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絆の形
冬の風が窓を叩く。
まるで死を目前に控えた病人のような不規則な呼吸音が、室内を満たしている。
シュライン・エマと牧村優美が黙然と視線を交わした。
もう、あまり時間がない。
シンデレラリバティーが終わる頃、ベッドに横たわる青年の命の火も消える。
怪奇探偵と呼ばれる男。
ケチでズボラでヘビースモーカーで。
良いところなどほとんどない、だが、青い目の美女にとっては一〇〇万粒の宝石より大切な。
草間武彦。
「タイムリミットは二四時。ここがぎりぎりのラインよ」
優美が改めて告げる。
「判ってるわ」
淡々と、シュラインが応えた。
冬晴れの空のような瞳は、冷たく乾いていた。
泣いている場合ではない。
いまは、まだ。
「じゃ、行ってくるわね。武彦さん」
眠り続ける男の唇に自らのそれを押し当て、シュラインは踵を返す。
ロングコートの裾が翻った。
戦いの刻を待ちわびる戦旗のように。
足音が聞こえ、
「きた‥‥」
と、シュラインが呟いた。
距離はまだ遠い。
鞘を握りしめる手に力がこもる。
深夜の博物館。
優美が予測したとおり、魔剣は現れたようだ。
封印のための唯一の手段である鞘を破壊するために。
「でも、警備員さんの身体を乗っ取ったのが失敗だったわね‥‥」
幾度も内心で反芻した言葉。
彼女にとって、ただ一つの勝機。
霊能力を持たず、戦闘力も低いシュラインは、魔剣と正面から戦うことなどできない。
だが、相手が警備員なら。
生身の人間なら。
「私の耳から逃げることはできないから」
彼女の力は、その聴力だ。
五〇〇メートル先で針の落ちる音すら聞き逃さない超聴覚である。
館内の見取り図はすでに頭に入っている。
相手がどこにいようとも、必ずトレースしてみせる。
今回に限り、逃げるという選択肢は選べないのだ。
ポーカーのチップは怪奇探偵なのだから。
「気を引き締めていきましょ。絶対に失敗できないのよ」
自分を鼓舞する。
たとえ分の悪い勝負でも、切り札がなくとも、戦わなくてはいけないときがある。
それが今だ。
こんな陳腐な発想を、普段の興信所事務員なら絶対にしない。
やはり失調しているのだ。
どんな人間でも、自分の大切な人の命がかかれば冷静ではいられない。
そういうことなのだろう。
とはいえ、まだシュラインは冷静さを失っていなかった。
やるべきことは、すべておこなったのだ。
魔剣が現れるより早く鞘を手に入れ、館内の各所に罠を作り、獲物を狙うハンターのように待ちかまえる。
もちろん、少しでも勝算を高めるためだ。
わずか数パーセントかもしれないが。
「他でもないわ。命に関わるパーセンテージだからね」
偽悪的な笑みが口元を彩る。
誰の命なのかは、考えないことにしたらしい。
こういう意地っ張りなところは、どこまでいってもシュラインはシュラインだ、ということなのだろう。
「そろそろね‥‥」
呟きと、柱時計が打ち鳴らす低い音が重なった。
二三時三〇分。
死闘の幕が上がる。
「たとえ弾を二発持っていたとしても、二発目は忘れろ」
脳裏に草間の声がこだまする。
いつだったろう。
そんな会話を交わしたのは。
たしか拳銃の扱いを習っていたときだ。
どうして一介の探偵が銃を扱えるのか、未だに謎なのだが。
ともかくも、謎の怪奇探偵は言っていた。
一発目ははずれて良いなどと考えてはいけない、と。
つまり、こちらが仕掛けた以上、相手にも自分の位置が知られるということなのだ。
だからこそ、速く撃つより正確に撃たなくてはいけない。
