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<PCシナリオノベル(シングル)>


時渡り ── シュラインの場合 ──

 今から八年前。
 アリゾナとメキシコの州境にほど近い片田舎で、列車を眺める事の大好きな『ティム・ドーソン』という、八才の少年が消えた。
 この少年は両親を事故で亡くしたばかりで、二日後にロサンゼルスに住む親戚へと引き取られて行く直前の出来事だった。
 最後に少年が目撃されたのは、少年がいつも通っていたとされるデミン駅。
 駅長のハーベイ・スコットは、彼が確かに壁にかけてあった写真を眺めていたと言った。
『間違いないよ。あれはティミーさ。だって毎日かかさずここへ来るんだ。見間違えるはずがないよ。いつものように、線路の彼方を眺めたり、レールに頬をつけて列車がくるかどうかを確かめていたりしたよ。最後に彼が立っていたのは、ホラ、その壁の写真の前だ。サンライズ・リミテッド号。マイアミからロスまでを横断する列車なんだ。格好いいだろ? ティミーはいつもそれに乗りたがってたのさ』
 少年はハーベイがほんの一瞬──瞬きをしている間にいなくなっていたと言う。
 周辺には他に列車待ちの客がいたが、皆、ティムと馴染みの人間で、悪い事をたくらむような者はいなかった。また、当時そこを通りかかった車も、やはり送り迎えの町の人間でティムを乗せたりどこかへ運んだ者はいない。誰もが一様に、『今までそこにいたはず』と首を傾げたと言う。
 ティムはその日から、ようとして行方が知れなくなった。数百キロに渡る広範囲で、州警察と町の人間による捜索が行われたが、どんなにくまなく探しても、ティムの姿はどこにも見あたらなかった。
 同時に各停車駅、当日から一週間以内にデミンを通過した全ての列車にも捜索の手は及んだが、ティムのような子供を見たと言う証言は、とうとう最後まで得られなかったのである。もちろん、親戚の所へもティムは現れていなかった。
 少年は誰かに連れ去られてしまったのか。それとも大人達の目をかいくぐり、自らの足で行方を眩ましたのか。
 その真相は誰にも分からないまま捜索は打ち切られ、ティムを引き取ろうとしていた親戚が用意したティム用のイスは、結局誰にも使われる事もなく部屋の隅に追いやられたのである。
 だが、この話はこれだけで終わらなかった。それから数ヶ月経った、ある日の事。デミン駅でちょっとした事件が起こったのだ。
 それは少年を最後に見た駅長ハーベイが、日課である掃除をしていた時の事である。
『いやぁ、びっくりしたよ。この辺一体は砂っぽいだろう? だから一日でも掃除をさぼると真っ白になってしまうんだよ。俺は毎日あの写真にはたきをかけて……するとだよ? 列車に乗り込もうとする人達──ホラ、この人達の中に確かにティムがいたのさ!』
 ハーベイは、ティムが毎日眺めていたと言う写真の中に、少年の姿を見たという。
 しかし、町の人間は容易にそれを信じなかった。写真の中に行方不明になった少年がいるなど、荒唐無稽のお笑いぐさだ、まるで面白くない三流ホラー小説だ、と笑いもした。何故なら町の人間がその写真を覗き込んだ時、ティムの姿はどこにもなかったのだ。
 ハーベイは頑としてティムを見たと言って譲らなかったが、それも周囲から哀れみの眼を向けられるようになると、次第に声を落とすようになり、そして口を噤んだ。
 町の人はハーベイがティムを可愛がるあまり、いなくなった寂しさに錯覚を見たんだろうと噂した。
 そして、その出来事は未解決のまま、ただ一人の少年のよくある失踪事件としてファイルに残す限りとなった。
 
■■ 時渡り ■■
「それが『時渡り』の仕業なの?」
 彼女は言って、紫煙くゆらせる探偵の顔を見上げた。探偵の名は草間。彼は頷いて彼女に三枚の写真を手渡し、まだ伏せているようにと告げた。
 彼女──黒髪に切れ長の瞳を持つ麗艶の美女──シュライン・エマは頷く。大胆に開いた胸。薄く紅い唇。全てを見抜くように鋭く、だがミステリアスな眼差し。
 それが今、草間を見つめていた。
「ああ、時渡りは写真という空間の中を自由に移動する。移動しながら、目を留めた人間に誘いかけるんだ。『こちらに来ないか』とね」
 草間は吸い殻の山と溢れた灰皿で、タバコを揉み消す隙間を探していた。シュラインは苦笑してそれを片付け、綺麗にした物を草間に手渡す。
