コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシナリオノベル(シングル)>


たった一人の目撃者

「混沌」――もし貴方がこの言葉の意味を訊かれたなら、迷わず相手を此処に連れて来ればいい。
 新宿歌舞伎町は、そんな街だ。

<街>
 辺りは暮れ、夜が訪れる。
 ネオンが燈り、歌舞伎町には様々なざわめきで埋もれていく。
 霧島樹は、吐息を漏らした。
 冷め切った夜に、吐息が白く上る。
(私もすっかりこの街に溶け込んでしまったようだ)
 この街は声と映像に溢れている。女も男も絶叫も囁きも幸福も絶望も、その全ては此処にある。
 樹の目の前を、酔った中年男性が通り過ぎていく。男はふらつきながら、卑猥に輝くネオンを光らせる店へと入って行った。
(快楽……か。本能だな)
 この街には制御という言葉がない。人間の本能に溢れ、快楽という癒しは時により生命を吹き込むのと同じ役割を担う。
(当然その逆もある)
 樹はコートの内側に手を入れた。
 サイレンサー付きのリボルバーに手が触れる。
 命を奪う――それが樹の仕事だった。
 樹は、無駄のない目線で前を見る。
 数メートル先には、これから殺す相手が歩いていた。

<依頼>
 数日前、樹は組織に呼び出された。
 呼び出される理由は、予想がついていた。
「また仕事を頼みたい」
 ソファーに座ると、組織の幹部は単刀直入に話を切り出した。
 柴田――初めて会ったときにこの男はそう名乗ったが、おそらく本名ではないだろう。
「ターゲットは?」
「この男だ」
 柴田が取り出したのは、ターゲットの男のことが事細かに書かれた用紙だった。
「この男は、何があっても始末してもらいたい」
「そこまで念をおすとは……よほどのことらしいな」
「組織の関係で、ある男を暗殺したんだが、その現場をこの男に見られたんだ」
 幹部も相当なヘマをしでかしたものだ。
 新人だろうか。
「そういえば、組織に入りたがっている奴がいると最近聞いたが、そいつがやらかしたのか?」
「いや、そうじゃない。第一その組織に入りたがった奴は追い返したよ。まだガキだったし、今は人手に困っていないからな。裏の人間からすれば、組織が大きくなりすぎるのも問題だ」
 確かにそうだ。
「で、依頼の続きは?」
「ああ、そうだったな。勿論、遺体は始末した。誰もその男の証言を聞くものはいない。だが念には念を入れておきたい」
「いいだろう。始末しておく」
 樹は用紙に視線を落とした。
 ターゲットの名前は、高幡浩介。二十二歳、大学生。月、水、金、土日はカラオケ店でバイト。小さな眼鏡をかけた、どこにでもいそうな優男だ。
(運の悪い男だ)
 樹は用紙を丁寧にたたんで、鞄の中に仕舞い込んだ。

<尾行>
 その鞄は今、樹の左手に掴まれ、揺れていた。
 高幡は、バイトのためカラオケ店に向かっているところだ。
 そこから適度な距離をあけて、樹が歩く。人ごみの中だ、樹が見つかることはありえない。網膜センサーが使える樹には好都合だった。
 高幡はバイトに遅刻しそうなのか、幾度も腕時計に目をやっている。
 本当に運の悪い男だ。
 樹は、高幡がバイト中にトイレに行くときに指令を実行しようと思っている。
 遅刻をしようがしまいが、死ぬのだ。
 それを、この男は知らない。
(まぁ、仕方のないことだ)
 尾行をしている間は、どうしても無駄なことを考えてしまう。
 樹の仕事を遂行するにあたり、同情ほど邪魔なものはない。
(この男に、情など感じていないが……)
 時計を見ながら、今のことで頭を一杯にしたターゲットが、死に向かって歩いている。
 男は、自分の危険が迫っていることを知ったら、どう思うのだろう。
(だが、その死は私がもたらすものだ。……どうしようもない)
 以前は、仕事に対してためらうことは無かった。
(やはり、あの子の影響かもしれない)
 同居人である新堂朔の顔が浮かぶ。
 影響されることが良いか悪いかは判らない。
 だが――樹はリボルバーに再び触れた。
(今は仕事中だ)
 任務を忘れることほど、愚かなことはない。

<監視>
 カラオケ店の一階のロビーには、椅子とテーブル、それにゲームが設置されていた。
 一階には部屋は無く、歌いに来た客はすべて二階に案内される。一階は休憩所のような役割をしているらしい。客はかなり多かったが、殆どがカラオケ目当てらしく、すぐに二階へ案内されていく。
 二階へ上る階段は細いらせん状になっているため、ここから見渡せる。
 樹は、ロビー内の自動販売機でホットコーヒーを買った。
 テーブルに缶を置き、小さな模様が細かく施された白い椅子に座る。
 ここで、人を待っているふりをしながら、高幡を見張ればいい。
 樹が神経を張り巡らせていると、パチン、という音が斜め後ろから聞こえてきた。
(何の音だ?)
 振り返ると、少年がいた。黒い髪に黒い瞳。テーブルの上にオセロを広げている。
 オセロは携帯用ではなく、大きなちゃんとした物で、そのテーブルには少年一人しかいない。
(一人オセロか。変なことをする奴もいるものだ)
 視線を受付に戻した。
 ターゲットの高幡と、隣には女の店員がいる。
 ネックレスでもしているのか、首元に鎖が見える。肝心の飾りは服へ隠れていた。
 樹が目線を離している間に、二人は会話を始めたらしい。女の店員は、高幡の手を握り締めて何か話している。
 高幡は苦笑交じりに首を左右に振っていたが、
「沢井さんがそう言うなら……」
 と小声で言うと、手を握り締めたまま下へおろした。
 高幡は気の弱いタイプらしい。
(何か用事でも押し付けられたのか?)
 分からないが、二人の会話はそれで終わってしまった。
 樹は、コーヒーの缶に手を伸ばした。
 缶は温かいというよりも熱かった。

