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<PCシナリオノベル(シングル)>


鬼社

 貧乏暇なし、とは一体誰が行った言葉だろうか?
 積み上げられた領収書の束をみて、シュライン・エマは湖水のように深く住んだ青い瞳を瞬かせた。
 見慣れた光景とはいえ、改めて考えるとこの草間興信所の状態は燦々たるものだった。
 所長である草間武彦が事務能力に欠ける(皆無、といったほうが適切かもしれない)為、後からあとからなだれ込んでくる報告書作成や、調査員達の旅費精算をやっつけるのが手一杯で、整理するまで手がまわらない。
 この夏の終わりから、草間の妹ということで事務所の手伝いに現れた少女――零は大いなる援軍であり、一時、書類の山は事務所から撤退し、あるべき戸棚やシュレッダーに放り込まれるかに見えた。
 が。
 事務処理がはかどるのを見た草間が、以前より多く仕事を受けるようになった為、すべては水泡に帰していた。
 そんなわけで、シュラインは再び出勤早々からため息をつく日々へと逆戻りしていたのだ。
(どうやったら、こんなに処理すべき書類をふやせるのかしら?)
 答は簡単だ。
 怪奇な事件を引き受けなければ良い。
 一般の人々は知ることもなく終わる、闇に、影に起こる戦いに手をださなければいいのだ。
 違う、そうではない。
(穏便に動くように調査員達に徹底させるべきだわ。やっぱり)
 腕をくみ、零の入れてくれた湯飲みを握りしめる。
 アスファルト、ブロック塀、ビルの硝子、レストランのテーブル、家屋。
 多少の損害は仕方ないとはいえ、常日頃特異能力を隠している鬱積からか、これでもか、というまでに調査員達は現場を破壊してくれる。ある程度はいくつかある警察のコネで「ガス爆発による火災」や「冷却器故障による凍結」などもっともらしい理由をこじつけて、世間の目から隠してくれるが、さすが公共機関というべきか、壊した分は、きっちりと費用からさっ引いてくれる。
 だから、草間興信所はいつまでたっても儲からないのだ。
 とはいえ、調査員達が「穏便」にすませるなど、天と地がひっくり返っても不可能である。
 絶望的な答えをはじき出しながら、お茶をすする。
 確かに絶望的ではある、はっきり言って割の良い仕事などいくらでもある。
 いくらでもあるのだ。
 預金の残高と、入ってくる予定のバイト料金をシュラインが頭の中で計算しかけたその時、勢いよく扉がひらかれた。
 開かれたというより、うち破ったとでも言わんばかりの勢いである。
 あけた主は、よほど急いで階段を駆け上がってきたのだろう。
 言葉が出せないほど息は切れ切れであり、心臓の鼓動そのままに、幼い身体の小さな肩が呼吸ごとに上下する。
 今時の子供らしく、栗色に染められた髪は無造作ヘアというには、あまりにも乱れすぎで、顔には涙の痕がみえる。
 手にはむき出しの紙幣が何枚か。
「どうしたの?」
 立ち上がって、シュラインが聞く。と、少年は安心したのか、ぼろぼろと涙をこぼしだした。
 声をあげなかったのは、かろうじて羞恥心があったからなのか。
 小さな涙をいくつか落とし、少年は去勢をはるようにあごをあげ、左手で乱暴に涙をぬぐうと、まっすぐに(これまた行儀の悪いことに机の上に足をのせて、タバコをすっていた)所長――草間武彦の机に紙幣をたたきつけた。
「これ!」
 くしゃくしゃの紙幣を机にたたきつけ、押しつけるように小さな手をおいたまま、少年は挑発的に草間を見た。
「おっさん、これ」
「……おっさん」
 ちん入者がいきなり現れて、しかも取るに足らない現金をたたきつけられ、おっさん呼ばわりである。
 朝早く、誰も訪問者がいなかったから幸いだったものの、調査員がみていたら、間違いなく大笑いされている構図だろう。
「俺はおっさんなのか」
「十分おっさんでしょ? 紳士は机の上に足を載せてタバコを吸ったりしないわ」
 怒りともくやしさともつかない表情の少年を見て、シュラインは肩をすくめた。
「俺がおっさんならシュラインはおば……」
