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喰
------<オープニング>--------------------------------------
「お願いします。娘を救ってやってください」
目の前の依頼人――早川美和は、何度も頭を下げる。
依頼内容は、娘の百合について。
今年○○高校の三年生になる百合は、真面目で成績が良く、明るく優しい性格のためクラスでも慕われ、親の自慢の種だった。
ところが、最近になって百合の様子がおかしくなってきたらしい。
元気が無く、目が虚ろで、人の話を聞かない。そのうち、二日に一回は家に来ていた友人達も、姿を見せなくなった。
終には、百合は自分の部屋に閉じこもって、出てこなくなってしまったのだ。
「声を掛けても返事はないし、ドアは体当たりしても開かないし……」
「悩み事を抱えていた様子はありましたか」
「言いにくいんですが、娘はとても手のかからない良い子でしたので、娘の悩みなんて考えたこともないんです。あの子は本当に真面目で思いやりがあって几帳面で、想像力に長けたところも……あ、そういえば日記をつけていたんじゃなかったかしら。でも、日記はあの子の部屋にありますから、見ることは出来ませんね。あとは、妙なことを言っていました。蛆がどうとか」
「蛆?」
草間は顔しかめた。蛆というのは、あまり気持ちの良い生物ではない。
「ええ。確か、『友達の悩みを聞いていると、蛆のようなものが頭に浮かぶの。悩みは蛆のようなものよ。蛆は、どんどん増えていって、最後には人を飲み込むのよ』だったと思います。ごく最近では、『蛆が見えるようになった』と呟いていました。その時は、あの子なりのつまらない冗談かと思ったのですが、娘は本当におかしくなってしまったのかもしれません」
美和は困り果てているようだった。
だが草間から見れば、大した依頼ではない。今の所、害はないのだ。果たして、調査に値するのかどうか。
それに草間には今、抱えている事件があった。それが片付いてからでも、遅くはないだろう。
「とりあえず、今は娘さんの様子を見守りましょう」
そう返すしかなかった。
だが数日後、新聞を広げた草間は絶句した。
早川百合の通っている高校の生徒二十名が、一斉に刃物で首を切り、自殺したのだ。
それも、自殺した生徒全員が「原因不明」の自殺だと言う。
テレビをつけると、一斉自殺についての様々な意見が流れていた。
――思春期という不安定な時期にいるため、勢いで行なったものではないか――
それに似た説が多く、キャスターが今の青少年について、色褪せた感想を述べている。
草間はテレビを消すと、考え込んだ。
(早川百合の通う学校で大量自殺――偶然とは思えないな)
そこへ、美和が駆け込んできた。
「一斉自殺のニュースを見ました? 亡くなった子の何人かは、家に遊びに来ていました。あの子達が亡くなったなんて、考えると恐ろしいですわ」
「それで、娘さんはどうしました。新聞を読む限り娘さんは無事なようですが」
「娘は部屋から出てきません。同級生の死を伝えても、返事がないんです。その代わり、部屋から妙な音がするんです。ザワザワというか、生き物が這いずるような、あれはまるで――たくさんの蛆がいるような音です」
「ドアを開けましたか?」
「開けたいのですが、どうやっても開かないんです」
「結界が張ってあるのかもしれません。俺はどうしても手が離せないので、調査員にやらせます」
草間は、デスクの上にある電話を掴んだ。
今の所、百合を知る手がかりは二つ。百合の同級生と、百合がつけていた日記。
同級生に会うのは簡単だが、日記は結界の中、百合もそこにいる筈だ。
(もし百合が一斉自殺に関わっているという証拠が出てきたら、俺にも責任はある。あの時俺が調査員に百合を調べさせていたら、一斉自殺を防げたのかもしれない)
電話の繋がった相手へ、草間は低い声で告げた。
「今回の依頼は、絶対に完遂させて欲しい」
■1■
何度か寝返りを打ってから、光月羽澄は目を覚ました。
「ん〜……」
目覚まし時計を見ると、八時半。
――寝なおそうかな。
学校は春休みに入っている。しかも今日は調達屋のバイトも歌手としての仕事も休みで、羽澄にとっては珍しくゆっくり出来る日なのだ。
――今日は別に友達との予定もないしね。
本当は学校の友人にカラオケに行こうと誘われていたのだが、断った。