<奇妙な女>
 高幡がトイレに向かったのは、コーヒーの缶が冷め切ってから更に時間が流れてからだった。
「俺、トイレに行ってきます」
 高幡がロビーの奥にあるトイレに向かうのを見ると、樹も席を立った。
 一階のトイレは従業員用だが、受付に客が多くいるので、店員の目は誤魔化せる。
 瞬間、女の店員の顔が視界に入った。
 青白がかった顔が、ゆがんでいる。
(あれは、単なる嫌悪の表情ではない)
 憎悪だ。
 女は引きつった表情のまま、腕だけを移動させ胸に手を重ね、顔を隠すように後ろを向いた。
 ――耳元で微かな音が聞こえる。
 樹のように神経を研ぎ澄ませていなかれば聞こえないような小さな音だった。
(トイレから聞こえるが……)
 樹もトイレに向かった。
 妙な胸騒ぎがする。

<殺された男>
 トイレに入ると、樹はリボルバーに手を伸ばした。
 ドアの閉まった個室が一つある。
 既に音は止んでいた。
 何にせよ、早く仕事を済ませる必要がある。
 樹はドアの取っ手を掴んだ。
 ドアには鍵が掛かっていなかった。
(妙だ……何故鍵を掛けない)
 キイ、と音を立ててドアが開く。
 そこには、血まみれの男がだらしなく横たわっていた。
 目を剥いたその顔は、男が既にこと切れているのを物語っていた。

<水晶>
(何故死んだんだ)
 樹はしゃがんで高幡を眺めた。
 高幡は右手で首を押さえた姿で死んでいた。
 身体全体に、引っかかれたような傷跡があり、トレーナーは赤く血に染まっている。 誰かが高幡がトイレに入ったのを見計らって忍び込み殺したのか?
 ――いや、可能性は極めて低い。
(ターゲットがトイレに向かってから私が目を離したのはほんの一瞬、あの女を見たときだけだ。そんな短時間では不可能な筈。それに引っかき傷だけで何故こんなに血が流れる?)
 高幡の身体は、全身傷だらけではあったが、大した深さではない。しかも、血に染まっているのはトレーナーだけだった。
 トレーナーは上の首へ近い箇所ほど、赤く染まっている。
 樹は、高幡の右手を退かした。
 そこには、肥えた鼠が尖った歯を剥きだしにして、高幡の頚動脈に深く噛み付いていた。この鼠も力を使い果たしたのか、既にこと切れていた。
(鼠の仕業か?)
 それなら、高幡がトイレで音を立てたのも理解できる。
 これだけの傷を受けたのなら、相当な数の鼠が襲い掛かったのだろう、高幡は驚いたに違いない。
 その後すぐに頚動脈をやられた、というところだろうか。
 だが何故鼠が高幡を襲ったのだろうか。
 最近の都内には鼠が多い。路上を走る鼠も多く、樹もたまに見かける。
(だが、鼠がターゲットを襲うことに何のメリットもない)
 鼠は何でもかじる生き物である。
 それは、人間に噛み付く可能性も含むが、人間だけを好んで襲うことはないということも示唆している。
 一斉に高幡だけを狙って噛み付くことなど、通常では考えられない。
(まるでターゲットが鼠を呼び寄せたみたいだが……)
 高幡の左手に気がついた。
 何かを握り締めている。
 樹はその手を開かせてみた。
 まだ微かにぬくもりを持った掌が、徐々に開かれていく。
 中には、青い色のヒビの入った水晶が光を放っていた。
(何だ、これは……)
 思わず水晶を手に取ってしまった。
 トイレはまだしも、水晶に樹の指紋を残すのは好ましくない。
 指紋をふき取ろうとしたが、今ここに人が来ると危険だ。早く立ち去った方がいい。
(この水晶をここに戻しておいても、警察には水晶を事件解決に役立てる能力はないだろう)
 コートのポケットに、水晶を押し込め、樹はカラオケ店を後にした。

<狙われたターゲット>
 狙っていたターゲットが先に何らかの形で死ぬのは、これが初めてではない。
 今月に入って、これで三度目だ。
 最初に起きたのは、一月の九日の夜。
 樹が任されたターゲットは、ある会社の秘書をしている男だった。
 見た目は勤勉そうだが中身は狡猾な男で、樹がいる組織のようないわゆる「闇の世界」を牛耳るという野望を持っていた。
 だが、願いは大きすぎた。
 組織は男を邪魔に思い、その仕事は樹に回された。
 樹は任務を果たすために、男の帰宅途中を狙おうとしたが、男は路上で通り魔に遭い、そのまま命を落とした。
 その通り魔はすぐに逮捕されたが、その男は「自分にはそのときの記憶がない」と言い張った。
 このときは樹も、単なる偶然だと片付けた。
 二人目のターゲットは、女だった。
 詳しいことは分からないが、仲間から「誰かの愛人らしい」とは聞いていた。何か重要な秘密でも握られ邪魔になったのだろう。ありがちなパターンだ。
 だが、任務を果たそうとした日、女の家は燃えた。
 家には人だかりが出来、樹はコートで顔を隠すように離れようとした。
 そのとき――強い視線を感じた。
 獲物を前に、舌なめずりをするような視線。
――誰かに見られている――
 樹は群集に目を通した。
(誰だ、何処にいる?)
 だが、どの目も違う。
 もう逃げたのかもしれない。
(だが、これではっきりと分かった)
 任務前にターゲットが死んでいるのは、偶然ではない。

 そして、今度の事件が起きた。
 ネオンの煌びやかな光の間で、樹は水晶を目の前にかざした。
 水晶はネオンの光を反射させている。
 これが何を示すのかわからないが、役に立つときが来るだろう。
(どんな事情で私の邪魔をするのかは知らないが……今後のことを考えて、芽は先に摘んでおくべきだ)

