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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


鍋奉行様アトラス編集部討ち入りの巻


■ オープニング

 ある日、編集長から言いつけられたおつかいの帰り道に何の気なしに骨董屋に入った三下君。そこで見るからに立派な鍋が破格値で売られているのを見て、思わず衝動買いしてしまう。
 編集部へと戻ってくると、早速鼻歌交じりで磨き始めたのだが……そのとたん鍋からもくもくと白い煙が吹き出してきて、気がつくと目の前に初老のお侍様が立っていた。

「拙者は3代将軍家光様にお仕えしておった毒見役、尾藤丹前(びとう・たんぜん)と申す者。初めて家光様に鍋をお出しするそのめでたき日、城へと赴く道中にて暴れ馬にはねられ命を落としてしもうた。まっこと無念。以来、我が家に代々伝わるこの鍋「火神丸」に取り憑き、真の鍋に出会う日を求めておる。頼む、鍋を、美味い鍋を作ってはくれぬか? ちなみに断ると言うのであれば、真っ先にうぬを祟り殺し、一族郎党全てを末代まで呪ってくれようぞ。いざ、いざいざ返答やいかに?」

 立て板に水とばかりにまくし立てられ、三下君の顔がみるみる青くなっていく。
「編集長〜〜〜!」
「…………」
 今にも泣き出しそうな三下君の声に頭痛を感じながら、麗香は受話器を取り、なんとかしてくれそうな人物へと電話をかけ始めるのであった……


