|
求めよ、然からば与えられん
小洒落た扉をくぐり店内に入ると、どこまでもラブリィな内装が視界に飛び込んでくる。
喫茶「星の砂時計」
いわゆる女の子むけの店だ。
ピンクを基調としたパステルカラーで彩られた調度品。採光を考えて大きく作られた窓には白いレースのカーテン。ティーカップ一つまで細心の注意で可愛らしいものが選択されている。
もしこんな店に男性が入ったら、自らの決断を悔いることになるだろう。
海よりも深く。
パンダを背負って大通りを闊歩するくらい目立つのだ。
その羞恥に耐えられる者は、そう多くはあるまい。
ただし、何事にも例外はある。
たとえば、カップルだ。
女性が一緒なら、このラブリィな空間における羞恥ダメージも二七パーセントほど軽減されるだろう。
もっとも、ダメージが一〇〇だろうが七三だろうがたいして変わらないという説もある。
しかし、恋を貫くにはそれに耐える勇気が必要なのだ。
恋とは茨の道である。
戦いである。
ただ一つの栄冠を掴むためには、幾多の試練を乗り越えなくてはならない。
‥‥それほど大層なものでもないが。
さて、店内は普段どおり混み合っている。
客層は、やはり女性が多い。
少数の男性客は、カップルの片割れだ。
阿久津吹雪とピュン・フーも、端から見ればカップルに見えないこともないような気がする。
頑張れば。
黒ずくめの青年と、紺のセーラー服をまとった女子高生。
援助交際の交渉現場だと思われても苦情は言えないようなシチュエーションであろう。
もちろん、このふたりは援助交際でもなんでもない。
法に触れるようなことはやっていないはずだ。
少なくともこの時点では。
「で、なにが訊きたいわけ?」
黒髪黒瞳の女子高生が腕を組む。
柳眉するどい顔立ち、自信に満ちた態度と口調。
異性よりもむしろ同性に好かれるようなタイプの美女である。
「ん〜 生きてる理由、とか?」
スターライトミルキィウェイなどという意味不明のネーミングをされた練乳イチゴを掻きこみながら、ピュン・フーが言った。
なぜか半疑問系である。
「それを訊いてどうするの?」
「ん〜 ただ知りたいだけっていうか。なぁ?」
同意を求められても困る。
「あたしには答える義務があるわけ?」
「や。せっかくおごってるんだし」
どうでも良いが、男女の睦言からは一五パーセクも離れたような会話である。
ちなみに、一パーセクは約三○兆八千六百億キロメートルだ。
光年に換算すると、三・二六二光年ということになろうか。
「おごるって言ってもねえ」
スターミラージュという名のあんみつを一匙ほおばり、ため息を吐く吹雪。
名前はともかく、味は絶品だ。
むろん彼女のついた息は、味覚刺激に感歎したためではない。
「生きる理由なんて、ひとそれぞれだと思うけど」
「そりゃそうだ。だが俺の訊きたいのは一般論じゃねぇ」
口の端を練乳で彩りつつ、男が微笑する。
なかなか美形な青年だけに、いっそう哀しい光景だった。
「わからないわね。あたしなんかが生きる理由を訊いたって仕方ないじゃない」
賢明にも論評を避け、吹雪が言葉を繋ぐ。
「ただの高校生よ。あたし」
「ここまできて、それはねぇぜ」
ちっちっちっと指を振るピュン・フー。
握ったままのスプーンが揺れる。
じゃらじゃらとぶらさげたシルバーアクセサリーも揺れる。
なかなかにシュールである。
肩をすくめる吹雪。
たしかに、この怪しげな男についてきた時点で、自らの能力について認めたようなものだ。
考えてみれば、危険な状況であろう。
この男から敵意や害意は感じられないが‥‥。
「いまさら訊くのも変な話だけど、あんた何者?」
少女の視線が、まっすぐに青年を射る。
韜晦を許さぬ光がこもっていた。
「んー 通りすがりのナイスガイ。ダメか?」
それでも飄々と応える男。
自分でナイスガイなどというあたり、いっそ見事である。
「ま、いいけどね」
吹雪は追求しなかった。
もちろん計算がある。
相手に名乗らせるということは、自分も名乗らなくてはいけない。
古風な考え方ではあるが、その程度の礼節は心得ている少女なのだ。
そして、どう考えても、名を教え合うほど親しい関係になるとは思えない。
であれば、あえて深く知る必要もないことであろう。
「クールな態度が、ステキだねぇ」
青年がからかった。
「たしかに、あたしは能力者よ。知っていて声をかけたんでしょ?」
「まあな」
つまり、ピュン・フーもまた能力者だということだ。
わざわざ言及するまでもない。
「たぶん、あんたが期待する答えは出せないと思うけど」
言い置いて、吹雪が話を始める。
「使命だの業だのを背負って生きている人もいるわね」
ややほろ苦い表情。
どうしても、自分の家のことを考えてしまう。
暴力団、阿久津組としての顔ではない。
もう一つの顔。
退魔と除霊を生業とする、雄(あくつ)家の顔だ。
望んだことなど一度もないが、そんな家に生まれてしまった以上、吹雪にも常に能力者としての宿命がつきまとっている。
けっして逃れられぬ鎖のように。
「アンタもそうなのかい?」
人を喰ったような笑みを浮かべる黒衣の青年。
「あたしは違う‥‥と、思う」
「へぇ」
「納得できないことなら、たとえ運命から押しつけられたってやりたくない」
子供っぽい考えだろうか。
だが、「納得できる」というのは、非常に大切なことだ。
最も卑劣に最も醜悪に感じられる手段が、最も効率的だとしても。
そんなものは、吹雪は認めたくなかった。
父親のやっていることが、すべて間違っているとは思わない。
誰かが泥を被らなくてはならないのも判る。
下水を掃除する者がいなければ、汚水管は詰まってしまう。
つまりは、そういうことなのだ。
理屈では判っている。
しかし、一部の者だけが負担を引き受けるのは、正しい姿だろうか?
