妹だ。とは云っても妻が浮気して作った子だから私の子ではないが」
「そこまで分かってて、何故、彼に手術代を貸してあげないのですか? そうすれば立て篭もりなど、彼はしなかったでしょうに」
「チンピラ崩れが知った口を聞くもんじゃない」
波山慶介は草間を汚いものを見るかのような油切った視線で見下すと、まぁいい、と云って懐から幾つもの札束を取り出し、乱暴に草間の目の前に叩き置いた。
「要らぬ質問はせんでいい。こちらの要求は勇也の死だ。いいな」
葉巻をグィグィと灰皿でもない机になし付けると男はフン、とまた鼻を鳴らして背を向ける。
バタン、とドアが閉じる音と男の背中を見送ると草間は盛大な溜息と共に机をドカンとイキオイに任せて蹴った。
「狸ジジィめが…誰がこんな依頼、受けれるか」
苛立たしそうに咥えた煙草を噛むと草間は目の前に詰まれた札束に視線を止める。ざっと500万…恐らくこれは前金に過ぎないだろうから、報酬はこの3倍…いや脅せばこれの10倍は搾り取れるだろう。
「いっちょ狸ジジィ相手に猿芝居でもやってみる、か?」
暫くそれを見つめたあと、草間はニヤリ、と小さく嗤った。この男は悪人ではないが善人でもない。
「オイ、こういうのは面白くないか? 勇也を説得してこちら側に抱き込む、波山慶介には勇也は死んだと伝え金を取る、その金は梢の手術代と…あまった分はコチラで頂く」
草間は生き生きと何かの書類の裏にボールペンで書き記していく。
「俺を馬鹿にしたらどうなるか…その傲慢さが敵を多くするってもんだ。そうだな、勇也を説得して警察を撹乱する側と、梢に会って勇也との関係を聞く側と…分かれて捜査した方がいいな。梢に説得してもらうっつーのも手だし」
子供のように目を光らせる男――草間武彦。
「あ、それとだな。あんまり能力とか派手に使うと事が大きくなる…そこら辺は少し考えて行動しろよ」
草間興信所、一世一代の大博打はこうして始まった。
Scene-1 潜む光に宿る影
パカパカと……点灯する廊下灯が些か気を重くした。
小さなメモを手にたった1人、薄暗い廊下を歩く……受付を過ぎてから全く気配の無い病院だった。
唐木(からき)総合病院と書かれたそのメモ書きには301とだけ殴り書きされており、赤い丸印がついている。
消毒薬の匂いと云うよりかは、何処か倉庫のような非道く篭った閉鎖的な空気に――十桐朔羅の表情は険しかった。病院の雰囲気全体がとても後ろ向きで、ここにいるだけで病が更に悪くなるのではないだろうか。
受付で目的の病室を訊いたときでも、事務員はとても煩わしそうな表情を貼り付けた。視野が狭すぎるのかここには何も求めていないのか。朔羅には到底理解出来ず……否、理解する気も起こらなかった。
カランカラン…と点滅する廊下灯を余所に朔羅の下駄が規則正しく鳴る。受付に寄り、待合室を横切り、階段を上って細く暗い廊下を歩いているに過ぎないが、ここに来るまで誰1人としてすれ違わないし、人の気配がないのは何故だろう。思わず息が詰まった。
――こんな所に年頃の女性が閉じ込められているというのか。
朔羅は視線を辺りに配らせながら思わず垣間見たこの陰気な病院に小さく溜息を吐く。
草間興信所を訪れた波山慶介は血を分けた我が子を殺せと云った。朔羅は眉根を寄せるしかこの男に対して感情が湧かなかった。企業家と云うものは成り上がる為には労力を惜しまない一方、実に猜疑心が強い。偏見かも知れないが、波山もその類に入るだろう…そしてきっと草間以外にも依頼を持ち掛けた筈……。
――急がねば…手遅れになる前に、梢が悲しむ事が起こらぬ前に…。
朔羅はきゅっと唇を僅かに噛んだ。
この病院は所謂、『闇取引』を生業とする裏の顔を持っている。
日本では認められていない法外の手術も治療も、破格の値段で応じ、実行する。このような影の薄い形態を取っているのも一種のカモフラージュであって中身の設備は大学病院にも引けを取らないとか……手術費の額からして、大きな病院を当たれば梢に辿り着くだろうとは予想していたが、中々これが。巨額の金に見合うだけの治療がこの病院なら出来る。勇也はそう確信して梢を預けたのだろうか?
