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<PCシナリオノベル(シングル)>


闇映
●序
 瓦礫と炎の中、男が一人立っていた。名前も知らぬ、姿も見たことの無い男。全てが混乱の渦に巻き込まれている中、何故かその男だけがはっきりと目に焼き付いていた。
(あの男……)
 漠然とした、それでも確かな実感。
(あの男だ……!)
 大きく見開き、それから睨みつけるように眉間に皺を寄せて鋭く射抜く。男の表情は見えない。笑っているのかもしれない、泣いているのかもしれない。否、そんな事はどうだっていい事なのだ。
(どうしてお前は)
 次々と湧き上がる思い。そして憎しみ。
(どうしてお前は……!)
 それが最絶頂に達した時、辺りは真っ暗な闇の中へと飲み込まれていった。そこで悟る。全てが、夢であったのだと。

●起
「最悪だ」
 ぽつりとそう呟き、霧島・樹(きりしま いつき)は起き上がった。夢を見たことではなく、未だに夢を見てしまう自分に。勿論、過去は過去のものとして捨て去る気持ちはさらさらない。だが、それを夢見てしまうほどに追い詰められていると考えると、何となく憂鬱になってしまうのだ。
 気を取り直すようにカレンダーを見る。仕事は打ち合わせのみとなっていた。そろそろ出かけなくてはならない。
「ねえ、起きたの?朝食、できたよ」
 ドアの向こうから、明るい声が聞こえる。無邪気な少女の声。樹とは違う少女に、戸惑いはするものの、それは決して悪い気分ではなかった。
「今、行く」
 樹はそれだけ答え、着替え始めた。鏡の前に自分が映る。さらさらとした黒髪に、きらきらと輝く銀の瞳。十年前に巻き込まれてしまった事故の所為で、体の三分の二が機会となってしまった、女と証明できるものが一つもない体。
(それでも、今、生きている……)
 皮肉めいた笑みを浮かべ、樹は鏡の前から姿を消した。

 殺し屋。それが樹の職業だ。事故直後に助けられた、裏世界に根を張る組織の幹部だ。ニューヨークを拠点としており、樹のいる日本では新宿が拠点となっている。要人の暗殺を主としている組織。
(だんだん、頭が侵されていくようだな)
 ふ、と自嘲する。赤く染まっていく自分の手。死が身近になっていく感覚。そしてそれはいつしか一緒に住んでいるあの少女も、体験せざるを得なくなっていくのだろう。今は純粋な少女。だが、組織に引き取られたという以上、それは避けて通れぬ道であろう。いつか、孤児であった自分を恨むかもしれぬ。引き取った組織を……樹を恨むかもしれぬ。
(それでも、あの子はあの子なりに歩まねばならない)
 空を見上げ、樹は呟く。何もしらぬ青い空。先ほど、また樹が殺しの打ち合わせをしてきた事も知らぬような、澄んだ青い空。
「青いな……」
 抜けるような青空は、ただただ樹の心に染み込んでいく。……その時だった。目の前に靄のかかった場所がおぼろげに見えたのは。黒い靄のかかった場所。
「何だ、あれは……」
 今日は青天、見渡す限りの青空。それなのに、靄がかかる事が果たしてありえるのであろうか。
「行ってみるか……」
 本能で、そこは危険なのかもしれないと察知していた。樹は銀の目を凝らす。樹の目は、即座に対象を認識してあらゆる情報を引き出す分析機械だ。今、目の前に存在する黒い靄の中も分析できる筈……だった。
「何……?」
 樹は愕然とする。靄の中には街が存在する、という事以外は何も分からなかったのだ。脳内に響く『NO DATA』の言葉。このような事がありえるのか、と思わず目を見開く。樹は暫く考え、歩を進めた。嘗て聞いた噂は、本当なのかもしれないと思いながら。

●噂
「……以上です」
 暗殺内容、条件、方法の打ち合わせはその言葉で締めくくられた。樹は淡々と資料を鞄にしまう。
「そういえば、霧島。お前は会いたい人間とかいるか?」
 突如として、幹部仲間が尋ねてきた。樹が首をかしげると、更に彼は言葉を続けた。
「これは噂だが……この東京の一角に、街があるらしい。入れるものと入れないものがいる街で、普段は黒い靄がかかっているという」
「それと、どう関係があるんだ?」
「そう急かすな。……その街に行くと、自分が会いたい奴に会えるんだそうだ。生死問わずに、な」
 樹は小さく笑う。皮肉めいた笑みだ。そのような事が起こるなど、信じられる筈も無い。
「無いと決め付けるのは良くないぞ。……もしかしたら、本当にあるのかもしれないのだから」
 そう言って幹部仲間は去っていった。遠くを見つめながら。