 別の組織の仕業か、それとも単独犯か。
 まだ分からないが、今はただ、高幡といたもう一人の店員の女の顔が浮かぶ。
 あの女の形相……あれは尋常ではなかった。

 後日、事件のことがニュースで放送された。
 第一発見者は、詳しいことは伏せられていたが、文脈からあの店員の女で、警察の調べでは、鼠に襲われたことによる「事故」らしい。
 都内に鼠が増えていることが原因だと、ニュースでは環境問題の話になっていた。
 警察はこれ以上は調べないだろう。
 警察という余計な邪魔が入らない分、樹にとっては好都合だ。

<沈黙>
 カラオケ店は一階のトイレを使用禁止にしただけで、営業を止めることはしなかった。
 そのため樹が最初にしたことは、あの店員の名前とバイトの日程を調べることだった。
 バイト中に会うほうが、道端で唐突に事件の話を聞くよりも自然に訊ねることが出来る。
(当然、沢井は事件のことを話したがらないだろうが、カマをかければいいだけだ)
 沢井という苗字であることは、事件の日に名札を見たので知っていた。
 調べるのは容易だった。
 名前は沢井由紀子。高幡の一つ年下の二十一歳、大学生。
 バイトの日程は火、木、土日。
 日程がわかれば、沢井と会うことが簡単になる。
 事件が起きたのは日曜。
 火曜日になると、樹はあのカラオケ店へと向かった。
 時間は午前十一時。
 開店と同時に行けば客も少なく、話もよく聞けるだろう。
 もっとも、客など殆ど来なくなっているだろうが。
 事件後、沢井がバイトをやめているかもしれないという危惧も多少感じていたが、沢井はあの日と同じようにカウンターにいた。
 少々青い顔を無理に笑顔で埋め尽くしている。
「お一人様ですか?」
「私は客ではない。土曜の夜のことで、聞きたいことがある」
 沢井はため息をついた。
「この店を中傷なさるおつもりですか? 一階のトイレは使用禁止にし、工事を行う要諦ですので、ここはもう安全です。好奇心でここへいらっしゃるお客様が多く、大変困っております。お帰りいただけませんか」
「好奇心ではない。高幡が殺されたことを詳しく知りたい」
 沢井の顔が、凍りついた。
 数秒の沈黙があってから、沢井は口を開いた。
「殺された? 彼は事故で亡くなったんです。妙な噂を広めるのは営業妨害ではないでしょうか」
「意味を履き違えていないか? 私は彼が鼠に殺されたという意味で言ったんだが、伝わらなかったようだな」
「……!! そうですね、そういう言い方もありますね。失礼致しました。……悪質な噂を広めるお客様が多いので、つい過敏になってしまいました」
 弁明はしているが、沢井の口元は小さく震えている。
(こういうときは問いただした方が、相手はボロを出しやすいものだ)
 樹は沢井を鋭く眺めた。
「話が聞きたい」
「………………」
「第一発見者だろう? 何か気付いたことはなかったのか?」
「確かに私は第一発見者ですが、何もありません」
「気付いたことは何一つないのか? 第一発見者というのは、大抵何か気付くことがあるんだが」
「………………」
「もしかしたら、気付いたことがあったにも関わらず、忘れてしまっているのかもしれないな。無意識的にか……あるいはわざと忘れたふりをしているか」
「そんなことありません」
 沢井はややうつむくと、ああそうだと言い直した。
「思い出したことがあります。確か、悲鳴は聞こえなかった代わりに音が聞こえました」
「どんな音だ?」
「さぁ、何かが暴れるような……トイレの方から聞こえました」
「それでどうしたんだ?」
「高幡さんがトイレに行っていたのを知っていましたから、何かあったんじゃないかと心配して、すぐに駆けつけました。そしたら高幡さんが倒れていたんです」
「………………」
「それでは、私はお客様にお飲み物をお持ちしなければなりませんので、お帰り下さい」
 沢井は急ぐように二階へ上がっていった。

<オセロ>
 帰るように言われたものの、樹は中央にある椅子に腰掛け、コートを脱ぎ、テーブルの上で手を組み合わせた。
 今聞いたことの整理がしたい。
(あの女……沢井の言っていたことは、明らかに嘘だ)
 沢井は「暴れる音がした」と言っていた。
 高幡が鼠に襲われたときに立てた音を示しているのだろう。実際、樹も耳にした。
(だが、あれは嘘だ)
 トイレが離れていたこともあり、高幡が立てた音はとても小さかった。
 樹でさえ、微かにしか聞こえなかった程度である。沢井に聞こえている筈がない。
 そして沢井は「その後トイレに駆けつけた」と言う。
(それも嘘だ)
 樹がトイレに行き、高幡の遺体を見たときには、当然音は止んでいた。
 だが、沢井がこちらへ来る様子はなかった。
 何故嘘をつく必要があるのか?
(沢井は高幡の死に何らかの関連があり、それを知られたくないと思っている。私が沢井を疑っているような発言を幾つかしたために、焦り、第一発見者らしくもっともらしい嘘の証言をした、というところだろう)
 このことを問いただせば、吐くかもしれない。
「あの」
 ふいに、声を掛けられた。
 右斜め後ろ、樹が振り向くと少年が一人座っていた。
 テーブルの前には、遊びかけのオセロが置いてある。
 この前にも居た、一人オセロの子供だ。
「何だ?」
 いぶかしげに樹が問うと、少年は無愛想に目をそらした。
「別に。ただ、この前も見た顔だなと思ったから」
「そうだな。……いつもここでオセロをしているのか?」
「まぁね。結構楽しいよ」
 一人でオセロをすることの、一体何が楽しいのか。
(まぁ、人の趣味はそれぞれだ)
 樹は立ち上がると、少年のテーブルの上に載せられたオセロを眺めた。
「これは一人で遊べるものなのか?」
 少年は不愉快そうに、
「遊んでいるわけじゃない。俺は見ているんだよ」
 と言い返してきた。
「見ている? 何を」
「このオセロ。黒と白、どちらが勝つと思う?」
 樹はざっとオセロに目を通した。
(少々、黒が押されているようだ)
「このまま行けば、白が勝つと思うが」
「違うね。黒が勝つんだ」
 少年は断言するが、ゲームはまだ序盤もいいところだ。
 白が勝つ可能性も十分にある。
「何故黒が勝つと断言できる?」
「決まってるじゃん、白は黒に勝てないんだよ。俺は白に容赦しないからさ、最初は白を有利にさせて後からどんどん攻めるんだ。白は足掻いても無駄で、最後は黒に飲まれておしまい」
「それは楽しいのか?」
「うん、まぁまぁかな」
 少年はしばらくオセロを眺めていたが、突然視線を樹に向けた。
「あんたは何してんの?」
「私は店員に用があるだけだ」
「そう。でもあのおねーさん機嫌悪そうだったから、きっと今日はもう取り合ってくれないよ」
「そうか」
 確かにそうかもしれない。
(仕方ない、木曜にまた来るしかなさそうだ)
 樹は椅子から立つと、コートを羽織った。
「ちょっと待ってよ。ねぇあんたは何ていう名前なの?」
「……霧島」
「霧島、ね。俺は翔だよ。覚えておいてね」
 翔は初めて笑った顔をした。
 だが周りを嘲っている表情にも見えた。
――この子供の雰囲気、どこかで知っている気がするが――
 
