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<PCシナリオノベル(シングル)>


狙われた瞳

 ――闇よ、早く街を塗りつぶせ。
 男はそう願いながらさまよい歩く。新たな獲物を求めて。
 闇よ、すべてを覆い隠せ。
 血に濡れた物語を多うヴェールのように。

 日本の中枢部である東京。その東京の中にあって新宿ほど雑然とした街は多くない。
 さまよい歩く人々の年齢しかり、人種しかり、立ち並ぶビルや店までも。
 すべてがラジオのノイズのようにとらえどころ無く、調和することなく、うつろい流れていく。
 ちらしを配る金髪の男。冬の最中であるというのに惜しげもなく肌を露出させ、道いっぱいひ広がり歩く少女達。
 上目遣いの、けれど訳知り顔の職業不明の中年。
 端にならべられたアクセサリーの露店。
 そのどれもがよくある光景でありながら、確実に昨日とは違っている。
 いつきても慣れることは出来ないとため息をつきながら、雪菜は軽く頭を振った。
 黒曜石と銀糸を寄り合わせて紡いだような髪が、冬の乾いた空気になぶられ宙を舞う。
 肌は比するものが無いまでに白く、黒い髪とあいまって見事なコントラストをみせている。
 髪と同じく黒く、そしてどこか寂しげなかげりを見せる瞳は先ほどから街に備え付けられた巨大スクリーンを――否、スクリーンを流れていくニュースをみつめていた。
 感情を感じさせないニュースキャスターの声が、淡々とある事件の概要を朗読していく。
 ――最近都内でおこっている猟奇殺人だ。
 眼球をぬきとれら、代わりに硝子の白い玉を――いわゆる義眼を残していくという、奇妙な犯人。
 被害者は年齢も性別もバラバラである。共通点があるならばただ一つ「誰しもが目が自慢であったこと」あるいは「目が印象的な人物であった」事だ。
 瞳にコンプレックスがある人物の仕業ではないか、と昼のワイドショーでコメンテーターが言っていた。
 また別の番組では「人前に立つ事がコンプレックスとなり、目が怖くなった人間の仕業」と心理学者が訳知り顔で言っていた。
 だが、本当にそうなのだろうか?
 雪菜はダッフルコートの前をかき寄せる。
 さすがに制服だけでは、寒さがきつい。
 特に雪菜の高校は「設立以来の伝統」と称して、耐寒性もなにもないセーラー服を貫き通していた。
 見栄えはよいものの、ブレザーのように下に何かを着込む事ができない。
 コートから伸びた足を軽く交差させ、ガードレールに寄りかかる。
(目が怖い?)
 怖いから、なくそうとした。
 ならば被害者が選ばれた理由がおかしい。
 怖いからなくすならば、だれの目でも良かったはずだ。
 ――違う。犯人はあきらかに「意図して」美しい目をあつめているのだ。
 何のため?