これは、どのような戦闘にも敷衍できることである。
「こっちよ!」
嘲弄するようにシュラインが手を拍つ。
むろん相手は警備員の姿を仮借した魔剣士だ。
いきり立って攻撃してくれれば、しめたものである。
これ見よがしに鞘を振る。
瞬間。
凄まじい剣圧がシュラインを襲う。
「く!!」
床を転がって距離を開ける。
剣だから接近戦しかできないと思うのは、どうやら早計なようだ。
のっそりとした動きで近づいてくる警備員。
一挙動で身を起こしたシュラインが、ふたたび大きく飛びさがった。
そして、短く鋭いモーションで左手を振る。
その手にテグスが握られていることに、警備員は気がついただろうか。
見事なまでの騒音を撒き散らしつつ、壁面に飾ってあった甲冑たちか警備員に降りかかる。
罠その一だ。
もちろんこの程度でどうこうなるような甘い相手でないことは充分に承知している。
何事もなかったかのように起きあがる魔剣士。
その目に映ったのは、脱兎のごとく逃げ出す繊弱そうな女の背中だった。
強烈な叫びをあげながら追尾を開始する。
展示室を抜け、階段を駆け上がり。
「ご苦労さま」
階段の頂上からかかる冷然たる声。
視界を覆う白い奔流。
これも、シュラインの罠の一つである。
「説明するのもばかばかしいけど、ただの消化器よ」
ノズルを持ったまま、シュラインが告げる。
走って息が上がったところに消化剤を吹き付けられれば、大量に飲み込まざるを得ない。
そこまで計算して引きずり回したのだ。
苦しげに咳き込む警備員。
当然であろう。
だが、シュラインは安心して近づいたりはしなかった。
この警備員は、所詮、器にすぎない。
中身は魔剣なのだ。
完全に動きを止めるまで、安心できるものではなかろう。
そして案の定、魔剣士はゆっくりと体を起こす。
「きゃ〜〜」
なんだか乙女のような悲鳴をあげて逃げ出す青い目の美女。
これでは、自分の場所を教えてやっているようなものだ。
正確に追尾する魔剣士。
その後、いくつかの罠が発動し、そのたびに警備員は引っかかった。
しかし、ほとんど効果らしい効果をみせず、シュラインは追いつめられてゆく。
「はぁはぁ‥‥もう‥‥降参よぅ‥‥」
荒い息を吐きながら、シュラインが言った。
広くもない陳列室の一角。
ついに、こんなところまで追い込まれたのだ。
両手をあげてみせる。
むろん、魔剣士は一顧だにしなかった。
降伏宣言など、受け入れるつもりもないのであろう。
長剣を水平に構え、強烈な突きをたたき込む。
シュラインは目を閉じ、自らに降りかかる死の瞬間を‥‥
「残念。私の勝ちね」
待っていなかった。
魔剣士の剣は分厚い杉板を貫き、打ち砕き、シュラインの胸の前三センチメートルのところで止まっていた。
鞘に収まって。
果たして封印された魔剣は気がついただろうか。
シュラインが仕掛けた真の罠に。
「索敵を視覚に頼らなかったのが、失敗だったわね」
冷然と言い放つ。
階段で用いた消化器。
あれがそもそもの始まりだったのだ。
消化剤で化粧された警備員が立ち上がったとき、彼女は計画のほとんどを変更した。
すなわち、追いつめさせるのだ。
相手にとって有利な状況を作り出すことによって、より確実に罠に落とす。
だからこそ、わざわざ悲鳴をあげて逃げ回って見せたのである。
むろん、自分の位置を教えるためだ。
声を頼りに追えるのであれば、魔剣は警備員の目に入った消化剤を洗い流さない。
それが布石だ。
そして、この狭い展示室に逃げ込む。
剣を振り回すスペースのない展示室に、である。
理由は、もちろん刺突攻撃を選択させるため。
無駄のない理にかなった動きから、魔剣士は超一流の使い手だとシュラインは読んだ。