<動機>
 木曜日のカラオケ店開店時間。
「またですか……」
 沢井は樹を見るなり、額に皺を寄せた。
 樹は沢井の顔や腕に目をやる。
 青白さの増した顔。腕も心なしか細くなっている。
 精神的疲れが原因だろうか。
(それにしてはあまりにも身体に影響がありすぎる)
 目を首元にやると、沢井は以前と同じようにネックレスをつけていた。
 だが、前と違い、飾りが服の外へ出ていた。
 薄青く光を放っている水晶。
(これは、高幡が持っていた水晶と同じものだ)
 沢井はコーラやアイスティーの入ったコップを並べた盆を持つと、
「私は急がしいので、失礼します」
 そのまま二階へ上がって行った。
(長期戦を覚悟した方がいいか)
 樹は椅子へ向かいかけたが……――別の店員の姿が目に入った。
(『将を射んと欲すれば、まず馬から射よ』……そんな言葉を実行するのも策だ)
 思わぬ話が聞けるかもしれない。
「あの」
「何か?」
 店員は不思議そうな顔をした。
(なるべく違和感を持たれないようにするには……やはり被害者の親族を装うのが一番か)
 樹はなるべく丁寧に、且つ穏やかな表情で、
「高幡浩介……私の弟のことでお話をお伺いしたいのですが」
「あ……ご家族の方ですか……」
 店員の顔つきが変わった。
 これなら何でも聞けるかもしれない。
「この度はまことに……」
「いえ、いいんです。バイトの方々に責任はないでしょうから」
「はぁ……でも、何と言っていいか……」
「それよりも、今までバイト仲間としてではありますが、弟に良くして頂いて感謝しています」
「いえ、そんな。そういうお礼なら沢井さんに言った方がいいですよ」
「沢井さんに? 何故ですか?」
「あら、だって、沢井さんと高幡さんはお付き合いしていた筈ですから」
「それは本当ですか?」
「ええ。沢井さんが、そう言っていたんですよ。あ、でも……」
 店員は少し言い難そうに口ごもった。
「何か?」
「ええ、沢井さんが言うには、最近はあまり良く行ってなかったようです」
「……そうですか。分かりました。彼女にもお礼を言っておきます」
 そう言って樹は店員から離れた。
 あの二人が付き合っていたということは、恋愛のもつれで沢井が高幡を恨むようになった可能性が高い。
 だとしたら、沢井が何らかの方法で、鼠が高幡を襲うように仕組んだことになる。
 樹は水晶を取り出した。
 二人が恋人同士なら、同じものを持っていても不思議ではない。
 仲が良かったときに、二人で買ったものかもしれない。
(だが、水晶というのは、呪術にも使われるものだ)
 仲の冷め切った恋人同士が、同じものを未だ持ち歩いているとは思えない。
 沢井が高幡を憎んでいるなら、おそらく高幡が沢井に愛想をつかしたのだろうが、そんな高幡が沢井とおそろいのものを持ち歩いているのはおかしい。
 十中八九、呪物と見ていい。
 沢井が呪術の心得があるわけではないだろう。その辺の人間には扱えない分野だ。
(後ろで手を引いている何者かがいる筈だ)
 その者が、何らかの理由があり、樹の任務の邪魔をしているのだろう。
 沢井は相当樹を恐れている。水晶のことに突っ込んで聞けば、話し出すに違いない。
 だが……これで本当に解決するのだろうか。
 何かが引っかかる。
「あの二人は付き合っていた」という言葉を聞いたときから、妙な違和感がある。
 それが何故だかは分からない。
(とにかく、今は沢井を問い詰めなければ話は進まないだろう)
 螺旋階段を見上げると、沢井が二階から降りてくるのが見えた。