 シュラインにとってこのやりとりは、今に始まった事ではない。草間の事務所へ訪れた時は、これも仕事の一つとなっていた。
「それで、その時は彼に目を留めたってワケね?」
「ああ」
「彼は何故、時渡りの呼びかけに応じたのかしら」
 草間は新しいタバコに火を付けた。ライターから一瞬、オイルの匂いが漏れる。
「現実から逃げたかったのか……それとも単に写真の中の列車に乗ってみたかったのか。いずれにしても、少年が『それ』を望んだのに間違いはない。時渡りは無理強いをしないようだ」
 草間に問いかけて来た時渡りは、草間の反応が不同意と知ると、あっさりと引き下がった。そして二度と話しかけて来ないと言う。また、草間の声にも反応しなかった。
「恐らく同じ者に二度、誘いかける事は無いんだろう。実は時渡りに関しては、俺もよく知らないんだ。噂だけは聞いていたんだが、こうして実物を見るのは初めてさ。『例の異名』をたどって、この写真が回ってきたんだが……」
 『怪奇探偵』という言葉を伏せて、草間は肩をすくめる。その少々不満そうな顔に、シュラインは苦笑した。実際、受けている事件の内容を考えれば、そう呼ばれても仕方のない事なのだが、草間は納得がいかないらしい。
「出くわした以上は、これ以上時渡りに人を浚わせるワケにはいかないだろう?」
「ええ。そうね。でも、連れ去られた人達は、一体どうしてるの?」
「分からない。ただ、こうして見ていると、時々『彼ら』が現れる。向こうへ行った人間は、『ただそこで生きて行く』のかもしれない」
 草間は言った。
 ただそこで生きる。
 簡単なようだが、シュラインにはそれが言葉ほど簡単に思えなかった。
 喧噪も無く、常に靄然で、波の立たない世界。そこでは空模様さえ変わる事が無いと言う。
 果たして、そんな何の変化も起こらない空間で生きていて楽しいのだろうか。シュラインには疑問だった。
「ねえ、そう言えば武彦さんは何て答えたの?」
 草間は片笑んで、さあと肩をすくめる。
「君も『切り札』は用意してきたんだろう?」
「ええ、と思うけど」
「そうか。じゃあ、大丈夫だろう。俺の答えは、君が帰ってからにしよう。ただ、一つだけ……これだけは絶対に守ってくれ。時渡りを怒らせない事。もし、怒らせて君の前から──この写真の中から時渡りが消えれば、君はこの世界へ戻れなくなってしまう。この世界に『写真』というものが、一体どれくらい存在するのか君には見当がつくかい?」
 シュラインは目を細める。
 プライベート、仕事、人物、風景、動物に静物。それはキリが無く、星の数ほどあるに違いない。
「……想像もつかないわ」
「そうだ、想像もつかない。その『想像もつかない』どこかの一枚に、時渡りが移動してしまう──だがまあ、そうなった時には巻き込んでしまった以上、俺の探偵生命をかけても探し出すつもりではいるが」
「この写真、返そうかしら」
「しまったな。黙って送り出せば良かったか」
 おどけて肩をすくめる草間に、シュラインは笑った。
「もし怒らせたら一度引く。まずい事があったり、困った事があったら」
 そう言って未だ伏せたままの写真を指さした。
「店の中へ入って、本を読むフリをして欲しい。それを合図にしよう。それまでには何とか時渡りについて、詳しい事を調べておくよ」
「本ね。分かったわ。でも、どうやって中へ?」
「ああ、簡単だ。時渡りに誘われたら『はい』とだけ答えればいい」
「本当に簡単ね」
 シュラインはゆっくりとそれを裏返した。
 三枚のモノクローム。
 町、墓地、店内。
 一枚を覗いて人の影は見あたらない。
 時渡りは背を向けて墓地の遠景に佇んでいた。
「ただし、話しかけられるかどうかは、時の運だ」
 小声で言う草間の言葉に目で応じて、シュラインは写真を覗き込んだ。
 静かに流れていく時間。
 やがて時渡りが、ゆっくりと振り返った。
「やあ、お嬢さん。争い事も、仕事も、煩わしいと思える事は何も無い世界は好きかな? とても、良いところじゃ。きっと楽しく過ごせるぞ?」
 正面にある草間の唇が「怒らせるな」と動く。シュラインは小さく息を吸い込むと、時渡りに向かって頷いた。
「ええ、行くわ」
 刹那──
 意識が何かに引っ張られるような感覚を受け──

 * * * * * * * * * * * 

「ここ、どこかしら……」
 気が付くとシュラインは見知らぬ土地に佇んでいた。手にしていたはずの写真が消えている。