 手を握りしめ、息を吐き出す。
 吐き出された吐息は白い霞となり、やがて空中へ拡散した。
 映し出された被害者の写真をみて、目をそらす。
 癖のあるショートカットを無造作にまとめた、二十代の女性が、スクリーンの向こうから笑いかけている。
 夏に取った写真なのか、雪菜と同じ黒い瞳は周囲の輝きを写し、生き生きと正面を見据えていた。
 病院で貰ってきた、純白の義眼――真珠のように光沢をもつ双つの玉が入ったポケットにそっと手を置く。
 被害者から、知人である彼女、いま、スクリーンの向こうで笑う彼女から預かってきた、事件の重大な証拠。
 自分と同じ組織に属する女性の。
 そう。
 ――私と、同じ、組織の、人間。
 一言一言を区切りながら、心に刻みつける。
 かつて自分を殺そうとした両親から自分を救い出した、アサシン組織。
 麻生雪菜はその一員であった。
 組織の名前を口に出すことは、たとえ心の中であっても許されない。
 闇から現れ、闇に消える人々。
 普通に暮らしていれば、一生目にするどころか、存在すら知ることもない人々。
 異能をあやつり、法を越えた次元での死を与える使者。
 なぜその一員になったか、と問われても答えようとは想わないし、答えられるだけの「言葉」がこの世界に存在するかわからない。人間の感情や想いを一言に集約するなど、とてもできやしないだろうし、誰も理解は出来ないだろう。
 ただ、一つ確実に言えるのは、組織は常に雪菜とともにあり、雪菜は組織の為に生きている。ただ、それだけだ。
 唇を噛みしめ、そらした目をモニターに向ける。
 何人目だろうか。
 異能者の瞳は、普通の人間とは違う。
 同じようにみえても、その奥に宿る力や、人から阻害されて生きてきた故の複雑な感情が隠されている。
 だからなのか、この猟奇事件でも数人が被害者となっていた。
 上層部が事態を重く見て、動き出すのも時間の問題だ。
 そうなれば、自分は「仕事」として人を殺さなければならなくなる。
 ――でも、今のうちならば傷つけることなく「許す」事もできるかもしれない。
 これ以上の被害者を出さずに、そして加害者を殺す事無く、すべてを闇に沈める事ができるかもしれない。
 そう想ったからこそ、この、新宿へ来たのだ。
 被害者達が最後に姿を消した街へ。
「……あんた、綺麗な目だな」
 唐突に思考の底から引き上げられ、雪菜は方をびくつかせ、顔を上げた。
 気配が、無い。
 驚きに息を飲もうとし、寸手のところで身体を律し、何気ないフリを装って声の主を見返した。
 それは、炎。
 燃え上がる力強さより、すべてを滅ぼし尽くす――言うなれば日没間際の太陽のような、退廃を感じさせる深く、暗い紅の髪が瞳に映し出された。
 炎が取り囲む顔は、まるで陶磁器人形のように完璧で――完璧すぎて命の在処をさとらせない。
 紅玉石の瞳が、まっすぐに雪菜の黒曜石の瞳をのぞき込む。
 いや、そうではない。彼は最初から雪菜の顔などみてはいなかった。瞳だけをまっすぐにのぞき込んでいるのだ。
(異常、です)
 人は普通、人と対峙した時、顔や身体という全体を見て、それから細部を見る。
 大まかな形を掴んで、ポイントを押さえていくのだ。それはどんな人間でも同じだ。
 しかし、声の主である青年は、最初から瞳だけしかみてはいない。
 まるで棚に陳列された道具を吟味するように、顔ではなく、瞳だけをみているのだ。
 それは、とても異常な事ではないだろうか。
 雪菜が狼狽していると、青年は一度だけ喉をならし顔を雪菜の顔に近づける。
 冷たい吐息が振れる。
 命を奪う死の吐息のようで、思わず突き飛ばし、逃げ出したくなった。
 だが、逃げない。
 うっとりとした声の主の瞳が、雪菜の瞳に映し出される。
 頭の奥で赤い文字が点滅する「危険」と。
 だが、逃げ出さない。反応も返さない。
 無言のまま、身動きもせず、声の主をじっと見据える。
 と、性別を感じさせない中性的な声が雪菜の鼓膜をくすぐる。
「今夜、そこで待っている」
 歌うように言いながら、小さな紙切れを雪菜の手に押し込める。
 乾いた音がかさりとなった。
 落とさないように握りしめる。と、青年はそれを了解の合図ととったのか、モデルのように隙がない身動きできびすを返した。
「まってください」
 ようやくの事で声を上げる。
 青年は立ち止まり、うるさげに肩越しに振り向いた。
「あなた」
「……エイラム・ヴァンフェル」
 雪菜の質問を遮るように名乗り、次の質問を拒否するように足早に人混みの中へ消えていく。
 状況が理解できない。
 一体あの男が何であるのか。
 エイラムの姿が消え、ようやくの事で雪菜は身体の力を抜き、警戒を解いた。
 手に異質感があり開くと、にぎりしめられ、くしゃくしゃになった紙切れがあった。
 しわを伸ばすようにしながら開いていく。そこには。
 最近たてられた新宿の高級ホテルの名前と、ルームナンバーらしき数字。
「ここへ、こいと言う事でしょうか」
 自分自身へ問いかける。
 答はわかりきっている。これは罠だ。だが。
 一体どちらが罠にはまったのだろう? そしてどちらが望みの獲物を手にするのだろう。
 自分が新たな被害者となるか――それとも?
