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<東京怪談ノベル(シングル)>


タイトルのない物語

 夜はまだ明けていなかった。
 カーテンの隙間から覗く空は薄暗く、そろそろ明るくなり始めてはいるものの、夜明けにはまだほど遠い。
 まだ輝きを失わない月や星がそれを教えてくれている。
 栖は手元から顔を上げると、そんな空を見上げた。
 その手許にあるのは原稿用紙の束であった。
 微かに黄ばんだ紙には、沢山の文字が伺える。
 小説の原稿であろう。
 むろん、栖が書き上げた原稿である。
 少し擦れた文字で印字されたそれは、現在の技術の進んだ鮮明な文字とは違い、どこか懐かしさを感じさせた。
 パソコンは持っているものの、長年慣れ親しんだワープロを栖は手放すことが出来ない。
 どうしてもワープロを手放せない原因の一つは、それなのかもしれない―。
 なんとなく、そう思う栖だった。
 この原稿は、数年前に栖が出版したものであった。
 三年程前に書店にこの本が並んだ当時、売れ行きは良く、何度か追加注文が来たのを記憶している。
 人気はあるものの、受ける仕事の数は少ない。
 編集者泣かせの空木栖の仕事の一つだ。
 栖はそんな原稿を、そっと指の腹で撫でた。
 サーっと指が滑って、文字をなぞる。
 感じるのは、何の凹凸もない、滑らか紙の感触。
 否、何も無いなんてことはない。
 この中には、沢山のものが詰まっているのだから。
 言葉に表すよりも多く、沢山の事が、沢山の思いが、小説の文章以上に込められているのだから。


「もう・・・行けるね」
 そう言って、栖は穏やかに微笑んだ。
 静かに、そしてそっと。
 栖は見つめる。
 そんな栖を、まだ輝きを失わない月がそっと見つめていた。
 この本を出版したのは三年前。
 読者から貰った感想に、してやったりと、思わず笑みが漏れたものだ。
 貰った本の感想は、大概が一つ。
 曰く。
「お話がすごく現実的で、身に迫るようでした」
「実際にありえそうな話で、考えさせられました」
 そんな声が沢山寄せられたのだ。
 無理もない。
 栖が出したこの本は、半分は実際にあった出来事であった。
 実際に起きたその真実を、栖が小説的に味付けし、書き上げ世に出した。
 それは哀しい霊たちの物語。
 心を残して死んで行った者たちの、強い思い。
 あまりにも現世に思いを残しずぎた為に、心を地に残してしまった者たちの声なき声。
 栖はそんな魂を慰める為に、「小説」として形を残し、世に送り出していたのだ。
 もう一人ではないんだよ。
 あなた達を知るものはこんなにいる。
 もう、孤独なんかじゃない。
 あなた達の抱える苦しみ、悲しみ、憎しみ。
 それらを知る人たちは、こんなに沢山いるのだから。
 だから・・・・寂しくなんか、ないんだよ。
 そんな思いを乗せて、栖はワープロをたたくのだ。
 悲しい霊たちの物語を。
 その調べを。
 栖は思いを込めて、綴り出す。
 それもこれで何冊目になるだろうか・・・。
 この本も、ようやくその時を迎えていた。
 栖には判るのだ。
 穏やかなその波動。
 魂が安すらんだ、その証拠。
 本に綴られたその魂は、今まさに安らかな眠りを迎えようとしてる。


「おやすみ。安らかに・・・」
 栖はやわらかく微笑むと、原稿を手に取った。
 心なしか、血を通わせないはずの紙が、暖かい気がする。
 それはあながち気のせいばかりでないのかもしれない。
 なぜなら、この中には、確かに宿る魂があるのだから。
 確かな思いが、ここにあるのだから。
 きっとそれは、宿る魂の安らかな証拠。
 栖はそう思わずにはいられない。
 その時、一条の光が栖の目を射た。
 夜明けであった。
 カーテンの外は光に満ちて、沈んでいた温度が再び上昇するのを感じる。
 それはまるで、光に包まれるが如く。
 室内に差し込んだ光は、柔らかな光をもって栖を包み込んだ。
 暖かい。
 栖は思った。
 それは、光が射した為に温度が上がったわけではなく・・・。
 栖は、柔らかに光に包まれ、今まさに、眠りに就こうとするその魂を見つめた。
 手許にあった原稿は、栖の見つめる中、淡雪のように溶けて輪郭を失う。
 やがて・・・消えた。
 強い思いを残して死んで言ったその魂は今、安らかな眠りについたのだ。
「おやすみ・・・。今度こそ、幸せに」
 生まれ変わって、今度こそ。
 二度と、悲しい思いをしなくてもいいように。
 もう二度と、寂しくならないように。
 幸せに・・・。
 そう、思わずにはいられない。
 やがて栖は、立ち上がると朝日に背を向け、ドアに手をかけた。
 ゆっくりと開けると、暗がりの中に身を滑り込ませる。
「おやすみ・・・」
 そう言って、窓を振り返る。
 そこには、眩しい朝日。
 おやすみ、そして、安らかに・・・。
 栖は呟くと、ドアをそっと閉めた。
 跡には、もう何もない。
 悲しい思いも、辛い思いも。
 何も残っていない。