 おっさん、の反対語を口にしようとした草間は、蒼い瞳ににらまれて、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
「さて、と、ともかく話を聞こうか? 理由のない金は受け取れないからな」

 零に応接ソファーへと導かれると、少年はどもりながら「依頼」を話し始めた。
 よくある――あくまで架空の世界限定だが――話だ。
 少年が通う小学校で以前より立ち入りを禁止されていた神社があった。
 しかし反抗しざかりの子供だ。大人には内緒でこっそり入り込み境内で遊んでいる子供も少なくない。
 鬱蒼とした竹に包まれた神社は、すっかり子供達の秘密の遊び場になっていた。
 携帯電話の電波も届かない為、うるさい親の呼び出しも気にせず塾をさぼれるのだか、願ってもない「秘密の場所」だ。
 そういう隠れ家として使っていれば何も問題はなかった。
 ただ、ある時、誰かが言いだしたのだ。
 鳥居の奥にある大木に登れる奴がいるだろうか? と。
 秘密の神社の神木に。
 今まで何年も誰も上ったことがないという。
 近づく子供でさえ希だ。
 大概が、途中で息苦しくなったり、気持ち悪くなったりして逃げ出すという。
 だが、少年は違った。
 気がついた時から一緒にいる、隣の家の子――ヨウヘイと少年は行った――は、二人で挑戦したのだ。
 一人では無理だが、二人なら出来ると。
 また、ライバルでもある片割れに負けたくないという、幼いながらの虚栄心も手伝ったのだろう。
 二人は竹林の奥の神木にたどり着き、そして、幹に……いや、かけてあった注連縄に手をかけ、上ろうとした瞬間。
 注連縄が、切れた。
 有り得ない事だった。
 年に一度交換される、この神社で唯一あたらしい注連縄が切れたのだ。
 そして、木から鬼が現れた。
 異形の二本の角を持つ、美しい女の鬼が現れたという……。
「それで、ヨウヘイが捕まって――木の中に閉じこめられたんだ」
 喉を何度も詰まらせながら、少年がいう。
「嘘じゃない、本当だよ!」
 テーブルに置かれたしわだらけの三千円を押さえつけながら言う。
 と、草間は肩をすくめた。
 それぐらい、わかっているさ。と言いたげに。
 なまけもので、手を抜きたがりで、金に意地汚くても、腐っても探偵だ。
 経験上、相手が嘘を言っているか本当かぐらい、見抜くことはできる。こと、こういう事件に関しては、だ。
「簡単に切れる代物ではないとおもうんだがな」
 メモをとっていたボールペンで二度、机を叩く。
「報酬はごらんの通りだが。……そうか。行ってくれるか」
 首を傾げてニヤリと笑いながら、草間はシュラインを見る。
 呆れで口がしまらない。
「誰もまだ行くとは行ってないわ」
「では行かないのか。困ったな、今日来る予定の調査員は……」
 ぶつぶつと、草間が何人かの顔なじみの名前を口にする。
 人は悪くないが――困ったことに草間興信所で有数の「壊し屋」であるメンバーの名前だ。
 シュラインは一度だけ身体をふるわせて、頭を振った。
「行かないとも行ってないわ。いいわ、私が行くわ」
 これ以上書類仕事が増えるのはごめんだ。
 まだしも自分がやった方がいい。
「でも、捕らわれて……それだけなの? 乱暴もせずに要求がないのは妙ね」
 普通ならば、血肉を――あるいは、より自分の力を高める「何か」を要求するものである。
 腕を組んで頭をひねる。
 いまいち鬼の真意がみえない。
「ともかく、注連縄をかけてしまえば鬼は手出しできなくなる筈」
 まあ、それがひと苦労なんだけど。と付け加えて苦笑すると、机の上にのせていたハンドバッグを取る。
 出勤したてで、中身を出してないのは幸いだ。これならすぐに出かけられる。
 シュラインは、小さな依頼人の肩に手をのせて元気づけるようにわらった。
「さて、依頼人さん、助け出す子のと一緒に名前教えて。大丈夫、何とかするから」
 少し強引に少年の手を引っ張り、外に連れ出す。
 泣いてばかりなどいられない、と教えるように。

 その鬼は優しい鬼でした。他の鬼とは違う気持ちをもっていました。
『私は鬼に生まれてきたが、鬼どものためになるなら、できるだけ良い子とばかりをしていたい。いや、いっそできる事なら、人間達ともつきあって、仲良く暮らしたい』