(今思うと……奴には会いたい者がいたのかもしれない)
 樹は靄の前に立ち、ぼんやりと考える。
(奴の目には、一体誰が映っていた?そして、私には……)
 黒い靄の中は、完全な闇。
(闇など怖くない。……私自身、闇が……)
 一端目を閉じ、樹は靄の中に踏み込んだ。体中を一瞬不思議な感覚が包み込み、そしてそれはすぐに消えてしまった。体が、自然にその靄の中の空気に馴染むかのように。
「……ここは、何だ?」
 ごく自然に、言葉が紡がれる。そこは、街だった。先ほど樹が分析した結果と同じく、街。見た目と同じく真っ暗な街の中はしいんと静まり返っており、人の気配を感じさせない。果たして、ここは本当に街なのだろうかと疑いたくなるほどの静けさ。それでも、街の中は整えられている。道路も建物もあり、店もある。ただ、純粋に人がいないだけだ。樹は体の奥底から寒気を感じた。在り得ない街。ゴーストタウン……。
「……私は、踏み込んではならない区域に足を踏み入れたのだろうか……?」
 辺りを見回す。その時、一瞬だけ人の気配を掴む。ひらり、と服の端が見えた気がしたのだ。樹はそちらに向かって走る。一瞬だけ見えた服の端は、完全に人型となっていた。男だ。男が走っていく。
「待て!」
 樹はそう叫んで地を蹴る。機械の体に与えられた、人間とは比べ物にならぬ身体機能。それは軽々と男の前に着地するのに充分すぎるものであった。
「待ってくれ。私は、この場所を……」
 樹の言葉は、そこで止まった。男は、逃げる様子も無くじっと樹を見ていた。じっと。
「何だ……?私は、お前を見たことがある気がする……」
 男は答えない。ただ、じっと樹を見つめているだけだ。
「何処だ……?何処で私はお前に……」
「……ここかね?」
 男がそう言った瞬間だった。周りの景色がぐにゃりと曲がったかと思うと、空間は真っ暗な闇に飲み込まれてしまった。
「なっ……」
 樹は思わず身構える。が、男はただ微笑を浮かべて立っているだけだ。
「恐れる事は無い。……知りたいのであろう?」
(何だ?何なのだ?)
 樹は唇の端を噛み締める。闇は何かを映し出していく。スクリーンに映画を映すかのように。樹は場所を見て、ぎゅっと手を握り締めた。そこは、研究所であった。樹が巻き込まれた事故の起こった、あの研究所であったのだ。
「お前……お前、まさか!」
「よく来たね、お嬢さん」
 男は樹の心を見透かすのように、にっこりと笑うのであった。