いつもの羽澄なら、二つ返事でOKしていただろう。友人に内緒で調達屋や歌手をしていて普段時間がない分、時間の空いている時は極力友人と遊ぶようにしている。
それは義理ではなく、時間があるなら友人達と遊びたいという、羽澄の純粋な気持ちからだった。
けれど、今日は珍しく誘いを断った。
明確な理由があった訳ではない。ただ、何となく、乗り気になれなかった。ここのところ、調達屋のバイトが忙しかったせいかもしれない。ハッキングは、周りから考える以上に、精神的にも肉体的にも疲れる作業だ。
――皆で盛り上がっている時に、あたしだけテンション低かったりしたら悪いもんね。
余計な事と判っていても、無意識に羽澄は気を回してしまう。
そんなことを考えているうちに、すっかり目が覚めてしまった。
羽澄はベッドから起き上がると、服に着替え始めた。
服を着終わると、急にお腹が空いてくる。
朝食を摂りに、羽澄は一階へ降りようと階段を下り――付けっぱなしのテレビの前に立ち尽くした。
画面には、こんなニュースが映っている。
『○○高校の生徒、二十人が一斉自殺。――原因は未だ不明』
――嘘。なんで……。
○○高校には、羽澄の小学校から付き合いのある友人も通っている。
どうやら、その友人は無事なようだが――羽澄の心は乱れた。
――こんなの、偶然な訳がないわ。
そう思うのと同時に、羽澄は友人の携帯に電話をかけていた。
■1■
「皆さん、朝から大変ですね……」
皆に紅茶を配りながら、零は眼に同情心を宿している。雑然とした草間興信所も、零の存在で心情的な潤いを見せている。
「草間さんは、皆さんを急に呼び出しますからね……」
「おい、それじゃあ全部俺が悪いみたいじゃないか」
零の言葉を遮る草間に対し、
「いいのよ。もう慣れているから」
シュライン・エマのフォローが入る。
「でも、まさか朝から蛆の話をされるとは思っていなかったけどね」
「全くですね」
九尾桐伯も同意する。朝の電話がそれでは、あまり気持ちの良いシチュエーションとは言えない。
無言で紅茶を飲んでいた斎悠也が、問いかけた。
「蛆と言うと、皆さんは何を思い浮かべますか?」
「そうねぇ」
シュラインは少しの間考え、
「昔話というか、地方に伝わる怪談なんだけど、人魂の落ちた後に蛆がわく話があるわね。強欲なおばあさんが、自分の作った毒からわいた蛆に食い殺されたりとか。昔は蛆と密接した生活を送っていたから想像しやすかったんじゃないかしら。他にも話はありそうだし」
「伊邪那美命(イザナミノミコト)も、黄泉の国の食べ物を食べて身体に蛆がわいていましたね。蛆=死のイメージがあったのかもしれません」
そこで言葉を切る悠也。
――他には、どんな話があっただろか。
「庚申講にも虫が出てきますね」
桐伯の言葉に、二人は思い出したように『ああ』と頷いた。
庚申講というのは、長生きをするために行う民間信仰である。庚申待や、お庚さまとも呼ばれている。
この手のものというのは、様々な説があり、はっきりと説明するのはひどく難しい。
医学の進歩していなかった時代、人は自分でも説明できない感情や身体の不調を、身体に虫がいるためだと考えた。
それが三尸(さんし)九虫である。
九虫は九つの虫――寄生虫がいるとしている。この寄生虫の記述には、正確なものもあるが、想像で作られたものも含まれている。心を貫き人を殺す虫や、蛙に似た虫など様々である。
一方、三尸虫は閻魔の仲間と考えられ、見た目も虫とは程遠い。
上尸は頭に、中尸は腹に、下尸は足にそれぞれ棲んでおり、宿主が寝た頃に身体を抜け出し、天上界の天帝に宿主の罪業を報告する虫とされ、またそのために宿主の寿命が縮むと言われていた。
その対策として行われたのが、庚申講である。
三尸虫が宿主を抜け出すという庚申(かのえさる)の日に皆で集まり、青面金剛等を祭りながら話をし、眠らぬようにするというものだ。庚申の日は、年に六、七回あるが、この日に禁止されていることは複数ある。髪型から食べ物まで様々だ。
「昔の想像力から成るもの――とされていましたが、果たして本当にいないと断言出来るかどうか」
桐伯の言葉はもっともだった。
もしこれらの虫がいるとしたら。
「普段は、なりを潜めているということですか」
問いながら、悠也は指先で自分の胸にふれてみた。
――この中で息を潜めながら、暴れる機会でも待っているのか?
冷静な中に、ざわめく気持ちが混ざる。
――暴れようとしたら、消せばいいだけだ。
シュラインも瞳を曇らせて、自分の身体を見つめていた。
――虫の音は聞こえないわ。今は眠っている状態なのかしら?
