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道玄坂の伝言(ルージュ不要)
●幾度目か
正午過ぎ。渋谷の街中にて、思案顔をしてたたずんでいる女性の姿があった。
「うーん……」
手には名刺を持ち、腕組みをして道の真ん中に立っている。擦れ違う若いカップルたちは、そんな女性――シュライン・エマを避けるように歩き、奇異な視線を向けていた。
「……別に錯覚を起こすような建物の配置じゃないわよねぇ」
シュラインは小さく溜息を吐くと、前に向かって歩き出した。道の両側にはホテルが立ち並んでおり、看板の1つを見れば『フリータイム ¥5500』なんて表記もあったりする。
そう、渋谷は渋谷でもここはセンター街ではない。道玄坂、そのラブホテル街である。
さて、何故にシュラインがこの場に1人で居るのか。別に誰かと待ち合わせをしている訳ではなく――待ち合わせるならもっと普通の場所を選ぶはずだ――、どこぞの怪奇探偵の浮気現場を押さえに来た訳でもない。
では、仕事の調査で来ているのかと言われると、そう見えないこともないがちょっと違うような気もする。
そのうちにシュラインは、とある路地の前で立ち止まった。覗き込むと路地の先は行き止まり。人が隠れられるような場所も見当たらなかった。
「隠れる場所もなし、か。夜だったから見間違えたのかと思ったけど」
シュラインはくるりと路地に背を向けると、来た道をゆっくりとまた戻っていった。
(昼間に見てこれじゃ、それもないわ)
シュラインの思案顔がますます渋くなってゆく。思うような結果が得られない、といった様子の表情だった。
●解けぬ謎
(けど、あれは確かに武彦さんだったはず。……少なくとも外見は)
シュラインがこの場にやってきた理由。それは謎の1つを解くためだった。シュラインは、その謎が起こった時のことをもう1度思い返してみた。
家出をしていた少女、高輪泉を追いかけて捕まえ、説得を終えて共に戻ろうとした時――視線を感じて振り返ったら、遠くのホテルの陰に草間らしき男の姿が見えた。だが次の瞬間にはもう姿を消していた。それは間違いのない事実。
(でも)
草間にそのことを尋ねてみると、道玄坂を通ったことは認めているものの、シュラインたちを見た覚えはないという。こんなことで嘘を吐く必要もないだろうから、これもまた事実なのだろう。
しかし2つの事実を突き合わせてみると、明らかに矛盾が発生する。一方は見ているのに、もう一方は見ていない。何ともおかしな話だ。
「やっぱり『誰もいない街』の影響なのかしら。平行世界が微妙に重なって……実はあれは別次元の武彦さんで、こちらの武彦さんは他の物を見ていたか、全く何も見ていないのか……」
歩きながらぶつぶつとつぶやくシュライン。擦れ違う若いカップルたちが、奇異な視線をシュラインに向けていた。
(うーん、どうにも分からないわね)
そしてシュラインは、手にしていた名刺に視線を向けた。その名刺には、月刊アトラス編集長の碇麗香の名が記されていた。
裏を向けると、草間の筆跡で『これを拾った者へ 3人共無事だと以下の連絡先に知らせてほしい 草間』と書かれている。以前、警察官である女性、月島美紅が拾ってわざわざ持ってきてくれた物であった。
「……ちょっと聞いてみましょうか」
シュラインが、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
●電話の向こうは何食う人ぞ
「はひっ、もひもひっ!?」
電話の向こうから、元気な女性の声が聞こえてきた。聞き覚えのある美紅の声だ。しかし、少し変だ。口の中に何か頬張っているような声。
シュラインはちらっと時計を見て、名乗ってから美紅にこう話しかけた。
「ごめんなさい、お昼の最中だったのかしら?」
「は、はひ……ひょっと、はふ……」
声に混じって何かを飲み込むような音も聞こえてくる。間違いなく昼食中だったようだ。
「……お待たせしました、どういったご用件でしょうか?」
「あのね、ちょっと聞きたいことがあるの。以前わざわざ持ってきてくれた名刺なんだけど、どこで拾ったのか覚えているかしら?」
「はい、覚えていますけど……あっ、今どちらですか?」
そう問われてシュラインが居場所を告げると、美紅は今からこちらへ来ると言い出した。実際に現場に行って説明した方が分かりやすいだろうという、美紅なりの配慮だった。
「ん……どうもありがとう。そういえば、何食べてたの?」
ちょっとした好奇心で尋ねてみるシュライン。
「もんじゃ焼きです」
「……『月島』だけに?」
――山田くん、座布団1枚。
「はいっ? 何か言いましたか?」
「ううん、こっちの話。じゃ、ホテル街の入口で待ってるから」
シュラインはそう言って電話を切ると、デパートのある方に向かって歩き出した。
●実地調査
「お久し振りですっ!」
20分ほどして息を切らせながら現れた美紅は、シュラインの顔を見るなりぺこんと頭を下げた。
相変わらずスタイルのいい身体を紅いスーツで包み、相変わらずの童顔。相変わらずアンバランスである。
「いつぞやは大変お世話になりました。実はあれから少しして、行方不明になった人たちも全員無事見付かりまして」
「そうみたいね……うん。無事が何よりだわ」
シュラインがにこっと微笑んだ。