薄暗い廊下を一定速度を保っていた黒い下駄が東口階段、2つ手前のドアの前でピタと止まった。
壁に掛けられているプレート――『 301 溝口梢 Dr.OGURA 』。
漆黒に染まった瞳で朔羅はそれを見上げると、メモ書きに視線を落とす。
――幼児退行アリ。硬いものや刃物を決して近づけてはならない。
そうして朔羅がドアに手を掛け、スライド式に押しやろうと力を込めると、不意に後ろから名を呼ばれた。
「朔羅じゃねぇ?」
この病院に来て、初めて『生きている』人間に出会った気がする――神薙・春日<かんなぎ・はるか>だった。
Scene-2 囚われの少女
ゆっくりとドアを開け、視界に飛び込んできたのは純真無垢な白い世界。
朔羅は頭が痛くなるような篭った暖房に何処か「病院らしさ」を感じながら視線を右奥へと転じる――ベッドには背もたれを少し上げた女性が横たわっていた。2人の気配を察知したのか、徐に黒い睫毛で縁取られた瞼を持ち上げる。
「……お兄ちゃんたち、だぁれ…?」
非道く幼く、非道く怯えた声だった。
子犬のように真っ黒な瞳が知らない来訪者に不安の色を映し出している。
「……やはり、か」
朔羅は女性――梢の様子に小さく溜息を1つ落とすと、様子が掴めない春日に自分が持っていた小さな紙切れを渡す。
梢の兆候が書き留められたそれに、視線を左右に巡らせた少年は弾かれたように顔を上げ、朔羅を見、そして梢を見た。
セミロング程度に伸ばされた黒い髪を赤いゴムで2つに分けて結い、梢はまだ警戒を解いていない。朔羅が訊いた話だと、梢は今年で21歳になる。この幼児退行化現象は薬による副作用なのか、それとも長年に渡る闘病生活からなのか…理由は一切分かっていない。朔羅はもしかしたら、勇也との関係が彼女を現実から遠退かせているのかも知れないと頭の片隅で思った。
「……あぁっと…俺達アヤしいモンじゃねぇから」
上目で見上げる梢に対して思わず春日の口から飛び出た科白はこんなものだった。取り敢えず、何よりも梢から話を聞ける状態にまで持っていかないといけない。
それに朔羅も気付いているのだろう、穏やかな表情を浮かべ、
「貴方と話がしたいんだ」
表情と口調を和らげる。
「ハナシ…はなし……こずえね…」
「ん…?」
春日もベッドの右側へと近づくと、点滴の管に注意しながら梢の声に耳を傾けた。気付かれないようにそっと、梢の左手に自分の右手を重ね、『視』ることを試みてみる。
「こずえね、ねがいごとをして…ツル折ってるの。きょうは3つも折っちゃった」
先ほどの強張った表情とは打って変わって、はにかむように梢は笑った。純粋に話し相手が嬉しいらしい。
「3つも? それは凄いな」
朔羅は腰を屈め、梢が見せた不器用な鶴を手に取ると感心してみせる。ふと視線をサイドテーブルに落とすと、羽の長さもマチマチの……ヨレヨレな鶴達が糸に通され千羽鶴の形を成しているではないか。
「これは…? 全部貴方が折ったのか?」
子供とは彩度の高い色が好きなのだろうか。赤や黄色、ピンクばかりの鶴がちぐはぐに繋がれている。
梢は朔羅に問われると、それを手に取り少し表情を曇らせ、
「これね…ぜんぶ折れたら、お兄ちゃんがきてくれるの…こずえ、いいこにしてたら、かみさまがね…こずえのねがいごとをかなえてくれるの」
そう口にして、首に掛けていた玩具の十字架のネックレスを朔羅に見せた。
お兄ちゃん――勇也のことは明白過ぎる事実である。
「…………」
春日は淋しそうな笑みを浮かべた少女の手から『視』える黒く淀んだ闇に形の良い眉を潜め、手をシーツの中へと戻す。梢は自由になった手を嬉しがったのか、今度は枕元に置いてあった黒いリモコンを手に取った。
「みて、これでスイッチつくんだよ」
イソイソと左上の赤いボタンを指差す。朔羅は春日の影を落とした様子に気付きながらも、梢に同意し小さく頷いた。
「ホラ、みててね」
云いしな、梢はぎこちない仕草で電源を押すと――
『…口勇也は依然、捜査員の説得に応じず……』
『溝口容疑者は金と逃走車を要求…』
『勇也被告の過去は実に複雑なもので…』