■ ご意見無用の鍋バトル、はじまる

 編集部内に、ぐつぐつという音が低く流れていた。
 応接セットのテーブルにカセットコンロが置かれ、その上でひとつの鍋が湯気を立てている。
 ソファには、それを囲むように7人の男女が座っていた。
「……そろそろ、ダシの具合はいいと思うのですが」
 と、ワリバシで昆布を鍋から取り出したのは、眉目秀麗な青年である。
 名は、灰野輝史(かいや・てるふみ)。イギリス出身の日系クォーターである。
 モデルと言っても通用しそうな横顔は、今、じっと自分の手元へと向けられていた。
 鍋の中には、まだ沸騰寸前くらいのお湯と、ダシ取りのために入れられていた昆布しかない。
「ふむ、確かに良い頃合じゃな」
 輝史の言葉に、重々しく頷く半透明の影。
 裃(かみしも)に袴姿の老人で、頭には髷を結っている。
 彼こそがこの鍋の主催者にして、鍋そのものに飽くなき執念を燃やす霊体、尾藤丹前その人である。
 ソファの上にきちんと正座して鍋を睨んでいる姿には、風格すら感じられた。死してなお400年余り、鍋一筋を追い求めてきた男は一味違うのであろう……たぶん。
「昆布というものは、ダシを取るにしても、煮すぎると苦味が出る。その寸前を見極めるのが難しいわけだが……おぬしの目は確かなようだの。結構結構、若いのに見事なものだ」
「いえ、それ程でも」
 真正面から誉められ、やや恐縮したような微笑を浮かべる輝史だった。
「具材は、これで全部なわけね……」
 鍋の隣に置かれた大小さまざまな包みに目を向け、そうつぶやいたのは、切れ長の瞳を持った中世的な美女だ。
 彼女の名前は、シュライン・エマ。
 翻訳家兼幽霊作家であるが、それだけでは食べていけないので草間興信所で事務仕事の手伝いもしているという多才な女性である。
 が、最後のは肝心の探偵殿がとても金銭に縁があるとは言えない身の上なので、ほとんどボランティア状態だという。探偵自身もそうだが、案外彼女も苦労肌なのかもしれない。
「うむ、これならば、きっと珠玉の鍋ができるに違いない。腕が鳴るのぉ」
「……だといいけど」
 目を輝かせる老人とは違い、シュラインは興味半分、警戒半分という顔だ。
 野菜などはあらかじめ自宅で切ったものを用意してきたのだが……他のメンバーが何を持ってきたのかまるでわからないので、果たしてどんなモノができるのか予想もつかない。
 野菜の他、メインで用意した具材は、一応どんなものとでも合いそうなのを選んできたつもりなのだが……
「……なんでもいいけどよ、きちんと食えるモンを作ってくれるんだろうな?」
 と、新たな声。
 それは皆が心の中で思っていて、今まで口にしなかった言葉である。
 台詞の主は、学生服姿の少年だ。じろりと、丹前にうさんくさげな視線を向けている。
 彼の名は、北波大吾(きたらみ・だいご)。公立高校に通う高校生だ。
 編集部へとやってきて丹前を見たときから、どうにも不機嫌そうだった。何かこの手の老人にいい思い出がないのかもしれないが……詳しい胸の内は不明である。
 持参したのは一升瓶らしい包みと、あとは細長い袋だった。
 一升瓶の方は鍋の具材らしいが、もう片方は違うらしく、常に小脇に抱えている。中身はもちろん今のところはわからない。
「ふふ、案ずるな。我が鍋は完璧だ。たとえ毒でも、天上の美味としてみせよう。配膳奉行筆頭にして将軍家御毒見役の肩書きは伊達ではない。まかせておけ」
「あのな……毒なんか誰が食うか! ふざけんな!」
「たとえ話だ、気にするな。それに毒を食ったとて、このわしには効かん。古今東西、ありとあらゆる毒に身体を慣らしてあるのでな」
「こっちにはモロに効くだろうがよ!」
「毒を食らわば皿までと言うであろう。今がその時と知れ」
「知るか!!」
 涼しい顔でそんな事を言う老侍に、歯を剥き出す大吾だった。
 丹前の声も顔も実に重々しく、どこまで本気なのかさっぱりわからない。
「それはそうと、調理の方は全て丹前様がおやりになるのですか?」
 続いてそう尋ねたのは、丹前と同様か、それ以上に表情の動かない女性であった。
 夜の闇を結晶化させたかのような漆黒の長い髪と、それとは対照的な白い肌。
 深く澄んで底の知れない瞳は、じっと見つめられるとそれだけで吸い込まれてしまいそうな、不思議な色を帯びていた。
 どこか超然としたたたずまいを見せる麗人……
 彼女の名は、ステラ・ミラ。
 この世の”すべて”を知るためにさすらう旅人にして求道者である。
「左様。ここは拙者に全て任せて頂こう。さすれば今後の生涯において、2度と忘れ得ぬ程の一太刀を、そなた達の舌と脳味噌に叩き込んでくれようぞ。はっはっは」
「……なるほど、それは楽しみです」
 どこかの放浪癖のある元副将軍様を連想させる笑い声を上げる丹前。
 その姿に、うやうやしくステラが礼をする。
 両者の考えは……常人にはとてもではないが計り知れない。
「せめて味付けぐらい、私たちも手伝った方がいいんじゃないのかしら。でないと本気で危ないような気がするんだけど……」
 持ち寄られた正体不明の食材の包みと、笑う侍を見比べて、麗香がふと、正直な胸を内を言葉にした。
「言いたい事はもっともだと思いますが……でも、この方の望みを叶えてあげないことには、成仏してはもらえないですし」
 その麗香にそっと寄り、輝史が耳打ちする。
「……まあ、そうね。でも、万が一の時は、いっそのこと無理やりにでも成仏させてね」
「ですが、それでは……」
「灰野君、君はそんなに得体の知れないものが食べたいの?」
「別にそうは言ってませんよ。ただ、なるべく穏便に済ませたいだけです」
「そうですよ〜、僕が思いっきり取り憑かれてるんですから、手荒な真似はよしてくださいよ〜、編集長〜」
 2人の会話を聞きつけて、三下も寄ってくる。情けない顔をしているのはいつもの事だが、今はそれが4割増くらいになっていた。
「安心しなさい。これであんたが殉職したら、立派な記事にしてあげるわ。いっぱしの編集者なら、それで本望でしょ」
「そぉんなぁ〜」
 にべもなく言い下されて、ますます泣きそうな顔をする彼だった。
「さて、それでは皆の者は下がっておれ、これより調理をとりおこなう。我が調理の技は秘伝ゆえ、お主らに見せるわけにはいかんでな」
 一同を見渡し、丹前が言った。
「……なんでえ、随分もったいつけやがる。たかが料理だろ。そんなもん見せたって構わねえだろーがよ」
「なにぃ」
 大吾の漏らした呟きに、丹前が目を光らせた。
「よう言うたな、小僧」
「ああ、言ったぜ。それがどうし──」
 大吾の台詞が、途中で飲み込まれていた。
 彼の鼻先に、光る切っ先。
 いつ、どこから取り出したのか、丹前が日本刀と変わりないほどの長さの大包丁を両手に構え、大吾へと突きつけている。
「……な」
 突然の事に、大吾は目を見開き、動きを凍りつかせた。
「我が調理は常に真剣勝負。毎日が修行であり、戦いだ。たとえ米の一粒、味噌汁の豆腐のひとかけらですら手を抜かぬ。万が一、それで相手に不味いと言われた時は、即座に腹を切る心掛けもできておる。貴様もその事を忘れずに食すがよい。いいか、これから始まるのは食事ではない。いくさよ、誇りと命を賭した食うものと食われるもの同士の合戦よ。ゆめゆめそれを忘れるでない。わかったか」
「……わ……わかった」
 瞬きもせずに恐ろしいまでの迫力を込めて告げられる台詞に、さすがの大吾も頷くしかない。
 が、しかし。
「見事なお心がけです。感服いたしました」
 と、述べるステラへと振り返ると、
「ああいや、お嬢さん方にまでそのような無粋な真似を強制したりはせん。麗しい方々は食事を楽しんでくれればそれで良しだ」
 一転して、そんな事を言う丹前だ。
「そうですか、わかりました。では丹前様のよろしいようになさってくださいませ」
「うむ、まかせておけ」
 ステラはそれ以上何も言わず、素直に頷く。
「……女には全然言う事が違うのかよ。とんだ俗物だな、ったくよ……」
「なんぞ言うたか小僧」
「だーっ! だからいちいち包丁を向けるな包丁を!!」
 ……と、そんなこんなで、調理はついに開始された。