●闇
 樹の目の前に広がっていた研究所は、一瞬のうちに崩れ去る。一体何が起こったのか、一体何がどうなったのか、全てを否定するかのような事故。
「事故……あれが事故なものか」
 ぽつりと、樹は呟く。
「ならば、あれは事故ではないと?」
 男が尋ねる。樹は睨みつけながら叫ぶ。
「何を言う!お前自身が知っていることだろう?あれが事故なものか!あれは事件だ!」
 研究所で働いていた樹の両親、多くの研究員、そして自分。全てが巻き込まれ、全てが壊されていく。
「事件……」
 男が呟くように言う。樹は皮肉めいて笑う。
「よくも言ったものだな」
「……憎いか?」
 再び、男が呟くように言う。
「憎くないと言えば、それは嘘だ。今すぐにでも引き裂いてやりたい程だ。……だが、それ以上にお前には聞きたいことがあるんだ」
 瓦礫と炎の奥に見た、目の前にいる男の姿。今、目の前にいる……!
「一体、何が起こったんだ?私は、殆ど覚えてはいない。ただ、真相を知りたい」
「それを知って、どうなる?真相を知って、何になる?」
 樹は暫く黙り込む。真実を知ることが目的としていた。だが、現実に知ってどうなるのか、そして何になるのかまでは考えてはいなかった。ただ、真実を知る事を求めていたのだから。
「……権利が、あるはずだ」
「権利?」
「私は、あの事故に巻き込まれた当事者だ。……否、事件の被害者だ。真実を知ることが権利として与えられている筈なのだ」
「真実、か。果たして真実を求める事は本当に必要な事なのか?」
 樹は再び黙る。必要か、不必要かと問われても、何も答える事が出来なかったのだ。
(私は真実を求める事が、いつしか生きる目的となっていた。それは揺るがしようの無い事実。生きる目的である真実の探求が、この場で為し得たとしたら?)
 生きる目的がなくなるのは、本当に良い事なのであろうか。が、樹はぎゅっと手を握り締める。
(違う!何故、私は今ここに存在する?私が自分で選んだのだ!生きる事を、真実を求めるというそれだけではなく)
 ならば、生きるという意味をここで失うという事にはならぬ。そう樹は判断する。選びとった生は、真実の探求のみで選ばれた訳ではないのだ。
「必要だ。……少なくとも、私にとっては」
 あの事件によって変わってしまった人生が、今ここで新たな展開を見せようとしているのだと、樹は感じていた。今、ここで。真相を知る事は、何かしらの思いと行動を自分に与える筈だ。
 その時、突如男は笑い始めた。酷く可笑しそうに。
「成る程。何もならぬかも分かっていても行動せずにはいられぬ事もあるのだな」
「……お前、誰だ?」
 樹は気付く。男の不自然さに。
「そして、真実とは常に喜ばしいものではない事も心得ている様子。……成る程」
「お前、あの時の男では……」
 にやり、と男は笑う。
「別に、何者でもいいではないか。しばし、昔話でもどうかね?」
 男はパンと手を叩いた。炎と瓦礫の研究所が消えうせ、家が映し出された。何の変哲も無い、普通の家。
「ここ……は」
 樹は絶句する。まだ、覚えていたのかと目を大きく見開きながら。
「懐かしいかね?」
 男は微笑み、それからすうっと闇の中に溶けていった。樹はその様子には気付かなかった。ただ呆然として目の前の風景を見つめるだけだ。
 そこは、嘗ての樹が住んでいた、家族が皆で住んでいた、家であった。

