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<東京怪談ノベル(シングル)>


風邪と探偵

 草間が寝込んだ。
 原因は二日前に事務所で行った大掃除だ。朝一番から始まり、終わってみると日付が『1』多かった、と言う大がかりなもので、それはそれは大変だった。
 彼女だけ。
 何故なら、事務所の主である草間はそこにいなかった。
 では一体、何処にいたのかというと……。
 『外』、だ。
 あまりにも邪魔で役立たずなので、彼女が追い出した。
 ハタキをかけ書類を片付けるその後ろで、草間はまるで動物園のクマ。檻の中を右往左往するそれ。
 彼女──シュライン・エマの静かなる怒りが爆発するまで、そう時間はかからなかった。
「武彦さん」
「あ、ああ」
「外!」
「……」
 たった四つ──厳密に言うと最後の草間は無言だったので、三つのやりとりで終了した。
 総理、大蔵省に負ける。
 斯くの如し。
「だからって、律儀に外で待たなくても……」
 シュラインは草間の自宅へ向かいながら、白い息を吐いた。
 マフラーに顎まで浸す。手には買い物袋を提げていた。中には薬の他、食材が一式。電話越しの草間は、壮絶な鼻声だった。
「まったく……バカなんだから」
 シュラインは呟く。その顔には苦い微笑が貼り付いていた。