 闇の事件を、闇へと消し去る事ができのか。
 答はまだわからない。

 一体どういうつもりなのだろうか。
 自分がこの事件の犯人を捜していると知っている?
 それともただ単に「獲物」として声をかけたのだろうか。
 考えてみても答はでない。
 白を基調としたホテルの前で軽く瞑目する。
 息を吐き出し、エントランスへ向かう。
 吹き抜けのホールはどこまでも高く、螺旋を描きながら天の高みへとつらなるシャンデリアが無機質的な光を投げかけている。
 超高級ホテルに制服の高校生、となると場違いではあるが、ホテルの従業員はまるで気にしてはいない。客に無関心であることが高級といわれる故なのか、それとも、別の理由なのか。
 いずれにしても、金と権力がある人間がよからぬ事をたくらむのに、これほどうってつけの場所はあるまい。
 一定の間隔、一定のリズムでエレベーターへ近づく。と、ボーイが機械のようにボタンを押す。
 引き返すならば、今が最後だと、心のどこかで知覚していたが、引き返す気などさらさらなかった。
 かすかな重力の歪み、かすかなモーター音とともに雪菜を乗せた箱は、エイラムが待つ場所――最上階のスイートルームへと上っていく。
 流れ出た血のように、暗い紅の絨毯を踏みしめ、部屋の前へとすすみ、ノックする。
「ようこそ、まっていたよ」
 ドアが薄く開き、紅い髪の青年が褐色の肌に作られた笑みを浮かべながら述べた。
 血のように紅い瞳が、雪菜の瞳へとまっすぐに向かってくる。
 とらえ、飲み込み消滅させる溶岩のように。
 非のつけどころがない、豪奢な室内で、雪菜はコートを青年に預けながら、胸の中の息をすべて吐き出し、そして言葉を口にした。
「……あの……貴方ょっとして、巷で噂の猟奇事件の犯人さんですか……?」
 単刀直入すぎる、とは想ったが、彼のような人物に迂遠に話を持ちかけても、同じように迂遠に交わされるだけだ、と本能的に知覚したからだ。
 と、雪菜の為に紅茶を入れていたエイラムが、動きをとめ、ぎこちなく口の端を歪めた。
「どうして、そう、想う?」
 極端に抑揚が少ない声が問いかける。まるで人というより、機械を相手に話しているようだ。
「一つは、消えた人物全員が「最後に新宿」を後にしたこと。二つ目は貴方は人の顔の「瞳」以外は何も見ていなかった事」
 新宿での出会いを思い出す。
 人ではなく、道具を見る目で自分の瞳だけを見ていたエイラムを。
「そして、最後にこの場所を選んだ事、です」
 唇を噛みしめ、エイラムを見た。
 そう、ただ女を、少女を求めるなら、こんな高級ホテルを選ぶ必要などない。
 ビジネスホテルでもなんでも、それにふさわしい所はいくらでもあるだろう。
 にも関わらず超高級ホテルを……客の為ならば多少の事にも目をつぶり、見て見ぬ振りをするように教育された従業員であふれるこの場所――いわば、都会の密室であり、孤島であるこの場所を選んだ。
 それは「何かを行う」と宣誓しているようなものではないだろうか。
 瞬間。
 男がけたたましく笑い始めた。
 壊れたトランペットのように、朗々とした声が絶え間なく室内の空気をふるわせる。
「まったく、お人形さんのような顔をしていて、頭が回る子だね、君は」
 紅茶の入ったティーカップを持ち上げ、目線の高さまで持ち上げると、そのまま手を離した。
 陶器の割れる耳障りな音がして、白い硝子の欠片と、琥珀色の液体が絨毯に散らばる。