<塗り固められた会話>
「お話することは何もありません」
 沢井は店員用のエプロンを脱ぐと、コートを羽織った。
「私はもう帰りますから」
 既に昼を回り、店員は客に追われ始めている。帰るには早過ぎる時刻だ。
「具合が悪いんですよ」
 確かに、さっき見たときよりも更に顔色は悪くなっていた。
「ここへ来るには電車か?」
「そうですけど」
「その身体で今電車に乗るのは辛いだろう。立ちくらみなどは一度座った方がいい。ここに椅子がある」
 樹は沢井の腕を掴むと、椅子を引いて座らせた。
「身体を休ませている間、話を聞いてもらいたい」
「……何ですか?」
「高幡浩介と付き合っていたそうだが、あまり上手く行っていないと聞いた。当たっているか?」
「……そうですけど、それが何か?」
「もう一つ聞くが、事件当日、トイレから音がしたと言っていたが、あれは嘘だろう。トイレからの音も聞こえなかったし、駆けつけることもなかった、そうだろう?」
「そんなことはありません」
「私もあの場にいた。嘘をつくならもっと上手い嘘を考えた方がいい」
「…………」
「それともう一つ。これのことだ」
 樹はヒビの入った水晶をテーブルの上に置いた。
 明らかに、沢井の顔色が変わった。
「それは……」
「これは高幡のものだ。……お前も同じものをつけているが」
「どうして貴方が持っているのよ!?」
「私は独自にこの事件を調査している者だ。これは呪物だな?」
 畳み掛けるように声を低くした。
「こういうものは、互いに身を滅ぼすものだ。お前が今、苦しんでいるように、今にお前を飲み込む」
 更に続けようとも思ったが、その必要はないようだった。
 沢井は腕で自分の身体をかばうように掴みながら、震えていた。
「どうしても許せなかったのよ……」
 声は小さく、頭はうつむいている。
「この呪物はどうやって使うんだ?」
「水晶は二つで一つ。片方を殺したい相手に渡して、後は水晶に手を添えて祈るの。使えるのは一回だけ」
「それならもう、その水晶は用なしだろう?」
「使ってから一ヶ月は持っておけと言われたのよ。魔よけの効果があるからって」
「それは誰に? これをくれたのは誰なんだ?」
「知人の女性よ」
「どこに住んでいる?」
「知らないわ」
「知り合いなら知っているだろう」
「本当に知らないのよ!」
 怒鳴り声に近い。
 沢井は疲れているようだった。
「私、もう帰るわ」
 こちらが答える間もなく、沢井は出て行った。

<蠢く街>
 自動販売機のボタンを押す。
 ゴトンという音を立てて、コーヒーの缶が落ちてくる。
 テーブルの上に缶を置き、樹は椅子に座った。
(知人の女……か。呪術者ということは、闇の人間と見ていい)
 缶を口へ持って行き、中身を喉へ流し込む。
(どうやって捜すかが問題だ)
 さっきまでの沢井の顔が浮かぶ。
(あれは危険かもしれない。闇の人間は自分の姿を消すことに必死になるものだ。そのためには、人をも殺める)
 用心のために、沢井は命を狙われるだろう。
 沢井を見張ってもいいが、どうせならこちらから攻撃を仕掛けたい。
(だが、今の状況では見当のつけようもない。待つしかなさそうだ)
 時計を見ると、結構な時間が流れている。
 一階のこの席も少々込み始めた。
 コーヒーの残りを飲み干し、立ち上がった。
「ねぇ」
 右斜め後ろからの声。
 振り向かなくても誰だか分かるほどだ。
「最初に会ったときも、あんたコーヒー飲んでたよね」
 オセロを置く音。
「お前はオセロをしてばかりだな」
「まぁね」
 翔は意地悪そうな視線を向ける。
「話は進んだ?」
「何のことだ」
「だから、話だよ。鼠に殺された男の話。調べてるんでしょ?」
「お前も興味があるのか」
「いいや、別に。たださ、面白そうだなってね。事件じゃなくて、あんたとかあの店員とかさ。オセロよりずっといいよ」
 喋りながらも翔の手は動いている。
 オセロは黒が多い。
「ねぇ、この街ってさ、怖くならない?」
「歌舞伎町が怖いのか?」
「うん。俺は怖いと思うよ。この街って、色々あるじゃん。人がいなくなったりさ。あれは全部街のせいさ」
「何が言いたいのか理解し難いが」
「この街はさ、オセロで言うなら黒だよ。白は俺ら人間。例えばここに一人の暗殺者がいたとするだろ」
 翔は一瞬、口だけを笑ったように曲げて、樹を盗み見た。
「それで、そいつは今から仕事をしようと思ってる。目の前にはそのターゲットが歩いている。その状況ってさ、どう思う?」
 オセロの黒が広がる。
「俺、すげぇ面白いと思う。殺される人間と殺す人間が同じ街をおとなしく歩いているなんてさ。でもさ、一番すげぇのは街だよ。殺される人間も殺す人間も、この街は全部飲み込んでいるんだから」
 オセロは、殆ど黒で埋め尽くされた。
「この街は動くよ。蠢いて、人間を飲み込む。あんたも気をつけた方がいいよ」
 この子供は妙なことを口走る。それも、随分と愉快そうに。
「お前はどうなんだ?」
「俺? 俺は見てるよ。人がこんな風に飲まれるのをさ」
 翔はオセロを台ごと持ち上げると、ひっくり返した。
 テーブルの上に、オセロが散らばる。
「崩れるのはいつも早いよね」
 ははは、と嘲るように笑う。
 たまらなく嫌な気分がした。
 胸の中で、どす黒いものが這い回る感じだ。
 樹は無言で外に出た。
――やはりあの雰囲気、どこかで……――