「もし今は虫が眠っている状態だとして、どうしたら起きるのかしら。少なくとも百合さんは、虫に対して何かのアクションを起こした訳でしょ」
「それはこれから調べましょう」
動じていない表情で、桐伯は答えた。
「調べなければならないことが、多数ありそうですから」
■2■
中央線沿いにある友人宅で、羽澄は困惑の色を隠しきれなかった。
久しぶりに会った友人――祐美は、ひどく傷ついていたからだ。
自殺した生徒の中に、好きな人が混ざっていたらしい。
羽澄は、祐美を抱きしめた。
会う前は、すぐにでも事情を聞くつもりでいた。
『一体学校で何があったの?』
そう訊くつもりだった。
だが、今はそうもいかない。
泣きじゃくる祐美を抱きしめていると、自分まで涙が出てきた。
大切な人がいなくなった時の気持ちは、痛いほどわかる。
――慰めの言葉も今は辛いだけ。
羽澄はあえて何も言わなかった。
祐美は途切れ途切れに言葉を漏らした。
それらをつなぎ合わせると、相手とは祐美の片思いで、クラスが違うため滅多に話すことはなかったようだ。
「どうして、どうして」
祐美は何度も繰り返す。
「どうしてあんなことに……」
「祐美……」
「自殺するような人じゃなかった! 自殺なんかする訳ないのよ!」
羽澄は祐美を離すと、ハンカチで涙を拭ってあげた。
「それは、他の皆も同じなの?」
「当たり前よ! 死のうと思う訳ない!!」
「何か悩んでいる様子はなかった?」
「死ぬほど悩んでることなんてある訳ないわ!」
そう怒鳴ったものの、
「あ、でも……」
祐美は思い出したように呟いた。
「自殺した日……何か変だった」
「変ってどこが?」
「遠くから見てただけだけど、暗くて彼らしくないって言うか――嫌な感じだった」
「他の子はどうだった?」
「私と直接の友達はいないけど、似たような感じだったかも……」
――やっぱり何かあるわ。
羽澄は確信した。
「自殺した子達に共通点はない? 例えば部活が一緒とか」
「B組の人が十五人で、多いわ。私が好きだった人も、そのクラスにいたの。他の人たちはクラスはバラバラ。部活は……そういえば、他のクラスの子は皆バスケ部かも。自殺したB組の子に凄く目立つ人がいたんだけど、他のクラスで亡くなった子は皆そのグループにいたの。確か全員バスケ部だった筈だよ」
「その目立ってる人の名前は?」
「湯沢加奈」
祐美の返答を遮るように、机に置かれた電話の子機が鳴った。
「はい、塚本です」
祐美が電話を取って話し始めた。
受話器の向こうから、相手の声が漏れている。
――この声、どこかで聞いたことがある……。
羽澄は祐美から半ば無理やり受話器を取り上げ、よく知っている相手に向かって話し始めるのだった。
■2■
百合の家と学校の丁度中間地点の駅の前――大通りの交差点で、桐伯は立ち止まった。
手元の地図を確認する。
――この辺りにある筈なんだが。
桐伯が持っている地図には、百合が好んだ雑貨屋が示されている。
何故桐伯がここにいるのかと言うと――シュラインと悠也、三人で話した結果、それぞれ別行動を取ることになったためだ。
シュラインは学校の生徒を、悠也は百合の家を調べることになっている。
桐伯は学校や友人とは無関係の、百合が一人で出かけていた場所に行ってみることにした。
学校とも家とも無関係な場所を選んだのには、理由がある。
一斉自殺と百合との関連性を調べるには、学校だけでなく他の場所に影響があったかどうかも知る必要があったからだ。
――もし百合さんが接触していた学校以外の場所でも変化が起きているなら、一斉自殺と百合さんとの関連性の有無がわかるかもしれない。
この店を教えてくれたのは、美和だった。
「昔、私とも行ったことがあるので、憶えています」
美和はそう言うと、大雑把に地図を描いてくれた。
その地図を見ながら――桐伯は大通りを歩く。
美和の話だとこじんまりした個人経営の店で、店には店長しかいない。
商品の殆どは硝子で出来ていて、色は青のものが多いと言う。
「ウインドウに幾つか飾られているので、わかると思います」
美和さんの言葉の通り、桐伯は一つの店の前で足を止めた。
店にはシャッターがおりている。
開店時刻は過ぎている筈なのに、硝子の瓶が絵描かれたシャッター。
地図を見ても、場所はこの店を指している。
――今日は休みなのか、それとも……。
桐伯は通行人の主婦を呼び止めた。
「このお店は、今日が定休日なのですか?」
主婦は元々話し好きなのか、それとも相手が桐伯だからか、顔を輝かせた。
「違うのよ。ここのお店ね、店長が亡くなっちゃったのよ」
――亡くなった?
