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<東京怪談ノベル(シングル)>


fires of passion
 月のない夜、世界は人の為だけの物ではなくなる。
 深淵に底知れぬ闇は如何なる異形が潜むとも、湧き出でるとも隠されぬとも知れず、ともすればあちらとこちらが境を失くして、違う世界が現出してしまうかも知れない、そんな益体もない不安に囚われそうになる…。
 けれど、アトラス編集部においてそんな事は日常茶飯事どころか立派なメシの種、月毎に訪れる地獄の現出を体験し続けていれば恐怖刺激に対する耐性がついて麻痺してくる。
 そんな編集員に慣れを許さず、常に根深く新しい刺激を与えてくれる存在は常に上座に鎮座在していた…恐怖の名を、碇麗香という。
 確かに怖れられてはいるが、それを補ってあまりある美貌と才能に崇敬もされていたりもする…複雑な人心を身に受ける知的美女は、連日午前様という出退勤状況もなんのその、気力と根性でお肌の衰えを見せる事なく、机上の書類を片付けていく。
「碇、ちょっといいか」
日下部敬司はそんな彼女の前に、躊躇なく立った。
「ダメね」
にべもない。
 対する敬司は、日に焼けた短髪を掻くと、少し困った風で笑い、天井の隅に視線を遣る。
「草間に相談しようかとも思ったが、あいつも野暮天そうだからなァ」
声は独り言めいて…だが、『草間』と『相談』と、相手の興味を惹く単語を交ぜて反応を待つ…伏し目がちに書類に万年筆を走らせる碇の、手が一度だけ止まった。
「忙しいだろうが、碇、まぁ少し相談に乗ってくれや」
餌に食いついたとはいえ、慌ててはいけない…ここで力任せに引き寄せれば、糸を切られて逃げられるのがオチ…いつから釣りになったのやら。
 麗香は座ったまま、長身の敬司の顔−正確には無精髭の浮いた顎−を見上げ、眼鏡をキラリと鋭く光らせた。
「長くかかる話なのかしら」
「わりと。代価になるような情報はあいにく今手持ちにないんで、とっておきを出すからよ」
更に『とっておき』の情報でダメ押す。
 碇は万年筆の後ろに被せたキャップを唇にあててしばし考える風に…そして指を三本立てた。
「30分だけ時間を頂戴」
言うが先、更に速度を増して、麗香はペン先を滑らせ始めた。



 25分と15秒、有言実行にきっかりと時間内に業務にキリをつけた麗香は、未だ手間取っている編集部員に喝を入れるのだけは忘れずに、ビル出入り口脇で肌身離さぬ商売道具にして相棒の一眼レフの入ったカメラバッグを肩にした敬司が壁に背を預けるに声をかけた。
「お待たせ」
通勤時に服を替える手間を惜しんでか、いつもスーツ姿の上にコートを重ねただけの麗香に、敬司がニ、と口の端を上げる。
「その口紅、似合うじゃねーか」
「流石カメラマン、外見の変化に敏感ね」
「職業柄ってよりも、男として当然、じゃねぇか」
業務中とは違う口紅の色、仕事一辺倒と思われがちな彼女のささやかな遊び心を見抜いて些細な変化にも賛辞を惜しまぬ男気に、麗香はありがと、と素直に謝意を示して、敬司に問う。
「で、相談ってのは何?」
「んー…ま、とりあえずはとっておき、を見て貰ってからの方がいいな」
珍しく言葉を濁す敬司に事は余程深刻なのか、と麗香が推測するのに、敬司は道向こう、ビルの群れの間からで張り出した緑の枝を示した。
「彼処の公園まで、付き合ってくれ」
返答を待たずに歩き出す背を、ヒールの高い音が追う。
 その公園の規模はさほどでもない…敷地をぐるりと囲む樹木はポプラに桜、それに針葉樹を配して冬場に緑を失う事なく、子供の遊び場の目的で造成されたのでない為、遊歩道めいて蛇行する煉瓦に沿って、季節の花々をつける低樹が配される…最も、採光の悪さに丈の低いそれらが満開の花をつれる事は少ないのだが。
 近辺のサラリーマン、OLの昼食時の憩いの場の為か、日も暮れて寒さばかりの其処に人の姿はない。
「夜だし丁度良い」
見回す敬司に麗香が苦笑する。
「やぁね、妙齢の女を暗がりに誘い出してどうする気?」
言いながらも声には笑いが潜んでいる。
「期待に添えなくて悪いが…」
こちらも笑いを受けて笑みを刻んだ口元に煙草をくわえる。
「ちょっとした手品…でもないが」
革ジャケットの内側、ポロシャツの胸から取り出すのは愛用のジッポライター…カチリ、と火花が爆ぜた瞬間、その炎は有り得ぬ大きさで敬司の背を軽く越して伸び上がった。
「これがとっておきの…炎の魔法だ」
「ちょっと日下部!火が大きすぎるわよ!」
そういう問題ではない…ジッポ社のブランドはライターにしては大きい部類だが、それでもそのガス程度で作り出せる大きさではない。
 敬司は長大な炎を盛らせたままのライターを横に引いた。
 すれば、炎はしなやかな流れ…猫科の肉食獣の尾を思わせて優美な動きに紅蓮に変じ、次いで細長い形に沿って堰を切ったように蒼い残光が熱を引きながら地に向かい、其処で消える事なく水の動きで拡がる翠色。
「赤でも蒼でも翠でも…女王様のお望みのままに。触れられる炎も創ってやれるぜ」
言葉と共に、敬司の足下に拡がる炎の先がぽつぽつと離れて浮かび上がり、オレンジとピンクの炎を片羽ずつに持った大振りの蝶の群れが舞い上がる…戯れに麗香の髪に手に、はためいて触れるそれは強いて言えばひどく密度のない水に触れた感触がした。
 麗香の頬が僅か上気してみえるは、手の甲に止まる一羽の炎の照りのせいだけでないだろう…敬司はその様子に微笑を浮かべる。
「ちょっとしたもんだろ?」
「これはたいしたもの、よ」
即座の返答、好感触な響きにこれが機会と判じたか、敬司は遠慮がちに麗香に話しかけた。
「………その、もしその気になったんならでいいんだが…お前さんと同世代の女を連れて行くのに気の利いた店なんか思いつかないかねぇ?」
…どうやら話を切り出すきっかけを狙っていたらしい。
「って、日下部、あんたそんな事が聞きたいが為のコレなの?」
それこそ仕事の流れに最近、お薦めの店はとかなんとか、話のついでにでも聞けばいいものをわざわざ…大がかりなご披露に、麗香は目を瞬かせると盛大に吹き出した。
 驚いたように、仮初めの形を与えられた炎がヒラ、と模したそれに似た動きで舞い上がる。
「…まぁ、気にするような女じゃねぇんだがなァ」
なかなか笑いを納めれぬ麗香に、照れ隠しもあってか敬司がぼやく。
 指の背で涙を拭い、麗香がそれを聞き咎めたか、笑みをそのまま敬司に向けた。
「ゴメンゴメン、だってらしくないっていったら…」
それで言えば、声を上げて笑う麗香を編集部員が見れば卒倒ものだろう。
「でもそうね」
細い指を自らの顎にあて、麗香は思いついた風で笑みを微笑に変えた。
「こんな特技を隠してたのは今のでチャラにしてあげてもいいわ」
「おい、これ以上の持ちネタはねぇぞ?」
ガクリと肩を落とす敬司に麗香はすいと冬枯れの木立に指を向けた。
「こんなおいしいネタ、ただ見るだけで気が済むワケないでしょ?日下部。証拠写真を残して頂戴」