「…………本当に大丈夫なのかよ、あのジジイの作る鍋ってのは」
「大丈夫かどうかはともかく、言うだけあって腕は確かなようね」
「そうですね」
 なんて語り合う一同は、コンロの置かれた応接セットから離れ、編集長のデスクの周辺へと集まっていた。
 丹前は着物の上からたすきをかけ、頭には白い鉢巻を巻いている。それでもって長い包丁を振り回しつつ、気合と共に幾多の食材を切り刻み、次々と鍋へと放り込んでいた。
 手つきは鮮やかすぎる程であり、しかも高速で、手や包丁が分身したかのようにすら見える。
 それでいて、包丁がまな板に当たる音がまったく聞こえないのだ。
 力任せに断ち切るのではなく、食材のみを切り、まな板の上の数百分の1、あるいは数千分の一ミリほどの距離で止めていると見える。まさに神業だろう。
「……見事なものですね。かつて17世紀のフランスで天才料理人と称えられたフランソワ・ヴァテールですら、あの技の前では霞むでしょう。そんな方の手による料理が食べられるとは……わくわくします」
 ステラが丹前をじっと見て、そう呟いた。
 わくわくすると言いつつも、表情は相変わらずピクリとも動いてはいなかったが。
「あの、と、ところで皆さん……食材はどんなものを持ち寄られたんですか?」
 三下が、ふと聞いた。全員の目が彼へと向き、
「そうねえ、私は……」
 シュラインが言いかけたが……
 ──トン。
 その瞬間、軽い音と共に、三下のすぐ目の前の壁に小さな刃物が突き立っていた。
「ひぇぇっ!」
 悲鳴をあげて、とたんにのけぞる三下。
「その詮索はよしていただこう。実際に見る時まで何が出るのかわからぬのが、この鍋の醍醐味でもあるのだからな」
 やや遅れて、重々しい声が告げる。言うまでもなく、丹前だ。見事な料理の手さばきはそのままに、これを投げつけたようである。
 こちらを見てもいないのでよほど集中していると思えるのだが、どっこいあたりの様子はきちんと把握しているらしい。この辺も、やはり只者ではない。
「……つまり、闇鍋って事ですね」
「……そうなるわね、これは」
「まあ、美味いものが食えりゃ文句はねえけどよ……」
 輝史、シュライン、大吾がそうつぶやき、
「……美味しいものができればの話だけどね」
 麗香はもはやあきらめたように言った。
「大丈夫ですわ」
 唯一ステラのみが平然としていたが……彼女の場合はあと5分で地球が滅びるという時であっても動じる事はないであろうから……この場合はあまり参考にならないかもしれない。


