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<東京怪談ノベル(シングル)>


その両の手に掲げしものは

 一年で一番寒い、この冬真っ只中の夜。さすがに凍てつく連日の寒波の所為か人の出も少なく、まだ深夜と言うのは幾分猶予を残すこの時間帯にあって、静かな住宅街の道には、行き交う人の姿も殆ど見られなかった。
 殆ど、と言うことは少なからずはあったと言う事だ。だが、それをただの人、の一言で済ませてしまって良かったのだろうか。コツ、コツ、とゆっくりとした足音で街燈が仄かに照らす中を歩いて来るその人物、一見は細身で華奢、黒く長い髪を背中に垂らし、光沢のある白地に緋色の牡丹を描いたチャイナドレスを身に纏った少女なのだが、良く良く見ればその異様さに誰しも叫びたくなったかも知れない。少女のチャイナ服を彩る赤い色、それは豪奢な刺繍もあったがその大半は既にどす黒く変色した、大量の流血だったのだ。こうなって見れば、少女の頬から左肩へと、流れるように何かの模様を形取るタトゥのような痣でさえ、何の変哲もない特徴に思える。チャイナ服が裂けて白い肌の露になった背中、だがその傷は布地の裂けた幅よりも随分と小さい。いや、小さくなった。彼女、霧生・夜紅良は、千年生きた鬼と人間の間に生まれ、驚異的な治癒能力を持って生まれて来た少女なのであった。

 何の力も持たず、霊や鬼と言ったものから身を護る術を持たない人々に代わって、日々、夜紅良は調伏師としてそれらの悪と戦っている。今夜もその任務の帰りだった。普通の人間であれば確実に死亡しているだろう深い傷と大量の出血、彼女の中の鬼の血は、それでも夜紅良に死を与えはしなかった。ただ、傷が治癒するまでの間に、のたうつ苦痛と悶絶する時間を与えるだけだ。早々に傷が癒え始めているとは言え、疲れ切った重い身体を引き摺るようにして歩くそのふらつく足取りで、夜紅良は静かな公園へと辿り着いた。人気の全くない園内へと足を踏み入れ、簡単には人目につかない植え込みの所でついに彼女は倒れ込む。地面に打ち付ける身体を腕で支えようともせず、重力に任せて細い身体がバウンドした。尤も、夜紅良がそこに臥したのは力尽きた訳でなく、歩き続ける事を諦めたからである
 何故。彼女は誰にとも無く問う。何故僕がこんな目に遭わなくちゃならないの。痛い、痛い、痛い!片頬を土の上に押し付けるようにして彼女は赤く濁った目をゆっくりと瞬いた。額から流れる血が眼の中に流れ込んで来ている所為もあったが、元より彼女の瞳は赤いのだ。鏡でそれを見る度に、否応なく自分の中に流れる父親の血―――鬼の血を嫌でも思い知らされる。そうしてこうして傷付き倒れ伏している時にも。形良い唇に静かに自嘲の笑みが浮かぶ。何故僕は、こうまでして戦わなければならないのか。先程、地面に倒れ込む時、自分の身体は少しも庇いもしなかったのに、左腕に抱えた日本刀【妖姫】だけは反射的に傷付けぬように庇った。そんな自分の咄嗟の行動に夜紅良は小さな笑い声を立てた。その拍子に震える身体が深い傷に触り、柳眉を顰めた。

 誰に望まれた訳でもない、誰かが感謝してくれる訳でもない。それでは何故。それ以前に、これは僕でしかならない事なのだろうか。もしかしたら、僕はこの世の中にとって、必要なのか。それとも不必要なのか。求められているのは、僕自身か、それともこの鬼の血か。僕に調伏の強い霊力があったから求められているのか、ではもしもその力が無かったら?すぐに治癒するのは己の中の鬼の血、でも痛みを感じない訳じゃないんだ、では、その感覚は己の中の人間の血…?
 …大体、調伏師はこの世の中に己一人ではない。だったら、僕が何もこんな思いをしてまで、魔を滅する必要はないんじゃないの……?

