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<東京怪談ノベル(シングル)>


晴れた日の出来事

 外は晴れ。気温はそこそこ。
 春にはまだ遠いが、風一つない穏やかな日でも、変わらない風景があった。
 『白王社・月刊アトラス編集部』
 様々な事件を取り扱っている此処は、拾ってくるネタがネタだけに、最近では購買部数も伸びて、慌しい空気で満ちている。

 コンコン──…

 しかしその空気を気にもせず、数回のノックで中へと歩を進めた人物がいた。
 清潔感のある身嗜みと中々の長身。その上容姿も結構…どころかかなり良い青年、各務高柄である。
 高柄は慣れた様子で編集部の人間に挨拶をすると、ツカツカと一番奥のデスクへと向かった。
「こんにちは、麗香さん」
 にこりと微笑んだ先に居たのは、アトラス編集部の編集長である碇麗香だ。
「あら、各務くん。今日はどうかしたの?」
「何か仕事はないかと思いましてね」
「各務くん向け?そうねぇ…依頼のファイルはこれなんだけど」
 そう口にして麗香が差し出したのは、ファイリングされている依頼書。『済』のスタンプが押されているものの中には、高柄が関係したものもあるようだ。
 その中からまだ取材していない依頼に目を通していく高柄だったが、残念ながら事務所メンバーに向いていそうな依頼はなかった。
 パタリと閉じて笑顔でファイルを差し出す高柄に、麗香もピンときたのか、
「なかったようね」
 と苦笑しながら受け取る。
「残念ながら、今回は見送らせて頂きます」
 それに高柄も苦笑して返した時、ふと麗香のデスクに原稿がないことに気付いた。
 いつもなら数本分の取材原稿が置かれていて、それに目を通すのだが……。
「もしかして…麗香さん、今お時間がおありですか?」
「丁度原稿の手配を終えたところなの」
 疲れたわ、と麗香は首を左右に振ってみせる。
 普段から多忙を極めている麗香にとって、仕事が一段落している時間というのは、そうあるわけではない。
 ましてやそこに出くわすことなんて、そうあることでもないだろう。

 ─ これは絶好のチャンス、というやつでしょうか? ─

「麗香さん、もし宜しければ……」
 ─…少しだけ僕に、お時間を下さいませんか?
 微笑みながら告げた高柄の言葉に、麗香は「いいわよ」と笑って見せた。


 編集部の慌しい雰囲気とは違い、休憩室は静かで穏やかな雰囲気と時間が流れていた。オフホワイトの壁紙に、有線から流れるのは癒しの音楽らしい。
「随分と素敵な場所ですね」
「そりゃ…ね。ずっと編集部に居たら、息が詰まるでしょ?作業効率を上げるには、休憩はとても大事よ」
 麗香はそう言って背伸びをする。彼女も息が詰まる時が、あるのだろうか?
 仕事が出来る女性だからこそ、人には見せないで疲れを溜めてしまうのだろうか?
 良く言えば頑張り屋、悪く言えば意地っ張り。
 そんな麗香だから惹かれているのは事実だが、少しくらい疲れを癒すことは出来ないだろうか。
 高柄は目の前に座る女性に、何が出来るかを考えた。