危険に対するなら全員で当たるべきではなないのか?
少なくとも、それが近代国家というものではないのか?
「だから、あたしは‥‥」
「押しつけられた運命から逃げるのかぃ?」
軽く笑うピュン・フー。
少女が鼻白む。
「宿命なんてモンは存在しねぇぜ。どんな事だってソイツが考えて選択したことだ。そうは思わねぇかい? アンタ」
「あんたに‥‥何が判るのよ」
押し殺した声が、吹雪の唇を震わせた。
不意に怒りを覚えたのだ。
痛いところを突かれたから。
本当は彼女自身、よく知っている。
逃げているだけだということを。
離婚した母親のところに転がり込んでいるのだって、ただの逃げだ。
ちゃんと父親と話し合った方がよいのだ。
「判らねぇさ。だがそうやって怒るのは、ひけめを感じてるからじゃねぇのかい?」
「‥‥そうね」
簡単に認める少女。
どうもこの奇妙な男と話していると、怒りが持続できない。
まるで柳の枝が強風を受け流すようだ。
「運命とやらに従うのも選択。逆らうのも選択」
歌うように抑揚をつけて言うピュン・フー。
不思議な男だ。
先刻から失礼なことばかり言っているのに。
「変な人ね。あんた」
「よく言われるぜ」
可聴域すれすれの環境音楽が、奇妙なカップルの間をゆっくりと通り過ぎてゆく。
歩み寄ってきたウェイトレスに、男が追加注文した。
「よくもまあ、この寒いのに冷たいものばかり頼むわね」
変なところに感心してしまう吹雪だった。
「いいじゃねぇか。好きなんだから」
「ま、好みは人それぞれだけどね」
肩をすくめる。
寒い季節に、暖かい店内で、冷たいものを食べる。
文明の勝利を存分に味わえるシチュエーションではあるだろう。
体を壊しても知らないわよ、と、言おうとして少女は頭を振った。
余計なお世話な属することだ。
そもそも、心配する義理などないことである。
むろん彼女の内心など気づかず、男はスプーンを動かす。
二秒で忘れてしまうくらい長い名前を付けられたイチゴパフェだ。
思わず苦笑を浮かべる吹雪。
スプーンがガラス器に触れるカチャカチャという音が、鼓膜をくすぐる。
しばしゆったりとした時間が流れ、
「で、だ。アンタが生きる理由ってやつ。そろそろ教えてくれねぇか」
やや唐突に、男が言った。
下顎に右の手を当て、考え込む少女。
「ねぇのか?」
「うまく言葉にできないかもしれないけど、いい?」
「ああ」
「業を背負って生きる人もいる。何にも縛られずに生きる人もいる‥‥」
「‥‥‥‥」
「あたしは、あたしのために生きる」
静かに、だがきっぱりと吹雪は告げた。
「これがあたしが生きる理由」
「‥‥‥‥」
「期待はずれだったでしょ?」
「‥‥いや。上出来だぜ」
ピュン・フーが笑った。
大きな犬歯が、薄い唇から覗く。
いままでで一番好意的な笑顔だと思ったのは、ただの錯覚だろうか。
「ありがと。じゃ、あたしからも質問。あんたは何のために生きてるの?」
「俺は‥‥」
男がなにか答えようとした時、なんとも間の抜けた電子音が二人の鼓膜を刺激した。
「あ、悪り。俺だわ」
コートのポケットから携帯電話を取り出す青年。
「きのこのうた‥‥」
呆然と呟く吹雪だった。
「悪りぃ。ちょっと急用が入っちまった」
電話を切った男が謝る。
「いいわよ。出ましょうか」
肩をすくめた吹雪が席を立った。
「ああ」
伝票を持って、男がレジへと向かう。
エピローグ
寒風か、店を出た二人を包み込んだ。
「ごちそうさま」
「おかまいもしませんで」
謝辞を述べる少女と、戯ける青年。
「じゃ、あたしはこれで」
くすりと笑った吹雪が歩き出す。
「もしも」
「え?」
大きくも強くもない声に振り返る。
「もしも、生きて命を全うしたいなら、東京から逃げた方がいい」
「どういうこと?」
「死にたくなったら、そんときはもう一回、俺の前に姿を見せてくれ。ちゃんと殺してやるから」
少女の質問には答えず、奇妙な事を言う。
そして反対方向へ歩き出す男。
唖然と見送っていた少女が、
「あたしは吹雪。阿久津吹雪よ」
男の背中に言葉を投げる。
「ピュン・フー」
振り返りもせずに告げられた男の名が、風に流れた。
夕暮れの雑踏。
赤く染まった町並み。
それはまるで血戦の痕のように。
青年の姿が人混みに消える。
ごく短い間それを凝視してから、吹雪は踵を返した。
もう一度、この奇妙な青年に会うことがあるのだろうか。
答えは、彼女の掌中にはない。
東京の街に、ありふれた夜が訪れようとしていた。
終わり
|
|
|