 周囲を見渡すと、点々と埋め込まれた墓石がどこまでも続いていた。どうやら写真にあった墓地のようだが、時渡りの姿はどこにも見えなかった。
 緩やかな丘陵。抜けるような青空と、緑の芝が織りなすコントラスト。シュラインはその中で、奇妙な事に気が付いた。足下の芝目が、全て同じ方向へなびいているのだ。
「この写真を撮った時は、風が吹いていたのね」
 瞬間を捉えた世界は、そのままの形から動く事は無いのだろう。眼下には吹きっさらしの荒野に、町とも言えぬような小さな町が一つ見えた。
 シュラインは腰に手を置き、フウと小さな溜息をつく。
「どうせなら町へ運んでくれると良かったのに」
 そして、丘陵を下り始めた。

■■ 瞬間の世界 ■■
 この町はリードと言った。
 周囲一体を荒野に覆われた、見るからに寂れた町だ。軒の数は両手に少し余るほど。それが、メインストリートに沿って一カ所に寄り集まっていた。
 町の中心に掲げられた看板には、『ベンソンまですぐ! ようこそリードへ! アリゾナ州』と書かれている。恐らくここで唯一の歓待の声だろう。ホテル、バー、ストア、どこを見てもまるで人気が無い。砂っぽく乾燥した風景が、ひっそりとシュラインの視界に横たわっていた。
 時渡りはストリートに面した店の前で、揺り椅子に揺られながら一人パイプを楽しんでいた。
「やあ、お嬢さん。こんにちは。ここまで迷わずに来れたかな?」
「こんにちは。何とか辿り着けたみたい」
「フォフォ。どうじゃな? いい所だろう?」
「ええ……」
 まるで邪気の無い柔和な声と、凪の海のように穏やかで思慮深い笑顔。それがシュラインの前でゆっくりと立ち上がった。
 写真では遠すぎて分からなかったが、こうして間近で見ると、時渡りの目には白い部分が無かった。それが見る角度に寄っては、底知れぬ闇のようにも思えて、シュラインは『怒らせるな』と言う草間の言葉を思い出していた。
「そうだ。お嬢さんにこの町を案内してやろう。まずは、そうじゃな。この町自慢の『ラドリーの店』に案内しよう。そこでソーダ水なんてどうかな? チョコレート、コーヒー、ストロベリー。キャンディバーだってあるぞ?」
 時渡りはすぐ真裏にある店の、たった三段しか無い階段を昇った。歩くたびに木の床がギイギイと軋む。『OPEN』というプレートの下がったドアを開けると、やはり同じ音がした。
「お爺さんのお薦めをもらおうかしら」
「ワシか? ワシはもちろん、チョコレートじゃ。上にシロップ漬けのチェリーを乗せるのが、ワシのお気に入りなんじゃよ」
「じゃあ、それでいいわ」
 シュラインの言葉に時渡りはニッコリと笑って、店の中へと入っていった。シュラインも後に続く。
 店は右手に二本の通路を構え、正面にはカウンターと一本足のスツールが数個あった。壁には何かのメニューだろうか……が、バラバラと貼られている。
 左手にはカラフルな瓶入りの飲み物に、極彩色のキャンディーの入った容器がズラリと並び、シュラインは束の間、その配色に目を奪われた。それはまるで夜の遊園地に輝くネオンのようだ。
 店内の至る所に貼られた古いプレート。棚という棚に所狭しと並んだ商品。カウンター横には水を量り売りする自動販売機もあった。
 この店には一通りの物が揃っている。だが、肝心の店の人間がいなかった。
 時渡りはカウンターを覗き込むと、スツールを引き出して、そこに腰掛けた。 
「ラドリーならじきに来る。それまで、ここで座って待つとしよう」
 微かな笑みを浮かべると、時渡りは全く動かなくなってしまった。
 何の音もしない。
 耳が痛くなりそうな静寂の中、シュラインは不安を覚えた。
「……お爺さん?」
 返事が無い。
 顔を覗き込み、目の前に手をかざしてみる。だが、反応は帰って来なかった。
 シュラインは店内を見渡した。
 壁の時計が一時三十九分を刻んだまま止まっている。
 一体どうしたら良いのだろう。シュラインは途方に暮れた。
 話をしたいはずの時渡りは、まるで背景の一部になってしまったかのようだ。ここに息吹くのは、シュライン一人になってしまったのだろうか。
 不意に時渡りが口を利いた。
「落ち着かないかね?」
「え、ええ」
 半ばホッとしてシュラインは答える。
「まあ、始めの内はしょうがない。直ぐに慣れるさ」
「ラドリーさん、っていつやってくるのかしら……」