「コンバンワ、マスター居る?」
肩で押し戸を開いた麗香に、顔馴染みのウェイターが笑顔で奥を示した。
 老年のバーテンダーが丁寧にカウンターを磨く…古い桜材を使った特注品、人の手をあまり加えず、料理の載るスペースだけを平らにした他は木自体の持つ温もりが感じられるかのように表皮を磨き上げたのみのそれこそが、この和風の内装を特徴としたバーの看板と言える。
「碇様、いらっしゃいませ」
まだ開店前なのだが、麗香の顔を見ると彼は手を止めて年齢に相応の穏やかな微笑みを向けた。
「いつものカクテルでよろしゅうございますか?」
「今日はちょっとお願いがあって来たのよ」
小脇に…抱えるには大きい、油紙に包まれた板状の荷物を手際よく解き、麗香は一枚のパネルをマスターに示した。
「これは……写真ですか?」
「ね、このお店に似合うと思わない?彼処の壁に飾って欲しいのよ」
一見は、墨絵のよう。
 全体の暗さに闇で塗られたような木…幹から上部に分かれ伸びる枝先に花弁の一枚一枚がゆらめく纏った陽炎に輪郭をぼかし宿る様に樹種を知る…桜だ。
 如何なる技法で撮られた物か、木が花が、燃えるように苛烈でいて静かなる一瞬に観る者は囚われずに居られまい。
「こんな…頂いてもよろしいのでしょうか?」
「いやね、私からお願いしてるんだもの、当然よ。ここのお店の間接照明だからこそ、とてもよく映えるの…それから」
当惑したようなマスターに麗香は微笑む。
「今夜、友達…その写真を撮ったカメラマンが来ると思うんだけど。連れのコにはそのパネルみたいなカクテルをサービスしてあげて欲しいの」
麗香の稚気に、マスターも共犯者の気分で頬を綻ばせた。
「心得ました。そうですね、名は…碇様がお名付けになられませんか?」
「そうね…」
細い指を顎にあてて悩む事しばし。
「『fires of passion』なんてどうかしら?」
職人気質のバーテンダーは、その意に笑みを深める。
「承知致しました」
「じゃ、お願いね」
軽い口調で手を振り、麗香は店の外に出る。
「火のない所に煙りは立たないって言うけど…」
どうも気の回る人間ほど、自分に事となると不器用なるのは何故だろう…店を出た途端に鼻をくすぐる冷気に、だがくしゃみは堪える。
「火の出所の方は、不思議と気付かないのよねぇ」
『fires of passion』、それは『恋の炎』。
 語学に堪能な敬司が気付かぬ筈はないイタズラだが、果たして相方に伝わるだろうか?
「ま、後は本人の努力よね」
二人の友を思って微笑み、麗香は顔を上げるとオフィスへと足を向ける…果たして、その身を焦がす炎が存在するのかは冷徹な編集長の表情の下、誰にも伺えはしない。