であれば、攻撃においては最も効率の方法を取るはずだ。
魔剣士は突いてくる。
だから、マホガニー杉の机を倒し、それを盾として利用したのだ。
もしも魔剣士の目が見えていたなら、こんなものは簡単に回避できただろう。
罠と呼ぶのも恥ずかしい細工である。
しかし、魔剣士は引っかかった。
これまでシュラインが、周到で狡猾な罠を幾度も用いてきたから。
あるいは魔剣が疑ったのは、もっとずっと高度な罠だったのかもしれない。
だが結局、その計算が彼の足元をすくったのだ。
「罠ってのはね。物理的なものばかりとは限らないの。むしろ心理に陥穽を仕掛ける方がずっと効率的なのよ」
気絶した警備員の手から魔剣をはずし、シュラインが言った。
ただし、これは彼女のオリジナルではない。
「ま、武彦さんの受け売りだけどね」
笑う。
やっと、笑うことができる。
二三時四五分。
なんとか間に合ったようだ。
あとは、これを優美のもとへ持っていって‥‥。
と、そのとき、携帯電話が鳴る。
画面を確認し、白い指先が通話ボタンを押す。
「あ、優美さん。こっちはなんとか上手くいったわ」
『そう‥‥』
「どうしたの?」
『さっき、草間くんの容態が急に悪くなって‥‥』
「なにいってんのよ。まだ一二時にはなってないじゃない」
『そうなんだけど‥‥』
「悪い冗談はやめてよ」
シュラインの声は冷静だった。
声だけは。
膝はがくがくと震え、立っていることすらおぼつかない。
本当は叫びたかった。
嘘だと決めつけて怒鳴りたかった。
でも、
「とにかく、すぐにそっち戻るから」
激しすぎる感情は、かえってその直線的な発露をさせないものかもしれない。
「すぐ行くからね‥‥武彦さん‥‥」
内心で呟く。
震える足を必死でしかりつける。
座り込んで泣いているわけにはいかない。
本当にもう駄目だとしても、せめて看取ってやらなくては。
それが恋人としての最後のつとめのはずだ。
赤と黒にカラーリングされた「カタナ」が、東京の街を駆ける。
耳元で風がごうごうと唸る。
上空では赤く巨大な月が輝いていた。
悪意の微笑を浮かべながら。
エピローグ
うつろに開いた黒い瞳は、何を見つめているのだろう。
「もう、私の顔も映してはくれないの?」
「もう、私の声も聴いてはくれないの?」
シュラインが語りかける。
愛しい男に。
愛しい男の抜け殻に。
どうして間に合わなかったのだろう。
あんなに必死にがんばったのに。
告げられた時間に間に合ったのに。
蒼眸から涙があふれる。
「お願い‥‥もどってきてよ‥‥」
まるで幼い子供のように。
握りしめた手に力がこもる。
「もどってきて‥‥」
紅唇が、男の唇に重なる。
ばかげた行為だ。
こんなことをしても‥‥。
「‥‥シュ‥‥ライン‥‥?」
声。
男の声。
この世で一番大切な男の、声。
「武彦さん!?」
驚きに目を見開くシュライン。
奇跡だろうか。
草間の瞳に光が戻っていた。
「‥‥夢を‥‥見たよ‥‥シュライン」
「‥‥どんな夢?」
聖母のように優しい言葉を、シュラインの唇が紡ぐ。
「いろんな夢だ。不思議だな‥‥いつも横にはお前がいたよ。そして怒ってるんだ。いつもいつも‥‥」
「ばか‥‥」
ふたたび涙があふれだす。
眠っていた海竜が目覚めるように。
「ああ‥‥泣かないでくれ。ずっと側にいるから‥‥俺の大切なシュライン‥‥」
重なる唇。
重なり合う運命の歯車。
見守っていた優美が、無言のまま部屋を出た。
恋人たちの時間を邪魔しないために。
終わり
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