「さてなあ。ここには時間の流れが無い。お嬢さんの世界なら、それは五分後かもしれんし、十年後かもしれん。まあ、ここでこうして座っていたら、その内やってくるさ」
 シュラインは思わず眉を潜めた。
「十年……?」
 時渡りは優しく首を振る。
「例えじゃよ。ここには時間が無いからの。待っておる間は、あの時計と同じに止まっておればいい。動く誰かがやってきて声をかけてくれたら、また動き出せばいいんじゃ」
「まさか……それまでずっとこのままなの?」 
 驚きが声に出てしまう。
 目的さえ果たせば、直ぐにでも帰るつもりだ。いつ来るとも知れない人間を、果てしない時間を費やして待つつもりなど、シュラインには毛頭ない。
「不満かな?」
 言葉を選ぶ。
「……不満じゃないけど、退屈かも」
 時渡りは声をたてて笑った。
「正直でいい。じゃあ、ラドリーが来るまで図書館に案内しよう。きっとお嬢さんの気にいるぞ。何せあそこには置いてない本なんて無いんじゃから」
 時渡りはゆっくりとした動作でスツールから下りた。
 コトコトギイギイと床を踏み店を後にすると、今度はそこから数軒離れた、飾り気の無いグレーの建物へとシュラインを案内した。
 見た目は小さな本屋ほどの規模しかない。円錐に組まれた黒色の煉瓦屋根と、壁に丸い時計が埋め込まれていた。針は二時十三分で止まっている。
 時渡りは重たげなガラスの扉を開き、シュラインを先に通した。床はタイル張りで天井は高く、どことなくおごそかな雰囲気だ。『お静かに』という張り紙と、インクの匂いがシュラインを迎えた。
「おや? 新しい方ですか?」
 ここには受付に人がいた。眼鏡をかけた細面の青年だ。とても実直そうに見える。シュラインを目にすると屈託無く微笑んだ。
「おお、紹介しよう。お嬢さん、アンタは運がいい。早くもここの住人に出逢えた。これは図書館員のサイラスじゃ」
「サイラス・マクスリーヴです。えっと」
 青年はシュラインに手を差し出した。シュラインもそれに返す。彼の指先には、本をめくる為のサックがあった。
「シュラインよ。シュライン・エマ」
「よろしくどうぞ。シュラインさん」
 『時が無い』と言う事は、人をこんなにも穏やかにするのだろうか。サイラスも時渡り同様、春の日溜まりのように柔らかな印象を受けた。
「今日は何かお探しですか? ガス」
 時渡りはシュラインに小声で囁く。
「サイラスはワシをガスと呼ぶんじゃ──ああ、何かこのお嬢さんにステキな本を見繕ってくれんか? そうだな……『老人と海』なんてどうかのう」
「うーん。それもいいですが、僕なら『星の王子様』や『ライ麦畑で掴まえて』をお奨めしますね。それとも、ぺーバーバックの新刊で──」
 サイラスは手元にある山積みの本をどかし始めた。全てに読みかけのしおりが挟んである。
「いや、いいよ、サイラス。『ライ麦畑』がどこにあるか教えてくれんか?」
「そうですか? 残念です。なかなか面白そうな本だと思ったんですけど……。えっと」
 サイラスは背後にある、アルファベット順に仕切られた木棚から、『C』の引き出しを抜き取った。中には小さなカードが数枚、端に寄せられている。サイラスがそれをめくると、不思議な事に次から次へとカードが現れた。やがて一枚のカードを彼は抜き出した。
「ありました。えっと、南二十三番通路のC088834です。これ、持って行きますか?」
「そうじゃな、借りていこう」
 シュラインは二人の話を聞きながら、館内の奥へと視線を伸ばした。見えるのは数本の短い通路と、突き当たりの壁、天井まで高く伸びた本棚だけだ。とてもではないが、そのナンバリングに見合う通路があるとは思えなかった。しかし、二人はそんな事に気を留めていない。きっと当たり前の事なのだろう。
 時渡りはカードを受け取ると、シュラインを振り返った。
「さて、お嬢さん。物は試しと言うが?」
 すでに抜き出されてしまったカード。
 さり気なく強引だが、どこかおどけた時渡りの様子は憎めない。それに『南二十三番通路』が何処に当たるのか知りたかったシュラインは、肩をすくめて頷いた。
「そうね。それでいいわ」
「そうかね? では、ついておいで」
 時渡りに案内されて、図書館の奥へと足を運ぶ。すると──
「!」
 通路は果てしなく延び、先が見えなくなってしまった。
「驚いたかな? 迷子にならんようワシを見失わないようにの。広すぎてワシですら時々帰れんようになってしまう。『エド』が初めてここへ来た時は、確か二十年近く戻ってこんかった」