<覆った証言>
 土曜日。
 開店時間丁度に店内に入ると、怒鳴り声が聞こえた。
「この店の衛生管理はどうなっているの!?」
 話は長くなりそうだ。
(少し待つか)
 樹は自動販売機に硬貨を入れた。
 店員は頭を下げ、詫びているようだったが、女はそれを振り払うように叫んでいる。
「浩介を返してよ!」
 樹はふと、缶を持とうと伸ばした手を止めた。
 ただの中傷しに来た客だと思ったが、どうやら高幡と交友のある人物のようだ。
(何の知り合いだ?)
 やがて、女は言うだけ言うと外へ出て行った。
 樹も追いかける。
 声を掛けると、女は睨むように振り返った。
 目には涙が溜まっている。
「何よ」
「高幡さんのことなんだが」
「浩介を知っているの?」
 女の非難の表情が消えた。
 樹は頷いた。
「そう……。あの店、とんでもないわ。あたしがずっと旅行に行ってて、帰ってきたらこんなことになっているなんて、あんまりよ……。あいつ年下だから、ずっと年齢の差を気にしちゃってて、それだからかいつも、大学卒業したら結婚しようねっていうのが口癖で……。あたし待ってたのに……」
 結婚?
「……もう一回言ってくれないか?」
「だから、あの店はとんでもないって……」
「そうじゃない。つまり、高幡浩介と恋愛関係にあったんだな?」
「そうよ。そうじゃなきゃ、結婚なんて考えないわよ」
「……高幡はバイト仲間に恋人がいた筈だが」
 女は樹のコートを掴まんばかりに、声を荒げた。
「ちょっと、勝手なこと言わないでよ!! 浩介はそんな奴じゃないわ。あいつが浮気なんて器用な真似が出来るわけない、勘違いに決まっているわ」
「絶対にそうだと言えるか?」
「当たり前よ。貴方本当に浩介の友達なの? 今まであいつの何処を見てきたのよ?」
「そうか」
「あまり変な話を作らないでよね。それじゃあ」
 女が立ち去ると、樹はカラオケ店に戻った。
(あの女の言うことが本当だとしたら、どういうことになるんだ)
 高幡浩介と、沢井由紀子は付き合っていなかったとしたら。
 勿論、高幡が浮気をしていたという可能性もある。
 だが……それは違う気がする。
(何故だ? 何故私はそう思うんだ? あの女の話を信用しているからじゃない。何か別の……高幡と沢井が付き合っているときに感じた違和感……それはどこから来ている?)
 突然、事件当日、カラオケ店内で樹が高幡を監視していたときのことを思い出した。
 沢井はあるものを高幡に手渡していた。おそらく水晶だろう。
 高幡はいらなそうに顔を横に振っていたが、執拗な沢井の態度で結局は水晶を受け取った。
 そのときの遠慮がちな高幡の言葉。
『沢井さんがそう言うなら……』
 樹の思考に、刺激が走る。
(違和感の原因はこれだ。恋人同士ならバイト中とは言え、相手をする客もいない場所の何気ない会話で、沢井を苗字で呼ぶ筈がない)
 胸騒ぎがした。
 螺旋階段から、沢井が降りてくるのが見える。

<壊れた嘘>
 いつもの椅子とテーブル。
 その上に乗ったコーヒーとココア。
 沢井は見る影もないほどにやつれていた。
「最近、だるくて仕方がないのよ」
 細い身体とは対照的に、胸元では水晶が光り輝いていた。
「おそらく、お前は狙われている」
 樹の言葉に、瞬間沢井は瞳を曇らせたが、すぐに冷静な表情に戻った。
「そうかもしれないわ。呪術に頼ったのが悪いのね。やっぱりこれが原因かしら」
 胸元の水晶に触れる。
「私がやつれて行けば行くほど、この水晶は光を増している気がするの。取った方がいいかもしれないと思ったんだけど……」
「それはやめた方がいい。水晶がお前の健康を奪っているのは確実だろう。だが外した途端に持ち主の命を奪うように仕組まれている可能性もある」
「そうね……」
 沢井はココアの入ったカップに口をつけた。
「ねぇ、最近思うんだけど、私どうしてあんなことしたのかしら」
「憎んでいたからだろう」
「そうね。でも変なのよ……あんなに憎かった筈なのに、今は全然……」
「お前に聞きたいことがある」
「何?」
「本当に高幡浩介と付き合っていたのか?」
「ええ……確かそうな筈だけど」
「筈、じゃない。絶対にそうかと聞いている」
「…………」
「何か思い出話はないのか?」
「…………」
「付き合ってどれくらいだった?」
「…………」
「高幡の誕生日は?」
「…………」
「高幡の癖は?」
「…………」
「もう一度聞く。本当に高幡浩介と付き合っていたのか?」
 沈黙。
 沢井のココアを持つ手が震えている。
「……違うわ。私、高幡さんと付き合ったことはない……」
「呪術師のことはどこで知った?」
「だから知人が……」
「本当にそいつは知人か? 初めて知ったのはいつだ?」
「…………」
「お前は知人を女だと言ったな。どんな女だ? 年齢は? 髪型は?」
「…………」
「どうなんだ?」
「…………違うわ。そんな人……初めから知らない……」
 何もかもが偽りだった。
 最初から作られていたのだ。
 沢井はうめくように泣き声を漏らした。
「それじゃあ、私……何もしていない高幡さんを殺したんだ……」
「お前は操られていただけだ。お前が殺したのとは違う」
「でも、でも……私は人殺しだわ」
「お前は自分の身を案じていろ。もっとも、お前一人の身体くらい、私が責任を持ってもいい」
 樹はココア入りのカップを、泣きじゃくる沢井の頬にくっつけた。
「とりあえずこれを飲んで仕事に戻れ」
 沢井が仕事に戻ると、樹は缶に触れた。
 すっかり冷めてしまっている。
(それにしても、どういうことだ?)
 女の呪術師など存在しない。
 最初から作られていた話。
 何のためにそんなことをするのか。
 唐突に、携帯がバイブした。着信を告げている。
 組織からだった。
 周りには、大した人もいない。声を落とし、単語に注意すればここでも話せるだろう。
「また仕事を頼みたいんだが」
「今は無理だ。少し後にしてもらいたい。それより頼みたいことがある」
「お前の用事が終わるなら協力しよう。何をすればいい?」
「今月私が担当した人間の周辺を調べてもらいたい」
「ああ、あれか」
「知っているのか?」
「当然だ。後のこともある程度は調べている」
「で、どうなっている?」
「それが不思議なことに、男を殺した通り魔は死んだよ。最後まで容疑は否認していたそうだ。女の方は、家が燃えてから、彼女の友人が一人同じく急死したよ。男はショック死、女は自殺だそうだが、原因は不明だ」
「わかった」
 電話を切ると、樹はコーヒーを飲み干した。
(やはりそうか)
 二件とも、何者かによって仕組まれていたのだ。
 他人を操って人を殺し、操られた人間も口封じのために殺す。
 ショック死や自殺させるとは、一体どのような手口かはわからないが、そのうち沢井の元へも来るだろう。
(だが、どうしてこうまで手の込んだことをする? まるで人を操ることを楽しんでいるような……)
 樹の記憶に、あるひとつの言葉がよぎる。
『決まってるじゃん、白は黒に勝てないんだよ。俺は白に容赦しないからさ、最初は白を有利にさせて後からどんどん攻めるんだ。白は足掻いても無駄で、最後は黒に飲まれておしまい』
――この事件は、あの子供の雰囲気に似ている――
 樹は右斜め後ろを振り返った。
 そこには、いつもいる筈の翔の姿はない。
(いない……)
 テーブルにはオセロだけが残されていた。
(それに、いくらなんでも馬鹿馬鹿しい話だ)
 首謀者はあきらかに組織の邪魔をしている。組織に恨みを持つ単独犯だろう。
(少なくとも他の組織ではない筈だ。組織ぐるみなら、こんなに紛らわしいことはしない)
 だが、子供が組織に対し恨みを持つ理由が見当たらない。
(もうここに用はない。これから込んでくる。帰った方が良さそうだ)
 缶コーヒーを屑篭に捨てると、樹は外に出た。
 瞬間、刺すような視線が身体を突き抜ける。
――誰かに見られている――
 樹は辺りを見渡す。
 いつの間にか視線は消えていた。
 鋭く、それでいて嘲るような視線だった。
 この視線は、翔のものとしか思えない。
(だが、子供が組織を恨む理由など……いや、待て)
 高幡浩介暗殺の依頼を受けたとき、確か組織の人間との会話が一度脱線した。
『組織に入りたがってた奴は追い出したよ。まだガキだったし』
――組織に入りたがっていた子供――
(まさか)
 樹は携帯を取り出した。
 ワンコールで電話は取られた。
「この前、組織に入りたがっている子供の話をしたのを憶えているか?」
「ああ、それがどうした」
「その子供の特徴は?」
「特徴と言ってもな……妙なガキだったよ。人の心が操れるとか呪うことが出来るとか言ってたけど、ありゃ嘘だな」
「何故そう言いきれる?」
「何故も何も、普通のガキにそんなことが出来る筈ないだろ。すぐ追い返したよ。特徴といってもなぁ……オセロを持っていたくらいしか」
「それで十分だ」
 相手が言い終わらない内に返事をすると、樹は電話を切った。
 これで大体のことが線で繋がった。
 樹は身を翻し、カラオケ店へと引き返した。
 テーブルにオセロが残されている以上、翔は一度ここへ来る。
(話が既に作られているなら、こちらから壊すまでだ)