「ご病気ですか?」
「まさか、お元気そうだったもの。何でも自殺らしいわよ。急に首を切ったんですって。一体どうしたのかしらねぇ」
一斉自殺と同じである。
「それはいつの事ですか?」
「五日くらい前かしら。そのうち、このお店も処分されると思うわよ」
五日前――学校の一斉自殺よりも前のことだ。
百合のお気に入りの店の店長が自殺、それも学校の生徒と同じやり方で。
――やはり百合さんに寄生している虫が、自殺の原因にあるようだ。
桐伯は百合の自宅へ向かった。
――そろそろ結界も解除されている頃だろうから。
■2■
桐伯と悠也が草間興信所を出てすぐ、シュラインは草間のデスクを借りていた。
デスクには百合のクラス――B組の名簿が置いてある。美和が持って来ていたのだ。
「家に来ていた百合さんの友人で、名前がわかる子を教えてもらえないかしら」
「あ、はい。そうですね……」
美和は焦りながらも、数名の名前を挙げた。
シュラインはそれに印をつける。
それが終わると、デスクの受話器を取り、片っ端から電話をかけた。
『早川百合』『悩み事』『蛆』『妙な音』……『食べ物』や『食欲』も中心に聞き込む。
――多分蛆の音なんて言ってもわからないでしょうから、その分音がキーワードになるかもしれないわね。
地道に聞き込んでいく。
だが、幾ら聞いても、一斉自殺をした子達には普段悩んでいる様子はなかったと言う。
ただ、「自殺した日には、皆いつもとは違う感じでぶつぶつと独り言を言っていて、傍に寄れなかった」らしい。
――百合さんの時とは違って、虫は急に襲ってきたのかしら。
百合の場合は時間をかけて虫に悩まされていくようだったが、他の生徒は一気に襲われ亡くなったという印象を受ける。
「独り言の中で、音がどうとか言ってなかった?」
「音? ああ、何か音が止まないって言ってた。夜からずっとだって」
「それはどんな音かしら?」
「気味の悪い音らしいけど……クチャクチャとか、ガムでも噛んでいるような音だって。ものでも食べているような感じの」
――虫は彼らの何を食べているのかしら。
百合に関しては、女子がこんな事を言っていた。
「早川さんは……良い子って感じ」
「割と好かれていたのかしら?」
「好かれてるっていうか、利用されてる感じだった」
「誰に利用されていたの?」
「自殺した子の中に湯沢さんっていう人がいるんだけど、その子。というか、そのグループ全体で、かな。利用っていうか、別にいじめとかじゃなくて、早川さんはサッパリしてていつも優しかったから何でも相談する相手だったみたい。湯沢さん達は困った時だけ、早川さんに相談したり頼ったりしてたよ。早川さんは口がかたいっぽいし」
クラス名簿を見ると、湯沢加奈には印がついている。百合の家に来ていた一人だ。
美和が言うように遊びに来ていたのではなく、実際は愚痴をこぼしに来ていたのだろう。
――百合さんはどういう気持ちで応じていたのかしら。
「早川さんは気にしてないように見えたけど、心の中じゃあ不満が募ってたんじゃないのかな。早川さんが変になってたのは、多分そのせいだと、あたしは思うんだよね」
「百合さんが悩んでいる様子を見て、湯沢さん達はどうしたのかしら?」
「全然。何もしてない。それどころか避けるようになったよ。『最近暗いから嫌だ』とか言って。あの人達都合が良いんだよね。学年でも目立ってるグループなんだけど、自己中なの。だからあたしたち周りは、早川さんに同情してるんだー」
「そう、わかったわ」
虫が見えるようになってからは、周りにも避けられるようになった生活。
それが虫の進行を早めたのかもしれない。
丁度、自分と周りとの距離を意識し始める年齢だったせいか、相手の考える自分とのギャップに苦しんでいたのかもしれない。
――それはお友達だけじゃなくて、母親の美和さんに対しても言えることだわ。
『本当に真面目で思いやりがあって』
美和はそう言っていたが、真実だろうか。
――確かに優しい子ではあるだろうけど……。
どこかで無理をしていたのかもしれない。
――そういえば美和さんはこうも言っていたわ。
『あの子は、想像力に長けたところも……』
――想像力に長けているところって、何処かしら。
百合の言葉を思い出す。
『蛆が見える』
――想像力のある百合さんに、空想のものとされていた虫、ね。
シュラインは再びクラス名簿に目を通し、電話をかける。
「はい、塚本です」
相手はすぐに出た。
――この子もさっきの子と同じ証言をしたら、百合さんの自宅に行きましょう。悠也も待っている筈だから……。
だがシュラインが塚本祐美から話を聞き出す前に、電話は別の相手に繋がった。