テレビという小さな箱から次々と飛び出てくる科白は好奇に塗れたものばかり……それ以上にブラウン管の向こうがあまりにも閑々と物悲しいものだった。朔羅は首を横に振り、春日は眉を更に寄せた。
気になる梢の反応は――黒い大きな瞳を虚しく騒がしい画面に張り付けたまま、瞬きすらしない。喉の奥で引っ掛かった言葉が詰まったかのように…梢は白過ぎる手を首元に添えたまま、その後、動こうとはしなかった。
Scene-3 神様なんていらなかったの
「云い難いケド……あの子、もう長くない…」
梢の病室を出てすぐの所にある、談話室に2人の姿はあった。
入院患者が利用出来る公衆電話や冷蔵庫、水道、テレビ、テーブル……昼間だと云うのに人っ子一人いないその閑散とした風景が梢の心情を如実に表しているかのようだ。
「さっき少し『視』たんだけど…ダメだ、視えない」
壁には先ほど梢の病室で見たような千羽鶴が何束も掛けられていた。春日はそれを遠くに見据えながら、重い口を開く。朔羅は少年の科白に眉を寄せ、目を細めた。
――勇也が事件を起こしてまで金を欲した理由は梢の余命からだろうか?
思わず脳裏を過ぎった問いを朔羅は胸の内に飲み込んだ。何故か梢のこの先に対して……言葉を発することは非道くおこがましい事のように感じられたのだ。
初めて依頼内容を訊き、病院を調べたときは単に勇也が波山を陥れたいだけかと朔羅は想像した。安易に理由を考えるのは人の人格を頭ごなしに決め付けるのと同じことで――……今考えると浅はかなことだと自嘲せざるを得ない。しかし、どんな形にせよ、一番悲しむ事になるのは梢だと云うことは否が応でも理解出来たのだ。
春日はやりきれない舌打ちを漏らすと沈黙に口を閉ざす。朔羅も右目を銀色に染めると徐に瞳を伏せた。
そうして2人が黙り込んだときだ。パタパタと忙しない足音が静か過ぎる廊下に響き渡り、2人の思考を更なる現実へと引き戻す。
肩越しに振り返る形で春日は視線を音の方向へ向けると目を見開き、朔羅も長く伸びる影に思わず足を半歩進めた。
「!」
黒いフワフワとした髪を靡かせ、懸命に走ってきたのはあの少女のような梢だった。息を切らせ、手を握り締め、潤んだ瞳が困惑した色に染められていた。
「その躯でムリだ…!」
咄嗟に春日は走る梢を腕を張って引き止める。ガラスのような心臓の持ち主――それが梢だ。走ればひとたまりもない。
「はなして……離して…!」
少女は搾り出すように声を出すと、春日の腕を振り払おうと必死にもがいた。その様子に朔羅は目を見張る。
「離してッ…お兄ちゃん…お兄ちゃんに……!」
正気に戻ったのか……現実を知った少女、否、女性は白い頬に大きな涙を幾筋も零し、少年の胸座を掴む。
「お兄ちゃん…止めないと…お兄ちゃんがいなくなったら……ッ」
梢は必死に言葉を紡ぐと、春日の服を握り締めながらズルズルと床に座り込む。
「願いごとなんて……お兄ちゃんさえ傍にいてくれたら…」
――神様なんていらなかったの……
銀色の十字架がチェーンの音を僅かに立て、梢の肩から落ちた。
瞳いっぱいに涙を流す梢に朔羅は云い様のない苦しさを覚え、揺れる十字架が小さな兄妹の運命を弄ぶかのように……ゆらゆらと円を描くと、廊下はまた恐ろしい程の静けさを取り戻す。梢は幼く――ただ泣いた。
Scene-4 残酷過ぎる現実の間で
春日が詰所へ赴き、梢の病室に電話を設置させた。
携帯電話でも、と思ったがここは病院。電波を発して医療器具に何かしらの影響を与えるのは好ましくなかった。
アイボリー色の電話を朔羅が少年から受け取ると、サイドテーブルの後ろにある配線に繋ぎ、受話器を取る。
丸い外線ボタンを人差し指で押し、朔羅は090……とプッシュボタンを慣れた仕草で押した。
「そこに勇也はいるか?」
数度呼び出し音が鳴って、通じた先は沙倉・唯為<さくら・ゆい>の携帯である。
唯為は朔羅の声に何かしら気配を察知したのだろう。返ってきた声のトーンがいつもより少し低い気がする。
『……あぁ。居ることは居るがな』
梢は泣き腫らした目を何もない天井に貼り付け、瞬きもせず、じっと見つめていた。朔羅はその梢の様子を見ながら、