 シュラインは、耳を疑った。図書館で二十年も迷子になるなど、信じられる事では無い。
「お嬢さんの世界でなら『二十年』じゃな。だが、ここじゃそんなのは、ちっとも大した事では無いんじゃよ。『マーサ』は風呂に十二年もつかっとったし、『フレディ』は散歩へ行くと言って玄関を出た途端、水たまりを踏んで三十年も立ち止まっておった」
 呆れて何も言えなかった。
 二人並べば一杯の狭い通路に、二人の足音が響き渡る。遠く受付からサイラスのくしゃみが響いた。それが通路の奥の方へとこだまとなって消えていく。
「この通路……どこまで伸びているの?」
「うん? 探している本がある所までじゃよ」
 時渡りは南二十三というプレートのある通路に入ると、一冊の本を探し出した。それを差し出して、ニコリと笑う。
「さあ、お嬢さん。これを貸してあげよう。読んでも読まなくてもいい。じゃが、必要が無くなったらちゃんと返しておくれ」
 シュラインは本を受け取り、パラパラとめくった。何の変哲も無い普通の本だ。ページ数が増える事もなければ、減る事も無い。
「ええ、分かったわ」
「どれ、店の方へ戻ってみようか。そろそろラドリーがやってきているかもしれん」
 シュラインは歩きだす時渡りの後に続いた。何気なく振り返ってみると、長く続いていたはずの通路が消えている。
「面白いじゃろう?」
 呆然として顔を元に戻す。目の前にはまだ遠いはずの受付が、忽然と現れていた。
「何、驚く事はないんじゃ。これもすぐに慣れる」
 時渡りはシュラインを先にドアの外へ出すと、サイラスに向かって手を挙げた。

■■ 再びラドリーの店 ■■
「ほ。まだ来ておらんかったか」
 何一つとして物の配置の変わっていない無人の店内を目に、時渡りは言った。
「さて、お嬢さん、ラドリーも来んようだし、今度はお嬢さんの行きたい場所へ案内しよう。お望みの場所はあるかな? 写真という場所の中なら、お嬢さんだけでも自由に動けるがの。もし行きたい所があるなら、図書館でその写真を探すといい。さっきも言ったが、無い物は無い。例えば誰かのアルバム──そんな物もちゃんとある」
 時渡りはカウンターにお金を置くと、ゴミの中からいらないレシートを見つけ、そこに何かを走り書いた。次にゼリービーンズの瓶からカラフルな粒を一掴み取り出す。
「こうしておけば、ワシは泥棒にはならんからの」
 フフと笑って、シュラインの手にビーンズを半分乗せた。
「ありがとう」
「何。ワシはこの黄色が大好きなんじゃ」
 一粒パクリと口に放り込む。その姿は屈託が無く、子供のように無邪気だ。シュラインも青いビーンズを口に入れた。何の味なのかは分からないが、とにかくとても甘かった。
「今は特に行きたい所が思いつかないんだけど……代わりに少しお話させてもらってもいいかしら」
 時渡りはスツールの一つに腰掛けた。
「話? いいじゃろう、何かね?」
「ええっと……ガス?」
 ザラザラと口に残りのビーンズを流し込み、時渡りはもごもごと口を動かしている。
「ワシには名前が無い。好きな名前で呼ぶといい。ガスでも何でも」
 ゴクリと飲み干して、今度は派手なピンク色の飲み物を持ってくる。『ピンクレモネード』と書いてあった。
「お嬢さんもどうだね? よく冷えておるよ」
「後でもらうわ。……ねえ、ガス。もし、この世界から出たい時はどうすればいいの?」
「この世界から出ようなんて気は、直ぐに起こらなくなる。大丈夫、ちょっと本を読んで、ちょっと居眠りでもすれば、お嬢さんもここの住人にすっかりなっているだろうさ」
 時渡りは一気にピンクレモネードを飲み干した。
「あなたは出たいと思わないの?」
 驚いた時渡りは目を丸くした。
「出たい? ワシがかね?」
「ええ」
 時渡りはシュラインの顔をジッと見つめた。目が糸のように細くなっている。
「ふむ……そうじゃのう。ワシは生まれた時からこの世界で生きておる。不便を感じた事は無い。穏やかで静かで、いい所じゃ」
「ええ、その通りだと思うわ。煩わしいと思える事も無いし……でも、それでいいのかしら」
「いけないのかな?」
「変化が全くないって事よね?」
 シュラインの言葉に時渡りは考え込んでしまった。
「そうなるのう」
「退屈を感じたりはしないの?」
 時渡りは、フォフォフォと声を立てて笑い、シュラインに砂糖抜きのコーラを持ってきた。