●懐
 暖かな家。家に帰るのが、好きだった。父と母がいる、あの家に。
「……何故」
 樹はそれだけ言い、口を閉じた。それ以上は何も言えなかった。何を言う事があろうか、という思いもあった。
(これは過去。過去の場所。もう二度と帰れない、懐古の場所)
 家のドアは開けられた。見覚えのある玄関、ふんわりと漂う『家』という空間の感触。
(知っている。私は、この感覚を知っている)
 既に失われてしまったと思っていた、思い出の場所。もう既にないと分かっていても、心の何処かで未だに求めている場所。
「懐かしい?」
 目の前に、母親が立っていた。樹は再び大きく目を見開く。
「どうして……」
「それはこちらの台詞。どうして貴方は、私を目の前にしてそんなにも自責の念にかられているの?」
 母親は微笑みながら尋ねてくる。
「私は……こんなになってしまったから」
 三分の二は機械で出来ている、体。両親から授かった生身の体は、ほんの三分の一しか残ってはいない。
「嘆いているのだろう?こんなになってしまった私を」
「何故?」
「何故って……」
 樹は絶句する。言葉が浮かばない。漠然とある、親に対する申し訳なさが後から後から溢れてくるのに、それを上手く言葉にする事が出来ないのだ。
「いや、今はそんな事を聴きたいのではないんだ。もし、知っているならば教えて欲しい。あの事故のことを」
「知って、どうするの?」
「どうするって……」
 既視感。先ほど聞いた、あの台詞だ。
「事実は知る事に意義があると言うのかい?それとも、知る事が義務だと思うのかい?」
 ぐにゃり、と母親の姿が歪む。目の前で、母親は父親に代わる。
「知らない事の方が幸せだったと思うかもしれない。もしかしたら、知らない事は幸福な事なのかもしれない」
 歪む歪む、父親の顔。微笑を携えながら。
「それでも真実を知りたい……そう言うのかね?」
 樹は目を見開く。今自分がいるのは、先ほどまでいた懐かしい家の中などではなかった。ただ真っ暗な闇の広がる、完全なる無の世界。
「それでも求めるというのならば、それなりの覚悟が必要だね」
「お前は……何者だ?」
 父親は笑う。
「何者か、だって?それこそがもしかしたら一番どうでも良い答えをもっているのかもしれない。お前にとって、今必要なのは私が誰なのかを求めるという事ではない筈だね」
「何を……」
(一体、何が言いたいのだ?)
 父親の顔をして、父親の声をして、父親のように振舞う。この目の前の人物は、何処からどう見ても父親にしか見えない。しかし、絶対に違う。それだけは確かだ。
「お前に必要なのは、果たして真実はどうであったかという事だけ。十年前の事故……事件は、お前にとっての人生の転機。望んでもいなかった、汚された未来を選び取らされた契機」
(何故?何故こんなにも追い詰めてくる?私の心をかき乱そうとするのだ?)
 漠然と浮かんでいた、恐怖。それを目の前に突きつけられているような気分がした。決していい気分ではない。
(不愉快だ!)
「そのような顔をするのではないよ。……辛かったのだろう?」
 父親は手を伸ばしてくる。そっと、労わるかのように。
「お前は、ずっと辛かったのだね。お前はお前自身を失うかも知れぬという恐怖に必死で足掻きながら……それでも事件真相を求める事によって、それを食い止めていたのだね」
(止めてくれ……)
「事件の真相は、言わばお前を形作る一端。今のお前が選ばされたものであったとしても、それ自体がおまえ自身なのだと確信させるもの」
(頼むから……)
「お前は怖かったんだな。機械に侵された体で、自分を見失いそうになりながら……それでも見失わぬように事件の真相を求め、最終的に自我の確立をさせていたのが崩れるのを」
「止めてくれ!」
 樹は叫ぶ。それ以上は聞いていられなかった。自分の心を悉く暴かれたような気分だ。不愉快さが消えない。
「そうだったら、どうだというんだ?こんな茶番をして面白いか?」
「茶番?」
「そうだ!……あの男や、母や父の真似事をして、私の心の内側を暴いて!」
「心外だな」
「まずはその格好を止めてくれないか?……不愉快だ」
 父親の姿から目を逸らしながら、樹は吐き捨てるように言う。
「……これは、お前の心の反映。お前が会いたいと思っていた映し身……」
 父親の姿が、ぐにゃりと揺れた。だんだんと形作られていく、別の人間の形。それはだんだん子どもの姿をとり始めた。中性的な子どもの姿。
「何者だと聞いたな?私はいのり、加賀見・いのり(かがみ いのり)だ。不愉快な思いをさせたな」
 そう言って、いのりは笑う。樹のように、皮肉めいた笑みを携えながら。