「シュラインさん?」
受話器の向こうから透き通るような声――光月羽澄が話かけて来たのだった。
■2■
「草間興信所からだと、結構遠いんですね」
百合の家に着いたものの、時間はそれなりに経っている。
美和がお茶を持ってきたが、悠也はやんわりと断った。
「まず百合さんの部屋のドアを見せてもらえませんか?」
部屋のドアの前に立つと、ドアを見据えた。
――確かに結界が張られている。
ドアの前の結界は、黒く淀んだ色をしていた。
異空間のようにも見える。
――部屋の結界を壊しつつも、この部屋自体を隔離するか。
本当は家全体に結界を張って隔離したいが、他の調査員が来ていないので今は出来ない。
先に部屋の結界を壊して皆が来るのを待てばいい。
――結界を壊すには、新たな結界を作るか。
悠也は美和を振り返った。
「何かあると危険ですから、外に出て待っていただけませんか。調査員もすぐにここへ来るでしょうし、お時間は取らせませんから」
「は、はい……それで、あの」
「どうしました?」
「その……私は間違っていたのでしょうか。こうなって見ると、私は百合の事を知らなさ過ぎて……それがあの子を追い詰めたのでしょうか?」
――否定は出来ない。
「それが間違っているかどうかは、百合さんが戻ってきてからじっくりと話あって判断すると良いと思います」
「そうですね……わかりました」
美和が家から離れると、悠也は肩の力を抜いた。
金色の瞳が徐々に濃くなっていく。
両手を互いに包み込むように合わせると、淡い光をした結界が現れた。
光は楕円状に広がっていき、周りを包み込む。
目の前の黒い結界とは違い、人を守る結界だ。
――これくらいか。
大きくなった結界を、振り下ろした勢いでドアの結界へ叩き付けた。
瞬時に光が闇を蹴散らす。
闇が消えると、悠也は光の結界を壊すことなく、そのまま部屋に張り付けた。
――これで虫はこちらへは来られない。
闇の結界を持つ虫は、光の結界を通る事が出来ない。
――後は他の皆さんが帰って来た時に結界を張れば、より安全になる。
美和が先ほど淹れてくれたお茶を、悠也は飲み干した。
時間が経っているためか、微妙にぬるい。
空になった湯のみを盆に戻すと、玄関のドアが開いた。
「結界は外れたようですね」
「ええ。代わりにこちらの結界がありますけどね」
桐伯が姿を現し、それからすぐに、シュラインが羽澄を連れてやって来た。
三人が家に入ったところで、悠也は外に出た。
所在無さ気に立っている美和が視界に入る。
「大丈夫ですよ。百合さんは無事に戻ってきます」
そう励ますと、さっきよりも大きな結界を作り、家全体を包み込ませた。
「危険ですから、美和さんは家へ入らないで下さい」
もう一度念を押す。
美和が頷くのを確認すると、悠也は再び家へと戻った。
「部屋に入る前に、シュラインさんと羽澄さんに渡しておくものがあります」
悠也は護符を取り出すと、シュラインと羽澄に手渡した。
「それから」
悠也は光の結界を作り出すと、シュラインと羽澄を包み込ませた。
「これである程度、危険は回避出来ると思います」
「ありがとう」
シュラインはお礼を言うと、
「戦闘はしなくても、役には立てそうよ。部屋の向こうからひどい音がするから」
耳を澄ますと――皆の耳にも這いずるような音が聞こえてくる。
「確かに蛆が這いずる感じね。――でも変だわ。音の遠さが違うの」
「近い音と、遠い音ですか?」
桐伯が訊く。
「ええ。部屋の奥からも聞こえるんだけど、それとは別に、もっと遠くからも聞こえるわ」
「遠くから、ですか」
桐伯は少し黙ってから、
「考えられるかもしれません」
「とにかく、部屋に入るしかないわね」
羽澄はドアに手をかける。
「護符を離さないように注意してください。危険ですから」
悠也の言葉に、羽澄は余裕の笑みを見せた。
「大丈夫……だとは思うけど、気をつけるわ。ありがとう」
ドアが開いた。
■3■
部屋の電気をつけると、這いずる音の姿がまざまざと映し出された。
二十センチ程の大きさの蛆が、数え切れないほど蠢いている。
肌色に黒の縞模様が入ったその身体を曲げながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
まるで最近身体を手に入れた人形のようにぎこちない動きは、蛆自身さえ、その身体は重苦しく邪魔に思っているのではないかと勘ぐるものだ。
悠也が火神の護符を投げつける。
蛆は一瞬で燃えた。
意外にも弱い。
――妙だ。
こんなに弱い蛆が結界等張れるのだろうか。
シュラインは音が強く聞こえるためか、気味悪そうに耳に手を当てている。
「やっぱり変よ。音が遠くからも聞こえるわ」