「面白い事を言うお嬢さんじゃのう。ここには時間と言うものが無い。だから暇を感じる事も、退屈を感じる事も無いんじゃよ。まして、忙しいと慌てる事も、腹を立てる事も無い。『時間は無限にあって、動く事は無い』」
「じゃあ、面白いと思う事は? 退屈や暇や忙しさ、そう言った変化があって、面白いと感じる事があるんじゃないのかしら」
「……なるほど、なるほど」
 シュラインの話に時渡りは満面の笑みを浮かべている。会話を楽しんでいるようだ。
「お嬢さんは、ワシをここから連れ出したいのかな?」
「……ええ」
「そうか。ワシに外の世界へ出ろと?」
「ええ」
 時渡りは、シュラインに外へ出ようと合図した。店を出ると変わらずに青い空と乾いた地面が広がっている。
「お嬢さんはこの世界が一体何の為に、そして誰に作られたか、ご存じかな?」
 時渡りはゆっくりとした動作で、パイプに火をつけた。揺り椅子に腰を下ろした時渡りは、シュラインに店の階段へ座るよう指さす。
 シュラインは言われるがままに従い、三段ある真ん中に腰を落とした。
「いいえ、知らないわ」
 時渡りは軽くイスを揺すり、微笑を浮かべたままで遠い山並みを見つめている。
「ここはな、人間が作り出した世界なんじゃよ。もっと細かく言うと、人間の心が作り出した世界なんじゃ。そして、ここにおるワシも人間に作り出された存在なんじゃよ」
「『時渡り』さんも?」
 思わず漏らしたシュラインの言葉に、時渡りはクルリと振り向いた。
 一瞬、小さく心臓が跳ね上がった。時渡りを怒らせてしまったかと思ったのだ。しかし、時渡りの真っ黒な目は、いかにも楽しそうに笑っていた。
「ホホッ、知っておったか。ワシを知っておる人間は、そう呼ぶらしいのう」
 どうやら大事には至らなかったようだ。シュラインはホッと胸を撫で下ろした。
「おお、来おった」
 時渡りがストリートの交差点に目をやるのを追って、シュラインもそちらへ顔を向けた。今の今までそこには誰もいなかったはずだが、いつのまにか現れた少年が、一人リム遊びをしている。
「この世界はな、お嬢さん。人間達の『逃避場』なんじゃよ」
「逃避場?」
「ああ、そうじゃ。ここへ来る大半の者達は、皆、心に傷を負っている。この店のラドリーも、図書館のサイラスも、あの少年も、ここにいない皆も。この世界へ逃げる事で『何か』から救われているんじゃ」
「どういう事?」
 時渡りはそう言って、少年を見つめた。少年は自転車の車輪を木の枝で、器用に転がしながらやってくる。
「ラドリーは最愛の妻を亡くした寂しさから、死にたいと思っていた。サイラスは会社を首になり、仕事も無く貯金を食いつぶす毎日だった。彼はとても文才があっての。一度、書いた話を読ませてもらったんじゃが、とても面白かった。『孤独な犬飼い』という話じゃ。しかし、元の世界では物を書く時間も、金も無いそうじゃ」
 シュラインは時渡りの言葉に頷いた。
「深い悲しみ、絶望、寂しさ。ヒトは皆、それを負った時、その場所から逃げ出したいと思う。放っておけば、やがて自らを死に至らしめる者もいる。ワシはそう言った者達をここへ連れてくるんじゃ。この『何もかもがあって、何も無い空間』にな」
 少年が時渡りに向かって手を振っている。時渡りは、片手をあげて微笑んだ。
「でもここは何だか寂しい気がするわ。寂しいと思っていた人は、余計寂しくなったりしないかしら」
「だから、言ったじゃろう? ここには時間という観念が無い。寂しいと思うのは、独りぼっちを感じるからだ。しかし、その独りぼっちを感じる『時間』が無い。例えば、お嬢さん。アンタは図書館で本を借りてきた。それを返しに行っても、サイラスがいない。独りぼっちじゃ。お嬢さんはどうするかな?」
「日を改めてまた伺うわ」
「その日を改めるという事がここには無いんじゃよ。サイラスがいなければ、サイラスが来るまでそこで待っていればいい。待っている間は、皆、その場所に溶け込んだ置物と同じなんじゃ。一人を感じる事も、退屈を感じる事も、いつ来るかと気にする事も、遅いと腹を立てる事もない。その時、アンタは写真の一部になるんじゃよ。写真の中では、全ての物が動かずにいる。そこには時間が無いからのう」
 時渡りはそう言って深くタバコの煙を吸い込んだ。『刻の観念』という迷路に、シュラインの思考が彷徨い始める。しかし──
「確かに──腹を立てたり、心配する事が無いのは、いい事なのかもしれない。でも、私にとって変化がないと言う事は、とてもつまらない事の様に感じるのだけど……」