<玩具>
 夕暮れ時。
 翔はやってきた。
「あんた、また来ていたんだね」
 白々しく言うと、翔はいつものテーブルについた。
「以前、お前は私に教えてくれたことがある」
「何?」
「オセロと街のことだ」
「ああ、そのこと」
「お礼に、私からも話を提供しよう」
「へぇ、どんな?」
「人間の心理の話だ」
「心理詳しいの?」
「特に学んだわけではないが、経験上色々と人間の心理を垣間見ることがある」
「そう、経験豊富なんだね」
 翔は嘲る顔をする。
 無視して、樹は小さく息を吸った。
「全ての感情を見てきたわけではない。私が見る真理は大抵、犯罪心理だ」
「…………」
 翔の瞳の奥が、少し濁った。
「精神が追い詰められ無差別的な犯罪に走った場合、犯人の心には共通して、ある感情が根底にある。何だか分かるか?」
「……さぁね」
「劣等感だ」
「へぇ、そうなんだ」
「自分への強すぎる劣等感は何をしても満たされない。自分以外の人間が、皆自分よりも優れているように見え、自分がどうしようもなく恥ずかしくなる。次第に敵に見え始める」
「…………」
「劣等感を満たす最大のものは何か分かるか?」
「知らない」
「他人が自分に対して完全に服従することだと言われている。自分の意のままに、相手が動くことだ」
「…………」
「だが、そんなことは大抵不可能だ。他人の心を操ることは出来ない。だから他人を辱めたり、命を奪うなど、身体を操ることを行うケースが多い」
「…………」
「だがそれは心を操れない人間の場合だ。もしここに、他人を操る能力を未熟ながらもある程度手に入れた人間がいるとする。そいつは一体どうすると思う?」
「…………」
「誰かを操りたくなる。それも、自分を拒否した人間への復讐をかねて」
「……で、結局何が言いたいの?」
 翔は樹を凝視していた。
 目には殺気が篭っている。
「別に教訓があるわけではない。ただ、小さな子供が大きな玩具を手に入れたときのようだと思わないか?」
「…………俺、用事あるから」
 翔はオセロを仕舞うと出て行った。

 夜。
 コートを着、帰り支度をした沢井が樹のいるテーブルに駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? いつもは帰っている時間なのに」
「今日はお前の身が危ない」
「え……」
「犯人は今日、仕掛けてくる筈だ。おそらく一気に攻めてくるだろう」
 驚いている沢井の腕を引っ張り、樹は外へと向かった。
「お前は取り乱さず、ただ居ればいい。そうすればお前の身の安全は、私が保障する」
 夜の中の歌舞伎町は、既にネオンの光で彩られている。
「あの、何処へ行くんですか?」
「この時間では歌舞伎町とは言え、まだそう危なくない。相手も手を出し辛いだろう。ここを抜けて廃ビルへ行く」
 樹は先を急いで歩く。
――後ろに殺気の篭った視線を感じながら。