羽澄は声を張り上げて歌い始めた。
瞬間、残りの蛆も消し飛ぶ。
「まだ聞こえる?」
「――聞こえるわ。蛆が這いずっているわよ」
だが、目の前に虫はいない。
桐伯は部屋の中央に進み、さっきまで蛆に埋もれていた百合を抱き上げた。
百合には意識がない。
「音は百合さんから聞こえるのではありませんか?」
百合の傍へ寄るシュライン。
「本当ね。百合さんから聞こえてくるわ」
「おそらく、百合さんが虫の巣になっているのでしょう」
「百合さんが? でも百合さんの身体の中に入るのは無理だし、どうすればいいのかしら」
悠也が机の上に投げ出されている日記を見つけ、
「日記を読んでみませんか? 何かわかる事があるかもしれません」
日記を開いて、皆に見せた。
「今月の頁は――虫のことが書かれているみたいですね」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○月×日
蛆――蛆が怖い。
秋頃近所の小学生が集めたのか、アスファルトの上にどんぐりの山があった。
そこに蛆が集まっていたのだ。
あれを見たときから――ずっと気になっていた。何かに似ている気がしたのだ。
だけど今日、ついにわかった。私と湯沢さん達の関係に似ているのだ。
湯沢さん達は何かあると、必ず私のとこへ来て愚痴って帰る。
最初は湯沢さん一人だったのが、どんどん増えていって――私は今何人の人達の悩みを聞いているのだろう。
最初は頼ってくれているのかと思って真剣に聞いていたけど、そうじゃないみたいだ。
湯沢さん達と関わるようになってから二年経つ。いい加減、辛くなってきた。きっと私が悩みを抱えても、湯沢さん達は聞かないと思う。
湯沢さん達はただ愚痴や悩みを聞いて欲しいと思っていて、そこに偶然私がいた。
――どんぐりを食べに集まる蛆を思い出す。
だけど問題は湯沢さん達じゃない。
怖いのは、私の中にもそういう醜い蛆のような面があるのかということ。
こうやって人当たりが良いと思われたいと願うのも――ずるいのだろうか。
人から見れば、蛆のような面を持っているのだろうか。
――そう考えると、怖くなる。
(数日分省略)
○月×日
――怖い。自分の中の蛆がどんどん大きくなっていく気がする。
周りを傷つけないように選ぶ言葉も、自分のずるさのように感じる。
そうするともう、止められない。
○月×日
私の中で蛆を見つけてから、湯沢さん達が私を避けている。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
結局そういう人達だったのだと、割り切るしかないのだから。
それよりも、蛆だ。
今は蛆が見えるまでなった。音も聞こえる気がする。
蛆は精神だけでなく、身体でも存在する……?
どうなるんだろう……蛆は私をどうするつもりなんだろう。
(数日分省略)
○月×日
時々、意識が薄れることがある。
思考が何かに乗っ取られていくみたいだ。
――怖い。もう駄目かもしれない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「これが、百合さんが虫を目覚めさせた原因……?」
羽澄が呟いた。
日記に書いてある通り、百合は実際に見た蛆を思い出しながら、『自分の中にもいるのではないか』と疑い続け、しまいには『自分の中にもいる筈だ』という断定に変わっている。
『自分の中にいる蛆を考え、嫌悪し、想像を逞しくすること』
それが虫を目覚めさせる原因だったのだろうか。
「きっとそうだと思うわ」
シュラインが日記の一部を示す。
「それから――思考が何かに乗っ取られていくみたいって書いてあるから、百合さんが巣にされたのも間違いなさそうね。きっと百合さんが虫の巣になった事で、クラスメイトとの立場が逆転したのね。。百合さんは利用される立場から糧にする立場に、利用していたクラスメイトは――虫の餌になったんだわ」
「そうでしょうね」
桐伯は再度日記に目を通しながら、
「おそらく、虫の餌というのは人間の思念でしょう。プラス思考だけを食べてしまえば、後には暗い思念しか残りませんから、一斉自殺も頷けます。雑貨屋の店長を務めていた方も亡くなられていますから、百合さんと長時間接触していると虫が思考に入り込んで来るのでしょう。百合さんが殺されていないのは巣だから、ですね。宿主は殺せないでしょうから」
日記は、再び悠也の手に戻った。
「虫のことはわかりましたが、これからどうするかが問題ですね」
悠也は日記を閉じかけたが、手を止めて不審な顔をした。
『蛆』という字が浮いているように見える。
――字が、動いている?