「ほう?」
「別に激しい変化じゃなくて良いの。草木の成長、季節や時間での温度の違い、刻々と形を変える雲や空の色。風の音だって、その度毎に違って……。変わって行くからこそ、安心出来る事もあるし」
 シュラインは時渡りの顔を見つめた。黒い黒い、どこまでも真っ黒な瞳。吸い込まれて行きそうな深い闇。
 だが、シュラインはそこから目を逸らさなかった。逸らせば時渡りの『魔法』に落ちてしまうような気がしていた。
 そんな葛藤も知らず、時渡りは変わらずに微笑んでいる。
「ふむ、季節に風か。それはステキじゃろうな。ここには外からやってきた者以外に『生』がないのでのう」
「それなら、一緒にここから出てみるって言うのはどうかしら?」
「お嬢さん、アンタ、本当に面白い事を言うの。ワシを外の世界へ誘ったのは、アンタが初めてじゃ。ここへ来る者は、皆、元の世界を思い出したく無い者達ばかりだからの」
 時渡りは感慨深げに目を細め、シュラインを見つめた。
「そう言えば、あなたがここからいなくなると、この世界はどうなるの? 消えてしまうの?」
 靴の踵を使ってパイプのクズを落とすと、時渡りは新しいタバコをそこに詰めた。
「いいや、無くなりはせんよ。ワシの力は、ワシがどの場所にいても変わりはせん」
「彼らは? あなたがいなくなった後、元の世界へ戻るのかしら?」
 時渡りはユルユルと首を振った。
「どうかのう……。お嬢さんはさっき、ワシにどうやって元の世界へ戻るのか、と聞いたじゃろう?」
「ええ。でもすぐにここに慣れて、そんな事は考えなくなるって言ったわ」
 シュラインは、始めに時渡りから聞いた言葉を反芻した。
「うむ。ここにはな。この世界に早く順応するよう、ワシの力が働いておる。しかし、それまでに少しだけ時間がかかるんじゃ。その間、戻りたいと思えば戻る事は出来たんじゃよ。もちろん慣れてしまっても、『そう思う事が出来るなら』いつでも帰れる」
 ふと、シュラインはここへ来て、まだ一度も帰ろうと思った事が無かった事に気が付いた。
 時渡りを外の世界へ連れ出すという目的があったし、窮するような事態にも追い込まれていなかったからだ。だが、もし一度でも帰りたいと思っていたならば、シュラインは一人探偵の元へ戻り、もう二度と時渡りを連れ出す事も出来なくなっていただろう。
「そうだったの……と言う事は、彼らがまだそれを感じた事が無いと言う事ね」
「ああ。彼らは、この世界が必要なんじゃ。愛する者のいない家、活気の失せた日常。ラドリーがここへ来たのは、もうどれくらいに前になるかのう。恐らく戻っても彼を知っている者や、彼が知っている者はもう生きてはいないだろう」
 時渡りの言葉は一つ一つが重かった。
 彼らは他人が知り得る事の無い、辛い現実と向き合い切る事が出来なかったのだ。だからこそ、時渡りの世界へ来る事を望んだ。ここへ来て、自分という存在を保ったとも言える。
 時渡りは、いわば彼らの救世主だ。そう言った感情やしがらみから、逋脱する為に人間が自信で作り出した存在。ここでもし時渡りの行為を止めさせれば、こうして救われる者はいなくなってしまう。
 だが、ここへ来て苦界から逃れられた者はいいとして、元の世界に残された者達はどうなるのだろう。例えば少年を捜した町の人達、イスを買って待っていた親戚。皆、心から心配していたはずだ。
 やはり、良い事だとは思えない。
 シュラインが思案に暮れている横で、時渡りはそれを見透かしているかのように微笑った。
「空に風か……変化があるというのは、楽しいかね?」
 シュラインは考える事を止め、時渡りへと顔を向けた。
「ええ。曇った空に浮かぶ雲や、空の動き……それを見てると楽しいわ」
「そうか。楽しいか……。行ってみたい気もするのう」
 リム遊びをしていた少年が、時渡りの元に駆け寄ってきた。
「爺さん!」
「おお、どうしたね?」
 膝に覆い被さる少年の頭を、時渡りは愛おしそうに撫でた。
「爺さん、今日はビッグベンを見てきたよ。何の列車に乗ったか当ててみて」
「ビッグベン? ドイツじゃな……となると、お前さんの好きそうな列車は……ユーロスター、タリス、ICE……」
「ユーロスターだよ。初めは手こずったけど、次はもっと上手く乗れると思うんだ」
 少年はそう言うと嬉しそうに、シュラインへと顔を向けた。金髪に見事な碧眼の、線の細い少年だ。