「オーケィ。君は今までの子達より、おもしろい。少し話をする時間を上げよう」
 もっとも、素材は素材だけれど、と付け加えて、外人的な動作で肩をすくめてみせた。
「どうして眼球が必要なんですか? 取られた人々に……返してあげてください」
 目が見えないなんて、暗い世界に閉じこめられたみたいでとてもかわいそうだ。
 闇だけの世界。
 いや、闇だけならば、それはもはや、闇とはいえない。
 光のない世界、何もない世界――それは虚無という。
 そんな世界に閉じこめられて喜ぶ人間がいるだろうか。
 否。
 いるはずがない。
「私たちの組織の仲間も数人被害にあってるみたいなんです」
 太陽のように輝かしく笑う仲間を思い出す。
 とても暗殺者とは思えないほど、朗らかに、目を輝かせながら。
 だけど、彼女の瞳は無い。
 奪われた瞳の代わりに入れられていたという、純白の義眼――真珠のように光沢をもつ双つの玉が入ったポケットに手を置く。
 彼女は今も包帯をまかれたまま、病院のベッドで横たわっている。
 何も移さない無機質の瞳。
「異能者の瞳は変わった瞳をしてる事が多いです。ですから――取られた人に返してあげてください。人を傷つけるなんて……相手も自分も痛い事だと想ううんです。ですから……お願いしますエイラムさん」
 貴方は、うばったのですか?
 華奢な肩をふるわせながら、雪菜はエイラムを見る。
 振れたら壊れそうな、雪でできた人形のような、はかない容姿とは裏腹に、強い意志を持つ瞳。
 その輝きに羨望のまなざしを送りながら、エイラムは髪をかき上げた。
「異能者だからじゃない、俺はその黒い瞳が好きなんだ」
「え?」
「闇より深いくせに、何故か強い光を宿している。相反する二つが見事に共存する、そういう瞳でなければ「作品」に似つかわしくない」
 要領を得ないエイラムの言葉に困惑する。
「そうさ、作品さ」
 両手を大きく開く。まるで満員の観客を前にしたオペラ歌手のように。
 そして大股で部屋を横切ると、モダンな流線模様を駆使したアールヌーヴォ形式の扉を開く。
 風が、流れ込む。
 いや、風というよりそれは冷気だ。
 冷房を入れているなんてものじゃない。真冬の北海道へつながっていると言われても、不思議でないほどの冷気が雪菜の身体をなぶる。
 室温の差から生じる白いもやが収まる。と、ベッドが――そしてその上に横たえられた「作品」の形が見えた。
 金色、銀色、淡い銅色。
 三つの色と光持つ髪が緩やかに身体にそって流れている。
 雪花石膏のように白く、そして上質なヴェルヴェットのように柔らかい白い肌が包み込む肢体は、完璧でありながら、どこかゆがんで見える。
 それもその筈だ、と雪菜はすぐに理解した。
 その「作品」には性別がない。
 未分化の、決して成長しきる事のない少年のような少女のような身体を持っている。
「どう? 僕の死人――ゾンビは」
 自慢の玩具を見せびらかす子供のように、無邪気に笑う。
 それはエイラムが初めてみせた、感情的な表情だったかもしれない。
 ぞくり、と背筋が冷える。
 このために、彼は、眼球を――。
 見ていればわかる、彼がこの「作品」の為にどれほど面綿密に「パーツ」を厳選したのか。
「何度も、瞳を移植したんだ」
 うっとりと、目を細めながら、エイラムはベッドに近づく。
 何度も、何度も。