 そうおもって、ある日赤鬼は自分の戸口の前に小さな木の看板を一つたてました。
 
 心の優しい鬼の家です。
 どなたもおいでください。
 おいしいお菓子がございます。
 お茶もわかしてございます。

 けれど、待てども待てども誰もきません。
 疑いぶかい村人達は、上手いことをいってぺろりと食べられてしまう。そう想ったのです。
 そうして数日後、気落ちしてる赤鬼のところへ、仲の良い青鬼が訪ねてきました――。

「ん――鬼子母神とかその系統の鬼なのかしら。簡単に切れそうにない物が切れたのは、取り替え時期が近いのか鬼がいつも機会をうかがっているのか」
 さわさわとなる竹の音に合わせるようにつぶやく。
 冬だというのに、辺り一面緑である。
 粗末とはいえ一応手入れされていた境内とは違い、下生えの草が生い茂り、コートに枯れた木の葉のくずがぱらぱらと付く。
 あまり誰も神木には近づかなかった、という言葉を証明するかのように、足下はでこぼこで、降り積もった竹の枯れ葉はやわらかく滑りやすく、どうかすると足下を取られそうになる。
「一筋縄でいきそうにない相手だろうけれど、怒りきれない印象を受けちゃうのよね……」
 誰もいないのにつぶやいてしまうのは、不安だからなのだろうか。
 それとも、無意識に語りかけたいという、奥底の気持ちにだろうか……。
(語りかける? 誰に?)
 ふと思い浮かんだ自分の言葉に苦笑する。
 鬼に何を語りかけようというのだ。
 わからない。
 でも不思議と怒りはわかない。
「自分の子の変わりに子供を捕らえているとか?」
 話し合えるなら、そう進めたいのだけど。
 立ち止まって目を閉じる。
 ここへ来る途中に、この社の由来について、商店の人に話を聞いてみた。
 だが、誰も知らないのだ。
 否。
 すべてが曖昧なのだ。
 人を食らう鬼を封じ込めた、とクリーニング店の老人は苦笑しながら教えてくれた。
 しかし、そこから数件はなれた八百屋の隠居である老女は、子供を奪われた鬼が、悲しみのあまり木に姿を変えたのだ、ともいう。
 相反する情報が多すぎて、すべてが一致しない。
 ハンドバッグにそっと手を置く。
 そこには小さな和風の人形がいれてあった。
 縮緬細工の、小さな昔ながらの人形だ。
 何の役に立つのか、と言われるとわからない。としか答えようがない。
 しかし、もし「何か大事な人を奪われた」故に鬼となったというのならば、失った――たとえば子供の変わりになるのかもしれない、慰めになるのかもしれない、と持ち込んだのだ。
「止まっていてもしょうがないわね、ともかく現場をみてみないことに、きゃっ」
 足を踏み出した瞬間、無様に地面に転がる。
 なにか不安定なモノを踏んでしまったようだ。
 髪についた枯れ葉を払い、四つん這いのまま手探りでモノをさがす。
 空き缶か……いや、それよりはずっと柔らかくて円形の……。
「手まり?」
 自分を転ばせた犯人を、茂みのなかから探り出してみて、シュラインは素っ頓狂な声をあげた。
 色あせているものの、幾重にも絹糸を巻き付け、球体につくりあげた――昔ながらの手まりである。
「どうして、こんなものがここに」
 つぶやいた、刹那。
 子供の笑い声が聞こえた。
 はっ、と顔をあげると、茂みの向こうに、粗末な紺色をした木綿の着物を着た、おかっぱ頭の幼女がわらっていた。
 まるで座敷童子のようだわ、とシュラインは想った。興信所にも何人か座敷童子の調査員(?)はいるが。
 目の前に立つ子供は、それとそっくりだった。
 ただ一つ座敷童子と違うのは、天衣無縫であっけらかんとした笑顔を持つ彼女達とちがって、目の前の子供は、笑っていながらも、どこか寂しげで――そして外見のわりには大人びた疲れを瞳にみせていた。
「これ、あなたの?」
 本能的に、これは「異界」の存在だ、とさとりながら、それでもシュラインはおびえることも――まして、敵と見なす事もできなかった。
 ――これは無害だ。
 いや、違う。
(まるで、長い間、見つけて貰うのを待っていたようだわ)
 何のため? どうして?
