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明日に架ける橋
「好き嫌いはいけません」
朝食の席で、主人の珍しくきつい一言、それが今回の小さな旅の始まりだった。
早朝、駅前道りをとぼとぼと歩く一人の若者が居た。通りすがる人の目を惹く鮮やかな金の髪と鋲革ジャンにスリムパンツ、タグの付いたダークレッドのチョーカー。秋の深まってきたこの季節、外を出歩くには少し寒そうな格好である。
「酷いやひどいや。俺歯磨きキライって知ってるくせに」
彼の名前は橘神剣豪。歯磨き嫌いの25歳男性。奇しくも今朝、硬く閉じた口を無理矢理開かされて歯ブラシを突っ込まれたばかりである。
無論3歳以上のマトモな生活をしている人間なら、そんな酷い目に合うなんて事はあり得ない。なのになぜ…。それは、彼が『サラミ味のしないデンタルガム』を拒んだせいなのである。
彼はサラミ味が好きだった。焼き豚味より好きだった。何の味もしないただ噛むだけの歯磨きガムに比べたら天と地ほどの差があると思っていた。
だからこそ、誰よりも信頼するご主人の前で「いつものサラミ味がいい!」と叫んで仰向けになり、手足をばたばたさせて我が侭を言ったのだ。
そうしたら、上記のように無理矢理人間用歯ブラシで磨かれたのである。
「ひーん…。辛かったよ……」
口の中に残るぴりぴりした感触に涙を浮かべつつ、彼は『ゴーストネットOFF』と書かれた戸を開けた。パーテーションで分けられた明るい店内に、いらっしゃいませ、という声が響く。
ここは、彼と彼の主人が良く訪れる場所の一つだ。
「あっ、剣豪くん」
店に入るとほぼ同時に、彼は名前を呼ばれて振り返った。リボンを結んだ女の子が立っている。
「雫〜…」
こんな早い時間に遊びに来るなんて珍しいね、と言った彼女の視線は、いつもなら彼の背後にいるはずの女性を探し、橘神はその仕種に鋭く気付いて、うっ…と、眉と肩を落とした。「俺…鞠たんに叱られた。…家出する〜」
大の男が店の入り口で泣き出さんばかり、だなんてとんでもない。橘神は腕を引っ張られ、店の奥のテーブルに着かされた。そして、家出だなんて一体何があったの? と優しく問われて、ぽつぽつと事情を説明しはじめた。
「……へえ。そんなことがあったんだ〜」
叱られて拗ねるというより、悲しくなってきた橘神にとって今朝の出来事は語るも涙であるが、全てを聞いた雫の口元は歪んで、笑い出す寸前だ。
だが落ち込んでいる橘神はそんな事とは気付かずに、出してもらったホットミルクのカップを掌に包んだまま、潤んだ黒い瞳で雫の顔を見上げた。
「雫、俺どうしたらいい?」
「そうだね…じゃあ…。こういうのはどうかな」
雫は橘神の隣に腰掛けると、デスクトップのマウスを握り慣れた手つきである画面を呼び出した。「剣豪君、実はとってもいい時に来たのかもしれないよ。これ読んでみて」
橘神は目に浮かんだ涙を軽く拭い、画面を食い入るように見つめた。そこには、願いの叶う虹というタイトルの短い書き込みがあった。書き込んだ人物によれば、長い時間待っても毎日通っても、残念ながら見られなかった、とあったが……。
「……願い?」
剣豪はたどたどしく声に出しつつ全て読み終えると、ちょっとだけ考え込み、言った。「ん、行く! 雫、ここ…那須岳ってどこにあんの? 虹が出る滝って?」
「ちょっと待ってて」
多分そう答えるだろうと予測していた雫は微笑んで、書き込みからリンクの張られていた地図をプリントアウトした。「はい、これを持って行くといいよ。虹が見られるといいよね。もし願いが叶ったら教えてね☆」
地図には那須岳の登山ルートと滝の場所がマークされている。剣豪はワクワクとした表情で雫からそれを受け取ると、礼を言って店を飛び出した。
***
東京から4時間。橘神は新幹線とバスを乗り継いで栃木県唯一の活火山である那須岳の麓へと辿り着いた。