 被害者の数だけ……否、表沙汰になっていないだけで、もっと多くの人間の瞳をこの死人に移植してきたのだろう。
「だけど、駄目だった。何度やっても朽ち落ちてしまう。何度移植しても、その瞳だけが腐り落ちてしまうんだ。この僕の最高の技術を用いてもね」
 そこで頻繁に人を襲って、新鮮で綺麗な瞳を移植し続けていたのだ。
 あまりにも自己中心的な行動に、雪菜は吐き気を感じた。
 芸術家ぶるのはいい。
 自分の作品を納得できるものに仕上げたいという気持ちもわかる。だが、人間の身体は部品ではない。
「催眠術をかけてターゲットを招き入れる。そして飲み物に睡眠薬を入れる――あとは全身麻酔して、静かに眼球摘出すればおしまいさ」
 ベッドのわきにおかれた銀色のアタッシュケースを開ける。
 と、中に納められた医療器具がステンレスの冷たい光を放っていた。
 エイラムはまるでCDでもえらぶかのように無造作にメスや直裁刀に指をそわせていたが、やがて硝子性の注射器と、透明な液体が入ったアンプルをえらびだした。
「さあ、大人しくしていれば身体には傷はつけないよ。ふふ、欲しいのは君の瞳だ。その瞳ならば、僕の作品に最もふさわしく、そしてそれだけの力にあふれていれば、朽ちる事もないだろうからね」
 家族に初めて薔薇を送る少年のように、頬をかすかに紅潮させながらエイラムが言う。
 雪菜は乾いた喉を手で押さえながら後ずさりした。
 床にくだけたティーカップの破片が踏みにじられ、耳障りな音を立てる。
 そう、与えられたのは話す時間――つまり睡眠薬を飲ませない、というだけで、結局エイラムの目標は――人間の身体を部品とする事は変わりはしない。
「そうは、させません」
 胸の中にわだかまる二酸化炭素をはきだし、雪菜はエイラムをにらむ。
 悔恨して自主してくれれば良かったのに。
 そうすれば、誰もこれ以上傷つけずにすむのに。
「私はあなたを傷つけなければならなくなりました」
 宣誓する。
 それは戦いの宣誓であるというのに、どこか悲しく、苦しげで、薄氷か、あるいは水晶がくだけるような刹那の響きをもっていた。
 細い指を首にあて、胸にかけている細い銀の十字架を指にからめとり、握りしめる。
 空気が、変わった。
 普段から表情はもとより、感情を表にださない雪菜だが、いっそう表情が硬く、冷たく――そして、感情が感じられなくなっていく。
 それはまるで、心の中で傷つきたくない、あるいは傷つけたくないと願う自分を防衛する殻か鎧のよう。
 空気の流れが変わった事を察知したのか、エイラムが絨毯を蹴り、一気に雪菜との距離を縮める。
 エイラムの指先が雪菜の髪に伸び、捕らえようとする。
 しかし、指先に髪の毛の一筋が振れるより早く、雪菜は後ろへと飛びすさり、体制を整える。
「チッ」
「無駄、です」
 たとえ何度移植しようと、何度目を持ってこようと。
「あなたのゾンビは、決して「瞳」をうけいれないでしょう」
 音楽的な声がエイラムに投げかけられる。
「そんな筈はないっ!」
 雪菜の声を振り払うように、エイラムが叫び上げ、雪菜の腕に手をのばす。
 しかし、雪菜は半身を返すと、逆に伸びてきたエイラムの手首を軽く掴み、ひねり上げる。
 天性の格闘センスを持つ雪菜にしてみれば、戦闘に関して素人であるエイラムを組み伏せるなど、いともたやすい事である。
 なんとか組みほどこうと、エイラムがもがけばもがくほど、間接はきつく締め上げられてゆく。
「どうして、わからないのでしょう……」