 小綺麗に散らかっている、と言うのだろうか。雑然とした整頓ぶりと言うのだろうか。
 日頃、仕事にばかり精を出す男の部屋は、物が少ない割りに散らかっていた。
 探偵業と言う職務時間の不規則柄、事務所で仮眠を取り家には帰らない事の方が多いのだ。
 ただでさえボランティアに等しい草間の元でのバイトで、シュラインはここへ出張して来る事も度々あった。
 もちろん掃除の為だ。が、仕事ならどこの部屋へも訪れる、というワケではない。相手が草間だからこそ、の話である。
 そして草間は掃除の度に渡すのは面倒だと、シュラインに合い鍵を預けた。例えばそこに、頬が赤くなるようなやりとりは無かったのかと言うと、無かったのだ。
 まったくあっさり渡され、まったくあっさり受け取った。
「これ、持っててくれ」
「分かったわ」
 この小さな銀色のアイテムを受け取るのを夢見ている、『物思いの君』も多いだろう。しかし、シュラインのそれはいとも簡単に何のロマンスも無く終了した。
 らしい、と言えばらしい。
 男は鍵を渡す。女は鍵を渡される。
 要するに、そこには暗黙の了解となっている感情が流れていたのだ。
 今日訪れるのも、そんな理由で初めてではない。ただし、本人がそこいると言うのは珍しい事だった。
 その草間はボンヤリと、シュラインの前に佇んでいる。顔は冴えずに赤い。まさに戦闘不能と言った感だ。
 草間はハア、と深い息をついた。その声まで曇っている。
「……大丈夫?」
「ああ……」
 シュラインは苦笑した。
 あの大掃除の日。事務所の玄関前は、草間の落とした吸い殻で埋まった。というのは大げさかもしれないが、それだけたくさんのタバコが落ちていた。
 ざっと見積もっても二箱に近い。途中、買い足しに行く事もあっただろう。その時に喫茶店やファミレスで時間を潰す、寒さをしのぐと言う事は考えなかったのだろうか。
 否、事務所へ入って早く掃除を終わらせようとは思わなかったのだろうか。
「それだけ手伝いたくなかったって事ね?」
 シュラインは草間の頬を柔らかに引っ張った。片眉をつり上げる視線に、草間は苦笑いする。
「いや……」
「よもや掃除の時に出てきた書類に目聡く気付いて、片すのが嫌だから、とか」
「……」
 図星のようだ。草間は視線をシュラインから外した。頭をぼりぼりと掻く。シュラインは肩をすくめた。
 困った人ね。
 頬に置いた手にそれを込める。
 微妙な男女の感情が二人の間に流れるも、草間は大きなくしゃみでそれをかき消した。
「うー」
「と、とにかく横になってた方がいいわね」
 草間をベッドに押しやって、枕元に薬を置いた。
「んーっと……、何か食べないと。食欲は?」
「あまり無いなあ」
「生姜入りの葛湯だったら食べられる?」
「ああ」
「本当はキチンと病院行って診てもらった方が、治りも早いと思うのだけど……」
「寝て治せるなら、そうしたいんだが……。出費がかさ」
 草間は言いかけてゴホゴホと咳き込んだ。丸まった背中をさすりながら、その熱さにシュラインは悩ましげな顔をする。
「ね、武彦さん。熱は測ったの?」
「ん? いや……、熱があると分かると余計動けなくなるだ──」
 今度はくしゃみ。
「それはそうだけど……」
 シュラインは探す事無く、引き出しから体温計を取り出した。何処に何があるのか、『私物』に関する物以外は完全に把握している。これも日頃の掃除の賜だ。
「そこにあったんだな」
「……? 動かして無いけど」
「いや、君のせいじゃない。俺の考える力が麻痺」
 ゼホゴホゲホ──
 咽でする咳ではない。肺にかかった重い咳だ。
 シュラインはケースから出した体温計を草間に渡した。咳をする度に疲労感が濃くなって行く探偵は哀れに見える。
 やはり病院へ行った方がいいだろう。引き出しから保険証を取りだすと、いつでも出かけられるように、それを風邪薬の下に置いた。
「俺よりこの部屋に詳しいな」
 草間は淡い微笑を浮かべる。嫌味では無い。シュラインは「そんな事無いわよ」と、肩をすくめた。
「テーブルの周辺とか、開いてた引き出しの中だけで」
「台所、とか」
「お風呂場とトイレも、かな?」
「玄関も、だろ?」
 掃除出来る所は全部、だ。草間は「ハハ」と笑った。
 そして沈黙。何を考えたのか。探偵はふと真顔になった。
「……風邪を移したら怒るだろうな」
「何、言ってるのよ」
 目に宿る情を見れば、その意味は分かる。シュラインは微かに頬を染めた。
「もしかしたら、この部屋に来た時点で移ってるかも」
「それなら、都合がいい」
「都合がいいの?」
「っていうのも変か」
 言いながら探偵はシュラインの手を取った。引き寄せられて小腰を屈め、首に探偵の手が添えられる。
 ヘッグショイ、ブシャン!
 沈黙。
 無言。
 あまりのタイミングの悪さに、草間は放心の体でベッドに倒れ込んだ。
「今ので移ったかも……体温計いい? 武彦さん」
「あ、ああ」
 シュラインは草間から体温計を引き抜いた。残念そうに草間は呟く。
「くそぉ」
 シュラインは苦笑しながら、目盛りを読んだ。果たしてその数字は──
「悪化したらそれだけ長く病院に通わなくちゃ行けないし、そうなると出費だってもっと……」
 ──八度七分。
 普通の大人なら関節は軋み寒気に震える高熱だ。
 草間はまたしても大きなくしゃみをした。
「それにしても寒いな」
 当たり前だ。
 シュラインの顔から笑みが消えた。とにかく外出の準備に取りかかる。
「寝て、って言いたいところだけど、病院へ行きましょ。風邪じゃなくて、インフルエンザかも」
 草間はチラリとシュラインを見た。
「くしゃみに邪魔されて助かったな」
 シュラインは「そうかしら」と、イタズラっぽく笑う。
「?」
「言ったでしょ? ここへ来た時点で移ってるかも、って」
 草間の手がシュラインに差し出された。

 その後、草間はインフルエンザと診断され、一週間の間ばっちり寝込んだ。もちろんシュラインが看病を──
 出来なかった。何故ならシュラインも寝込んでいたからだ。
 ささやかな電話でのピロートークで草間は言った。
「今度からは、おとなしく掃除を手伝うよ」
 シュラインは鼻声で頷いた。