■ 鍋という名の死闘、食うか食われるか

「よし、完成だ」
 20分程して、丹前が満足げに頷いた。
「……で、できたんですか?」
「うむ、そう言うたであろう。待たせたな。ささ、皆の者、近くに寄るがよい」
 恐る恐る尋ねる三下に、丹前が手招きをする。
「……」
「……」
 無言で顔を見合わせ、応接セットへと進む一堂であった。
「……匂いは美味しそうね」
 最初にそう言ったのは、シュラインだ。
「隣のごはんは、最後に入れるのですね?」
「左様、鍋はおじやで締めるのがやはりよろしかろう」
 輝史の言葉に、丹前がこたえる。
「ごはんは、一応私が持ってきたのよね」
 と、シュライン。
「そうか、なかなかの判断だ。さぞや良い嫁になれるであろう」
「……それはどうも」
「なんならわしが立候補するぞ。幸いまだ独り身だ」
「独身なの?」
「うむ。人生を全て料理の道に捧げてきたからな」
「そ、そう。気持ちはありがたいけど、私は料理の代わりにはなれそうもないから、遠慮しとくわ」
「そうか……それは残念だ。ではそちらのお嬢さんはどうかな?」
 やんわりかわしたシュラインの隣、そこにいたステラへと目を向けた。
「……私も丹前様同様、自分の追い求める道に全てを捧げております。お気持ちはありがたく頂戴させて頂きますが、それ以上はちょっと」
「ふむ、では……」
 さらに麗香へと視線を移すが、彼女は既に横を向いており、目を合わせようともしない。無言のうちに完全に拒否の姿勢を明らかにしていた。
「……むぅ」
 一瞬、表情を険しくする丹前であったが……
「そんな事より肝心の鍋だろうが。食うんじゃないのかよ」
 大吾に指摘され、すぐにそちらへと向き直った。
「……ふん、わかっておるわい。では始めるとするか」
 口をややへの字にしている所をみると、多少拗ねたのかもしれない。
「者共、我が珠玉の作をとくと見るがいい」
 丹前の手が鍋へと伸び、閉じられていた蓋が開けられた。
「……これが……」
「美味しい鍋……なの?」
 一斉に覗き込んだ一同の顔に浮かぶ、戸惑いの色。
 鍋の中には、なみなみと満たされた漆黒の液体しか見えなかった。
 水面に顔を覗かせている具材はおろか、中に何が入っているのかすらさっぱりわからない。まるで濃度の高い墨汁のようだ。
 それだけでも不気味なのに、強火なのにもかかわらず、小さな泡ひとつ立っておらず、湯気も一切出ていない。
 鏡のように滑らかな表面には、はっきりと覗き込んだ人間の顔が映し出されていた。
「……食えるのかよ、これ」
 正直な感想を述べたのは、大吾である。
「失敬な事を言う奴だの。食えぬはずがなかろう」
「まあ……そうなんだろうけどよ……」
 じろりと睨まれたが、それでもやはり素直に食べようという気にはなれない。
 匂いはいいのだが、他の要素は全てが謎だ。
「……では僭越ながら、私が一番槍の栄誉を勤めさせて頂きましょう」
 と、前に進み出たのはステラだった。
 ──が、
「いや、ちょっと待て」
 他の誰でもない、丹前がそれを止める。
「なにか?」
「いや、そなたのようなお嬢さんに万が一の事があってはならん。危険なので始めはどうでもいいそこらの男共に任せるがよかろう」
「……そう言われるのであれば」
 丹前の言葉にあっさり頷くと、音もなく下がるステラである。
「ちょっと待て、危険って何だよ?」
「ん? 何がだ?」
「今確かにお前、そう言ったろうが」
「さて、記憶にないの」
「とぼけんなこのジジイ!」
「言いがかりはやめてもらおうか」
 食ってかかる大吾を適当にあしらうと、丹前は1人に目を向けた。
「よし、では最初はお前だ」
「……え?」
 指をさされて顔を硬直させたのは……三下である。
 両隣にいたシュラインと麗香が、素早く横に動いて距離を開けた。
「……後武運を」
 ステラが彼の手に割り箸を握らせる。
「……」
 輝史は何かを言いかけ……やめた。
 余計な事を言って、もし自分に先頭が回ってきても困る。
 さすがの彼も、あの正体不明の鍋には最初に手をつけたくはない。
「……そんなあ……」
 今にも泣きそうな顔をする三下。
「いいからとっとと食べなさい。どっちにしろあんた、食べなきゃ祟り殺されるだけでしょ。それに毒でも、食べないで死ぬより、食べて死になさい。その方が前向きだわ」
「……編集長、それってミもフタもない言い方なのでは……」
「まあ、当たって砕けろよ」
「少なくとも、妖気などは感じませんから」
「死に水はとってやるぜ、まあせいぜいがんばんな」
「…………あぅぅ……」
 皆の励ましの言葉(?)を受けて、がっくりと肩を落とした。
 少なくとも、止めてくれる人間はここには存在していないようだ。
「……」
 あきらめて箸を構え、三下は恐る恐る鍋へと近づき始めた。
 全員が無言で、それを見守る。
「……」
「……」
「……」
 鍋を食べる。ただそれだけの行為のはずなのに、空気が妙に緊張していく。
 震える手が伸ばされ、箸が──汁の水面に付けられた。
 鏡のごとき表面に、初めて広がる綺麗な波紋……
 そこから、ゆっくりと何かが引き出された。
 漆黒の汁とは対照的な、目にも鮮やかな白身の魚……
「……鱈ね」
 とつぶやいたのは、シュラインだった。
「冬が旬ですし」
 そう言ったのは、輝史だ。これは彼が持参した食材である。
「ふっふっふ、鱈の別名を知っておるか?」
 誰に言うでもなく、丹前もまた口を開いた。
 なにやら妖しげな微笑をたたえて……
「……なんだよ?」
 大吾が尋ねる。
「確か……漢字では”大口魚”とも書くのですよね」
 そう、ステラがこたえた瞬間……だった。
 三下の箸がつまんだ鱈の切り身から、なにやら妖しげな煙のようなものが立ち上りはじめ、あっという間に切り身全体を覆い隠してしまう。
 目を丸くする三下だったが、無論それだけでは済まなかった。
 そこからいきなりびゅっと飛び出してきた何かが、三下へと襲いかかったのだ。