 薄く、花のように鮮やかな色もつ唇がふるえる。
「瞳が朽ちる事の意味を」
 間接が外れるか外れないかの所まで締め上げ、不意に手を離す。
 と、バランスを崩したエイラムが地面に無様に倒れ込む。
「お前にわかるというのか! 死人を使う術もしらないであろうお前に」
 エイラムは床から跳ね起きると、ベッドに横たわる「作品」に手をふれ、何事か呪文を唱える。
 とたん、ゾンビの白い肌に、金色の光で無数の模様が浮かぶ。
 太陽、鳥、波。
 古代の民族の入れ墨のように、抽象的な絵文字が身体をかざる。
 と、息もなく「人形」が起きあがった。
「顔は傷つけないでおいてやろう、しかし、それ以外のところはめちゃくちゃにしてやる! 与えられるだけの苦痛を与えてやる!」
 エイラムが叫び、雪菜を指さす。
 と、ゾンビが跳躍した。
 応接セットの木のテーブルが倒れる。
 人間を越えた早さに、雪菜はかろうじて身をかわす。
 ゾンビの手が前に突き出される、と、空間が歪み、衝撃波が放たれる。
「っっ!」
 受け身をとりながら床を転がる。
 髪に陶器の欠片がついたが、そんなこと、気にしている余裕はなかった。
 部屋の隅までにげ、壁に背中を付ける。
「ははっ! いきどまりだぞ、お嬢ちゃん」
 エイラムが勝ち誇ったように笑い、指をさす。
 だが、雪菜は驚きはしなかった。
 否、嗤っていた。
 唇の端がかろうじて目視できうる程度につり上がる。
 半ば閉ざされた瞳からは、冷たい黒い瞳が除いている。
 エイラムの命令に完全に従うゾンビさえも、見えない「力」に押され、一瞬だけ動きをとめる。
 空気が、雪菜の足下で逆巻く。
 雪菜は胸の十字架を握りしめたあと、手を空中にさしのべた。
 風が彼女の動きを追う。
 部屋の隅の闇が揺れる。
 室内灯の光のすべてが明滅する。
「な、に?」
 高く、低く、かすかに女性の声が聞こえる。
 歌うように、泣くように。
 哀願するように、泣いている。
 影と声が雪菜の手に集約した瞬間、高らかな叫びとともに一本の大鎌が現れた!
 ――オ前へニ口ヅケスルヨ、よかなぁーん。
 鎌が、それ自身がふるえ、共鳴しながら叫んでいた。
「サロメ」
 ぽつり、と雪菜が言葉を漏らす。
「この哀れなる闇の生物を、闇へとお返し」
 小柄な身体のどこにあるのか、雪菜は軽々と大鎌をあやつり、ゾンビへ走り、身をかがめる。
 そして、闇の軌跡を残しながら、大鎌を一閃した。
 首が、飛ぶ。
 穿たれたゾンビの眼窩が空しく宙を移す。
 けれど、その唇は――とても優しげな微笑みを浮かべているように見えた。
 まるで、エイラムの呪縛を断ち切ってくれた雪菜へ感謝しているかのように。
 切断された部分から闇が広がり、ゾンビの白い肉体を、金と銀と銅の入りまじった美しい髪を飲み込んでいく。
 「サロメ」の漆黒の刃からは血が流れることはない。
 流れ出るのは闇――すべてを吸い込み、虚無となす孤高の闇だけである。
 かつて予言者であるヨカナーンを恋し、首だけにしてまで口づけをこいねがった。
 救いようのない想い、救いようのない闇を断ち切るただ一つの大鎌。
 雪菜が動きを止め、手を振る。
 と、鎌が幻のように消えていく。
 風の流れがとまり、すべらかな雪菜の髪が肩の上で静かにゆれた。
「わからないのですか? あなたのゾンビの瞳が何故朽ちたのか」
「……」