悠也が文字に触れると、『蛆』はぐにゃりと曲がり――消えた。
そこから真っ暗な穴が現れ、気付くと四人はその穴に吸い込まれていた。
■4■
どこにいるのかもわからない、薄闇の中にいる。
「精神の空間よ」
シュラインが言う。
「さっき身体を動かしていた蛆は、ぎこちなさがあったわ。元々は思考を食べるだけの精神体の生き物なんじゃないかしら」
「それじゃあ、ここの虫を倒せば終わる訳ね」
羽澄の言葉には、先を急ぐものがあった。
こんな薄暗い場所で蛆といる時間というのは、早く切り上げたいものだ。
遠くから、這う音が聞こえる。
「――来るわ」
シュラインが呟いた。
ズルッという音を最後に、蛆は一気に襲い掛かってきた。
援護の意味で、羽澄が歌う。
――パンッ
すぐ近くにいた蛆は飛び散った――が、まだ蛆の音が聞こえている。
悠也は火神の護符を掴んだ。
――こちらから攻めないと意味がなさそうだ。
視界に入る蛆全てに、護符を飛ばす。
同時に、炎を纏った鋼糸が一気に蛆を包み込んだ。
不快な音ともに、蛆が焼けていく。
だが――音はまだ聞こえる。
シュラインは耳を澄ました。
蛆の這いずる音の他に、別な音も混ざっている。
――人の声?……間違いないわ。
か細く、消えそうだが、確かに女性の声だ。
――虫の精神の世界ってことは、元々は百合さんの精神だった筈。動けなくしても、宿主の心を完全には消せないんだわ。心が完全に死んでしまったら、宿主が死んでしまうもの。
声は途切れ途切れに聞こえている。
――助けなきゃ。
「羽澄ちゃんも一緒に来て!」
シュラインは声のする方に走り出した。
「シュラインさん、どこに行くんですか!」
悠也が慌てて止めたが、
「いいから、二人はそのまま前へ進んでいって! 蛆の音はその奥から聞こえるから、蛆を止めて頂戴!」
シュラインの姿は見えなくなった。
「……行くしかないようですね」
悠也は護符を手にする。
「そうですね。それに蛆を止めれば、二人に危険が及ぶこともないでしょうから」
桐伯の声と共に、護符と鋼糸が紅く空気を裂いた。
■5■
羽澄はシュラインの後を追いながら、蛆が来ないように歌い続けた。
「ここだわ」
シュラインが立ち止まる頃には、羽澄の息は上がっていた。これ以上走っていたら、少し辛かったかもしれない。
暗い穴の中から、か細い声が聞こえている。
「百合さん?」
羽澄が訊くと、シュラインが応じた。
「そうだと思うわ。二人で引き上げましょう」
二人で穴から百合を引き上げようと、腕を掴み、持ち上げる。
だが、胸まで出てきたところで、上がらなくなってしまった。
「何かが引っ張ってるみたい」
羽澄が穴をのぞくと――たくさんの蛆が百合を下へ下へと引きずり込もうとしている。
羽澄が歌を歌うが――蛆の数が多く、百合を離そうとしない。
――この蛆は消せないのかしら?
「とりあえず、百合さんの身体を掴んでおきましょう」
シュラインの言葉で、二人は百合の身体を掴んだ。
「あの二人が蛆を何とかすると思うのよ。蛆が消えた瞬間に引き抜きましょう」
二人はいつでも力を入れられる状態で、穴の底を見つめた。
■5■
護符と鋼糸が目の前の蛆を蹴散らしていく。
だが進むにつれ、その数は増えていく。
――元を断たなければ解決しなさそうだ。
互いにそう思った時、
「九尾さん、あれは……」
悠也が暗闇を示した。
それは人間が一人入れる程の穴だった。
その奥から――ザワザワと蛆の這う音が聞こえる。
「ここから蛆が出てきているみたいですね」
悠也の言葉の通り、蛆はここから出現しているようだった。
桐伯は幾本もの鋼糸を穴底へ垂らした。
「一気に片付けてしまいましょう」
「そうですね」
悠也は火神の護符を、穴底へ落とした。
同時に鋼糸も火を纏い、二つは合わさり炎になった。
――蛆の焦げる音が不快に響く。
その向こうで、何かを引き上げる音が聞こえた気がした。
気が付くと、四人は百合の部屋に戻っていた。
蛆のいない、ごく普通の部屋だったが、もう一つ変わっていたことがある。
日記が、灰となって落ちていたのだ。
■6■
百合が目を開けたのは、皆が部屋に戻ってから一時間後の事だった。
辺りを見回す百合。
「あの、あなた方は……?」
そう訊かれると、何て言って良いのかわからない。
皆が返答に窮していると、百合はシュラインと羽澄の顔を見比べ、不思議そうな表情を浮かべた。
「どこかでお見かけした気がします。夢でも見てたのかな……」
独り言を呟きながら――突然表情を変えた。
「そうだ蛆! 蛆は!?」
四人は顔を見合わせ――否定した。
「蛆なんていないわよ」
シュラインは百合の腕を取る。
「落ち着いて」
「でも、私の中に蛆が……」
百合の表情はこわばっている。
「そういうリアルな夢もありますよ。しかし――夢は夢です」
そう返す桐伯に、羽澄も同調する。
「そうよ。夢は夢。それより百合さんには、現実の方を考える必要があるかもしれないわ」
ドアの向こうには、母親の美和が佇んでいる。
今回の事で引け目を感じているのか、部屋には入ってこない。
「お母さん?」
――お母さんは何であんな顔をしているの?