「とにかく、梢と話させたい……私や貴方が言葉を伝えるよりかは…」
紡ぐ。唯為は小さく溜息を吐いて、少し待て、と口を開いた。
『出ろ』
男が短く命令する声が受話器越しに小さく聞こえる。勇也の状態は如何なものなのか。
朔羅は最悪の事態を想定しながらも、受話器を梢に差し出した。梢はきゅっと握りこぶしを作ると大きく息を吐き、そして恐る恐るそれを手に取った。
「……お兄ちゃん…?」
梢の声は震えていた。受話器を両手で握り締める手も震えている。
『…梢…梢か……』
戦慄く唇で梢は言葉を伝えたかった。八方塞の自分のこれから先に狂わずしてはいられない。
「…私の気持ち…お兄ちゃんに分かる…? こんなに…こんなに怖いんだよ」
涙交じりの声は唯為にも届いていた。静かに響く梢の声に勇也は耐え切れなく自分の胸を掴む。
「怖かった…現実を見るのがすごく怖かったの…いつ死んじゃうかも知れない自分の躯と…それに苦しんでるお兄ちゃんを見るのが怖かったの…」
『…………』
「だから……お願いだから……お兄ちゃんがいてくれたら私それで構わないから…」
――傍にいて……。
胸の内から搾り出すように梢は気持ちを言葉に変える。
梢は自分自身の命の長さを知っていた……そして、それが兄を狂わす原因だと己を苛み、幼児期へ自分を戻すことでその苦しさから逃れようと必死だったのだ。
現実を見ることは恐ろしく残酷な仕打ちである。朔羅もそれは痛いほど理解している――縋るような銀色の瞳が淋しそうに笑う影が脳裏に焼き付いて離れない自分と梢は、形は違えど同類ではなかろうか。
受話器を握り締めて泣く梢に朔羅はそっと頭を撫で、瞳を伏せた。
Scene-5 人が狂う理由
梢の容態が急変したのはその直後だった。
看護婦と医者が忙しなく部屋を出入りし、梢は移動用ベッドに移され――手術室に赤いランプが灯った。
「…で、アッチはどうなってんの?」
廊下の長椅子に腰掛けた朔羅に春日は缶コーヒーをヒョイと投げる。自分もプルを引き上げ、軽く呷った。
「勇也を連れてこちらに来るようだが…」
「…そっか」
本来なら事情を聞けた所で2人とも現場に向かいたい所だった。だが、明日をも知れぬ梢を1人置いて――病院を後にするなんてことは朔羅にも春日にも出来そうになかった。
少年は小さく息を落とすと、朔羅の横に腰を下ろす。
「バカなもんだな…」
「……どうした」
先ほど医師から訊いた話を春日は朔羅にも告げる。
この病院全体は波山慶介の圧力によって押さえつけられていた。梢の命さえも奪いかねない大きなものだ。
幾ら金を積んだとしても、幾ら一生懸命生きたとしても、どうにもならない壁が兄妹の前には待ち構えていた。苦しさにもがけばもがくほど、まるで蜘蛛の糸のようにそれは2人をがんじ絡めにする。
「神だとかお釈迦さんだとかそんなものこれっぽっちも信じてなくて、梢自身もいらないって云ってるのにさ……」
春日は乾いた口をコーヒーで潤す。
「こうして…こんな状態になって…どんな形でもイイから梢が助からないだろうかとか勇也が早く来ないだろうかって…そう願わずにはいられねぇんだよな」
「…………」
缶を両手で握り締め、春日は俯いた。
――私たちは人の表面しか見てはいない……内に秘める想いに気付かぬまま、気持ちは言葉にせねば伝わらぬ。けれど、言葉と云う形にすることは想いを縛り付けているのではなかろうか。
傍にいてと泣いて縋った梢は気持ちを形にする術を知らず、静かに狂った。兄の勇也はどうだろう? 波山と妹の間に挟まれた運命を呪ったであろうか。
朔羅は缶コーヒーの口を開けることなく、それを膝に置いたまま、左――手術ランプが灯っている光を見た。赤く染まるそれは血が滲むように煌々と闇に潜んでいた。
Scene-6 言葉
勇也が息を切らせて病院に到着したのはその1時間後。
短い髪を茶色に染め、黒いダウンジャケットに身を包んだ青年の目は梢と同じく泣き腫らして真っ赤だ。
「容態が急変して…1時間程前から…」
春日はそう云うと赤く灯る『手術中』のランプに視線を向ける。