 あまりの出来事、自分の獲物であると想っていた少女に、作品を消され、エイラムは呆然と焦点の合わない瞳で雪菜を見ている。
「あのゾンビの瞳が朽ちたのは、貴方が奪った瞳の性でも、貴方の技術の性でもありません」
 静かに、目を伏せる。
「目覚めたくなかったからです」
 瞳を見開きたくなかった。
 目覚めれば血にまみれた運命がまっている。だから、見開きたくなかった。
 それはゾンビの――否、ゾンビのパーツとするために選ばれた手足や、爪、髪などの、それぞれの持ち主――遺伝子達の反乱だったのだ。
 目だけは奪わせない。
 瞳だけは、決してみひらかない。
 悲しい、ただ一つの反乱。
 だから、どんなに美しい瞳をいれても、朽ち落ちたのだ。
「――目覚めたくなかったから、だって?」
 肩を押さえながら、エイラムはつぶやく。
 彼はやがて肩をふるわせ、笑いはじめた。
 静かに、音もなく、狂気だけに彩られた笑いを。
「ふ、ふふ。おもしろい事を言うね」
 目を開く。
 そこには何の感情もない。
 感情を読みとることの出来ない、暗く、重く、底知れない紅の瞳だけがあった。
「今日は、引くよ」
 喉をふるわせ、乱れた髪をさらにかき乱しながらエイラムがいう。
「でも、僕は必ず君の前に現れる――そう、君がその虚無の心を抱いてる限り」
「私が――虚無?」
「忘れるんじゃないよ、君の目の前にある現実は本当の現実かどうか――そんなの君自身にも世界の誰にもわからない」
 指をのばし、雪菜の胸をさす。
「虚無の境界は、君のその中につまってる」
 目を猫のようにほそめて、あごをあげた。
「どういう……」
 どういうこと、と訪ねようとした瞬間、エイラムの指にあった青とも銀ともつかない指輪が燦然と輝いた。
 まるで太陽が目の前にあらわれたかのような、白光に、まぶしさから雪菜が目を背けた。
 風が髪をかき上げる。
 露わになった耳に、エイラムの吐息が、言葉が吹きかけられる。
「虚無の境界を君が抱くかぎり、君は僕らから離れることはできない」
 身体をびくつかせ、耳を押さえる。
 しかし光で何もみえない。
 ようやく視力を取り戻したとき、聞こえたのはただ一言。
 ――また、会おう。
 だった。

「虚無の境界――」
 虚無が自分の中にあるというのだろうか。
 ホテルを出て、雑踏のなか、立ち止まった肩を抱く。
 この、身体の中に虚無がある?
 決して埋めることの出来ない、光すらない闇が??
「違う」
 否定するが、雪菜の声は自分でもはっきりとわかるほど弱々しかった。
 頭を振る。
 何もかもを追い出す為に。
 自分を殺そうとした父母の顔を、伸びてきた手を、そして、その父母から自分を救ってくれた彼らを――組織の仲間を。
 思い出したくないのに、思い出してしまう。
(想い出さなければ、虚無に満たされてしまう?)
 何もない、という事がなんなのかわからない。
 でも、と雪菜は想い顔をあげた。
(私は誰も傷つけたくはないし、傷つきたくもない)
 自分の運命に相反しているとしても。許されないとしても。
 その想いが棘となり、自分の命を危険に陥れるとしても。
 ――誰も、傷つけたくなど、ないのだ。
 視界がゆがむ。
 目の奥があつくなる。
 けれど。
 見据えた街の光は、どこまでも遠く。
 少女の願いに答える事はなく、どこか遠くで、あざ笑うかのように女がつぶやいていた。
 ――私ハ、オ前へニ口ヅケシタノダヨ、よかなぁーん。と。