道中人を捕まえて聞いた話では、彼の持つ地図の場所へ行くならば、麓から徒歩で歩いた方が近いとの事。明らかに登山には適さない格好の彼を奇異の目で見る者も少なくなかったが、橘神は気にせず、願いの叶う虹をじっくりと待つための食料もコンビニでしっかりと買いこんで、準備は万端! と意気込む。
「どうか虹が見られますように」
拝むなら山の神様であろうが橘神は登山口に鎮座した狛犬の前に立ち、ぽんぽん、と拍手を打ち、三山を見上げて暢気な声を上げた。「アイスサンデーみたいな形〜」
ぽこぽこと重なった峰がアイスの連なりに、山頂に向うロープウェーの陰がスティックビスケットに、見事に紅葉した鮮やかな木々の色はチョコスプレーに……舌なめずりする彼の目にはそう映ったのであろう。
橘神は地図を見て虹が見られるという滝の場所を確認した。地図の見方は、ご主人様に以前教えてもらったから自信がある。まずはこの峠の茶屋を目指し、そこから山道を渓流沿いに下っていけば崖に出る。その先に滝があるはずだ。
彼は自信を持って鳥居の奥に細く続いている登山道へと足を踏み入れた。
山の空気は心地よい。生まれてこの方町育ちの橘神は、大きく腕を広げて空を見上げ肺一杯に息を吸い込んだ。涼やかな風が木々を渡り、秋の良い香りを含んで敏感な橘神の鼻をくすぐり、少し尖った耳と金の髪をなぶる。
すると心臓は知らずにドキドキと跳ねて、辺り一帯を思い切り駆け回り、色んな所に身体を擦り付けて転げまわり、じたばたしたい気持ちになる。後できっとご主人様と一緒に来よう、と心に決め彼は辺りを見回した。
「随分登って来たんだけどなぁ」
先程まで時々すれ違っていた登山客の姿も無い。もう午後2時を回って、殆どの人間が下山してしまったのだろうか…そんな事を思いながらも歩みを止めず進んでいくと、木立の道は徐々に急さを増し、足元の瓦礫が目立つようになってきた。そしてしばらく。
橘神は歩いた末に瓦礫ばかりの峰に出た。
── 誰も居ない。風の他に音もしない。
強風が身体に吹き付けてきて、橘神は腕で顔を覆い目を細めた。白い峰にぽつんと一人だけ残され、峰の頼りなさに身を竦める。
町にこんな場所は無い。東京はビルの隙間に人が住み、人の隙間に犬達が暮らす。
我知らず不安な顔つきになった橘神の鼻に何か異様な香りが漂ってきた。鼻の奥を痺れさせ頭をくらくらとさせるようなきつい匂いだ。
「な…なんだ……?」
その匂いと共に突然眼下から湧き上ってきた白い煙。橘神の本能が、身を低く伏せさせる。
頭の中で虫が一杯飛んでいるような感覚。
「わぁああ!」
かきむしる金色のラフな髪の合い間から、何かがにょきりと現われた。獣の耳だ。こんな場合でなかったら、つい触れたくなるような丈の短い犬の耳。頭を抱える手の爪は伸び、叫ぶ唇の隙間から、牙が覗いた。
そう…彼の本性は一匹の犬。かつて人に殺され、だが誰よりも愛する主人の為にこの世に戻ってきた守護獣と呼ばれる存在である。
この世にはごく稀に彼のようなものが現われる。自分以外の『誰か』の為に純粋な望みを抱き、自らの転生を断ち切ってこの世に蘇り、時として人の姿、時として本来の獣、また『誰か』に危険が及んだ時には、半人半獣の形をとって、戦う事が出来る。
「わぁああ! 鞠たん! 鞠たん!」
主人の名前を叫びながら、混乱と自己防衛の為に半獣化した橘神は闇雲に駆け出した。
***
ぽつん…ぽつん…
頬に冷たさを感じて薄らと目を開けると、直ぐ手が届きそうな場所に鮮やかな紅葉の葉が一枚、露に濡れて光っていた。
── 綺麗だなぁ。そうだ、持って帰って鞠たんに見せてあげよう。
朦朧と身体を起こし、手を伸ばそうとした橘神は、伸ばした手が前足に変わっていることに気付き、自分が元の姿に戻っている事を知った。