 様々な疑問が頭をよぎる。
 幼女は首を傾げると、神木の方を指さすと、シュラインの感情をまるで無視して背中をむけて、歩き始めた。
(嘘)
 つぶやこうとした言葉が、喉の奥で止まった。
 幼女が、一足ごとに姿を変える。
 幼女から少女へ――そして、大人といっても差し支えのない年齢へ……。
 一足ごとに成長していくのだ。
 そして、神木の前に付いた時は、美しい一人の女になっていた。
(タスケテアゲテ)
 少女の唇が動く。
 声はない、しかし、人より優れた声帯模写の能力を持つシュラインは、やすやすと、彼女が伝えたがっている言葉を、間違うことなく読みとった。
(一人デハナイト、気ヅカセテアゲテ)
 ほほえみ、もう一度首を傾げる。
「まって!」
 叫んだ瞬間、幻影のように女の姿が消えた。
 ――どういう事?
 一人ではない?
 繰り返し、彼女の言葉を反復する。
 と、唐突に突風が吹き荒れ、あたりの木々を、そして神木を揺るがした。
 木々のざわめきは、やがて高まり。
 歌うような、声が聞こえた。

 青鬼はこういいました。
『なんだ、簡単な事じゃないか。僕が人間の村に僕が行く。うんとこ暴れたあとに、君がひょっこりあらわれて、僕をぽかぽか殴るんだ。そうして僕を退治しておくれ。そうしたら人間達は君に感謝するだろう。ねえ、きっとそうなる。そうしたら君にも新しい友達がたくさんできるんだ』
 なんと良い考えでしょう!
 赤鬼は賛成しました。しかしそれでは青鬼にあんまりにも申し訳ありません。赤鬼がそういうと、青鬼は笑いました。
『なぁんだ。水くさい事を言うなよ。僕と君じゃないか。だいいち、何か一つの望みを叶えるためには、きっとどこかで痛い想いか損をしなくっちゃぁならないんだ。誰かが犠牲に――身代わりになるのではなくちゃできないよ』
 気乗りのしない赤鬼に、青鬼はもの悲しげな目つきで笑いました。
『ねぇ、そうしよう。考えて手もそれじゃぁ駄目だよ。さあ、行こう。さっさとやろう』
 青鬼は赤鬼の手をひっぱり、村里近くへと行きました。
 そして青鬼はうんとあばれました。赤鬼は仕方なく青鬼を退治するふりをしました。
 青鬼はわんわん泣きながら(見ている赤鬼がおどろいて、だいじょうぶかい? と聞かずにはいられないほどでした)村を去っていきました。
 村人達は、その様子をみて、なんと、鬼には人を守る優しい鬼もいるのだ。と驚きました。
 翌日、一人村人が赤鬼の家を訪れました。
 さらに翌日には三人、訪れました。
 訪れる村人は、どんどん増えていきました。
 お茶もお菓子もおいしかったし、何より、赤鬼の家は居心地よくしつらえてありました。
 赤鬼は村人が苦労している仕事を手伝いました。人よりすぐれた力をもつ鬼には、造作もない仕事でした。
 橋をつくり、家をつくり、そうして村人は鬼に感謝し、とても仲良くなりました。
 子供も赤鬼を大好きになりました。
 しかし、青鬼はあの日以来、ぱったりと訪ねてこなくなったのです。

「ほうほう、ほう。良く来た、新しい尋ね人じゃ」
 歌うような乙女の声が、木々のざわめきに混じる。
 それは徐々に大きくなり、最後にはざわめきすらを圧倒して社に響く。
 神木の前で、シュラインは立ちすくんだまま、木から現れた乙女を見た。
 雪と同じ、血の気すら感じさせない白い肌。
 肌に相反して、鮮烈な血の色をした唇。