「お姉さん、新しい人?」
「え、ええ」
「僕、ティム。ティム・ドーソン。ここはいい所だよ。お姉さんも早く慣れるといいね。僕は直ぐに慣れたよ」
 シュラインは彼が草間の話に聞いた、行方不明の少年だと気が付いた。
 ティムは笑いながら手を振り、リムを肩に担ぐととラドリーの店へと入っていった。カウンターに手をかけスツールによじ登るのが見える。そして頬杖をつくと、そのまま動かなくなった。
 彼は風景の一部となってしまったようだ。
「可愛い子じゃろう?」
 時渡りは座った時と同じように、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「ワシはどうやら行けそうもない。何故ならワシはここを──この世界を気にいっておるし、ここにおる皆が好きなんじゃ」
 その視線は店の中のティムを見つめていた。
「それに……出てはみたいが、ワシはここへの戻り方を知らん」
 シュラインは何も言えなかった。
 時渡りが少年を見る目には、愛情が溢れている。
 彼が人間に無理強いをしないように、シュラインもまた彼に無理強いは出来ない。
 それに彼を怒らせるわけにはいかなかった。
「お嬢さん、アンタ、何故ワシを外へ連れ出したいんじゃね? ただ風や雲を見せようと言うわけでは無いのじゃろう?」
 時渡りは目を細めてシュラインを見た。
 静かな間が流れる。
 シュラインは本当の事を打ち明けた。
「……ええ。もう人を浚わないで欲しいの。ここで暮らしている人達はともかく、連れ去られた周囲の人達は、皆、心配しているわ」
 ふうむ、と時渡りは唸った。
 彼は決して悪気があって人間をここへ呼んでいるわけではない。恐らく、こうして責められた事など無かったのだろう。
「そうじゃったのか。なら、こうしよう。ワシはもう人間をここへ連れ込んだりはせんし、この場所から動く事も止めよう。シュライン・エマ──アンタの名にかけて誓うよ。絶対じゃ」
 シュラインは迷った。
 時渡りが動かないという保証はどこにもない。考えあぐねていると、時渡りは微笑を苦笑に変えて、シュラインの手を握りしめた。
「やれやれ、人間と言う者は疑心暗鬼な生き物じゃの。ワシは約束を破ったりはせんよ。アンタは外へ出たら、この写真をずっとアンタの目の届く所に置いておくといい。ワシが本当にここにいるかどうかを確かめる為にな」
「そこまで言われたら、信じるしかないわよね」
「じゃろう? ただし、ワシにも条件がある」
 時渡りはギュッと握った手を、何度も小さく振った。それはまるで別れの握手のようだった。
「ワシがもし、『それ』を訊ねたらアンタに答えてもらいたい」
「『それ』?」
「風と、空と、季節の様子じゃよ」
 時渡りはそう言うと、ソッと手を放し背を向けた。
 歩きかけ──立ち止まる。
「ああ、お嬢さん。最後に一つ聞かせてもらいたい。アンタは眼鏡をかけた、『クサマ』と言う青年を知っているかな?」
 シュラインは小さく頷いた。
「そうか。お嬢さんの前に声をかけたんじゃが……やはり、知っておったのか。アンタが言っていた事と同じような事が、彼が言っていた中にもあった気がするのう」
 時渡りは笑いながら店の中へ入って行き、ティムの横に腰を下ろした。少し顔を傾け、ティムの顔を覗き込む。
「それじゃあ、お嬢さん。アンタと話せて楽しかったよ。ワシはここで、ティムと一緒にラドリーを待つとしよう」
 そして、動かないティムの横で、時渡りもまた動かなくなった。
 
■■ 帰還 ■■
 写真の中へ入った時と同じように、まったく突然に、シュラインは草間の事務所へ戻っていた。
 念じれば戻ると言う、時渡りの言葉は本当だったのだ。
 草間はシュラインの話しを聞きながら、終始赤い目をしていた。この三日間眠れなかったと言う。
 三日間だ。
 草間が冗談を言っていない証拠に、カレンダーの日付はあれから三つ進んでいた。
 写真を覗き込むと、別れた時と同じ場所に時渡りはいた。
 ティムの横に腰掛けている。
 ただ、一つだけ違う所があった。
 それは少年の顔だ。
 時渡りに向かって笑いかけるそれは、いかもに楽しげで嬉しそうだった。
「連れ出せなくて良かったと思うのは、俺だけかい?」
 そう片笑む草間に、シュラインは首を振った。
 浮かべた微笑はどこか写真の中の二人の笑顔にも似た、和やかな笑みだった。




                        終