●映
「全てはお前の見せた、幻影だったのだな?」
 樹はそういって、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「否、そうではない。私はお前の心の映し身だ。幻影とは少し違う」
「だが、幻影ではないか!……真実など、何処にも無い!」
「そんな事は無い。お前の中の記憶を辿っただけだ。……私が勝手に作り出したものではない」
「私の心を……勝手に覗いたのか……?」
 いのりが笑う。ふふ、と。
「私は人間に興味がある。お前も含めて、な」
「私は……人間ではない」
「だが、機械でもない」
 きっぱりと言いのけるいのりに、樹の動きは止まった。
「……私は、人間を殺している」
「お前は人間だ。例えその手が赤く染まっていようとも、昔の業から逃れる事の出来ない人間だ」
「あはは……」
 樹は力なく笑った。
「既に、私は闇に捕らわれてしまっているのだ……。もう光の射していた場所には戻れぬということか……」
 ぼんやりと、脳内にあの少女が浮かぶ。純粋な心を持った、無邪気な少女。自分にもかつてあったであろう、あの少女のような汚れなさ。もうあの少女のようにはなれない。戻る事は許されてはいないのだ。
「それにしても、いのり。両親の姿をとられたのは参った。正直、純粋に会合を望んではいなかったから」
「ほう、それは何故?」
「私の心を覗けるのだろう?」
 皮肉めいた笑みを浮かべ、樹は言う。いのりはただ笑うだけだ。樹と同じく皮肉めいた笑みを浮かべながら。
「……彼らは既に死者なのだ。恐らく、今の私の姿を見て嘆いている筈だ。どうしてこうなったのかと」
「嘆く?何故?」
「お前は本当に、疑問ばかりで何も答えてはくれないんだな」
「それが興味を持つという事だ。少なくとも、お前は私にとっては興味の塊なのだ」
 いのりの言葉に、樹は苦笑する。
「成る程。……だが、私は先ほどの質問には答えられない。それは私だけの思いだ。……お前に教えることは出来ない」
 樹がそう言うと、いのりは笑った。ただ、にっこりと。皮肉めいた笑みではない。
「そうか」
 それだけ言い、いのりは地を蹴った。宙にいのりの体が浮かぶ。
「いのり!お前、私の心を映し出したというな?ならば、最初に見せたあの男の顔は確かなのか?」
 おぼろげにしか覚えていなかった、あの男の顔。だが、先ほどいのりが模して見せた事によって男の顔は鮮明なものとなったのだ。いのりはただ笑った。
「樹、お前は別に嘆かれるような対象ではない。お前はお前として胸を張って生きるがいい」
「私が聞きたいのは……」
 いのりは樹の言葉を遮り、続ける。
「闇に捕らわれたから光の場所に戻る事は出来ない、そう言ったな?だが、それは違うと私は思うのだ」
「いのり?」
「光が射すのが過去だけとは思わぬ事だ。今だって、お前の目の前で光は射しているのかもしれぬ。お前が気付かないだけなのかもしれぬぞ」
 それだけ言い残し、いのりは姿を消した。いのりは答えなかったが、恐らくあの男の顔は確かなのであろう。一つだけ得た、情報。事件の真相に迫る一手。
「……私は」
 黒い靄が、だんだんと晴れていく。樹の体は、だんだんと黒い靄から光の溢れる街中へと自然に流れ出ていく。
「私は、どうしても」
 しいんとした場所から、ざわめきの犇く場所に、樹はいつの間にか移動していた。今いる場所は、既にあの暗い街中などではない。光の溢れる、いつもの場所だ。
「どうしても、真実が知りたいのだ……!」
 カラスが一羽、目の前にとまって「かあ」と鳴いた。樹は苦笑してカラスを見る。
「私を、哀れむな」
 樹は呟く。如何なる今の自分であっても、今のこの自分を選び取ったのは自分なのだから。……後悔などしていない。
「あ、すいません」
 ドン、と肩がぶつかる。男が謝る。樹は小さく会釈をして、男とは別の方向に歩き始めた。……そして、ふと気付く。先ほどの男、いのりの模していた男と似てはいなかったか?もしかして、本人だったのではないのか?
「待っ……!」
 振り返った時には、男の姿は何処にもなかった。白昼夢であろうかと、何度も瞬きする。何もかも見抜く銀の目でも、男の姿を捉えきる事は果たされなかった。
「必ず、また会う」
 それは確信だった。いつの日か、真実へと出会えるはずだ。真実を求める事が、全てではなくても、自分を形成する一端ではある筈なのだから。
「光は……目の前にあるのかもしれぬ、か」
 樹は歩き始める。胸を張り、今の自分を誇りに思いながら。

●後
 黒い靄に包まれた街、通称「誰もいない街」。力の磁場が発生し、ありえない事を存在させ、全ての力の増幅を促す無法地帯。
「私の力も、このお陰で確定される……か」
 意識の集合体である、いのり。いつその自我が失われても可笑しくはなかった。それでも、自身の探求は尽きない。100年もの歳月がかかって集まった意識は、様々な知識を与えてくれた。が、同時に難解なものを与えてきた。それが、人間という存在だった。
「樹、か」
 先ほど訪れた訪問者を思い、いのりは微笑む。目の前の光に気が付かず、自らの闇のみを見つめていた女。汚れていると豪語して止まないが、その反面研ぎ澄まされたかのような美しさを持つ。恐らく、彼女は再びあの闇を自らに抱きつづけたまま、前に進んでいくのだろう。
「これだから、人間は不可思議なのだ」
 いのりはくすくすと笑う。樹の持っていた、あの皮肉めいた笑みを携えながら。

 哀れむな。光は、目の前に射しているのかもしれないのだから。