 降り注ぐ冬のとがった日光のような、銀色の髪。
 髪を分けて頭から伸びているのは、曲がった二本の角。
 古びた手まりを抱きしめながら、ふるえそうな足を心中で叱りつける。
 ――怖い。
 圧倒的な美、力もつが故に現れる気迫がそこにあった。
 一人で来たことを、後悔した。
 美しくあでやかな白い着物の裾は血に染まっており、上に向かうにつれ、曙の色へ、桜の色へとかわり、白へともどっている。
 見事な染めである。ただし、使われているのは人間の血ではあったが。
「あなたが、神木に封じ込められていた鬼なの……」
 掠れそうになる喉を片手で押さえながらシュラインが訪ねる。
 彼女が人食い鬼なのだろうか。
 であるならば、勝ち目はない。
 声や音に関して人並み外れた力を持つとはいえ、自分は一般人だ。
 手から火の玉が出るわけでも、怪力を持っているわけではない。
 手まりを抱くてがふるえる。
「いかにも。私は人食い鬼――この木に何十何年と封じられてきたが。うれしや、この子のおかげで外界に出ることができた」
 くつくつ、と喉を鳴らし、手をあげる。
 と、神木の枝がわかれる。
「洋平君!」
 目をみはって、子供の名を呼ぶ。
 葉の向こうに枝が鳥かごのように複雑に絡まり合い、その中に一人の子供が捕らわれていたからだ。
 ぐったりとしてはいたが、シュラインの鋭い、通る矢のような声に、ぴくりと首をうごかし、薄く目をひらいた。
「どうして、子供を……」
「新しい虜を呼ぶ為に……こうして捕らえておけば、あらたな尋ね人を呼ぶであろ」
 ――生き餌。
 その一言が頭に浮かんだ。
 賢いやり方だ。
 だが――何かがおかしい。
 頭の中で、鬼の言葉が引っかかった。
 そして、あの幼女から女へと成長した、幻影が。

 心配になって赤鬼が青鬼を訪ねてみると、戸口には一枚の張り紙がはってありました。
 ――赤鬼君。
 人間達とはどこまでも、仲良くまじめにつきあって、楽しく助け合って暮らしていってください。
 僕はしばらく君に会いません。
 このまま君とつきあいを続けていけば、人間は君を疑う日が来るとも限りません。
 騙されたと思い、君から離れていくかもしれません。
 それではまことにつまらない。
 そう考えて僕は、これから旅に出ることにしました。
 長い長い旅になるかもしれません。
 けれども僕はいつでも君をわすれません。
 いつか。
 どこかでまた会えるかもしれません。
 さようなら、君。身体を大事にしてください。
 ――どこまでも、君の、友達、青鬼。
 赤鬼は黙ってそれをよみました。何度も何度もよみました。手紙に手をかけ、にぎりしめ、黙って涙を流し泣きました。

 不意に、脳裏の奥がきらめいた。
 鋭い痛みとともに、鮮やかな映像が恐るべき早さでシュラインの脳裏に展開した。
 ビルなどない、闇深い森、藁葺きの屋根。
 壊れかけた水車小屋。
 それはまるで数十年昔の光景で――。
(誰かの、思念?)
 誰の? 鬼の? それとも、あの幻影の?
 わかりかねていると、目の前に一人の女が立っていた。
 銀色の髪、そして二つの角から、それが自分と対峙している鬼だと木が付いた。
『ごめんね、白蓮』
 シュラインの声ではない、シュラインの意志を伴わない言葉が鼓膜をふるわせる。
 しかし、それは確実に自分の喉から放たれた声で。
 ――誰かに、操られている?
