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<東京怪談ノベル(シングル)>


桜舞

 夜風にのって届いた鼻腔を擽る微かに甘い香り。
 胸の奥で淡い輝きを常に放ち続ける何かが、ころころと躍り出す。普段は眠ったようにじっと静かに身を潜めているだけのそれ。
 僅かな疼痛を呼び起こすその舞いに誘われて、十桐朔羅は自室の障子戸に手をかけた。
 差し込む銀の月光、それは水の中で揺れる光にも似ていて。その幻惑な輝きに、朔羅の右の目が言葉では例えようのない様々な色を帯びる。
 万華鏡の瞳、まるで彼の中に在る幾つもの思い出達を散りばめたかのように。
 ふわり、と優しい風が朔羅の頬を撫でた。
 なびく銀の細い髪に、一片、薄紅色の花弁。
「……あぁ、もう散り際か……」
 朔羅は後ろ手に戸を閉めると、夜に溶け込む静かさでそっと庭に降り立った。


 一筋の糸のように、囃子の音が夜の帳に加わった。
 こんな時間まで稽古に励むのは誰だろう、と少し首を傾げて朔羅は能楽堂の方に視線を馳せる。シテ方のとある流派を受け継ぎ、次代に伝える家の主となるべく生まれた朔羅にとって、それは常の日々と変らぬこと。
 僅かの間、伝え聞こえる音に耳を欹て朔羅は解を得、再び自分だけの世界に戻る。
 下駄の歯が踏む土の感触はほっこりと柔らかく、その下に宿るこれから芽吹く命の瑞々しさを朔羅に伝えていた。
 この庭に生み出される命。それは四季折々の花々、そしてそれに集う動物や虫、光や風。
 それらに触れるのが唯一の楽しみだった事を思い出し、朔羅は頬を緩めた。
 見上げる先には、樹齢がどれ程になるか想像がつかない桜の大樹。今が盛りとばかりに、まさに零れんばかりの花をつけ、月明かりの下でその翼を広げる。
 それはまるで優しい誰かの腕のように、朔羅を包み込んだ。
「昔は……この庭から出る事も出来なかったのだっけ」
 木肌にそっと触れ、朔羅は誰か親しい者に語りかける優しさで、そっと言葉を紡ぎ出した。
 胸に蘇る、今は亡き母の姿。
 自然と朔羅の顔を彩る表情は、優しく柔らかくなって行く。
「あの頃は、体が弱くて。それで学校にも行けず、だから友達というものも知らずにいた」
 呟いた言葉が風に乗る。
 共に運ばれる小さな花弁一枚一枚に、過ぎ去りし日々の幻影を見つけ、朔羅は目を細めた。
「でも……一人ではなかった」
 頬を摩る風が、母の手の感触を蘇らせる。
 能装束の似合う母は、優しく、そして時に厳しく朔羅に接してくれた。
 二人で眺める、この庭の四季の移り変わりが唯一の楽しみだった。
 春の朱華色、夏の浅葱色、秋の朽葉色、冬の銀白色。
 その上に広がる空の多種多様な色、色、色。
 どれだけ眺めても飽くことのない世界の色を、母と眺めるのが本当に好きだった。
 中でも、最も好きだったのは春の桜。
 見上げても見上げたりないほど、一時一時で姿を変えるそれを、母の手を握りいつまでもいつまでも瞳に映し続けた。どれだけ映しても、「これで満足」と思う事はなかった。
 それほど大好きだった桜。
 けれど。
「桜は……連れて行ってしまったから。流石に暫くは……見たくもなかったな」
 ひんやりと冷たい、けれど底知れぬ優しさを内包した木肌に頬を寄せ、朔羅はそっと瞼を落す。
 響く囃子が、どこか寂しげな音色に変る。それはまるで今の自身の心を映す鏡であるかのように思えた。
 生きた永さを物語る桜樹の表面の溝を一筋、指ですっと辿る。それは涙が伝った跡のように、緩やかに弧を描き命を育む地を目指す。
 朔羅が十二の時、大好きだった母を病が天へと召し去った。
 庭には満開の桜。
 小さな朔羅の視界を埋め尽くすように、咲き誇り、舞い散っていた桜。
 桜、桜、桜。
 薄紅の海。
 狂気にも似たその像が、朔羅を悲しみの淵へと追い落とした。
 母のいない庭。
 踊る緋の花弁。
 それこそが命を奪って行った色であるかのように、幼い朔羅の心に深い爪痕を刻み付けた。クルリクルリと舞う花が脳裏をちらつく度に、どれほど流そうと渇くことのない涙が、桜色に染まる頬を伝い溢れた。
「そうして桜が嫌いになり、私は伏せってしまったのだっけ」
 母のいなくなった日の庭を思い出す度に、胸が震えた。震えて痛んで、明ける事のない、そして星の輝きすらない夜の世界へと朔羅を誘った。
 大好きだった桜が、苦手になった。
 顔を上げられずに、寝込むことで何かを否定していた。
「けれど、そんな私を救ったのもまた、桜だった」
 一陣の強い風が吹く。
 ザワリと木々の葉を鳴らし、小さな旋風を起こして天へと翔け抜ける。
 攫われた濃い春の香に、朔羅は伏せていた瞼を押し上げた。瞳に映るのは、惜しみない癒しの光を投げかける月へと舞い上げられて行く無数の桜の花弁。
 天へ、天へ。天つ国へ地の国の想いを運んで行く。
 春が来る度、繰り返し、繰り返し。
 散ってはなお、また翌年に鮮やかな花を咲かせるその木。
 桜と朔羅。
 朔羅と桜。
 同じ名を持つ者として、幾度でも再生するその強さに負けられないと、背中を押された。
 どれだけ伏せっても、立ち上がる勇気を桜が朔羅に教えてくれた。
 そして、今の朔羅がある。
 ふと気付くと、いつの間にか囃子の音は止まっている。疎らに感じられた人の気配も、すでに眠りについたように息を潜めていた。
 朔羅は、頭上を舞う桜の花弁を掴もうと、そっとその白い手を天にかざす。形の良い指先に、幾枚かの薄紅の片が触れる。捉えようと手を握り込むと、その殆どはスルリと風に攫われた。
 そうして残ったのはたった一枚。
 けれど淡く色付いたそれは、まるで遠い日の母の腕のような温かな桜色。どこまでも優しく、そして穏やかに。朔羅の心を満たす色。
 我知らず、頬に刻まれる笑みが一層深くなる。

「この様に立派に咲いて見事に散られては、私も止まってなどおれぬな……」

 口にした言葉は力を持って人の心を左右する。
 誓いの言葉は、力強く朔羅を前へ前へと誘う。そんな朔羅を桜色の記憶達は、いつまでも守り続けるだろう。
 舞い散る桜を掻き分けるように天に浮かぶ月を眺め、朔羅は掌中に残った花弁に、そっと息を吹きかけ風の中に還す。
 ひらりひらひらと踊りながら遠くなるそれを静かに見送った朔羅は、桜の木を後にゆっくりと歩き出した。

【終演】