「やっぱり皆さん、あのおかしな世界に居たみたいですね。行方不明の最中の証言が一致していますから。あ、行きましょうかっ?」
シュラインを促す美紅。シュラインはこくんと頷くと、美紅と共に再びラブホテル街に足を踏み入れていった。
「ところで、仕事の方はいいの?」
「大丈夫です! 食事からまっすぐこちらに来ましたから、課長は食事中だと思ってますよっ!」
「……帰ったら机なくなってたりしてね」
胸を張って嬉しそうに言い放つ美紅に少し呆れながら、シュラインがぼそりとつぶやいた。
「拾ったのは、あっちですね」
「え、向こうじゃなくって?」
「違いますよ? そこのライブスペースの角を曲がって……」
美紅が指差したのは、先程シュラインが調べていたのとは反対側。つまり草間の姿を目撃した所ではなかった。
(じゃ、あれは人違い? 考えてみたら、こちらから『街』を、『街』からこちらの物を見れた話も経験もないし。でも……)
状況証拠を積み重ねてゆくと、ますますあの時見たのが草間ではないという可能性に傾いてゆく。けれども、シュラインは割り切れない物を感じていた。
●内示
(……無我が何か関係してるのかしら? そういえば、『街』と繋がる時は霧が発生して……って、私が見た時に霧は発生してなかったし。うーん……)
考えれば考えるほどに、訳が分からなくなってゆく。きっと真実は恐ろしいまでに単純に違いない。どうもそんな気がする。だがそこになかなか到達することが出来ないのだ。
「……あの、聞いてますかぁ?」
「えっ?」
不思議そうな美紅の声に、シュラインがはっと我に返った。考えるあまり、自らの思考の世界に入ってしまっていたようだ。
「ああ……うん、ごめん。もう1度お願いしていい?」
「ならもう1度言いますね。実はぁ……近々、なれそうなんですよ」
「何に?」
「決まってるじゃないですかっ、念願の刑事ですよっ、刑事! 先日、課長から内示があったんですっ! これで憧れのマナミさんに1歩近付くことが出来ます……!」
こぶしをぐっと握り、とても嬉しそうな美紅。ちなみにマナミとはドラマ『あぶれる刑事』に登場する女刑事のことだ。
「いや、あれに近付いちゃダメなんじゃないかなぁ……っと」
なお、そのマナミ。ドラマ中では、アンチ公務員な行動を頻繁に繰り返していた。ええ、よい子は真似しちゃいけませんとも。
だがそんなシュラインのつぶやきも、自分の世界に入ってしまった美紅の耳には届かない。
「いつかマナミさんと一緒に捜査出来るよう、私頑張ります!」
「……それは無理よぉ……」
シュラインは遠くを見つめ、深く溜息を吐いた。
●数学と心霊現象の関係
「集合……部分集合と言った方がいいかしら」
麗香はシュラインの顔をじっと見つめ言った。月刊アトラス編集部でのことだ。
美紅と別れたシュラインは、その足でアトラス編集部を訪れていた。麗香に何かしら助言をもらうために。
結局、ラブホテル街ではあれ以上の手がかりも入手出来ず、1人で悩んでも埒が明かないとシュラインは判断したのだった。
で、経緯やら何やらを麗香に話した所、返ってきたのが先程の言葉。それを聞いたシュラインは一瞬きょとんとした表情を見せた。
「あの。どうしてそこで数学が出てくるんですか?」
「別に今からオイラーの公式を講義しようってつもりはないわよ。ただ、その方が分かりやすいかなと思っただけ」
麗香は悪戯っぽくくすりと微笑むと、メモ帳に何やら書きながらシュラインに説明を始めた。
「いい? この現実世界を集合A、それから『誰もいない街』をAの部分集合Bと考えてみるとするでしょ。……どうしてそう置いたのかは、説明しないけど分かるわね?」
シュラインが小さく頷いた。『誰もいない街』は、阿部ヒミコの作り上げた世界だった。元々現実世界に住む阿部の手の中にあったのだから、部分集合と考えても不思議ではない。
「この場合、AからBが見えるのは当然よね。でもBからAは見えない。当たり前だわ、言うなればAはBの外側にあるようなものなんだから。簡単に言えばそういうことでしょうね、あなたから聞いた話と私の経験から導くと」
「んー、なるほどぉ……?」
首を傾げるシュライン。麗香の説明も、ある部分では納得出来るのだが、別のある部分では釈然としないものがある。
そんなシュラインの心中を察したのか、麗香は話を続けた。
「でも数式で全ての心霊現象が解けるはずがないでしょ。自然界の全てが数式で表せないように、心霊界もまた同じ。さっきの集合の例えだって、もしかすると全くの逆かもしれないし、間違っているのかもしれない。で、2つの集合の間には複雑怪奇な関数が横たわっている可能性もあるわよね? ほら、メモが届いたり届かなかったりしたんでしょ?」
「ええ」
またシュラインが小さく頷いた。
「……もしもその真理、森羅万象を把握する者が居たら、それはもう人間じゃないわ。神よ。平凡な人間の私が考えられるのは、今はここまで。確実に言えるのは、現実世界と『街』が決してイコールではないことと……」
「ないことと?」
「数式で表せるようなら、うちの雑誌が潰れるってことよ」
真顔で言い放つ麗香。シュラインは思わず吹き出してしまった――。
【了】
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