「梢……」
青年は呆然と大きな扉の前に立ち尽くした。握り締められた拳が小さく震えている。
そこに、待合室から流れた大きすぎるテレビの声が廊下に長く遠く響き渡る。
『ここで臨時ニュースです。あの「世界の波山」の大惨事…長年君臨を続けた波山慶介氏と某大物政治家との癒着をスクープしました。他にも何やらきな臭い様子…波山グループの撤退は免れそうにありません…』
朝は確かそこに勇也の立て篭もり事件が流れていた。
マスコミとは流れ行く川のせせらぎのように、激しく深く、そして脆い。
侘しく耳に届くそれを朔羅、春日、唯為、直弘・榎真<なおひろ・かざね>は遠い世界のように感じ、5人の影が暗い廊下に長く伸びていた。
朔羅は唯為の姿を見つけると、瞳を閉ざしたまま――喉の奥が何かに引っ掛かったように…一切の言葉が出なかった。
Epilogue 雪が桜の如く舞う中で
その数日後――奇しくもクリスマス・イブに勇也は梢の死水を取ることになる。
長年取り憑かれた死に神から開放されたかのように、
「本当は神様なんか信じてなかったの…お兄ちゃんだけで私は十分幸せ……」
梢は穏やかに笑って勇也の温もりに触れ――……そして逝った。
最期まで手にしていたのは梢が普段、肌身離さず付けていた十字架でも願い事を掛けた千羽鶴でもなく、1枚の色褪せた写真だった。日付は13年前のもので……少年が泣きべそをかいた少女を抱っこしている…そんな日常の1コマを梢は握り締めて離さなかった。
「泣いて…いるのか」
雪がちらつく寒い日に、梢は煙となり空に昇った。
少し離れた場所からその様を遠く眺めていた朔羅を唯為は耐え切れなく後ろから両腕を回す。
「…これが…これが運命だとしても…人が逝くのは……やり切れない…」
背に温もりを感じながら朔羅は白い頬に涙を流した。懸命に生きた命が手折られるのは無常と云わざるを得ない。
「…………」
男は何も云わず……ただ回した腕に力を込め、朔羅の肩に顔を埋めた。
抜けるように遠い空に白い雲。
凍えるように寒い風に移り行く季節。
春はまだ遠い。
春になったら…また桜の季節になったら――梢の墓参りに来よう。
小さく生きた幼い彼女を……拙いながらも私の記憶の中に…。
Fin
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0579 / 十桐・朔羅(つづぎり・さくら) / 男 / 23 / 言霊使い】
【0231 / 直弘・榎真(なおひろ・かざね) / 男 / 18 / 日本古来からの天狗】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【0867 / 神薙・春日(かんなぎ・はるか) / 男 / 17 / 高校生/予見者】
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■ ライター通信 ■
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* こんにちは、本依頼担当ライターの相馬冬果です。
この度は、東京怪談・草間興信所からの依頼を受けて頂きありがとうございました。
* 今回の依頼は人間ドラマを中心とした展開となっております。
梢の結末は悲しいことではありますが、あまり胸を痛まれませんように……。
* 物語の全容も含めて、勇也や梢、波山慶介に対する感情、行動、進展度などは、
他の参加者の方のノベルにも目を通されますとより一層楽しんで頂けると思います。
≪十桐 朔羅 様≫
再びお会い出来て嬉しいです。ご参加、ありがとうございました。
重要なポイントを確実に押さえたプレイングには脱帽でした。
梢に対する気配りも「流石」ですね。
物語の展開から、十桐さんらしさ…を上手く出せれば、と描写してみましたが、
如何でしたでしょうか?
それでは、またの依頼でお会い出来ますことを願って……
相馬
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