上から滴り落ちてくる水に毛皮が濡れている。お風呂は好きだが水気はあんまり好きじゃない。橘神はオレンジ色の毛並みを震わせて、水気を弾いた。
── ここ、どこだろ……。
耳を打つ大きすぎる川の音に耳を塞ぎながら、橘神は外へ身を乗り出した。
どうやら渓谷の崖の腹に出来た窪みのようである。さほど低く無い場所には谷川が流れ、水の溜りがあった。鏡のような水面に映った自分の姿は、やっぱり小さなポメラニアンになっていた。
足元に、持っていたヒップバックが落ちており、雫に貰った地図がはみ出している。人間に戻るのが面倒で、橘神は前足と口で紙の端を引っ張って広げた。
「…あっ」
小さな叫び。そうなのだ。彼は『峰』の茶屋と『峠』の茶屋を間違えていたのである。目的だった『峠』の茶屋はあの登山口のすぐ傍で、得体の知れない雲に巻かれたのが『峰』の茶屋付近。
つまり彼は昇らなくてもいい山を半分以上登ってしまったのだった。
彼に滝の場所を教えた人々が、強く止めなかったのも無理は無い。彼のような軽装でもその辺までなら十分と判断されていたのである。
「戻らなきゃ…」
沢山登って来たから、沢山降りなくちゃならない。
ポメラニアンの小さな脳裏に主人の顔が浮かんだ。
ずっと閉じ込められて、お日様が見れなかったご主人様。最近は友達が出来始めて、嬉しそう。
でも、時々なぜか寂しそうなご主人様。
俺、ご主人様を護りたくて戻ってきたけど、あんまり約に立ててないし、今朝みたいにもっと迷惑掛けちゃったりしてるから…せめて、ご主人様がもっと沢山、毎日一杯笑って過ごせるように、あの人が本当に幸せになれるように、虹にお願いしたいと思ってた。
でも…。と剣豪は谷間を見渡した。どれくらい気を失っていたのかは分らないが、もう日が翳って来ている。虹が見えるのは日があるうちだけなのに、きっと…間に合わない。
そう思ったら黒くつぶらな瞳に涙が浮かんできた。
だが、その時だった。
西に開いた谷の向こうから、まぶしい光が差し込んできたのは。
「え……?」
橘神は目を細めて谷を見渡した。光、光、光の洪水。そして……。「…っ願いの叶う虹だ!!」
橘神は叫んで崖の窪みを飛び出した。オレンジ色の体が虹に包まれる。細かな水の粒子が毛皮の先っぽにどんどん落ちてくる。
彼の居た窪みは、そう、願いの叶う虹の直ぐ傍であった。
大きな川の音と思って居たのは、滝の音。しかし滝をテレビでしか見た事の無かった橘神は気付かなかったのだ。滝の水は滝つぼに落ちると同時に谷全体に飛沫を投げ、この時間、この場所、この日だけ、まっすぐに日の光が谷へと差し込んでくる。
「お願い! 鞠たんを幸せにして下さい! 鞠たんに一杯笑顔を下さい! 大好きな鞠たんに……」
オレンジ色のポメラニアンは飛び石を越え、ちぎれんばかりに尻尾を振りつつ虹の根元を駆け回った。
そして……5分もしないうちに日は谷の向こうへ落ち、虹は幻のように姿を消した。
橘神は鼻先を空に向け、濡れた空気を嗅いだ。
虹への願いは受け付けてもらえたのだろうか。彼女の幸せはこれで約束されたのであろうか。
「……帰ろ」
もう項垂れたりせず、橘神は胸を張って窪みに戻ると人型に戻ってヒップバックを身につけ、先程の紅葉をそっと一枚摘み取った。
『ご主人様を幸せに』
『ご主人様を護りたい』
そんな望みが叶った後、彼ら守護獣たちがどうなるのかは分らない。
また、彼らは知らない。
幾ら蘇りの想い強くても、それだけでは守護中にはなれないという事を。それには、逆に彼らを強く想ってくれる『誰か』が必要なのだという事を。
「鞠たん、待っててね。一杯お土産持って帰るからね」
今朝叱られた事などすっかり忘れ、家に戻った橘神が。
主人に内緒で遠出した事を、更にこっぴどく叱られたのは、また別のお話なのである。
<END>
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