 ─ やはり僕に出来るのは、これでしょうね ─

 話術は……あまり得意ではないが、一つだけ麗香にも喜んでもらえる特技があるのを思い出す。
 そして徐に休憩室を見回せば、電源の入っていないコーヒーメーカーが目に入った。
「麗香さん、あれを拝借できますか?」
「コーヒーメーカーなんてどうするの?」
「是非、麗香さんにコーヒーを飲んで頂こうと思いまして。僕の入れるコーヒーは友人の陰陽師その他さんたちに、とっても好評なんですよ?」
 麗香の疑問符に、笑顔とウィンクも付けて応える。来客というには堅苦しい気がするが、職場の人間でない人間から、いきなりコーヒーを淹れてあげると言われては、流石の麗香も一瞬対応が遅れてしまう。
 けれど”そんなことは気にしません”というように、コーヒーメーカーの扱いを眺め、豆や道具を探し出した高柄は、麗香に向けてもう一度微笑んだ。
「少し待ってて下さいね」
「美味しいコーヒーを飲ませてくれるなら」
 麗香はヒールの音を響かせて高柄の横に立つと、何が始まるのかという視線を落として悪戯っぽく言う。
「それは勿論です」
 人に出すものに不味いものなんか出せるわけもない。ましてやそれが麗香では、自分の評価が落ちる結果になってしまう。
 高柄は買い置きされていたミネラルウォーターを二杯分注ぎ入れ、フィルターを手にして暫し考えた。そして徐に二枚重ねにすると、それをコーヒーメーカーにセットする。
 それに首を傾げたのは、隣りで見ていた麗香だ。
「ねぇ各務くん。フィルターが二枚じゃなかった?」
 てっきり高柄がくっ付いたまま使用しているのかと思い、麗香は口を開いたのだが、高柄は「間違ったことはしていませんよ」と余裕の笑みを浮かべながら、コーヒーをフィルターへと入れていく。
 そのまま電源をオンにすれば、あとは自動的にコーヒーが淹れられるのを待つだけだ。
「コーヒーって一口に言っても、入れ方を工夫すればインスタントだって、美味しく飲めるんですよ。これも一緒です」
 工夫一つで同じものでも、違った味を引き出すことが出来るのだ。
 ポタポタ落ちてきた褐色の雫は、程なくして香ばしい匂いで二人を包んでいった。
 高柄は用意しておいたカップに、出来たてのコーヒーを注ぎ、「どうぞ」と麗香に差し出す。
 それを一口飲んだ麗香は、静かに目を閉じて小さく息を吐いた。
「どうですか?」
「いつも飲んでいるものより、口当たりがマイルドで飲みやすいかしら。それに香りもいいわね」
「それは良かったです。麗香さんが少しでも、ホッと出来るようなものを淹れられたようで、僕も満足ですよ」
「あら、そんなこと言っても何も出ないわよ?」
 そう言って、麗香はクスッと笑う。
 ゆったりとした時間を麗香に与えるという願いは、どうやら成功したようだ。
 しかしその時間が長く続かないのも、編集長・碇麗香でもある。

「編集長〜、どこですか〜。原稿に目を通して欲しいんですけど〜〜…」
 何処からともなく、麗香を呼ぶ声が聞こえてくる。
「どうやら時間切れのようですね」
「そのようね。また調査を頼んだ時は、宜しくお願い」
 麗香は残りのコーヒーを飲み干すと、踵を返して歩き出した。その姿は凛とした空気を纏った、いつもの麗香だ。
 高柄はそんな麗香の後姿を眺めながら、「麗香さん」とつい呼び止めてしまう。
「どうかしたの?各務くん」
「今度は二人きりで、お食事でもどうですか?」
 言葉を発しながら浮かべたものは、大学生とは思えない余裕のあるものだった。
 けれどそこは告げた相手が悪い。
「今度美味しい紅茶を飲ませてくれたら、考えてもいいわよ?」
 ニコリと微笑んで、麗香は編集部へと戻って行った。
 それを笑って見送った高柄は、
「ではお食事は決まりですね。まだまだです、麗香さん」
 と決意も新に残りのコーヒーを飲み干す。
 そしてカップを洗って元の位置に戻すと、自分もまたその場から離れて行った。
 工夫一つで、どんな味わいが出るか判らないのは、人の心だって一緒なのだ。堕落していくかもしれないし、向上していくかもしれない。
 高柄は後者を選択する男である。

「帰りに書店に寄らないといけませんね。紅茶…ハーブの勉強もしておきましょうか」

 晴れた午後の陽気に誘われるようにアトラス編集部を出た高柄は、麗香との食事は何処にしようかと考えながら書店へと向かうのだった。

【了】