「わ、わぁっ!!」
 とっさに飛び退いた彼の脇を恐ろしい速さで駆け抜けたそれは、背後にあったパソコンのディスプレイに真正面から当たり、破壊音を上げて一気に突き抜けていた。
 そのまま空中で反転して再びこちらへと向き直った姿は……
「……鱈……」
 ポツリと、輝史が言葉を漏らす。
 間違いなかった。
 朝に市場に寄り、新鮮なのを下ろしてもらって切り身にした魚が、目の前の空中に浮かんで三下をじっと睨んでいる。
「鱈という魚は思いのほか大食漢でな。”たらふく食う”の語源ともなっておる。小魚、甲殻類、貝など、なんでもその頑丈な顎と歯で噛み砕き、食べてしまうのだ」
 落ち着いた声は、丹前だ。
「日本での漁獲高は、いわしと1、2位を争うほどに多く、馴染み深い魚ですね。もちろん日本だけでなく、北欧などでも非常に人気のある食材として親しまれているそうです」
 こちらはステラである。
「なかなかに詳しいな、たいしたものだ」
「いえ、丹前様ほどでは」
 などと言いあう2人はまるで落ち着いたものだが、他の面々はそうではなかった。
「そんなうんちくなんざどうでもいい! なんだこりゃ! どういうこった!」
 真っ先に老人に食ってかかったのは、大吾である。
「ん? なにがだ?」
「あのな……なんで食うはずのモンに襲われなきゃならねえかって事だよ!」
「ああ、その事か」
 丹前は重々しく、こう言った。
「物を食うという事は、言い換えれば相手の存在を我が物とするという事に他ならない。が、何もせずにただ食らうだけでは、相手の命、存在に対してあまりに非礼であろう。獅子はたとえ子鼠1匹を狩る際であっても全力を尽くすという、我が料理の秘術もその心意気に倣い、食材の魂に訴えかけて具現化させる、そして戦って勝った者にのみ、食す事が許されるのだ」
「……んなムチャクチャな……」
「ただの鍋ではなかったんですね……」
 輝史が、軽く天を仰ぐ。
「うわーーー!」
 傍らでは、歯をガチガチ言わせて迫る空飛ぶ魚に、三下が追いかけ回されていた。
「冗談じゃねえ! 俺はそんな物騒な鍋に手なんか出さねえぞ!」
「……ふっ、既に遅いな」
「な、何?」
「我が鍋は既に”目覚め”た。あとは双方死力を尽くすのみ。まさに食うか食われるか……それしか道はない」
「なんだよそりゃ……」
 ニヤリと笑う老人の顔は楽しげであったが、見る方は不安しか感じない。
 と、ふいに再び汁の表面に波紋が広がり、次なる具材──鍋よりの刺客が姿を現した。
 今度のは白く、そして長い。
「……あれって……私の持ってきたウドン」
 やや顔を引きつらせて言ったのは、シュラインだった。
 鍋からにゅるにゅると空中に飛び出し、生き物のように蠢く様は……少々気味が悪い。
 おまけにつゆの色を程よく吸い上げ、黒く染まった様は、まるで悪に魂を売り渡した麺類とでもいった風だ。
 先端が獲物を狙う蛇の頭ように全員を見渡し、ぴたりと止まった。
 ──輝史へと向けて。
「くっ!?」
 一瞬の間を置いて、空気を切り裂き輝史に迫る長細い影。
 飛び下がってかわす彼だったが、1本に繋がり、数メートルにも達したウドンは、空中でしなりながらどこまでも追いかける。
 それが目前まで迫った時──
「はっ!」
 短い気合と共に、輝史の手が閃いた。
 いつのまにか彼は片手に箸を持っており、それがウドンの先端を捕まえている。
 どうみてもただの割り箸なのだが、今、それは全体が淡い燐光に包まれていた。
 物質幽体化──エーテライズ。彼の能力である。
 輝史は自らの意思で、物質を幽界とも呼ばれるアストラル界へと送り、物質をアストラル体へと置き換えてしまう事ができる。アストラル界というのは、ありとあらゆるものが純粋なエネルギーとして存在する世界であり、その力を得る事により変質した物体は、たとえそれが木の枝1本であっても、霊的エネルギーあふれる聖なる武器、防具となるのだ。
 果たして、一度捕まえられたウドンは、たちまちのうちにただの食べ物へと戻り、力なくだらりと垂れ下がっていった。
「うわぁぁーっ!」
「おっと」
 が、鱈に追われた三下が走りこんできて、それを避けた拍子に、箸からつるりと滑り落ちる。
「ひぇぇぇぇーー!」
 とたんに妖しい力を取り戻し、復活。あっというまにするすると三下の身体に巻きつくと、動きを封じてしまった。
「このっ!」
 そこに襲いかかろうと飛来した鱈を、輝史が箸で器用に捕まえる。
「三下さん、すぐにそのウドンも、この魚も食べてください。でないとどうにもなりませんよ」
「え? こ、これをですか?」
「そうです。食べ物なんですから、食べる事によってしか封じる事はできません」
「で、ですけど……」
 相手はうねうねと動くウドンと、きしゃぁぁ〜とか叫んで向かってくる凶暴そうな魚である。どう見てもただの食べ物などではない。
「ど、どうしても、ですか?」
「それしか手はありません」
「…………」
 輝史にきっぱりと言い切られ、しばし顔を引きつらせたが……
「ええぃ! こうなりゃヤケだぁ!!」
 叫ぶと、猛然とウドンを吸い込みはじめた。
「その調子です、三下さん! さあ、この魚も食べて!」
「あ、あの、でも……」
「なんですか?」
「何も食べるのは僕だけではなくて、灰野さんや皆さんでもいいんですよね?」
「……」
「ち、違うんですか?」
 じっと見つめられ、輝史の形の良い眉がピクリと動く。
 と、ちょうどタイミングよく、鱈がきしゃぁぁぁぁ〜と吼え、身を激しくくねらせた。
「わっ、わーー!!」
「まずい! 三下さん、食べるんです、急いで!」
「は、はぃぃ!」
 半ば強引に、彼の口へと妖魚を押し付ける輝史であった。
 ……三下の言う事ももっともなのだが、さすがの輝史も、こんな食物を口に入れたいとは思っていない。
 そして彼ばかりではなく、ほとんどの者がそう考えているから……ここはどうあっても、三下ががんばるよりないのである。
 がんばれ、三下忠雄……