<暴走した感情>
 ビルの二階。
「ここでいいだろう」
 階段を上り暗闇に入ると、樹は足を止めた。
 沢井は足がすくんでいる。
「暗いですね……」
「懐中電灯がある」
 樹は鞄から懐中電灯を取り出すと、スイッチを入れた。
「こんなことをしなくても、じきに暗闇に慣れるだろうが」
「いつまで待つんですか……」
「さぁ。そろそろじゃないのか」
 沢井は身震いしている。
 樹は鞄を弄ると、
「飲むか?」
 ココアを沢井に渡した。
「ここへ来ることが思いつきでも、ビル内が寒いことくらいは考え付く」
「ありがとうございます」
 沢井が飲み始めると、樹もコーヒーの缶を出した。
(この何日間かで、随分これを飲んでいる気がするが)
 朔が見たら、嫌そうな顔をするだろう。
 健康面のこともあるが、あの子はコーヒーを好まない。
(だが、コーヒーは何かを始めるときに飲むのには最適だ。酒とは違い、冷静な勢いがつく)
 温かく、喉を流れて、身体に染み込んで行く。
 そのとき、沢井が樹の腕を掴んだ。
「何か、音が聞こえるわ……」
 声が、上ずっている。
 樹は耳を澄ませたが、何も聞こえない。
「何も聞こえないが」
「そんなことない!! ほら、足音がするわ。誰かがここに来る!!」
 樹には何の変化も感じられない。
 音もなければ、人影も見えない。
 だが、沢井は続きを叫んでいた。
「高幡さん!!」
 沢井には、高幡の姿が見えるらしい。
(呪術か。ようやく攻めてきたようだ)

<呪術>
「高幡さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
 沢井は身体をセメントの床に伏せて、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返した。
『俺がどれだけ苦しかったか、貴方に分かりますか?』
「私……本当にごめんなさい……」
『そう思うなら、貴方もこっちへ来てください』
 高幡はそう言って、首を切る真似をした。
『窓から、降りて』

<リスク>
 樹は窓へ向かう高幡の腕を掴んだ。
「何をする気だ」
「離してよ! 償わなきゃ……」
「償う? 幻の高幡に何を言われたかは知らないが、償うのは別の人間だろう。いい加減、階段の途中にいるのはやめて、出てきたらどうだ?」
 低い声で階段に向かって言うと、そこから翔が現れた。
「見つかってたんだね」
「呪術が現れてからなら、どんなに馬鹿でも気付くだろう。……こんなに光っていてはな」
 沢井がつけている水晶が紺色に光っていた。
 その光をたどると、翔の掌にたどり着く。
 翔は合わせていた手を開いた。
 中には丸い水晶があった。
「他人に呪物として渡すのは一回きりのものだけどね、そいつに身につけさせる方は何度でも使える水晶なんだ。口封じに失敗する可能性もあるからね」
「何度やっても無駄だ。沢井由紀子が殺されることはない」
「あんたがそうやって押さえつけているからだろ」
 翔は顎で、沢井を掴んでいる樹の腕を示した。
「離してやりなよ。その女だってその方が嬉しいだろうから。見ろよ、幻なんかにそんなに怯えてさ」
「怯えているのは、お前もだろう」
「どういう意味だよ」
「私にも、沢井にも、他人すべてに怯えている。それどころか自分自身にさえ怯えている。弱い犬ほどよく吠えるものだ」
「黙れ!!」
 翔は水晶を握り締めた。
「いいからその女の手を離せ!! お前は後で殺してやる」
「断る」
 樹は沢井の腕を掴んだまま、身体を自分の前に寄せた。
 沢井は目を閉じて、顔を前から背けて呟いている。
 前には、高幡がいるのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「沢井、謝るのなら前を直視しろ」
 沢井は小さな子供のように顔を大きく左右に振った。
「何故だ? お前が高幡に対して罪の意識を感じ、謝りたいと思っているなら、相手の目くらい見られる筈だ」
 樹は沢井の頬を掴んで、前を向かせた。
「見ろ」
 沢井は目を開けた。
「それでいい」
「お前がもし、高幡に対してどうしても謝りたいのだと思うのなら、とりあえず今は生きることだ。お前の一生くらいかけて、せいぜい罪の償い方でも探すといい」
 コートからサイレンサー付きのリボルバーを取り出し、沢井の両手に握らせる。
「何、無駄なことしてんだよ」
 翔は嘲るように笑ったが、樹は無表情のまま、
「翔、お前にいいことを教えてやろう。人を呪うということは人を殺めることが出来るが、それが相手に効かなかったときにはそれ相応の反動があるものだ」
 そう返すと、リボルバーを握った沢井の手を真正面へ向けた。
「これは幻だ。幻の言うとおりにしても償ったことにはならない。本物の高幡はお前がこれから捜すといい。今は高幡の死を招いた呪術を消すことで、ここにお前なりの償いを示せ」

 リボルバーから、小さな音が発せられた。

 次の瞬間には、沢井の胸元で水晶の割れる音と、子供のうめき声が響いた。
 その後、翔の立っていた場所にはただ黒い灰が床に落ちていただけで、人間のいた形跡はなかった。

 二人は廃ビルに無言で立ち尽くしていた。
 しばらくすると樹の携帯が、新たな仕事を告げるために、震え始めた。

<街は蠢く>
 今日も、樹は任務のために歌舞伎町を訪れた。
 数メートル先にはターゲットの男が歩いている。
(一体この状況に何度この身を置いたか……)
 この時間は、いつも無駄なことを考えてしまう。
(だが、仕事中なのを忘れたことはない)
 切り離されたように、冷静な自分が根底にいる。
 この街にいると、ひとつの言葉を思い出す。
『この街は動くよ。蠢いて、人間を飲み込む』
 そうかもしれない。
 これから殺される人間も、殺す自分も同じ街に飲まれている。
(あの少年はどこへ行ったのだろうか)
 樹はコートから、小瓶を取り出した。
 中には、あのときの黒い灰が入っている。
(黒い霧が子供を包んだかと思うと、灰だけ残して消えていた。あの子供はこの灰だけになってしまったのか、あるいは……)

――あの子供はこの街に喰われ、今は深い街の底で眠っているのかもしれない――

 全く、この時間はどうしても無駄なことを考えてしまうようだ。


 終。