百合は迷った視線を部屋へと漂わせ――机の上の灰を見た。
――机の上の灰……日記?
「……日記が燃えてるわ」
百合の声に、一同が内心焦る。
現段階で蛆の事を思い出しては、振り出しに戻る。
百合は意味ありげな表情で四人を眺めると、
「何であなた方がここにいるのか、今わかりました」
と小声で言った。
「あなた方は――カウンセラーですよね?」
「え?」
思わず声が出る羽澄。
「だって日記が燃えてるから……。きっとお母さんが私に内緒で日記を読んで、中にお母さんへの不満が書いてあるのに怒って燃やしちゃったんじゃないかな……。でもだんだん怒りから不安に変わってきて、私にカウンセリングを受けさせようとしているんだと思ったんですけど……間違いですか?」
「いいえ、合っていますよ」
百合の顔が不安気に戻る前に、悠也は返した。
想像力豊かな性格は、こういう時に便利だ。
「やっぱり、そうなんですね。すぐカウンセラーに頼んじゃうなんてお母さんらしいけど、私のことを気に留めていない訳じゃないのね」
百合はホッとしたように笑った。
それから、美和へ向けて笑顔を見せた。
「お母さん、私、怒ってないよ……」
■7■
百合の自宅を出る時には、皆複雑な気持ちになっていた。
――本当にこれで良かったのだろうか?
百合の記憶は蛆だけでなく、湯沢の事も残っていなかった。
母の美和は百合の高校を変えるつもりでいると言っていた。
――本当にこれで良かったのだろうか?
悠也が呟く。
「亡くなった方の事を思うと、釈然としませんね」
百合が全て悪い訳ではない。
だが、忘れてしまって良いのだろうか。
桐伯が答える。
「多分、いつかは思い出してしまうと思います。その時に、彼女がどうするか――ですね」
罪は影として一生付いてまわる。
本人が憶えてようと、いまいと関係なく。
影に気付いた時、百合はどうするだろうか。
蛆に再び飲まれるのか、耐え切れなくなり自殺を選ぶのか、それとも。
「でも、あたしは……百合さんに生きていて欲しい」
空を仰ぐ羽澄。
友人の祐美の泣き声を思い出している。
「そうね、でも少なくとも今の百合さんの状態じゃあ、受け止められないでしょうね。だから、今はこれで良いと思うわ」
シュラインは携帯で草間に連絡を入れた。
「調査は……――無事成功したわ」
数年後もその先も、百合は蛆でも他人でもなく、百合自身でいることを願って。
終。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0332/九尾・桐伯(きゅうび・とうはく)/男/27/バーテンダー
0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
1282/光月・羽澄(こうづき・はずみ)/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員
0164/斎・悠也(いつき・ゆうや)/男/21/大学生・バイトでホスト
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■ ライター通信 ■
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「喰」へのご参加、真にありがとう御座います。佐野麻雪と申します。
嫌というほど『蛆』という言葉が出てきていますが、これはオリジナルの虫とお考え下さい。(一時、九虫(三尸はオープニングで書いた姿と食い違いが出てしまうので)の中から選ぼうと思い、九虫の資料も探してみたものの、ストーリー的に無理がありそうだったのでやめてしまいました)
皆様のプレイングを拝見したところ、行動がそれぞれ違っていたようなので、お一人ずつ行動している箇所があります。
全ての箇所をあわせると、話が繋がるかと思います。
数字が同じ箇所は、大体同時刻に行われているのだと解釈してください。
今回は微妙な終わり方をしていますが、「終わりではなく通過点」と受け取っていただけると幸いです。
それから。
最初の段階で庚申講が出てきていますが、教えていただいた小説が庚申講を理解する上で非常に役立ったことも、ここに書き添えておきます。ありがとうございました。
違和感を持たれた個所がありましたら、どうかご指摘願います。
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