「……あーあ、やっぱりっつーかなんつーか、妙な具合になってきやがった」
 バタバタし始めた状況に顔を歪め、大吾がつぶやいた。
 ……こりゃヤバくなる前に退散した方がいいか……?
 などと思い始めたのだが……
「ふふふふ……」
 ふいに、綺麗な笑い声と共に、ポロロン、と、何かの調べが聞こえた。
「……?」
 振り返ると……
「うふ、うふふふふ……」
 なんて、綺麗な笑い声と共に、鍋からにゅっと突き出される白い腕。
「なっ、なんだぁ!?」
 さすがに大吾も目を剥いた。
 腕に続いて、金色の長い髪が、青い瞳が、白い肌の顔が……そして、グラマラスな身体があらわになる。手には小さな金色のハープを持ち、穏やかなメロディが奏でられていた。他に身につけているのは、薄い素材のビキニだけだ。
 外見は、かなりの美少女である。そこらのアイドルなど、足元にも及ばないだろう。
 が……人間ではなかった。
「こいつ……」
 上半身に続いて下半身が鍋から出てくると、大吾が目を丸くする。
 そこにあったのは足ではなく、青い海の色をした魚の身体だ。
 彼女は、人魚だったのである。
「……なんでこんなのが鍋から出てくるのよ」
 と、シュライン。
「それは、私の持ってきた食材のせいでしょうね」
「……え?」
 落ち着いた声は、ステラだ。
「私が持ち寄ったのは、人魚の肝ですから」
「……はぁ?」
「ほぅ、そうか。見慣れぬものがあるとは思ったが、そういうものだったか、なるほど」
 丹前が感心したように頷いた。
「たまたま家にあったので持ってきてみたのですが、まさか生前の姿が見られるとは思いませんでした。丹前様のお力には、関心することしきりです」
「はっはっは、そう誉めるな。照れるではないか」
「……笑ってる場合かよ、お前ら……」
 冷静にツッコむ大吾だ。
「ふふふ、いいねえ、お前……」
 その大吾にむかって、人魚が花のような微笑を向ける。
「な、なんだよ……」
 少しだけ赤くなる彼だったが、それに反して身体は自然と身構えていた。姿は美しくても、なにしろ人外の生物だ。
「あたしはおまえみたいなボウヤが大好きなんだよ。なんでかわかるかい?」
「知るか。それに言っとくが、俺はボウヤじゃねえ、2度とそんな風に呼ぶな!」
「うふふ、生きがいいね。ますます気に入ったよ……すごく……美味しそうじゃないか」
「……な、なにぃ?」
 綺麗な微笑の中に、キラリと刃物の剣呑さが光った……ような気がした。
 ……なんだか知らないが、こいつは危険だ。
 山伏としての修行で培われたカンが、大吾にそう告げている。
 そしてそれは、間違いではなかった。
「子供はね、肉が柔らかいだろう……だから好きなのさ」
 笑みが口元にまで広がり……一同は見た。人魚の口の中に生えた歯が、あたかもサメのような鋭さを持ってびっしりと生えている様を。
「ひさしぶりに、あたしに人の肉を味わわせておくれ!」
「うわぁっ!!」
 言いざまに鍋から飛び出した人魚が、大吾へと襲いかかる。
 思わず声を上げた彼だったが、反射神経は鋭かった。
 手にした長い袋を振り上げ、正面から殴りつける。
 ──キィン!
 と、鋼の打ち合う音が響いた。
「……へえ、物騒なものを持っているね」
 空中にぷかりと浮かんだ人魚が、笑顔で言う。
 対峙する大吾が構えているのは、一振りの長剣──霊紋刀である。破邪の力を秘めた霊剣だ。
 とっさに斬りつけた大吾の腕も大したものだが、人魚はそれを爪のひと凪ぎで弾いていた。
 その気になればいかなる妖魔、悪霊でさえも葬れるとされる必殺の刀をあっさり返すとは……この人魚も只者ではないようである。
「でも、それを充分に扱うには、まだ腕が追いついていないようだね。そんなんじゃ、あたしは倒せないよ、ボウヤ……ふふふ」
「う、うるせえこの野郎っ!!」
 本人も気にしている事を言われたのか、とたんに怒りの表情を浮かべて自分から斬りかかっていく。
「あははは、そうそう、もっとあたしを楽しませておくれ」
「やかましい! おとなしく斬られろ!!」
 笑いながら飛び回る人魚を、大吾は声を張り上げて追いかけ回しはじめた。
「……ねえ、確かここへは鍋をしに来たと思ったんだけど……それって私の思い違いだったかしら」
 編集部内で繰り広げられる光景を目にして、シュラインがつぶやく。
「そうですね。これほど独創的な鍋は初めてです」
 真面目にこたえたのは、ステラだ。
「まあ、確かにね。こんな鍋、今後お目にかかることもないでしょうし。もしそんな機会があったとしても、私は2度と近づかないから」
 麗香もそう、言い切った。
「はっはっは。もう大丈夫だ、安心せい」
 残る女性陣を見回して、胸を叩く丹前。
「何が安心なのよ?」
 すかさず尋ねたシュラインにチラリと目を向け、こう続けた。
「剣呑な具は以上で全てだ。あとは普通の鍋よ。お嬢さん方は遠慮なく食べるといい」
「……後は普通って……」
「本当かしら?」
 顔を見合わせるシュラインと麗香。
 が、すぐに、
「間違いはありません。確かに普通です。いえ、味の方は特上ですが」
「……え?」
 という声に応接セットを見ると、いつのまにかステラが座り、小皿に鍋の中身を取って食べ始めていた。
「あ、あんた……」
「……素早いわね」
「ささ、遠慮せずに食べてくれ。物騒な者共の相手など、男に任せておけばよいからな」
「……ひょっとして、最初からそれが狙いなの?」
「ん、なんの話だ?」
「いえ……いいわ」
 シュラインが一応聞いたが、案の定はぐらかされた。
 ……男を遠ざけ、自分だけで女性陣と仲良く鍋をつつきたかったのではないかと思ったのだが……それは不明だ。もしそうであっても、本当のところは決して言わないであろう。とにかく、なんにせよとんでもない年寄りなのは間違いない。
「酒もあるぞ、こちらのお嬢さんと、あとはあの生意気な小僧が持ってきたものがある。好きなのを飲むといい」
「……ふうん」
 と言われてテーブルに置かれたのは、一升瓶が2本である。
 片方のラベルには”山廃仕込純米酒 天狗舞”とあった。石川県の銘酒であり、シュラインも名前だけは聞いたことがある。
 そしてもうひとつは……
「……コノハナサクヤ……?」
 聞いたことのない名前が、手書きと思しいラベルに記されている。
「木乃花咲耶──日本神話に出てくる女神ね。木や花のようにうつろいやすいものを表す意味の名前で、死の起源をたとえる女神と言われているわ」
「そう……」
 さすがにオカルト雑誌の編集長らしく、麗香がそう解説した。
 シュラインは瓶を手に取り、しばし眺めていたが……
「これ、あなたが持ってきたのね?」
 と、ステラに聞く。
「ええ、そうです。自家製ですが……御口に合えば是非」
「……」
 その”自家製”という言葉に、とてつもなく嫌な予感を感じた。さっきの人魚の肉もそうだが、この品からも危険な香りがプンプンする。
 試しに一口分だけ湯呑みに注ぎ、背後にあった観葉植物のプランターにかけてみた。
 するととたんに全ての葉がわさわさと動きだし、白い煙のようなものがぼうっと全体から立ち上ってくる。
 それはプランターの上でゆっくりと形を変えると、下の植物と同じ姿となり、止まった。
 同じと言っても、あくまで形だけで、白い煙の塊みたいな姿である。
「……なに、これ……?」
 顔を引きつらせながら、振り返った。
「それには魂の奥底から酔わせるという効果があります。ただ、酔う過程で生体エネルギーがエクトプラズムの形で外に出てしまうのですが、それさえ除けば普通のお酒よりは後味もよく、二日酔いにもなりません」
 表情ひとつ変えず、ステラが解説する。
「……そう、じゃあ麗香さん、これ、お願いできるかしら」
「わかったわ。では後でゆっくり楽しませてもらう事にして、金庫にでもしまっておきましょう」
 静かに告げて、麗香がシュラインより受け取り、部屋の奥へと入っていった。
 危険物は隔離するに限る。何も言わずとも、麗香にはシュラインの意図がわかったのだ。だいいちこれ以上ややこしい食材など触れたくもない。
「そうですか。ではお任せします」
 ステラも、特に何も言わなかった。
「ほれお嬢さん、食べるがいい。美味いぞ」
「え、ええ……」
 再びソファに座るなり、丹前が小皿に取り分けた鍋の中身を差し出してくる。
 多少こわばった笑顔でそれを受け取るシュラインだった。
 が……意に反して、それはかなり美味しかったという。