 ぼんやりと、かすかに残る自我で考える。
 かすみそうになる目を無理矢理見開き、鬼を見る。
 鬼は、狼狽していた。
「お前――その声、その言葉――何故、何故」
 今までの威圧感が急激にうすれ、鬼は一歩後ずさった。
『ごめんね、一緒にいつまでもいられなくて』
 脳裏の風景に幼女があらわれる、さっきの幻影の少女が。
 少女の隣には、目の前の――けれど優しい笑みを浮かべている――鬼が。
 村人達に慕われ、愛され、鬼でありながら、人と仲良く暮らす異端の存在。
 それでも彼女――白蓮は幸せだった。
 人と仲良く暮らすのが夢だったのだから。
 でも、その幸せは長くない。
 幼女は少女に、少女は乙女に。
 移り変わる四季ごとに変わっていく。そして、悲しいかな、鬼の隠れ住む里は――とても貧しかった。
『遊郭に、売られる事になったの。お茶、もう飲めなくなるね』
 悲しげに乙女は笑った。
 鬼は嘆いた。
 幼い頃からいたのだ。親のいない乙女をずっと育ててきたのだ。
 そして長じては何よりも大切な親友だったのだ。
 失う事は耐えられない。
「そうだ、私は失うことが耐えられなかったのだ」
 ぶるぶると震えながら、鬼は首を振った。
『ごめんね、一人にして』
 シュラインの喉から、乙女の声が放たれる。
 それはただの言葉ではあったが、何よりも鬼を強く打ち付ける武器となり、白蓮の心を苛んでいた。
 ――何が、あったの?
 問いかけようとして、頭を振った時、鬼が泣きそうな顔で喉をかきむしりながら答えた。
「嫌だ、やっと手に入れた友達なのだ。どこにも渡したくなかったのだ。だから、だから私は」
 ――喰らったのだ。
 乙女を。
 苦しげな言葉に、顔を背ける。
 あとは考えなくてもわかる。
 人を喰らった異形の存在に、人間はどこまでも冷たい。
 今まで仲が良かった村人に追い立てられ、どこのモノともしれない術師に痛めつけられ、ようやくたどり着いたこの神社で――鬼は封じられたのだ。
「どこへも行かせたくなかった。閉じこめておきたかった。だから、そなたの血肉を余さずくらった、骨も、爪も、髪も」
 鬼が、泣いていた。
 子供のように涙を流して、泣いていた。
「なのに寂しいのだ。そなたがここに」
 言葉をつまらせ、鬼は自分の胸をたたいた。
 ここにちゃんといるのに、声が聞こえない、姿が見えない。
 何よりも誰よりも近く、自分の血と混じり合い、骨と骨が絡み合い、一緒にいるというのに。
 ――いない、のだ。
「足りないから寂しいのかと、もっと、たくさんの者と一緒になれば寂しくはないのか、お前の声が聞こえるのか」
 むせぶように鬼がいった。
 今なら、シュラインにはさっきの違和感が理解できた。
 鬼は「尋ね人」と言ったのだ。「贄」や「犠牲者」ではない。
 尋ね人――すなわち、客人と、自分を呼んだのだ。
 害するためではない。
 共に生き、幸せになりたくて人を呼んで喰らっていたのだ――それが歪み、間違った想いによるものだとしても。
「人は脆い、すぐに消えていく。私より早く年老いて、そして消えていく、村から離れていく――共に笑い会った者は――もう、ここのどこにもおらぬ。なのに何故私はいるのだ」
 鬼はシュラインに歩み寄り、肩を掴み揺さぶる。
 鋭い爪がコート越しに肩に食い込み痛かったが、それ以上に心が痛かった。
 しかし。
「でもそれは間違っているのよ」
 りんとシュラインが宣言した。
「どこにもいない? そんな筈はないわ!」
 肩に乗っていた鬼の手の力がゆるんだのを知覚するが早いか、その手をはらった。
 目の前にいるのは、もう鬼ではない。
 物事を寂しさから歪めた、聞き分けのない、小さな子供の心を持つ、哀れな存在だ。
「私には見えたもの。見えて貴方を助けてって、ちゃんと言ってくれたもの!」
 腕の中の鞠を抱きしめながら言う。
「あなたはまるで子供だわ。そばにいなければ親友じゃない、友達じゃないなんて!」
 そんなのは、違う。
 離れていても、どちらかが先にこの世界を去ってしまっても。
「どこにいても、ちゃんといるのよ。あなたの――そして私の胸に」
 鬼と人が幸せに暮らせない?
