コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


++ 偽りの邂逅 ++
 最近、とあるマンションの付近で多数の幽霊が目撃されるのだという。
 それ自体は有り触れた依頼でしかなかった。そんなごく有り触れた依頼が、何故よりにもよって久我本家から彼――久我直親の元へともたらされたのかという疑問はあったが、その疑問はすぐに氷解した。
 目撃される幽霊たち。
 そして、つい先日とうとう幽霊が原因であるらしい変死体が発見されたというのだ。
 この場所に車を止める前に、話を聞いた依頼人の言葉を頭の中で反芻する。


『ただの噂だと思うでしょう? けれど本当なんです。あの場所で死体が発見されたのも。そしてそれが霊によって殺されたことも。全て本当なんです――』


 カンカンカン、と遠くに踏み切りの信号の音が響く。
 立ち並ぶマンションの建物郡は、そのどれもが都会的で洗練されたデザインであるようだ。建物と緑のバランスを考慮して設計されているためか、都心近くに建設されているとは思えないような、ゆとりを感じることができた。
 道路脇に止めた車内の、ライトグリーンの時刻表示は日付が変わる直前だった。
「無理もない――」
 直親は低く呟く。運転席のシートを深く倒すと、じっと目を閉じた。
 マンションの住人たちは知らないようだった。かつてこのマンション建設のために潰されてしまった、小さな霊園のことを。
 何も知らない住人にとっては、幽霊が出現する原因すら不明なままであっただろう。だが、いかに幽霊たちの意志が常人には計り知れなく、また理解し辛いものであったとしても、必ず原因はあり理由はあるのだ。
 直親が現在車を止めているのは、その小さな霊園があったと思われる場所であり、幽霊が原因であると思われている変死体が発見された地点でもあった。
 整えられた道路と歩道の境界には、膝丈よりも少し背の高い草木があり、綺麗に刈り取られて形を整えられている。それらからは到底霊園の存在など思いつける筈もなく、マンションの住人たちが幽霊の目撃に対して首を傾げるのは無理らしからぬ事ではあるといえた。
 そう、原因を知ってさえしまえば、不思議なことなどそう多くはない。
 だが、知ろうとしない姿勢は問題であると直親は思う。知らないことと、知ろうとしないこと、それらは似ているようで全く別のものだ。
 目を閉じて、意識を車の外へと向ける。度重なる霊の噂と、発見された変死体――それらが原因なのだろう。マンションはひっそりと静まり返っており、人の気配なるものは全く感じられない。だが、それは直親にとっては好都合でもあった。人がいなければ、これから起こるであろう出来事に巻き込まずにすむのだから。
 空気の流れを、そして人ならざるモノの気配を――察知すべくただひたすらに神経を集中する。だがもしも、誰かが通りかかり直親の姿を見かけたとしても、車を止めて仮眠を取っているようにしか見えなかっただろう。
「――来た、か」
 穏やかだった表情に、ふと不敵な笑みが浮かぶのを自覚しつつ直親が呟いた。
 じわりじわりと、足元から立ち上ってくる気配。それらは紛れもなく人ならざるモノたちのものだった。ゆっくりと瞼を上げた漆黒の瞳には、現状を楽しんでいるかのような光が浮かんでいる。
 気配のみであったモノたちが、直親の前に次第に姿を現そうとしていた。それは、幾つもの手――車の底から、数え切れないほどの白い手が、まるで何かを求めているかの如く空に向かって伸ばされる。
 やんわりと、様子を伺うように触れてくる白い手。その白い手の中に、見覚えのある物を見つけた直親が、一瞬だけ驚きに目を見張った。
 白く細い左手。その薬指にはめられた見覚えのある指輪。そう――それは過去に、直親が婚約者に贈った指輪だった。
「――……」
 見紛う筈などなかった。だが彼女はもう何年も前に死んでしまった。
 改めて白い手の数々を見やると、それらは全てが、かつて直親が愛し大切にしていた者たちのもののように思われてならなかった。婚約者、そして自分の守人だった人物。失いたくはなかったのにもかかわらず、もはや話をすることすら叶わぬところへと逝ってしまった人々。
 もう――どこにもいない筈の、大切だった人々。
 囁きのような声が耳を打つ。懐かしい、かつてはいつも、身近で聞いていた声。


『逝きましょう、向こう側へ――一緒に』


 囁きは何度となく繰り返される。声は次第に一人のものではなくなっていった。幾人もの囁きが小さく、けれど抗いがたい優しさと懐かしさとを伴って直親の耳に響く。
 例えば、この声に、この誘惑に身を預けてしまうことができるならば、もう少し楽に生きられたのかもしれないとも思う。だがそれと同時に、偽物如きの言葉に騙され堕ちるなどということを、直親の矜持は己に許しはしなかった。
 触れ続ける手――おそらくこれらは直親に触れることで心を、彼の過去を覗いたのだろう。
「人の心を読むなら、もう少し巧くやる事だな――」
 倒したシートを戻しながら、直親は人差し指を中指との間に挟んだ符を、右手を横に振るようにして軽く放り出した。宙に投げ出された符は、炎を纏う。
 それは浄化の炎。実体はなく、おそらく直親や、そういった特殊な能力を持つもの、そして霊といった類にしか視覚できない光にも似た炎。鋭い光を――眩いばかりの光を纏ったその炎を、かつて直親に似ていると、そう言った人物がいたことをふと思い出す。優しげに見えて、けれどそれだけでない――強いものを秘めているところが似ていると。そう言った人物に、あの指輪を贈ったことを直親は今でも鮮明に思い出せた。
 過去に戻ることは出来ない。どれだけ渇望し望み願ったとしても。起きてしまった出来事を取り消すことも出来なければ、戻ることも出来ない。所詮人とは、過去や傷を抱えてそれらの痛みと折り合いをつけて生きていかねばならないのだ。
 揺らぐ炎は、符とともに蠢く手の中へと落ちた。音もなく――瞬く間に広がる光と炎。苦しげに焼き尽くされる手の中には、あの指輪をはめた細い手もある。
 戻れないならば、この胸の内にだけあればいい。懐かしい記憶も、全てが。
 もがくように動き続ける手は、炎に焼かれていった。だがそれでもまだ直親に向けて手を伸ばし、更なる記憶を、過去を読み取ろうとするものもある。
 直親は再び符に手を伸ばす。
「一度では終わりそうにないな……何度でも付き合ってやろう。きちんとあちら側に逝けるまで――」
 そう、何度でも――。


 ゆっくりと登り始めた朝日を、直親は運転席から見つめていた。窓を開くと朝の冷たい空気が頬を撫でる感触が心地よい。
 おそらく、もうこの場所で幽霊が目撃されることはないだろう。
 開けたままの窓に肘をかけた直親の視線の隅に、ふと光るものが目に付いた。助手席のシートに落ちているのは、見覚えのある指輪。直親はそれをつまみ上げると、笑みを漏らす。静かに。
 所詮、昨夜現れた親しかった人々など、紛い物でしかない。本物である筈などない。
 自分はニセモノになど惑わされたりはしない。
 ハンドルを握り、ゆっくりと車を発進させる。走り出した車の中から、直親は手の中の小さな指輪を車外へと投げ出した。僅かな鎮魂の祈りを込めて。
「長い、夜だったな」
 疲れたような、響きとともに――。