 ──それから30分後。
「三下さん、もう少しです。がんばってください」
「うぇっぷ……もう食えましぇん……」
「ふふふ、いいかげんあきらめてあたしの獲物におなり」
「断るっつってんだろうがよ!!」
 ……などと、相変わらずバタバタしている傍らで、
「なるほど、では丹前様は長崎に長くいらしたのですね?」
「そうだ。出島には多くの外国の文化があり、さまざまな料理があった。世界の味を学べるのは、あの場所をおいて他になかったからな」
「……意外と真面目だったのね」
「ふっふっふ。もちろん外国のご婦人方も皆魅力的であった。が、しかし、やはり料理への情熱は捨てがたく、わしは味一筋に生きてきたのだ」
「ご立派です」
「単に相手にされなかっただけじゃないの?」
「何を言うか、話術の味付けも、そこらの奴になど負けはせんぞ」
「……どーだか」
 と、腹も膨れてすっかり砕けた話をしている場もあった。両極端である。
「……ねえ、そういえばこの人、どうすれば成仏するんだっけ?」
「さあ、美味しい鍋を食べればいいって話だったけど」
「じゃあ、なんで成仏しないのよ」
「自分で作ってたしね……する気ないのかもよ」
「……ありえそうね、それ」
 元気な老侍の姿を見つつ、ひそひそ話をするシュラインと麗香だ。
「……」
 なんの気なしに近くのデスクに目をやった麗香が、あるものを見つけて手に取る。
 パキンと2つに折ったそれは、ごく普通の板チョコだ。編集部員の誰かのおやつ、もしくは非常用の食料だろう。
「食べる? 口直しに」
「あ、いいわね」
「それでは私も」
 シュラインとステラが、それぞれに受け取る。
「ふむ、なにかなそれは?」
 丹前も興味深げに身を乗り出してきた。
 やはり食べ物の事になると、目の輝きがとたんに変わるようだ。
「チョコよ。あなたもどうぞ」
「ちょこ……ふむ」
 手渡され、しばしじろじろと眺めていたが……やがて無造作に口の中に放り込み、
「……」
 ピタリと、身体の動きが止まった。
「……こ、これは……」
 やがて、ワナワナと震え始める丹前。
「な、なに? どうしたのよ?」
「……う……」
「う?」
「う……ううう……」
 そして、息を大きく吸い込むと、