 そんな事は認めない。幸せになるために何かを失う、そんな事もあるかもしれない。
 けれど、それに耐えられるこそ、友達ではないのか?
 抱きしめていた鞠を差し出す。
「これは、あなたのね?」
 色あせた鞠を見て、鬼は目を見開いた。
 そして、おそるおそる、手を、指先を鞠に伸ばした。
「ああ、ああ、そうだとも。この鞠を付いた。鞠をこの神社の境内でついて子供らとあそんだ。里の歌や、子供らが見たことのない遠い異国の歌、私は何度も歌った。彼女と歌った」
 指先で何度か絹糸をなでて、鬼は泣きながら笑った。
 そして、決意したように手で鞠を掴むと、自分の胸にかきいだいた。
「おお、聞こえる。豊穣の歌、年越しの歌、長い雨の時に歌った歌。――聞こえなかった歌が聞こえてくる」
 しゃがみ込み、胸に抱いた鞠に頬をよせたまま鬼はつぶやく。
 と、枝がしなった。
 とらわれの少年を囲んでいた枝が、ゆっくりゆっくりとしなり、ほぐれていく。
 そして、鬼が嗚咽を止めたその時、枝はゆるやかにしなり、地面に先をのばし、滑り落ちてくる少年――洋平を優しく受け止めた後で、ゆっくりとあるべき場所へともどっていった。
 シュラインが、少年に駆け寄り、抱きしめた時。
 鬼の姿はどこにもなく。
 風に揺られた鞠が、神木に寄り添うように、ころころと転がり、根本のくぼみにおさまっていた。

「何で俺が、こんな野良仕事してるんだ?」
 タオルを額に巻いて、草間は左手に雑草、右手に鎌をもったまま、冬の空を見上げた。
「武彦さん、さぼらないで! これも地域ボランティアの一つ、依頼の後始末の一つでしょ?」
 ただでさえ、得体の知れない家業に大目をつぶってもらっているのだ。
 コレぐらいしなければ罰があたるというものだ。
 シュラインは腰に手をあてて、境内をぐるりと見渡した。
 ぼろぼろに塗料がはげ落ちた鳥居には、新しいペンキがぬられ、境内と崖の境目には、杭がうちこまれ、鎖が渡され、小さな子供が転がり落ちないようにされつつあった。
 神木へ向かう道の草は、今まさに草間や集まってくれた調査員達によって刈り取られようとしていた。
(これで、子供達がここにこられるようになれば、少しは寂しくないわね)
 刈り取った草を脇に置くと、ポケットから縮緬細工の人形をとりだし、木の根本に置いた。
 心なしか、あの幻影の乙女に似ている気がしたが。
(感傷的すぎるかしら?)
 それでも、たまにはいいだろう。
 立ち上がって、背伸びをする。
 と、社の縁側で洋平や依頼をしてきた翔、そして武彦が顔を寄せ合ってるのが目にはいった。
 また、仕事をさぼって何を――。と、想った瞬間、シュラインは鎌を振り上げてかけだした。
「こら、あんたたち! お昼のお弁当勝手に食べてるんじゃないわよ! 武彦さんまで!」
「ひぃ! 鬼がでたぁ!」
 おかかの入ったおにぎりを、卵焼きを、里芋の煮っ転がしをくわえ、仕方のない男どもが境内を逃げまどう。
 そんな様子を笑うかのように、神木が優しく冬風に枝を揺らしていた。