 いつしか、寒さが多少和らいだのだろうか。ぽつ、ぽつ、とアスファルトに濡れた染みが出来る。それはやがて夜半過ぎて降り出した雨だと気付いた。結構な勢いで降り出したその雨は、血と汗と埃で固まり、絡まった夜紅良の黒髪を少しずつ洗い流していく。頬や首筋、投げ出したままの腕に乱れて張り付いたその髪が、先程の戦闘の激しさを物語っている。直の地面に密着した頬や身体、それらは伝わってくる底冷えさえも心地好いと感じた。それは自分の体内に残る血の量が激減しているからだろうか。本当なら死んでいる筈だものね、他人事のように呑気に考えた。何故僕は死なないのだろう。何故僕は生き続けているのだろう。

 そこまで考えて、ふと夜紅良は笑いたくなった。さっきから僕は二者選択ばかりしているね。僕は生きているのか、死んでいるのか。必要な存在なのか、それとも不必要なのか。この力は呪われたものか、それとも恵まれた才能なのか。

 ……僕は鬼か、それとも人間か。

 公園脇の道路を、一台の車が通り過ぎていく。浅い水溜まりの出来たアスファルトを通過する、轍のざあッと言う音が何故だか妙に遠くから夜紅良の耳に届く。流れるヘッドライトの明かりが、一瞬倒れ臥したままの夜紅良の打ち拉がれた黒髪を照らしたが、結構な降りになった雨の所為か、気付かれることは無かったようだ。誰も気付かない。誰も僕を見ない。夜紅良は無性に、己にこんな能力を、自分に許可も求めずに与えた父親を憎んだ。
 人間の母親と鬼の父親との間に生まれた自分。その生い立ちを知ったのは何時の頃だったのだろうか。少なくとも、自分の頬や左腕にある何かの模様を描くような痣には、なんの不審も抱かなかった。やはりこの調伏の力と治癒の力を自覚するようになってからだろうか。父親が自分に与えたものはこれだけか。夜紅良は、ただの子供のように、駄々を捏ねてしまいたかった。

 それでも、父親を憎み切れない自分が居る。左腕に抱えた、父が残した【妖姫】。この一振りの刀がいつも夜紅良の命を救い、調伏の手助けをした。それは、父親が彼女に残した愛だと言えないこともない。それを純粋に信じてしまいそうになっている、そんな自分に小さく笑みを向けた。これも、父親が僕に残したもののひとつなのかな。それとも、自分と母親を置き去りにして姿を消す時に、ただ単に忘れていっただけなのかな。
 血の繋がりなぞ、本当はそんなに普通なら感じない所だ。幾ら顔形が似ていたとしても、全くの他人でも双子のように似ている人は居るものだ。だが自分は、この能力が紛れもなくあの父親の子供である事を証明する。その深く確かな血の繋がりが、父を憎めない理由のひとつなのかもね。

 一時激しい降りだった雨が、多少は収まったようだ。夜紅良の、蒼い程に白い頬を強く打っていた雨の雫も、今はしとしとと柔らかく濡らしては、顎へと流れていくに留まっている。濡れて重く、そして薄ねず色に変わったチャイナ服に染み込んでいた流血の後も、水に滲んでぼんやりと、今は鮮やかな―――いや、鮮やかだった牡丹の縁を彩る色彩の一つになったかのようだ。
 二の腕に張り付いていた漆黒の髪が、水を含んで重くなり、ぱさりと微かな音を立てて落ちる。その毛先が触れた先は、夜紅良が左腕に持った【妖姫】の柄だ。左手で鞘の口をしっかりと握り締め、腕全体で巻き込むようにして抱えていた。ふと、少女は何も持っていない右の手の平を見詰めた。先程までは拭った血で染まっていたその掌も、今は雨に流されてただ濡れているだけだ。その掌、雨がその手相を伝って流れるのをぼんやりと眺めながら、さっきと同じような事を考えていた。

 …僕の左の手には【妖姫】。では、反対の右の手には、何を持っているのだろう………?

 眠い。唐突に夜紅良は思った。重い瞼を何とかして開いて瞬き、右手の指を動かして感覚を確かめる。まだ鈍いとは言え、思い通りに動かす事はできる。雨が降り、堂々巡りの思考に没頭している間に治癒は大分進んだようだった。この分なら、夜が明けて人々が動き出す前には、家に帰るぐらいの体力は回復してるだろうな。そう思うと何故だか妙に安心感があった。ふ、と先程までの自嘲的な笑みとは違う、柔らかな微笑みをその唇の上に昇らせた。
 とどのつまり、誰かが僕を必要としてくれてなくってもいいんだ。この世界が僕の存在を求めてなくってもいいんだよ。
 僕が、他でもない霧生・夜紅良そのものが、この世界の存在を必要としているから。僕が必要だと感じるこの世界、大好きなこの世の中、その穏やかな日々を護りたいから僕は……。
 強烈な睡魔に負けて、夜紅良はゆっくりとその瞼を下ろす。きっと、世間が白々として来る前には目覚めるだろう。安らかにも見える少女の寝顔を、いつの間にか傍へと歩み寄っていた、薄汚れた一匹の野良猫がその頬を二、三度ざらついた舌で舐める。小さな小さな、痩せこけた子猫だったけれども、今は唯一の、そして最高の味方だった。