 ──美味いっ!!

 部屋を震わせる程の大声で、叫んだ。
「こ、これほどのものがこの世にあろうとは……甘い中にも感じるこの奥深さは何だ!? あたかも舌の上に広がる小宇宙のようではないか。おお……目を閉じると幽玄境で繰り広げられる天女達の詩が聞こえるようだ……この味、まさに絶妙にして絶品、美味い……美味いぞぉぉ……」
「……あ、あの……もしもし?」
 涙をはらはらとこぼし、拳を握り締めて丹前が言葉をしぼり出す。
 その響きの中にあるのは、紛れもない感動と恍惚だ。
「世は既に、このような天上の味を生み出すに至っておるというのか……ならば、わしの技術など、もはや過去の遺物に相違ない。古きものは新しきものに道を譲り、消えていくまで。うむ、まさに至福。思い残す事など何もない……よきかな……」
「だから、あの、ちょっと……」
 幸せに包まれた表情の老侍が、すうっと消えていく。
「……」
「……」
「……」
 後に残されたのは、あっけに取られた様子の女性3人だった。
「……消えちゃったわね」
「なんなのよ、あの人……」
「……ですが、とても満足しておいでのようでしたね」
 最後につぶやいたステラのみ、表情も雰囲気も何も変化してはいない。
 ただじっと、丹前が消えたあたりの空間に目を向けていた。
「麗香さん、これ、そんなに高級なチョコだったの?」
「……いえ、見た所、たいした物じゃない……というか、値段の代わりに”40発”とか書いてあるわよ」
「ということは……」
「パチンコの景品みたいね。それも余り玉っぽいわ」
「……そんなもので満足したの……」
「たいした舌よね」
 2人揃って、盛大にため息をつく。
「……なるほど、そうなりましたか」
「あンのクソジジイ……さんざん引っ掻き回してそんなオチかよ……」
 輝史と大吾も、こちらへとやってきた。
 丹前が消えたことにより、鍋の妖しい力も消滅したらしい。人魚も、空飛ぶウドンも今はもういない。
「三下君は?」
 麗香が輝史に聞いた。
「向こうで目を回しています。食べ過ぎのようですね」
「ほっといても平気ね?」
「ええ、たぶん」
「あ、そ。ならいいわ。ほっときましょ」
「……はあ」
 簡単に片付ける麗香に、輝史が苦笑した。
「しかし結局鍋は食えないし、おっかない人魚には追っかけまわされるし、疲れて腹減っただけだぞ、くそっ」
 いまいましげに、大吾が言う。
「まあ、何はともあれ、無事に済んでよかったじゃないですか。それに、お腹が減ったというなら、万が一にと思って一応ブイヤベースを作って持ってきてあります。それでも食べますか?」
 と、輝史。
「ぶいやべーす……ってなんだ?」
「そうですね、簡単に言うと、魚介類を中心とした西洋風の寄せ鍋ですよ」
「へえ……美味そうだな」
「いいわね。じゃあそっちで2次会といきましょうか。いいかしら、麗香さん」
「……そうね。ついでだし、とことんやりますか」
「さすが、話がわかるわね」
 シュラインと麗香がそんな会話をして、笑い合う。
「お供させて頂きます」
 ステラももちろん、異存はないようだった。
「皆さんのお口に合えばいいんですが……」
 言いながら、ソファの脇に置いていた大ぶりのバッグを取り、テーブルの上に乗せた。
 ファスナーを開くと、中から顔を覗かせたのは、ステンレス製の鍋だ。しかも料理人が使うようなズンドウ鍋である。かなり本格的だ。
 蓋を開けると、皆の顔が寄り……
「……」
「……」
「……」
 一瞬で、表情が固まった。
 そこには美味しそうな料理など何もなく、ただ紙が一枚あり、達筆な文字でひとこと、

 ──馳走になった。なかなかに見事也。

 と、ある。
 誰が食べたのかは、それで一目瞭然というものだろう。
「……あのジジイ……どこまでもロクでもねえな……」
「でも、いつのまに……」
「……たいしたものだわ、いろんな意味で」
 大吾、輝史、シュラインがそうつぶやき、
「……ごちそうさまでした」
 ステラは両手を合わせ、静かにお辞儀をするのだった──


■ END ■


◇ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ◇

※ 上から先着順です。

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1057 / ステラ・ミラ / 女性 / 999 / 古本屋の店主】

【0996 / 灰野・輝史 / 男性 / 23 / 霊能ボディガード】

【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26 / 翻訳家&幽霊作家】

【1048 / 北波・大吾 / 男性 / 15 / 高校生】


◇ ライター通信 ◇

 時節はすっかり年末。
 寒いは雪降るわ腰は痛いわパソコンは壊れるわと、すっかりめっきりバタバタしまくっております。
 とはいえ、このお話がUPされるのは年明けでして……
 すみません。年内のOMCでのUPに間に合いませんでした。(泣謝
 参加して頂いた皆様方には、深くお詫び申し上げます。

 それでもって、あらためまして、あけましておめでとうございます。
 ふつつかものですが、今年もどうぞよろしくお願い致します。

 参加して下さった皆様、及び当物語を読んで下さった方々に、深くお礼申し上げます。
 なお、全ての参加者の皆様に納めました文章は、全て同じ内容となっております。その点ご了承下さい。

 ご縁がありましたら、またどこかでお会い致しましょう。

 それでは。

2002/Dec by U.C